やるべきことはもうほぼ全て終わっているので、今連載しているパートはエピローグと思っていいでしょう。
![]() | MAJOR(メジャー) 73 (少年サンデーコミックス) (2009/09/17) 満田 拓也 商品詳細を見る |
連載が終了してしまう前に言わなければいけないことがあるので、すべりこみで書いておきたい。
(最近の例によって、twitterのまとめ直し記事なのですが、天国のおとさんに免じて許してほしい。)
『MAJOR』ってどんなマンガ?
Wikipedia:『MAJOR』によれば、連載開始は1994年、現在までにコミックス73巻(少年サンデー最多巻数)、さらにNHK教育テレビでもアニメ化されたので、説明するまでもなく幅広い層に人気のあるマンガです。
アニメ化されたのもあって、平成生まれや子供たちにはメジャー(有名)なのかも知れないですね。ここではむしろ、世代的に読んでいなかったという昭和生まれHIPHOP育ちの人のために簡単に紹介しておきましょう。
よくわかる『MAJOR』概要
父親をプロ野球選手にもつ主人公の野球少年吾郎君の球けがれなく道けわしを地で行くベースボール半生記。
父を試合中の事故で殺された少年吾郎は復讐を誓い、とっちゃの仇を討つため宿敵の待つ柳生の里へ向かう……のは週刊少年サンデー連載でも『六三四の剣』。
『MAJOR』は「とっちゃ」やない!「おとさん」や!
『六三四の剣』と基本設定が似ているので、「とっちゃ」に対しての「おとさん」、六三四(剣道)に対する吾郎(野球)のマンガ、と言った方が、70年代生まれには分かりやすかも知れない。
ちなみに吾郎君の誕生日は11月5日だそうなので、6月5日生まれではないみたいよ(6時生まれ?)。
『MAJOR』。その物語の価値は?
さてその『MAJOR』。
私は連載分を毎週毎週読んでいます。
コミックスで読んだことはありません。今後も全てを通して読むことはないでしょう。
なぜなら『MAJOR』のストーリーをまとめて読むと、恐らく私には主人公吾郎君が精神分裂症か人格破綻者か何かに思えてくると思うから。
現在まで73巻の大長編マンガとなっている『MAJOR』ですが、その物語はしっちゃかめっちゃかで、「ひとつの物語」としての価値が高いとはお世辞にも言えない、というのは毎週読んでる私から見ても思う。
だが、『MAJOR』の価値を否定しているわけではない。むしろその逆だ。
私は『MAJOR』をすばらしいマンガだと思っている。
なぜなら、吾郎君は私を絶対に裏切らない。だから私は吾郎君を心から信頼している。
それはいったいどういうことなのか。
なぜ私は吾郎君を心から信頼しているのか
『MAJOR』でのストーリーの方向性は、主人公である吾郎君本人が決めています。
つまり「吾郎君の選択で周りが動く」という天動説マンガです。
世界の中心にして地球たる吾郎君は、はっきりいえば来週のヒキのことしか考えていません。
たとえば、「無難」と「困難」の道があれば必ず「困難」を選ぶし、「安全」と「ケガ」があれば「ケガ」を選ぶ。「回避」と「激突」があれば「激突」を選ぶし、「可能」と「不可能」があれば「不可能」を選ぶ。
自信家なのでハッタリもかますし、嵐を呼ぶ球児なので敵味方問わず大混乱も巻き起こします(魔法効果範囲:敵味方全員)。
やっていることはむちゃくちゃで、振り回される家族や友人やチームメイトのことは考えていない。
では誰の顔を見てこんなことをしているのかと言えば、もちろん私たち読者の顔を見ている。
というより、私たち読者のことしか考えていない。そういう主人公なのです。
私たち読者は吾郎君の無茶っぷりに「うわー、えらいことになった。これ来週どうすんの。面白くなってきた!」となりますが、作中での吾郎君の周りの人々はとことん振り回されます。
吾郎君の親友である佐藤寿也(寿君)なんて、吾郎君に「バッテリー組んで天下取ろうぜ」と言われて名門の強豪高校へ入学したんですが、なぜか吾郎君だけ自主退学。理由は「この最強の高校を倒す方にまわりたい(その方が面白い)から」
こういう彼の行動を普通に考えれば、吾郎君はとてもひどい人間だ。友達にはなりたくない。
だが我々読者にとっては、吾郎君はすばらしい人間という他ない。
彼はどの選択よりも「ひどいこと」になるように、「面白く」なるようにしか行動しないんですから。(最近でも「目にゴミが!」はすばらしい名演でした)
面白そうな匂いがしたら、常識やセオリーは無視、空気も読まない、人の和や想いも顧みず飛びつく。
だから彼は常に私を裏切らず、結果、私は彼を信頼する。
いい大人になっても、きっちり「おとさん」と言い続けることを忘れない主人公をね。
次の週まで興味をもたせるだけのマンガ
しかし、その結果として残されたストーリーはどうしても「吾郎君ひどいなあ。むちゃくちゃだ。」と思われるようなものになっている。まあ、吾郎君みたいなことを73巻分続けて、そうならないわけがない。
ひとつの物語として見たときに、お世辞にも質が高いとはいえないが、このマンガはそうい部分での「質」は最初から目指していないはずだ。
週刊少年マンガとしてはバランス良くお上品な作品の多いサンデーの中で、『MAJOR』は貴重な役割を果たすマンガで、吾郎君はその役割をきっちり果たした。
もしも、最終回を終えたあとの主人公吾郎君にインタビューすることができるのならば、
吾郎「毎週楽しんだか?楽しんだならそれでいいよな?」
と満足げに答えてくれるかも知れない。
そして私はその答えに大きくうなづくだろう。
ストーリー完成度至上主義者のような人からみると、こういった『MAJOR』のストーリーは何の価値もないかも知れない。
だが、そんなことは私に言わせればナンセンスだ。
吾郎君が毎週毎週、長年の間、どれだけ我々を楽しませてきたか知らないのか?と言いたい。
マンガの価値は、物語の質が高い低い、キャラクターが良い悪い、画が上手い下手というだけではなく、もっと懐が深くて、多様な価値に満ちている(と思う)。
週刊雑誌に掲載されるわずかなページで、次の週まで興味をもたせるだけのマンガ。
そういう言い方を『MAJOR』に対してできないことはない。
ただ私には、それが褒め言葉の表現のひとつに過ぎないと思えるな。だってそういうマンガって、要するに充分価値が高いマンガじゃないか。ねえ?
以上のようなことを連載終了前に書いて残しておきたかった。
終了後では、故人に対して没後に「惜しい人を失くした」「いろいろあったが、すばらしい人だった」と善人にしてしまうような気がして、あくまで連載中に書いておきたかった。
ギリギリだが寿君のタッチをかいくぐって、すべりこみセーフできたかな。
この辺りの話は、以前に『ブラックラグーン』9巻のことを書いたときの話と関連しています。
もし良かったらそちらも読んでみてください。
ちなみにここまで書いたような考えなので「『MAJOR』はもうすぐ最終回になりますが、とても面白いのでコミックスでまとめて読んでね」とは全く思わない。
私も買ってないし、今後も買うことはない。連載分を読んだらサヨナラだ。
だけどそこには次の週まで7日間を楽しませるものが確かにあった。
私にはそれで充分の価値があり、そしてそれが私と『MAJOR』の付き合い方だった。
さて本編はおしまい。ここからは余談として、もうひとつ。
『MAJOR』が少年マンガらしくてすばらしいな、と思うところを書いておきましょう。
吾郎君を理解するのは読者だけ
『MAJOR』の主人公吾郎君の言動はかなりむちゃくちゃなんですが、読者には理解ができる。
なぜなら、物語の主人公が進むべき、そして我々読者が見てみたいと思う道だから。
しかし、作中の登場人物たちには、吾郎君の決断が理解できない。彼らの常識の範囲外だからだ。
つまり[主人公の選択と行動]について、読者とキャラクターで逆の構図になる。
【読者】理解できる
【キャラクター】理解できない
キャラクター達は主人公の行動が理解できず反対したり敵対したりするが、読者は理解者・応援者となって主人公を見守り、主人公はそんな読者との約束を果たす。
これは少年マンガが基本的にもっている構造だと思いますが、『MAJOR』は典型的なこのパターンのマンガですばらしいな、と思います。
もちろん主人公と受け手が共犯関係になるのは、物語としては基本といえます。
NHK朝の連続テレビ小説『おしん』にこんな感じのシーンがありました(記憶曖昧ですが雰囲気ね)
主人公おしんが奉公先でお金を盗んだと疑いをかけられる。視聴者はもちろん、おしんが盗むような子でないと分かっているし、実際盗んでいない。濡れ衣だ。
おしん「おら、金なんかぬすんでねえ!」
女中「まだそんな口きくか!おしん!おめえに食わせるタンメンはねえ!」
などと、理不尽な困難や逆境に合う。
無実を知っているのは視聴者だけなので、ますます主人公の支持者となり肩入れしていく。
少年マンガ、特に主人公が物語をまわす天動説マンガの場合、主人公自らが困難や逆境を選び、宣言(約束)するのが違いといえるでしょうか。
主人公は自業自得的に険しい道を行く。たとえば「野球部が無い学校で甲子園優勝」とかね。周りは不可能というが、主人公は読者とのマニフェストを守るために行動し、読者はそれを応援する。
主人公と読者の間にいかにステキな共犯関係を結ぶのか、というところに少年マンガらしさのポイントのひとつがあるかもしれないですね。
そのためには主人公は読者と約束をしなければいけないし、その約束を守ろうとしなければいけない。
そういう意味では『MAJOR』の主人公吾郎君はステキで理想的な共犯者でした。
この小説のタイトル『15×24』は、「15人×24時間」のこと。
主人公は自殺志願少年を含めた少年少女15人。舞台は12月31日、東京の24時間。
というのを聞いて、それだけの興味で買いました。うん、面白そうだ。
手に入れて2巻まで読みました(3巻が未だ買えていない)。そして実際に面白かった。
面白かったので、紹介も兼ねて、感想や考えたことをメモしておきましょう。(※ネタバレなし)
ちなみに私は、新城カズマさんの小説を読むのはこれが初めて。
そしてライトノベルは普段はほぼ読みません。以前読んだのは、桜坂洋『All You Need Is Kill』(2004)。その前は、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズ(1998~)をいくつか、という程度。
キャラクター小説としては読まずに、物語の枠組みが面白いという評判を聞いたものだけ読んでいる感じです。
『15×24』はどんなおはなし?
![]() | 15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1) (2009/09) 新城 カズマ 商品詳細を見る |
大晦日を迎える東京で、1人の少年が自殺サイトで知り合った人物「17」とともに死のうとしていた。しかし、「17」と連絡を取り合うのに使う携帯電話が盗まれてしまう。そしてその携帯電話の中にある自殺予告のメールは17歳の少年少女に転送されていき、彼らはそれぞれの理由で少年を捜索し始める。その一方で自殺予告のメールはインターネットを通じて拡大していき、暴力団をも巻き込むようになる……。
(Wikipedia - 『15×24』あらすじ)
12月31日、少年が間違いで出した自殺予告メールをめぐり、クラスメイトや巻き込まれた人たちが、少年を探して東京中を駆け回る。タイムリミットまでに自殺を止めることができるのか、というようなお話。
携帯、メール、ネットを駆使する、東京中を舞台にした24時間鬼ごっこ、という感じです。
今のところ(私が読んだ2巻まで)は基本プロットどおりの展開なので、想定の範囲内であるが面白い。まだまだ話を広げているところなので、ここからどうなるかは分からないけれど、毎度ながら私はそんなのは全く気にしない。
主人公だけでも15人いて、めまぐるしく視点が変わるのがとても楽しいが、15人全てが高校生ほどの少年少女。
ライトノベル的には当たり前かも知れないが、はじめは少し抵抗感があった。
なぜ主人公である15人全員が少年・少女なのか
「主人公(視点となる人物)が15人もいるなら、小さな子供や大人や老人も入れたら視点も幅も広がるし、読者側でも感情移入先の幅が広がってバランス良くなるのに」と思いました。第一印象として。はじめはね。
『サマーウォーズ』でも、高校生2人を中心に置きながら、家族をいう形態をとることで意識的に幅広い年齢をカバーしようとしていました。広く遠くへ届くものにするときはその方が良いことが多いはずです。
なぜ、15人もいる主人公が全員、少年・少女なんでしょうか?
「そりゃライトノベルだから、当たり前でしょう」なんて声が聞こえてきそうですが、考え方はともかく結論は同感なので、「うん。そうだね」と私も答えるでしょう。そして、次にこう続けるかな。
「なぜなら、この作品はライトノベルが引き受けるべき、正しいジュブナイル(少年・少女向け)だと思うから。」
多数のキャラクターをひとつのテーマでつなぐ物語
自殺志願の少年を探して止めようと全員が奔走する中で、15人の少年・少女達は「生と死」について考え直すことになります。
現実の世界でそうであるように、「死生観」については全員がバラバラです。
全員がひとつの目的のために行動するお話なのですが、その行動動機は全く違い、それが各キャラクターの違いになります。
つまり、この物語で、各キャラクターの個性というのは「死生観」によって表現されています。
「死生観」が各人バラバラであることでキャラを立てているわけです。
早い話、少年少女15人が
「死ぬっていけないこと?」
「生きるってどういうこと?」
というトークテーマの『真剣10代しゃべり場』をしている物語といってもいいでしょう。
登場人物が多い物語をコントロールする方法のひとつとして、テーマ(抽象的で、絶対にひとつの答えが出ないものがのぞましい)を設定し、登場人物全てに、そのテーマに対する考えを述べさせます。
これによって、多数の登場人物のポジショニングを分かりやすく整理し、キャラクターを立てるわけです。
たとえば、田中芳樹ならトークテーマは「政治」「戦争」「民主主義」あたり、福本伸行なら「金」「勝負」などだったりしますね。
考え方が真逆のキャラクターや、同じ考え方なのに敵味方のポジションに別れるキャラ、テーマに対しておちゃらけて真剣に答えないキャラ、テーマに対する考え方を述べない謎のキャラクターなど、ひとつのテーマに沿っているので、読者にとっても多数のキャラクターを覚えやすくなります。
『15×24』の場合は、トークテーマが「死生観」。
このテーマに対して、どう考えるか、どう行動するか、それが各キャラクターの個性です。
「でも主人公だけでも15人もいるんでしょ?こんがらがりそう。覚えきれるのかな…」
そういう心配はあまり必要ないと思います。
人間なら誰でも関わる根本的なテーマですし、「死生観」を軸に巧みに整理されていますので、必ず主人公達を覚えることができるでしょう。
非常に上手いというか真っ当なつくりだと思います。
15人もいるキャラクターを個性分けするのに、このような手法を使い、いわゆるオタクデータベース的な、類型的なギミックにはほとんど頼っていない。
普段ライトノベルを読まないような人(私もそう)でも、すんなり受け入れることができる構造と強度があることが読み進めるうちに分かってきたので、ならばなおのこと、全員を少年・少女にしてしまうのはもったいない、と思えてきたのだけど、2巻までを読み終えて分かった。
それでもこの『15×24』では、15人全員が少年・少女である方がいい。そうあるべきだ。
大人はわかっちゃくれない――いやわかったことにしてるんだ
![]() | 15×24link two―大人はわかっちゃくれない (集英社スーパーダッシュ文庫) (2009/09) 新城 カズマ 商品詳細を見る |
ある程度年齢がいった読者(私もそう)であるなら、『15×24』で書かれる少年・少女たちの多様な「死生観」を見ても、驚くことも、新しく発見することも、考えが変わることもないでしょう。
それは、この年齢になるまでに、みんなそれなりに『しゃべり場』を済ませたし、実際の体験もいろいろしたから。
だから、このトークテーマの『しゃべり場』に「参加者としての大人」を混ぜてはいけない。
話が一瞬にして終わってしまう。
それは子供の考えより、大人の方が正しいから――ではない。
大人はその話を終わらせる(折り合いをつける)ことで生きているから。生きることにしたから。
私自身も何か悟ったわけでもない。かろうじて分かったことはわずかに2つ。
1つ、正しい答えなんかない。誰も答えは知らない。
2つ、それを踏まえた上で、自分なりに答えを用意して、生きていくしかない。
(中島敦『悟浄出世』ですよね。要するに)
大人はこのトークテーマの『しゃべり場』に参加する資格がない。すでに失った。
参加資格があるのは、まだこの折り合いをつける前段階を生きる少年・少女達のみ。
だから、パネラーである15人全員を少年・少女にして、「死」と「生」について考えて、討論しながら、行動し続けるのが正しい。
大人は『しゃべり場』のおとなゲストのようにあくまでアドバイザー、または立ち塞がるもの、としてしか、この物語には関わらない方がいいんじゃないかな。
『15×24』における主人公15人全員が少年・少女というのは、きちんと意味があり、またそれが物語中で機能していると思います。
まだ途中だけど、それは最後まで裏切られることは無いんじゃないかな。2巻読了までにそう信じていい、という信頼感が私の中に生まれています。
ちなみに、ジュブナイルとしてすばらしいと、私はいってますが、「死生観」を含めて、大人には食い足りない、子供向け、というわけではありません。
年寄りの私でも充分に楽しんでいます。「死生観」だけでなく、ミステリ、パズル的なタイムサスペンス、現代のコミュニケーション(とすれ違い)ドラマ、ネット(メール、ブログ、掲示板)要素など、多層的に面白さを積み上げているので、さまざまな楽しみ方ができるはずです。
2009年の12月31日には、こん平師匠のカバンと同じくまだ若干の余裕があります。もし興味をもたれたら、ぜひ読んでみることをおすすめします。
今年の大晦日は、『15×24』を知っているかどうかで、いつもと違う大晦日になるかも知れませんよ。
余談:『15×24』はライトノベルであるべきか
![]() | 15×24 link three 裏切者! (集英社スーパーダッシュ文庫) (2009/10/23) 新城 カズマ 商品詳細を見る |
『15×24』がライトノベルで出たことについて、主に売上の面からネットでいろいろ意見がありましたね。詳しいことは、まとめてくださっている以下の記事で読んでいただくとして。
『15×24』問題まとめ - ウィンドバード
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20091101/1257034123
サマーウォーズ問題の次は、15×24問題か。日本は今日も問題だらけだ。
その中には「マニアック」「フックが弱い」というご意見もありますね。
主人公は少年少女15人。舞台は12月31日の24時間。携帯やネットを駆使した東京鬼ごっこ。
というのは、フックにもならないのかな。私はこれで読む決意をしたのだけれど。
映画だとこれぐらいの情報で、中身(の面白さ)が伝えられるものを、面白そう!となって見に行くイメージですよね。(ひとことで面白さが伝えられるものに落とし込んでいる)
私がこういう時の説明にいつも使うのは、『スピード』。
「時速80km以下になったら、バスが爆発する!走り続けるバス。乗客の運命は?」
これだけで面白さが説明できる良い映画。この一行で見に行ける。
実際、『15×24』を貸すよ、と言った友達に、上記の一行で説明したけど、なかなか面白そうね、と言ってくれた。
もちろん、映画と小説では形態が違うし、
「『15×24』はキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックがいないんだよ」(そちら側のフックもあるので)
とも言えるかも知れないけれど。
ライトノベルはマンガ雑誌に似ていると思うので、週刊連載マンガのように、耐久性と汎用性のある設定の物語を構築して、あとは人気が続くまでシリーズを続けられるような体制を整える方がいいんでしょう。
初期目標は変わらないけど、道のりは調整できるようにして、人気キャラクターや敵(エピソード)を自由にやりくりできるようにする方が使いやすいはず。
でも、長編人気マンガと同じく、そういう面白さはキャッチーな一言では説明できない(しきれない)と思う。少なくとも私はできない。
外部にまで通じる面白さは、説明が一行で終われるタイプの方が向いていると、個人的には思っています。
ただここまで述べたように、ライトノベルというものに、いわゆるジュブナイル(少年少女向け)という意味と機能がまだきちんとあるのであれば、『15×24』はライトノベルで出すにふさわしい小説だと、私は考えます。
まさしく中学生とか高校生に読んでほしいから、彼らがおこづかいで買えるように、安価な文庫で売ってあげてほしい。
その役割をするのにいちばんふさわしいレーベル(ジャンル?)こそがいわゆるライトノベルじゃないの?
だからライトノベルで出たことは全然間違ってないと思うけどなあ。
もちろん「ライトノベル」というものについては全く無知なので、ジャンルやビジネス的にどうこう言えないけれど、こういう作品を引き受けることにライトノベルの価値があるんじゃないのかな。ちがうの?
それとも面白いのに売れてないらしいと、大人が売り上げを心配して、あれこれ言ってるだけ?
もちろん、いちばん読んで欲しい層(中・高生)が全然買ってくれてない、興味も持っていないということであれば、大変さみしいことだし、そこは問題にしてもいいけれど。
単に売り上げがどうこうを問題にするのはあまり意味が分からないなあ。
それとも売り上げの悪いライトノベルがすぐ絶版になったりするなどの心配なのかな?
それこそ、その際は初期目的は終わったということで、他の出版社などから、違う売り方で出しなおしたりすればいいかな、とも思う。面白いのは確かなんだから、何とでもなるような。何とでもしようよ。
とりあえず、記事は準備しつつあるのですが、すぐ更新できないので、恒例の広告消すだけ記事をあげたいと思います。
twitterをはじめていますので、過去の雑多な発言からピックアップして、まとめました。ゆえに古い話題も混ざっていますがご了承ください。
また、そのままですと私のtwitter(http://twitter.com/highland_view)を見ていただいている人には無価値なので、誤字脱字の修正や補足などをしてあります。
はてしなく、どうでもいい日々
■パチンコ『CRマクロス』
(TVCM放映直後)
TVCM観ましたが、パチンコ『CRマクロス』が出るんですね。
パチンコマクロスは何年か前に友達といろいろ話したことがあったけど、とりあえず板野サーカスリーチとかもいいけど、ブリタイ司令の「キースーをしてみろ」リーチが絶対いるよね、ということになった。
ブリタイ司令の「キースー強要リーチ」を大当たり(カイフンがミンメイとキス)させて、ひともうけしたら、豪勢にシースーを食べにいったらいいと思う。キースーしてシースー。ツェーマン ゲーセンのシースー。
(TVCM放映後しばらくして…)
「合体の次が来る!」はいはい、出産、出産。と思うほど、パチンコ『CRマクロス』のTVCMを見る回数が多すぎて、さすがにつらくなってきた。
これはもう、パチンコマクロスがシリーズ化された時を想像して楽しむ(逃避する)しかないな。
パチンコ『CRマクロスプラス』
台からホログラムで飛び出してきたシャロン・アップルにみなメロメロになり、とろん、とした顔でパチンコを打ち続ける。
シャーロン!シャーロン!そして店内に響き渡るシャロンコール。
カータカム!カータカム!そしてどさくさで響き渡るカタカムコール。
パチンコ『CRマクロス7』
熱気さん「パチンコなんてくだらねえぜ!俺の歌を聴け!」
あ、あれ?玉が出ない。なんで?
※パチンコ『CRマクロス7』では、ザ・熱気バンドことFIRE BOMBERのライブが終わるまで(熱気さんが満足しきるまで)、争いの元になる玉は出ない仕様となっておりますので、ご了承ください。
パチンコ台の分際で、パチンコなんてくだらないと言い切る熱気さんがかっこよすぎる。
■21世紀の信長をさがせ!
空前の武将ブーム(らしいが実感ゼロ)の中、直江兼継や石田三成はいいとして、織田信長をやるような若い俳優がなかなかいないなあ、という話になった。
信長はやはり、イケメン成分だけではなく、魔王成分も必要になりますよね。
そこで「21世紀の信長をさがせ!オーディション」をやるのがいいんじゃないか、と提案した。
オーディションは「うつけ審査」と「正装審査」の二部構成。
「うつけ審査」は、それぞれが、きゅうりを丸かじりしたり、それぞれがオレ流UTSUKEスタイルを披露する。で、そのあとの「正装審査」は一転して、バシッとフォーマルでりりしく。審査委員長、斉藤道三も見惚れるほどの、UTSUKEとのギャップをいかに作り出せるかがポイント。
これまでの大河などでは、割と若めの信長としては、反町隆史や吉川晃司がやったりしたけどね。
あとキムタクもどこかでやったりししてたけど、見てない。ぶっちゃけ見てない。
GTO反町信長
反町信長は「POISON」のイントロ流れる中、バックで「GTO」のネオン点滅させながら、信長やってくれればよかったんじゃないか。
「GTO」の意味については、「グレート・天下人・オダ」とか「グレート・天下布武・オダ」とか色々あるけど、「グレート・てっぽう・オダ」が一番頭が悪くていいかな、と思う。
K2信長
吉川晃司(K2)の信長は、K2がシンバルキックをやったら、織田軍が攻撃開始すればいいと思う。
開始後は、「BE MY BABY(COMPLEX)」のPVのように、K2が前に出たら、右翼が前進。代わりに布袋が下がって、左翼が後退、という感じで戦闘指揮をとればいいと思う。
2人とも魔王成分が高すぎる。3:15あたりで、K2から全軍突撃の指示が出ます。
マンガあれこれ
■『BLEACH』藍染様は天の意志で動く
週刊少年ジャンプ好評連載中のマンガ『BLEACH』は、相変わらず敵ボスである藍染が登場すると、何がしたいんだか良く分からないことになる。これはどういうことなのか。
![]() | BLEACH (12) (ジャンプ・コミックス) (2004/03/04) 久保 帯人 商品詳細を見る |
敵ボスである藍染が何らかの行動を取る際には、サイコロをいくつか振る。
手元にある「藍染様 行動判定表」を見ると、出た目の合計数に対応する行動が書いてあるので、出た目にしたがい、判定表どおりの行動をとることにする。
例えば、サイコロを3個振って、出た目が「2」+「5」+「4」=「11」だとする。判定表の「11」のところを見ると、「突然、部下を殺す」と書いてあるので、藍染はいきなり部下を殺す。サイコロが絶対なので、絶対にそれに従うこと。
サイコロの出目が絶対。つまり行動が先。理由があと。
「突然、部下を殺す」が決定したあとで、部下を殺す理由を考えなければならない。
判定表には、他にもいろいろとんでもないことが書いてあることにする。
「現在の状況を計画通りだと笑う」
「全員に紅茶を強要」
「雛森がいかに自分を慕っていたか語る」
「真の敵の存在をほのめかす」
「いきなり涙を流す」
「私は○○の兄だ、と言い出す」
これらが実行されるかどうかは、サイコロ次第。
当然のように、一護たち主人公サイドは、誰も藍染の行動を予想できず、後手後手に回る羽目になる。作者すら予想できないので当たり前なのだが。
一番頭がいい、鋭いキャラでも「…悪い予感がする」ぐらいの曖昧な予測しかいいようがない。
かくして『BLEACH』には、さらに「なん…だと…?」のセリフが続出することになる。
サイコロの出目なんてまさしく神のみぞ知るわけで。
つまり主人公たちは、「敵ボス藍染」というか、「神」と戦わなければいけないということになる。
と、いった感じに「藍染様 行動判定表」が存在する、ということにして、『BLEACH』を読むと、より楽しめるんじゃないでしょうか、というおはなし。
ちなみに冗談でも皮肉でもなく、そういう考え自体ちょっと面白いかな、というのもある。
物語の全てでなく、理詰めの構成を崩壊させる一要素として作っておき、神のお導き(サイコロ)で使用する。作者も制御できない存在をつくるために。
物語発想法的に、自分の狭い枠から離れた物語をつくるために、あるルールでランダム生成して、つじつまを合わせる。というようなものもあるが、そうではなく、きちんと基本の物語フレームがある連載マンガで、一匹、混沌を飼っておくような使い方をする感じだろうか。
TRPGのリプレイにおける判定みたいなものかな、とは思うけど。
まあ、実際はいろいろむずかしいのですけどね。
■『ブラックラグーン』9巻
『ブラックラグーン』最新巻を読んだ。ロベルタ復讐編終了。
twitterで書いていた『NARUTO』のメモ等をまとめて、「憎しみの連鎖」と「暴力の正当性」あたりの記事に仕立てなおそうと思っているけど、いい参考になった。
![]() | ブラック・ラグーン 9 (サンデーGXコミックス) (2009/10/19) 広江 礼威 商品詳細を見る |
ロックは最終形態として、サングラスかけて、髪型ちょっと変えて、ロック・ホーム(間久部緑郎)になってもいいな。名前も緑郎なんだし。
最終的に、日本からロアナプラに来た同級生か元同僚の「ケン一」の逆位置に立つ存在として現れる。
『ブラックラグーン』は、ロックとレヴィの関係を掘り下げれば、危ういバランスは崩壊し、ストーリーは不可逆となって、いつでも終われるはずだ。
それまでに楽しい楽しい、死の舞踏会をどこまで続けるか。個人的には、まだまだ舞踏会を続けてほしいけど。12時の鐘にはまだ早い。
今回で、ロック側の準備は整ったように見えるし、やろうと思えば最終章できると思う。
最近話題になってた「ストーリーひきのばし論」からすると、全力疾走するストーリーなら「ロック・レヴィ編」をさっさとやればいい。でも、そういう問題じゃないと思う。
『ブラックラグーン』の舞台である街「ロアナプラ」は、楽しい楽しい死の舞踏会をするために、良い舞踏会場になるためだけにあつらえた街なので、そこで面白いダンスができて、観客が喜んで拍手するうちは踊ればいいんですよ。まさしく、それをするための街なんだから。
結果としての「物語」に重きを置く、物語至上主義者のような人は、すぐ全体の物語の質とか完成度とか言い出すけど、それはあまりに視野が狭すぎるとしか思えない。私はそういう人とは良い友達になれそうにないなあ。
いつかは終わると分かっている舞踏会を、観客の拍手の数を見ながら、もっとも多くの人が幸せになれるところ、そのギリギリを見定めて踊り続ける。そういう物語だってたくさんある。
「終わりどころ(落としどころ)が見えない」のではなく、誰でも分かる「終わりどころ」を提示した上で、観客の顔見ながら、ダンスを踊り続けるマンガは私は大好きだけどね。現在進行形の価値がある。
しかし(結果としての)物語至上主義者のような人はそうではないらしい。評判のいい愛蔵版コミックスだけ買ってればいいのにね、と思ってしまう。
■浦沢直樹『BILLY BAT』は何のマンガなのか
浦沢直樹『BILLY BAT』 が何をするマンガなのか、というのはちょっと興味がある(話の中身自体にはあまり興味がない)。連載時、はじめの数話を見た時は、「20世紀少年」からさらにさかのぼって、「昭和」と「手塚治虫」をやるつもりなのかな、と漠然と思ったが、その後を見る限りどうも違うらしい。
![]() | BILLY BAT 1 (モーニングKC) (2009/06/23) 浦沢 直樹長崎 尚志 商品詳細を見る |
単行本派の人にはネタバレになるけど、物語は、時間と空間を大きく越えていく。キリストの最後の晩餐。アメリカの黒人差別。今連載中のパートは、忍者ものだ。
昭和ではじまったものの、時間と場所がバラバラな短編がいくつか続いている。各エピソードの共通点は「ビリーバット」の存在だけ。
個人的には、浦沢直樹が一番面白いのは、物語の立ち上げと短編だと思うので、その武器を最大に生かす構造を作るべきなんじゃないかと常々思っている。
テンマが老夫婦に親切にされるエピソードなどが結局いちばん面白いが、「MONSTER」の中にそれをたくさん入れると、「わき道ばかりで全然、本筋が進まない」と言う人が出てきてしまう。
いっそのこともっと、わき道そのものを生かす構造の方がいい。
そういう意味で、「ビリーバット」を軸(言い訳)にして、さまざまな短編をつくる、というのは悪くないのではないか。いわば「ビリーバット」を、手塚治虫「火の鳥」に見立てて、「ビリーバット」が出てきたら、『BILLY BAT』だ、というマンガでいいんじゃないか。
浦沢直樹の忍者ものなんて初めて見たし。ありとあらゆるマンガのタイプを書いて欲しいぐらいだ。手塚治虫もありとあらゆるマンガのタイプを書いたのだから。
「そんな好き放題やって、ビリーバットの謎とか、ラストはどうするんだ!」と思われるかも知れないが、それについて、私は以前ブログにも書いたけど、浦沢直樹だけができる解決法がある。
解決法は「新連載」を用意すること。それで全て解決できる。
なぜなら浦沢直樹でいちばん面白いマンガは常に「新連載」だから。
恐らく終わりかけの『BILLY BAT』より何倍も「新連載」は面白い。今までもそうだったから。
ということで、私の中では、今のところ『BILLY BAT』 は『火の鳥』ということにしている。
予想というより希望だ。出来れば好き勝手に、おもしろ短編をいろいろ作ってくれないかなという希望。書いたことないジャンルにもどんどん挑戦してほしいなあ。
と、いう『BILLY BAT』論を、ご飯食べながら友人に話したら、どこにビリーバットが出てきたら面白いか、という話に当然なった。
ラスコーの壁画にバットマーク。伊達政宗の持っている鎧のカブト飾りにバットマーク。ナポレオンのエジプト遠征でバットマーク。ベーブ・ルースが手術する子供と約束したホームランを打つバットにバットマークなどなど。
なんでもよい。浦沢先生に書いて欲しいシチュエーションと、ビリーバットの登場アイデアを書いて、ハガキを送ろう。出来れば、歴史上の名場面の方がいいぞ!
幼稚園の先生が「みんな、自由に好きなものを描きましょうね」と園児にお絵かきさせる。
「はい、ではみんな、絵を見せてー」
園児全員がいっせいに画用紙を先生に見せると、全員の画用紙にビリーバットの絵が…。
もちろん、園児の目は全員、浦沢直樹がいつも描く、虚ろな目の子供のホラー顔。
あとは『火の鳥』だと未来あるけど、現代~未来ネタどうする?となって、火星の表面にバットマークとか、なぞの宇宙電波の波形をある法則で図形化したらバットマークとかでいいんじゃないか、ということになった。
(あとで、単行本を買った友人に聞いたら、火星ならぬ月面でバットマークネタはすでにあったらしい。わー。その回読み損ねてる。でも、やっぱいるよねその場面と、改めて納得した)
まあ『BILLY BAT』がこの先どうなるか全然わかんないけど、浦沢直樹歴史名場面集(ただしビリーバット付き)マンガになればいいなあ。
書物をめぐる冒険
■水滸伝
AKB48を見ていたら、SKD108(エスケーディー ワンオーエイト)でもいける気がしてきた。
SKD108=水滸伝108星なので、メンバーはもちろん全員アウトローにして大酒飲みの好漢108人。「どきどきすいこでん」みたいに女性化とかじゃなくて。
いける。何がいけるかよくわからないがいける。
こんな水滸伝が好きな私が、北方水滸伝を読まない理由は大きく2つ。
登場人物が近代的な内面を強く持ちすぎているから。
もうひとつはキューバ革命に見立てるのが趣味に合わないから。
要するに単なる好みの問題なのだが、力作・大作であるのは確かなので興味はある。こんなときどうすればいいのか。
結論として「北方水滸伝読本」というガイドブックを買いました。年表や地図やキャラクター紹介(謙ちゃんの解説つき)など盛りだくさん。
オカズはこれで十分。水滸伝自体は知っているわけだから、あとは脳内で何とでもできる。
偽史・異世界もので育ったオタクは、年表と地図とキャラクター一覧があれば良くも悪くも消費できてしまう。
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■IQ84
友人から村上春樹『1Q84』を借りて読み、先日返した。
その際に友人とさまざまな話をしたが、最も意見が分かれたのは、「『1Q84』は村上春樹以外が書いても成立するか?」だった。
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『1Q84』はbook1の150ページあたりで、物語の枠組みと材料が出揃う。
私はたった150ページで提示された物語の構造をすばらしいと感動した。
『1Q84』序盤150ページの基本フレームがあれば、この物語は、ここからどんな方向へも行ける、どんな話も乗せられる、と思った。あれは、それぐらい使い甲斐のある物語構造だ。
この先、最後まで読み進めていくと、ストーリー的には「うーん」と首をかしげることになるかも知れない。しかし、そんなことで序盤の150ページで提示した物語構造に傷がつくことはない。私はこれだけで十分『1Q84』を評価する。
もちろん、ストーリー自体やキャラクターより基本設定や構造をすばらしいと思ってしまうところに私の歪みがあるのだが。
すばらしい物語フレームや基本設定に一番価値があると思っているんだよね。私は。
そこがすばらしければ、その物語フレームを多くの人が使えばいいし(古代から人間はそうしてきた)、リフォームの匠が良いリビルドをすればいいと思っているから。
ところが、そんな私でも、村上春樹の物語に関しては、村上春樹だけにしか書くことを許されない世界だと思っていたのだ。
ハルキ小説のためだけに作られた世界には、ハルキキャラしか存在できないし、ハルキストーリーしか展開できないと。
しかし「1Q84年の世界」については、村上以外の他の作家や、他の媒体で書いても成立するのでは、と感じた。村上春樹の本はある程度読んでいるが、それは初めての感覚だった。
もうひとりの村上こと、村上龍なら分かる。例えば『五分後の世界』。
本人も世界観だけを共通にした複数の物語を書いているし、他の作家が『五分後の世界』を舞台に作品を作ることもできるだろう。
「1Q84年の世界」の場合も同じように、主役の2人などメインキャストはもちろん触れないが、世界だけをシェアして、「月が2つある」という患者を診察する精神科医の話や、月が2つに見えてしまった天文学者の話などをやれるんじゃないか。友人にそう話した。
しかし友人は「それでも、あれは村上春樹が書いて、あの話じゃないと、1Q84にならないと思う」という。その話も分かる。大塚英志が言う(信じる)、技術で書けるものを取り除いていったときに最後に残る作家の固有性のようなものとして。
ただ何も私は村上春樹をコピーしようと言うわけじゃないんですよね。それはそれこそ二次創作にしかならないので。あくまで「1Q84年の世界」をシェアできないか、という話。これまでの村上春樹作品と違い『1Q84』はシェアできそうに思える。
他の作家が書く『1Q84』自体に興味があるわけではないので、作品の成立や内容の是非はどうでもいいのだが、村上春樹を読んで初めて、シェアできる物語世界かもと感じたのが、もっとも大きな驚きだったので。私だけかなあ。
それにしても。
「1984年」と「1Q84年」、2つの世界の見分け方が「月が2つあるか、どうか」というのが興味深いんですよね。
「空に浮かぶ2つの月」という異世界イメージがそれこそ、ライトノベル(しかも原初の)と最初思ったのだけれど、この世の中で、絶対1つしかないもの、そして、地球上の誰もがその共通の1つを確認できるもの、というのはそんなに無い。地上ではなればなれの主人公2人が絶対に同じものを見ているという保証が空に浮かぶ月にはある。
他のもので表現できないかな、とあれこれ考えてみたけれど、良いものを思いつかなかった。
陳腐なイメージだけど、代替物が確かに無いように思い、それなりに納得した。
富野作品関連
■私の血にはジオンが流れているの
とりあえずバンダイは、「連邦の白」と「ジオンの赤」というワインをつくって、法外な値段で売り出せばいいと思う。
【レストランにて】
男「じゃあワインは連邦の白もらえる?」
ソムリエ「白ですと、79年のいいものがご用意できますが。他には86年、87年、93年なども取り揃えております」
男「93年もいいけど、やはり白は79年だよ。君はどうする?」
女「私、赤がいい」
男「ジオンの赤は何かある?」
ソムリエ「79年もございますが、当店では83年をおすすめいたします」
男「83年!」
女「どうしたの?」
男「83年はジオンの当たり年なんだ。79年をさらに数年寝かせたような深みがあってね。ではそれを」
ソムリエ「かしこまりました」
このあと、男のワインうんちくが延々と続いていく。 これガンダムひと通りできるなあ。
最近は白ワインの粗製乱造がどうたらとか、僕は79年物以外は本物とは認めないとか語りまくって、心底、女の子にうざがられたらいい。
■ドレイク王宮廷のマサチューセッツヤンキー
そういえば、ダンバインの事を考えていた時に、『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(マーク・トウェイン)を引っ張ってくると面白いかも、と思いついたことを、忘れていた。
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『アーサー王~』は、ショット・ウェポンが、アーサー王の配下になるような話なので比べると面白い。
アーサー王宮廷に、近代のテクノロジーを導入するけれど、最終的に時代に排除されるような形になる。
バイストン・ウェルの各国に1人ずつ地上のスペシャリストを配置するのはどうかな、と考えた。たとえば4人なら「軍事・戦闘」「政治・経済」「科学・技術」「文化・芸術」のスペシャリストをどれか1人という具合。どの地上人が来るかで、国の行く末が大きく変わるというネタはどうかな。
どの地上人が来た国が、幸せに近づけるのだろうか。
今回は以上です。広告表示消すためはいえ、さぼり記事ですみません。いや、エコ記事。エコ記事と言わせていただきたい。
ちなみにヱヴァ破感想の続きはとりあえず凍結します。間が空きすぎた上に、たいして新しい内容もないし、他にもっと書きたいこともできたので、そちらにします。
さて、こんなしょうもないことばかりつぶやいている私のtwitterを見たいという奇特な方は以下でご覧ください。
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あ、過去ログを見るという意味では、Twilogの方が便利ですので、よろしかったらこちらもどうぞ。
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