身を捨ててこそ浮かぶキャラあれ < 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』で考えるキャラクターの生死>
ゲーム任天堂ニンテンドーDSファイアーエムブレムコードギアスダンバインキャラクター
2008-08-24
柴錬先生、全くもって仰る通りです。物語の中でキャラクターの生死をどうするか、それが問題なのです。
ニンテンドーDS『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』をきっかけに、プレイヤーが登場人物の生死について悩んで楽しめるゲームについて考えてみましょう。
ゲームが題材ですが、物語をどうゲームで表現すると面白いかな、というお話なので「物語」が好きな方なら、興味を持ってもらえるかも知れません。
![]() | ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣 (2008/08/07) Nintendo DS 商品詳細を見る |
ニンテンドーDS『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』のTVCMを見て、久しぶりにプレイしたくなりました。ゲームの質はすでに証明済みで問題ないし、二画面の利点を生かしたDS版はさぞプレイしやすくなって楽しかろうて、とネットで調べてみると面白い記事が見つかりました。
スマブラの桜井さんが、エムブレムのプロデューサーの方にインタビュー(というか対談ですね)した記事。全体通して面白い記事ですが、私個人が特に興味深かったのは以下のところ。
桜井: ちょっと気になっていたことがあって・・・。
本作の序章で、マルスの城が敵軍に強襲された時。
マルスが落ち延びるために、誰かひとりを囮(おとり)として出さないといけなくなりますよね。
ユニットの1人を選んで、マルスの扮装をさせて、敵の関心がそのニセモノに向かっている間に、マルスを逃がしちゃおうと。
で、あそこで囮になった人は、やっぱり二度と戻ってこないんですか?
成広: (申し訳なさそうに)・・・戻ってこないですね。
桜井: (すごく残念そうに)・・・そうですか。
(中略)
成広: 誰を出しました?
桜井: 自分は何も迷わずにジェイガンを・・・。
成広: ええっ、そうしましたか!
桜井: おいおいご老体にはマルスの変装はムリだろ!と思いつつ(笑)。
でも、なぜかまんまと敵はだまされるという。
Touch-DS.jp - 桜井政博さんが訊く 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』
物語のはじまりで、主人公マルス王子を逃がすために、仲間の1人を囮役として選択できるらしい。しかも選んだ仲間は二度と戻らず、ゲームでは使うことができないらしい。
これは面白い!
なんという項羽と劉邦展開!(劉邦が身代わりを立てて脱出したのを連想しました)
ごく普通のゲームであれば、死ぬ役割だけのキャラクターを用意し、それが死ぬ所までを自動的なイベントとして処理するところでしょうか。しかしDS版エムブレムではゲームが始まったそばから必ず死ぬと決まっている囮役に誰を選ぶかをプレイヤー自身に決めさせている。
ファイアーエムブレムは真のエンディングのために、犠牲者ゼロでのクリアーを目指すようなゲームですが、その手始めにプレイヤーの責任で犠牲者を1人出し、それを背負わせるということか?
自動イベントでなく、プレイヤーの選択で1人のキャラに死んでもらい、主人公にその責任を背負わす。そして、以後の戦いでマルス王子(主人公=プレイヤー)は、誰も犠牲にすることなく戦い抜く決意をするわけか。
犠牲者ゼロといういわば極めてゲーム的なクリアーの正当性に物語的にもプレイ的にも補強をかけたような形なのかな?上手いなあ。
実は私は以前、ファイアーエムブレムに触れた記事を書いたことがありました。
例えば「ファイアーエムブレム」というゲームは、いっぱいキャラクターが出てくる、シミュレーションRPGですが、こいつがどえらいシミュレーションで、全員を生かしたままクリアーしないと真のエンディングを迎えられない。
これはとても歯ごたえのあることで、ゲーム的には極めて正しい。
しかし実は、それを達成するために、成長をほとんどしない老将ジェイガン(=ゲーム的に使えないキャラ)は、1度も戦場に出ることなくクリアーを迎える、といったような状況が発生する。母ちゃん達には内緒だけど!
マルス王子の守役である老将ジェイガンは、ゲーム的には役に立たないキャラクターですが、物語的には十分に使い道のあるキャラクター。
ただ単純に「お話」として見るなら、ジェイガンはマルスを守って華々しく散るような見せ場を作って「死んだ方が映えるキャラ」なんですよね。その方が盛り上がって面白い。でも真のエンディングを目指して無駄なくリスクなくプレイしようとすると、ゲーム的には役に立たないジェイガンを使わないことになってしまう。
その結果、プレイヤーが犠牲者ゼロのクリアーを目指すことで、ゲーム的にはジェイガンの命は助かるが、物語的にいえばジェイガン(というキャラ)が死んでしまう(分かりやすい例としてジェイガンを使ったが、多くの「予備」キャラクターを揃えているファイアーエムブレムでは「誰か」がそうなってしまう可能性が高い)。
ファイアーエムブレムはもちろん名作なのですが、犠牲者ナシのエンディングを迎えるために、ジェイガンに代表される多くのキャラクターは倉庫で眠ることになる。そういう意味では、誰も死んでない真のエンディングはもっとも多くのキャラクターが「死んでいる」エンディングとも言える。
お笑い芸人は何もやらずに画面に映らないぐらいなら、熱湯をかぶったり落とし穴に落ちたりバンジージャンプしたりひどい目にあっても自分の見せ場を作った方がいい、という心意気で生きていると思いますが、全く触ってもらえないゲームのキャラクターもそういう心境なのかも知れません。
もちろんファイアーエムブレムが間違っているわけでも、真のエンディングを目指すプレイヤーが間違っているわけでもない。エムブレムに限らず、ゲームでは構造上、キャラクター(の物語)が死んでしまうことがどうしても多いのでもったいないな、何とかできないかな、と昔から思っていたわけです。
そこで、この『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』ですよ。
桜井さんはマルスの囮役にジェイガンを選択して、ジェイガンはその期待に応えて立派に務めを果たし、戦死したようです。これは本当に素晴らしいイベントですね。
プレイヤーの多くは、この後のプレイで最も使わないであろう「いらない子」を選ぶのでしょうが、そういう「いらない子」に物語的な見せ場を用意できるのイベントでもあるのですから。
私ももしプレイすることがあれば、囮役にジェイガンを選ぶでしょう!やっとジェイガンにふさわしい場面(それが最期ですが)を作ってあげられる!
本当の事言うと、前半戦の山場あたりでの若い戦士達が集合した後、時代の移り変わりと世代交代を象徴させるポイントで死なせてやりたいけど、他にこういう場面も無いでしょうしね。
で、これをきっかけに、1つ、ゲームのアイデアを考えました。
実は昔考えたネタでイマイチ分かりづらいなあ、と思っていましたが、このエムブレムのイベントをヒントにすると、すっきり整理できる気がしましたので。
ポイントは以下の点。
・ゲームという媒体を上手く利用して、物語を面白く表現すること。
・そのためにはゲームシステムと物語が、がっちりリンクしているゲームを。
・プレイ的に不利な行動することなく、キャラクター性を発揮させたい。
※ちなみに単なる1アイデアなので、基本的にオモシロおかしくなるように、分かりやすくてインパクトのあるように書きますので、その辺りご注意とご了承ください。
【ゲーム名】 108人勇者大行進(仮)
■ゲームジャンル:
ジャンルは物語が表現しやすいゲームなら何でもいいと思うのですが、エムブレムからの流れでシミュレーションRPGにとりあえずしときましょう。シミュレーションRPG
■設定(どんなお話?):
ここもエムブレムの流れで、ファンタジー的なお話ということにしておきましょう。
現実から離れたほうが無茶も効きやすいですし。
みたいな感じにとりあえずしておきましょう。星に導かれて集まった運命の108人の英雄達が主役。
彼ら108人の仲間達は、帝国軍(とか魔王軍とかお好みで)と、長く激しい戦いを繰り広げる。
108人という数に理由はありません。ただ主人公達が「とても多い」という例えです。幻想水滸伝の「水滸伝」の意味と同じ。
■概要(どんなゲーム?):
というゲームです。ゲーム開始時に、味方が11人どころか108人いる!
108人パーティ。108人の仲間をつれて戦うゲームです。
いきなり108人いるので、ゲーム中、味方は1人も増えません。
スタート時の人数がMAXです。
普通にシミュレーションRPGとして進んでいくが、戦況がピンチの時など、プレイヤーの任意で108人の仲間の中から「犠牲キャラ」を選ぶことができます。
選ばれた「犠牲キャラ」は、命の炎を燃やして、さまざまな力を発揮し、味方を救い、そして犠牲となって死んでいきます。
「犠牲キャラ」が死の間際に見せるパワーは、敵の大軍をやっつけたり、とんでもない一撃を放ったり、主人公をかばったり、超絶的なものです。
108人いる味方はこうして、強大な力を放ちながら次々と散っていき、人数はどんどん減っていきます。果たして、ラスボス(最終面)に辿り着くまでに何人のキャラクターが生き残っているでしょうか?
さあ!諸君!!殺したり殺されたり 死んだり死なせたりしよう!
「仲間の死」を強力な魔法のように使って、攻略していくゲームになります。
シューティングゲームの「ボム」と思ってもらうと分かりやすいかも知れない。
大事なものだが、ここぞという時にプレイヤーの判断で爆発させる「ボム」。
難敵をやっつけるのに使ったり、生き残るために緊急回避として使ったりする「ボム」。
限りあるため使いたくないが、適時にそれを使っていくことがゲームデザインに組み込まれている要素。ただしこのゲームでは「ボム」と違い「仲間」は死ねば復活しませんし、増えることもありません。
この「仲間の死」システムを分かりやすくするために仮に「サクリファイス(仲間の犠牲)」システムとでもしておきましょう。
■「サクリファイス(仲間の犠牲)」システム:
「仲間の死」は、基本的にプレイヤーが任意のタイミングで自由に発動できるようにしましょう。
仲間を死なせることで、ゲーム的、物語的には以下の効果があります。
<ゲーム的な効果>
通常のプレイでは得られない強大な効果がある。例えば、以下のような感じ。
MP108を持っており、消費MP1で強力な魔法が使えるが、ゲームを通じて回復はできない有限のリソース、と考えてくれてもいい。キャラクターは死ねば復活はしないので、「死の効果」と「キャラクターの戦略価値」を考えて「効果」が上回るようなら、使っていく(死なせていく)。・複数の敵を撃破(攻撃対象の増加)
・強力な一撃が撃てる(ダメージ量の増加)
・主人公や味方をかばってくれる(ピッコロさん)
・死ぬとアイテムを残す(形見を残す、獣の槍の材料になる)
・奇跡を起こして○ターンの停戦
・死ぬと別のキャラクターがパワーアップする(師匠が死んで弟子が、親が死んで子がパワーアップなど)
・不治の病。効果として全能力値がアップする。しかし何面か先で必ず死ぬ(トキ、三杉くん)
・裏切り。仲間が裏切り敵対する。しかし、のちのち目が覚めてアイテムや人質や秘密を持って帰ってくる(が、その過程で死ぬ)
<物語的な効果>
このゲームでは基本ストーリーは存在するが、109人もいる各キャラクターの掘り下げは全く行わないようにします。ただし、
などなど。ここは考えられる限りのいろんなパターンを出すところです。「サクリファイス」システムを使ってキャラクターが死ぬ時、そのキャラのドラマイベントが展開される。これは回想シーンや走馬灯のようなものと思ってもらってもいい。例えば、こんな感じか。
・乱暴なやつだが、実は動物が好きでやさしいやつだった。
・せこいやつだと思っていたが、実は故郷の母に仕送りをしていた。
・昔はかなりのワルだったが、ある出会いで改心し、その人に応えるためにがんばっていた。
・冷たいやつに見えるが、実は盲目の妹がおり、妹にはとても優しい。
・戦災孤児。生き別れた父を探して旅をしてきた(実は108人の中にいたりする)
物語的には、プレイヤーが好きな時に好きなキャラの掘り下げイベントを見られる効果があるということです。そのキャラのイベントを見る=死ぬ、ですけども。
108人を殺せば、108人分のイベント、ストーリーが体験できます。
50人殺せば、50人分のイベントだけ体験したことになります(その代わり58人の仲間の命は守り抜きました)。
単純に言えば、ゲームが下手な人ほど「サクリファイス」に頼って、多くの仲間を犠牲にし、代わりに多くのイベントを見ることになるかも知れません。逆にゲームが上手い人は犠牲が少なくて済み、代わりにイベントの体験は少なくなっているかも知れません。
私はゲームが得意ではないので、上手にプレイしないとイベントが見られない、ということが無いのはちょっといいかもと思いました。
<「サクリファイス」システムまとめ>
・プレイヤーが任意で自由に仲間の死を選択できる。
・効果は「強力な魔法」+「キャラの掘り下げイベント」
・効果とキャラクターの命のトレードオフ。
・仲間は108人の有限のリソース。
・死んだキャラは生き返らないので、誰をどこで死なせるかが駆け引き
■難易度:
こういうゲームなので、味方を犠牲にしないとやっていけないような難易度にする必要がありますね。常にどの面でも厳しい局面にあり、誰を犠牲に選ぶかを考えなくてはいけないレベル。
もう仲間が死んでいくことは前提で、回数制限のある魔法のように、いつ、どこで、何を(誰を)使用する(死んでもらう)かを考えるゲーム。
■エンディング:
こういうゲームですので、犠牲者ナシクリアーだと真のエンディング。ということは全くありません。遠慮なく仲間を死なせていきましょう。
ゲームの性質的にエンディングでなく、その過程に価値があることになるでしょうし。
■ゲームのまとめ:
このゲームは始まった時に全ての仲間が揃っています。
スタート時にキャラに思い入れはあまり無いですから、外見(好み)や能力値(データ)などを見て、「いらない子」から順番にどんどん捨てていくことになります。
そういう意味では(ゲームに限らず)どんな作品でも心の中でやっている「キャラ選別」をするゲームです。好みの子だけ残して、あとは捨てていきましょう。
このゲームでも当然、使わないキャラと使うキャラに分かれるのですが、使わないキャラクターがいるぐらいなら、それを死なせることで、ゲームルール的にも物語的にも最大の効果を発揮させ、見せ場を作って退場させる。いっそ、それをメインのシステムに据えて、いつ誰をどのように死なせれば、ゲーム的に有利か、お話が盛り上がるか、考えながらプレイするのが楽しいんじゃないか、ゲームで物語を楽しむ1つの方法なんじゃないかという考えです。
そうやってゲームを進めていくとキャラクターラインナップ的な意味での「精鋭」が集まっていきますが、このゲームはそこからが勝負です。捨てたくないキャラクターも戦況次第では死なせていくことになります。
最終面に生き残ったメンバーは、過酷な予選を突破して決勝まで残った、本当にどうしても守りたかったメンバーと言えるでしょう。
このゲームでの真の物語とは、メインストーリーでも無ければ、各キャラクターの死に際のドラマイベントでもありません。
プレイヤーがどうやってキャラクターを死なせてきたか、誰を守ったか、という道のりこそが最も重要なストーリーになるはずです。
108人を死なせてしまってたった一人になる物語もいいし、絶対守りたい15人を守り抜いた物語もいい、死ぬ思いして108人全員を守り抜こうとするのもいい物語です。
ゲームでのプレイヤーの行動(過程)が、そのまま物語になる、というものが最もゲームの物語として好きな形ですので、それが実現できるゲームがいいですね。
ゲームの後、友達と何人死なせたのか、誰を残したのか、話が盛り上がるようになれば一番いいんじゃないかと思います。
あとは、このゲームについての雑多なメモです。
主人公と仲間の関係
このゲームだと主人公が仲間に死を命じることになるので、主人公と仲間の関係がどうなっているのかは、ゲームルールを物語として納得してもらう上で重要です。
ファイアーエムブレムのように、王子とその家臣の関係にして、さらに古代、中世的な価値観で主君に滅私奉公してもらうというのが基本線でしょうか。
主人公を魔王側(敵軍)にして、恐怖で支配している魔王の死の命令を、魔物の配下がこなす、または狂信的に応える(ヴァニラ・アイスのように)のも一つの手ですが、キャラの掘り下げなどドラマ面で考えるとつらい。
いっそ特定の主人公を無しにするのも考えました。または主人公は一応いるが、主人公すら「サクリファイス」で死なせることができる(その後は108人の中で二代目主人公が継ぐ)。
しかし命令系統もなく、毎回「俺が俺が」「どうぞどうぞ」のダチョウ倶楽部的立候補でどんどん死んでいくのもなあ、と思いますし、できればちゃんとプレイヤーに「死の命令」の責任を背負ってもらう方がいいと思います。
こうやってあーでもないこーでもないと考えていると、
「いっそ主人公に『死の命令』すらできる魔法とか特殊能力とかがあることにしたらどうだろうって、それはコードギアス!」
と、ルルーシュのギアス能力に至ってしまう。
コードギアスまじハンパない。まじリスペクト。いや本当にすごいねコードギアス。このゲームをそのままの設定でできるわ。
仲間を殺す抵抗感
このゲームのことを友人と話したら
「仲間を殺すことに抵抗があるなあ」とのこと。これはごもっともの反応。
しかし、それこそルルーシュのように仲間の死を自分で背負っていくのを楽しむゲームなので、どんどん死なせていってくれないと醍醐味が味わえない。
そのため軽く、つまりスナック感覚で仲間を死なせることが出来るように、色々工夫が必要のはず。
あとは練習用サクリファイスイベント(「この扉は内側からしか閉めれない」など、死なすしかねーだろ的なベタ犠牲のオンパレード)とかかな。・仲間の人数が108人
→仲間が20人なら精神的に犠牲を出しにくい。108人でなくてもいいがとにかく多く。お試し感覚で死なせられるほど多く。
・仲間が最初から全員揃っている
→仲間集めはこのゲームの本質じゃないからやってられない。集める過程で思い入れが出来て殺せなくなる。洗い立てのまっさらな白いシャツの状態で108人に会い、死なせていって欲しい(徐々に赤シャツになります)。
・死なせやすいキャラがいる
→死なせる抵抗感が低いキャラをたくさん作る。余命いくばくもない老人、単なるおっさん、酒バクチのクズ野郎、ロボット(人造人間か)など。スナック感覚でつまんでもらえるようにいかにも練習台のようなキャラを色々つくりましょう。
(でも、クズ野郎が死ぬ時に、ちょっといい話エピソードを見せられたりするんだろうなあ)
・死ぬことが前提のゲーム難易度
→ゲームの難易度的に、強力な魔法(サクリファイス)が無いとクリアーできないようにする必要がある。もう死なせれば死なせるほどゲームが楽になるよ、という感じに。
それでも仲間を殺す抵抗感
こういったスナック感覚で仲間を死なせる工夫も友人に話してみたが、
「実際にゲームが無いからなんともいえないけど、やっぱり自分の責任で死なせてしまうのってなんかいやじゃない?行方不明とかじゃダメなの?」とのこと。
ゲームなんだからただのデータなんだし、殺せばいいじゃんというプレイヤーばかりじゃないよね。これもごもっとも。
まあ「仲間を死なせる」というのは、「キャラクターの死」というコンセプトでつくったゲームアイデアでしか無いので、厳密に言うと同じ状態が作れれば死ななくていい。
別に私も殺したがりでも、キャラなんかみんな死ねばいい、と思っているわけでもないし。例えばこんな感じでどうか。
これなら「死ぬけど、死なない」パターンなので、むしろ死なせるのは、早く現実世界に帰らせてあげることになって恩情になるかもね。「聖戦士ダンバイン」のバイストン・ウェルみたいに、現実世界から異世界に召還される話にしようか。
108人の大量召還。同じ学校の生徒100人とかでもいいかも知れないね。
で、異世界の人々に「聖戦士」扱いされて、戦争に参加することになってしまう。
もちろん現実に帰りたいが、話を聞くと帰れる方法はただ一つ。
それは「英雄的な行動をとって死ぬこと」のみ。ただ死んだり、自殺するのではダメらしい(死ねない、ということにしようか)。
仲間を救ったり、敵の大将の首を獲ったり、聖戦士らしく異世界に貢献して死ぬことで、初めてこの世界での役割を果たしたことになり、現実世界に帰ることができる。
もう少し幅を広く取って「他人のために命を投げられるか」ぐらいにしてもいいかな。
やむをえず高校生たちは、いやいやながら英雄として死ぬことを目標に戦うのであった。
それに108人みんなは「英雄的な死(→現実世界に帰る)」を希望しているので、「サクリファイス」は彼ら自身が望んでいることでもある。立候補ものに近い。
ゲームプレイヤーとしての主人公は、異世界側の指導者かな?(ダンバインでいうとシーラ様になるかな)
これも1つのパターンだけど、要は実際に殺さなくても同じような状況は作れるので、配慮が必要ならそれなりに工夫すればいいと思います。
ただアイデアレベルだと、伝えたいことの分かりやすさが必要なので「仲間を死なせる」と内臓むきだしの表現にしています。
他にも細かいのが色々ありますが、また機会(という名のやる気)があれば。
このゲームで仲間を殺すのは、お話上は敵軍ですが、実質プレイヤー自身です。ゲーム(作者)側の強制ではありません。死の責任は、プレイヤーが担います。
普通のゲームと違い、これはゲームシステムに組み込まれた肯定される行動なので、何も悪くありませんし、不利になりません(むしろ有利になります)。
誇りを持って「サクリファイス」で仲間を死なせて、その死を自分で背負っていくことを楽しみましょう。
ゲームに限らず、マンガや映画やアニメでも、キャラクターの生死に関しては「殺せ!」「殺すな!」など色々な意見があります。では受け手側がキャラクターの死を決めてはどうでしょう?
ゲームはそれが比較的しやすいメディアだと思います。
そういう意味でこのゲームでは、極めて作者的な振る舞いが必要になるでしょうね。
まさに英雄生きるべきか、死ぬべきか、
―――いや英雄生かすべきか、死なすべきか。それが問題だ。
ご訪問いただいた方、コメント、トラックバック、ブックマークしていただいた方、言及記事を書いていただいた方など皆様に感謝いたします。
身近な友人・知人向けに書いているようなブログなので、何気なくアクセス解析をのぞいた時は何事かと怯え、おしっこもれそうになりました。(我慢しました)
さらに、はてなからの訪問が多かったので見てみると、私の想像を絶するブックマーク数が!(ここで残念ながらもれました)
正直そこまでの内容の記事でもないなと自分でも思うので、時期も時期だし、皆様が何かを考えたり意見を述べるきっかけ作りぐらいにはなったのかな、と受け止めることにしました。
あとみんな宮崎駿と押井守好きすぎです。
どんだけ好きなんですか。(特にはてなの方)
調べてみると、囚人022さんにブックマークしていただいたのがきっかけになったようです。
囚人022さんのはてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/prisoner022/
囚人022さんには、この少し前の記事もブックマークしていただいたようでありがとうございます。以前からブログを拝見していましたので嬉しいです。
記事については、アクセスやブックマークに対して嬉しいというより、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちでいっぱいだったのですが、コメントやブックマークコメント、言及記事などを見ると、より深い情報や鋭いツッコミ、別視点、補足などがありとても刺激的でした。
ですので、私の記事だけでなく、ブクマコメや言及記事なども読んでいただき、丸ごと楽しんだり考えたりしていただくのが一番いいですね。
コメントやブクマコメに良いこと面白いことがいっぱい書いてあるので、それも読んでいただいて「なるほど!」「面白いな!」「いやいやこうも考えられないか?」「待てよ、そういえば…」「知っているのか雷電!」で全然いいと思います。
というわけで私の記事部分だけでなく、ぜひ記事コメント、ブックマークコメントや言及記事などもご覧下さい。
はてなブックマーク - 飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話>
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html
(とりあえずブックマーク数が圧倒的に多いはてなを。コメントと言及リンクがまとまっていて紹介しやすくていいですね)
最初は記事にいただいたコメントやブックマークコメントを受けて、色々お返事したりしようと思っていたのですが、量的に私の手に負えない感じなのと、色んな方が鋭い分析や示唆に富む発言をしてくださったりしてるので、あまり必要性を感じないと思っていますがどうでしょうか。
(いただいたコメントなどを見て、私自身が大体満足したからというのもあります)
なので、皆さんの刺激を受けて書きたいな、と改めて思ったことだけ書かせていただこうと思います。
■前回記事について
前半は、押井監督のリアリティをコントロールするという概念が面白いなあ、というメモ。
後半は、押井・宮崎両監督のキャラクターというか性質の違いを分かりやすく考えようとしたもの、という感じです。
個別の作品論や、作品全てを分析した総括というわけでもないので、そういうご期待に添えなくて申し訳ないです。
先日放送のNHK「崖の上のポニョ」密着番組を見たのですが、その中で宮崎監督が
みたいなことを言ってましたね。「この映画見て、『波の上を走れるんじゃないか?』と子供が思ってくれたら、やったぜ、と思うね」
この発言などはまさしく、無茶をアニメーションの魅力で通す人ならではだと感じました。
押井監督の舞台もアニメですが、こういういかにもアニメらしい説得の仕方はしないです。
かといって「じゃあやっぱり押井監督はアニメじゃなくて実写やってればいいのに」というわけでも無い気がするんですよね。
アニメは言うなれば全て幻想で、背景からキャラから何から何まで全てをゼロから用意しなければ成り立たないのですが、逆に言えば用意したものには全て理由がある。必要なものと判断して選択したものだからです。
言わば画面にある要素は全て押井監督が選択したものであり、意図が反映されたもの。
その全ての要素をコントロールできるところが、アニメが押井監督に合っている、というか好みなんじゃないかな、と思うんですよね。
その結果、押井アニメは押井監督の意図やメッセージがすみずみまで盛り込まれていることになり、押井純度が限りなく高くなるのがたまらんのでしょうね。
実写は情報量が多すぎてコントロールしきれなかったり、その情報量がノイズになってしまうことさえありますから。(もちろんそれが魅力なんですけども)
押井実写映画を私はあまり見ないのですが、見てない「アヴァロン」なんかは実写をアニメ素材みたいにコントロールしようとした作品みたいなイメージがあるのですが、どうなんでしょう?
結局、宮崎、押井の両監督共に幻想であるアニメを作る以上は、いかにすばらしい嘘をつくか、という世界のお人だと思います。その意味では同じなんですよね。
いかにこの嘘に説得力を持たせて観客に見せるか、という所こそが大事なのであって、そのためのアプローチが違うからこそ対照的に見えて面白いんじゃないでしょうか。
宮崎世界がリアリティが低い、死なないとか、押井世界がリアリティ高い、死ぬ、ということではなく、見せたいモノのためにチョイスしている世界とやり方こそが面白いということですね。
宮崎駿
・すばらしいアニメーション(動き)で無茶に説得力を持たせる。そのクオリティは宮崎本人が担保する。
・このためキャラクターデザインを作品ごとに選ぶということはなく、どの作品も当然「宮崎キャラ」になる。
・「コナン」や「ラピュタ」でも人は死にますが、危機的状況で死んでしまう人々と生き残る主人公の差は(それは言ってしまえば配役の差なのですが)、画面上においては「主人公としての精神と行動」の結果である、というように見せている気がします。
・つまり前回記事でも言いましたが、少女を守ろうとする「意志の強さ」や「優しさ」、それを行動に移す「勇気」。それがある人間は死なない(死ぬべきじゃない)。ここが嘘部分。こういう人間はこうあって欲しいという嘘。
・そして、その嘘は宮崎のすばらしいアニメーションで説得される。「パズーえらい。すごい。がんばった。」すばらしい説得。喜んで説得されますよ私は。
・あと、ピンチを勇気をもってくぐり抜けようとする時、その行動は報われるという視聴者(子供たち)との見えない信頼があり、それを守っているイメージがあります。
押井守
・動きの説得力については、押井本人は担保できないし、しない。
・代わりに、脚本や絵コンテ、画面構成などのクオリティは担保する。
・キャラクターデザインも、作品ごとに表現したい世界を体現できるような説得力を持ったキャラクターを選択する。
・例えば、押井監督がパズーがピンチをくぐり抜ける場面を作るとして、その理由を「勇気と優しさに支えられた行動」のような精神的なものには決してしないだろうなあ(もっと色々理屈がつくはず)。
・街並みや銃器などのリアリティも、大きな嘘の説得力をもたせるために外堀を埋めているようなもんなんでしょうか(本人の趣味でもあるでしょうが)。
・別に押井監督に限らず、宮崎駿みたいな方法で動きの説得力を担保できない場合、それ以外の要素をきちんと固めて説得しようとするのが当たり前だし、それが冷静な判断な気がします。
私は「ポニョ」も「スカイ・クロラ」も見てませんし、作品ごとに色々例外もあると思いますが、両監督のキャラクター傾向として。
両監督ともやっぱり面白いですね。
個々の作品が、というか両監督が同じように好きです。
押井監督の制作スタンス辺りから、少し前に菅野よう子さんのインタビューで見かけた「富野監督は音楽も絵も信じてない」という話題につなげたりできないかな?と考えました。
菅野よう子:とにかく言葉がいっぱい、攻撃か弾幕のように出てくる方で(笑)、おまけに本人が音楽の力をまったく信じてない。多分、自分の言葉しか信じてない、全部台詞で言っちゃう。最初は「あ゛ぁ~! 」って感じでしたけど、「音楽も絵も信じてない人なんだ」って分かってからは大丈夫でした(笑)。
富野監督も押井監督と同じく、画や動きの説得力を本人が担保するわけではないので、やっぱり脚本(セリフ)や設定(世界観)、絵コンテなどを押さえることで自分の作品を作るタイプなんだろうと思います。
しかし押井監督以上に信用してないイメージがあるのは、元々の性質もあるでしょうが、虫プロの時代からありとあらゆる作品に参加してさまざまな体験をされていることが影響しているかも知れませんね。
視聴者に対して物語のクオリティを保証する方法として、自分がコントロールできる要素以外をあまり信用しない、という作り方を選んだ(選ばざるを得なかった)という部分があったのかも。
動画がひどいかも知れない、イメージに合う音楽がない、キャスティングに不安要素がある、安彦さんが倒れた、デザインや設定にノーを出された、などなど。
これまで体験した極限状況が、「信用しない(完全にコントロールしきれない要素には寄りかからない)」作品を生んでしまった一要素なのだとしたら、監督本人にとっても参加スタッフにとっても悲劇なのかも知れませんね。
でもそこで菅野さんみたいに監督に色んな意味で負けないような人が音楽の力を見せてくれれば、お互いのためにもそれでいいんでしょう。
■余談(富野由悠季の場合)について
富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。
上記について、何人かの方がコメントなどしてくださってましたが、前回記事はタイトル通り、宮崎押井の話題に絞ろうと思っていましたので、富野監督は最初からオチだけ担当していただこうと考えていました。
そのため、いくつかパターンは考えました。
絶体絶命
→女性が[かばう]コマンドで代わりに死んでくれる(ただし男性のみ有効)
絶体絶命
→そのとき、なんかが発動した。で、歴史が動いた!あとお腹の赤ちゃんも!
絶体絶命
→黙示録(皆殺しwith万有引力)
結局、2代目ロボ登場パターンを選びましたが、戦闘中に駆けつけるビルバインやZガンダム等が何とか該当するものの、(ご指摘のとおり)ピンチ脱出には直接関係ないパターンが多いですね。
この表現には「グレートマジンガー」登場が最もふさわしいというのはごもっともと思います。(特に劇場版「マジンガーZ対暗黒大将軍」)
「2代目ロボ」という言葉に集約させましたが、商品を次々に登場させないといけないさだめのTVアニメを色々工夫して作ってきたという意味だと思っていただければ。
スポンサーとの兼ね合いの中、ああいう作品を作る富野監督は(大変でしょうけども)とても素晴らしいと思っています。
イデオンのデザイン押し付けられて、105mの巨大遺跡にして乗り切ったのは本当にすごいですよね。
※トミノ愛について
用を足しに行くときに「どこへ行くの?」と問われて「トイレに行くと言っている」と答えるほどには富野監督、富野アニメ共に愛してますので、愛ゆえにオチに使わせていただいたことをご理解いただければ幸いです。
(「とってつけたオチ自体いらないだろ」とのご意見もあるかと思うのですが、何かオチが無いと不安で仕方ない悪い病気です)
富野アニメ記事はまた色々書いていきたいと思いますので、その際にまた考えたりすることにします。
そりゃあ死にますよね。だってにんげんだもの(みつを)。
ではアニメやマンガの住人はどうでしょう?
現実と同じく死んでしまうお話もあれば、地面に人型に穴があいてギャグになって終わり、というのもありますね。
その違いって一体なんなの?
というようなお話。
こういった作品ごとに違うリアリティに対して、押井守は、
「作品のリアリティは、監督によってコントロールされるべきものだ」
とインタビューで話しておりました。
(出典はアニメスタイル2号の押井守インタビューですが、部屋のどこにあるのか見つからないので大意です)
ここでのリアリティとは、出てくるキャラクターや背景が写実的なのか、という画だけの問題でなく、演出などを含めた作品全体で表現されるリアリティをさします。
つまり高いビルから飛び降りたときに、キャラクターが死んでしまう作品なのか、ギャグで済む作品なのかは、監督がコントロールするものであるということですね。
押井守はインタビュー中で、自身が監督した「機動警察パトレイバー」を例に出していました。
パトレイバーは展開されたメディアによってリアリティのレベルが微妙に違うものとしてコントロールされている、と。例えば、2階からパトレイバーのキャラクターが飛び降りたとする。
その時に下に池があり水しぶきがあがるだけで<ケガをしない>のか。
それとも<ケガはするが次のシーンですっかり直る>のか。
それとも<現実どおりのケガをする>のか。
ちなみにマンガとアニメのパトレイバーだと<ケガはするが次のシーンですっかり直る>ぐらいのリアリティかな?
<現実どおりのケガをする>のは、劇場版パトレイバーのリアリティになるでしょうか。
<ケガをしない>のは、パトレイバーのコメディ回でもありえますが、まあ、うる星やつらですかね。
つまり太田さんが同じように暴れても、アニメやマンガではケガをするぐらいで済む(でも次の回には治っている)けれど、劇場版では死んでしまうかもしれないわけですね。
■作品世界を体現するために選ばれるキャラクター
このインタビューで面白いなあ、と思ったのは、押井守にとって、まず作品で表現したいリアリティレベルの設定ありきで、キャラクターデザインの絵柄は、そのために選ばれるものだということです。
先のパトレイバーでいうなら、劇場版は明らかにアニメ版とは違うリアリティでリデザインされているし、映画「攻殻機動隊」では、主人公草薙素子を肉感的なリアリティのあるキャラクターデザインとし、原作士郎正宗のものから大きく変えました。
それは全て、作品で表現したいリアリティをキャラクターに体現してもらうため。
ビルから飛び降り、格闘し、大口径の銃をぶっ放すサイボーグ軍人女性の首が細いわけはない、肩が張っていないわけはない。
だから原作の士郎正宗がデザインした首の細い(いわゆる)マンガ的なキャラクターを使わなかった。
つまり、作品の方向性、必要なリアリティと密接な関係がある以上、キャラクターデザインは単純な絵の好み、良し悪しだけでは選べないということ。
こういう考えの元では、結果的にキャラクターデザインと作品世界のリアリティが一致し、「ずれ」は生じない。
そんな押井守監督作品では「うる星やつら」の諸星あたるも「攻殻機動隊」の草薙素子も、高い所から飛び降りても死なないキャラクターになっています。
しかし作品で設定されているリアリティが違うため、結果は同じでも理由は違う。
「うる星やつら」はそもそもキャラクターが死なない(ギャグで済む)リアリティレベルであるから。飛び降りても好きな子の名を叫べば夢から覚めて助かるような不思議SF世界といった方がいいでしょうか。
「攻殻機動隊」ではうる星と違い、キャラクターは死にます。トグサや荒巻ですら飛び降りたら死ぬでしょう。そんな世界で死なないために全身義体のサイボーグで、さらに頑強な肉体を持ったキャラクターにリデザインする必要があったわけです。
(無茶をするため道理を通すのが、リアリティの高い作品の制約であり、その言い訳の工夫こそが面白さとも言えるでしょうね)
制作側はまず表現したい世界ありき。そしてその世界の表現に適したキャラクターが選ばれる、という過程があるというのが面白いところです。
選ばれたキャラクターは作品世界を体現した存在ですので、デフォルメキャラ→ギャグ世界と、キャラクターを見ただけで世界を理解してもらえるようにしてるわけですね。
(この世界は物理法則や人体構造を無視してますよ、というメッセージですよね)
一方、視聴者は制作過程などすっ飛ばして作品をまず見ますから、リアルなキャラクターだからリアルな世界で、デフォルメキャラだからギャグ世界だと素直に感じるのですが、それはメッセージの受け取り方として間違ってないわけです。
ちなみに同インタビューでは、押井が、他のアニメ作品をさして、
「キャラクターと作品世界が一致していない作品が多すぎる」というようなことも言ってましたね。
具体的な作品名は一切あげていなかったけども、思い当たるフシは色々ある。
リアリティのないキャラクターでハードな生き死にバトルをしたり、萌え美少女たちがトラウマ博覧会して人生を語ったりするようなことを言ってるんじゃないかな。
私も未見のアニメ作品のキャラクターだけ見た後で、実際に作品を見て「え?中身はこんな話だったの?」と見かけとのギャップに驚いたことが何度もあったように思います。
さて、この「飛び降りてケガをするか、死ぬかどうか」というのは、あくまで「リアリティのコントロール」を説明するための例にすぎないのですが、この例を色々考えていくと面白いところにぶつかります。
なぜなら「飛び降りても絶対死なないアニメ」を作っている国民的アニメ監督がいるから。
もちろん宮崎さんちのハヤオ君のことです。
■飛び降りる宮崎駿
それは例えば宮崎アニメでよくあるこういうシーン。
高い塔やビルのてっぺんで、少年はとらわれの少女を助けるが敵に追い詰められる。逃げ場はない。
絶体絶命のピンチ。どうする?どうやってこの危機を乗り切る?
こんな時、宮崎アニメで少年はどうするか?………そう、正解は「勇気をもって飛び降りる」です。
少女をお姫様だっこして飛び降りる。飛び降り方は色々バリエーションあれど、とにかく飛び降りる。
少年は地面に着地し、体全体にしびれが走るが、両足をふんばり、少女と共に駆け出す。
まさに宮崎アニメだと毎度1回は必ずあるようなシーンですよね。特にコナン、カリ城、ラピュタが思い浮かびます。
でもこういった宮崎アニメの見せ場シーンも押井守に言わせるとこうなる。
「せっかく絶体絶命の危機のシーンを作ったのに、主人公の無茶で簡単に脱出されるんだったら脚本の意味が無いじゃないか」
↑これ、昔、何か古いアニメ評論の本で読んだ気がするのですが、手元にないので良く分かりません。(こういう場面でで「アニメであること」に逃げるからダメなんだ的なことも言ってたような気もします)
まあ、確かに飛び降りても大丈夫なようにあれこれ理屈をつけたり、夢世界にしたり、キャラクターすら変えた押井先生に対して、「我慢する」ですからねえ(笑)。
先ほどのリアリティコントロールの話と合わせて、2人の作家性の違いが見て取れて大変面白いですね。
私が感じるに、つまりこういうことじゃないかな。
宮崎駿
・絶体絶命のシーンをドキドキワクワクのダイナミックな動きで突破することこそアニメーションの楽しさと信じている。
・そうでなくて何がアニメーションなのか。飛び降りてケガをするキャラクターの物語は、リアルな肉体を持った実写でやればよい。
・無茶を通せば道理が引っ込むものだ。観客が「道理が引っ込んで当然」と思うほどの魅力的な動きを作ればよい。
・飛び降りた少年がケガするのはナンセンスで、ケガをするかどうかでなく、少女を守るために飛び降りる勇気があるか、少女の重さを歯を食いしばって耐えられるかどうか、そこが重要なところだ。それができる少年がケガするわけがない。
押井守
・絶対絶命のシーンは道理(脚本・構成レベル)でつくられる。ならばその解決も道理で行いたい。
・というか絶体絶命までの最悪のシナリオを登場人物たちが知恵を絞り、行動し、それを回避するような話が好き。(劇場版パト1なんか完全にそう)
・観客が危機回避を納得できるだけの理屈は必要なはずだ。そのためには、危機脱出のための伏線をはったり、駆け引きさせたり、言い訳をちゃんと作ろう。
・問題はその作品のリアリティレベルがどの程度か、ということだ。それに応じてシーンはつくられ、リアリティが守られる。
・最終的に飛び降りざるを得なくなったとしたら、飛び降りても助かる理屈を付けるし、その作品のリアリティレベルに応じてケガをさせるだろう。
・もしくは好きな子の名を叫べば夢から覚めればよい。夢の中ではリアリティは関係ないからどうとでもなる。
・夢から覚めた世界もまた夢の中でないとなぜ言い切れる?いや、まて。そもそもこの映画を見ている俺達の実存さえも疑わしい。いや、まて…(以下、永遠に続く)
乱暴にまとめれば「道理を壊して無茶を通す宮崎駿」と「無茶をするため道理を通す押井守」といったところでしょうか。
この2人の違いは思想の違いもあるけれど、宮崎が絵を描くことができる監督であり、押井は絵を描くことができない監督であるという違いも大きく影響しているでしょうね。
宮崎駿の考え方こそアニメーションそのもの、とは言えると思います。ディズニーやトム&ジェリーなどにも通じる魅力ですね。
ただこれは宮崎駿本人が天才アニメーターであることで支えられている。ジブリ作品(紅の豚以降?)はしっかりした脚本がないそうで、脚本はアニメ作りながら作るし、アニメの都合でどんどん変えられていく。 (ジャッキー・チェンの映画の作り方と似ているなと思います)
究極的に言えば、自分だけでアニメが作れるから出来る方法です。
一方の押井守は絵が描けないので、当然絵は誰かに描いてもらうことになるわけです。
そうなると自分はそれを管理(コントロール)する側にならざるを得ない。
だから脚本、絵コンテ、画面構成を重視することになります。なぜなら、その部分さえしっかり握っていれば、誰が絵を描こうと、押井守の映画になるからです。
それらを押さえていれば、自分の映画を守れる=押井守。そうか、そこから来たネーミングか!(押井さんはキャラクターではありません)
私個人でいえば、絵心が無いことと、理詰めで理解しやすいことを考えると、押井守の考え方に感銘を覚えます。
(もちろん、宮崎駿「作品」は魅力的で大好きなのですが)
解決法の違いがそれぞれの監督の長所や魅力となっているので、どちらが正しいとかではなく、お互いが自分の信じる演出をするのが正しいのでしょうね。
それにしても対照的で面白いですね。
※余談
富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。
これじゃないですかね。やっぱり。スポンサーの枠組みの中で最大限の仕事をしてきた人としては。ピンチは新商品が登場するためにこそ存在する!