お久しぶりでございます。
気力、体力、時の運すべてが欠けており、間が空いてしまいました。
特に誰かに更新を期待されているわけでもないのですが、FC2ブログでは未投稿一ヶ月で邪魔な広告が出てしまいますし、それにも関わらず訪問してくださる方もいらっしゃるので、申し訳ないとそれなりの罪悪感は感じております。

はるか過去の前回記事は『戦闘メカ ザブングル』の世界構築に関する記事でしたね。
『ザブングル』ネタの割には想定よりは多くの方に見ていただけたようです。
似たような記事書いても『ガンダム』とそれ以外の作品では反応が全然違うわけですが、ブックマークも2ケタ頂きましたし健闘といってよいでしょう。

ブルーストーン経済によるシビリアンコントロール<『戦闘メカ ザブングル』惑星ゾラ開発史>

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今回は、その補足記事という補遺拾遺というか、おまけのような関連記事です。
記事にする際に漏れたことや後で思いついたことなどあれこれをまとめてみました。
だったら前回記事と間隔空けるべきじゃないよね!それは分かってる。25時の電話のベル、土曜日の仕事。
とにかく溜息で塗り替えられた久しぶりの記事をご覧ください。



『戦闘メカ ザブングル』と『∀ガンダム』に見える共通構図


前回記事を書くきっかけとなった、kaito2198さん(TOMINOSUKI / 富野愛好病)の『ザブングル』記事のコメント欄で興味深いやりとりがありました。
『ザブングル』と『∀ガンダム』に共通する構造についてのものです。

『戦闘メカ ザブングル』誕生秘話(上)(のコメント)
http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-1099.html

確かに『ザブングル』と『∀ガンダム』は少し似ているところがあって、私も『ザブングル』記事を書いたときに、『∀ガンダム』を連想して、あれこれ想いを巡らせたのを覚えています。

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私が注目する2つの作品に共通するものは「ディアナ・カウンター(『∀ガンダム』)もイノセント(『ザブングル』)も月から地球へ降りてきた」といった形式上のことではなく「2つの異なる人類が、ひとつの世界の中で接触する」という構図です。

この「違う人間同士が、同じ世界の中で接触したときにどうなるか?」という構図は、富野アニメの基本のひとつと言ってもよいですが、『∀ガンダム』と『ザブングル』もそのバリエーションといえるでしょう。

富野作品に多く見られるこの構図は、いくつかのパターンがあるので、キャラクター配置も含めて、分析するのが面白いと思います。
私もきっちりやったことないので、機会(という名のやる気)があれば記事書きたいと思います。

『∀ガンダム』と『ザブングル』の場合は、その中でも
「テクノロジーレベルが大きく違う二つの人類が、ひとつの世界(地球)で同居した時に発生するドタバタ」というパターン。
ですから、似たような文明レベル同士の異星での接触である『イデオン』は、少し違うパターンになりますね。

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例えば『∀ガンダム』の世界では、ディアナ・カウンターの地球帰還作戦のタイミングや、降りる地域、指導者の設定などを調整すれば、一方的に地球人を支配して、『ザブングル』のイノセントのような上位存在として君臨することもできます。それぐらいには月と地球の2つの人類には、テクノロジーレベルの差がありました。

もちろん『∀ガンダム』は、月から来た人類が地球を侵略し支配する物語ではありません。
そうならないように一機で戦力均衡がとれるようなモビルスーツである∀ガンダムを地球側に用意しましたし、それを「命を大事にしない人とは誰とでも戦う」、月から来て地球っ子になったロランという中間存在に扱わせました。
月の指導者がディアナ・ソレルで、ロラン・セアックが∀ガンダムに乗る限りは双方全滅戦争には絶対ならないわけです。

一方『ザブングル』の場合は、すでに支配体制が確立された状態から物語は始まり、それを主人公ジロン達が破壊して終わります。

私たちと遠いシビリアン、近いイノセントとジロン・アモス


支配階級イノセントの立場・考え方は、私たち現代人に近いものがあります。
地球のどこかには環境からかシビリアンのメンタリティに近い人々も存在すると思うけれど、日本人の私たちが近いのは、やはりイノセントになるでしょうね。
イノセントは、地球を崩壊させてしまった未来の私たちと言ってもいいかも知れない。
そのイノセントが次代の人類として、実験を進めるシビリアンは、三日経つと全て忘れて刹那的に人生を楽しむような生き方で、我々の感覚とはかなり違いますね。
でも、荒廃した世界で生きる惑星ゾラ人としては自然なことです。

そんな中「三日過ぎても両親の復讐に燃え、仇を追い続ける」という主人公、ジロン・アモスが現れます。

ただ『ザブングル』序盤において、この主人公ジロンは、ラグ達に非常識だと笑われます。
私たちの感覚では、肉親が殺されたのに三日過ぎたら仕方ないものとして諦めるということが理解できないので、常識的な反応を見せるジロンに共感し、彼を笑うラグたちが非常識だと感じます。
異世界での常識的ふるまいを見せるキャラクター(ラグ達)と、視聴者の感情移入先にして特異主人公ジロン・アモスの対比シーンです。

三日を過ぎても両親が殺されたことを過去のものとしないジロンは、私達に近く、とても理解しやすい。
でも私たちの感覚(精神性)に近いジロンの方が、本当に人間として好ましいものなのでしょうか?幸せなのでしょうか?

イノセントとシビリアン、どちらがよりよい人類なのか?


両親が殺された復讐を動機に戦い続けることは、物語の型として大変理解しやすいわけですが、それは本当に幸せなのでしょうか?
憎しみを3日で忘れて連鎖させず、自分自身の幸せや楽しさを追求する方がよい人生なのでは?
文明・文化を持ちながら戦争で地球を一回滅ぼすぐらいなら、三日で全てを忘れて享楽的に生きる方が好ましい人類なのでは?
果たして、イノセント(私達)のメンタリティはシビリアンと比べて、そんなに上等なものなのでしょうか?

そういうことを昔から思ったりしています。
皆さんはどう思われますか?

でも、どちらが良いのかという問題とは別に、ラグ達の考え方は否定されなければならないものです。

それは三日限りの掟が、彼女たちが自然に、または自発的に選択したものでなく、他人から与えられたものだから。
正確にいえば支配者イノセントがそうなるように人為的にコントロールしたものだから。

与えられたシステムとルールの中で盲目的に生きる仮の生には、良し悪し以前に意味がない。

だから、ジロンは盗んだ(ウォーカー)マシンで走りだす。行き先も分からぬまま。
そして、行儀よく真面目なんて出来やしなかったので、イノセントのドーム壊して回った。
逆らい続け、あがき続けた、早く自由になりたかった。
そしてXポイントでこの支配からの卒業です。
仕組まれた自由に、誰も気づかずにあがいた日々も最終回で終わります。

ジロン・アモスのダブルスタンダード


ジロンはこうして「イノセント・ワールド」を終わらせたわけですが、この時ポイントになると思っているのが「ジロン・アモスのダブルスタンダード」です。

彼は物語序盤、復讐のために新型ウォーカーマシン「ザブングル」を盗むわけですが、三日逃げ切って自分のものにしようと考えていました。
でもそのザブングルで何をするかといえば、三日以上経過した親のカタキを討つことです。
ひとつの目的のために、一方では三日限りを無視し、一方では三日限りを利用しようとする……完全にダブルスタンダードですね。

このジロンのダブルスタンダードは、劇中でもラグ達に批判されています。
ずるく都合のいい考え方なのだから、その批判自体は正しい。

ただ、このダブルスタンダード批判は、あらゆる事象を「三日限りの掟」で裁くことを前提にしている。
パンを1つ盗んでも三日だろうし、親や恋人が殺されても同じく三日。全てが三日の掟。

ジロンは「両親の死」という情愛の部分では完全にこのルールを無視し、復讐という行動の部分では逆にルールを利用しようとしている。
基準はあくまでジロン本人の感情だから、他人から見るとダブスタの身勝手ではある。だが、なぜ「両親の死」を受け止めるのに、上位存在に決められたルールの枠内で収めなければならないのか。
そこには「掟だから」以外の理由はない。実際、ラグ達のジロン批判もその範囲に留まっている。
なぜルールを守らなければならないのか、に対して「それがルールだから」しか理由がないのであれば、それは実装されたルールの方が間違っている。
(もちろんイノセントの思惑としての理由はあるのだが、シビリアン自身には三日の理由は無い)

イノセントの支配体制を破壊するという主人公であれば、ルール全否定でもいいのでは?と思わないでもないですが、復讐という目的の達成のために既存のルールをちゃっかり利用するのが面白いところです。
ジロンはルールの逸脱者ですから気にしませんが、「掟」を守る側は被害者になっても守る必要があります。
ザブングルを盗まれて三日経過すれば、ジロンを正当な持ち主として認めねばなりません。それが掟です。
この世界に生きる人々が掟に縛られている以上、ジロンにとっては積極的に利用して損はありません。
掟破りのジロンを追いかけるには、掟を破るしかないわけですから。
そして実際にジロンに巻き込まれる形で、掟から逸脱するキャラクターが続出していく。

だからジロンは単に全ての破壊者でもなく、かといってイノセントに成り代わるわけでもない。
『∀ガンダム』での境界線上のキャラクター、ロラン・セアックのように、イノセントでもなく、シビリアンでもない、ハイブリッドな存在であるべきだったんだろう、というようなことを長年思っています。
『ザブングル』をもう10何年見直してないので、これ以上掘り下げることはできないけれど。

『ザブングル』での分野別キャラクター配置


『ザブングル』では、主人公ジロン以外にも、今の状況を変えようと潜在的に考えているキャラクター達が分野ごとに配置されています。
例えば文化かぶれのエルチとその影響下にあるプロポピエフ一座。
イノセントから与えられたマシンから設計図をおこして、将来的には自作を考えていたメカマンのコトセット。

「軍事・戦闘」分野でイノセントに対抗するのが、ジロンとラグ達サンドラットの連中とすれば、
「文化・芸術」分野では、エルチ。「科学・技術」でコトセット。
こうして分野別に考えていくと、「政治・経済」キャラがアイアンギアに存在しない。

だから物語の途中から「政治」キャラクターとしてのカタカム・ズシムが登場する。

『ザブングル』を見た人からは評判の悪いカタカムだが、私はキャラクター配置上、「政治」キャラクター自体は必要だと思っている。
ただし、初期からアイアンギア・クルーにして行動を共にしておく必要があったはず。
問題解決として、親イノセント(穏健派)のエルチ、反イノセント(強硬派)のジロンやサンドラットとは別の、第三の政治的解決を目指すキャラクターとして。
カタカムが物語のあのタイミングで、あのキャラとして登場するしかなかったというのは、当時の『ザブングル』制作状況がストレートに影響していると思うけどね。

ちなみに、その後の作品である『∀ガンダム』では御曹司ことグエン・サードがこのポジションに当たる。
政治的解決を試みるが、あれこれあって、うまくいかない人物として描かれる。
(恐らく『ザブングル』でも、テーマ的に「政治家」のキャラクターはこれに近くなるでしょうね)
『∀ガンダム』の初期キャラクター配置は、すばらしい。
そこからのキャラクター展開はまた別の話だけど、キャラ配置については『ザブングル』などと比べると、より良くなっていると思っています。

さて、この分野別のキャラクター配置を使って、ひとつ遊んでみましょうか。

死と破壊と混乱をもたらすと言う、演劇集団「劇団死期」


もし『ザブングル』をリメイクというか、スピンオフのような作品を作るとするなら、という設定で、ネタをひとつ考えてみましょう。

各地を回りながら演劇興行するランドシップ劇団の話というのはどうでしょうか。
世界を旅しながら、「文化・芸術」キャラが失われた文明の物語を集めて復刻し、それを演劇の形で再現します。
失われた物語は要するに私達にはなじみの深い物語だ。時折、ストーリー復元の過程において、勘違いや混同などから、元ネタを知っている私達には奇妙なストーリーになったりもするだろう。

そして、演劇活動を隠れ蓑に「政治家」はレジスタンス活動を進めているが、ブレーカーやサンドラッドのような「軍事・戦闘」キャラ達は、山賊みたいに敵を倒して宝を奪う活動だと思っている。で、皆が自分のやりたいことを好き勝手にやる裏で、「経済」キャラクターが演劇とドンパチの収支に常に頭を悩ませている……。
かくして、演劇で人々を楽しませるものの、戦闘や強奪で結局しっちゃかめっちゃかになり、逃げるように別の土地へ去っていく、というのが物語のパターンになるだろう。

とまあ、分野別のキャラ配置を利用して、再配置したひとつの例として考えてみました。

でも、可能性としての新しい「イノセント・ワールド」を想像するぐらいはいいだろう?Mr.myself的に。
今さら新しい『ザブングル』を考えても仕方ないかも知れませんが、また何処かで会えるといいな、とは思っていますので、その時は笑って、二次の彼方へ放とうと思います。妄想によるイノセント・ワールドを。
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