
『ドラゴンクエスト』公式サイトへ
私は初代『ドラゴンクエスト』をリアルタイムで体験した世代だが、シリーズとしては6までしかプレイしていない(つまりSFCまで)。
「RPG」という言葉や存在を知ったのは恐らく本や雑誌(ベーマガとか)で、それは『ドラゴンクエスト』より少し前のことだと思うが、実際に自分で購入しクリアまでした最初のRPGは『ドラゴンクエスト』のはず。
そんな私がこれからする話は、当然ながら今更ゲームシステムや物語の考察でもなく、作品レビューでもなく、『ドラゴンクエスト』にまつわるいくつかの思い出話になる。
無知な素人が例えば、ゲームの歴史とか革命とか、やたら大きなものを語っても意味のあるものにはならないだろう。
ということで要するに“『ドラゴンクエスト』思い出語り”をするわけだが、個人が今更『ドラゴンクエスト』の話をWebに追加するとしたら、こうしたマイナーでローカルで、個人の実体験に基づくエピソードの方が価値があるのではないだろうか。
「ない」と言われると終わるしか無いので、「ある」ことにして先を書き進めることにする。
『ドラゴンクエスト』(FC:1986年5月27日発売)
『ドラゴンクエスト』第一作目を、私は友人のファミコン版で見たはずで、ぜひこれは手に入れなければ、と思ったのだろう。自分でも購入することになる。MSX版をな!
(このあたりの難儀さと悲哀があるが割愛)
Wikipediaによると、MSX版の発売はファミコン版の半年後あたりであったらしい。
『ドラゴンクエスト』(FC:1986年5月27日発売)
『ドラゴンクエスト』(MSX:1986年12月18日発売)
半年後とはいえ同年に発売してくれて御の字であろうし、発売日を見る限りクリスマスプレゼントでの購入だろう。
手に入れた『ドラゴンクエスト』を熱中してクリアしたことは、今も断片的だが覚えている。
(スタート時、たけざおで何とか乗り切る派だった気がする)
「ふっかつのじゅもん」って知ってるかい?
自分でも『ドラゴンクエスト』をクリアしたあとの出来事。どのくらいあとのことなのかは覚えていないが、発売翌年とかそういうレベルだと思う。
自宅から車で少し行ったところに祖父・祖母の家があり、歩いてすぐの距離に親戚の家があった。
そこにはひとつ年上の男の子がおり、兄貴分的な感じで当時たびたび遊んでもらっていた。
その日も歩いて遊びに行ったが、あいにく不在だという。
ただ、そのうち帰ってくるだろうから待っていたら?とのことだったので、勝手知ったる親戚の家。上がり込んで、待たせてもらうことにした。
リビングに入ると、親戚の子の姉にあたる、お姉ちゃんがファミコンをしていた。
それが『ドラゴンクエスト』だった。
お姉ちゃんはもう中(もう中学生)で齢も離れていたし、特に親しく遊んでいたわけでは無かったし、すでにクリアした『ドラゴンクエスト』だし、1人用のゲームだし、ということで、横目で見ながら、マンガでも読んで帰りを待つことにした。
姉ちゃんのドラクエは、私が訪れる前からプレーしていたのもあって結構進んでいたと思う。ファミコンで遊んでいるところを見たことが無かったので「へー、ゲームするんだ意外だな」という感じだった。
しかし、あるタイミングで驚くべきことが起こる。
姉ちゃんはプレー中、おもむろにファミコンの電源を落とした。
「!!?」
衝撃を受ける子供の私。
確か「ふっかつのじゅもん」を表示していなかったし、書き取った形跡もない。
つまり、それなりにプレーが進んでいるドラクエを保存もせず、いきなり終わらせた。
いまだ動揺する私をよそに、姉ちゃんは立ち上がり
「今日は呪文○つまでしかいけなかったな」
と、つぶやいて部屋を出ていった。
○には数字が入るが、記憶がすごく曖昧で、よく覚えていない。
そこで、FC版『ドラゴンクエスト』序盤の呪文習得レベルについて検索してみると、こんな感じ。
習得レベルと呪文
レベル3 ホイミ
レベル4 ギラ
レベル7 ラリホー
レベル9 レミーラ
レベル10 マホトーン
かすかな記憶と、レベル9、10ってスタートから普通にプレイして何時間かかるんだろう?と考えると、レベル7のラリホーあたりまで進んでいたのでは、という気がする。
そこから推測すると、姉ちゃんのつぶやきは以下のようなものだったのではないか。
「今日は呪文3つまでしかいけなかったな」
レベルではなく、呪文をいくつ覚えていたかを進行度の目安にしていたことも面白いが、「今日は」という台詞からは、何度かこういう遊び方をしていることを伺わせる。もしかするとレミーラやマホトーンを覚えるまで行ったこともあったかも知れない。
……何度か?
最初からドラクエを始めて、それなりにゲームが進んだあとに、おもむろに電源を切る遊びを?
何度か?
多分、そうなんだろうと思う。
今から考えるとなぜ?と不思議に思うかもしれないが、そもそも「RPG」という遊び方になじみがまだまだ薄い時代。
しかも、いつもはファミコン(ゲーム)やらないお姉ちゃんが、説明書や攻略本などを見てる形跡もない。
RPGとはどういうゲームで、どのくらいのボリュームがあり、どこまで遊ぶのか、白紙の状態で遊ぶと結構分からないものなんじゃないか、という気がする。
RPGはじめて物語というか、明治維新の文明開化で、よく分からないものに初めて触れる日本人のおもしろエピソード的な。
ちなみに、姉ちゃんがドラクエをやめてリビングを出ていってから、しばらくして親戚の兄ちゃんがご帰宅。
私は、驚きのドラクエいきなり電源OFFについて話した。「ふっかつのじゅもん」を知らないんだろうか?
すると「バカじゃねーの?どうせ知らないんだよ。いいよ、それより遊ぼうぜ」みたいな答えが帰ってきたと思う。
『ドラゴンクエスト』による、より開かれたゲームの世界
とはいえ。
『ドラゴンクエスト』では、「ふっかつのじゅもん」というパスワードをメモして、ゲーム進行を保存することについて、ゲーム内で(というかスタート時に)チュートリアルとして情報は与えられてたはず。(プレイ環境が無いのでセリフは覚えていないが……)
仮に推測通り、何度かノーセーブプレイをしているだとしたら、なおさら全くその存在を知らないというのはありえないのではないか。
私の推測では、「ふっかつのじゅもん」システム自体は知っていた可能性は高いと思う。
恐らく、そもそも特別ゲームが好きでもない姉ちゃんにとっては、弟がいない(ファミコンが空いてる)時にやる、気まぐれの遊びでしかなく、その中でシューティングやアクションのような反射神経と慣れが不必要なゲームとして『ドラゴンクエスト』が選ばれたのではないか。
その『ドラゴンクエスト』も、「ふっかつのじゅもん」をメモまでして、何度も再開し、最後まで遊ぶつもりはなく、それなりに戦闘や冒険を楽しんだら、あー面白かったと電源を切るような遊び方で満足していたのではないかと思う。
(そう考えると、SFC時代になるがドラクエにしてローグライクである『トルネコの大冒険』がぴったりな気がする)
経験値1も1ゴールドも血の一滴、と思っていた小学生の自分にはあまりにもショッキングな遊び方だったが、大人になった今ではそういう遊び方もありだし、何も問題は無いと思える。
というか、Steamでインディーゲームをいくつも買ったあげく、少しだけ遊んで「なるほどなー、こういうゲームか。面白いな」と言いつつ、浅瀬でゲームをやめてしまうのを続けている今の自分は、限りなくそれに近いのでは――(考えるのをやめた)。
この記事を書く少し前。
法事で親類の集まりがあり、そこに親戚の兄ちゃん(というか、お互いおじさんだが)が来ていた。姉ちゃんは不在。
昼食の後、お茶を飲みながら世間話をしている時に、ふと思い出して、この「ドラクエいきなり電源オフ」について訊いてみた。
やはりというか覚えていなかったが、いくつか当時の情報を手に入れた。
(これが、今回いきなりドラクエの記事を書いた理由ときっかけでもある)
・そもそも姉がファミコンをやっていたという記憶がない。
・ゲームに興味ないと思っていた。
・ドラクエをプレイしていたという記憶も特に無い。
・恐らくクリアするまでドラクエをプレイしていないんじゃないか。
ファミコンはこの兄ちゃんの所有物だったので、そもそも弟がいる時にわざわざゲームをやってなかったのだと思う。まあ姉弟間で、オレのファミコン勝手にやるんじゃねーよ的な色々があったのかも知れない。
実際に、私が兄ちゃんとファミコンと、アクションやシューティングなどで遊んでいる時に、参加することは無かった(今から考えると、小学生男子2人の『ツインビー』とかに、中学生女子がわざわざ混ざる理由がそもそも無いけど)。
たまたま、兄ちゃん不在時に私が訪れたことで、姉ちゃんの「ドラクエおもむろ電源オフ」というレアプレイが見れたわけだ。
結果から見れば、弟の不在を選んでゲームをしていたわけで。
弟には観測されなかっただけで、ゲームには興味はあったのだろう。
ただ当時プレイしていた『アーガス』だの『マッハライダー』だの『スーパーチャイニーズ』だのに興味があったわけではなく、やっぱり『ドラゴンクエスト』というか、RPGに興味があったのではないだろうか。
いわゆるゲーム慣れしていないと、アクションやシューティングは楽しみを得づらい。
しかし『ドラゴンクエスト』に反射神経や巧みなコントロール操作は必要ないし、剣と魔法の世界としてちゃんと物語があり、冒険があり、選択肢を選ぶだけで戦えるバトルがあり、それを積み重ねればゲーム内のキャラクターが成長して強くなってくれる。
弟が『ドラゴンクエスト』をプレーするのを横目で見ながら、「面白そう」「私にもできそう」と思っても不思議ではない。
『ドラゴンクエスト』を代表とするファミコンでのRPGが、我々小学生男子に与えた影響は本当に大きかった。
でもそれ以上に、小学生男子的な身体性やスコアや勝負も必要のないゲームとしてのRPGが、女の子や大人に与えた影響はもっと大きいのかも知れない。いやアクション系が苦手な(好きでない)人全般と考えれば、ゲームが下手な私自身もそこに含まれる。
当時、RPGの利点として、プレーを続ければゲーム内のキャラクター側がどんどん強くなってくれるから、がんばれば誰でもクリアできることが、よく唱えられていたような気がする。
それぐらい「ゲームクリア」は一部の人のものだった。
もちろん実際は、レベルさえあげればクリアというほど単純なものでは無かったが、初期にファミコンでRPGという概念を普及させるにあたっては「万人に開かれたゲーム」というイメージに一役買っていたのだろうとは思う。
ちなみに、法事で会った兄ちゃんには別れ際に、「姉ちゃんにドラクエ1クリアしたかどうか、訊いてみて」と頼んでおいたけど、恐らく答えは「覚えていない」か、もしくは覚えていても「クリアしていない」だろう。
でも、毎回最初から初めて、満足したら電源ごと切る『ドラゴンクエスト』。
それでよかったんだろうと思う。多分ね。
『ドラゴンクエスト』 のテキストで物語を作る「ドラクエ文体」事件
もうひとつ、思い出話。
時代や教科書にもよるのだろうが、私が小学校の時に「空想の物語を書いてみよう」という授業があった。確か教科書には、架空の地図のイラストが載っており、それを見ながら空想の翼を広げてみよう、というものだったような気がする。
グループSNEの安田 均さんが「ファンタジーの本質は地図にある」と語っておられたが、その意味ではなかなかよい課題だ。
本来は、教科書掲載のサンプルとしての架空地図から、子供たちがそれぞれ物語を作り、同じ地図をもとにさまざまなバリエーションの物語ができるね、というものだと思う。
だが私の担任は、地図からの空想でなくともいいので、なにか短い物語を書いてみようと、地図制限のない課題に変更していたような気がする。
でも、物語をどう書くかみたいな授業は無かったと思うんですよね。
ノウハウは全く教えず、子供に自由に書かせてみようという、読書感想文のようなやり方。
今から考えれば、事前にある程度ノウハウ教えたり、フォーマットを用意して埋めていくようなやり方の方が多少まともな作品が書けるのでは、と思うが、これらが全く無いことが面白い方に作用することを当時の私は知ることになる。
多分、1週間ぐらい猶予があり、先生に提出し、授業で少し発表などもあった後、それぞれが書いたノートが手元に戻ってきた。
当然、他のみんながどんなお話を書いたのか気になり、ノートを交換して読み合いなどが始まる。
その中にひとり、私が衝撃を受けたお話を書いたクラスメイトがいた。
とりあえず文中で呼びやすいように「Aくん」と呼称することにする。
Aくんのお話は、読んで一目瞭然。
ほぼ『ドラゴンクエスト』 に登場するテキスト、特に戦闘シーンのテキストだけで組み立てられていた。
もちろん彼が書いた内容の詳細は覚えていないが、普通にドラクエの戦闘シーンのテキストを連想してもらえばいいと思う。
あくまでイメージだし、ドラクエ1テキストの正確な引用でもないが、Aくんの小説を少し再現してみよう。
スライムがあらわれた!
○○○のこうげき (※Aくんの設定した主人公の名前。ひらがな表記)
○○○は、3のダメージをあたえた!
スライムのこうげき
スライムは、2のダメージをあたえた!
○○○のこうげき
○○○は、3のダメージをあたえた!
スライムをたおした
ほぼ、このようなテキストがノートにびっしり書いてあったと思う。
いわゆるドラクエの戦闘シーンで表示されるメッセージをそのまま使って、バトルを表現しているわけです。
ドラクエをベースにしているので、主人公のセリフも、モノローグも何もない。
戦闘シーン以外をどう表現していたのかは、ぼんやりとしか覚えていないが、昔のアドベンチャーゲームのようなシンプルなテキストだったように記憶している。
・北へすすんだ。南へすすんだ。
・△△△のまちに入った。
・王様と話した。
・やくそうを買った。
実際に文章で使われていたのかは分からないが、ニュアンスとしては上記のようなイメージ。
『ドラゴンクエスト』 以後のことなので、私を含む読んだクラスメイトたちは当然、ドラクエのテキストだ!と気づく。
別にゲームブックになっているわけではないので、「にげる、しかしまわりこまれてしまった!」も、Aくんのさじ加減ひとつやないか、と思いながらも、ゲームでなじみのある文体なので、プレイしている子供にはある意味とても読みやすい。
何が行われて、何が起こったのか。ドラクエプレーヤーには分かりやすく、高いリーダビリティがある。
いや正確に言えば「読んでいない、読みやすさ」か。
『ドラゴンクエスト』=文字をたくさん読むゲーム
戦闘テキストについては、私が『ドラゴンクエスト』 をプレイしていた時に、画面を見ながら母親がつぶやいた一言を今も覚えている。
母「こんなに文字ばっかりたくさん出てきて、しかもすごいスピードで流れて、よく読めるね。楽しいの?」
母親は『ドラゴンクエスト』のことを、「たくさん文字を読むゲーム」だと認識しており、だからこの一言になるわけだが、実際のところ、プレーヤーはすべての文字をきっちり読んでいるわけではない。
特に戦闘シーンでは、テキストのフォーマットはきちんと決まっている。
先程、Aくんの小説にも使われていたように「○○○は、3のダメージをあたえた!」で、変動するのはダメージの数値だけだ。
戦闘の流れとしてテキストは流れていくが、一言一句読む必要はない。
どちらが先手か、攻撃は当たったか回避されたか、敵から逃げられたか、敵を倒したか。
戦闘の流れを掴みながら、あとは変動する数値でも把握すればよい。
だから慣れてしまえば、いわゆる文字、文章としてはほとんど読んでいないということになる。
あくまでゲームデザイン上の情報表示であり、小説などとは言葉の役割が違うからこそ、『ファイナルファンタジー』シリーズのように情報表示の置き換えができることになる。
例えば『ファイナルファンタジー』では、攻撃キャラクターが実際に剣を振るアクションをし、その攻撃が命中した敵キャラクターの上に「9999」とダメージ数が直接表示されたりする。
これにより「○○○のこうげき、○○○は、3のダメージをあたえた!」が、文章が不要な情報表示に置き換えられている。

ファンタジー小説ではなくゲーム小説
話が逸れたので、Aくんの「ドラクエ文体」小説の話題に戻ろう。
Aくんの小説は、大きなインパクトがあり、ゲーム好きのクラスメイト(私含む)に好評だったが、正直なところ、ドラクエの戦闘テキストでノートを埋めた感があり、構成としてはかなり単純だったと思う。
要は、移動→戦闘(ドラクエ文体)→移動→戦闘(ドラクエ文体) のような形で、同じことの繰り返しが書いてあり、時間切れのような形で話は終わっている。
(終わりに関しては私含め皆似たようなものだったろうが)
ノートをチェックした先生はどう評価したのだろうか?
定型文のようなテキストが繰り返されているし、もしゲームのテキストであると気づいたのではあれば、自分の空想を物語にするという課題にはそぐわないと思ったのかも知れない。
(それなら物語の書き方の基礎みたいなところを教えて欲しいけれど)
当時の私も、Aくんのドラクエ文体小説を楽しんで読みつつも、私自身は一応、課題どおりにオリジナルの話を四苦八苦して書いたので「ちょっとずるいな」と思った覚えはある。
ただ、そんな自分がそれなりにがんばって書いたものは一切覚えていない。
恐らくまともな話の形にもなっていなかっただろう。
でも、Aくんの「ドラクエ文体」小説は、今こうして書いているように印象深く覚えている。
ある意味、もっとも強いインパクトを受けた「ドラクエ小説」であることは間違いない。
タイトルや固有名詞はさすがにそのままでは無かったような気がするが、ある種の「リプレイ小説」にも近いのではないか。(私がTRPGのリプレイ小説の存在を知るのは、もっと後の話)
そして、あえて大げさに書くなら、このあたりの想像力や発想力の延長上に、いわゆる「ゲーム的な小説」があるように思う。
ファンタジー世界を描く手法の一種ではなく、まずゲームという存在ありきで、そのゲームの世界を描く物語。
ファンタジーなのは、そのゲームの世界観がファンタジーだからであって、描くもの自体はあくまでもゲームの世界。
そして、それらの認識や知識が成熟し、共有化されながら、いわゆる「なろう小説」などのゲーム的ファンタジーノベルの隆盛の土壌となっていったりしたのだろうか。(この方面、全く詳しくないので、あくまで土壌としての話)
それにしても。
いきなり「物語を書け」と言われて困惑するのは、同じ課題を出されたものとして分かる。
当時流行りのRPG風冒険ファンタジーみたいなものを題材に選ぶのもすごく分かる。
しかし、自分の中でドラクエぐらいしか材料が無いから、ドラクエ文体そのままで書いてしまおうというのは、やはり今考えてもなかなかすごいと思う。
(これは私の推測だが、Aくんの人となりを知っているので恐らくそうではないかと思う)
もしかすると単なる、宿題の文字数を何とか埋めるための奇策だったのかも知れないが、私には無い面白い発想だった。
だから、あの時に私が本当にすべきことは、この「ドラクエ文体」小説のフォロワーとして、自分も書いてみたり(すぐにマネできるわけだから)、例えば『桃太郎』のような童話をドラクエ文体で書いてみたり、戦闘以外の部分をどうドラクエっぽく表現するか考えてみたり、ドラクエ風ゲームブックを作ってみたり、とにかくクラスに「ドラクエ文体」小説ブームをつくることだったような気がする。
「ドラクエ文体」小説のフォロワーになれなかったことを今でもたまに悔やむことがある。