何年も前に書いた記事にも、先日(半年ぐらい前の先日)、大変興味深いコメントを頂いた。
まず記事は以下のもの。
アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」>
https://highlandview.blog.fc2.com/blog-entry-247.html
「シャアってニュータイプなの?」という、友人の素朴な疑問を発端に、タイトル通り「アムロがどのタイミングで、シャアをニュータイプとして認識したのか?」を検証した記事です。
そしてこの記事に頂いたコメント。全文を以下に引用します。
キシリア撃つ前の妹への
「ザビ家の人間はやはり許せないとわかった」
という”お前ついさっきまでと違うこといきなり言ってるの?何?”感ある台詞がなくなって
劇場版で
「チャンスは最大限に活かす」
に変わったのはそこまでの行動との不連続性が減っているという軸では改善なのかもしれませんが、ある意味改悪かもしれません
(”ケリをつける”意味では彼にとっての因果の円環を閉じる救いではあったのですが…
逆にケリがついてしまえば『逆襲のシャア』までの彼は存在しなかったとも(こちらも改変は改善を支持)
短縮打ち切りになった番組がまさか10年以上続くIPになるとはと思っていなかったでしょうし、TV版では綺麗に終わる方をとったんでしょうか
Zガンダムが存在する世界に生きている私(我々)には生存ルートが当たり前でも、リアルタイムで最終回を見た瞬間の視聴者にとってはシャアがグワジンの爆発に巻き込まれてあそこで死んだかもしれないし(差し違え)、生きているかもしれない、という波瀾万丈@ダイターン3の最終回状態だった世界だったと考えられます(ビデオテープで撮ってた視聴者が確認するとしてもその数十分後)
初見時「唐突に何言ってんだこいつ」と思った台詞なので強く印象に残っていたのですが、十数年後劇場版IIIをみて「あれ?あの台詞なくなってる??」と思い調べてしまいました。
https://highlandview.blog.fc2.com/blog-entry-247.html#comment313
物語の最終盤、シャアが脱出しようとするキシリアにバズーカを撃ち込む直前の場面。
妹アルテイシア(セイラ)と交わす最後の台詞のやりとりの中で、TV版と劇場版とでシャアの台詞が変更されている箇所がある。
それがコメント投稿者の方が指摘する以下の変更。
TV版:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
↓
劇場版:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
そしてこの変更に関して、改善ではあるかも知れないが、ある意味では改悪にもなっているのではないか?というお話でした。
『機動戦士ガンダム』におけるシャア・アズナブルというキャラクターの運命を、決定的に変えた台詞変更かも知れない。もちろん、結果的に見て、の話ではあるが。
確かにこれは面白い。
この素晴らしいコメントだけをよすがに、1本記事を書き上げる価値はあるぜ!
(ウィスキーの入ったスキットルを投げ捨てながら)
当該シーンまでの基本的な流れ
ひとまず、コメントで指摘のあったそのシーン、TV版と劇場版とで違いを確認してみましょう。
正直言いますと、このコメント頂いた時の私は「あれ?劇場版のその場面、セリフ違うんだっけ?」でした。
TV版『機動戦士ガンダム』は数多く見ているのですが、劇場版3本は正直なところ人生でも数えられる程度にしか見ていない。
『めぐりあい宇宙』自体も恐らく、ここ15年ぐらいは見返していない。
このような有様でしたので、当該のシーンを改めてきちんと確認する必要がありました。
私と同じような方もいらっしゃると思うので、突っ込んだ話をする前にシーンを比較しながら見直すのもよいでしょう。
(毎度このブログを読みに来てるような人たちには必要なさそうな気もするが……)
まず、問題の台詞のシーンまでの大まかな流れを。TV版でも劇場版でも基本的に同じです。
- ジオンと連邦、宇宙要塞ア・バオア・クーでの最終決戦。
- アムロはララァとの別れを経て、ザビ家の頭領を倒し、戦争終結させるつもりで出撃。
- 一方のシャアは、ザビ家打倒の目的も忘れ、ララァを殺された私怨でアムロに戦いを挑む
- シャアにからまれてやむなく応戦したアムロのガンダムと、シャアのジオングは激闘の末、相討ちに。
- 要塞内で、アムロとシャアのフェンシング決闘。セイラが止めに入る
- シャアはアムロに「同志になれ」と迫るが、爆発が発生。シャア&セイラと、アムロはここで別れることに。
- シャアは瀕死のジオン兵と会話し、キシリア脱出を知る。(兵士は事切れる)
そしてシャアとセイラ、いやキャスバルとアルテイシアの最後の会話シーンに突入します。
シャアとセイラ、別れの会話(TV版と劇場版)の比較
この会話でのセリフが問題なので、TV版と劇場版とでセリフを引用して比較しましょう。
TV版での2人の会話全文は以下の通り。
TV版
シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
セイラ:「兄さん!」
シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが?」
そしてTV版のあとに作られた劇場版『めぐりあい宇宙』での会話全文。
劇場版
シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
セイラ:「に、兄さん」
シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが……」
少し演技ニュアンスが違うところはあれど、大きく異なるのは太字で強調したシャアの台詞のみ。
TV版:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
↓
劇場版:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
この変更点をどう捉えるか。
TV版 シャア・アズナブル九死に一生スペシャル
発表順どおり、TV版から考えていこうか。
実は私は子供の頃から、この場面でシャアが本来の「ザビ家打倒」に立ち返る流れ、あまりしっくりいってなかったんですよね。
爆発をきっかけにアムロを見失ってこれ以上どうしようもなくなったのと、瀕死のジオン兵から「キシリア脱出」の情報を手に入れたのは分かるが、なぜここでいきなりキシリアバズーカ(注:キシリアにバズーカを撃ちこむことの略語)になるのか。


※皆さんおなじみキシリアバズーカ(これは劇場版キシバズ)
もちろん物語として、ケリをつけるために残ったザビ家、キシリアにバズーカを撃ち込む意味は分かるし、それが必要なのも分かる。
ただ、ここまでアムロ絶対殺すマンとして私怨全開でアムロを追い回し、相手が不慣れなのを承知で生身の戦闘も挑み、戦いながらの会話でも全くの平行線だったシャアが?
ついさっきまで「ザビ家打倒なぞもうついでの事なのだ、アルテイシア。ジオン無きあとはニュータイプの時代だ」とか言ってたシャアが?
だが大人になってから色々考えると、TV版の流れでも納得できるようになった。
まず宇宙要塞ア・バオア・クーでの戦いで、シャアはアムロに少なくとも3回は殺されている。
そもそも、ララァを失い、ア・バオア・クーで私怨100%のアムロ絶対殺すマンにしかなっていないシャアは、その時点でアムロに勝てない存在にしかなっておらず、物語構造上、最初から勝つ可能性など無いわけだが、それでもシャアはジオングでアムロに戦いを挑む。
1アウト:ガンダムvsジオング
最初のワンナウトは、ジオングvsガンダムの事実上の決着の場面。
アムロは狙いすまして、ジオングの胸部つまりモビルスーツのコクピット部分にビームライフルを撃ち込む。シャアが乗り込んだ胸部コクピットへピンポイントに。

これまでのジオン軍モビルスーツのコクピットが胸部にあることを踏まえての射撃。
だから普通のモビルスーツならこれでもう死んでいる……わけだが、ジオングは頭部にもコクピットがあるビックリドッキリメカなので、シャアはジオングヘッドで脱出して、からくも生き残る。
よかったね。ビックリドッキリメカで。
この場面で射撃される前に、シャアがパイロットスーツに着替えた描写はあるが、頭部コクピットに移るプロセスは描写していない(あえて省略しているのだろう)。
ジオングヘッドでの離脱は、TV本放送時は恐らくサプライズだったはずだ。
私は初見が幼少期すぎて最初の記憶がもう無いが。
もちろん胸部と頭部の移動は実際どうしたの?という疑問もあるだろうが、問題はカットが変わって、シャアがパイロットスーツを着た状態で再登場したとき、「実は頭部コクピットに移動もしていた」というサプライズにあるだろう。
コクピット内のデザインもそのために統一してあると思われる。
↓こちらが最初に乗り込んだ胸部コクピット

↓こちらが移動した頭部コクピット

こうして画像並べると、記憶より差異があるが、同じデザインのコクピットを描いているものと思われる。
身を隠した時にシャアが仕込みをしておき、不意をつかれてアムロに斬られるものの、ダミーを斬らせて、逆に一撃与えるところなどは、完全に忍術合戦。
過去にも何度か語ったが、『機動戦士ガンダム』における戦闘の核の部分にはチャンバラと忍術がある。
それにしても、ジオングの胸部に撃ち込んだ瞬間に「違うか!?」と、思惑がはずれたことに気づくアムロはとてつもない。
下手すると、視聴者が「あ!シャア死んだ!」と思うより、アムロの「違うか!?」の方が早い。サプライズなのにサプライズしてる暇が無い。
ジオングヘッドが本体から離脱するのは、アムロが叫んだ直後のことだ。
2アウト:無人のラストシューティング
シャア・アズナブル九死に一生スペシャル(実際は三死に一生)
ツーアウト目は、おなじみラストシューティング。
この場面、シャアのジオングヘッドが上空で待ち伏せしていると読んだアムロは、ガンダムを降り物陰に隠れる。そしてオートでガンダムを歩かせて、ラストシューティング!

本来なら、ここで死んでも全く不思議ではないところですが、まだやることが残っているシャアは、からくも脱出して生き残ったことになります。
(ここは劇場版で明確に脱出する場面が追加されます)
ガンダムとジオングの相討ち、ということにモビルスーツ戦の結果としてはなるわけです。
しかし、無人のガンダムvs有人のジオングヘッド という構図であって、アムロはガンダムを降りた状態で、ジオング(シャア)を仕留める気だったわけです。
別に自らの手で、ライバルとの決着をつけようなどとは微塵も思っておらず、待ち伏せのリスクを避けつつも、確実にシャアを殺そうという殺意が感じられて大変すばらしいですね。
このあたりの勝負に対する非対称性は『逆襲のシャア』でも展開されることになります。
アムロは、ガンダムがライフルを直上に撃ったあと、物陰から飛び出て上昇していく。
これは爆発に巻き込まれないための上昇だとは思うのですが、結局は半壊したジオングヘッドめがけて上昇していくという構図にもなっている。
もし爆風がそれほどでもなく、シャアが目の前でジオングヘッドから脱出するところを目撃したら、銃を撃ちながらそれを追うつもりでもあったんだろうか。(こわ……)
さあアムロとシャア、双方ともに機体を失い、残っているのは我が身だけ。
銃を持ったアムロと、おもしろSEライフルのシャアの銃撃戦が始まる。
ビックリドッキリメカの次は、おもしろSEライフルです。
シャアの銃のSE(効果音)は、ライブラリか何か出来合いのものを使ったんじゃないかと思うが、なんでよりによってこの場面で、こんなおもしろSEを選んでるのかはよく分からない。
あらゆるガンダムグッズが出ている昨今だが、もしこのおもしろSE銃に手をつけてなければ、今後のグッズ化に期待したい。
この場面、シャアが
シャア「今、君のようなニュータイプは危険すぎる。私は君を殺す」
と冷酷に言いつつ撃ち始めるが、アムロに全弾避けられた上、自分は被弾してるのでいつも笑ってしまう。

正式な訓練を受けた軍人が、数ヶ月の素人に生身の銃撃戦で負けてるのに、さらにフェンシングを挑むのは、よく考えるとすごい。
私がシャアの為に愚考するに、ワインの銘柄当てとか、どれがブランドA5和牛かとか、ストラディバリウスの演奏はA、Bどっち?のような生身の勝負なら、アムロに勝てるのではと思う。お育ちも良いはずだし。(ちなみにパートナーのドレンがことごとく間違えるので、最終的には三流ジオン軍人で終了します)
3アウト:ヘルメット無ければ即死突き(ロマサガの技名)
シャア・アズナブル九死に一生スペシャルのスリーアウト目。
シャア3回目の死であり、その最後といえるのがフェンシング決闘です。
これは前述したように、シャアとしては勝算があって誘っているわけです。
シャア:「わかるか?ここに誘い込んだ訳を!」
アムロ:「ニュータイプでも体を使うことは普通の人と同じだと思ったからだ!」
シャア:「そう、体を使う技はニュータイプといえども訓練をしなければ!」
アムロ:「そんな理屈!」
しかし皆さんご存知のとおり結果は以下のとおり。
・アムロ→上腕部にサーベルが刺さる(致命傷でも何でもないケガ)
・シャア→眉間中央にサーベルが刺さる(ヘルメットが無ければ即死級の突き)
アムロが「そんな理屈!」と言ったように、シャアの勝算(理屈)は砕かれました。
眉間にサーベル突き入れられ流血までするが、ヘルメット(バイザー)の存在でギリギリ助かっただけです。死ななかったのは純粋に運がよかっただけ。

同時に攻撃を仕掛けてこの結果は、シャアの完全なる敗北です。
ここまでアムロは掛け値無くシャアを殺す攻撃を何度も放っています。
アムロを殺す気で攻撃を仕掛けてきたのはシャアの方なのですが、実際はアムロの攻撃の殺意の方がよほど高い。
(1)ジオングの胸部コクピットにピンポイント射撃(ビックリドッキリ離脱)
(2)無人のガンダムでジオングヘッドを射撃(ラストシューティング)
(3)恐らく初めて握った剣で、シャアの眉間に即死級の突き刺し
シャアはこの最終回で、3度負け、3回殺されたに等しい。
これで生き残ったのは「シャア・アズナブルだから」以外の理由は無い。
そしてアムロが眉間を突き刺したことの何より大きな意義は、シャアの仮面を突き刺し、破壊したことにある。
仮面の死は、すなわち「シャア・アズナブル」の死であり、それはシャアが、素顔のキャスバル・レム・ダイクンに戻ることを意味する。
何度も(擬似的に)殺され、最終的に「仮面の男シャア・アズナブル」が死ぬことで、一種の憑き物が落ちたのだろう。
ララァを殺された私怨で近視眼的にアムロを追い回していたシャアはここで消える。
そしてキャスバル・レム・ダイクンに戻って、妹アルテイシアと最後の会話をすることになる。
ジオン残侠伝 死んで貰います
この会話、再度TV版の台詞を引用しよう。
シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
セイラ:「兄さん!」
省略されているが、ギレンの死などは瀕死のジオン兵から知ったことにしておけばいいのだろう。
そうなると残りのザビ家はキシリアひとり。
降伏はキシリア脱出後の手筈になっているので、まだ戦闘中のこの戦場から、最後まで責任も取らず、ザビ家の頭領が逃げる。
そういう情報をつかんだ上での「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった」は、シャア自身の変化(帰還でもある)と、これからの行動への理由付けという意味で適切な台詞。
「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった」だから「ケリをつける」。
はっきりいってこの「ケリをつける」は、ザビ家復讐の完遂だけでなく、自分の人生にケリをつける、という話でしょう。
アムロに憑き物が落ちるまで完膚なきまでやられて、運良く拾った命。
「ケリをつける」のは、要はたまたま拾った命の使い道なわけです。
もう我々はその後の生き延びまくってあれこれしているシャアを知ってるので、あれですが、それは別の話というか後付の話に過ぎません。
TV版本放送時には、ただ『機動戦士ガンダム』というひとつの作品があるのみです。
シャアはここで死ぬ決意をし、最愛の妹と別れ、死地に赴きます。
まさにヤクザやギャングが死を覚悟して、敵地に殴り込みをかける直前に、大事な人と交わす会話で、任侠モノのような場面です。
同じサンライズ制作の『カウボーイビバップ』でも最終回(よせあつめブルースじゃない方)に、スパイクとフェイの最後の会話シーンがありましたね。と最近のことのように書いたが、20年前の作品だった。
シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが?」

この「アムロ君が呼んでいる」の一言が奮っている。
ご存知のとおり、このあとセイラも含めたホワイトベースクルーは「アムロが呼ぶ声」を聞くことになるのです。
ただ、シャアがニュータイプ能力でそれを予見したとか、感じたとかでは全くありません。
単に、別れの台詞として口に出しただけです。
ですから「アムロ君が待っている」でも流れとしては何の問題も無いわけですが、ここで「アムロ君が呼んでいる」としておくのは、やはり気が利いています。
そしてセイラは、シャアが死ぬ気であることが分かったからこそ、兄と別れたあとに
セイラ:「み、みんなの所になんか、い、行けない。い、行ったって、生き延びたって兄さんが……」
と泣き、嘆くのです。生き延びたって愛するキャスバル兄さんはもう生きてはいないのだと。
で、今のお気持ちは?
セイラ:「早く死んで欲しい」
冗談はさておき、『機動戦士ガンダム』という単体の作品としてのシャアは、実質的にここで死んでいるわけです。
組まれた脚本と演出が、きちんとシャアを死なせていると言った方がよいか。
それを考えるとTV版の 「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」は、それに沿った大変すばらしい台詞だと思いますね。
TV版の台詞の流れでいえば極端な話、仮にキシリアバズーカが失敗して、シャアが返り討ちで蜂の巣になったとしても物語としては何の問題なく成立しています。
実際に、TV版ではシャアが上昇をはじめたザンジバルのキシリアを撃ったあと、そのまま上昇したザンジバルは、待ち構えていた連邦の艦隊に蜂の巣にされ、轟沈しています。

上昇して顔を出したザンジバル。ブリッジが損傷しているが、周りに対して射撃している。

連邦の戦艦からの砲撃。恐らく数艦に囲まれており、瞬く間にザンジバルは轟沈する。
つまり、仮にシャアが何もしなかったとしても、ザンジバルは出港直後に轟沈していたわけです。キシリアバズーカを撃たなかったとしても、キシリアもここで死んでいるでしょう。
じゃあキシリアバズーカなんて意味ないじゃないか、と思いますか?
シャアの「ケリをつける」は本当に人生のケリをつける行動なので、例え失敗して返り討ちになろうと、成功してキシリア暗殺に成功した何秒か後にザンジバルが轟沈しようと、それは問題ではありません。
ただ物語の場面として考えると、TV版で選ばれた「キシリアを撃ち抜くが、その数秒後にはザンジバルが轟沈する」という流れ、これがどう考えてもベストだろうと思います。
ザンジバル轟沈数秒前に自分でケリをつけることに間に合ったシャアが満足げに爆発の光の中に消えていく……。
美しい。(単体の作品として)あまりに美しい。
ですよね、セイラさん?
セイラ:「早く死んで欲しい」
『めぐりあい宇宙』のシャアはどのようなシャアなのか
つづいて劇場版『めぐりあい宇宙』を見ていきましょう。
基本的に流れは同じなので色々と省略して、今回の話に関係するところとして、コメントで指摘のあった変更された台詞のシーンから見ていきましょう。
シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
セイラ:「に、兄さん」
アムロは見失ってしまったが、瀕死のジオン兵から情報は入手したし、バズーカと代わりのヘルメット(シャア専ヘルはアムロに割られた)も手に入れた。
今なら脱出しようとするキシリアに間に合うし、この混乱の中、警戒しているような状況ではないだろう。これは「キシリア暗殺」の好機だ。
それが台詞となったのが「チャンスは最大限に活かす」でしょう。
さっきまでアムロ絶対殺すマンでしたが?というTV版から引き継ぐ問題に関しては、アムロを見失った以上、その目的は果たせない。しかし、代わりにキシリア暗殺の好機を得た。私はその状況に応じて、やれることを最大限にやるのだ。
つまり、それが「私の主義だ」ということなんでしょう。
お気づきだと思いますが、たった一言の変更で、ニュアンスは大きく変わっています。
劇場版のシャアは、アムロとの因縁から気持ちを切り替えて、好機と見るや全く違う行動に出ているように見えます。油断のできない、抜け目のなさです。
シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが……」
ちなみにこのあとで、シャアがセイラと別れ、セイラが見送るシーン。
TV版では、作画カロリーを抑えるためでしょうが、手を伸ばすだけで終わっています。
TV版

去っていく兄に思わず手を伸ばすセイラ。

しかし死を覚悟してケリをつける意志を感じ取ったのか、手を降ろしてただ見送る。
一方、劇場版はさすが手が込んでいます。
劇場版

去っていく兄に手を伸ばしかけるところまでは同じ(レイアウトは違うけれど)。

遠くの爆発の振動で、セイラの足元が重さを失って、ふわっと揺らぐ。
まさに地に足がつかず、不安なセイラの心をあらわすかのよう。
絶妙なアニメーションなので、これはぜひ映像をご覧いただきたい。
セイラの心情的にはTV版も劇場版も基本変わらず、劇場版は作画でリッチになっただけ、とは思うんですが、ここまで書いたように、シャアの台詞によって、シャアのキャラクターも変化しているわけで。
劇場版のセイラが、何となく兄を失う悲しみだけでは無いように見えてしまうのは、観測者問題かな。
セイラと別れたあと、無事キシリアにバズーカ撃ち込むのはTV版と同じです。
しかし、ザンジバルのブリッジが爆発するのはいいとして。

TV版と同じように、そのまま上昇して顔を出したザンジバルは、ブリッジを中心に大爆発。そのまま轟沈します。
一応、連邦の艦隊側から見たカットもあるのですが、ザンジバルの射撃に気づいて応射するようなカットや、TV版のように砲撃がザンジバルに吸い込まれていくような描写はありません。
TV版では明らかに連邦の艦隊によって轟沈する描写になっていたわけですから、劇場版ではそれを踏襲せず、変更したと見るのが自然でしょう。
つまりシャアはバズーカの一発で、キシリアどころか巡洋艦ザンジバルも落とした、というのが劇場版だと思います。
お前のバズーカは、コンドルのジョーの羽手裏剣か(最終回)。
いや、よく考えたらコンドルのジョーのようなものか。そういえば。
TV版シャアと劇場版シャア、正しいのどちらか
さて、ここで頂いたコメントを再引用しましょう。
キシリア撃つ前の妹への
「ザビ家の人間はやはり許せないとわかった」
という”お前ついさっきまでと違うこといきなり言ってるの?何?”感ある台詞がなくなって
劇場版で
「チャンスは最大限に活かす」
に変わったのはそこまでの行動との不連続性が減っているという軸では改善なのかもしれませんが、ある意味改悪かもしれません
(”ケリをつける”意味では彼にとっての因果の円環を閉じる救いではあったのですが…
コメントにあるように、TV版より劇場版の方が、シャアがキシリアバズーカに向かう不自然さが軽減されていると思います。
恐らく一般的には、「チャンスは最大限に活かす」の方が、シャア・アズナブルというキャラクターにふさわしい台詞だと感じる人の方が多いのではないか。(このブログの読者はあまり一般的ではないので参考にならないが)
特に、現在の地点から見ると、シャアは一年戦争後も度重なる絶体絶命のピンチにも生き残り、アコギなあれこれもしているので、結果論として「チャンスは最大限に活かす」シャアの方が、シャアらしいという事になってしまった。
つまり「チャンス」とは、目的達成だけではなく生存の「チャンス」でもある。
「これ死んだよね?」「生き残ってないよね?」と思われるような状況でも、生き残るチャンスがあるなら最大限に活かす。それがシャアの主義なわけです。劇場版の台詞ではね。
ダルマ状態で宇宙を流れる百式のコクピットから脱出するときも「チャンスは最大限に活かす」とか言っててもおかしくない。
だから絶対逃がさないようにアムロが、サザビーから飛び出たボールを、トリモチ付きでがっつり握るしかないわけです。
状況に応じて目的を切り替え、目的達成の好機は逃さず、かつ生存のチャンスも最大限に活かす。
そういう抜け目なく、危険なサバイバー。それが劇場版シャア・アズナブルなのです。
お、おま、TV版と全然逆じゃねーか。とお思いの皆さん、その通りです。
TV版のところで書いたとおり、個人的には「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」が来ても、納得のできる物語構造は組まれている、と思っています。
とはいえ「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」の方が不自然さが和らぐ、というのも事実でしょう。より分かりやすい、という意味で。
(その点で、やはりこれは改善といってよい)
しかし問題の本質は、この台詞の変更によって、シャア・アズナブルというキャラクターの幕引きがほぼ正反対に変わってくるという点にあります。
一見、無駄に見えるようなキシリアへの一撃を、自身の「ケリをつける」ためだけに拾った命を投げるTV版シャア・アズナブル。
状況で目的を切り替え、暗殺の好機を逃さず、かつ自身の生存のチャンスも最大限に追求する劇場版シャア・アズナブル。
この後のシャアの人生を全部見てしまった我々からすると、「チャンスは最大限に活かす」と言うシャアの方がいかにもシャアらしいのは間違いない。
ただ、TV版と劇場版がつくられたあの時点、『機動戦士ガンダム』という単体のひとつの物語として見た場合、TV版の台詞の方が完成度が高いと、個人的には考えています。
(分かりやすくなっているのは、もちろん劇場版だけどね)
チャンスがあるからやる、ではなく、本来ならアムロにぶっ殺されているところを運良く助かったこの命。ザビ家の頭領を倒すんだ、と言っていたアムロがガンダムを失ったのは、私怨で襲いかかるジオングに相討ちに持ち込まれたから。
ガンダムを失ったアムロにはもう出来ないことを、この拾った命でやろう。ケリをつけよう。
これすなわち
(ナレーション:納谷悟朗)
たったひとつの命を拾い
生まれ変わったジオンの王子
悪のザビ家を叩いて砕く
キャスバルやらねば誰がやる
※これがやりたいだけだろ、とは言ってはいけない
頂いたコメントにもあった「セリフ変更は改善にして、改悪ではないか?」というお話。
個人的には本当に同感です。ひとつの作品としてはね。
しかし『機動戦士ガンダム』というIPがここまで発展したことを考えると、シャアのキャラクターを変えてでも、彼の生死をより曖昧にして留保しておくことは、紛れもなく正解であったでしょう。
たった一箇所の台詞の変更でしたが、間違いなくそれがシャア・アズナブルの運命を変えた。
それは間違いないと思います。
ですよねセイラさん?
セイラ:「早く死んで欲しい」
まとめ&あとがき
シャア・アズナブルというキャラクターの生死、特にTV版と劇場版の違いについて、何か具体的なソースがあるかも知れませんが、私はロマンアルバムなど、当時の資料を全く所持していないので、そのあたりは分かりません。
分かりませんが、ここまで長々と書いてきたように、映像(作品そのもの)を比較するだけでこれぐらいの事は分かるので、今回の記事の範疇であれば特に必要では無いかなと思っています。
その上で、TV版のセリフ(から導かれる物語)と、劇場版のセリフ(から導かれる物語)の好みはあろうかと思います。
私のスタンスとしては記事に書いたとおり、TV版の方が好きで完成度も高いと考えている一方で、劇場版の変更は分かりやすく(自然に)改善されており、かつ、生死の留保を付けたことは結果から見て大正解、というわけです。
なお文中に「キシリアバズーカ」がパワーワード化して頻出していますが、こんな言葉はありません。
「シャアがキシリアにバズーカ撃ち込む場面」が何度も出てくるので、この記事の為だけに思わず略語をつくってしまいました。
別に、キシリアがバズーカで兄上の後頭部を吹っ飛ばしたわけでも、キシリアがジオン中央銀行の総裁というわけでもありません。
今回の記事は、大変興味深く、有益なコメントを頂いたことが全てのきっかけです。
コメントを投稿して頂いた「君子豹変」さん、ありがとうございました。御礼申し上げます。
持つべきものは、すばらしいコメントを残してくれるありがたい読者ですね。
それにしても、シャアの悪運の強さというか、殺せないキャラクターに成長・変化していく過程、大変興味深いものです。
ファンの人達も当時喜んだんだろうな。これは多分、死んでないぞって。
セイラさんもそうですか? だって、兄さん死んじゃったーって泣いてましたもんね?
よかったですね。愛するキャスバル兄さんですもんね?
回答なし。 ※後日、編集部に「早く死んで欲しい」とだけ書かれたFAXが届いた
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顔のない無人ロボットが演じるシンボリックなアクション<『レディ・プレイヤー1』でのガンダム登場と『機動戦士ガンダム』のラストシューティング考>
この記事でも出てきた「ラストシューティング」というシンボルのすごさについて。映画『レディ・プレイヤー1』の話もしていますが、結局ガンダムの話しかしていません。
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この記事を読んで、君もセイラのようにFAXを送り付けたくなろう。
落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>
今回の記事タイトル(逃げるキシリア、ケリをつけるか? チャンスを活かすか?)を見て、「どこかで見たことがあるぞ?」と思った方は上記の記事を見て下さい。
ほかにもガンダムや、富野アニメについての記事を色々書いていますので、目次ページで興味を引くものがあればご覧頂ければ幸いです。
【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
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何言ってるだというと、今ある宇宙世紀モノって要するに劇場版3部作の続篇ですよね。
ではTV版の、本当にこれっきりでいろんなものがつまった機動戦士ガンダムの続篇はどうなる?と思ったので。
アムロが好きなのでアムロメインで、あとどうしようもない世界になった宇宙世紀がちょっといい感じになってたらいいなと思います。