前回記事では、映画『タイタニック』をサンプルに「大きな物語」について考えてみました。
今回はさらに話題を広げて、「大きな物語」の有効活用を考えてみましょう。

■簡単なおさらい

・SFX特技監督として有名だったジェームズ・キャメロンが、こだわりのタイタニック号をより多くの人に見てもらうために「悲劇のラブロマンス」というベタな物語を使用した。

・ロボットアニメの監督として有名だった富野由悠季が、キャメロンの『タイタニック』に大きな衝撃を受けて、「ロボットアニメの富野」として、より「大きな物語」を作ることを目指した。

なぜ『タイタニック』は世界中の海を渡れたのか<富野由悠季と映画『タイタニック』にみる「大きな物語」>

※ここでの「大きな物語」とは「より多くの人で価値が共有できる物語」程度の意味です。限られた一部の人ではなく、みんなが親しみ楽しめるおはなし、のことです。



「大きな物語」利用のポイントと欠点


「大きな物語」を効果的に利用するには、いくつかのポイントがあると思われますので整理してみましょうか。

■前提条件
・見せたい世界やギミックなど、強力かつ魅力的な被写体があること。

『タイタニック』では、「タイタニック号」がそれにあたります。
『タイタニック』の「世界」はタイタニック号そのもので、魅力的なギミックもまたタイタニック号です。この映画はラブロマンス以外はタイタニックしか要素がないので、タイタニック様の思うがままです。世界が滅亡(沈没)するかどうかもタイタニック様のやる気次第です。すばらしい。
富野監督は「タイタニックは、要するにモビルスーツ(ロボット)だ」と言いましたが、「ガンダム」の場合ですと「モビルスーツとそのために用意された宇宙世紀」ということになりますね。
ここが作品で一番見せたい、こだわりたい部分になります。

■利用方法
・基本は「強力かつ魅力的な被写体」+「大きな物語」
・お話は誰もが共感でき、理解できるようなシンプルなものを。

見せたい被写体をより多くの人に見てもらうために、誰にでも分かるシンプルなストーリーを採用します。
作品の舞台が過去であろうと未来だろうと、人である限り共感できるような類型的な物語がふさわしい。

ただし、「大きな物語」は、ありがちな「陳腐な物語」だと批判される可能性があります。
場合によっては確かに有効かも知れないけれど、みんなで共有できる物語=陳腐なストーリーになりがちだという欠点は確かにあります。
『タイタニック』については、半分は誉め言葉のようなものですが、もう半分は批判されても仕方ないかも知れません。
最大公約数的なベタストーリーを選ぶのは、ベターではあっても、どうしてもベストでは無いかも知れません。

だからといって、ひねったストーリーにするのでは意味がありませんよね。
『タイタニック』タイプについては、最も見せたい被写体が先にあり、物語はあくまでそれを生かすために使います。被写体の部分はどれだけマニアックになってもいいですが、ストーリーがマニアックになるのでは、楽しめる人が限定されてしまい本末転倒です。

もちろんシンプルでも力強く誰でも楽しめる面白ストーリーがあれば言うことなしですが、そんなパワーのある脚本があるならば、それを最大限に生かすように、他の要素を揃えていったほうがいい映画になりそうです。

誰でも分かるストーリー構造のままで、何度も見たくなったりする奥が深い作品をつくる方法はないのでしょうか?

その方法の一つを、『タイタニック』がつくった観客動員記録を塗り替えて日本新記録をつくった映画、『千と千尋の神隠し』で考えてみましょう。



『千と千尋の神隠し』に見る「大きな物語」


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個人的には「『タイタニック』的なもの」を一番うまくやっている日本の作品は、宮崎駿『千と千尋の神隠し』ではないかと思っています。

『千と千尋の神隠し』でのタイタニック構造は、以下のようになります。

「魅力的な被写体」→「舞台となる湯屋"油屋"。不思議がいっぱいの世界」
「大きな物語」→「昔話のようなシンプルでどこかなつかしいお話」


初めて『千と千尋の神隠し』を見た時に驚いたのは、神話や民話・説話をほとんどそのまま形で入れていたことでした。話には聞いていたけれど、想像を大きく越えていました。
民話のエッセンスだとかメタファーだとか、そういうことではなく、民話の類型をほぼそのままの形で入れていることが非常に興味深かったです。
もちろん、さまざまな民話的なエピソードは巧みにパッチワークされていて宮崎駿独自の世界になっており、特定のお話にはなってはいないが、各パーツは非常に類型的。
さらに全体がいわゆる「行きて帰りし物語」という、非常にオーソドックスなお話になっている。
ジブリ映画を絵本化したものが出版されているが、この作品がもっとも自然に絵本化できているのではあるまいか。
(逆にジブリ絵本「もののけ姫」なんてどうしたんだろ。「エボシごぜんの、うでが ふきとびました」とか?)

『タイタニック』→『ターンAガンダム』→『千と千尋の神隠し』という時系列で体験して、「大きな物語」への回帰というような大きな流れを当時感じたのを今でも覚えています。

無数の解釈ができる物語は無敵


『千と千尋の神隠し』のお話は、お話はそれこそ小さな子供でも分かるほどにシンプル。構造しかない。
あらすじを書けと言われたら、ジブリ絵本そのままになると思う。それ以上のお話はない。
ところが、見る人が各エピソードにどういう意味を見出すかで大きく解釈が異なっていく。
ストーリーは1つで、無数の解釈ができる物語は無敵だな、とつくづく感じたのがこの作品です。

■皆さんに聞きました!『千と千尋』ってどんな話?
・「生きる力が退化した子供達がそれを取り戻す話だ」
・「両親のために遊郭で働くはめになる少女の物語」
・「環境破壊で傷ついた神様(自然)を少女が癒す物語だよ」
・「ちひろちゃんが、おとうさんとおかあさんをたすけるために、がんばるおはなし」


あらすじはかんたん。「では、なんの物語なのか?」という部分が、完全に受け手にゆだねられているので、どう受け取ろうが「解釈」というレイヤーで見るなら上の例も全て間違いとはいえない。どうとでも解釈できる設計だと思います。
『千と千尋の神隠し』の最終的なストーリーは、受け手の解釈をもってして完成する、と言ってもいいでしょう。

例えば、ファミリーで『千と千尋の神隠し』を見た場合はどうでしょう。
同じ映画を見て、同じおはなしを体験したのに、家族全員の感想が大きく違ってくるのではないでしょうか。
子供たちは主人公の少女に感情移入して冒険にドキドキして楽しかった、面白かったと笑う。
大人たちは、環境問題や、病める現代社会への問題提起、どこかなつかしい空間へのノスタルジー、子供へのありがたい説教などを感じとって、見てよかった。見せてよかったとなったりもするでしょう。
(お父さんはさらに、隠されたエロいメッセージを感じとっているかも知れない)

そういえば、湯屋=遊郭なので、「千」という源氏名をもらって風俗で働く話だよ、という指摘があります。
(私が見たのは町山智浩さんのこちらの記事。)
それに対して「そんな風に解釈するのはけしからん」という反応を見たことがあります。ネットで見たので性別は分かりませんが、子供を持つお母さんだったかも知れないですね。
町山さんの記事は、インテリや評論家が揃いも揃ってこれをスルーするのはおかしいんじゃないか?という指摘というか問題提起なので「こう見なければいけない」というような狭量なものではないと思います。
でも、その解釈をお母さん達に聞かせたときにおこる反応も分かる。
だから別に「湯屋=遊郭」と見なくていい。子供達にも温泉旅館でアルバイトするようなものだとして話せばいいし、それでも何の支障もなく楽しめる。親子で親子らしく解釈すればいい。
(そして、子供は何度目かの金曜ロードショーで「あ!そういうことかも…」と気づくのかも知れないが、その頃には親には言うまい。奥さん、あんたの子供は知らないうちに大人の階段登ってるよ!)

なぜ千尋の両親が豚になるのか


『千と千尋の神隠し』が意図的に無数の解釈を生むような作りをしているのは、物語冒頭で千尋の両親が豚に変わってしまうところにも見ることができます。
なぜ両親が豚にならないといけないのか、はっきりいって究極的には理由はないと思う。
ただし、意味はあり、解釈もまた無数にとれる。

映画としては、これにより、目的「両親を取り戻し、この異界から脱出する」がつくられたことになる。
だからもちろん意味はある。だが、そのためのシーンが、なぜ「ご飯を食べて豚になる」なのか。

「豚」になる解釈
・神様の食べ物を勝手に食べた罰だ
・勝手に人の物を食べてはいけませんという、ありがたい説教
・異界でうかつに物を口にすると帰れなくなるという、神話的な構造にもとづくもの
・豚は、いやしい現代日本人の象徴。飽食のシンボル。
・はいってきたにんげんをぶたにしてたべちゃう、わな?


といった感じに、色んな解釈ができますね。
浅い深いとか考え方の違いはあれど、解釈はどうとでも取れ、どれも間違いではないと思います。
と言いますか、映画的には「目的の発生」というところをちゃんと理解してもらえればよく、あとはどうでも好きにしてくれ、という作りにしていると思います。
宮崎駿の中で正解となる解釈があるかも知れませんが、その解釈しかしてほしくないのであれば、やりようはいくらでもあると思いますから。だから宮崎の意図とは関係なく、解釈は自由に任される。

ここで間違えてはいけないのは、子供は浅くしか受け取れないが、大人は深く作品を理解できたので、より楽しめた、ということではないということ。
スクリーンに映されたお話を体験し、楽しんだ、ということに関しては、大人も子供も全く平等。
単純きわまりない話として展開されるので、映画のお話としては、老若男女が同じように楽しむことができる。

ただし大人は、この単純きわまりない話に「勝手に」「自動的に」意味を見出す。
というより、あまりに神話的、寓話的なお話なので、どうしても、象徴や、意味や、役割を見出してしまう。

だから、おおいに自分の解釈を語り、他人の解釈を聞き、あーだこーだ言うのが正しい楽しみ方の作法と言ってもいいでしょう。
実際ネットでも大人たちが語るジブリ映画の感想は基本的に解釈論です。
たまに、トンデラハウスの大冒険的な(オブラートな表現)飛躍のある解釈をされる方もいるが、そういう人でもストーリーはちゃんと理解しているはずです。子供でも理解できるお話だから当然ですが。
あくまでも解釈のレイヤーで、トンデラハウス(オブラート)しているだけでね。

私は見てませんが『崖の上のポニョ』も見てきた人によって、感想が大きく違ってました。
私は自分が見ていないだけに、逆に皆さんのポニョ感想を楽しく読みましたが、この作品も『千と千尋』同様に相当な解釈遊びができる映画のようですね。同じ映画を見たとは思えないほどバラエティにあふれてました。
でもみんな同じ映画を見ているし、同じ月を見ている。
日本では月でウサギがモチつきをしていることになっているが、世界にはさまざまな解釈がある。だが、どれもそれぞれにとって正しいし、そこに月があることは変わらない。見ているのは同じ月だ。

『千と千尋の神隠し』に正しい解釈による見方、のようなものは多分無い。というかあってはいけない。あったとしてもあってはいけないことにしよう。
全ての人で共有できるような「大きな物語」を提供して、あとは受け手が勝手に「解釈」して完成する作品だから。

この仕組みは、本当にすばらしいですね。
老若男女が楽しめるから、ファミリーで見に行くことが出来るし、大人も子供のお付き合いだけでなく、大人らしい解釈で物語を読み取ることができる。
だから受け取り方を変えながら何度も見ることができるし、年齢を重ねても、その年に見合った見方へ変化しながら、いつまでも見ることができる。
複数回劇場に行くことが出来るし、見た人同士の会話も楽しい。金曜ロードショーで見るたびに少しずつ違う見方をしても面白い。それは国民的アニメになるよね。
シンプルな「大きな物語」を使って、それでも陳腐と言われないための有効な方法の一つなんだろうな、と思います。

余談:『イノセンス』それは、なに?


押井守の映画も、意味を読み取るのを楽しむ映画ですよね。
『イノセンス』なんかは、劇場で見た時にストーリー自体は単純すぎるぐらいに単純なことが面白かった。つまり映画のポイントはもうそこにはない。
(中島敦の『悟浄出世(わが西遊記)』を連想しましたよ。なぜか。)
ただ、理詰めの部分が大きいので、宮崎駿と比べて良くも悪くも「混沌」さが少なく、解釈の深度はあってもどうしても幅は狭く感じられます。

また、解釈をしない層に対してのサービスが悪すぎると思います。もちろんそこは意図して、客を選んでいるのでしょうけれど。それに関しては押井免疫の無い友人達と劇場で『イノセンス』を見たときに出てきた感想が面白かった。
友人A「なんかすごく単純で淡白というか面白みのない話だったなあ」
友人B「うーん、セリフばっかりで難しいなあ。色々深そうなんだけど俺にはわからん」
という感じの両極端なものだったのは興味深かった。友人達、あんた達はわるくない。わるくないよ!
友人B「あと、中盤の天丼(館への潜入)はくどくない?」
いやあ、あれはジョン・ウーの鳩みたいなもんなんで。どれが現実でどれが夢かなんて誰にも分かりはしないんです。
スクリーンに映る光もそれを見つめる俺達すらも全ては幻、胡蝶の夢なんです。
友人A「(苦笑して)それにしては全然覚めないよね、私らの夢。もうそろそろ覚めてもいいよね?」
…全く。

そういう意味では、次回作が「宮本武蔵」だと最初に聞いたときは面白いなあ、と思いました。
日本人なら誰でも知ってる人物だし、「バカボンド」などで若い人にも広く知られた人物ですから。
誰でも知ってるようなお話を押井守がやる、というのはいいなあ、と最初思ったのに、監督じゃなかったので、それが残念でしたけども。



新海誠さんの話ができなかったので、また次回へ。
また話は大きく変わるので、続きものというわけではありませんが。

余談その2:『ターンAガンダム』の場合


ここからは、富野好きのための余談、雑談。
ターンAガンダムも千と千尋のように「とりかへばや物語」「竹取物語」のような民話・説話をモチーフにしているので、非常に解釈で遊びやすいお話になっていますよね。
テレビシリーズなので、情報量も多く、「王殺し」なんかも入っていますし。
私は、ターンAは、おとぎ話として見てる部分が大きいです。

「ガンダム神話」も物語のベースになっているところも大きなポイントです。
ターンAを見た周りの友人などに聞いてみると、「黒歴史」なんかは全くガンダム知らないほうが混乱しないような印象もあります。(全く知らなければ、それこそ物語に良くある「太古にひどい戦争があった」話にしかならないので)
ガンダムは宗教なので、難しいところもありますね。

また富野好きにはターンAに、これまでの作品の影を見ることもできます。
・ファーストコンタクトの失敗で双方全滅したイデオン
・異世界と異世界の戦いとしてのダンバイン(バイストン・ウェルもの)
・Vガンダムのリベンジとやり直し
そういう意味でも、ターンAに全ての総括的なものを感じてしまってるんですよね。私は。

あとは、kaito2198さんが語られているVガンダムからターンAへつながるものが大変興味深いですね。
富野由悠季作品の系譜における『アベニールをさがして』の地位(その1 『∀ガンダム』との関係)

これは面白い。『アベニールをさがして』読んだこと無いんですが、これ見たら読みたくてたまらなくなりますね。

全然関係ないけど、昔から『アベニールをさがして』のタイトルを聞くたびに、『ゴドーを待ちながら』を連想してしまいます。
「そうか、待つんじゃなくて、こっちから能動的に探しにいくんだな!でも見つからないんだろうな。それは面白い」
と勝手に思ってました。アベニールがなんなのか、いまだに知りません。
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Re: 無数の解釈ができる物語は無敵<宮崎駿『千と千尋の神隠し』にみる「大きな物語」>

「千と千尋の神隠し」を観終わった家族の会話。

「なんでお父さんとお母さんが豚になっちゃったの?」

「豚は汚いなんて思われてるかもしれないけど、実際は綺麗好きで、食べ物を散らかしたりしない動物なんだよ」

「そうなんだ~」

「だから、豚になって見た目は怖いかもしれないけど、実は綺麗なものを心にもってるって事なんだよ」

「私も豚さん好き!」

「なら今日はトンカツにしようかしら」

「ワーイ!」

日本は平和だね

MaTaさんへ

コメントありがとうございます。
「食べるんかい」と思いました。
シュールだなー。ポエムだなー。メルヘンだなー。(山城新伍)

Re: 無数の解釈ができる物語は無敵<宮崎駿『千と千尋の神隠し』にみる「大きな物語」>

最近になってTOMMYさんの記事を読ませてもらっています。
すごく面白く、わかりやすく書かれていてあこがれます・・・
参考にします!

アニメではなく小説となると、魅力的な被写体はその主人公ととりまく世界、大きな物語は文字そのままだと思うのですが、間違った解釈でしょうか。
宮沢賢治や宮部、村上春樹、森博嗣、伊坂幸太郎と、何かとラノベチックな小説が好きな自分が、小説においてーというのは学が足りないかもしれませんが・・・

最近そう思って、本屋でいろいろと今流行っているらしい小説などを読んでみるのですが、このような「無数の解釈」を読者に問う物語というのは少なくは無いでしょうか。
ライトノベルしかり、ドラマなどで人気が出た作品しかり、ドラマ化されるほどの物語をもった数々のベースしかり。
解釈を問うものが、自分の周りだと「ヨクワカラナイ作品ダナー」で終わっている人が多いんです。千と千尋の友人との下りもなく、はぁ、豚になったんだねで終わってしまう。
古典小説、鴎外とか芥川など、散々テストで出題に用いられた作品、そしてその問題にされていた部分を個人で解釈する、というのが必要であって、すべて答えを掲示された物語はつまらないと思うのです。

学のなさが丸出しなコメントですが、結局ナニが言いたいのか自分でも収集がつかなくなってきた・・・

Dさんへ

コメントありがとうございます。
私も全然、学がありませんし、評論するための自分のフィールド(得意分野)のようなものも一切ありません。
それゆえに「わかりやすくて、おもしろい」「おいしくて、つよくなる」、そんなビスコのような記事を書きたいと考えていますので、「わかりやすい」と仰っていただけるのは私にとって最高の誉め言葉です。

> アニメではなく小説となると、魅力的な被写体はその主人公ととりまく世界、大きな物語は文字そのままだと思うのですが、間違った解釈でしょうか。

文学全体として考えてみるのも面白いと思います。が、私ではちょっと俯瞰できないです(どなたかして欲しい)。
小説については、私なりには以下のような感じにとらえています。

魅力的な被写体=世界観も含めたギミックやキャラクター。
大きな物語=小説のジャンルや形態。

例えば"推理小説(ミステリ)"というのは、いくつかの基本的なルールで成り立っており、小説の世界では十分に大きな物語として通用するものだと思います。
「ミステリもの」と聞いたときに、誰もが基本的なフォーマットを思い浮かべることができるので、そのイメージを最大限に有効利用できますから。
自分のやりたい世界や、オモシロギミック、魅力的なキャラクターを表現するために、スタイルとしての"推理小説"を選ぶ、という作品は実際にありますよね。
ライトノベルについても、描きたいのは世界観やギミック、キャラクターであることが多いので、それを最大限に生かしつつ、求める読者へ届けるために"ライトノベル"を選ぶケースが多いんじゃないんでしょうか。

> 最近そう思って、本屋でいろいろと今流行っているらしい小説などを読んでみるのですが、このような「無数の解釈」を読者に問う物語というのは少なくは無いでしょうか。
> ライトノベルしかり、ドラマなどで人気が出た作品しかり、ドラマ化されるほどの物語をもった数々のベースしかり。

すいません…。流行っている小説を全然読んでないので、何ともかんともニンともカンともなんですが「無数の解釈」については、そもそも読書というものが、書いてあることを頭の中で再構成するという形を取るので、読者の数だけ異なる解釈があるとも言えますよね。
それについては詩や短歌・俳句のようなフォーマットの方がさらに分かりやすいですね。情報を圧縮しているので、(頭の中で)解凍する際の補完が重要になります。
あと分かりやすいのはやっぱり神話じゃないでしょうか。シンボルだらけなので。
「竜」は大河の洪水のシンボルなので、勇者が「竜」を退治して王になったお話は、治水に成功した優秀な指導者のことを指す、とか。
単純に竜退治の冒険ストーリーとしても楽しめるし、「竜」部分に、どんどこシンボルを放り込んで、無数のテーマや解釈を背負わせてもいいですし。

要するに『諸世紀』(ノストラダムスの大予言)こそ最高の素材だ。くたばれノストラダムス。
ということですね。

> 結局ナニが言いたいのか自分でも収集がつかなくなってきた・・・

私もとりとめがなくなってきたので、ノストラダムスオチで無理やり終わらせることにしました(こんな返信ですみません)。
考えがまとまらなくても、書いたり、人と話したりすることで、まとまってくるので、それでいいと思います。

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