今回は父の日にちなんで、アムロ・レイの父テム・レイのお話です。



※「え? 父の日……?」と戸惑いの諸兄へ
本記事は父の日(6/20)用に準備していたものだが、諸事情により遅れに遅れたことを読者諸兄には謝らなければなるまい。ただ「父の日の気分で書いたんだな。そのつもりで読むか」程度のことは、当ブログの読者であれば可能であろうし頼まれなくてもやって頂きたい。


ということで今回の主役はテム・レイですが、その前に私自身の父の話を前座として少しだけ。

私の父は1年半ほど前に自宅で倒れ、小脳梗塞で入院。
一時は、ICUみたいな所に入っていましたが、幸い一命はとりとめ普通の病棟に移りました。
ただ入院初期には、脳の異常がなせるわざなのか、幻覚や奇妙な言動がいくつか見られました。

「気をつけろ! ロシアが俺を拉致しに来るぞ」
「今、筆を持てばダ・ヴィンチを越えるものが描ける」

普段とは明らかに異なるレベルの高い発言に、我々家族はそれを爆笑7、心配2、マジヤバ困惑1、程度の比率で対応していたのを思い出します。

命が、しかも意思の疎通もとれる状態で助かったのは本当に幸いなのだけど、そこにはテンション高めに妄想を語り、微妙に話が通じない父がいる。

もしかしてアムロがサイド6で再会した父テム・レイに抱いたような感情はこういう感じだったのかな? と、その時本当に思ったのでした。(現実をつい「これフィクションで見たやつ」と思ってしまいがち)

主人公アムロ・レイの父親テム・レイとは


テム・レイは、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイの父親です。

彼の基本的なプロフィールとして、ひとまずWikipediaの記述を引用しておきましょうか。

地球連邦軍の技術士官であり、階級は大尉。本編の主人公アムロ・レイの父親で、妻はカマリア・レイ。V作戦の中心人物であったとされ、モビルスーツ (MS) ガンダムの設計にも大きく関わっている。元々はスペース・コロニーの建築技師であるとも言われ、一年戦争勃発と同時に軍に移籍したという。登場回はテレビ版の第1話・33話・34話、劇場版三部作は『機動戦士ガンダム』・『機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編』である。

Wikipedia:テム・レイ




テム・レイというキャラクターが物語上なにをしたかと言えば、アムロが乗る事になるロボット(モビルスーツ)「ガンダム」を作った人、という事になるでしょう。

ですがこれは結果の話であって、別に息子を乗せる為にガンダムを作ったわけではありません。
ではテム・レイはどういう目的で、何の為に作ったのでしょう?

これに関しては、『機動戦士ガンダム』第一話で、若い連邦士官ブライト・ノア相手にテム自身がはっきり語っています。これはテム及びブライト・ノアの初登場シーンでもあります。

ブライト 「伝令。レイ大尉、サイド7へ入港いたしました。至急、ブリッジへおいでください」
テム・レイ「ん、了解した」
テム・レイ「ブライト君といったね?」
ブライト 「はい」
テム・レイ「何ヶ月になるね? 軍に入って」
ブライト 「六ヶ月であります」
テム・レイ「19歳だったか?」
ブライト 「はい」
テム・レイ「ガンダムが量産されるようになれば、君のような若者が実戦に出なくとも戦争は終わろう」
ブライト 「(アムロの写真を見て)お子様でらっしゃいますか?」
テム・レイ「ああ。こんな歳の子がゲリラ戦に出ているとの噂も聞くが、本当かね?」
ブライト 「はい、事実だそうであります」
テム・レイ「嫌だねえ」


自分たちが作る新兵器「ガンダム」によって戦争が少しでも早く終われば、ブライトのような若者が戦う必要がなくなると。
だからテムは「ガンダム」を作るのです。

職場のデスクの上に我が子アムロの写真を飾っていたりもして、父親としても彼なりに息子への愛情をもっていることは表現されています。
息子アムロと同世代の子供が戦場に出ているという現実に関しても、嫌悪感を示しています。
このあたり極めてまともな大人の感性といえるでしょう。

もちろんテムは優秀な技術者ですから、自分の技術を戦争に投入することには熱心です。
だからといって別に、マッドサイエンティストでも人格破綻者でもありません。

自分がすべきことは「ガンダム」を開発し、戦局を変え、戦争を早く終わらせること。

ただ、新兵器投入→連邦勝利=戦争終結=平和と考えるのは、やや単純というかピュアというか、恐らく政治的なものには疎いんだろうな、と思われます(技術者としての瑕疵ではないが)。
また、考え方としてはマクロのみであって、ミクロの視点は欠けています。

「ガンダム開発者」として、このあたりのしっぺ返しをテムは受けることになります。

主人公アムロ・レイの父親テム・レイとは


コードネームは作戦V。ということで開発される「ガンダム」は、戦局を変え、戦争を早期集結に導けるほどの兵器であると自負するテム・レイ。



考え方にもよりますが、実際にマクロの観点でテム・レイの仕事を見た時、一年戦争でのデータ集計や統計学的には総犠牲者数を減らすことに貢献した可能性もあるかも知れません。
もしかすると、ジオン・連邦関係なく若者の犠牲が、テムの希望どおり、少し減ったのかも知れない。

ただし、これはあくまでもデータとしての子供(若者)であって、ガンダムが戦場で活躍するたびに目の前で失われるものについては恐らく関心の埒外にある。

ましてや自分の息子が少年兵となってガンダムに乗り込み、人殺しをしながら戦争終結まで戦い抜く、という可能性のリアルに関しては全く想定していない。想像が及んでいない。

だからテムの中では以下の3点が並列に存在する。

・愛する我が子アムロ
・息子と同世代の子供が戦場へ出ている現実(イヤな世の中だねえ…)
・私の作るガンダムは戦局を変え、戦争を終結させる


しかし、それぞれは何もつながってはいない。

心情的にもつなげたくないのは分かるが、恐らくそういう可能性すらも考えていないと思われる。
だが皮肉なことに『機動戦士ガンダム』とはこの3つが全てつながる物語。

つまり、愛する我が子アムロが、ガンダムで戦場へ出て、戦争終結まで戦うのだ。

アムロ・レイは父テム・レイのことを何と呼ぶか


『機動戦士ガンダム』第一話で、いくつかの偶然による必然の決断とも思える、巧みな物語誘導で父の作ったガンダムに乗り込むことになる。
その直前、フラウ・ボウと別れてから、ガンダムへ向かうアムロとテム・レイが出会う。
これが第一話、そして物語中での父子の初めての対面であり、次に話すのは実に第33話となる。

少し会話を引用してみよう。
訓練された兵士は、以下のやりとりを読むだけで場面が思い浮かぶはず。

アムロ「父さん」
テム 「第三リフトがあるだろう」
連邦兵「リフトは避難民で」
アムロ「父さん」
テム 「避難民よりガンダムが先だ。ホワイトベースに上げて戦闘準備させるんだ」
連邦兵「はっ」
アムロ「父さん」
テム 「ん、アムロ、避難しないのか?」
アムロ「父さん、人間よりモビルスーツの方が大切なんですか?」
テム 「早く出せ」
アムロ「父さん」
テム 「早くホワイトベースへ逃げ込むんだ」
アムロ「ホワイトベース?」
テム 「入港している軍艦だ。何をしている」
連邦兵「エ、エンジンがかかりません」
テム 「ホワイトベースへ行くんだ」
テム 「牽引車を探してくる」
アムロ「父さん」


こうして見ると、アムロが何度も「父さん」と呼びかけているのが分かりますね。

東京03飯塚なら
「父さん?」「ホワイトベース?」「父さん?」「ホワイトベース?」「父さん?」
と、2つの言葉を異なるニュアンスで繰り返すだけで爆笑がとれる気がする。



ここでアムロに「人間よりモビルスーツの方が大切なんですか?」と責められているが、先に説明したとおり、マクロだけでミクロが無いテムからすれば、目の前の避難民より、ガンダムで救える(とテムが信じる)多数を見ているわけで、テム・レイという人間としては一貫している。
だから血も涙もない冷血な人間というわけではなく、単に「こういう人」であるに過ぎない。

もちろんこれは、人々が死ぬのを目の当たりにし、フラウ・ボウを港へ走らせた上で、涙をふりきって逆方向に走り出したアムロと対比になっている。
アムロが第一話でガンダムに乗り込むのは、テムの目には見えてない、身近な人々のため。

ちなみにアムロがテム・レイの事を呼ぶ時、第一話だけでも3種類の言い方が使い分けられている。

1つめが先程紹介した、テム・レイ本人を呼ぶ時の「父さん」

2つめは「父」。これは当然、他者に対して。

アムロ「を捜してきます」
フラウの祖父「アムロ君」
避難民「君、勝手に出てはみんなの迷惑に」
アムロ「が軍属です。こんな退避カプセルじゃ持ちませんから、今日入港した船に避難させてもらうように頼んできます」


そして3つめは「親父」。これは身内感覚のフラウ相手や、独り言のときのみ使われる。

フラウ「ここも戦場になるの?」
アムロ「知らないよ。親父は何も教えてくれないもん」

アムロ「コンピューター管理で操縦ができる。教育型タイプコンピューター。すごい、親父が熱中する訳だ」


これらの台詞。例えばすべて「親父」や「父さん」で統一することも可能です。

でもアムロ・レイというキャラクターは、他者の前ではきちんと「父」と呼び、一方でフラウ相手や独り言では「親父」などと呼ぶが、決してテム・レイ本人の前では「親父」とは呼ばず、「父さん」と呼んでいる。
そういう使い分けをする、できる、デリケートなキャラクターとして表現されています。

この「父をなんと呼ぶか」問題
個人的にはフィクションだけでなく現実でも重要だと考えていて。
例えば、私自身がアムロと全く同じ使い方なんですよね。友人と話すときに「うちの親父が……」などと言うけれど、父本人に対して普段「父さん」か「お父さん」としか呼ばない。本人の前で「親父」と呼んだことはない。
(そういう意味で関西弁の「おとん」「おかん」は、むちゃくちゃ便利な言葉)

大人になればいつか「親父」と呼びながら、一緒に酒を飲んだりするのかな、とか思ってましたが、「父さん」のままでしたね。
これは各父子での微妙な人間関係に基づくので、どの呼び方をすべきとか正しいとかは無いのですが、大人になる過程で呼び方が変化する人、しない人、それぞれいるようです。

ちなみに妹が父を呼ぶ時は「下の名前で呼び捨て」もしくは「クソジジイ」。
これが通るどころか、父さ……親父本人もまんざらでもなさそうな所が、父娘、父息子の関係の違いだな、と思っています。

そういう意味で私は、アムロのこの呼称の使い分けがすごく分かるタイプ。
アムロが持つ、父テムとの微妙な距離感はもちろんですが、けして父が嫌いではないし、ある種の敬意なんかも感じるんですよね。

アムロ・レイ、初戦闘でのたったひとつの過ち


この後、アムロはガンダムに乗り込み、初戦闘で2機のザクを撃破します。

テム・レイは、素人であるアムロがガンダムに乗っているのを知らないので、その戦い方の下手さに怒ったりもしています。

連邦兵「技師長、味方のモビルスーツが動き始めました」
テム 「動く? なんて攻撃の仕方だ。誰がコクピットにいる?」


私が設計したガンダムがあんな操縦で……なんて日だ!

などと思っているのも束の間、アムロが1機目のザクを撃破した際に、爆発させて出来たコロニーの大穴にテムは吸い込まれて、宇宙に投げ出されてしまいます。
これで33話まで出番なしで、再登場のときはもうあれなので、事実上ここで死んだようなものです。

第一作『機動戦士ガンダム』での最初のザク撃破は歴史的な1ページといっていいですが、同時に主人公アムロによる「父殺し」が行われたということでもあります。
ガンダムが最初に葬ったのはジーンのザクと、生みの親テム・レイです。

テムの役割上、ガンダムがアムロの手に渡れば、退場させてもよいキャラクターだとは思います。
ただその退場を、ジオン軍の攻撃で殺されてしまい、アムロはジオンと戦うことを誓う……などには全く使わない。
父親の喪失は動機設定にすら使われない。

それどころか「スペースコロニーに穴が空く」という宇宙世紀ならではの危機とそれによる悲劇を第一話で伝えるためのサンプルに使われているのが恐ろしい。
それはモブだけでなく、ガンダムの開発責任者という重要人物(ネームドキャラ)が一瞬にして失われることでより効果的になるだろう。

その原因はザクではない。初めてガンダムに乗った「素人」の下手な運用のせいだ。
つまり主役ロボット・ガンダムの強さとアムロの未熟さとがコロニーに穴を空ける、という展開が選択されている。

そのためには必然的に、第一話の敵役として、ザクは最低2機必要になる。
アムロの未熟さゆえに爆発させてしまう1機目。
そしてアムロの非凡さゆえにコクピットのみを貫く2機目。

アムロはぶっつけ本番でザクを2機撃破し、しかも2機目は問題点をきっちり修正している。
しかし、そのたった1度の失敗に対して与えられるペナルティが容赦ない。

マクロだけで目の前の人々(アムロ含む)のことは眼中になかったテムと、目の前の人々の為だけに衝動的にガンダムに乗ったアムロ。まるで双方への罰であるかのようだ。

さらにいえばこの後、テムが失われた事について、彼を知っているアムロやフラウ、直前に会話を交わしたブライトも含めて、誰もテムのことを気にすること無く物語は進む。まるで最初からそんな人物はいなかったかのように。

※追記
テムに対する言及について、Twitterでご指摘頂きました。完全に意図的ですね……。

父の喪失はあらゆる意味で、今後のアムロの行動動機として影響を及ぼすことなく、ここからは「君は生き残ることができるか」だけで物語が進んでいく。
そして最終回の2話手前、第41話「光る宇宙」まで行ったところで「別に戦う理由ないよね?」と突っ込まれる。

ララァ「なぜ、なぜなの? なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」
アムロ「守るべきものがない?」
ララァ「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」
アムロ「だ、だから、どうだって言うんだ!?」


そう理由はない。
一年間のテレビシリーズを続けなければいけないから戦うのだ。
おもちゃやプラモを売るから色んな敵と戦うのだ。
全43話に決まったから予定より多少コンパクトに戦うのだ。

ザクとガンダムが戦うのは、セ・リーグとパ・リーグが戦うぐらいの理由でしかない。
主人公の絶対的な動機が無いまま、最終ステージまで持っていくのが本当にすさまじく、またこれがラストへの重要な布石になるという意味で、大変すばらしい。

ちなみに『機動戦士ガンダム』の中で、アムロにもっともダメージを与えた攻撃はシャアでもジオングでもなく、ララァによる「あなたには何もないし戦う理由もない」という指摘だろうと思う。
アムロは全く反論できていない。

サイド6。それは人と人とが交わる、出会い系中立コロニー


第33話「コンスコン強襲」でアムロは父テムと再会する。
場所は中立コロニー・サイド6。

第1話以来の登場となるテムだが、この回でのアムロとのやりとりは驚くほど少ない。
ここでは、第33話におけるアムロとテムの会話をすべて引用してみよう。

サイド6でアムロは父テムに似た後ろ姿を発見し、それを追う。そして。

アムロ「父さん!」
テム「おう、アムロか」
アムロ「……父さん!」
テム「ガンダムの戦果はどうだ? 順調なのかな?」
アムロ「……は、はい。父さん」
テム「うむ、来るがいい」
アムロ「はい」


アムロは連邦軍の制服を着ているので、元連邦軍所属のテムは気づくとして。
「ガンダムの戦果はどうだ?」と、アムロがガンダムのパイロットである前提でいきなり尋ねている。

しかし前述したように、テムはガンダムに乗り込んだのが誰なのかは、知らないまま宇宙に投げ出されたはず。
ガンダムのパイロットが誰なのかは視聴者が知っているのは当然だが、いわゆる一般市民がガンダムのパイロットの正体を知っているとは思えない。
テムは元軍所属ですが、今や色んな意味で一般市民、下手するとそれ以下の知識しか持ち得ないと思われるし、ましてやアムロは、軍の重要機密に触れるモビルスーツにどさくさで乗り込み、しかもキャリアわずか数ヶ月の少年ですからね。

でもテムは、アムロがガンダムのパイロットであるというのが当然のように話しかけ、アムロはそれが父に期待した再会のひと言目では無かったにも関わらず、話を合わせ、テムの住居に向かう。

テムがアムロをガンダムのパイロットと認識しているのは、はっきりいえば事実関係としてはおかしいはず。
だが、テム自身の状況を前提に、子の期待に反し、久々に再会した子をガンダムパイロットとしてしか認識していない、という点が絶妙で、はっきりいってこの会話が圧倒的に正しい。

お互いの身の上を話す、という段取りを省略できるだけでなく、その省略こそがアムロにとって残酷なものになっている。
すばらしい会話とその演出だと思う。

先に、アムロとテムの会話が驚くほど少ないと書いたが、それはこのような残酷な省略によるもので、この父子はすでにそういった会話を長々と交わす状態には無い。

テムは、アムロを今の住まいであるジャンク屋の2階に案内する。

テム「ほら、何をしている、入って入って」
アムロ「こ、ここは?」
テム「ジャンク屋という所は情報を集めるのに便利なのでな。ここに住み込みをさせてもらっている。こいつをガンダムの記録回路に取り付けろ。ジオンのモビルスーツの回路を参考に開発した」
アムロ「(こ、こんな古い物を。父さん、酸素欠乏性にかかって)」
テム「すごいぞ、ガンダムの戦闘力は数倍に跳ね上がる。持って行け、そしてすぐ取り付けて試すんだ」
アムロ「はい。でも父さんは?」
テム「研究中の物がいっぱいある。また連絡はとる。ささ、行くんだ」
アムロ「うん……」
「父さん、僕、くにで母さんに会ったよ」
「父さん、母さんのこと気にならないの?」
テム「ん? んん。戦争はもうじき終わる。そしたら地球へ一度行こう」
アムロ「父さん……」
テム「急げ、お前だって軍人になったんだろうが」


アムロはテムの部屋から飛び出して、帰り道でテムに渡されたパーツを道路に叩きつける。
大変有名なシーンのひとつですね。

このパーツは、テムによれば、ガンダムが限界突破してレベル上限も上がる。4凸も夢ではない。
という触れ込みだったからか、「性能上がるかも知れないからダメ元で試してみればよかったのに」と、結構本気で言ってた人を見かけたことがある。というか、こういう人は今でもたまにいる気がしますね。

・アムロが一瞥しただけで古い回路と見抜けるほどの代物
・ろくな設備もない、ジャンク屋の粗末な部屋
・酸素欠乏症で変わり果てた父

これらの判断材料が揃った上での、父との決別のシーンなのに、アムロが 「うーん、ダメ元で試そうかな。性能が上がればラッキー。ダメなら捨てればいいし」 って思いながら、大事に持ち帰るってこと?

リサイクルショップの2階に住んでる認知症の父が、そのあたりのガラクタで作った部品を渡し、これをお前のPCやスマホに取り付けたら、処理速度が数倍に跳ね上がるぞ!と聞いて、あなたダメ元で取り付けますか、という話です。
父がそんなものを真剣に作り、語っていることに絶望して、帰り道で叩きつけるしかないでしょう。

このシーンはそれを許す構成にそもそもなっていないので、「ダメ元で試す」自体がありえないと思います。
フィクションは作りもので、ある意図をもって展開を構成しているので、それを無視して結果だけ変わるというのは原則ないからです(成立するなら構成の方が間違っている)。

逆に言えば、構成が変わればありえるので、アムロが父に期待をわずかに残すような鋭い発言をテムがしたりとかすれば、パーツをダメ元で取り付ける、などの展開もありえないではないかも知れません。
例えばまだ誰も指摘していない、アムロの操縦技術にガンダムの反応速度が追いついていない、ということをテムが指摘し、アムロが衝撃を受け、もしかして父さんは技術者としてはまだまともなのでは(そうであってくれ)……と半信半疑でホワイトベースに帰り、ドキドキしながらガンダムに取り付けてチェックしたら、そこで正真正銘のゴミと分かって、コクピットの中でひとり絶望する……。
などのシーンに変化させることは出来ると思います。

ただ、手間と尺がかかる割には実際のシーンより面白いというわけでもないので、やはりあの短いシーンで全て分かってしまい、お別れとなるのがベストなのではないでしょうか。

テム・レイを酸素欠乏症にしたのは誰か


テム・レイとの再会シーンで、もうひとつ検討可能性があるとすれば「テムが酸素欠乏症になった原因を、アムロが知る(気づく)かどうか」かなと昔から思っています。

テム「ジャンク屋という所は情報を集めるのに便利なのでな。ここに住み込みをさせてもらっている。こいつをガンダムの記録回路に取り付けろ。ジオンのモビルスーツの回路を参考に開発した」
アムロ「(こ、こんな古い物を。父さん、酸素欠乏性にかかって)」


テムの変わり果てた姿が酸素欠乏症によるものである、というのは基本的には視聴者の為の台詞(説明)だと思いますが、その事にアムロは早くに気づいています。
宇宙世紀時代の酸素欠乏症は素人や子供でも分かる病気なのかも知れないが、医者でもないアムロがいきなり断定的に真相を突く。

冷静に考えればやや不自然だと思うが、テムが最初からアムロをガンダムパイロットとして認識したのと同じく、限られた時間でもっと大事なことをやりとりするための最短手と思えば、処理としては特に問題ないと思います。
テムとは逆に、この時期のアムロはそれぐらい鋭くともそれほど不自然に感じないというのもプラスに作用します。

ただアムロは、父の状態には気づくものの、どういう原因で彼がそうなったのかについては何も言いません。
アムロは実は気づいているけどモノローグも含めてスルーしていて……という仮定は個人的には無いかと思っています。

なぜならばここでアムロが、テムの酸素欠乏症(宇宙漂流)の原因に気づくという要素を入れると、恐らくそちらで頭がいっぱいになってしまうはずで、シーン自体の軸もそちらへ動くし、サイド6での父との別離もしづらくなる、などの問題が色々発生してしまいます。

だから、アムロは酸素欠乏症には鋭く気づくが、その原因については鋭く気づかない。
あえてそういう処理がされていると思います。
もし気づいているなら、別の演出になっていると思うので。
結果として本編は、アムロが決定的なこと(原因)には気づかないようにするが、酸素欠乏症の情報は出したい、といった結構難しい情報のやりとりになっていると思います。

これに気付く(思い出す)のは、受け手の仕事です。
アムロは気付いてない。酸素欠乏症のテムは恐らく何があったのか語れない。
視聴者の我々だけは、テムがなぜああなったのか、その原因を知っている。

このシーン、アムロの父に対する目線や想いとは別に、視聴者だけが持ちうる目線と想いがあって、それが良いのですよね。

再会時に、酸素欠乏症になって以前のテム・レイでなくなっているところが壮絶で本当に上手い。
アムロが何もないまま戦い続ける日々から逃れる選択肢がここでなくなってしまう。

サイド6でアムロと再会した時、テム・レイが元のままだったらどうだっただろうか?
アムロがパイロットで戦果を上げ続けていたことに、親として狼狽してガンダムを降りろと言っただろうか。
開発者として、過酷な戦場をガンダムと戦い抜いたアムロを誇りに思っただろうか。
それとも願いとは真逆に、子供が戦争に参加できるようなモビルスーツを作ってしまったことを後悔するだろうか?
その答えは永久に返ってこない。

ちなみに余談ですが、テムのように本人が変化し語れなくなってしまったので、「原因」との面会で、それが暴露されないままシーンが進む、という意味では、のちの『∀ガンダム』第10話「墓参り」を連想することもできます。

気を病んでしまったハイム婦人と、その娘キエル・ハイムの面会。
目の前にいるのが、我が娘キエルに扮したディアナ・ソレルであることを、ハイム婦人は指摘できる状態ではなかった。
夫の死の根本的な「原因」であるムーンレイスの女王を迎え入れたことは、「墓参り」でのキエル=ディアナの涙へととつながっていく。



ガンダムF91で反復されるガンダム開発者の親と子


兵器であるガンダムの開発に関わりながら、愛する我が子が兵器に関わるのを想像できないテム・レイ。
皮肉なことに、父の作ったガンダムで才能を発揮して戦う息子アムロ・レイ。

この構図は、ガンダム仕切り直しの『ガンダムF91』で再現されます。
この作品でのガンダムを作ったのは、主人公シーブックの母モニカ・アノー。



母モニカも、テム・レイと同じように優秀な技術者です。
しかし自分が開発に関わったガンダムF91に、息子シーブックが乗り、戦場に出ていると知ると狼狽します。

モニカ「自分の子が兵器を扱うなんて……こんなことのためにF91の開発に協力したんじゃありません!」


これに対しては、メカニックチーフのナントにすぐさま手痛い指摘を受けてしまいます。

ナント「じゃあ何ですか奥さん、お子さん以外の者が戦って死ぬのは構わないとおっしゃるのですか?」


これはナントも手痛い批判。ナントは夢の始発駅。
つまりモニカもテムと同じく、自分で兵器を開発していながら、そのコクピットに誰かの息子が乗り込み殺し合いをする、それは自分の息子かも知れない――そういうリアルを全く想定していなかった(できなかった)人です。

仕事としての兵器(ロボット)の開発にのめり込む一方で、自分の子供が意図せず戦争に参加していると聞けば、狼狽するのが人の親と言うものでありましょう。だからそれ自体は当然で普通だと思います。自分勝手な理屈だろうと、我が子だけは別。人殺しなんてしてほしくない。
(その意味でサイド6再会時のテムがもっとガンダムを活躍=人殺しさせようとしていた事に注目したい)

そんな母モニカですが、ラストでは息子シーブックに対して、きっちり親として彼をサポートすることになります。

宇宙漂流する命を救うガンダムF91


鉄仮面カロッゾ・ロナが操る、巨大モビルアーマー・ラフレシアとの戦いの中で、ベラ・ロナことセシリー・フェアチャイルドは父カロッゾによって、宇宙空間に投げ出されてしまいます。



これは『機動戦士ガンダム』とは逆の、大人が子供を、父が娘を宇宙に放り出す、というシチュエーションになっています。
自らを自らの手で改造した鉄仮面(エゴマシーン)によって、命が宇宙に流されてしまうわけです。エゴエゴエゴマシーン、エゴエゴエゴステーション。

ラストでF91と鉄仮面のフェイスが重なっていましたが、マシン(ガンダム・鉄仮面)が肉親の命を宇宙に捧げてしまう、という点で『機動戦士ガンダム』と相似します。

ラフレシア撃破後、セシリーを探そうと慌てるシーブックに、母モニカはガンダムのセンサーと息子シーブックのニュータイプのセンスを合わせることで、宇宙に漂う命(セシリー)を探すことを提案します。

シーブックがダメだ無理だと泣き言をいっても、叱り、諭し、激励して導きます。
カツ、レツ、キッカに出来て、うちのシーブックにできないわけないでしょ!立て。立ちなさいシーブック!(そんなことは言ってない)

その結果、ダイスロールでクリティカルを出したシーブックは、宇宙に漂う命――セシリーを発見することができました。
サンクス! サンクスモニカ!



これには、技術者でもありシーブックの母(親)であるモニカ、彼女がつくったガンダムF91、そして「パイロット適性」のある子供シーブックの3つの要素が不可欠でした。三位一体、一心同体三銃士です。

つまりモビルスーツという兵器の開発者と、開発されたガンダム、そしてそれに乗る息子が協力すれば、宇宙漂流していた命を助けることも可能だったわけです。

宇宙漂流して、我が子アムロと再会した時に、親らしいことが何一つできなかったテム。

いわばこれは「技術者(テム・レイ)が、自らが生み出したもの(ガンダムとそのパイロット)によって、宇宙漂流者(テム・レイ)を救うことができた」という構図であり、ガンダムという兵器を作ってしまった男、テム・レイの救済というか、鎮魂になるのではないでしょうか。なるといいね。なることにしておこう。

ガンダムをつくった技術者として、ガンダムパイロットの親の物語として、テム・レイから始まった絶望を、『ガンダムF91』において、モニカ・アノーにて再演している、と考えれば、『ガンダムF91』のラストによって救われたのは、宇宙に漂わねばならなかった命(セシリー、テム)はもちろん、親でもある技術者(テム、モニカ)、人殺しの道具として生まれたモビルスーツ・ガンダム、そしてガンダムのパイロットになってしまった子どもたち、これら全てでしょう。

だから映画『ガンダムF91』で描かれる物語は、全体のごく一部でありながら、ファーストの再演(仕切り直し)という意味では、きちんと映画で終わっているのではないかと思います。

もちろん、なぜそれを父と子ではなく、母と子によって達成させてしまうんだろう、という指摘はできるでしょうね。
ガンダムで親子の絆を取り戻せるのは母親で、父親は結局また妻に逃げられながら効率の良い人殺し方法を考えている……。

変える女性たちと、変わらない男性たち


実は『ガンダムF91』に登場する主要な女性たちは、本来与えられたポジションを自分で変えていく(いける)人々として描かれています。

ロナ家から飛び出したナディア。
家庭(母親)ではなく開発者を選んだモニカ。
クロスボーンから離反し敵方についたアンナマリー。
血縁であるロナ家から、シーブックと仲間たちの元へ帰ってきたセシリー。

女性たちはみな、本来のポジションから自分の意思で生きる場所を変えています。

その一方で、愚直なまでに自分たちのポジションで、生き方を変えられない男たち。
特に3人の父親、シオ、カロッゾ、レズリーは命を落とします。
(レズリーの守ったポジションは立派ですが、構図と対比として)

このあたりに、シーブックを導く大人として、女性、母親が選ばれたポイントがあるのかも知れません。
まあ有り体にいえば制作者の、自分には出来ないだろうという諦めと、それを女性に期待したいというある意味勝手な願望でもあるのでしょうが……。

細田守もそうですが、富野由悠季も、父親という自分自身も属する存在に対して、自嘲気味で諦観も感じます。そのため父親という存在自体を過小評価する傾向があるようにも思えます。(母性とのバランスが悪い)

繰り返す過ちが、いつも人を愚かな生き物にするわけですが、繰り返すだけの生き物でもないと思いたいですね。
というあたりで今回は終わりにしておきしょう。






余談や参考リンクなど、もろもろ


というわけで、おテムテムこと、テム・レイを中心としたお話でした。おテムテム……。

この記事では省略しましたが、物語上のテムとの最後の別れのシーン。
確か劇場版『めぐりあい宇宙』では、テムの死を暗示するような、アムロが自分の中の父を殺したのを示すようなカットのつなぎがある、というすばらしい記事を、おはぎさんが書いていらしたはずなのですが、私の探し方が悪いのか今見つけられなかったので、確認でき次第、ここに参考リンクとして追加します。

あとこの記事を書いてから知ったのですが、テム・レイのパーツが実はガラクタじゃなかった、という視点の話があるらしいですね。


これが存在するからといって特に何がどうなるわけでも無いですが、いろんなところからネタを拾って膨らませないといけないから、この業界も大変だな、とは思いました。機会があれば読んでみようかなとは思います。

それから、記事の細かい手直しをして公開する直前にバズってた、あでのいさんのツイート。


ツイートは続いているので、ぜひ全体を読んでいただきたい。50、60喜んで(右ストレート)。

さらに、以前、坂井哲也さんが書かれた富野作品での父親に関する記事。

富野作品で、これまでと違うタイプの「主人公の父親」が描かれる日はくるか。
https://tominotoka.blog.ss-blog.jp/2018-08-02


大変すばらしい記事なのでぜひ読んで頂きたいですが、本記事との関連を見出すなら以下の箇所。

 これは、ファンとしては非常に書きづらいのですが、富野作品における「主人公と父親」の関係って、濃淡の違いはあれど1種類しかないと思います。

 自身の研究にしか興味がない父親と、それを拒絶する子、です。

※太字強調、筆者。

父親なんてどうしようもないものだから、子供はこれを拒絶して生きていけばいい、というわけで、実際にアムロも「テム・レイ殺し」を二度ほどして成長していったわけです。
それは、先に書いたように、自分の父がそうだったし、自分自身もそうであるという諦念と自嘲もあるでしょうが、見方を変えれば「甘え」でもあるでしょう。

女性であり母であるモニカみたいに子供と向き合って導くことなど父にはできない。
こういう悲しい生き物なんだから許してね。

ということでもある。甘えでもあるし、研究開発(いちばん楽しいこと)を邪魔するなよというある種の脅しでもある。(なんか村上龍みたいになってきた)

こうしたところが魅力でもあるので難しいところだけれど、色々と踏まえた上で、坂井さんの新しい「主人公の父親」を見てみたいという意見に、私も全面的に同意したいと思います。
(坂井さんも丁寧に書いているが、富野の描く父親の否定ではない)

最後に。
『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンの父フランクリンは、前半の主役機ガンダムMk2の設計者で、これ自体は、テムとアムロの関係と同じです。
しかし、後半の主役機Zガンダムの基本設計はカミーユ本人のアイデア。

開発者の父にもらったガンダム(Mk2)は見掛け倒しのフェイク。
本当に乗りたい自分だけのガンダム(Zガンダム)は、自分の手で作ればいい。

この作品については、親の設計でなく、主人公の少年が設計した可変ガンダムこそが作品タイトルにもなる真の主役機である、という構造が重要かと思います。詳しくは以下をご覧ください。

Togetterまとめ:「ガンダムが「ガンダム」である意味」
https://togetter.com/li/630810

それではまた次回。

あ、そうそう、冒頭で書いた、小脳梗塞の影響で幻覚に踊り、妄言を吐いていた私の父。
症状が落ち着くとすっかり元の状態に戻りました。つまらないけど、戻ってよかった。
ただしその後、何か都合の悪いことになると、「俺は脳の一部が死んどるから仕方ない。そう責めるな」とやたら言い訳に使うクソジジイになりましたので、流せるものなら宇宙に流したい。
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素晴らしい考察でした。

テムに関する長年の疑問に対する、ひとつの解答を見た気がします。

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