ナナイ・ミゲルからシャア・アズナブルへの質問と確認と安堵と絶望 <映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でのすれちがい宇宙>
アニメ富野由悠季映画逆襲のシャアシャア・アズナブルナナイ・ミゲルガンダム
2022-10-27
劇中、ネオ・ジオン総帥となったシャア・アズナブルと、その部下にして恋人ナナイ・ミゲルが、シャアの私邸?で会話するシーンにこんなやりとりがある。
ナナイ「クェス、よろしいんですね?」
シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」
ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」
このすれ違い!
このすれ違い会話がいつ見てもたまらない。
ナナイの質問は明らかに複数の意味を込めている。
だから、シャアの回答でも間違いではない。
間違いではないが、コミュニケーションとしては完全にすれ違っている。
はたしてナナイは何を確認したかったのか?
今回は映画『逆襲のシャア』から、ナナイとシャア、大人の男女2人がお酒を飲むこのシーンだけに絞り、公私ともにパートナーであるはずの2人がする、すれ違いの会話を丁寧に追ってみたい。
なのでモビルスーツやファンネルの血湧き肉躍る話は一切出てきません。
(もうファンネルのことは書かんでええやろ!)
※小説などもありますが子供の頃に読んだきりですし、あくまで映画を材料に話を進めます。
公私共にシャアを支えるパートナー、ナナイ・ミゲル
伊東マンショ、中浦ジュリアン、ナナイ・ミゲル、そしてブルーノ・サンマルチノ。
※よいこのみんなへ
4人並べるネタで、2人ボケちゃダメ。半々になってフリもボケもブレるから。
しかもナナイじゃなくて、サンマルチノがいちばん言いたいからって最後に置くのもっとダメ。
本題に入る前に、人間発電所ブルーノ・サンマルチノの基本プロフィールを確認しておこう。
ナナイ・ミゲル(声 - 榊原良子)
ネオ・ジオンの戦術士官で大尉。ニュータイプ研究所の長も務める。シャアと個人的にも親しく、思いを寄せている。軍事では参謀として、私的な場では恋人として、彼を公私にわたってサポートする。軍人としては部下に厳格な面を見せる。シャアが連れてきたクェス・パラヤをシャアから任され彼女を強化するが、彼女に対して多少の嫉妬も抱いており、何かとクェスをかまうシャアに苛立ちを見せることもあった。
Wikipedia:機動戦士ガンダム 逆襲のシャアの登場人物
ナナイ・ミゲルは、シャアの公私を支えるパートナーという重要なキャラクターだが、『逆襲のシャア』にて初めて登場する。
ハマーン・カーンを映画用に、可愛げと従順さを強化した(強化人間!)ようなキャラクターと思って頂ければよいだろう。
演じるのは、ハマーンと同じく榊原良子さん。
『逆襲のシャア』は、アムロとシャアが決着をつけるための映画。
ナナイは、シャアにとって都合の良いパートナーとしての「いい女」としてデザインされているので、映画の主旨をよく理解して、話をかき回したりすることはない。
シャアのパートナーとして見れば、改良型ハマーンとして完璧だと思うが、ハマーンが不適格というよりも、シャアがあまりにシャアすぎるので、ナナイぐらいの調整して合わせてあげないとダメだったと考えるべきだろう。
とすると、むしろ浮き彫りになるのはシャアの「変わらなさ」だと思う。
個人的には、シャアの思いどおりには動かない「やっかいな女」であるハマーンの方がキャラクターとして好みだ。
もちろんこの映画での役割として、ナナイというキャラクターのデザインには何の問題もない。
そして、そのナナイに榊原良子さんがキャスティングされているのは、ハマーンは「シャア無き欠損」を抱える空虚なキャラクターでもあったが、あの声はそうではないという事だと思う。
声と中身のバランスを取ったキャラとしてのリメイクともいえるかも知れない。
『機動警察パトレイバー2 the Movie』での、南雲隊長にも何らかの影響を与えているような気がしている。
押井守監督が『逆襲のシャア』結構好きで、声が同じく榊原良子さんで、というだけでなく、過去に囚われたテロリストの幻想に巻き込まれる女性として。
連邦側に属してシャアに手錠をかける方のナナイ。
会話シーンを語る前の前提(ここまでの逆シャア)
『逆襲のシャア』は約2時間(1時間59分)の映画で、本題の会話シーンは約45分経過したあたり。ここまでの展開のうち、会話に関係するポイントだけは前提として抑えておきたい。
冒頭の会話に出てきた名前、クェス。クェス・パラヤ。
地球連邦の高官アデナウアー・パラヤの娘にして、13歳の少女。民間人。
コロニー・ロンデニオンで、シャアとアムロの罵り合いながらの格闘(有名な巴投げシーン)で、シャアに加勢し、シャアの「行くかい?」で、本当にシャアについていってしまう。
その後、ニュータイプ研究所(ナナイが所長)で訓練を受け、ニュータイプとしての才能を開花させる。

わずかな訓練で、ファンネル攻撃を成功させるクェスを見て、シャアがつぶやく。
シャア「あの子と同じだ」
「あの子」に該当する人間が、複数人存在するのがシャアのやばいところだが、この映画では最初のひとりであるララァ・スンのことであると思ってよいでしょう。つまりララァの再来のような才能だ、ということですね。マラドーナ2世です。
次のシーンが有名な電車のシーン(この映画、有名なシーンしかないな)。
シャアを「ドブ板選挙のできる男」と評したのは、あでのいさん(@adenoi_today)だが、まさしくその象徴のようなシーン。
ここでのクェスは初めて軍服姿で登場する。もはや民間人でもゲストでもないことが分かる。
そして高級ハイヤーで、ギュネイにクェスを送らせる。
先に降りるシャアは別れ際にクェスに優しい言葉をかけ、彼女の手にくちづけをして別れる。
シャア「大丈夫か?明日からの作戦は遊びじゃあない」
クェス「勿論、あっ」
(手にくちづけをする)「大佐」
シャア「今夜はよく休め」
明日からの作戦とは、もちろん軍事作戦を指す。
つまりクェスはいよいよ軍人として実戦に投入されるということだ。
緊張するクェスに優しい言葉をかけ、お姫様のように扱うシャア。
だが彼はなぜ先に車を降りたのか。それは私邸でナナイと過ごすため。
そして、シャアとナナイの2人だけの会話シーンが始まる。
ナナイ・ミゲル酒豪伝説
バーカウンターもある一室。
2人ともナイトガウンを着てリラックスした状態であり、完全なプライベート空間だ。
ナナイが酒を用意し、シャアに持っていく。

ちなみに、シャアがロックグラスで、ナナイがロンググラス。
ナナイは水割りかな?と思ったら、色指定的には同じ(濃さが同じ)に見える。
シャアがストレート(そのまま)だとすると……ナナイ酒豪だな、と思った。
ここからは、シャアとナナイの会話をすべて順に追っていこう。

ナナイ「アクシズを地球にぶつけるだけで、地球は核の冬と同じ規模の被害を受けます。それは、どんな独裁者でもやったことがない悪行ですよ」
「それでいいのですか?シャア大佐」
シャア「いまさら説教はないぞ、ナナイ。私は、空に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにする為には、誰かが人類の業を背負わなければならない」
ナナイ「それでいいのですか?」
(シャア、黙ってうなづく)
もちろん親しい仲での雑談ではあるが、いきなりナナイは確認から入る。
アクシズ落としは、どんな独裁者でもやったことがない悪行だが、それでいいのですか?と。
シャアはブレない。シャアが述べていることが世迷言でも、インテリの世直しでも、ニュータイプという蜘蛛の糸にすがるカンダタでも何でもいい。問題は目的遂行のために迷いがないかだ。
この会話シーン全体に言えることだが、ナナイは基本的に、シャアを見つめながら話をする。
しかしシャアは他を見ているか、もしくはナナイとは真正面から視線を合わせない。きちんとナナイの目を見て話すのはごくわずかである。
もちろん現実でも、視線を見つめ合って話をすることは結構少ない。たとえ親しい仲や家族でも。
だから、ある種のリアルだとは言えると思うが、一方が見つめることが多く、もう一方はそれを見ないことが多い、という非対称性は映像としての会話のデザインであろうと思う。
ここではナナイがシャアを見ている一方で、シャアは別のところを見たり、視線をはずしたりするというのが、2人の関係性ということになる。
それを踏まえて見ていくとなかなか面白い。次の会話。

ナナイ「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
シャア「私はそんなに小さい男か?」
ここでは、ナナイが窓際に歩いて、手前にナナイ、奥にシャアという構図に変わる。
早速、ナナイがシャアから目線を切っているじゃないか、となるわけですが、会話の内容を見て欲しい。
ナナイはまた確認の質問をする。
「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
つまり、結局はシャアの個人的な動機なんでしょ?と問う。
シャアが「私はそんなに小さい男か」と答えるが、このタイミングでナナイは目線をはずす。
当初から質問しかしていないことに加え、この芝居を見る限り、ナナイは、ジオン・ダイクンの息子としてスペースノイドを導く指導者を最後までやってくれるのかどうかについて、かなり疑っている。いや不安に感じているといった方がよいか。
歴史に最大の悪行を残してでも、人類のニュータイプ覚醒といった大義のために大仕事にやり遂げる覚悟は本当にあるのだろうか。
最後の最後に全部ほっぽりだして、ただのモビルスーツ乗りとして恋人(宿敵)との楽しいダンスに興じてしまわないだろうか。(鋭い。当たりです)
もちろんシャアは「私はそんなに小さい男か?(笑)」と、ナナイからの否定(フォロー)を求めるような返しをするのだが、ナナイはその顔を見ないし、答えない。
そして目線をはずしたまま、つぶやくように言う。
ナナイ「アムロ・レイは、やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男です。女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」
これ、かなり重要な台詞だと考えています。
ナナイが、アムロのことを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」として批判していると捉えている解釈を見かけたりしますが、私は違うと思います。
ナナイにはアムロと何の因果も因縁もありません。会ったことも話したこともないでしょう。
ナナイが知るアムロというのは基本的に「シャアが語るアムロ」になるはずです。
であれば「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」は、シャアによるアムロ評でしょう。
シャアの認識では、アムロは戦場で出会った敵(ララァ)とふれあい、深くつながろうと互いを理解し合おうとした男です。
一方のシャアは「戦いをする人ではなかった」ララァを戦場に連れ出して、戦争の道具として利用しましたが、アムロはそうしなかった。敵であるはずのララァと2人だけの密会をして、分かり合おうとした。
しかし結局は、アムロによってララァは喪われてしまった!
やさしさアプローチで近づいて、ニュータイプNTRしてきたアムロのせいで!
シャアとしては自身の罪に向き合うのでなければ、シャアがしない(できないともいう)ニュータイプ能力の使い方をしたあげく、ララァを殺めたアムロを否定するしかない。
かくして、アムロは「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」というインディアンネームを与えられ、恐らくナナイもシャアから何度も聞いていたことでしょう。
しかしナナイは「女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」と続けている。今の話の流れで行けば、この許せる女性はララァ・スンのことになるでしょう。
しかしシャアにとっては、ララァが許しても、私が許さんわけです。
個人的には、ナナイが意図する「女性」とは、ララァだけでなく、ナナイ自身も含まれていると思っています。いや下手したら女性全体ぐらいを想定している可能性すらあるかも知れない。
もしそうであれば、「光る宇宙」でのアムロについて、被害者のララァどころか、私(ナナイ)も別に許せるし、もし全ての女性にアンケート取ったら多くの女性はアムロを許せるかも知れない。
シャア相談員「許せない」、上沼相談員「許せる」、ゲストの瀬川瑛子相談員「許せる」。
アムロを許せないのはつまりはシャア大佐、あなただけでしょう? という意味になる。
これを最初の質問とつなげれば、あなたは自分が許せないからこそ、アムロが生涯許せないし、だからネオ・ジオン総帥として道化を演じてまで対決を望んでいるのでしょう?でも、あなたについてきた多くのスペースノイドや私達のために嘘でも違うと言ってください。
……ぐらいの超意訳ができるかも知れない。
それなのにですよ。ナナイのこの台詞を聞きながら、なんとシャアは「光る宇宙」の回想に突入してしまうのです。
「光る宇宙」で悪いの誰だ? 誰が「白鳥」殺したの?
『機動戦士ガンダム』第41話「光る宇宙」での場面、映画が直接引用するのは、ファーストの劇場版である『めぐりあい宇宙』ですが、とにかく、アムロがララァを誤って殺めてしまう場面が、シャアによって回想される。
基本的には、アムロとシャアの因縁を明示するための過去回想で、観客のために挿入されたシーンになるだろう。この映画で挿入される回想はこれだけであり、その重要さが分かる。
(もっとも、この映画を見るような人には、このシーンの紹介が必要ない人も多いだろうけれど)
場面としてはおなじみではあるが、宇宙世紀0093年のシャア・アズナブルによる回想であることに意味がある。
シャア自身が当時のことを今現在どう捉えているのか、という点こそが重要なので、その視点で見ていこう。

シャア『ジオン独立戦争の渦中、私が目をかけていたパイロット、ララァ・スンは、敵対するアムロの中に求めていたやさしさを見つけた。あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』(回想突入)
シャア「む?」
アムロ「ララァ」
ララァ 「アムロ」
シャア「ララァ、敵とじゃれるな」
ララァ 「大佐、いけません」
シャア「何?」
シャア『あの時、妹のアルティシアがいなければ』
ララァ 「ああーっ」
アムロ「しまった」
シャア「ララァ」
『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』
見ての通り、語りどころが色々とある。
『あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』の箇所。
これ結構重要で、シャアは恐らく死ぬまで、アムロがララァとしたような、カミーユがハマーンとしたようなレベルでの、ニュータイプ同士の共感というものをしていない。
なので「だろうとはわかる」という言い方になる。

これについては、過去に記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(記事の終わりに、関連記事として紹介します)
次、『あの時、妹のアルティシアがいなければ』。
「光る宇宙」において、アムロ、ララァ、シャアの3人だけが注目されがちだが、セイラ(アルテイシア)もその現場に居て、かなり重要な役割を果たす。
これも、過去にこの話で記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(2度目。記事の終わりに、関連記事としてまとめて紹介します)
『あの時、妹のアルティシアがいなければ』のあとに続く言葉は、当然「ララァは死なずに済んだのに」である。
実際はどうだったか。
悲劇の直前、アムロと兄キャスバルの間に割って入ろうとするセイラのGファイター(映画、回想ではコアブースター)。シャアのゲルググは斬ろうとするが、寸前でナギナタの刃を止め、相手が妹アルテイシアだと気づく。
だが、そのスキをアムロに突かれて片腕を斬られてしまい、さらにとどめを刺されようかという絶体絶命のピンチをララァにかばわれ、彼女は命を落とします。
ニュータイプ・アムロとララァによる心の交流を表現する上での対比・強調の問題だと思いますが、この場面でのシャアは、肉親であるセイラの存在に徹底的に気づかない。
赤の他人でロクに会話すらしたことがないアムロとララァが感じ合い、分かり合ったのと比べて、血が繋がっているはずのシャアとセイラの通じなさは極めて象徴的だと思う。
そもそもシャアがナギナタの刃を止めることができたのは、先にララァがセイラを感じ取り「大佐、いけません!」と止めたからに過ぎません(だから刃を止める→気づくの順番)。
つまりララァは、アムロが「取り返しのつかない過ち」を犯す前の段階で、シャアが「取り返しのつかない過ち」を犯す所だったのを止めてくれてるわけです。
しかもこの際に、シャアがコクピット内のセイラを目視して「アルテイシアか!」と気づく主観のカットをわざわざ入れている。この目視のカットの挿入が実にすばらしい(回想では省略)。
この戦場でセイラを認識していないのはシャアだけ。彼だけにはこのカットが要るのです。
風が吹けば桶屋が儲かるといいますが、物事は連鎖しますので『妹のアルティシアがいなければ、ララァは死なずにすんだのに』といえないことはないですよ。そりゃあ。
でもこの時、宇宙世紀0093年です。事件から10年以上経過しています。それでなお、妹のせいだという認識なんです。
そして『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』
シャアがララァに導いて欲しかったのはまぎれもない本心だと思います。
ジオンの遺児という己の生まれからの逃走という意味では、キャスバル→エドワゥ→シャア→クワトロと何度も別の人間になろうとしたが、成りきれないシャアにとって、ララァは自分が「ジオンの息子」ではない何かに生まれ変わる為に必要な存在だった(そのための母)。
ただ『なまじ、人の意思が感知できたばかりに』が問題で、ララァがアムロの意思をキャッチできて、それを受け入れる包容力があったことが問題だと言っているに等しい。
シャアは、ララァと男女の関係になったとしても、その体験はしていない。それは、シャアの嫉妬を生み、そこから悲劇が始まった。
でもシャアにとっては、人の意思が感知できたせいで起こったことであり、いわばララァのせいなのです。
人のニュータイプへの革新を信じ、アクシズを地球に落としてでもという男が、宇宙世紀0093年に言うことかとお思いでしょうが、私もそう思います。(だからナナイも不安がるわけです)
では「光る宇宙」回想について、シャアの認識をまとめましょう。
・アムロのせい (ララァにやさしさで接触し、最終的に手をかけたので主犯。許さん)
・アルテイシアのせい (なんであんなとこに飛び込んでくるんだよ。ララァが言うまで気づかなかったじゃん!)
・ララァのせい (ニュータイプ同士で意思を感知できるからって、俺を無視してアムロとつながんなよ!)
以上が、10年以上経過した宇宙世紀0093年での認識です。
これは、もう、なんというか、あれです。まさにあれとしか言いようがありません。
もちろん、そもそも「戦いをする人ではない」ララァ・スンをニュータイプとして訓練し、戦場に連れ出した張本人が誰だったのか、という根本的な原因についての追求はありません。
誰が白鳥殺したの?
「わたし」とアムロが言いました。
わたしのビームサーベルで、わたしが白鳥殺したの。
誰が白鳥殺したの?
「妹」とシャアが言いました。
木馬を降りずに戦うので、妹が白鳥殺したの。
誰が白鳥殺したの?
「ララァ」とシャアが言いました。
敵と戦場でじゃれあって、ララァが白鳥殺したの。
誰が白鳥殺したの?
「アムロ」とシャアが言いました。
やさしさを勘違いしてるから、アムロが白鳥殺したの。
ここで、ミライさんが「さあ、みなさん、お手を拝借!」とやり、カイ・シデンが歌い、ワッケイン司令が踊ってくれたら、白鳥も成仏できるかも知れないし、できないかも知れない。(常春のコロニー・マリネラ)
シャアの瞳にうつるララァに乾杯

…………。
ナナイ「どうなさいました?」
わ!そうだった。ナナイにアムロの話されて、ナナイほっぽりだして回想してたんだった。
シャア「似過ぎた者同士は憎みあうということさ」
ナナイ「恋しさあまって憎さ百倍ですか?」
シャア「ふん、まあな。明日の作戦は頼むぞ」
ナナイ「…」
シャア「私はアクシズに先行してお前を待つよ」
このシーン。
ここまでを踏まえると、シャアが、自分とアムロを「似すぎた同士」と語っているのもツッコミポイントだが、画面も面白い。
自分を見ていない(そりゃそうだ。回想してたからね)シャアに乗りかかるようにして、シャアの正面へ。
これでシャアもナナイを正面から見るしかない。

と、思いきや、微妙に体をずらして、真正面からは向き合わないシャア。
このあとすぐカットが切り替わるし、見てのとおり表情が描き込まれないサイズなので、顔を見せるというよりは本当に姿勢(視線)をずらしているだけ。
この動き。意図(真意)はともかく、この記事をここまで書いてきた私としては十分必然性に納得はできる。

そして、シャアは自分のロックグラスをナナイに預け、席を立ってしまう。

ソファの正面に立ち、肘掛けに両手をついて、逃がさないポジションを取ったナナイからすると、ロックグラスを渡されて左手が塞がり、スペースが開いたところをスルッと逃げられた形。
両手を広げてディフェンスしているナナイだが、シャアにグラスを渡されたら無視せず受け取ってしまう従順な習性を利用されて、逃げ道を与えてしまった。(ハマーンなら全無視で逃さないのだろうか)
そしてナナイは、退室するためドアに向かって歩くシャアを目で追いながら、最後の質問をする。
ここでようやく、冒頭で紹介した会話にたどり着く。
「クェス、よろしいんですね?」でナナイは何を聞いているのか

ナナイ「クェス、よろしいんですね?」
言葉をあえて補えば、「クェスを実戦投入して、よろしいんですね?」になるだろうか。

ドアに向かって歩いていたシャアは、ナナイの質問に振り返る。
シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」

ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」
シャアはそのまま部屋を出ていく。
冒頭に書いたように、ナナイの台詞「クェス、よろしいんですね?」には複数の意味が込められているはずだ。
その中でも特に、兵士として実戦に投入されることが、クェス・パラヤという少女にとって、ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)になることをシャアに確認している。
それに対するシャアの回答は「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」である。
シャアは、ナナイが訓練や強化の不足を危惧して、そんな質問をしたと解釈した。
だから、あれ以上の訓練・強化をしなくても、もう戦場に出せる戦闘力を持っているから大丈夫だよ、と返している。
これがつまりシャアの認識であって、クェスを兵士、もっといえば戦闘マシーンぐらいにしか思っていないことを意味する。
シャア「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」
のちのこの台詞が無ければ、全てわかっている上ですっとぼけているという解釈の余地もあったかも知れないが……。
そもそもニュータイプ研究所の所長であるナナイには、クェスが実戦投入できるレベルであることなどもちろん分かっているだろう。わざわざそれをシャアに確認する必要などない。
この直前にララァの回想を挟んでいることから分かるとおり、ニュータイプの素質のある少女を訓練し実戦投入して一生もののトラウマを引きずるシャアに対して、新たなニュータイプ少女クェスの実戦投入について最終確認をしている。
本当に、本当によいのかと。
そう考えると、シャアの返答 「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」 は、完全に勘違いのすれ違いだが、会話はそのまま続く。
ナナイは言う「あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」と。
訓練を担当したニュータイプ研究所所長として、シャアの判断に太鼓判を押したように見える。
問題は「サイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプ」のところ。ギュネイのような強化人間と違い、本物のニュータイプの素質のある少女だと言っている。つまり「ララァ・スン」のようなニュータイプだと。
それはクェスがファンネルを操るのを見たシャアの「あの子と同じだ」という感想と重なる。
だから「そうだろうな」と、ナナイの評価に同意し、そのままシャアは退室する。
そしてこのあとクェスは実戦投入され、初陣で父アデナウアーを殺害。回帰不能点を越える。
アデナウアー→アムロ→シャアと流れてきたクェス・パラヤの避難所(アジール)はかくして、巨大モビルアーマーだけになる。そこへ追い込んだ当人の自覚なしに(これが本当にひどい)。
ナナイ「……、ジオン・ダイクンの名前を受け継ぐ覚悟が、大佐を変えたと思いたいが。くそっ」
「あんな小娘に気を取られて」

部屋に残されたナナイは、シャアに手渡された(ここ重要)ロックグラスを床に投げつけて、イライラするように髪をかき上げて、このシーンは終わる。
シャアのグラスを投げて 「あんな小娘に気を取られて」だから、シャアがクェスに気を取られている、という台詞なのだろうが、実際はここまで見てきた通り、シャアはクェスのことを道具ぐらいにしか認識していない。
せめて、本当にクェスに「気を取られていたら」どれだけ救いがあっただろうか。
だから実質、気を取られていたのは、シャアではなくナナイということになるだろう。
わずか3分程度の会話シーンだが、ナナイとシャアという公私ともにパートナーであるはずの2人の(視線を含めた)会話がここまですれ違っており、それでいながら見かけ上ごく普通の会話のように進行していくのは見ごたえがあり、大変すばらしい。
ナナイは確認はとるが、シャアには反論しない。
なぜならシャアの「いい子」だから。
シャアの「いい子」と、ハサウェイの名前
『逆襲のシャア』には、シャアによる「いい子」という台詞が2つある。
ひとつはクェスに対して。
有名な(有名なシーンしかない)生身で宇宙に出るシーン。
シャア「クェス、パイロットスーツもなしで」
クェス 「ほんとだね?ナナイを折檻してやって」
シャア「ああ、本当だ」
クェス 「なら、少し働いてくる」
シャア「調子に乗るな」
クェス 「でも」
シャア「実戦の恐さは体験しなかったようだな」
クェス 「恐さ?」
シャア「ああ」
クェス 「気持ち悪かったわ、それだけよ。なのに、ナナイはやさしくなくって」
シャア「それで、私の所に来たのか」
クェス 「大佐」
シャア「その感じ方、本物のニュータイプかもしれん。いい子だ」

「大佐」と胸に飛び込んでくるクェスを抱くが、当然、視線はクェスを見ていない。
もうひとつがナナイに対して。シャアがサザビーで出撃する直前のシーン。
ナナイ「四番艦、アクシズに入りました」
シャア「よし、核爆弾は地球に激突する直前に爆発するようにセット、クルーは収容しろ」
ナナイ「大佐、もうお止めしませんが、アムロを倒したら?」
シャア「ああ、あとはナナイの言う通りにする。戦闘ブリッジに入ってくれ」
ナナイ「はい」
シャア「いい子だ」
2人に対して同じ「いい子」を使っていることで分かる通り、本質的にクェスもナナイも、シャアにとって同じ扱いであることが分かる。
当然、対等ですらない。対等な相手を「いい子」などとは呼ばない。
クェスはもちろん、公私共にパートナーを務めてきたナナイに対しても「いい子」である。
ララァ以後のシャアにとって、全ての女性は「いい子」までにしかならない。
その上、シャアは宇宙世紀随一の「貧しい愛」の使い手なので、愛と引き換えに「いい子」の女性たちに何らかの奉仕をさせてしまう。シャアが本当に欲しいのはそうでないだろうに……。
そうなればますます対等ではありえない。
クェス 「あたし、ララァの身代わりなんですか?」
シャア「クェス」
「誰に聞いた?いや、なんでそんな事が気になる?」
クェス 「あたしは大佐を愛してるんですよ」
シャア「困ったな」
クェス 「なぜ?あたしは大佐の為なら死ぬことだってできるわ」
シャア「わかった。私はララァとナナイを忘れる」
クェス 「……なら、あたしはαで大佐を守ってあげるわ、シャア」
『逆襲のシャア』においての「貧しい愛」の例。
少女が「あなたのためなら死ぬことだってできるわ」と言い、それを言われた大人の男性が「わかった。過去の女を忘れるよ」と返す。つまり取引だ。
これで少女は愛する男に「過去の女を忘れてもらう」代わりに、死ぬことも辞さない奉仕をすることになる。
時を越えて、作品を越えて。
『∀ガンダム』において、キエル・ハイムと仮面の男ハリー・オードの男女が、同じようにコクピット内で以下の会話をする。
キエル「わかりました。なら、私をディアナにしてミドガルドに預ければ、アグリッパ達と刺し違えればよろしいのでしょ」
ハリー「ギム・ギンガナムが出てきたのです。まっすぐにアグリッパの所には行けそうもありません」
キエル「ハリー大尉にとってキエル・ハイムは、ディアナ様の影武者にもならない女でしょうか?」
ハリー「どういう意味でしょう?キエル嬢はご立派に」
キエル「私は、ハリー殿が好きなのです」
ハリー「ありがたいことです」
キエル「そういうことではありません、ハリー・オード」
ハリー「自分は親衛隊の隊長でありますから、ディアナ様以外に心を動かされることは……」
キエル「ハリー殿!」
ハリー「動かされることはござい……」
キエル「ハリー!」
「好きだとおっしゃってくだされば、アグリッパを暗殺する事だってやってのけましょうに」
ハリー「キエル・ハイム、いかように私をなぶっていただいてもよい」
キエル「……」
ハリー「あなたには、ディアナ様の盾になっていただきたい」
キエル「……」
ハリー「そのかわり愛するという愛では、それは貧しいでしょう」
『∀ガンダム』第38話「戦闘神ギンガナム」より
キエル嬢は、ハリー大尉が好きと言ってくれさえすれば、危険な暗殺だってやるという。何でもやる。命だって惜しくはないと言っているわけです。
だがハリーは、これをするから、代わりにこうしてほしい、という契約と取引による「その代わりの愛」、それでは貧しいときっぱりと本人に告げる。
あなたとの関係を「貧しい愛」にはしたくないと。
『∀ガンダム』はさまざまな意味で、『機動戦士ガンダム』という巨大な何かを終わらせる作品だが、仮面の男が始めた「貧しい愛」を、仮面の男が否定するという意味でも、大きな価値がある作品だ。
話を『逆襲のシャア』に戻す。
クェス・パラヤは、シャアとの取引を守り、モビルアーマーα・アジールを駆って戦場で戦い、最終的に命を失ってしまう。
まさに「大佐の為なら死ぬことだってできる」わけだが、そんな彼女の前に現れたハサウェイに対しての呼び方に注目したい。
ハサウェイ「クェスだろ?これに乗っているの」
クェス 「なれなれしくないか?こいつ」
※中略
ハサウェイ「駄目だよクェス、そんなんだから敵だけを作るんだ」
クェス 「あんたもそんなことを言う。だからあんたみたいのを生んだ地球を壊さなくっちゃ、救われないんだよ」
※中略
ハサウェイ「クェス、そこにいるんだろ?わかっているよ、ハッチを開いて。顔を見れば、そんなイライラすぐに忘れるよ」
クェス 「子供は嫌いだ、ずうずうしいからっ」
と、ここまでさんざん「こいつ」「あんた」「子供」呼ばわりしたあげくに
クェス 「直撃!? どきなさい、ハサウェイ!」
ここで咄嗟に、思わず「ハサウェイ!」と名前を叫んでしまうのは本当に最高だと思う。
私はここがあるから、クェスのことは絶対に嫌いになどなれない。
これについて監督の富野由悠季は「クェスのように最後の3秒間だけ人の気持ちを考えても遅いんです」と語っていたような記憶がある。
それは事実かも知れないが、「貧しい愛」の契約に囚われた少女が最後に、思わず名前で呼んでしまう少年のために死んでしまうというのは、絶望の中の救いでもあると思う。
シャアから愛をもらう為だけに、死ぬことだって厭わないはずの少女が、本気でクェスのことを見てくれる少年のために命を使えたのだから。
最後にそういうクェスであったことだけが、わずかな救いになる。
だから、この場面の結末が異なる『閃光のハサウェイ』は当然、意味が違ってくるし、『GUNDAM EVOLVE』で富野由悠季がストーリーを書き下ろしたのが、この場面の変奏、クェスを導くアムロとそれによって変化したクェスだったことにも注目したい。
『GUNDAM EVOLVE』自体はプロジェクト的に3DCG技術を用いた戦闘シーンが主目的であったとは思うが、富野監督がストーリーを書き、変化させたのが、アムロとシャアの戦闘やその結末などではなく、このクェスとハサウェイの場面であったことは、この物語で何が必要で何が重要かを示していると思う。
(世の中は広いので、この映画にクェスやハサウェイが必要ない、と仰る方もいらっしゃいます)
ナナイが確認したかったものと得たもの
いつものように脱線してきたので、ナナイ・ミゲルの話に戻そう。
ナナイは、この場面で質問(確認)ばかりしている。
・どんな独裁者でもやったこともない悪行(アクシズ落とし)をしますけど、いいんですか?
・アムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?
・(アムロへの)恋しさあまって憎さ百倍ですか?
・クェス、(実戦投入して)よろしいんですね?
こうしてみると、ナナイは本当にシャアのことがよく分かっているのだと思う。
分かっているのだとしたら恐らく、ネオ・ジオン総帥としてのシャアに対して、ここまでついてきた私達を見捨てないで、という気持ちと、恋人としてシャア本人が本当にやりたいことは止めようがない(諦めにも似た)から自由にやらせてもあげたい、という思いが同居していることだろう。
だからこそ「クェス、よろしいんですね?」に込められた意味は重い。
これは、大佐が後悔し続けているララァ・スンのような少女を戦場に出すのと同じようなことをしようとしていますよ。それでいいんですか?という問いだ。(ハマーンで繰り返し、カミーユもある意味そうだし、ナナイ自身も該当するかも知れない)
ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)はクェスにとってだけではない。
シャアもそうだろうし、彼と共に進むつもりのナナイにとってもそうだ。
またニュータイプ少女を貧しい愛で消費するというポイントを越えるんですけど、いいんですよね?大いなる目的のためですから、いいんですよね?
ナナイは彼女自身100%答えが分かっている質問をしているだろう。
彼女が質問する相手は、アムロ・レイを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」というのだから。
10年以上前のララァの死は、アムロとアルテイシアとララァ自身のせいなのだから。
そしてシャアは、恐らく彼女の予想通り、期待通りの返答をした。
「これでこそシャア・アズナブルだ」と、ナナイは思ったかも知れない。安堵といってもいい。
貧しい愛を振りまいて、ニュータイプを戦争の道具に使い、それでもスペースノイドを導く道化を演じるジオン・ダイクンの遺児。
それでこそ、私の愛するシャア大佐。
そして、そう安堵をしたならば、同時に絶望もしたろう。シャアという男の変わらなさに。
ナナイが質問と確認で得たものは、この安堵と絶望だったのかも知れない。
ナナイ「私は大佐に従うだけです」
シャア「いいのか?」
ナナイ「愛してくださっているのなら」

まとめ、もしくはあとがき
この記事で取り上げた会話シーンは、2時間の映画でわずか3分ほどですが、こうして記事が1本書けるほど、濃密で見ごたえのある場面になっています。
恋人関係にある2人の会話でありながら、決定的にディスコミュニケーションであり、それでいながら見かけ上は普通に進行していく会話。面白いですね。
この記事では、ナナイの視点から見る関係上、シャアにはかなり厳しい言葉を連ねましたが、私は『機動戦士ガンダム』のシンボルとなるキャラクターはシャア・アズナブルだと思って、愛しています。
シャアについては、色んな視点から色々な記事を書いていますので、興味があればぜひ読んでみて下さい。この記事でのシャアは、彼のひとつの面でしかありません。
また、この記事を何日かに分けて執筆していた時に『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の発送通知が届きました。
正直なところ、届いて色々気になるところを確かめて、それを記事に反映させようか迷いましたが、資料としても膨大ですし、記事をアップするのがかなり遅れそうだったので、一切見ないことにしました。
商品は届いたけれど、記事アップ後のご褒美ということにしましたので、これでやっとご褒美にありつけるという思いが大きいです。今は。
小説版も同じですが、公式記録全集を資料として参考にすることはあっても「答え」が書いてあるわけでもないので、映画を見てどう感じたか、どう読み取ったかということ自体は、自分がフィルムと向き合うしかありません。これで良かったと思います。
※追記。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の絵コンテ情報によると、舞台となる私邸は、ナナイの私邸であるようだ。しかし、その情報は物語に特に必要ないため映画に盛り込まれず、従って本記事の内容にも一切影響を与えることは無い。
ちなみに『逆襲のシャア』という、ひとつの映画作品としてはこれで全く問題がないですが、シャア・アズナブルというキャラクターの連続性として見た場合、この映画のシャアはやはり本人のいうとおり道化を演じていると言わざるをえないところがあります。
アムロとシャアの決着、初のオリジナル劇場映画、ということで、現在の言い方でいえば、魔王を演じて、無理やり舞台に勇者を引っ張り出すようなところがどうしてもあります。
だからシャア・アズナブルとしては、一世一代の大舞台を富野監督にオファーされ、それでも渋るシャアに「アムロとはたっぷりいちゃいちゃさせてやるからさ」と口説かれたような感じでしょう(最後に死ぬことは伝えてない)。
個人的には、映画を成立させるために、その程度のことは当然必要であると思っています。
そして作られたこの映画は、今なお鑑賞に耐える濃密さを抱えており、こうして私は21世紀になっても長文記事を書いているのです。
今だと各配信サイトなどで気軽に見ることができます。
初めての方も、そうでない方も、『逆襲のシャア』を楽しんでください。
それではまたお会いしましょう。
関連記事紹介コーナー
では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。
文中であとで紹介すると書いた、関連記事です。
アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」>
アムロとララァはニュータイプ同士で深くつながったが、シャアはその体験をしていないという話がありましたが、そもそもシャアはいつ「ニュータイプ」だと、アムロに認識されたのか?という記事です。
そして記事タイトルに入っているように、相互不理解と「貧しい愛」の話もしています。
僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>
「光る宇宙」にはシャアの妹セイラも関わって、重要な役割をしていると書きましたが、その話はこの記事で。
全体としては『ガンダムZZ』に至るまでの、シャアを中心としたニュータイプを巡る因果応報の話です。
落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>
想定以上にこの記事が読まれて、初めて訪問された方がかなり多いようなので紹介記事を追加。
『映像の原則 改訂版』発売記念の応援記事として、2つの小惑星およびサザビーとνガンダムの戦いを「上手・下手」の原則で解説したもの。富野アニメ系の記事では多分、私の名刺代わりの記事。
「画面構成がこうだから、ここはこういう場面なんです」という画面ありきの読み解きではなく、「こういう物語構成だから、映像を流れにしたときにこの画面構成が選ばれた」という記事になるようにこころがけました。
アムロ・レイが、宇宙世紀の最後にしてくれたこと。<『逆襲のシャア』で起きた【奇跡】>
「ララァ以後」のアムロとシャアの女性観を軸に、『逆襲のシャア』で起こった【奇跡】とはいったい何だったのか?を考えます。
この物語での【奇跡】とは、アクシズが地球に落ちなかったという些末なことではない、という話です。
サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>
「νガンダムとサザビーはどっちが強いの?」という質問はよく提示されますね。みなさんは、どちらが強いと思いますか?
この問いと「アムロの完全勝利」という実際のフィルム上の結果との関係から、νガンダムvsサザビー戦を考えます。
ほかにも『逆襲のシャア』や、シャア・アズナブルについての記事を色々書いていますので、目次ページで興味を引くものがあればご覧頂ければ幸いです。
【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
最後にもうひとつ。
私の記事ではありませんが、クェスの最終的な避難所となった「αアジール」については、おはぎさんのすばらしい記事をおすすめ致します。
逆襲のシャアにおける、αアジールの機体名の意味から考えるクエス・パラヤ論
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2144.html
なぜハマーンはファンネルで決着をつけなかったのか <『機動戦士ガンダム』から『逆襲のシャア』までのサイコミュ兵器四方山話>
アニメ富野由悠季ガンダム物語ZガンダムガンダムZZ逆襲のシャアファンネルニュータイプハマーン・カーン
2022-10-11

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式サイト
私はプロローグを含め、まだ全く見ていない(録画はしている)が、主人公機にファンネルが搭載されているそうで。恐らくそれを契機に、Twitterでファンネルの話が色々出ており、それに刺激を受けて、自分でもツイートしたし、こうして記事に仕立てることにもしました。
前述のように水曜日の魔女たち(金妻みたいにいうな)こと『水星の魔女』は見ていないので、同作品でのファンネルについての話はできないのでしません。
私にできる話ということで、『機動戦士ガンダム』から『Zガンダム』『ガンダムZZ』、そして映画『逆襲のシャア』までの限定的な話に留めておきます。
さらにいえば「ファンネル」話の総論的なものは、あでのいさん(@adenoi_today)が、すでに記事をまとめておられます。ファンネルの基本と網羅的な理解はこちらで。
機動戦士ガンダム水星の魔女1話感想??〜主人公機1話からファンネルってどうなん?問題の話〜
↑この記事自体に、私がしたツイートの内容も一部盛り込まれてはいるのですが、同じ話をしても仕方ないので限定的がゆえの話に努めることにしましょう。
「ファンネル」「ビット」とは何か?
冒頭から説明なしに、さらっと出てきた「ファンネル」というワード。
これは、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業ではなく、『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する架空兵器の名前です。
「ファンネル(ビット)」は、モビルスーツ(ロボット)などに搭載されて、四方八方肘鉄砲の「オールレンジ攻撃」と呼ばれる攻撃をしかけます。
最大の特徴は、この兵器は脳波でコントロールされていることです。
ニュータイプと呼ばれる人たちが脳波で操るため、総じて「サイコミュ兵器」とも言われます。
『ガンダム』を見たことない方は、超能力バトルで無数の石を浮かせて、それをコントロールして、相手にぶつけるようなよくあるシーンを想像してもらえると近いでしょうか。
超能力バトルを見たこともないお嬢様方は、現実世界の「自爆型無人ドローン」でも想像してください。あれを脳波でコントロールして目標にぶつけるようなものです。
実際のところ、自爆型ドローンが現実に存在し、脳波コントロールも研究されていることも考えると、この2つが結びつけば近いものにはなる気はする(ファンネルミサイル方面だが)。
『ガンダム』という物語世界としては必然的にモビルスーツが先で、それに搭載するビットやファンネルなどサイコミュ兵器はあとで実用化されたが、本来のテクノロジーツリー(Civilization)でいけば、「モビルスーツ」と「サイコミュ兵器」は当然別系統で、現実での実現度が高いのは「サイコミュ兵器」(的なもの)になるだろう。
ただ現実で考えると、自律型(AI)でいいだろとはなっても、なぜ兵器のコントロールにわざわざ人の脳波を使わなければいけないのか?という話には当然なりますね。
その当然の疑問について、『機動戦士ガンダム』では前提として、電波障害(ミノフスキー粒子)という存在があります。
ガンダム宇宙は、ミノフスキー宇宙
「ミノフスキー粒子」とは、『機動戦士ガンダム』に出てくる架空の物質。
役割だけいうと、ガンダム世界(宇宙世紀)というフィクションを支える、言い訳用の架空物質でエクスキューズ粒子といってもいい。
SF的な荒唐無稽の言い訳をほとんどをこの粒子でまかなうので、説明しようとすると膨大かつ多岐に渡ります。よって今回の記事に関係するものだけに絞って、簡単に説明します。
「ミノフスキー粒子」とは?
「ミノフスキー粒子」は電波障害を引き起こすよ
▼
だから戦場に散布されると電波障害が起きて、無線やレーダーが使用不能になるよ。
誘導ミサイルなんかも使えないんだ。
▼
じゃあ機動兵器(ロボット)で近づいて、目視で斬り合うしかないね。
というもの。もちろん因果は逆で、ロボットアニメだから同一フレーム内でチャンバラして欲しい、が先。欲しい結果が先で、理由はそのためにあとで作られたもの。
ここで「ファンネル(ビット)」の話に戻ろう。
ニュータイプが脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、このミノフスキー粒子散布の戦場を大前提にして戦ってきた『機動戦士ガンダム』終盤で登場させた、びっくり兵器。
脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、電波障害を受けない。
誘導兵器が使えない戦場で登場した、ひとつだけ誘導ができる兵器。それがビット(ファンネル)です。誘導力が落ちない、ただひとつの掃除機。
※識者諸兄へ。サイコミュの設定自体にミノフスキー物理学が絡んできますが、本筋の理解に関係ないので省略します。
ただし、この兵器が使えるのは強い脳波をもつ、作中で「ニュータイプ」と呼ばれる特別な能力を持つ人達だけです。
ミノフスキー粒子散布下が前提の戦場において、ニュータイプ能力の軍利用という意味で大きな価値を持つのは「通信」でしょう。
ですからニュータイプ&サイコミュ兵器の組み合わせによって、電波障害の中、通信して誘導兵器をコントロールできる、というのが本来のビット(ファンネル)の第一の価値だと思います。
ニュータイプ・ララァと、モビルアーマー・エルメス
『機動戦士ガンダム』において、完全な無線でのサイコミュ兵器は、ニュータイプであるララァ・スン専用モビルアーマー・エルメスが持つ「ビット」だけです。
このララァ&エルメスが連邦軍に占領されたソロモン要塞でやっていたように、「本体は見えないのに、どこからか謎の攻撃を受けている」というのが、サイコミュ兵器の利用としては、最も理にかなっていると思います。
エルメスは指令を出す送信機の役割で、レシーバー(受信機)であるビットが攻撃を担います。
技術的に小型化が困難なせいもあって、エルメスを始めとしたサイコミュ搭載機はどれも大きく、いわゆるドッグファイト、近距離での格闘戦(作品として望まれたバトル)ができるような機体ではないし、そもそもそれを想定していません。
戦場に接近する必要はあるでしょうが、最大の役割はサイコミュの送信機。
攻撃兵器としてはビットが本体で、機体はおまけのようなものです。
ジオングに脚が必要かどうか、というのは本編内でもいじられたぐらいだが、サイコミュ送信機という観点から見れば、確かに脚は不要であって、あの技術士官の言っていることは正しい。
このあたり『機動戦士ガンダム』でのバトルの元ネタのひとつである、チャンバラや忍者物の文脈で言えば
・姿は見えないが、手裏剣や小石が自分めがけて飛んでくる
・術者は見えないが、催眠で操った人間たちをけしかけて攻撃してくる
といった敵役とのバトルになるでしょう。
今でもネットの世界では、自分で動かず他人をコントロール(扇動)して攻撃させることを指して「ファンネル」と言われることがありますが、まさしくそのような兵器です。
この種のバトル、基本的には操っている本体を探し出す駆け引きになることが多く、本体自体にそこまで戦闘力はない(あればこの手法を使う必要が無い)というのがパターン。
『機動戦士ガンダム』だと、マ・クベがまさしくそのようなタイプなのですが、ニュータイプ能力は無いので古典的な小細工のみで、むしろニュータイプという新しい存在に蹂躙される役割になっています。
第39話「早すぎる修正パッチ」
さて、これまでの話から分かる通り、エルメスやブラウ・ブロには必然的に護衛のモビルスーツが必要になることが分かりますね。
しかし、ここからが『機動戦士ガンダム』の本当に巧妙かつ周到なところ。
第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」において、初のサイコミュ搭載機であるブラウ・ブロは単騎で出撃して、ニュータイプとしてガンダムの性能をも上回りつつあるアムロに敗れます。
アムロが目を閉じ心眼殺法みたいなことするのが、いかにもチャンバラ、忍法文脈。
もちろん相手がアムロでなければ単騎でもやすやすと撃破されてはいないでしょう。
オールレンジ攻撃を避け、本体を察知し、そこまで近づけてしまうガンダムは、まさしく天敵といえる。あまりに相性が悪すぎる。
先ほどの忍者物の例えだと、目を閉じ心眼で「そこだ!」と隠れている本体に対して、手裏剣を投げて当てれるタイプ。
それにしても、なぜシャアは、ブラウ・ブロに護衛をつけなかったのでしょうか。
劇中のセリフを引用してみましょう。
ララァ「なぜ(シャリア・ブル)大尉だけおやりになるんです?」
シャア「律儀すぎるのだな。ブラウ・ブロのテストをしたいといってきかなかった」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「不服か?私はエルメスを完全にララァに合うように調整してもらわぬ限り、ララァは出撃はさせん」
シャリア・ブル、止めるの聞かず、発ったんだわ。
そして、ブラウ・ブロが撃破され、シャリア・ブルが敗死したあとのやりとり。
シャア「シャリア・ブルまで倒されたか」
ララァ「今すぐエルメスで出ればガンダムを倒せます」
シャア「あなどるな、ララァ。連邦がニュータイプを実戦に投入しているとなると、ガンダム以外にも」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「戦いは危険を冒してはならぬ。少なくともソロモンにいるガンダムは危険だ。それに、シャリア・ブルのことも考えてやるんだ。彼はギレン様とキシリア様の間で器用に立ち回れぬ自分を知っていた不幸な男だ。潔く死なせてやれただけでも彼にとって」
ララァ「大佐、大佐はそこまで」
シャア「ララァ、ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した人類の悲しい変種かもしれんのだ」
とまあ、本来ならしないであろう一騎打ちの理由を、パイロット側(シャリア)の個人的なところに落ち着けている。
さらにこの回には、ララァに関する以下のやりとりがある。
シャア「わかったのか?ララァが疲れすぎる原因が」
フラナガン「脳波を受信する電圧が多少逆流して、ララァを刺激するようです」
シャア「直せるか?」
フラナガン「今日のような長距離からのビットのコントロールが不可能になりますが?」
シャア「やむを得ん、というよりその方がよかろう。遠すぎるとかえって敵の確認がしづらい」
フラナガン「そう言っていただけると助かります。なにしろ、サイコミュが人の洞察力を増やすといっても……」
先にソロモン要塞での長距離ビット攻撃が、もっともサイコミュ兵器の有効な使い方である、と延べたが、それについて修正パッチを当ててきた。なぜなら、次の回は第40話「エルメスのララァ」。アムロのガンダムと、シャアゲルググ&エルメスが交戦する回。
見えない場所からのオールレンジ攻撃は、ブラウ・ブロ戦を見てもアムロには通用しないし、そもそもそれではミノフスキー粒子をまいてまで接近戦をやれる戦場を設定した意味がない。
アムロとシャリア・ブルとの間に、特に何もドラマが発生しなかったのは……直接的には話数短縮の影響大だろうが、逆に言えば、特にドラマ無しで終わらせるなら、あの戦いでいいわけです。
だがララァというキャラクターが背負うドラマは、それこそ話数短縮の影響もあって、より大きい。
ミノフスキー宇宙の戦場に対する、ただひとつの誘導兵器として登場させていながら、結局のところ、こうしてドラマの発生する近距離で戦闘するために外堀が、早々に埋められていく。
矛盾のように思えるかも知れないが、これで分かるのは、SFガジェット的な世界設定中の特異点兵器を描くことよりは、近距離に敵味方をおさめる分かりやすい絵面にしつつ、コクピット同士でしかない宇宙戦闘で何とかドラマを発生させることを優先している、という事実だ。
私は「ニュータイプは戦争(ロボットアニメ演出)のための道具でしかない」と度々、このブログでは書いている。
ニュータイプの使うサイコミュ兵器も、当然その例外ではない。
その最初期から、つまりブラウ・ブロ、エルメスの時から、SFガジェットとしての設定より、TVアニメとしての「劇」が描きやすい距離が優先されたことに注目してほしい。
SF的想像力は存在するが、SF的な描写は良くも悪くも最優先されない。
ベテランパイロットたちのサボタージュ
第40話「エルメスのララァ」では、さらに周到な外堀埋めが行われる。
シャアの部隊は、ホワイトベース隊の前に、連邦の戦艦マゼランやサラミスと接敵し、ララァは出撃する。シャアは護衛に2機のリックドムをつける。
シャア「ララァ、恐くはないか?」
ララァ「は、はい」
シャア「初めての実戦だ、リック・ドム2機のうしろについて援護をすればいい」
ララァ「はい」
しかし結果的に言えば、この護衛のドム2機は役割を果たさない(サボタージュする)。
ドムパイロット(バタシャム)のセリフは興味深いので引用してみましょう。
バタシャム「……エルメスのビットが?ま、まるでベテランパイロットじゃないか。あれが初めて戦いをする女のやることなのか?」
ララァ「よーし、もう1隻ぐらい、あっ!」
「あっ! ドムが援護を?」
「あっ! ドムがうしろに下がる」
「なぜあたしのうしろにつこうとするの?初めて戦いに出るあたしを前に出して」
「あたしがやるしかないの?」
「ああっ、援護がなければ集中しきれない」
シャアがゲルググで出撃し、ララァのあとを追う。

シャア「ん?どういうことだ?」
「バタシャムめ、貴様が前に出るのだろうが」
バタシャム「馬鹿言え、エルメスがいたら俺達が前に出ることはないだろ」
シャアのサポートもあり、ララァは無事に帰還する。
当然、ドムのパイロットたちは、シャアから呼び出しを受け、説明を求められる。
バタシャム「ひょっとしたらエルメスはシャア大佐のゲルググ以上でありましょう」
シャア「歴戦の勇士のお前達がそう言うとはな……」
バタシャム:「我々はニュータイプの能力というものを初めて見せられたのです。あれほどの力ならばララァ少尉はお一人でも戦闘小隊のひとつぐらいあっという間に沈められます。その事実を知った時、我々は馬鹿馬鹿しくなったのであります。ララァ少尉ほどのパイロットが現れたなら、我々凡俗などは……」
シャア「ララァに嫉妬しているのではないのか?」
バタシャム「心外であります。……いや、皆無とはいえませんが、なによりもニュータイプの実力に驚きました」
シャア「うん」
バタシャム「軍法会議も覚悟しております。が、エルメスの出る時、後衛にまわることだけは認めてください!」
シャア「できるか?少尉」
ララァ「中尉のおっしゃることはわかります」
シャア「そうしてくれ」
「中尉、いいな?」
バタシャム「は、大佐」
面白いよねこの会話。
ベテランパイロットがこう答えたのにはいくつか感情があったと思うが、大事なことは、彼らはここまで説明してきたようなサイコミュ兵器の本質を全く理解していない、ということ。
もちろん戦争末期にいきなり登場したびっくり兵器なので仕方ない部分もあるのだろうが、そもそもどういう運用がされるべき兵器なのか全く分かっていない。
シャアは理解してるはずなので、部下がここまで全く分かっていない責任は上官のシャアにある。
ただ物語として必要なのはシャアの責任どうこうではなく、ドムがエルメスの後衛に回ってもOKになったこと、そしてシャアがララァのサポートをするしかない、ということだ。
これで次回、第41話「光る宇宙」という城の外堀は完全に埋まった。
ここまで読んできた人であれば、せっかく姿を見せずに長距離誘導攻撃ができるはずのエルメスが、この回「シャアがくる」をバックに颯爽と片腕落とされたシャアゲルググを護衛に、アムロのガンダムと近距離戦をやらされることの恐ろしさが分かるだろう。
まさしく翼をもがれた状態いや、翼の折れたファンネル。
“もし私がニュータイプだったなら、ガンダムを近づけやしないのに……”
そんな大佐のつぶやきにさえ うなづけない 心がさみしいだけ
(これがやりたいだけだろ、とか言ってはいけない)
シャアはこの時点で最もニュータイプの実用性を信じ、サイコミュ兵器の意味も理解している男のひとりだが、最大の問題は、連邦に白いやつがいること。
ミノフスキー粒子が散布された戦場で、全兵器に対するアンチユニットになれるはずのエルメスに対する、ただ唯一のアンチユニット。それがアムロとガンダムの組み合わせ。
ドムパイロットの「ビット強すぎじゃん、お前一人で戦争やればいいだろ」に対する最悪の答え。
だからエルメスで近距離戦などもちろんするべきではないが、ビットの攻撃をさばきながら接近できてしまうのだから仕方がない。
シャアが護衛の役割を果たすべきだが、アムロの戦闘力はシャアをも上回り、むしろシャア守るためにビット使わされて「邪魔です」と言われる始末。
このあたりの来たるべきポイントへの周到な用意とパワーバランスの妙。
でもフラナガン機関とジオン開発者の目論見は全く間違ってないはず。
ミノフスキー粒子散布下での「通信」の保持とコントロールにこそ、ニュータイプ能力を使うというのは妥当のはず。
ただ実際は、ブラウ・ブロもエルメスもジオングも全部、アムロ(ガンダム)が叩き潰している。
研究と開発の責任者には心から同情する。
あと、ここまで外堀を丹念に埋められて、翼を折られたララァ・スンにも。
ゆるふわインド少女最強伝説
ニュータイプ能力に目覚めたものの存在と、サイコミュ兵器。
『機動戦士ガンダム』では諸事情もあって、ララァ・スンがその身に背負うことになる。
ララァはそもそも軍人ではないし、軍人として戦おうとも思っていない。
ただ出会い拾ってくれたシャアへの恩義と情愛で訓練を受け、戦場に出る。
結果として、エルメスは短時間に絶大な戦果を上げ、ベテランパイロットどころか、赤い彗星以上の存在となった。
ニュータイプ能力とサイコミュ搭載ニュータイプ専用機のおかげで、屈強なジオンのおっさん軍人より、ふわふわインド少女の方が戦場で活躍できるようになったわけで、『ガンダム』世界では最強パイロット表現に、性差と年齢は関係ないことになった。
「あたしは絶対にイングラムを否定しないんだ。あたしの筋肉だからね!」と言い切ったのは、『機動警察パトレイバー』の泉野明だが、たしかにロボットであれば女性でも戦うことができるだろう。本人の筋肉量と関係なく。いわんやサイコミュをや。
それは現在のフラットな視線から見れば「当たり前」としてしかるべきで、特に理由なくパイロットに男性も女性もいる、ということになるだろう。
実際に『機動戦士ガンダム』以降のシリーズでは、職業軍人として普通に数多くの女性パイロットが登場する。
ただその一方で、サイコミュ兵器を操るニュータイプのパイロットにはファースト以後も少女が多く、『Zガンダム』からは「強化人間」という人工ニュータイプにも少女が多く登場する。
正直に言えば、これはフラットということではなく、少女であることと、強い戦闘力(ニュータイプ能力)をもつことが、同時に求められたのだろうと思う。作品の中で、というより作品の外で。
ララァ・スンが結果としてアムロとシャアの間のファム・ファタール的な悲劇のヒロインになったとすれば、強化人間はそうなるように、まさしく人工的に作られた存在といえるだろう。
ニュータイプ能力が必要なファンネルやビットは、性差や年齢を超越した兵器ではあるけれど、それを操るニュータイプ(強化人間)に関しては、ドラマの道具立てとしてはどうしても性差や年齢は超越していないと思える。
もちろんこれはあくまで、本記事が取り扱う範囲である、何十年も前の少年主人公アニメでのお話。Twitterの反応やインタビュー記事などを読むと、今回の『水星の魔女』はいろいろと違っているようなので、楽しみにしておきたい。
ニュータイプ・ハマーンと、モビルスーツ・キュベレイ
『機動戦士ガンダム』から7年後の世界『機動戦士Zガンダム』での、ビット(ファンネル)搭載機は、キュベレイ。
いわずとしれた、ハマーン・カーンの乗機にして、アクシズ(ジオン)の象徴のような機体だ。
もともと「ファンネル」とは、キュベレイの装備する小型版ビットで、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業とは関係なく、形が漏斗(ろうと、じょうご)に似ているから、そう名付けられた。
しかしこれ以降、同タイプの兵器は形状関係なく「ファンネル」と呼ばれることになる。
元々は形状を示していたのに、その意味が抜け落ちて呼び名だけが残った、というのは例えるなら、あれだ。あれ。我々で言うところのあれ。まさにあれみたいなものだ(この部分、このまま公開時に残っていたら何も思いつかなかったと思ってください)。
今回の話の流れとして、このキュベレイの何がすごいかといえば、キュベレイ単体でちゃんと戦えて強い、ことでしょう。
小型化にも成功してモビルスーツサイズとなり、ビームサーベルもあり近接戦闘も出来る。
パイロットであるハマーンの能力も相まって、ファンネル攻撃はもちろん、本体のモビルスーツとしても普通以上に戦える。
いわばララァとアムロの良いとこ取りのファンネル搭載機で、ジオン系開発者のガンダムへのトラウマが見えるようで面白い。
エルメスのビットには、熱核反応炉が内蔵されており、稼働時間も長く、ビームの出力も高いが、その代わりサイズが大きい。
キュベレイのファンネルは、バッテリー式でビットに比べれば、稼働時間や出力は低いが、小型化に成功した。
バッテリーがなくなったら本体に戻し充電が可能なので、現在の目で見れば、ルンバ(ロボット掃除機)の充電のようなイメージだろうか。
ファーストの頃から近距離戦を余儀なくされたサイコミュ兵器だが、ファンネルではこの仕様の変化もあり、戦闘の形式自体も最初から違っている。
忍者物の例えで言うなら、もう本体は隠れていない。
本体は見せたまま、でも見えない角度から攻撃が飛んでくる敵、みたいな感じになる。
または、攻撃方向が多数方向すぎて、対処しきれないタイプの敵。
こうなると戦闘の駆け引きは本体探しではなくなるし、分かりやすい攻略法はない。普通に強い。
さらに重要なことは、キュベレイのパイロットがハマーン・カーンであることだ。
そもそも、ファンネル搭載機をモビルスーツサイズに出来たからといって、ファンネルとモビルスーツのコントロールを両方高いレベルですること自体が困難なのであって、その意味でまさしくハマーンはモビルスーツで15勝、ファンネルで34HR、大谷翔平クラスの二刀流ユニコーンといってもいいだろう。
それだけではない。
ララァが敵であるアムロと戦場で精神的に強くつながり、それをシャアに嫉妬された上に彼をかばって命を落としたことを思い出してもらいたい。
ハマーンはララァと違い、敵対するニュータイプと接触し、互いの心が深くつながってもそれを拒絶するニュータイプだ。
ハード(モビルスーツ)、ソフト(パイロット)の両面でスキはない。
※全然褒めてない。そんなハマーンに誰がした。なあノースリーブよ。
ちなみに『Zガンダム』では、ファンネル搭載機がキュベレイ一機しか登場しないが、その持ち主がハマーンであることは興味深い。
本体(キュベレイ)とファンネルは支配・被支配の関係にある。
ハマーンの人間関係の基本がそこにあり、彼女が使うモビルスーツがファンネル搭載機なのは象徴的だ。ハマーンの象徴。(これが言いたいだけだろ、とか言ってはいけない)
また別の視点として、ファンネルがエネルギー充填のために本体にお乳を吸いに戻ることを考えれば、キュベレイとファンネルはある種の親子関係とも言うことができよう。
ハマーンはキュベレイのファンネルで四肢をぶった切って、百式をダルマ状態にしてでも、シャア(クワトロ)に自分の元に戻るように迫る。

支配・被支配の関係、さらに私が昔から提唱している「ハマーン=アクシズのシングルマザー」文脈での逃げた元亭主の首根っこを掴む視点から見ても興味深い。
まあそれでもシャアは逃げるんですが。
なぜハマーンはファンネルで勝負をつけなかったのか
『機動戦士ガンダムZZ』最終回「戦士、再び……」での、主人公ジュドーとハマーンの一騎打ちは、最終的にビームサーベルの斬り合いでジュドーが勝利する。
決着後ジュドーが、なぜもっとファンネルを使わなかったのか、と尋ねると、ハマーンは「一騎討ちと言ったろ」と答える。
実際、この戦いの勝敗自体に特に意味はないので、彼女の精神的な決着の為だけにあるはず。
だから、ハマーンがファンネルを使わず、剣での決着を望んだ、ということになるだろう。
ファンネルは被支配の兵器であくまで主体からコントロールされたものでしかないので、精神的決着にハマーン(つまり主体)の気持ちが乗らなくてどうする、つまりキュベレイが握るサーベルに意思を乗せるしか無いだろう、ということだ。
他にも、もうキュベレイのファンネル戦闘で面白い絵面も無さそうだし、ハマーンの自殺願望とか、あのオカルト空間でどうせファンネルなんかどうせ効果ないし、とか色々言えてはしまうのかも知れないが。
結局のところ、サイコミュ兵器やファンネルとしての利点を、SFガジェットや軍事的な思考で突き詰めるよりは、TVアニメーションとして同一フレーム内で接触すること(それはキャラクターの意思を直接表現すること)がここでも優先されているといえる。
ただその上で、ハマーン・カーンというキャラクターに寄り添った解釈をしてあげるなら、前作『Zガンダム』の時に、ファンネルで百式をダルマにしてもシャアに拒まれたという経験がすでに存在している、というのがひとつ。
ファンネルでモビルスーツ戦に勝利したとしても、シャアに言うことを聞かせることはできず、彼女が欲しかったものは得られなかった。
もうひとつは、アクシズの指導者として『Zガンダム』から『ガンダムZZ』まで、ミネバと彼女の信奉者をファンネルのごとく上手く操ってここまで来たが、グレミー離反と、ジュドーの抵抗もあって全ては水泡に帰した。
この期に及んで、何かを操るような方法(=ファンネル)をようやく意識的にやめたのかも知れない。まあ操るものはこの時点でファンネル以外に何も残っていないのだけど。
ハマーンはファンネルがごとく、人と人との関係も上手くコントロールし、支配する。
だからこそ彼女は「ハマーン様!ハマーン様!」と叫ぶ崇拝者に囲まれていながら、常に孤独にならざるを得なかった。
そして大事なことは、彼女の孤独を救ってくれるはずのシャアもジュドーも、けして自分の思い通りにはならない存在であることだ。
それを味わった百式ダルマ戦を踏まえた上での、ジュドーとの最終決戦で「ファンネルで決着をつけることを選ばなかったハマーン」という視点を加えると、物語の豊かさがより増すのではないだろうか。
手に入れたいものは、手に入らないもの
もうすでにファンネルの話というか、完全に単なるハマーンの話にスライドしているが、このあたりがいちばん書きたいところなので、このまま脱線を続ける。
「戦士、再び……」では最終回なので珍しくハマーンが色々と気持ちを吐露するけれど、個人的にはそこに意味があるようにはあまり思えない。
ジュドーは言う。
「そんなに人を信じられないのか!?」
「憎しみは憎しみを呼ぶだけだって、分かれ!」
「憎しみを生むもの! 憎しみを育てる血を全て吐き出せ!」
これに対して
ハマーン「吐き出すものなど……ない!」
こう突っ張るけれど、無いわけがない。
どう考えても山程ある。吐き出す相手がいないだけで。吐き出す素直さが無いだけで。ついでにいえば吐き出してどうにかなる余地もないだけで(最終回だからね)。
これを見て、この矜恃、さすがハマーン様!みたいな事は全く思えない。
決着後もジュドーが本当に欲しい答えをはぐらかすように話していて、ここのハマーンの台詞にも特に意味がある感じはしない。
むしろ、最後までやせ我慢して、この期に及んでこの人は……と思ってしまう。
要は、ここで必要なのはただひとつ。コクピットハッチを開いてジュドーの方へ飛び込んでいくことなんだけど、もちろんハマーンにはそれが出来ない。
実際に前話「バイブレーション」でクインマンサのプルツーがそれをやっている。
ハマーンのシャドウたる子供のプルとプルツーは出来た。
だけどハマーン本人にはそれが出来ない。年齢も立場もプライドも己が今までやってきた事も全てひっくるめて出来ない。
結果的にジュドーとは逆方向に彼女は飛んで、そして自ら命を絶つことになる。
敗北したキュベレイと同じくダルマ状態にされた百式で、クワトロが池シャアシャア(池田秀一とシャアにしか使えない特殊表現)と生き残った事に比べれば、大変潔い。あまりに潔すぎる。
色々都合よく始末をつけすぎるのは、ジュドーが木星にいくのと同じで、制作も決まった映画『逆襲のシャア』の下準備という側面もあるけれど。

有名なシャアと少女時代のハマーンとの写真。
どれだけ意図されたものかは分からないが、意図のあるなしとは無関係に私はよくできた写真だと思ってるんですよ。
シャアより7歳下でこの時まだ少女であるハマーンだが、年上の男性であるシャアの胸に自分を預けるのではなく、背伸びしてでもシャアと同じ高さ、目線で映ろうとしている。
シャアをパートナーと考えていたハマーンにとって「対等」である事は重要だったのではないか。
だからこそシャアと対立し、ハマーンを政治と戦争に担ぎ出した張本人であるシャアは逃げ出す。
(ララァは戦いをする人ではなかったのに、誰かが戦場へ連れ出したことを思い出して欲しい)
シャアは子供の、いや女性(といった方がよいか?)に合わせて頭(目線)は下げてくれない。
だからこそジュドーとの関係で必要だったのは、ハマーンがジュドーの目線に合わせることなんだけど、最後の最後まで出来ない。
ジュドーは14歳の子供。それでも10歳のプルとプルツーなら飛び込める彼の元へ、ハマーンは最後まで行けない。
シャアの時と同じく私の所へ来いとは言うのだが、もちろん失敗する。
(勘違いするような人などいないと思いますがこれ、行けないのが悪いという話ではないですよ)
少女時代を捧げたのに逃げられた年上のシャア(追いかけて包丁突きつけても拒否される)。
そのシャアと似ている男をやっと見つけたと思ったら、年下の14歳。まっすぐな魂をもっていて、ハマーンの心に土足で踏み込まずにストレートに言葉で気持ちをぶつけてくる。好ましく強い子だ。だけど悩ましい。
最後の「強い子に会えて……」の気持ちに嘘は無いと思うが、自分がシャアと同世代だったらと思ったように、ジュドーが自分と同世代だったら……と思わずにはいられなかったのでは。
年下のジュドーに対して素直になれない自分である以上は。
サーカスの子供がたった一人、ガラスのロープを目隠しで渡るんじゃない。
結局どれだけ多くのものを支配下においても、本当に手に入れたいものは、自分ごときに支配などされないもので、恐らくそれだけが彼女と対等の関係を結び、孤独から解放する存在。
だけど彼女はその相手と関係を結び、維持する方法を知らない。最後まで。
それがハマーン・カーンというキャラクターです。
個人的には、無理やりでも目線を対等に持っていこうとするハマーンを好ましく思っています。
改良型ハマーンであるナナイの方が、シャアから見てかわいげがあるのだろうけど、個人的にはハマーンの方がいいですね。(これも勘違いのないように書けば、劇場用に用意されたキャラクターとしてはナナイで問題ない)
『逆襲のシャア』でのファンネルvsファンネル
さて。シャアが絡む話になるといつも脱線するが、本筋の「ファンネル」の話に戻す。
ともかくキュベレイとハマーンの組み合わせは、エルメス路線での本来の意味でのサイコミュ兵器運用とは別で、キュベレイがその後のファンネル搭載兵器のひとつのスタンダードになる。
もちろんエルメス路線も、ここまで説明した通り、護衛ドムのサボタージュや役に立たない護衛(シャア)など丁寧に下ごしらえした上で、エルメスとガンダムのドッグファイト状態にしたわけで、結局は「あんた達、同じフレーム内で戦闘しなさいよ!めんどくさいのよ!」という話ではあるんだろうけど。
そして映画『逆襲のシャア』では、シャアとアムロがモビルスーツ本体で戦闘しながら、ファンネル戦闘するにまで至る。
ザザビーとνガンダムのファンネルが飛び回りながら、絡み合いながら、くんずほぐれつ、くんずほぐれつ。
まあいやらしいったらない。
作画、演出的にもまさしく劇場版の豪華さで、νガンダムvsサザビーこそ達人同士の忍術合戦。戦闘の全プロセスに白土三平調のナレーションを入れて解説できるはず。
チャンバラと忍術がベースになっているのは、はっきりいえば制作者の世代によるところが大きいとは思う。静と動のメリハリがあってアニメ向きというのもあるのかも知れないけど。
富野由悠季作品としてのファンネル演出は、この作品がひとつの到達点で、以降は別の工夫が必要になるフェイズに入ったんだろうと思います。
その工夫は、他の監督たちが模索していくことになり、恐らくその先に『水星の魔女』でのいきなり主人公機がファンネル、にもつながっていくのでしょう。
挑戦者たちの勇気がファンネルの未来を開くと信じて……!
ご愛読ありがとうございました。
まとめ、もしくはあとがき
先行している総論的な記事(あでのいさん)がある以上、そうではない記事を書くことを意識したというのはあります。
が、結局いつもの、シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りになってしまった……。だが私は後悔していないし、謝らない。
ちなみにハマーンのところは、昔のハマーン&シャアツイートなども加えて、さらにボリュームを増やそうと思っていましたが、ファンネル部分だけでも想定より分量が増えてしまったのでカロリミットして、また別記事で書くことにしました。
シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りをまたお待ち下さい。
ファンネル(ビット)に関していえば、結局のところ『ガンダム』最初期から、兵器の特性よりはTVアニメでドラマを組むことを優先されているわけです。そこが富野由悠季らしく、個人的にはドラマ重視で好みではあるのですが、それは当時の制作者としてのひとつの選択であって、単純にそれが正しいわけでもなければ、悪いわけでもありません。
ただ、制作者が変われば、時代が変われば、表現技術が変われば、他にもさまざまな表現ができるロボットアニメバトルのすばらしい道具であることは間違いなく、実際他のいろいろなガンダム作品で工夫と活用がされてきました。
ファンネルの面白い表現や演出にこれからも期待したいと思います。
とりあえず私は、この記事をまとめるまでは、思考がとっちらかってファンネル制御の思念波に乱れが生じる恐れがあるため視聴を控えた、水星狸合戦ぽんぽこ、こと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を楽しみに見てみようかと思います。
それではまたお会いしましょう。
関連記事紹介コーナー
では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。
僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>
ニュータイプの因果の中心に関わったシャア・アズナブルと、ハマーン・カーンを中心にした話。
基本的にSFガジェットであり、また人によってはニューエイジの影響といわれる「ニュータイプ」だが、結局のところその方面で強化されることはなく、人間ドラマ上の道具でしかなっていない(それが私の好きなところ)。そしてそれはシャア・アズナブルという男のささいな嫉妬から始まり、それがハマーンがカミーユを拒絶する瞬間に結実する。映像の世紀、バタフライエフェクト。
空虚なハマーン・カーンを救うことは可能か<『機動戦士ガンダムZZ』感想戦>
ハマーン・カーンのキャラクターについてと、彼女を救済する可能性について検討しています。「救済」というものがどういう意味を指すかは、ぜひ記事をご覧ください。
お、おま、ファンネルじゃなくて、ハマーン関連記事ばっかりじゃねーかとお嘆きの諸兄。
そのとおりです。
サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>
ファンネルにだけ注目したわけでないですが、本記事でも触れた、マスターニンジャであるサザビーとνガンダムの戦闘についての記事です。どのようにこの戦いの目的が設定されているか、が主題でしょうか。