今回読み返して驚いたのは、
「第3部の主人公はとことんポルナレフだな」
ということ。
正直言うと今回読み返すまで、ここまで主人公だと思ってなかった。
第3部では空条承太郎という「ジョジョ」がいて、彼が主人公。
ポルナレフは、その旅の仲間にすぎない。
だが役割的には完全にポルナレフが主人公だ。
・アブドゥルとの友情と反発。
・目的のためには仲間から離れて一人で戦おうとする。
・基本的にバカで危なっかしいから友人はサポートに回る。
・己の失敗で友を失う。
・悲しみを乗り越え成長する。
承太郎はすでに登場時から完成されている。
最初からクールで強くて、何の出来事も起こさない。
ポルナレフは未完成の人格で登場し、旅を経て、さまざまなものを得て、失い、乗り越えていく。承太郎と違って、仲間と本気でケンカするし、ミスもいっぱいするし、いっぱい泣く。
第3部でポルナレフほど成長したキャラクターはいない。
承太郎のようなキャラはようするに動かしにくい。
マンガ的にはミスもしないし、負けもしないし、バカなこともしない。だが逆に言えばそういう場面でしか使えないということでもある。
もちろんマンガ上の主人公は承太郎なわけだが、彼だけではマンガは動かない。多分、第3部で荒木先生が圧倒的に動かしやすかったのは、ポルナレフだったのではないか。
そんな第3部の後、第4部ではどうなったか。
文庫版ジョジョの第4部の最後に、荒木先生のあとがきが入ってるんですが、そこにはこう書かれています。
「とことんバカなやつを主人公にしたかった」
第4部の主人公は、東方仗助。
リーゼントの不良で「グレート…」でバカ。
ここでのバカとは、知能指数が悪いという意味では無い。
バカなことができる人間のことだ。
仗助のバカさ加減というと、思い出すのは、人やモノを紙にする「エニグマ」という敵スタンドと戦ったときのこと。
友人(康一)の紙を人質にとられる。しかし広瀬康一と書かれた紙はただのフェイク。それでもその紙切れを助けようとする仗助。結果、敵スタンドの罠に落ちる。
紙に吸い込まれながら彼は言う。紙が偽モノ(罠)なことは分かっていたと。しかし。
仗助「それでもなぜ俺がその“紙”を助けようとしたのか…ひょっとしたら康一かも知れないと思ったら…万が一でも!康一だっつー可能性があるのなら!その“紙”を助けに行かねえ訳にはいかねえだろう…!」
それだけの理由で、分の悪い賭けに自らの身を投げ出す…バカですね。戦略とか確率とかリスクとか身の安全とかあらゆる理屈を超越した行動がとれるのはバカしかいません。
でもこれこそが「主人公の行動」なんですよね。
かしこい人間は、そもそも「バカなまね」をしないと解決できないような絶体絶命な状況を避けます。
リスクの芽は未然に摘むかも知れないし、君子危うきに近寄らずかも知れない。
ヤムチャは自分より強いやつとは戦わないけど、悟空は自分より強いやつでも平気で戦う上に「オラ、わくわくしてきたぞ」と言う。
ヤムチャを笑いものにするけれど、多くの人は(私も)ヤムチャ的にリスクを避けて行動してるはずです。それは正しい。その方がかしこいからね。でもかしこいと「わくわくするバトル」が発生しないわけですね。
理屈を越えた正義感や、やさしさ、好奇心こそが物語を発生させて、そして解決するパワーもまた理屈を越えた何かだ。
「とことんバカなやつを主人公にしたかった」
という第4部の主人公仗助の成立には、第3部のポルナレフが、影響を与えたと考えてるんですがどうですかね。
※余談1
よく考えると第2部のジョセフ・ジョースターは、承太郎+ポルナレフだなあ。いや、パーティー制をとればキャラクターの役割分担がはっきりするのは当然だから当たり前か。
※余談2
あとは康一だな。普通の人康一が第4部で果たす役割は大きいし。結局これは第4部も読み返せということか。
そこから、ファーストガンダムとの比較。そして「アムロのシャア越え」の話まで。
昔、友人に送ったメールに多少の修正をしただけのもの。要するに省エネの手抜き更新です。
ガンダム0083は、1991年制作のビデオ作品で、最初のガンダムとZガンダムの間の話。初めて「ガンダムvsガンダム」をやった作品でもあります。
→機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY(Wikipedia)
※ネタばれ満載でお送り致します。
ガンダム0083のお話面での評判の悪さについて
ガンダム0083はメカニック的には人気があるのですが、お話的な評価は低いイメージありますね。
その理由は私が思うに大きく2つあると思われます。
一つは、ヒロインが最後にとった行動によるもの
一つは、主人公とライバルの対比と関係
0083のライバルであるガトーは、その髪型が現す通り「侍」をイメージしてつくられたキャラクターです。
ジオンの大義のためには死すら恐れず、信念を貫きとおす。
しかし、それは新しい時代に取り残された、古い、生きた化石のような男でもあるのです。
デラーズ・フリートは、明治という時代に生きられなかった新撰組だと思えばいいし、デラーズは近藤勇。ガトーは土方歳三。と思ってもいいでしょう。
ガトーの目的は「星の屑作戦」の遂行です。
対して主人公のコウは、何もありません。モビルスーツが好きなただの青年です(これはパトレイバーの野明と全く同じです)。
はっきり言って戦う理由がありません。信念もありません。
だから物語中、コウは「ガトーを倒す」「ガトーの目的を阻止する」という理由だけでガトーと戦っています。
0083の最後で、コウはいよいよガトーを倒す(殺せる)チャンスを得ますが、ヒロインであるニナ・パープルトンが出てきてガトーをかばいます。コウ、大ショック。
実はガトーとニナはかつて恋人同士だったのです。
(※ここがお話の評判が悪い理由の一つ。 )
主人公から、ライバルをかばうヒロイン
この行動でガンダム悪女界に入れられることも多いニナですが、ガトーをかばい、コウがガトーを殺すのを阻止しようとしたのは、かつての恋人ガトーのためというより、むしろコウのためのはずです。
フィルム上そう見えなかったのは様々な不備の問題で、構造上はそうでなくてはおかしい。
コウが軍人として果たすべき目的はジオンの「星の屑作戦」の阻止である。しかし阻止限界点は突破し、コロニーは地球へ落ちることになってしまった。
「星の屑作戦」は成功し、この時点ですでにガトーは目的を果たしている。
コウがガトーを殺すチャンスを得たのは阻止限界点突破後のこと。ガトーを殺しても、コロニーが落ちなくなるわけではないのだ。
つまり「星の屑作戦阻止のため殺す」ではなく、「ガトーを殺すために殺す」という目的で戦うコウは、戦争の中で目的を見失っている。
それはもう戦争じゃなくて人殺しだ。ニナは戦争でなく人殺しをしようとするコウを止めた。
ここでコウがガトーを殺したら、コウは決定的な過ちを犯すことになる。だから止めたんでしょうけども。
そういう意味で、このシーンはあっていいと思います。
ただこれをやるには、色んなものが足らなかった。だから「ニナは最後にコウを捨てて元カレのガトーに走った」とか言われてしまう。かわいそうにね。
では、もう一つの良くない点、「主人公とライバルの対比と関係」はどうでしょう?
主人公とライバルの対比と関係
連邦でガンダムに乗るコウと、それに立ち塞がるジオンのエースパイロットガトーは、そのまま初代ガンダムのアムロとシャアの関係でもあります。
シャアは目的のため、仮面で素顔を隠し行動してきました。
シャアの目的はザビ家の打倒(復讐)です。ジオンの勝利ではありません。ですからジオン軍の不利益になるような事もたくさんしています。
ララァ(ニュータイプ)の可能性に最も早く気付いた人間でもあります。
アムロは基本的に状況に巻き込まれただけで、戦う理由は特にありません。
戦う理由が無く、守るべきものが無いことは、ララァとの戦闘中に彼女に指摘されたことでもあります。
「ランバ・ラルに勝ちたい」など場面によって目的を持つこともありましたが、これは男の理由であっても戦争の理由ではありません。
だからララァの言うとおり、目的なく戦うアムロは不自然な存在でした。
ガトー、シャア=自分の信念と理由を持つ大人
コウ、アムロ=目的もなく成り行きで戦う子供
という感じですね。
でも0083と違って、ファーストが偉大なところは、ララァの死を通してラストでこれが逆転するところです。
ファーストに見るアムロのシャア越え
目的のため戦うシャアと、目的のないまま戦うアムロ。
この両者の関係はララァの死を境に逆転し、アムロは最後にシャアを越える。
シャアは「自分の母になってくれるかも知れなかった女性」ララァをアムロに殺され、初めて感情的な姿を見せます。
その結果、最終決戦のア・バオア・クーでは、ジオングでアムロと個人的な決着をつけようとします。
最後の最後で、シャアは「ララァを殺された恨み」という私怨で戦ってしまうわけです。
一方のアムロは、ララァとの交流と別れを経て、真のニュータイプにより近づきました。
この戦争をいち早く終わらせるためには、ザビ家の頭領を倒すしかない、というところについにたどりつきます。
ア・バオア・クーでのアムロの戦闘目的はまさしくこれで、シャアとの個人的な戦闘決着など全く頭にありません。
実際、ジオングとの戦闘もしかけてきたのはあくまでシャアの方です。
TV版ガンダムでのセリフを交えつつ見ていきましょう。
(ジオングで出撃したシャア)
シャア「よし。しかし、奴はどこにいるのだ?」
(シャアに気づくアムロ)
アムロ「大物だ。シャアか?」
アムロ「しかし、今はア・バオア・クーに取りつくのが先だ」
アムロ「本当の敵はあの中にいる、シャアじゃない」
シャア「情けない、ガンダムを見失うとは。どこだ?奴は」
アムロ「シャアか。こちらを見つけたな」
シャア「見えるぞ、私にも敵が見える」
ここでアムロが言う「敵」とは「ザビ家」。しかしシャアが言う敵とは「アムロ」になっている事に注目。
ここにアムロとシャアの目的は逆転し、シャアが捨ててしまった「ザビ家打倒」はアムロの目的となった。
仮にアムロが先にジオングを見つけていたとしても、この時のアムロだったら無視したかも知れません。
アムロが戦争終結の高みへ思考が行っているのに対し、シャアはあくまでアムロ個人にこだわってしまいます。
だから、シャアは当然のようにアムロに敗れます。
(モビルスーツから脱出し、生身の戦闘をするシャアとアムロ)
アムロ「シャアだってわかっているはずだ。本当の倒すべき相手がザビ家だということを。それを邪魔するなど」
アムロ「…今の僕になら本当の敵を倒せるかもしれないはずだ」
アムロ「ザビ家の頭領がわかるんだ」
シャア「今、君のようなニュータイプは危険すぎる。私は君を殺す」
アムロ「本当の敵はザビ家ではないのか?」
シャア「私にとっては違うな」
敗れたシャアは生身での一騎打ち(フェンシング)を挑む。殺しあう2人
そこへセイラさんが止めに入る。
セイラ「やめなさいアムロ、やめなさい兄さん」
セイラ「二人が戦うことなんてないのよ、戦争だからって二人が戦うことは」
シャアの元々の目的→ザビ家の打倒
アムロが辿り着いた目的→ザビ家の打倒
二人の目的は同じだから、セイラさんの言ってることは全く正しい。
セイラ「兄さんの敵はザビ家ではなかったの?」
シャア「ザビ家打倒なぞもうついでの事なのだ、アルテイシア。ジオン無きあとはニュータイプの時代だ。アムロ君がこの私の言うことがわかるのなら、私の同志になれ、ララァも喜ぶ」
この辺り、シャアのセリフに理想と本音が入り混じっていて面白いな。
ザビ家打倒が目的のシャアだが、ニュータイプララァとの出会いにより、人の革新、ニュータイプの時代を切り開くことが新しい目的となりつつあったのは事実だろう。
それは過去の復讐という後ろ向きのものと違い、未来のための前向きな目的になるはずだった。
その希望のニュータイプララァが、ニュータイプアムロに殺されるまでは。
シャアのスカウトに対するアムロの返答はないまま、アムロとシャアは別れる。
次に2人が再会するのは7年後の「Zガンダム」においてということになる。
その時、2人は同じエウーゴの同志になるのだが。
セイラ「兄さんはどうするのです?」
シャア「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
シャアは、アムロがするつもりだった戦争の幕引きを自分が引き受ける。
ここでやっとシャアは、本筋であった目的「ザビ家打倒」に戻ってくる。
(ザンジバルのブリッジにバズーカを向けるシャア)
シャア「ガルマ、私の手向けだ。姉上と仲良く暮らすがいい」 (ガンダムでの最後のセリフ)
アムロは、ララァを失っても自分には居場所があることに気付き、仲間の元に帰還する。
アムロ「ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ。こんな嬉しいことはない。わかってくれるよね?ララァにはいつでも会いに行けるから」 (ガンダムでの最後のセリフ)
これで、ガンダムは終わる。
新春大型ジオン時代劇 幕末残光伝
以上のようにファーストガンダムを踏まえた上で、改めて0083を見てみましょう。
ニナが、ガトーとコウの殺し合いに割って入るのは、シチュエーションだけならセイラさんの再来といえます。
しかし、この場面を止めるだけのロジックがない。シーンの積み上げがない。
だから「最低女」だとか「こんなシーンいらない」とか言われてしまう。かわいそうにね。
しかも、これは作った世代のせいということもあるのですが、0083自体が滅びの美学といいますか、ジオンびいきの物語でした。
本当の主人公はガトーだったと言ってもいいでしょう。そのせいでコウはガトーを越えられないまま終わってしまいました。
信念を貫いて滅ぶ男が美しい、というままで話が終わってしまいました。
本当はコウが、自分の信念で地球を汚し、大量に人を殺す男ガトーをぶんなぐらないといけなかったはずです。
いっそニナが殴ってもいいですが、ガトーを良く知るニナは、信念のこり固まったガトーについてはもうあきらめていたかも知れないな。しかしコウの事はあきらめてなかったのでコウのために割って入った(そのせいでひどい事言われる羽目になったけども)。
制作サイドもガトーをかっこよく描くことしか頭に無かったみたいだから、どうしようもないだろうな。
そんなわけで、主人公、ライバル、ヒロイン、全てに問題を抱えているので、「物語」として見た場合やはりつらい作品であると思います。
新春大型10時間時代劇「五稜郭」とか「白虎隊」的に楽しむのがいいんじゃないでしょうか。
それにしてもファーストの構成は本当にすばらしい。
改めて見ると本当にほれぼれする。
シャアがジオングに乗ってさえアムロに勝てないのは、モビルスーツの性能うんぬんの前にすでに目的レベルで負けているからで、構造上の必然になっているんですよね。
とはいえ最後の最後にシャアはその目的を取り戻し、キシリアの頭をふっとばして物語にケリをつける。
一方のアムロは「ザビ家打倒」をシャアに返し、真の目的「何のために戦うのか」「守るべきものが何なのか」を知る。ララァにはそれが無いと言われたけど、本当はあったんだよね。
ガンダムは最後の最後にアムロがそれを見つけることで完結する。
…結局0083をだしに、ファーストすばらしいって言ってるだけですね。