なのだけれど、簡単にスタートとはいかない。
・主人公「ひじかた」を最初からチームに入れること
という新撰組ルールがある。
これを実現するのは、実はなかなかめんどいのだ。
(1)「ひじかた」の年俸は4100万。チーム予算は1億2千万。
→年間予算の3分の1が「ひじかた」1人で飛ぶ。
(2)移籍候補の選手が出てくるのは完全にランダム。
→「ひじかた」がリストに無い場合はやり直し。
(3)スタート開始直後の弱小チームにはなかなか移籍してくれない。
→シーズン開幕までに移籍してくれなかったらやり直し。
(1)は、残り8千万で、残りのメンバーを集めるしかないが、初期メンバーの20人ですでに8千万を越えており、「ひじかた」代4100万が捻出できてない。
そこで初期メンバーのうち、使える2、3人を除いて全てを解雇。安くて使えるメンバーを最小限集めることにした。 最大チーム人数は22人だが、11人が集められれば良しとする。
※1度、体験しているので分かることだが、最下層フレッシュリーグのゆるいスケジュールは11人でも乗り切れる。
(2)は、どうしようもない。移籍候補にいなければやり直し。月が代わればリストが変化するが、それも確実ではない。
(3)で、何とか4100万をつくり「ひじかた」にオファーを出せても、彼は最下層リーグに見向きもしないことが多い。こればっかりは仕方ないので、何度もオファーを出す。4月の開幕までに獲得出来なければやり直し。
何度かやり直して、ようやくトシさんが加入してくれました。その他のメンバーも11人揃って計12人。
サッカーやるのにギリギリの人数でスタートすることになりました。
しかも開幕ギリギリに2人が入団して12人になるという弱小野球部並のギリギリさです。
当然、練習試合もトレーニングもなく、ぶっつけでフレッシュリーグ1年目に挑みます。
さて。どうなるか。
で、何をやってるかというとゲームボーイアドバンス用ソフト「カルチョビット」なわけです。1画面のみ。ペンの使用なし。 DSの意味なし。
「カルチョビット」
http://www.nintendo.co.jp/n08/bixj/index.html
カルチョビットは、「ダビスタ」で高額納税者番付に入ったことでおなじみの(いやらしい覚え方)薗部さんのサッカーシミュレーションゲームです。
サッカー監督になるゲームで、「成長要素のあるベストプレープロ野球」というか「サッカー選手を育てるダビスタ」というか薗部さんらしい放置ゲームです。
サッカー好き+放置ゲーム好きにはたまらないゲームなのですが、ちょっと情報処理とインターフェイスでストレスを感じるところも。DSで無いのが惜しい。2画面とタッチペンなら情報量とインターフェースに格段の快適さが得られただろうに。
次回作が出ると信じているのでDSで出して欲しい。
さて、プレイするにあたり、チームのコンセプトを「新撰組」にすることにしました。
ゲーム内に「函館ペンタゴン」というチームと「ひじかた」という選手がいるのです。当然これは函館五稜郭と土方歳三ですね。
五稜郭は土方が戦死した、言わば新撰組という夢の終焉の地。
それならば私は、夢の途中で黄金時代でもある、京都新撰組時代のチームをつくってやろうと決めたわけです。
<「カルチョビット血風録」イントロダクション>
近藤「トシ、お前サッカー好きか?」
近藤さん、トシ、そして野村義男の3人で結成された新撰組が、昔、京都の街でイキに暴れまわってたって言うぜ。
今も世の中荒れ放題……ぼやぼやしてると後ろからバッサリ(カウンター)だ!
どっちもどっちも。(ホームもアウェイも。)
どっちも!どっちも! (ホームも!アウェイも!)
■コンセプト
・新撰組サッカーチーム
・主人公は「ひじかた」 ※というか彼の存在だけが企画の拠り所。
・他の新撰組メンバーも出来る限り再現する。
・その他出来るだけ新撰組ネタも盛り込む。
・攻め攻めの攻撃的なチームにする。
■チーム名
カルチョビットの敵チーム名が、全て地名+カタカナ語でつくられているので、それに合わせることにしました。
チーム名:壬生フェンリル
新撰組といえば京都ですが、すでに京都ブロスというチームがいるので、やめて(京都ダービーをすればいいんですが)、新撰組屯所のあった「壬生」の地名からとりました。
フェンリル狼は、北欧神話に出てくるでっかい狼。
新撰組が壬生狼。壬生の狼と恐れられてたところから名付けました。
天狼星の「シリウス」と迷いましたが、フェンリルの方が、どうもうな狼色が強いという、要するに「何となく」という理由で決めました。 語呂があんまり良くないけど、テキスト情報でしかないのでまあいいか。
ちなみにゲーム内で使う三文字略称は、フェンリルを狼に戻して「壬生狼」。
これが出来るのも京都でなく壬生にした理由だったりする。
■ルール
・「ひじかた」をスタート時からチームに入れる。
・「ひじかた」はずっとチームに入れて、解雇しない。
今のとこルールはこれだけ。
■目標
・まずは国内統一(日本一)を目指す。
・薩摩、長州のチームが無いのは残念だが土佐のチーム(ボニート土佐)あるので、池田屋ばりに斬って斬って斬りまくること。
・その後、諸外国(海外の強豪クラブ)を打ち倒して、攘夷を達成すること。
・もしくはこれら夢が達成できずに華々しく散ること。
以上。
というわけで「カルチョビット血風録」と題しまして、「ひじかた」の活躍を追ってみたいと思います。
http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0607/21/news007.html
私が以前、妄想していた推理ゲームとの共通点がいくつかあり、大変興味深い内容となっています。個人的には大注目です。
→なんとか伝説殺人事件 【前編】
→なんとか伝説殺人事件 【後編】
■ゲームのポイント
・謎の洋館に閉じこめられる男女。
・1日に1人ずつ、見立て殺人で殺される。
・プレイヤーは殺人を止めながら、犯人を推理していく
ゲームはバイオハザード的に洋館を歩き回って捜査するモードもあるようで、なかなか面白そうな感じです。
1日に1人殺されて、容疑者(生き残る方)と脱落者(死んじゃった方)とに別れていくのをゲームとして体験する。
というのは、対戦型推理ゲームで考えたものと似てますね。(【後編】の方)
ウルトラクイズシステムですね。「最終日に行きたいかー」的な。
で、1日1殺の中で(殺人犯でなく)プレイヤーが登場人物の生死をコントロールする。
という要素は、最初に妄想したゲームでも考えたものに似てますね。(【前編】の方)
「雨格子の館(仮)」ではプレイヤーが主人公=探偵と決まっているようですが、妄想した部分の何%かは確実に味わえそうです。妄想したことが本当に面白いのかどうか、実証できるわけですから楽しみですね。
誰を助けられたか、誰が死んだかで、ストーリーが分岐し、複数回でのプレイも楽しめる。
と、書いてあるところから見ても、恐らく「犯人」は変動でしょうね。
変動といっても、ルートによって犯人が決まる、という感じなのだと思いますが、ルート分岐が基本的に人の生死のようなので、結構複雑になっていそうですね。
■名探偵は人を助けない
ポイントは、やはりプレイヤー(=探偵)による生存者コントロールでしょう。
ゲームに限らず「ミステリー」は、大なり小なり悲劇を楽しむもので、物語が進むというのは悲劇が増える、ということでもあります。
名探偵がいて、彼は何とか連続殺人を食い止めようと推理(=物語)を進めるのだけど、物語を進めるということは殺人が増えていくことにどうしてもつながってしまう。
ちょっとメタ視点になってしまうけども、名探偵は「状況を悪化させる」ために登場しているキャラクターということになるわけです。皮肉なことに。
これはゲームだけでなく、マンガや小説でもそう。
マンガ「名探偵コナン」では、劇中で「コナンの推理はいたずらに犯人を追いつめ、次の殺人を発生させている(=状況を悪化させている)だけだ」という問題提起があった。
これは名探偵登場の皮肉や矛盾を劇中で取り上げたものとして評価してるけど、劇中でどう解決したのかは全く覚えていない。ただ、問題提起したことだけははっきり覚えている。
つまり「推理は完璧。トリックも分かった。犯人も捕まった。でも4人死んだけどね」というやつ。コナンだけでなくミステリにこういう形多いですよね。
なぜこうなるかというと、ミステリの目的が「推理」であって「人助け」ではないから、だろう。
■犠牲者ゼロの連続殺人
そこで、この「雨格子の館(仮)」の出番となるわけだ。
このゲームでは、そういった名探偵が持つ逃れられない宿命から自由になれる可能性がある。
物語スタートとなる第一の殺人はもちろん止められないだろうが、それ以降はプレイヤー次第なのだから。
例えば、想像するにもっともすばらしいグッドエンディングは、最初の殺人の後、次々と起こる犯人のトラップをかいくぐり、全ての人間を助け、犠牲者ゼロで犯人を捕まえてしまうことだろう。
多くの名探偵が達成できなかった「犠牲者ゼロの解決」が達成できるかも知れない。
そういう意味で、このゲームはとても面白そうだ。
期待の一作になりそうだよね!(ファミ通的アオリ)
■2つのグッド
と、まあ、ゲームの紹介としては、ここで終わってもいいんですけど、これをきっかけにさらに踏み込む。
先ほど想像するグッドエンディングを「犠牲者ゼロでの事件解決」と書いた。
このゲームを買ったプレイヤーは、多分とりあえずはこれを目指すんだと思う。
達成目標としては、これが最も難易度が高く、ゲーム的にはこれが出来れば確かに「真のグッドエンディング」でしょう。では物語的には?全員助かるのがグッド?
僕はあまりそうは思わない。
前述したように、ミステリの醍醐味の一つは、その悲劇性にある。
全員助かるストーリーでは、悲劇性は犯人にのみ集約されるが、殺そうとして全て失敗する犯人にそれを背負えるのかどうか。
物語としたら、助けたい人(美人とかね)があと一歩及ばず死んでしまったり、死なないと思っていた人があっさり死んでしまったり、いい人ほど早く死んでしまったり。
それらの悲劇が積み重なって、さらに残された者の恐怖が倍加してそれ自体が悲劇となる方がいい。ドキドキという名の汽車に乗って夢工場行った方が全然楽しい。
これは要するに、ゲーム的な「グッド」と、物語的な「グッド」の意味が違うからなんですよね。
ゲームのグッドは、「うまい」(うまくやるのが面白い)
物語のグッドは、「面白い」 (それが悲劇であれ喜劇であれ)
例えば「ファイアーエムブレム」というゲームは、いっぱいキャラクターが出てくる、シミュレーションRPGですが、こいつがどえらいシミュレーションで、全員を生かしたままクリアーしないと真のエンディングを迎えられない。
これはとても歯ごたえのあることで、ゲーム的には極めて正しい。
しかし実は、それを達成するために、成長をほとんどしない老将ジェイガン(=ゲーム的に使えないキャラ)は、1度も戦場に出ることなくクリアーを迎える、といったような状況が発生する。母ちゃん達には内緒だけど!
お話として見るなら、こういった「死んだ方が映えるキャラ」は途中で死んでくれた方が断然盛り上がるはずだ。
「王子!ここはこのジェイガンに任せて、早くお逃げを!」
「ダメだ!一緒にいくんだ」
「…王子、立派になられましたな。この老骨が最後に役に立てて、光栄でございます。では!」
「ジェイガーンッ!」
とか言って死んだらいい。華々しく散ったらいい。
ジェイガンはゲーム的には役に立たないかも知れないが、物語的には全然使えるキャラクターだからね。
ゲーム的には、使えないジェイガンは戦場に出さずに犠牲者ナシで終わらせるのが「グッド」
でも物語的には、老将ジェイガンに最後の見せ場を作って戦死させたほうが「グッド」
この2つの矛盾する「グッド」を何とかイコールで結ぶ方法はないのかな、と、昔からあれこれ考えています。つまりは物語の「面白い」をそのままゲームで表現出来ないかなあ、ということなんですが。(これについては、また別の記事で)
まあ、この雨格子の館(仮)について言えば、多分難しくて、何度も悲劇的な展開を味わうことになるんだろうから、その悲劇からの脱出という意味で「犠牲者ゼロ」の解決があるんでしょう。
でも多分、ストーリー的に一番面白いのは「この人とこの人が死んで、犯人がこの人のルート」というのがあるはずだ。多分ゲームのグッドと物語のグッドがイコールで結ばれていないと思う。そういう目的のゲームじゃないので結ばれてなくてもいいんだけどさ。
と、まあ、ここで終わって本当に良くて、こっからはメモ。
・「プレイヤーによる生存者コントロール」について
ゲーム設定的には「犯人が殺す」というように見えるが、生死はプレイヤーで制御可能なため、実際はプレイヤー自身が殺人をコントロールしていることになると思う。
プレイ回数によっては「別ルートに行くために、悪いけどこのおっさんには死んでもらおう」と、文字通り残酷にコントロールしてプレイする必要が必ずあるはずだ。
・悲劇と恐怖について
悲劇と恐怖をどれだけ与えても、プレイヤー=名探偵=死なない、という構造の元では無意味だ。だからその特権を剥奪して、プレイヤー→死ぬかも。それどころか犯人かも。という「次に殺されるのはオレかも知れない」「このままだとオレが犯人だと疑われる」というシチュエーションをつくったのが、以前、妄想した対戦推理ゲーム。
・ニンテンドーDS用対戦推理ゲーム。
ニンテンドーDSは、個人個人の別画面を持ったまま、同じゲームをプレイできるので向いてそうだ。洋館を分かれて探索して、一方が「キャー!」で、もう一方が「今の悲鳴は!」といって駆けつける、というような。1人だけ犯人を見てて(画面に映った)、もう1人は見てない、というようなことが簡単にできるんじゃないかな。
その場合、1人がもう1人に「特徴は?」とか聞き込みが出来て面白いな。見た方はそれをペンで書いたりして。
とにかく『雨格子の館(仮) 』がどんなゲームになるのか楽しみですね。
一般的な選択式推理アドベンチャーゲームが、物語を見せる形式として好きではないので、新しいことをしてくれるゲームに期待したいです。