漫画は展開が早い方が面白い、というのは100%正しいと思う。
『DEATH NOTE』の時もそうでしたが、たらたら展開を引き伸ばしてやるよりも、ぽんぽん先へ進む、かつ密度が濃いものの方が面白いに決まってる。
面白いものが、より面白くなっていく状況を止めてまで、展開を引き伸ばす必要はないですから。」
『バクマン。』担当編集 相田聡一氏


わーん。『バクマン。』の展開が速すぎる!
『バクマン。』記事を以前から準備していたけど、展開が速すぎるせいでそのたびに修正して、修正がおっつかない。いつまでたっても公開できない無間地獄。
もういい。こうなったら、いかに私が『バクマン。』の高速展開に振り回されたかも含めて、これまで書いたもの全てを面白おかしく見てもらうことにしよう。



『バクマン。』とは?


まずは簡単に『バクマン。』の紹介から。
今日ご紹介するのは、岡江久美子の旦那でも、エルエルさんの保護者兼フーリガンでもなく、マンガ『バクマン。』ですので、お間違えなきよう。

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(2009/01/05)
大場 つぐみ

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週刊少年ジャンプ連載のマンガ「『バクマン。』は、高校生のマンガ家コンビを主人公にした物語。
原作担当のシュージンと、作画担当のサイコーの2人がコンビを組んで、少年ジャンプのヒットマンガ家を目指します。
架空のマンガ雑誌ではなく、実在の週刊少年ジャンプ(「ONE PIECE」や「NARUTO」も存在する)を舞台にしているのが面白いところです。
作者は、『デスノート』で大ヒットを飛ばした、大場つぐみ(原作)+小畑健(作画)コンビ。

では、ここから『バクマン。』の高速展開と、それに振り回されっぱなしの私の感想を見ていただこう。
文中には今でも通用する部分と、すでに時代遅れになっている箇所とが混在しています。恥ずかしいし、価値が無くなったものもありますが、あえて切り分けずに思考の過程として、全部お見せします。



『バクマン。』狂想曲 第一楽章


■『バクマン。』あらすじ その1
絵の上手なサイコーは、優等生シュージンにコンビを組んでマンガを描こうと誘われます。
はじめは断るサイコーでしたが、クラスの好きな女の子が声優を目指していることを知り、「いつか自分達のマンガがアニメ化されたらヒロインをやってください。あと結婚も。」と、宣言+告白をしてしまう。
これでヒットマンガを描かないといけなくなったサイコーは、シュージンとのコンビをスタートさせるのでした。


現在のところ、『バクマン。』作品内では、以下のように目標が設定されています。(これは今でも変わってない)

『バクマン。』の目標設定
・ジャンプでマンガをヒットさせて、「TVアニメ化」を達成する。

(サイコーはこれを達成して、ヒロインと結婚する)

マンガ家マンガでの目標が「アニメ化」というのが面白いですが、今のジャンプマンガの「あがり」がTVアニメ化になっているのも確かです。

個人的には『バクマン。』という作品では、さまざまな試みがされているので、その効果次第では、どの段階で終わっても特に気にしません。物語としてだけでなく、大きなシステムとして楽しんでいると言った方がいいでしょうか。

それを詳しく語るには、ちょっと話題を変えて、"『バクマン。』世界に、マンガ『デスノート』は存在しているのか問題"から考えてみたいと思います。

『バクマン。』世界に、マンガ『デスノート』は存在しているのか


『バクマン。』は実在の週刊少年ジャンプを舞台にしているため、「ONE PIECE」や「NARUTO」など実際にジャンプに連載中のヒットマンガは当然『バクマン。』内にも存在しています。
では『デスノート』はどうなんでしょうか。
『バクマン。』内のジャンプには、過去『デスノート』が連載されていたのでしょうか?

どうなんでしょうも何も、『デスノート』という単語は、『バクマン。』第一話での主人公2人の出会いシーンですでに登場しています。学校へ忘れ物のノートを取りに戻ったサイコーに、ノートを先に手にしていたシュージンがこう言います。

シュージン「そんな深刻な顔するなよ。デスノートってわけじゃないだろ?」


『デスノート』が大場・小畑コンビのヒット作であり、原作担当のシュージンが大場つぐみポジションであることを踏まえた、くすりとさせるファンサービス的なセリフです。

しかし、これはマンガ『デスノート』の事なんでしょうか。

マンガ『デスノート』だとすると、「ONE PIECE」や「NARUTO」と同じように、小畑・大場コンビも『バクマン。』世界に存在することになってしまいます。それは色々と都合が悪くないでしょうか。

マンガ原作者としてのシュージンは、理性的に分析をして、ひねりを加えたお話を作るのが得意のようですが、そんな彼の性質は、私が持つ大場つぐみさんのイメージと自然に重なります。
作中に登場するシュージン原作の「この世は金と知恵」というマンガは、実際に大場つぐみさんが企画したマンガだそうですが、それをシュージンが企画してもキャラクター的にも何ら違和感はありませんでしたよね。
今のところ、マンガ原作者としてのシュージンは、大場つぐみに限りなく近い。
ジャンプの編集者に、シュージンが評価されている点も、今のところは、”大場つぐみ的なマンガ”を考えられるところにあるようです。

しかし、そうなるとジャンプ連載陣のマンガ家として見れば、シュージンは『デスノート』の大場つぐみと競合してしまいます。
だから少なくとも大場つぐみは『バクマン。』内に存在しない方が都合がいいはずです。
これからジャンプに風穴を空けるであろうシュージンが、編集さんに「君の考えるお話は、大場さんと似てるね。」「でも君みたいなマンガを考える人は、うちにはもう大場さんがいるからなあ…」となっても仕方ないですしね。

ロボットの鳥山明が出てくるならともかく、そもそも『バクマン。』のようなマンガで、作者がマンガ内に(登場ではなく)存在していることだけでも単純に考えてもやりづらい。
だから、大場つぐみの存在は消し、それに伴って『デスノート』の存在も消しておくのが一番いいのではないか。
大場つぐみと『デスノート』の存在を消すことで、シュージンは大場つぐみとかぶることなく、"大場つぐみ的な"作品を発表することができるというわけです。

…となると、第一話での『デスノート』発言は、どう解釈すればいいのか。ジャンプに『デスノート』が連載されていなかったのであれば、シュージンが言う『デスノート』とはなんのことなのか?
これは、マンガ『デスノート』ではなく、「デスノート事件」を指している、というのはどうでしょう。
第一話のギミックとして『デスノート』という単語は使いたいが、マンガの作品名として使いたくない、ということであれば、『バクマン。』の世界は、実際にデスノートによる殺人があった世界ということにすればいいんじゃないかな。
『デスノート』のコミックス持ってないので分からないですが、デスノートの存在そのものはごく一部の人しか知らないんですよね?まあ都市伝説や陰謀論のような形で、『デスノート』というトンデモ話が流布していて、物好きだけが信じている、という感じならばシュージンが『デスノート』という単語を知っていてもいいかな?

まあ『デスノート』世界と『バクマン。』世界をつなげるのは、シュージンのセリフに後付けの整合性を持たせようと思っただけでそこに興味はありません。

本題は、実在するジャンプという雑誌を舞台に、あまりに"大場的"なシュージンが、これからマンガ原作をやるためには、大場つぐみの存在を消さないといけないんじゃないか、という推測です。
(サイコーの叔父「川口たろう」の死は、存在を消すという意味ではまさにそうなのですが、あれはガモウひろしの死であって、大場つぐみの抹消ではないと思いますので。)

この辺りをどうするのか興味深いなあ、と思って見守っていたら、展開が激しく動きました。

『バクマン。』の主人公達が、「王道マンガ」を目指すことを宣言したのです。



『バクマン。』狂想曲 第二楽章


■『バクマン。』あらすじ その2
シュージン原作の「この世は金と知恵」は、いわば"大場つぐみ"的に、ひねりの効いたマンガで編集にも高評価だったが、サイコーは王道マンガで勝負したいと言い、2人は王道マンガのネームをつくる。
しかし、それを見た編集は「君達は王道で人気は取れない」「このネームも面白くない」と言い放つ。
その評価自体には、サイコー、シュージンも納得していたが、2人はあくまで王道マンガでの勝負を望み、編集もその熱意に負けて、半年という期限をきって認めることに。目指すはジャンプマンガの中心、王道バトルマンガだ!


これには少し驚きましたが、驚くと共に、王道を選ぶというのは、実に上手い方法だと思いました。

1つ目に、ジャンプの王道マンガこそアニメ化されやすい作品であること
2つ目に、シュージンと、大場つぐみの競合問題を解消できること
3つ目に、シュージンが王道マンガを考える=大場つぐみが王道マンガを考える、であること


アニメ化達成を急ぎたい2人に王道マンガは(困難だが)最短距離。
しかも王道マンガであるなら、シュージンと大場つぐみは競合しない。無理に『デスノート』の存在を消す必要もなくなる。
そして3つ目。シュージンが、大場つぐみと別の道(王道)へ行くということは、結局のところ、大場つぐみが王道マンガにチャレンジすることになります。これはちょっと面白そうですよね。
大場つぐみは、正直なところ、いわゆる典型的なジャンプ「王道」バトルマンガに向いているタイプには私には見えません。
もちろん「王道」作品を分析したり分解、再構成する、といった分野では、むしろ得意でしょう。
(大場=ガモウひろしとすれば、「ラッキーマン」はその力が発揮された作品と言えるかも知れません。)
しかし、ジャンプの王道マンガというのは、「努力・友情・勝利」のジャンプ三大原則が入った長編バトルマンガを指します。

『デスノート』では、主人公夜神月は、努力なしで強大な力(ノート)を手に入れ、友情でなく彼一人の知恵で立ち回り、最終的に勝利でなく敗北しています。「努力・前進・ア ビュリホースター」というジャンプ三大原則の真逆を行くのがすばらしかったところですが、王道であれば、このような大場つぐみ得意のひねりの手は使いづらい。

では、大場つぐみが書くにふさわしい王道マンガとはどういうものでしょうか?

大場つぐみのメタ王道マンガ


その可能性の1つだと私が考えるのが、メタ王道マンガです。
王道マンガ作品自体は、マンガ内マンガの形にして、その王道マンガが生まれる過程、作られていく過程を見せるマンガにします。
大場つぐみが『バクマン。』をつくり、その中でシュージンが王道マンガをつくり、その王道マンガの中で、物語が動くわけです。
それは「王道マンガとは何か?」を作者(シュージン、サイコー)という視点で考え続けると共に、挫折あり失敗あり衝突あり、友情あり努力あり成功(勝利)あり、という創作過程そのものを、王道マンガ展開として見せるということでもあります。

王道マンガ自体は、ダイジェスト形式で部分的にだけ読者に見せる。
「まんが道」で途中に挿入されるマンガの断片のように。
全てを見せる必要はない。最高に盛り上がって面白そうなところだけを見せる方がいいでしょう。
(逆に言うと、サイコー達のマンガは部分的にせよ、ちゃんと見せて欲しい。「ヒカルの碁」の碁のような「分からなくても大丈夫」な存在にしてほしくない)

自分は「王道」マンガは書けない。でもそれでも「王道」マンガを書くとしたらどうすべきか。
ストレートに書けないなら、「王道マンガ」とどう関わっていくのかという部分をひねるしかないでしょう。
だからメタ視点にして、王道マンガを連載するマンガ家のマンガを作る。シュージン越しに王道マンガと関わる。
さすが。この構造はすばらしい。すばらしいひねりようだと思います。

こうしてシュージンは、『デスノート』の大場つぐみとは別の道を行くことになりました。
それはすなわち、大場つぐみが、大場つぐみなりのやり方で王道マンガに関わっていくことを意味します。
これは第二の『デスノート』を書かないために、非常に計算されたやり方だと考えます。

第二のデスノートを書かないために


大ヒットを飛ばしたジャンプマンガ家が、次の作品で失敗する光景を私達は何度見てきたことでしょう。
大場つぐみ+小畑健の『デスノート』コンビに求められるものは、デスノートとは違う、デスノート級のヒット作。

しかし、絶対に成功する保証のあるマンガを作るのは極めて難しい。
そして、週刊少年ジャンプで失敗して許される回数には限度がある。

ではどうするべきか?

絶対に失敗しない方法を考えるのではなく、失敗を許容できるようなシステムを作るのが一つの方法だと思います。
絶対に事故を起こさない、ではなく、事故が起こりうることは前提として織り込んで、事故のダメージを極力減らしたり、リスクを分散させるようなシステムをつくるわけです。

ジャンプで連載をするには多くのハードルがあり、問題もあることは『バクマン。』本編でも語られていることです。
『バクマン。』にマンガとしての面白さを追求しつつ、リスク分散機能があるなら、私は喜んで肯定したい。

『バクマン。』が持つさまざまな機能(の可能性)


「これはちょっと実験的になっちゃうんですが、『バクマン。』の二人組が描いた漫画を実際に載せるということも、いつかはやってみたら面白いかなと個人的には思っています。」
『バクマン。』担当編集 相田聡一氏


例えば、『バクマン。』の主人公コンビの名で、実験的な読切マンガを実際のジャンプ(赤マルでも本誌でも)に掲載してみる。
さらに掲載したマンガのアンケートやリアクションを『バクマン。』のマンガ内へフィードバックさせる。

編集の服部さんからアンケート結果などが主人公達に伝えられ、反省会と次回作への作戦会議という形をとるのが自然でしょう。

×不評の場合
アンケートや感想の結果が思わしくない場合は正直に『バクマン。』中でそれを報告しましょう。
これはあくまで、駆け出しのマンガ家が書いた意欲作です。
『バクマン。』としては、主人公達がぶつかった壁、試練という展開になります。

○好評の場合
アンケートや反応が良い場合は連載の可能性もあります。そのために読者の反応なども見て、キャラクターや設定などに手を入れて、より連載に向いた素材へカスタマイズすることになるでしょう。
『バクマン。』としては、ひとつの戦いに勝利し、大きく前進するフェイズになります。(野球マンガだと予選突破フェイズとか)

『バクマン。』としては、どちらの展開になったとしても、マンガとして困ることはありません。
失敗したなら失敗したで、そこから新たなマンガが生まれる過程自体をドラマにすればいいのですから。

「それって、新人マンガ家って言う設定を隠れ蓑にして、失敗しても新人マンガ家のせいにするってこと?」

いやいや、何よりも希望するのは、この「新人マンガ家の悪戦苦闘」という形をうまく利用して、大場・小畑ペアには、さまざまな実験をしてもらいたいのです。大場さんはアイデア勝負の短編が向いているように私は思いますが、少年マンガ誌だと、どうしても王道長編マンガが望まれ、キャラクターやアイデアを全て1つの物語に投入することになってしまいます。
だからこそ、『バクマン。』で作った設定を使うことで、オモシロアイデアの短編を低リスクで、色々投入できないでしょうか。
中心はもちろん長編としての『バクマン。』、その中から数々のアイデアあふれる短編や、ダイジェストマンガが生まれる、というのがもっとも私が望むシチュエーションです。

『バクマン。』がそういった機能を持つように創られたマンガなのかどうかは分かりませんが、多くの役割を果たすことができるように設計されているように思います。

『バクマン。』の考えられる可能性
・マンガの現場のレポート
・ジャンプシステム、編集部の公開
・マンガ論議にみんな(ネット)を巻き込む(私のこの記事もそう)
・読者のリテラシーを向上させる。(アンケートの質の向上)
・マンガの投稿者の増加と年齢層の引き下げ
・マンガ投稿者のリテラシーの向上
・マンガ内から、新しい別のヒットマンガをつくる


ここに並べた可能性は、いくつか機能しなくてもそれはそれでかまわない。あくまで『バクマン。』本編が中心としてあるのだから。

しかし『バクマン。』がこのままヒットすれば、マンガを見る目が変わる読者にも影響が出てくるでしょう。アンケートも少し変わるかも知れない。
ジャンプを理解し、マンガを理解する、という意味でね。
さらに、低年齢の子供たちもマンガにチャレンジし、ジャンプへのマンガの持ち込みも増えれば、ばんばんざい。
ジャンプにも、マンガ界にも、それなりの益があるというマンガにすることで、存在自体に意義を見出すこともできるようになる。特にジャンプ編集部は、そのようなプラスアルファの価値を『バクマン。』に見出していると思います。

編集部の望むプラスアルファ効果がどれぐらいあるのかは知りませんが、あるといいな。
連載をする意味のひとつになって、『バクマン。』が続く理由付けの一つになれば、私はそれでいい。

大場つぐみが企画したマンガ「この世は金と知恵」は、いかにも『デスノート』原作者らしさが伝わってくるマンガだ。
『デスノート』みたいに面白いんじゃないか、少し読んでみたいな、と思うが、大場つぐみはそれを第二の『デスノート』として私たちに見せることなく、『バクマン。』の連載を開始した。
そして、その中で主人公シュージンとサイコーは、「この世は金と知恵」を生み出しながらも、あえて王道マンガを目指す。
確かにこの世は金と知恵かも知れないな。



『バクマン。』狂想曲 第三楽章


などと、「王道マンガ」へのシフトチェンジを踏まえて、ここまで書きました。
それでは今週のジャンプ(2009.12号)までの展開は?

■『バクマン。』あらすじ その3
サイコーは、ライバルの天才、新妻エイジのアシスタントをして数々の体験をするが、自分が子供の頃に書いていたマンガを思い出し、「たった2日」でアシスタントをやめる。子供の頃のマンガノートに、お気に入りのキャラ「サギ師探偵」を見つけたサイコーは、推理モノが書きたいと思うようになる。
一方、シュージンも王道バトルマンガではなく、推理マンガの原作を考えていた。
シュージン「俺が得意なのはバトルじゃないんだ!」
2人とも何の相談してないけど、ほぼ同時に王道バトルではなく、推理マンガの構想を思いついていたのだった!


わー。「大場つぐみが考える王道マンガ」とか熱く語った私、バカみたいですねえ。笑え!みんな笑え!あはははは!(片マユ剃り落とす)
王道マンガは、本当に書きたい題材が見つかるまでの前フリのようなものでしたか。
どうやら、ちょっとひねりの効いた推理モノをやるみたいですね。

シュージン「俺が得意なのはバトルじゃないんだ!」


知ってるよ!だから色々考えたのにー。わー。みー。けー。(PUNK LADY)

しかし、どうやら、また大場つぐみっぽいマンガになりそうですね。王道バトルものを分解するところをもっと見たかったから残念だなあ。まあ、この後も色々あるでしょ。
そういう意味では、シュージンと大場つぐみの競合問題は復活したことになりそう。
となれば、やはり、『バクマン。』内のジャンプでは、『デスノート』は無かったことになるのかな。これもまた今後を見守りましょう。(存在が無い、というよりは、触れない、というような形かなと思うけど。)

この推理マンガぐらいのタイミングで、ジャンプに読み切りマンガとして実際に掲載してくれないかしら。
ただ、サイコー、シュージンのマンガは実際にジャンプに掲載して欲しいですが、主人公達のライバル天才新妻エイジ、彼だけは徹底的なフィクションの存在にするのが良いかなと思います。
完全なマンガ内のキャラクターにして現実とは出来る限りリンクさせない。新妻エイジの書くマンガは絶対に読者に見せない。
その上で、主人公達の一歩先行くジャンプ本誌のトップマンガ家というライバルにするのがいいように思います。
実際にマンガなんかを見せてしまうと、天才の底が割れてしまいますしね。

そうすることで、
・実際のアンケートがどうあれ、新妻エイジのマンガがある以上、『バクマン。』では主人公コンビは、簡単に1位にはなれない。
・現実のジャンプ人気マンガ1位ではなく、1位の新妻エイジを倒す、ことにすれば、何も問題は起こらない。

という利用法ができるんじゃないでしょうか。
(サイコー、シュージンは駆け出しマンガ家ですけど、結局、大場+小畑コンビですからね。アンケート結果は素直なものにはならないでしょうし。)

さて、まだ読んでいない皆さん。マンガ家どころか読者までをも振り回す『バクマン。』の高速展開を楽しんでみませんか?
私は振り回されてこんな感じですが、振り回されるほど楽しいことはないよ。
読もう!『バクマン。』そして、書こう!感想記事。(そして、剃ろう!片マユ。)
前回記事では、映画『タイタニック』をサンプルに「大きな物語」について考えてみました。
今回はさらに話題を広げて、「大きな物語」の有効活用を考えてみましょう。

■簡単なおさらい

・SFX特技監督として有名だったジェームズ・キャメロンが、こだわりのタイタニック号をより多くの人に見てもらうために「悲劇のラブロマンス」というベタな物語を使用した。

・ロボットアニメの監督として有名だった富野由悠季が、キャメロンの『タイタニック』に大きな衝撃を受けて、「ロボットアニメの富野」として、より「大きな物語」を作ることを目指した。

なぜ『タイタニック』は世界中の海を渡れたのか<富野由悠季と映画『タイタニック』にみる「大きな物語」>

※ここでの「大きな物語」とは「より多くの人で価値が共有できる物語」程度の意味です。限られた一部の人ではなく、みんなが親しみ楽しめるおはなし、のことです。



「大きな物語」利用のポイントと欠点


「大きな物語」を効果的に利用するには、いくつかのポイントがあると思われますので整理してみましょうか。

■前提条件
・見せたい世界やギミックなど、強力かつ魅力的な被写体があること。

『タイタニック』では、「タイタニック号」がそれにあたります。
『タイタニック』の「世界」はタイタニック号そのもので、魅力的なギミックもまたタイタニック号です。この映画はラブロマンス以外はタイタニックしか要素がないので、タイタニック様の思うがままです。世界が滅亡(沈没)するかどうかもタイタニック様のやる気次第です。すばらしい。
富野監督は「タイタニックは、要するにモビルスーツ(ロボット)だ」と言いましたが、「ガンダム」の場合ですと「モビルスーツとそのために用意された宇宙世紀」ということになりますね。
ここが作品で一番見せたい、こだわりたい部分になります。

■利用方法
・基本は「強力かつ魅力的な被写体」+「大きな物語」
・お話は誰もが共感でき、理解できるようなシンプルなものを。

見せたい被写体をより多くの人に見てもらうために、誰にでも分かるシンプルなストーリーを採用します。
作品の舞台が過去であろうと未来だろうと、人である限り共感できるような類型的な物語がふさわしい。

ただし、「大きな物語」は、ありがちな「陳腐な物語」だと批判される可能性があります。
場合によっては確かに有効かも知れないけれど、みんなで共有できる物語=陳腐なストーリーになりがちだという欠点は確かにあります。
『タイタニック』については、半分は誉め言葉のようなものですが、もう半分は批判されても仕方ないかも知れません。
最大公約数的なベタストーリーを選ぶのは、ベターではあっても、どうしてもベストでは無いかも知れません。

だからといって、ひねったストーリーにするのでは意味がありませんよね。
『タイタニック』タイプについては、最も見せたい被写体が先にあり、物語はあくまでそれを生かすために使います。被写体の部分はどれだけマニアックになってもいいですが、ストーリーがマニアックになるのでは、楽しめる人が限定されてしまい本末転倒です。

もちろんシンプルでも力強く誰でも楽しめる面白ストーリーがあれば言うことなしですが、そんなパワーのある脚本があるならば、それを最大限に生かすように、他の要素を揃えていったほうがいい映画になりそうです。

誰でも分かるストーリー構造のままで、何度も見たくなったりする奥が深い作品をつくる方法はないのでしょうか?

その方法の一つを、『タイタニック』がつくった観客動員記録を塗り替えて日本新記録をつくった映画、『千と千尋の神隠し』で考えてみましょう。



『千と千尋の神隠し』に見る「大きな物語」


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(2002/07/19)
柊瑠美入野自由

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個人的には「『タイタニック』的なもの」を一番うまくやっている日本の作品は、宮崎駿『千と千尋の神隠し』ではないかと思っています。

『千と千尋の神隠し』でのタイタニック構造は、以下のようになります。

「魅力的な被写体」→「舞台となる湯屋"油屋"。不思議がいっぱいの世界」
「大きな物語」→「昔話のようなシンプルでどこかなつかしいお話」


初めて『千と千尋の神隠し』を見た時に驚いたのは、神話や民話・説話をほとんどそのまま形で入れていたことでした。話には聞いていたけれど、想像を大きく越えていました。
民話のエッセンスだとかメタファーだとか、そういうことではなく、民話の類型をほぼそのままの形で入れていることが非常に興味深かったです。
もちろん、さまざまな民話的なエピソードは巧みにパッチワークされていて宮崎駿独自の世界になっており、特定のお話にはなってはいないが、各パーツは非常に類型的。
さらに全体がいわゆる「行きて帰りし物語」という、非常にオーソドックスなお話になっている。
ジブリ映画を絵本化したものが出版されているが、この作品がもっとも自然に絵本化できているのではあるまいか。
(逆にジブリ絵本「もののけ姫」なんてどうしたんだろ。「エボシごぜんの、うでが ふきとびました」とか?)

『タイタニック』→『ターンAガンダム』→『千と千尋の神隠し』という時系列で体験して、「大きな物語」への回帰というような大きな流れを当時感じたのを今でも覚えています。

無数の解釈ができる物語は無敵


『千と千尋の神隠し』のお話は、お話はそれこそ小さな子供でも分かるほどにシンプル。構造しかない。
あらすじを書けと言われたら、ジブリ絵本そのままになると思う。それ以上のお話はない。
ところが、見る人が各エピソードにどういう意味を見出すかで大きく解釈が異なっていく。
ストーリーは1つで、無数の解釈ができる物語は無敵だな、とつくづく感じたのがこの作品です。

■皆さんに聞きました!『千と千尋』ってどんな話?
・「生きる力が退化した子供達がそれを取り戻す話だ」
・「両親のために遊郭で働くはめになる少女の物語」
・「環境破壊で傷ついた神様(自然)を少女が癒す物語だよ」
・「ちひろちゃんが、おとうさんとおかあさんをたすけるために、がんばるおはなし」


あらすじはかんたん。「では、なんの物語なのか?」という部分が、完全に受け手にゆだねられているので、どう受け取ろうが「解釈」というレイヤーで見るなら上の例も全て間違いとはいえない。どうとでも解釈できる設計だと思います。
『千と千尋の神隠し』の最終的なストーリーは、受け手の解釈をもってして完成する、と言ってもいいでしょう。

例えば、ファミリーで『千と千尋の神隠し』を見た場合はどうでしょう。
同じ映画を見て、同じおはなしを体験したのに、家族全員の感想が大きく違ってくるのではないでしょうか。
子供たちは主人公の少女に感情移入して冒険にドキドキして楽しかった、面白かったと笑う。
大人たちは、環境問題や、病める現代社会への問題提起、どこかなつかしい空間へのノスタルジー、子供へのありがたい説教などを感じとって、見てよかった。見せてよかったとなったりもするでしょう。
(お父さんはさらに、隠されたエロいメッセージを感じとっているかも知れない)

そういえば、湯屋=遊郭なので、「千」という源氏名をもらって風俗で働く話だよ、という指摘があります。
(私が見たのは町山智浩さんのこちらの記事。)
それに対して「そんな風に解釈するのはけしからん」という反応を見たことがあります。ネットで見たので性別は分かりませんが、子供を持つお母さんだったかも知れないですね。
町山さんの記事は、インテリや評論家が揃いも揃ってこれをスルーするのはおかしいんじゃないか?という指摘というか問題提起なので「こう見なければいけない」というような狭量なものではないと思います。
でも、その解釈をお母さん達に聞かせたときにおこる反応も分かる。
だから別に「湯屋=遊郭」と見なくていい。子供達にも温泉旅館でアルバイトするようなものだとして話せばいいし、それでも何の支障もなく楽しめる。親子で親子らしく解釈すればいい。
(そして、子供は何度目かの金曜ロードショーで「あ!そういうことかも…」と気づくのかも知れないが、その頃には親には言うまい。奥さん、あんたの子供は知らないうちに大人の階段登ってるよ!)

なぜ千尋の両親が豚になるのか


『千と千尋の神隠し』が意図的に無数の解釈を生むような作りをしているのは、物語冒頭で千尋の両親が豚に変わってしまうところにも見ることができます。
なぜ両親が豚にならないといけないのか、はっきりいって究極的には理由はないと思う。
ただし、意味はあり、解釈もまた無数にとれる。

映画としては、これにより、目的「両親を取り戻し、この異界から脱出する」がつくられたことになる。
だからもちろん意味はある。だが、そのためのシーンが、なぜ「ご飯を食べて豚になる」なのか。

「豚」になる解釈
・神様の食べ物を勝手に食べた罰だ
・勝手に人の物を食べてはいけませんという、ありがたい説教
・異界でうかつに物を口にすると帰れなくなるという、神話的な構造にもとづくもの
・豚は、いやしい現代日本人の象徴。飽食のシンボル。
・はいってきたにんげんをぶたにしてたべちゃう、わな?


といった感じに、色んな解釈ができますね。
浅い深いとか考え方の違いはあれど、解釈はどうとでも取れ、どれも間違いではないと思います。
と言いますか、映画的には「目的の発生」というところをちゃんと理解してもらえればよく、あとはどうでも好きにしてくれ、という作りにしていると思います。
宮崎駿の中で正解となる解釈があるかも知れませんが、その解釈しかしてほしくないのであれば、やりようはいくらでもあると思いますから。だから宮崎の意図とは関係なく、解釈は自由に任される。

ここで間違えてはいけないのは、子供は浅くしか受け取れないが、大人は深く作品を理解できたので、より楽しめた、ということではないということ。
スクリーンに映されたお話を体験し、楽しんだ、ということに関しては、大人も子供も全く平等。
単純きわまりない話として展開されるので、映画のお話としては、老若男女が同じように楽しむことができる。

ただし大人は、この単純きわまりない話に「勝手に」「自動的に」意味を見出す。
というより、あまりに神話的、寓話的なお話なので、どうしても、象徴や、意味や、役割を見出してしまう。

だから、おおいに自分の解釈を語り、他人の解釈を聞き、あーだこーだ言うのが正しい楽しみ方の作法と言ってもいいでしょう。
実際ネットでも大人たちが語るジブリ映画の感想は基本的に解釈論です。
たまに、トンデラハウスの大冒険的な(オブラートな表現)飛躍のある解釈をされる方もいるが、そういう人でもストーリーはちゃんと理解しているはずです。子供でも理解できるお話だから当然ですが。
あくまでも解釈のレイヤーで、トンデラハウス(オブラート)しているだけでね。

私は見てませんが『崖の上のポニョ』も見てきた人によって、感想が大きく違ってました。
私は自分が見ていないだけに、逆に皆さんのポニョ感想を楽しく読みましたが、この作品も『千と千尋』同様に相当な解釈遊びができる映画のようですね。同じ映画を見たとは思えないほどバラエティにあふれてました。
でもみんな同じ映画を見ているし、同じ月を見ている。
日本では月でウサギがモチつきをしていることになっているが、世界にはさまざまな解釈がある。だが、どれもそれぞれにとって正しいし、そこに月があることは変わらない。見ているのは同じ月だ。

『千と千尋の神隠し』に正しい解釈による見方、のようなものは多分無い。というかあってはいけない。あったとしてもあってはいけないことにしよう。
全ての人で共有できるような「大きな物語」を提供して、あとは受け手が勝手に「解釈」して完成する作品だから。

この仕組みは、本当にすばらしいですね。
老若男女が楽しめるから、ファミリーで見に行くことが出来るし、大人も子供のお付き合いだけでなく、大人らしい解釈で物語を読み取ることができる。
だから受け取り方を変えながら何度も見ることができるし、年齢を重ねても、その年に見合った見方へ変化しながら、いつまでも見ることができる。
複数回劇場に行くことが出来るし、見た人同士の会話も楽しい。金曜ロードショーで見るたびに少しずつ違う見方をしても面白い。それは国民的アニメになるよね。
シンプルな「大きな物語」を使って、それでも陳腐と言われないための有効な方法の一つなんだろうな、と思います。

余談:『イノセンス』それは、なに?


押井守の映画も、意味を読み取るのを楽しむ映画ですよね。
『イノセンス』なんかは、劇場で見た時にストーリー自体は単純すぎるぐらいに単純なことが面白かった。つまり映画のポイントはもうそこにはない。
(中島敦の『悟浄出世(わが西遊記)』を連想しましたよ。なぜか。)
ただ、理詰めの部分が大きいので、宮崎駿と比べて良くも悪くも「混沌」さが少なく、解釈の深度はあってもどうしても幅は狭く感じられます。

また、解釈をしない層に対してのサービスが悪すぎると思います。もちろんそこは意図して、客を選んでいるのでしょうけれど。それに関しては押井免疫の無い友人達と劇場で『イノセンス』を見たときに出てきた感想が面白かった。
友人A「なんかすごく単純で淡白というか面白みのない話だったなあ」
友人B「うーん、セリフばっかりで難しいなあ。色々深そうなんだけど俺にはわからん」
という感じの両極端なものだったのは興味深かった。友人達、あんた達はわるくない。わるくないよ!
友人B「あと、中盤の天丼(館への潜入)はくどくない?」
いやあ、あれはジョン・ウーの鳩みたいなもんなんで。どれが現実でどれが夢かなんて誰にも分かりはしないんです。
スクリーンに映る光もそれを見つめる俺達すらも全ては幻、胡蝶の夢なんです。
友人A「(苦笑して)それにしては全然覚めないよね、私らの夢。もうそろそろ覚めてもいいよね?」
…全く。

そういう意味では、次回作が「宮本武蔵」だと最初に聞いたときは面白いなあ、と思いました。
日本人なら誰でも知ってる人物だし、「バカボンド」などで若い人にも広く知られた人物ですから。
誰でも知ってるようなお話を押井守がやる、というのはいいなあ、と最初思ったのに、監督じゃなかったので、それが残念でしたけども。



新海誠さんの話ができなかったので、また次回へ。
また話は大きく変わるので、続きものというわけではありませんが。

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