『聖戦士ダンバイン』の本放送当時、私は小学生でしたが熱心に見ていました。
その証拠に、後年、大人になってから全話見直しましたが、かなりの部分を覚えていました。
当時、我が家にはビデオデッキすら無かったこと、放送時間が小学生の遊ぶ時間の真っ只中だったことを考えると、相当がんばって視聴したはずです。
ダンバインかどうかは忘れましたが、近所の広場で友達と野球か何かで遊んでいて、富野作品を見るために各自帰宅し、終わったら集合してまた野球。みたいな覚えはあります。
これをいわゆる"富野"による試合の一時中断と呼び(豪雨、雷雨と同じ扱い)、その後、エルガイムやZガンダムでも続いていくことになります。

この時には、すでに富野由悠季作品と自覚して見ていたはず。
世の中にまだこれほどファンタジーがあふれていなかったので、ダンバインは人生で初めて体験したハイファンタジーだったと言ってよいと思います。
また、ザンボットの最終回は見逃していたし、イデオン発動篇を見るのはもう少し後だと思うので、まともに見た初めての全滅最終回でした。
初めてのファンタジーかつ、富野全滅バージンを捧げた作品ということになります。
そういう意味では思い入れのある作品ですね。

ということで、今回は『聖戦士ダンバイン』で"物語の始め方"を考えてみましょう。



主人公ショウ・ザマが犯した過ち


大人になってからは、子供のころには知らなかった当時の監督インタビューなんかも読みましたが、リアルタイムに読めなかったのを後悔するぐらいの面白さ。
その中でも、圧倒的に面白かったのは以下の話。

※主人公ショウ・ザマについて

富野:作劇的なミスがショウ・ザマという人をあのように決めてしまった、というのも事実です。
編集:どのようなミスですか。
富野:簡単に言っちゃうと、こうです。第1話でショウが地上から降りて来た時に、圧倒的に過酷な状況であったならよかったんです。あの人、バイストン・ウェルで一晩寝たでしょう。あの間がショウ・ザマを自堕落にしたんです。降りて来た時に完全な戦闘空間にスポーッと入っていたら、弾んだね。
編集:あれは不思議な感覚でしたね。
富野:不思議だね。なぜ寝かせたのか、僕にも分からないんだよね。
それこそ敵味方を順々に見せていくというTVの作り方を投影させて、ショウにその中を上手くくぐり抜けていかせよう……という穏やかなルートを作った。個人でなく世界を上手く見せようという気分がここにも出てた。考えれば最悪の始まり方をしたんだよね。

「聖戦士ダンバイン大事典」インタビューより
(私は「富野語録」に再録されたものを読みました)


「ダンバインに乗る前に、ショウが一晩寝た」
この発言は本当に面白くて、個人的にはダンバインという作品のイメージは、これに集約していいのではとすら思っています。
大事なのは、これは単にキャラクターのお話(キャラクター論)では無いということです。第1話の重要性の話であり、シリーズ構成のお話であり、「ダンバイン」の作品全体を支配してしまう作品カラーの問題でもあります。
ここでは、キャラクター論の話は置いておいて、そちらの話をしていきましょう。

『聖戦士ダンバイン』第1話の流れ


第1話で「ショウが寝る」かどうかが、なぜそんなおおごとになってしまうのか?
まずは『ダンバイン』第1話の流れを大雑把にみてみましょう。

<第1話「聖戦士たち」>
(1)ショウの召還(地上→バイストン・ウェル)
冒頭で、バイクに乗っていたショウがいきなり異世界バイストン・ウェルに召還されます。ついたところはドレイク城。

(2)バイストン・ウェル(世界)の紹介
何がなんだか分からないショウに、バイストン・ウェルの説明が入ります。「聖戦士」として呼び出されたことも聞いて、何とか状況と自分の立場を把握。
(あくまで説明を受けたのであって、ショウ自身が体と頭で感じとったわけではないという所もポイントでしょうか)

(3)オーラバトラー(ロボット)の紹介
続いて、オーラバトラー工房を見学し、同じ地上人のショット・ウェポンから、ロボット(オーラバトラー)についての説明を聞きます。
その後、宴の余興で、バーンの乗るオーラバトラー「ドラムロ」のデモンストレーションを見て、動きや強さに驚きます。

実はここでニー・ギブンのゼラーナ隊が宴へ奇襲をかけてきますが、単なる顔見せですぐに撤退。何も起こりません。

その後のタイミングで、ショウはおやすみタイム。
これが作品を決定付ける重要なできごと。

(4)ダンバインへ搭乗(トカマク撃墜)
翌日、ショウ達は初めてダンバインに乗ります。再びニー・ギブンの襲撃。この戦いでいきなり、ショウと同時に呼ばれた地上人トカマクが戦死します。
童話の中のようなファンタジックな世界だが、戦って敗れれば現実として死ぬのだ、そういう世界へ連れて来られたのだ、という事が分かるシーン………とか何とかもっともらしい理屈は何でも言えますが、小学生の私らの間ですら、トカマクか、柿崎か、というぐらい、やられキャラの代名詞でしたよ、トカマク。ごっこ遊びのときに、なってはいけないキャラクターNo.1でした。
ショウは、ここでマーベル・フローズンと戦い、彼女に「ドレイクに手を貸すバカな男」と言われてしまいます。

ニーの最初の奇襲があまり生きてない印象とはいえ、第1話中に主役ロボットの初お披露目もしているし、そこで敵から自分のポジションが間違っていると指摘され、次回へつながる流れもきっちりあります。
では、何がいけないのでしょう?

ショウが寝たことによる影響


あれこれ考えるよりまず富野監督ご本人に聞いてみましょう。
同上のインタビューで、すでに話してくれていますので、いくつかピックアップ。

※前半はファンタジー+ロボットだが後半は完全にロボットものに方向転換したことを指摘されて

富野:転機というのは第1話のラッシュを見た瞬間です。

<中略>

観た時"ああ、あまりにも自分の作りたい物を作りすぎているな"と感じたんです。それは実際に商売として―――何だかんだ言っても5時半の時間枠にやる番組として正しいことなのか?とちょっとクエスチョンマークがついたんです。

<中略>

一般視聴者が興味が湧く展開になっているのかどうなのかっていう時に、とてもわかりづらい。その理由も分かっています。始まった当初からの作劇というものが、世界を描くことのみに興味を置いたシフトであったために、個人を描くことをしていないためです。
<中略>
バイストン・ウェルという世界を描きたかったし、それを俯瞰する作品にしたかった。そこでロボット物を利用させてもらおうと思った。とても明解な意図があった。ところがそれを実際にやってみたら"そら見ろ!"となったわけ。

<中略>

(バイストン・ウェルという)モチーフに対してのミスはしていません。ただTVという媒体でやることを間違った。口惜しいけどそれだけは認めざるを得ない。


これらは第1話を見直したとき、実際に私自身も感じたことでもあります。

「主役がショウ・ザマでなく、完全にバイストン・ウェル(背景世界)になっている」

バイストン・ウェルは、「陸と海の間」にある架空の異世界。
テレビアニメ『聖戦士ダンバイン』のほか、いくつもの小説の舞台となって、「バイストン・ウェルもの」として富野監督のライフワークにもなっています。
(どうでもいいけど、ショウ・ザマって、狭間で生きる―または翔ぶ?―から来た名前なんでしょうか?)

当時ファンタジーはまだ今ほど身近なものではありませんでした。視聴者(特に当時の私のような小学生)はファンタジーをよく知りません。
いきなり異世界バイストン・ウェルに連れて来られた主人公ショウと同じように、状況と、作品のコンセプト、カラーが良く分かりません。

そのため第1話で達成すべきミッションは2つありました。

(1)当時、身近でないファンタジーを(子供たちにも)分かりやすく紹介する。
(2)その上で「ファンタジーでロボットもの」をするためのオーラバトラーを紹介する。


これはなかなか大変なミッションです。
ダンバインは「ファンタジーなのに、ロボット(オーラバトラー)もの」というギャップが設定上の見せ場ですから、前提としてのベーシックなファンタジー物がまずあって、次にその世界でロボットが登場すると、サプライズがガシっと決まるわけです。
ところが前提となるファンタジーがまだ身近で無かったので、舞台であるファンタジー世界を紹介するところから始めないといけませんでした。

その結果『ダンバイン』第1話がどうなったかというと、富野監督自身が言うように、完全に世界説明が主役になってしまっています。
ショウはお客様扱いで、観光旅行か社会見学かという感じ。しまいには、オーラバトラーによる闘技場での怪獣退治ショーまでついてくる始末。
最後はドレイク城ホテルのふかふかのベッドでぐっすり眠って、バイストン・ウェル旅行の楽しい1日目は終わってしまいます。

1日目で観光と社会見学が終わったので、2日目は体験学習とまいりましょう。
ここでようやく実際にオーラバトラーに乗って大空に舞い上がるというオプショナルツアーに進めるわけです。
この段階で初めてハプニングが発生し、やっと物語が動き始めます。それがトカマクの戦死だったり、初戦闘でのマーベルとの接触であったりするわけですが、これはもう段取り通りのツアー(第1話)の最後の最後で起こったハプニングということになるわけです。

こうしてショウがお客様気分でバイストン・ウェルとオーラバトラーを体験するという始まり方は、第1話に限らずその後にも影響を与えています。

私個人の感想としても、導入部といえる第1話~4話あたりまではいいとして、5話以降の第1クールの話は、監督が言うように物語が弾んでないように感じます。
それでも私みたいな富野アニメ好きはどうとでも楽しめるからいいですよ。
でもね、初めて『ダンバイン』見る友人にビデオを貸したら、物の見事に第5話「キーン危うし」で視聴がストップしたんですよね。そうなった気持ちは分かるから「後で面白くなるから我慢して見ろ」とは私は言わなかった。アニメは我慢して見るようなものではないですし。
ただ、その代わりこう言いました。

「そこから第15話まで全部飛ばして、次は第16話を見てほしい。それでダメならもう見なくていいよ」

『聖戦士ダンバイン』第16話といえば、言わずと知れた「東京上空」です。

「東京上空」に見る物語の軌道修正


第16話「東京上空」は、ショウのダンバインとガラリアのバストールの戦闘中にオーラロードが開いてしまい、地上(東京)に出てしまう、というお話です。第16~18話で東京三部作ですね。
オーラバトラーが東京上空で戦ったり、ショウが両親と決別したり、地上人に追われたりと、後半の展開の前哨戦・前フリでもあり、ターニングポイントとなった重要な回です。

実は、このお話は当初3クールの頭(27話くらい)に予定されていたそうです。もし27話として放送されていたら、ダンバインの評価が今日より下がっていたことは間違いないでしょう。

前述のとおり、第1話の時点で富野監督は、この作品の危うさに気づき、最速で軌道修正しようとしました。
その時にすでに2クール分の物語が作業として動いているので、すぐには変えられなかったのですが、「東京上空」を改善できる最短の話数に持ってきました。それが16話です。
この逸話は、制作進行中での軌道修正の難しさを物語ってもいますが、恐らく厳しい状況下でのベストの選択だったのではないでしょうか。それぐらいすばらしい決断だと思います。

他にもさまざまな軌道修正やリカバリーの策がとられました。

・シーラ様は、男性の老人の予定だったが、美少女へ変更
・東京上空を早める→地上への浮上も早まる→舞台としてのバイストン・ウェルを捨てる(これはすごい)
・地上への浮上後は、完全にロボット物の展開に


これらはもちろん物語的な修正だけでなく、商品としての修正も多分に含まれます。
ビルバインが背中にキャノン背負って、メカメカしいのも、その一つかも知れません。

ショウが第1話で寝たことは、ショウ・ザマというキャラクターの形成上にも大きな影響を及ぼしました。
ですが、それ以上に『聖戦士ダンバイン』という作品自体が、重く背負うことになったのです。

これは第1話を、特に「世界や設定、動機の処理が大変なロボットアニメ」の第1話をどうするのか?という意味で非常に面白く、ためになるサンプルだと私は思います。

『ダンバイン』第1話のあるべき姿とは


では『ダンバイン』は、どのような第1話にすれば良かったのか。
それもまた、富野監督がインタビューですでに話しています(さすが、菅野よう子に「全部言う監督」と言われた人)。

富野:(ショウはバイストン・ウェルに召還されたときに)迫水真次郎のようにパッと降りて来た時に刀を掴んでいなけりゃいけなかった。
極端な言い方をすればダンバインに乗っていなけりゃならなかった。


迫水真次郎は「バイストン・ウェルもの」の小説の1つ。「リーンの翼」の主人公。
実は私は「リーンの翼」は読んでいません。(なぜか「ガーゼィの翼」は全部読みました)
ですが、富野監督が伝えたいことは分かるような気がします。

ショウは何がなんだか分からない状態だろうが、とにかくダンバインのコクピットに乗って、目の前の敵と戦わなければならなかった。
つまり、背景世界やロボットの説明を後回しにしても、まずドラマやアクションで主人公と観客をゆさぶって、作品にひきこむことを優先させなければならなかった、と私は理解しました。
説明してるヒマは無いから死にたくなければとにかく乗れ、とばかりに戦わせて、それが終わってひと息ついてから詳しい説明タイムとなるわけです。
これ、よく考えたらそもそも「ガンダム」のアムロがそうですよね。
(「リーンの翼」については、どなたか教えていただけるとありがたいです)

このタイプの第1話については、ハリウッドのアクション映画冒頭でのオープニングエピソードも参考になるように思います。
これを連続物の第1話と同じような役割ととらえると、まずオープニングで軽めのミッションをカッコいいアクションでこなしつつ、世界、キャラクターを何となくで紹介しています。
時間が2時間しかないので、丁寧に段取りを踏んで、というわけにもいきません。まず魅力的なアクションなどの見せ場で観客を作品世界にひきこむのが何より先決。詳しい説明はオープニングが終わって、ひと段落してからでも十分。という作りが多いですよね。
これらもいわば「いきなりコクピットに乗せられる」タイプ、いや全体の尺の長さを考えるとその極地といえるかも知れません。

ちなみにこのオープニングをするためには、映画冒頭でのアクション要員が必要になります。ですが、ヒーロー物第一作なんかですと、映画冒頭ではまだ主人公がヒーローなっていません。
そのため「ヒーローの導き手」が主人公の代わりにオープニングの主役を務めることになります。「マトリックス」のトリニティなんかもそうですし、先日見た「WANTED」でのアンジェリーナ・ジョリーもそうでしたね。
ヒーローになった主人公は、第二作目でやっとカッコよくオープニングに登場することができるのです。

このタイプの第1話にするのは、確かに方法のひとつでしょう。
少なくとも主役がバイストン・ウェルから、ショウ・ザマになることは間違いないでしょうし。

『ダンバイン』以降の富野作品第1話


しかし、TVシリーズをこれだけやっている富野監督を持ってしても、第1話というのは本当に難しいものなんですね。
いや、数多くやっているからこそ、違うことに色々挑戦したくなったりして、結果こうなるということかも知れません。

『ダンバイン』後の作品での第1話を見渡すと、やはり『Vガンダム』と『ターンAガンダム』が思い当たります。

『Vガンダム』の1話については、wikipediaでの記述を引用しましょう

もともとの構成ではVガンダムが初登場するのは第4話の予定であったが、第1話から主人公MSが登場しないことにスポンサーが難色を示したため、Vガンダム初登場を第1話として、第2話~第4話はそれ以前の話をシャクティが回想するという構成になった。


これは実際に当時、本放送見ていて多少混乱した覚えがあります。
第1話でいきなりガンダムに乗るのは、先の「いきなりコクピット」論や商業的な意味を踏まえても、悪くないはずなのですが、『Vガンダム』は無理がありすぎてさすがに苦しく、当時の制作上の混乱が垣間見えます。

『Vガンダム』で叶わなかった"第1話でロボットに乗らないガンダム"というのは、その後の『ターンAガンダム』で実現します。

『ターンA』第1話では、背景世界とキャラクターの紹介に1話分をまるまる費やしました。
第1話は、月から主人公ロランが地球にやってきて、親切な人たちに拾われて成長しながら、地球での生活を楽しむ様子が描かれます。
2話目が実質的な第1話。初めて敵が登場し、主役ロボのターンAが初めて登場し、それに主人公ロランが乗って、初戦闘をします。

ロランは、ターンAに乗るまでに一晩眠るどころか、劇中で2年も地球で過ごしてしまいました。いっぱい寝すぎですね。
フィルム上の時間を見ても、1話分以上、ガンダムに乗っていません。

『ターンA』はこれまでのガンダムの延長上で考える世界では無いため、全く新しい舞台が用意されました。第1話では、『ダンバイン』と同じく、その新しい世界とキャラクターを伝えることを優先させてしまっていて、敵やロボット、戦闘が後回しになってしまっていますね。
でも『ダンバイン』と違って、何度見直しても、これでいい、いやこうでないと、と思うんですよね。

その理由は色々あるのですが、『ターンA』が世界紹介パートを第1話、ロボットアニメパートを第2話として回を分けたことは大きいのではと思います。
その結果、1話ではたっぷりと世界名作劇場が楽しめたし、2話では1話分かけて紹介した世界にメガ粒子砲と複葉機が舞う戦闘のサプライズを楽しめました。
世界名作劇場の空にメガ粒子砲の光が走るのを見て、2話目で初めて「面白い!」と思わず声が出たのを覚えています。
確かにそういう意味では真に「面白い」と初めて唸ったのは第2話なのですが、これは1話があってのこと。いきなり2話の内容をやっていたら「面白い!」と声にまで出さなかったでしょう。
連続物のTVシリーズゆえの楽しさだったように感じますね。
(『ターンA』についてはたっぷりやりたいので、ここはこのぐらいにしときます)

今の富野監督なら、ゆったりバイストン・ウェルをやってもいいんじゃないかな。
『ターンA』『キングゲイナー』までいった富野監督ならそれが出来るんですよね。
(OVA「リーンの翼」は未見ですが、OVAでは全体の尺の制約があるので、こういう方式ではできないでしょう)
その時に『ダンバイン』第1話のリベンジをして欲しいなあ。
もちろん「いきなりコクピット」の第1話ではなく、バイストン・ウェルを楽しそうに描いて、ロボットに乗らない第1話としてのリベンジ。
バイストン・ウェルに住んでみたいな、と思える第1話を。

うおんちっと! うおんちっと!

と、私の中のゴースト(ベムベムハンターこてんぐテン丸の意)が囁くので、『アンジェリーナ・ジョリー主演最大ヒット作』という身もフタもない宣伝展開をされている映画「WANTED」を先行ロードショーで見てきました。

ステキなトレーラーはこちら。未見の方はぜひ。(CMいっぱいしてますが)


正式には公開したばかりなので、意味深な言葉で、核心に迫らないようにネタバレ無しでがんばりたいと思います。………と、決意して書き始めましたが、やっぱ無理でした(笑)。ダメ。無理。
そこで「ウソをいっぱい混ぜる事でどれが真実なのか分からない」→「どれがホントで、どいつがウソで。俺がお前で、お前が俺で」ということにさせていただきます。
結果、このエントリは「ウソ、大げさ、まぎらわしい」にまみれていますので、ご了承ください。
真実は君自身の目で確かめてくれよな!(ファミコン時代のRPG攻略本)

■かんたんな「WANTED」あらすじ

主人公ウェスリー・ギブソンは、顧客管理担当の冴えないサラリーマン。
恋人は同僚の友人バリーに寝取られてるし、女性上司には毎日ガミガミ言われてる。口癖は「すみません(I'm sorry)」と「お醤油かしてください」
そんなある日、美人の暗殺者フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)に命を助けられたところから、彼の運命が動き始める。
なんでも生後7日で生き別れた父が、実はスゴ腕の暗殺者だったが先日殺された。お前も暗殺者の素質があるからなりんしゃい、ということらしい。
ウェスリーさんはサラリーマンから暗殺者へ転職することに決め、ジョリー姐さんについて暗殺組織"フラタニティ"へ。
ジョリー姐さんにいきなり「いただきマンモス!」とエレキベースで殴られると、ウェスリーさんの頭に角が!暗殺者としての力が目覚めはじめる。
ついにCMでおなじみの弾道曲げ撃ちも会得し、一人前の暗殺者となったウェスリーさんは、父のカタキであるメディカルメカニカの暗殺者「クロス」と戦うのだった。


こんな感じの映画です。
ジョリー姐さんは、主人公の師匠にして同僚の先輩暗殺者ということになりますね。メインキャストですけど、主役ではないです。



キレイに起承転結の映画です。エピソードも4つ。

[起] オープニング~暗殺組織"フラタニティ"へ。
ジョリー姐さんとの出会い、日常との決別


[承] 暗殺者修行
暗殺組織"フラタニティ"の紹介と、どM修行。


[転] 父のカタキ、暗殺者「クロス」との対決
列車を舞台に、暗殺者同士のバトル。


[結] 暗殺組織"フラタニティ"全滅まつり
果たしてウェスリーさんの運命は!


それでは、各パートでのオモシロポイントをいじれるだけいじっていきましょう。



[起] オープニング~暗殺組織"フラタニティ"へ。
ジョリー姐さんとの出会い、日常との決別


つまらない日常
しがないサラリーマンからはじまり、非日常へ踏み出すのはマトリックスパターン。
隠れて主人公の恋人を寝取りながら友達面する親友バリーと、ふくよかなメガトンボディを持った拒食症の女上司。つまならい日常の象徴であり、主人公がひとたび非日常へ踏み出せば、二度と出さないようなキャラクターですが、実はこの映画ではこの2人を最後までとことん使い倒します。ラストシーンにもこの2人が登場するなんて私は最初想像してませんでした。

ジョリー姐さんが、車でウェスリーを回収するシーンのが実写版Gun Smith Catsでよかった(ガンスミが、こういう映画のマンガ化なんですけども)。

日常との決別
そして何より、ウェスリーさんが会社をお辞めになるシーンがすばらしかった。
拒食症の嫌われ女上司にネチネチ問い詰められたウェスリーさんはついに日常を捨てることを決意。
「くたばっちまえ!」と言い放つ(ここまでの一連の台詞にも愛があふれていてすばらしい)。
呆然とする女上司。キーボードだけを抱え、去っていくウェスリーさん。

それを見て「お前は最高だ!」と喝采をあげる同僚バリーへ、ハイタッチ代わりのキーボードフルスイング。
バリーの顔面にヒットして砕けるキーボード。飛び散るキーを目で追うと………「F」「U」「C」「K」「Y」「O」「U」。

これは「O」「M」「O」「R」「O」「I」。(他にも文字遊びがいくつかあり)
このシーンで、私はこの映画に忘れないKOI-GOKOROを抱きました。
場面としてはごく平凡な日常への決別シーンなんですが、見せ方が楽しければそれでも全然大丈夫なんだ、ということを改めて思い知らされたのです。



[承] 暗殺者修行
暗殺組織"フラタニティ"の紹介と、どM修行。


暗殺組織"フラタニティ"
"フラタニティ"は、古代ギリシャの時代より1000年以上も続く暗殺集団。
殺すべき人物の「神託」を受け、神に代わって"運命の意志"として、暗殺を実践してきた。
その「神託」が面白い。機織機が編んだ布の織り目を暗号として、二進法で読み解くと、殺すべき人物名が浮かび上がるというしくみ。コンピュータ(機械)がランダムで決めた相手を「神託」として殺しているような感じ。

父のカタキである暗殺者「クロス」を倒すには、ウェスリーさんも暗殺者にならなければいけません。
"フラタニティ"のリーダー、スローン(モーガン・フリーマン)は、「クロス」を倒すには、ウェスリーで無ければいけない、と説きます。
私は見ててここで引っかかり「なぜウェスリーなのか理由の説明はしないのか?」と疑問に思っってしまいましたが、実はここちゃんと伏線でした。

暗殺者どM修行
さて修行シーンといえば、話題にもなっていたジョリー姐さんにメリケンサックでガスガス殴られる主人公。
「どうしてココに来た」と問われ、どう答えても殴られる。こんな命を賭けた大喜利見たことない。山田君にも座布団の枚数分殴られる始末。
当然、血まみれで失神。でも"フラタニティ"秘伝の回復風呂につかると、すっかり元通り。かくして殴られて風呂、風呂上がりに殴られ、という無限のドMサイクルが完成。
瀕死状態から何度も回復するウェスリーさんの戦闘力はいつのまにか、ザーボンさん、ドドリアさんを越えるほどに。

銃弾曲げ撃ちのメカニズム
このパートでの見ものは、CMでもおなじみ、弾丸ねじ曲げ撃ち、カーブ撃ちの修行。
早速、曲げ撃ちのお手本を見せてくれるモーガン・フリーマンが、その秘密を教えてくれた。

「拳銃の弾は真っ直ぐ飛ぶものだと知っているから真っ直ぐ飛ぶ。だがそれを知らなかったらどうなる?」(みたいなこと言ってました)

ははーん、分かったぞ!要は『気持ち次第』だってことだな!
理屈とかは特になかったです(あっても見せない)。精神が物理を支配できるので、つまり気持ちです。気持ちを弾道に載せるのが大事なのです。「コブラ」のサイコガンなのです。

でも「WANTED」のいいところは、それをするために曲げ撃ちする時に腕を振りながら撃つところ。
ただ曲げて撃つのではなく、腕を振りながら撃って、弾道を曲げるのです。
「いや、腕振ったからって、銃弾がカーブするのと関係ないだろ」という人は、弾道ではなく心が捻じ曲がっています。精神で弾を曲げるということが分かっていません。
あのね、私、銃撃ったことないんですけど、いや、無いからこそ固定観念なく思うのですが、きっと「腕振って撃ったら曲がる」んじゃないしょうか。それぐらい「腕の振りって……いるかな?……いるよな!」と思わせる、何とも言われぬ説得力がありました。
私は劇場を出るとき、すっかり腕の振りに疑問を持たなくなり、読売巨人軍の斎藤雅樹投手(全盛期)だったら、恐らく修行なしで曲げ撃ちできるよな、と考えながら家路につくほどでした。

一方、巨人の斎藤とは違い、なかなか上手く曲げ撃ちができないウェスリーさん。
「曲がる」という気持ちが足りない。キモチ!キモチ!キモチで負けてるよ!(ラモス瑠偉)
しかし、卒業試験。ジョリー姐さんが的の正面に立つ。曲げて的に当てないとジョリー姐さんが死ぬ。そんな「鉄拳チンミ」的シチュエーションで見事、一級暗殺士合格。さすが君にもできる資格のユーキャン。詳しくは明日の朝刊の折込みチラシをご覧ください。

私の胸の鍵を壊して逃げていったアイツ
この辺りで、ウェスリーさんが自宅へ父の形見の銃を取りに戻る場面があるのです。
久しぶりに自宅に戻ると、すでに恋人と親友バリーが同棲しているのでした。ウェスリーさんに罵詈雑言を浴びせる恋人。
そこで登場するジョリー姐さんが「あんちくしょうに逢ったら、ただでは置いておかない。私の腕にかかえて、くちづけ責めにあわせる」感じで実に良かった。

あとウェスリーさん自体もピンクレディーの「ウォンテッド」で考えてもいいと思います。

ある時、冴えないサラリーマン、ある時、スゴ腕暗殺者、ある時、炎の復讐者、あいつはあいつは大重体。(殴られすぎです)



[転] 父のカタキ、暗殺者「クロス」との対決
列車を舞台に、暗殺者同士のバトル。


いっちょまえの人殺しになったウェスリーさんは、父のカタキ「クロス」との戦いに挑みます。
チャリングクロス駅で列車に乗って、ギリシャ神話のようにまぶしいクロス(聖衣)まとって、列車内で壮絶なバトル。はじける小宇宙(コスモ)は宇宙創世のビッグバン級。巻き込まれた乗客全滅。
お互い弾丸を曲げるので、弾丸と弾丸が中央でぶつかって相殺され、なかなか決着はつきません。さすがだね!(もう洗脳されているので疑問は何も感じません)
くそう。面白い。ガン=カタ使いなども含めて、変態銃使い最強決定戦をやってほしい。

ここで物語は急展開します。



[結] 暗殺組織"フラタニティ"全滅まつり
果たしてウェスリーさんの運命は!


ここはさすがにどう書いてもネタバレ、すなわちBAD COMMUNICATIONになってしまうと思うので、要点だけ並べます。

とりあえず壮絶なアクションといい、ジョリー姐さんの弾丸に込められた"GOOD BYE"といい、それが描く美しい軌跡といい、良い落とし方だと思います。
続編を作ることなど考えないまとめ方がすばらしかったです(と思ってたら、続編決定らしい)。
個人的には、ウェスリーがジョリー姐さんの方を1度振り向く「だけ」。というのが、いいなと思いました。全くウェットでなくて。
この映画は、ジョリー姐さんとの関係ですらウェットにしないので、暗殺される側の言い分や背景、巻き添えにされる一般市民(彼らを救うために暗殺してるはずなんですが)などの描写も割り切って省略してますが、それもまたよし。
そして最後の最後に、オープニングと同じシーンを入れて、さらにそこに親友バリーと女上司もからめるという、面白ければとにかく入れようという、足し算発想、私は大好きです。



まとめ
映画の完成度などは「ダークナイト」(私は未見)なんかの方が全然高いんだろうと思いますが、腕の振りで弾丸を曲げるような勢いとユーモアたっぷりの暗殺者皆殺し映画です。
CMで見せている部分が全てではありませんよ。オモシロポイントはたくさんあるので、ぜひご覧になることをオススメします。

私の中で「ウォンテッド」といえば、長らくピンクレディーとベムベムハンターこてんぐテン丸の2つを意味しましたが、そこへついに第三のウォンテッドが加わりました。
これからは、この3つを「世界三大ウォンテッド」とすることを宣言したいと思います。異議がある方は自分の足元に×(バッテン印)が無いかどうかご確認を。

関連リンク(外部):
ちなみに「WANTED」原作はアメコミだそうです。(私はもちろん未読です)
映画はかなり変えているようですので、知らなくても問題なく楽しめますが、原作は原作で非常に興味深いことを、こちらの記事で知りました。

・実は、超人的なヒーローや悪役たちは本当に存在していたのだ。
・そして1986年、スーパーヒーローとスーパーヴィラン(悪役)の間で全面戦争が起こり、後者が勝利を収めた。
・その結果、かつて超人たちが実在していたことは闇に葬られた。彼らを知っていた者はヴィランたちにより記憶を消され、その姿はコミックや映画などに残るのみである。

- とりミンチ - 『ウォンテッド』原作がかなり出来のいいメタフィクションな件

聞くだけで面白いメタさ。この世界は、1986年に悪役側が勝利してたのか!(もちろん一般市民の私はそれに気づくことも出来ませんでした)
すばらしい記事ですので、私のバカ感想に飽き飽きした方はぜひご一読を。

「ニュータイプは戦争の道具じゃない!」

いや、ニュータイプほどステキな戦争の道具はないんじゃないかな?


"ニュータイプ"を中心に、機動戦士ガンダムにおけるお約束と言い訳について、色々考えてみましょう、というお話です。

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以前書いた記事で、ガンダムがすばらしかったと考える理由の一つとして以下のものをあげました。

・これまでのロボットアニメのお約束をはずすのでなく、全てを高いレベルで盛り込んだこと
・このあらゆるお約束に大人の言い訳をしてくれたこと。


現在から見ると、"ファースト以前、ファースト以後"にロボットアニメを区分けする意識も強いですが、ファーストにはきっちりと"ファースト以前"のロボットアニメ(あるいは男の子アニメ)のお約束が盛り込まれています。
だからこそ当時幼かった自分でもそれほど違和感なく楽しめたのではないかと思っています。(要するに小さい子供でも、マジンガーZのようなロボットアニメからスムーズに移行できた)

ワクワクするバトルアクション(=ロボットチャンバラ)アニメだったことも、男の子アニメのお約束であり、小さくても熱中できた理由の1つです。(ファーストでのアクションについては、 「ロボットチャンバラ」としてのガンダム<ビームサーベル戦闘論> をご覧下さい。)

そして何より基本設定にお約束がきっちり入っています。
キリが無いのですが、あくまで分かりやすい所を思いつくままあげてみましょう。

・大前提としてロボットプロレスであること
・父がつくったロボットに乗る主人公
・仮面の美形ライバル
・敵味方に分かれた兄妹(実は王子とお姫様)
・無敵のスーパーロボット(全然傷つかない)
・合体変形コアブロック。レーザーサーチャー同調!
・次々と現れる新型ロボットと敵パイロット
・ジェットストリームアタックのような必殺攻撃
・でっかいモンスターロボット登場(グラブロ、ザクレロ、ビグザムなど)
・戦争なんだけどスポットをあてるのは主役ロボット周りだけ


などなど。そして、これらのお約束にきちんと大人の言い訳を用意してくれています。

「どうして、わざわざロボット同士で撃ち合ったり斬り合ったりしないといけないの?」
「それはね、セ・リーグとパ・リーグが戦うからだよ」
まちがえた。
「それはね、ミノフスキー粒子があるからだよ(以下は略します)」

「どうして、ガンダムはあんなに無敵なの?傷つかないの?」
「それはね、ガンダニウム合金だからだよ。あとマジンガーZと違って同じ人類の科学レベルの争いなので、超合金Zも溶かす謎の溶解液などは出ないからだよ」

「どうして、連邦vsジオンの戦争なのに、結局ホワイトベースとガンダムだけなの?」
「それはね、第13独立部隊という囮部隊だからだよ。意味なくホワイトベースが単独行動しているわけではないんだよ」

「どうして、素人でしかも子供のアムロがガンダムに乗れたの?」
「それはね、父がガンダム開発者で自身もメカマニア、そこへザク襲撃のどさくさ、目の前にマニュアル。ガンダムに乗るのに一番近いところにいたからだよ」

「どうして、その後もずっとアムロが乗り続けるの?」
「それはね、大人がみんな死んじゃってサバイバル状態になったからだよ。子供でもやれるならやらなきゃいけない極限状態だったから、仕方がなかったんだよ」

「どうして、アムロはあんなすごいスピードでシャアに勝つぐらいに強くなったの?」
「それはね、アムロがニュータイプだからだよ」

「どうして、クラムボンは死んだの?」
「それはね、やまなし、オチなし、そして意味なしだよ。ガンダム全然関係ないよ。あとクラムボンはかぷかぷわらつたよ」

「どうして、がるまは死んだの?なぜ?なぜなの?」
「それはね、そうだなあ…」
「な…ぜ………ZZ…ZZ…」
「おや、ダブルゼータかい?いや、寝てしまったんだね?(毛布をかける)おやすみ、坊や」

などなど。お分かりの通り、こうしたお約束に伴う疑問への答えは全て言い訳です。
本当の理由はもちろん別にありますが、こうした言い訳がキレイに、より面白く、作品を形作ってくれています。ここが工夫のしどころです。

ガンダムはその言い訳のリアリティレベルを全ての面で上げたため、お約束を全てクリアーしながらも、"ファースト以前"の作品とは別物になることができたと思うのです。つまり"ファースト以前"のロボットアニメと、用意されたお約束内容は同じでも、それを説明する言い訳が違っているわけですね。

この辺りが、スポンサーの要求(制限)を飲み込んだ上で最大限の作品作りをしてきた監督として、私が評価しているところなんですが、以前の記事では言葉足らず(オチ)にしたせいで誤解を生んでしまったようです。

ガンダムは戦いそのものも宇宙移民の独立戦争という、人類同士の政治的な闘争にしましたし、それを支えるSF設定も整えられました。こうした、これまでのロボットアニメとは違うリアリティを設定する中で各部門の言い訳がきっちりと整えられましたが、個人的にここで一番注目すべきは、そうした世界観、SF設定だけでなく、

「アムロみたいな子供が、4ヶ月で急成長するのには無理があるよね」

と主人公が強くなることにも言い訳をきっちり用意したことだと思います。つまり、それが、「アムロは実はニュータイプという異能者だった」という言い訳です。

言い訳としてのニュータイプ


実は私はいわゆるニュータイプ論、ニュータイプ思想的なものへの興味が無いので、私にとっての第一の存在意義は「言い訳としてのニュータイプ」ということになります。

主人公がロボットへ乗り込み、そこで戦う状況が揃うまで、というのは割とこれまでのロボットアニメもきっちり言い訳つくったと思うのですが、ロボットに乗った主人公が大活躍する部分は自動的に約束された道としていたものが多かったように思います。
(実は何とか一族の末裔なんたらなどの設定があっても、結局「乗る理由=活躍理由」であって純粋な「活躍理由」ではなかったように思います)

それぞれの世界観がありますから、良い悪いという話ではありません。ガンダムの場合では、富野監督が作品世界全体のリアリティレベルを考えたときに「この世界で主役ロボで活躍するアムロには何か理由がいる」という判断をした、ということだと思います(この辺りが、私の考える富野監督版のリアリティコントロールといえます)。

ニュータイプが必要かどうか。誰でも引っかかりそうではあるのですが、少なくとも私はその場でそれが必要と思えたかなあ、と考えると自信がありません。

「子供がいきなり戦争行って、そんな簡単に生き残れるわけないでしょ。まして大活躍なんて」

という大人の(ある意味冷めた、いや覚めた?)正気が必要な気がしますね。

ここで重要なのは、ニュータイプがいかなる力で、それは現実的(またはSF的)にありえるのか、というようなことでなく、言い訳を「するか、しないか」の選択そのものだと考えています。

例えば「現実世界の主人公が異世界で大冒険」のようなお話がたくさんありますよね。普通、異世界で私たちの言葉は通じません。でも物語進行上、言葉が通じないとお話が円滑に進まない。ですので「言葉が通じる」言い訳をすることになります。
この時、理由が魔法やテレパシー(能力)であろうと、翻訳こんにゃく(道具)であろうと、世界のしくみ(世界観)であろうと、理屈はどうでもいいのです。
物語はどんどん進行していきますから、見てる方は「あれ?言葉が何で通じてるの?」という疑問(引っかかり)をとりあえずクリアーできるなら、どんな言い訳でも、ひとまずそれで納得して見続けることにするからです(言い訳として提示した設定が、上手いか、苦しいか、というのはその次の問題としてあります)。

言葉が通じない面白さを題材にしたり、童話など、言い訳を必要としない物語(世界)もあります。必ずしも言い訳がいるわけではありません。でも創作上「言い訳がいるの?いらないの?」という問いかけは必要で、問いかけの上「言い訳はいらない」と選ばれることが重要じゃないかな、と考えます。


そういう意味では、ニュータイプとはガンダム全体のリアリティと釣り合いを取るために色々考えられる言い訳パターンの一つでしかありません。問題となっているのは「アムロの不自然な成長と戦闘能力をどうするか?」であって、ニュータイプ能力はその解決案の1つに過ぎないのですから。

しかし実際には、ファーストガンダムとニュータイプは切り離すことができない関係にありますね。

ニュータイプで複数の問題を解決しよう


宮本茂「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」


とは、ポール・マッカートニーにもサインをしたという任天堂のえらい人の言ですが、私はどうやら、1つのアイデアで複数の問題を解決するのが大好きのようです。特に、実利的な解決が、物語にもプラスにもなる、というアイデアが大好物です。

※過去、記事に書いたところでいうと、押井守「イノセンス」におけるバトーのジャケット問題、がそれに当たります。

ニュータイプも単なる言い訳にとどまらず、これ一つで複数の問題を解決するものとして使用されています。それがテーマ的なまとめ方にまで影響しているため、他のものでは代替の効かないものになっていると思われます。
というわけで、ニュータイプがガンダム中でどう利用されているかをあげてみましょう。

ニュータイプの導入効果


【言い訳としての効果】

・アムロの不自然な成長の説明(言い訳)
・人知を越えた超絶戦闘アクション理由


この辺りは紹介済み。ただ、これだけだと単なる戦闘(とその演出)に関する設定。
ゲームで例えるなら、RPGの戦闘と成長システム部分だけあるようなもの。
これが、物語面にも効果的に働いてこそ、複数の問題を1度に処理したことになり、作品に1本の軸が通ることになります。

【アニメ演出上の道具としての効果】

・不可能な相手とのコミュニケーション
・不可能な状況でのコミュニケーション、情報伝達


富野アニメではロボットアニメでは成立しづらいコミュニケーション機会を何とか作ろうとしているのが大きな特徴です。宇宙で全員、鉄のハコに乗って撃ち合っているだけでは、ドラマが全然起きないですからね。
ニュータイプ能力は、それをサポートできるものになっています。
戦場の流れを敏感に感じ取ったり、人の生死が分かったり、守るべき人達の危機を察知しアドバイスを与えたり、死者と会話したり、真正面からやろうとすると描写や段取りが色々面倒なところをニュータイプ能力で全て吹っ飛ばすことができます。
距離や、敵味方、人の生死、モビルスーツの装甲、それこそミノフスキー粒子の濃さも、ニュータイプの感応力には関係ないのですから。
(まあ、ここの部分は、これ以降、便利に使われすぎなこともありますが、今日はとにかくほめときましょう)

【テーマ的な効果】

・人類進化テーマ(SF的テーマ、問題提起)
・人は分かりえるかも知れない。でも人はどこまでいっても人なのよね。


ニュータイプのアムロとララァは、戦場でシャアが嫉妬するほどの深い心の交流を果たします。
しかし一年戦争時点で、いや、ガンダム全体を通しても最高峰のニュータイプであるララァですら、アムロへ完全に傾くのを踏みとどまりました(彼女はシャアをかばって戦死します)。しかし、その理由が、

「あなたが来るのが遅すぎたのよ」=(シャアと)先に出会ってしまったから

今出会ったニュータイプのあなたより、先に出会って救ってくれたシャアを愛したいから(でも、アムロとの方が深く感じあえる、分かり合えることはララァ本人が一番分かっている)

というのは、なんて業が深いのでしょう。
ニュータイプになったからといって自由になるわけでも何でもない。とことん人間であることから逃れられない。
「ニュータイプは人間的には不幸な人が多い」とは劇中でもいわれますが、それは不幸にもなりますよ。悩み事が単純に増えるだけですもん。

それにしても、この時のアムロの絶望と、シャアの嫉妬は想像を絶しますね。
だってシャアは、ビームきらめく戦場の真っ只中で、自分の女をアムロに寝取られたわけですから。
なんて官能的な関係なんでしょう!

すなわち"純白のモビルスーツ、スカートつきの戦場、最高の女(ララァ)と、ビットでドン・ペリニヨン"ということですね。
こんな浜田省吾のような体験をすれば、そりゃ何もかもみんな爆破したくなるよ。

そして何がすごいって、このドラマが展開された時、舞台は戦場であり、ララァはエルメスの、アムロはガンダムのコクピットから一歩も降りていないこと。「戦場で戦いながら、ロボットからも降りずに、こんなドラマをやってやったぞ!」という力強い手ごたえを感じますね。
スポンサーの注文に全て応じた上で(ここ重要)、こんなエロいドラマをロボットアニメに入れ込んだ富野監督は本当にすごいと思いますが、この一連のシーンを描くにあたって、ニュータイプ能力が最大限に活用されたのは言うまでもないでしょう。

余談ですが、こうして見るとニュータイプのお話ってやっぱりアムロとララァで終わっている気がしますね。ニュータイプって人類の革新かも知れないけど、やっぱりどうしようもなく人間だよねー、そのジレンマが物語的には一番魅力的で面白いよねー、ってことなので。
だからあとはバリエーション。もちろんそれでいい。バリエーションは作品を豊かにしてくれるから。
ニュータイプを突き詰めると、エヴァの「人類補完計画」になるか、もしくは森岡浩之のSF小説「星界シリーズ」のアーヴになるのかな。宇宙に適応した種族アーヴ(ニュータイプ)の中で、適応していない人間が1人だけ、という完全な逆転現象。

【ラストの落としどころとしての効果】

ニュータイプvsニュータイプである、ララァ戦が終わると、あとは1人残された孤独なニュータイプアムロが悟りきって戦う最終決戦(ア・バオア・クー)に向かいます。(ララァ戦後の、アムロのシャア越えについては、こちらのエントリーにまとめてみました。)
この最終決戦でも、ニュータイプはラストの落としどころというか、うまくまとめるためにも活用されます。

ニュータイプが活かされたガンダムのラスト

・ホワイトベースクルーのみんなへ、アムロからのメッセージが頭の中へ届けられます。サポートを受けてみな脱出。
・ホワイトベースクルー、ア・バオア・クーを脱出。ただアムロが来ない。
・ブライトやミライ、セイラ達、年長組がアムロを感じて、呼ぼうとするが分からない。
・その時、最も幼いクルーである子供たち(カツレツキッカ)が騒ぎ始める。
・アムロを誘導する子供たち。アムロはコアファイターで脱出成功。
・「まだ帰れるところがある」とみんなの元へ帰るアムロ


文句のつけようがないラストの流れ。
クルーの脱出と、アムロ自身の脱出にニュータイプ能力がうまく活用されています。

初見の記憶なんて幼すぎて思い出せないけど、クルーを誘導するシーンを見ながら、多分アムロが死ぬんじゃないかってドキドキしてたんじゃないかな。だって、アムロの肉体も映らないし、最後の贈り物というか、天のお告げみたいなんだもの。

実際、アムロも死の覚悟をするような状況だったんでしょうが、そこで大破したガンダムを見つける。最後の最後でコアブロック(変形合体、おもちゃの為の機構)を利用してコアファイターで脱出させるのがまたいい。

そして、おチビちゃんの誘導の下、脱出する。
分かり合える可能性をもったララァと死に別れ、それが原因で永遠に分かり合えないシャアとも別れ、残ったニュータイプは自分たった一人と思えた宇宙で、めぐりあった希望。
おチビちゃんをここまでひっぱって、最後の最後にこの役どころを任せるのは本当にうまいことまとめたなあ、と思います。

安彦さんがニュータイプの事について聞かれた際に「物語の落としどころとして使ったという意味ではうまいと思った」というようなことを言ってましたが、確かにもう純粋に、落としどころを決めて、まとめるというテクニックの上手さをとにかく感じます。

まとめ ニュータイプは?


最後にもう一度まとめますと、

(1)言い訳としてのニュータイプ(戦闘のための異能力)
(2)ロボットアニメ演出上の道具としてのニュータイプ
(3)テーマ、物語の落としどころとしてのニュータイプ


という3つの大きな役割がありますね。
割と(3)の意義で語られがちなんですが、(1)(2)の意義も大きいと思うので、3つまとめて考えておくと面白いんじゃないかな、ということです。

「ニュータイプは戦争の道具じゃない!」

いや、ニュータイプほどロボットアニメの戦争の道具としてすばらしい発明はないよ。戦争(ロボットアニメ)で使うために生まれた、ステキな戦争の道具だよ。

それを劇中では「戦争の道具じゃない」と言っておく所がいいですよね。物語上、テーマ的な立場では(1)、場合によっては(2)のニュータイプは否定しておくところがポイントでしょうか。



最後に


ニュータイプが万能に面白いと思ってるわけでもありませんが、ゼロからこの道具(ニュータイプ)を生んだのは、すばらしい発明といっても差し支えないと思っています。
ただ、生まれた道具のその後の取り扱いについてはやっぱり色々ありますね。
安彦さんも、ファーストでのニュータイプの使いどころは良かったと言いつつ、その後はエキセントリックすぎて僕にはついていけないよ、というような事を言っていたような。私はこういうスタンスなので、その気持ちはちょっと分かるような気がします。

私はターンAガンダムとキングゲイナー大好きなのですが、ガンダムからニュータイプが必要なくなり、またそれなしでも面白いロボットアニメを富野監督自身が作ってくれているので、ニュータイプは天寿を全うしたのかな、とも感じますね。

※富野作品の記事を色々書く前に、自己紹介も兼ねて書いてみたのですが、とんでもなく長くなってしまいました。すみません。最後まで読んでいただいた方ありがとうございました。

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