基準(物差し)となるキャラクターから考える物語<『スラムダンク』『キャプテン翼』『機動戦士ガンダム』のパワーバランスとキャラクターの格>
アニメマンガ物語富野由悠季ガンダムキャプテン翼スラムダンク物語機能
2017-03-25
その多彩なキャラクターが織りなす数々の名勝負が、こうしたジャンルの魅力となるわけですが、とりわけ私は、登場人物間のパワーバランスや、高位キャラクターの「格」を落とさない表現について強い関心があります。
その物語世界で誰が強いのか?
誰かと誰かを比べたときに、どちらが上なのか?
勝敗が発生したときに、その理由をどう表現するのか?
こうした処理が巧みな作品が、個人的には好みです。
具体的な一例を出した方が、分かりやすいですね。
例えば「誰かと誰かを比べた時にどちらが上か?」「高位キャラクターの強さ(格)とは?」という意味で、私が聞いたことがあるのは、バスケットマンガの金字塔『スラムダンク』のこんな話。
海南大附属の王者・牧紳一は本当にすごいのか問題
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「作中随一の実力者であるはずの海南大附属の牧が、あまり強そうに見えない気がする」
牧 紳一(まき しんいち)は、17年連続インターハイ出場の王者、海南大附属高校の主将にして「神奈川No.1プレイヤー」。
作中では、特に一学年下の仙道が自分と同じ位置に登ってきているのを実感するシーンが印象的ですが、「打倒海南」「打倒牧」の面々の躍進に驚く場面も確かに多かったとは思います。
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これは、驚いてやんなっちゃった方の牧。
……ですから、「あまり凄そうに見えない」という気持ちは分からないではありません。
しかし牧紳一というキャラクターは、スラムダンク世界での実力を測る物差し(基準値)になっているのだろうと思います。
物差しと言っても、牧さん自身も日々精進してるわけで、静止した物差しではありません。
それでも牧に対してどこまでのプレイができるか。そして牧による人物の評価が、スラムダンク世界でのプレイヤー格付けになっていますし、それが「全国」への基準として機能しているはずです。
その前提で作中では、仙道や湘北の面々など、牧が同格または実力者であることを認めるプレイヤーが次々に登場していきます。
読者に対して、陵南や湘北もまた「全国」レベルの資格を持っていることに説得力をもたらしているのは、牧紳一の存在あってこそではないでしょうか。
あくまで牧にどこまで近づいたか、であって、限りなく距離をゼロに詰めたキャラクターはいても、結局、神奈川において、牧と海南を超えることはできていません。越えられたらそもそも基準の役割を果たせなくなります。
躍進するライバル達を抑え、無敗で全国行きを決めた牧と海南大附属は、神奈川の王者として結果を出していますし、だからこそ、キャラクターの格は保たれたまま、牧基準による評価も信用できるものとなっていると思います。
『スラムダンク』は、キャラクター間のパワーバランスや、高位キャラクターの「格」を落とさない表現について、複雑かつ巧みであると、個人的には評価しています。
この「作品内での物差し(基準)となるキャラクター」ですが、牧のように最大のライバルが担当するパターンの他には、主人公自身が担当するパターンも存在します。
その代表として、同じジャンプのスポーツマンガ『キャプテン翼』を見てみましょう。
『キャプテン翼』における1v1のタイマン勝負構造
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サッカーマンガの金字塔『キャプテン翼』。
ここでは最初の連載シリーズである『キャプテン翼』全37巻を対象にします。
いわゆる無印の『キャプ翼』です(なぜ無印に絞るのかは各自お察し下さい)。
この作品において、物差し(基準)キャラクターは、基本的には主人公である大空翼が担っています。
ですから強敵と戦う際には、まずは翼くんが1vs1の勝負を挑んで、あっさりと止められる。またはあっさりと抜かれる、といったような場面が多かったりします。
石崎「なにィ! 翼があっさり抜かれた!?」的なシーンですね。
基準である翼くんのプレーが通用しないことで、対戦するライバルキャラの実力を表現する手法です。
翼くんは攻撃的なポジションであり、守備の選手ではないので、サッカー的にはあっさり抜かれても別に何の不思議もないし、問題もありませんよね。
それでも作中で、衝撃を持って描かれるのは、これが現実のスポーツでのポジションや駆け引きの問題ではなく、マンガとしてのキャラクターの「格」勝負の描写だからです。
つまり、戦争のはじめにお互いの軍から代表を出して一騎打ちを行い、戦の勝敗を占うようなもの。
その文脈で見たとき、『キャプテン翼』はもちろんサッカーマンガなのですが、戦いの構造そのものは、伝統的な番長マンガや、ジャンプでいえば車田正美的なバトルマンガの系譜に近いと言えると思います。
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現実のサッカー場(ピッチ)は、本来はタテ・ヨコのある平面と高さが存在する立体的なフィールドですが、『キャプテン翼』のピッチはどちらかといえば、それを再現するよりも直線(リニア)として表現する方向に整理されていると考えます。
つまり、マンガと相性の良い、前後の関係が重要な直線的なフィールド。
進んでいくと敵が現れ、それを倒さないと基本的にはその後ろには行けない。
(迂回するには、当然複数人の協力が必要になる)
連載スタートは『翼』より後ですが、車田正美『聖闘士星矢』の十二宮突破をイメージしてもらうと分かりやすいでしょうか。
さらにいえばこれは、チーム競技でありながら、構造的に1vs1の連続によって展開する為に、マンガというメディアと大変相性が良いスポーツ「野球」の対決構造に近いと言えます。
(ということは同時に、野球マンガとバトルマンガは構造的に近いわけですが)
また、直線的なフィールドで勝負が発生し、それによりラインが上げ下げされる、と考えれば、実際のスポーツでいえば(ルールをあまり知らないが)「アメリカンフットボール」が近いのかも知れませんね。
ただし、そこで重要視されるのは、サッカーの技術や駆け引きというより、それらも含めたキャラクターの「格」そのもの。
作品の基準(物差し)キャラクターである翼は、味方チーム(南葛、全日本)の最強のエースカードでもあります。
その翼があっさり抜かれるような相手であれば、味方は同じように1vs1を挑んでいては誰も勝てない、ということになります。
全日本ディフェンス陣としては、松山、石崎、次藤、早田の4枚スタック(4枚重ね)で必殺シュートをブロックする他ありません。
通常のサッカーではありえないプレーですが、キャラクター格の勝負と考えれば、4枚スタックで少しでも期待値を上げるのは正しいプレーと言えます。
また、球技ではボールのあるところが視点として中心になります。
野球マンガが常にボールを手に持つピッチャーを中心にせざるを得ないことを考えれば、サッカーはボールの移動によって、視点を自由に変更できるバトルマンガともいえます。
中盤の攻防、サイドの攻防、ペナルティエリア内の攻防など、瞬間的なボール移動で戦場を自由に設定可能です。(野球は打球の発生により、視点を守備側、走塁側へスイッチできますが、サッカーほどの自由度はありません)
『キャプテン翼』は確かに現実のサッカーのような、スポーツマンガではありません。
反則になるプレイや物理法則を無視したプレイなど、荒唐無稽なプレイのオンパレードです。
そして今語ったように、そうした表面上のことだけでなく、構造の上でもむしろケンカや野球マンガに近いわけです。
正直、サッカーというスポーツへの理解度が格段に深まった現在から見れば、誰が見てもおかしい、という場面も多いでしょう。
ですが連載開始は、日本のワールドカップ出場どころかプロリーグさえない1981年。
現在とは比べ物にならないほど日本全体のサッカー知識もない時代に、しかも作者の高橋陽一先生は自身にサッカープレイヤーとしての経験もない状態で、サッカーをマンガとしてどう表現するか、かなり苦心したのではと想像します。
その結果、リニア(直線)を意識したフィールドとキャラクター格をぶつけ合うバトルという、ジャンプマンガらしいケンカ(バトル)構造や、同じスポーツの中でも野球マンガに近い構造を導入したのは、やはり偉大な発明だったと思います。
そのあたりを踏まえずに、現実のサッカー観からだけツッコミを入れるのはナンセンスかな、と個人的には思っています。(終始それで終わられても何一つ面白みがないので)
『キャプテン翼』での格の保ち方。強くありたければ試合に出るな
ちなみに、翼くんは主人公でありながら物差しキャラとしても使われるので、どうしても相手の力量を見せるための引き立て役にも良くなっています。いきなりあっさり抜かれたり、止められたり。
それでも主人公としての格が何とか保たれるのは、あきらめずに挑んで結局最後には翼くんが勝つからでしょう。
その為に、翼くんにはとにかくあきらめずにサッカーを楽しむメンタリティ(サッカー狂)と、相手の技を吸収(コピー)して、最後には相手を越えていく、というプレー特性が与えられています。
主人公として、そのキャラクター設定と最終的な勝利が約束されていなければ、普通は「格」は下がるはずです。
「強敵と手当たり次第に戦った上で格を保つ」というのは、それぐらい難しく、翼くんぐらいしかできない芸当ですが、「格」を高く保つためには他の方法もあります。
例えば、翼とは逆に「可能な限り勝負をしない」というのもその方法のひとつです。
この方法を実践しているキャラクターは『キャプテン翼』にもいます。誰でしょう?
……そう、それは全日本ジュニア見上監督の「源三を使います」でおなじみ、SGGK若林源三です。
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『キャプテン翼』(無印)全37巻では、若林がゴールキーパーとして、まともに描かれる形で出場した試合は、修哲対抗戦、小学校決勝、ユース決勝のわずかに3試合のみです。37巻で3試合。それでSGGK(スーパーグレートゴールキーパー)の称号を得ています。
ケガでお休みの若林君の代わりに、皆さん大好き森崎君がゴールマウスを守ることになるわけですが、彼がたくさんゴールを決められてしまうことで、翼がそれ以上の点を取らないと勝てない、というのが試合展開の基本になりました。
つまりかなり初期から、試合展開をロースコアでなくハイスコアゲームにするという方針が決まっていたのであろうと推測されます。
実際に現実のサッカーを見ていると、0-0スコアレスドローでも面白い試合というものはありますが、派手な点の取り合いを選んだのは、当時の判断として正しいと思います。
若林が守れば、どうしても味方の失点が少なくなり、それと同時に翼の得点も少なくなるわけですから。
だから、森崎をキーパーにしておいて、次々と出てくるライバルが多彩な技でゴールを決める。森崎くん一歩も動けない。インディアン嘘つかない。
そして翼がそれ以上の数のゴールを決めて勝つ、という派手な試合をつくることができたわけですね。
Jリーグもなく世界のサッカーも身近でなかった当時としては、やはり少年ジャンプ連載マンガとして正しい選択だと思います。
若林はいわば派手なゲーム展開に邪魔であるがゆえに極端に温存されたわけですが、そのことが彼自身のキャラクターの格を保つことにもつながりました。
いずれの決勝戦も、両チームとも名キーパーを置いた(キャプ翼的には)ロースコアゲームになりましたが、若林の格を下げていないのがここで効いており、両チームともに「いかにして難攻不落なキーパーからゴールを奪うか」というテーマの良い試合になっています。
『キャプテン翼』についてはまだまだ色々書くことがあるのですが、無印以後、わー、という展開になっていくので、ひとまず今宵はここまでに致しとうございます。
『機動戦士ガンダム』(ファースト)における絶妙なパワーバランス
『キャプテン翼』の話が予想以上に膨らんだので、これで終わってもいいんですが、本ブログのメインコンテンツは「富野アニメ」なので、それを期待したお客様向けのお話もしておきましょう。
本当はいつかしっかりと独立した記事でやるつもりでしたが、短めのテスト版のつもりで。
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『機動戦士ガンダム』いわゆるファーストガンダムもまた、全編を通してのパワーバランスの取り方が見事な作品です。
この作品での物差し(基準)キャラクターはご存知、「シャア大佐 ご覧のとおり 変態だ」の句で有名なジオン軍のエース赤い彗星のシャア。
ただロボットアニメですので、キャラクターだけではなく、搭乗するモビルスーツと合わせた状態(ユニット)でバランスを見ていくことになります。
物語初期 最強パイロットvs最強モビルスーツ
最初は皆さんご存知、【シャア+ザク】 vs 【アムロ+ガンダム】 の構図で始まります。
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これは、最強パイロット(シャア)とザクの組み合わせに対して、素人パイロット(アムロ)+最強モビルスーツ(ガンダム)でバランスを取った形です。
連邦のモビルスーツは化物か、でおなじみのRX-78 ガンダムは、戦艦並のビームライフルを持った最強のモビルスーツです。
ザクなど直撃すればひとたまりもありませんが、当たらなければどうということはない。蝶のように舞い、蜂のように刺す、ルンバを踊れルンバを、ということで、赤い彗星シャアにその攻撃は当たりません(部下のザクには当たります)。
一方、シャアザクからの蜂のような攻撃も受けても、ガンダムは平気です。
ガンダムは、ちょっとやそっとで傷つかないスーパーロボットですから。
敵味方通じてずば抜けたシャアの手練ぶりと、そのシャアでも直撃すれば終わりの攻撃力と、シャアでも落としきれない防御力を持つガンダムの化物ぶりが共に強調される構図になっています。
この「アムロの攻撃はシャアに当たらない。シャアの攻撃は当たっても致命傷にならない」
という初期状態を良く覚えておいて下さい。
この時点でただの素人であるアムロが死なずに済んでいるのは、完全にガンダムの機体性能のおかげですが、ここから徐々にアムロ自身がパイロットとして成長していきます。
物語前半 シャアお休み期間のアムロの成長
アムロが徐々にガンダムに慣れていく中で、シャアは左遷され、ガンダムの前から姿を消してしまいます。
変わって登場してくるのが、ランバ・ラルや黒い三連星など新たな敵。
アムロの成長で、 【アムロ+ガンダム】 のユニットは総合力を増していきますが、ジオン軍が次々と新型のモビルスーツを導入することで、戦闘バランスが調整されています。
【ランバ・ラル+グフ】のユニット。ザクとは違う新型。
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【黒い三連星+ドム】のユニット。新型に加え、レツゴー三匹のコンビネーション。
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いずれも手練のパイロットに加え、新型のモビルスーツに、アムロは苦戦を余儀なくされます。
つまり「アムロのパイロットとしての成長」に対しての「より強力な新型モビルスーツ」。
この2つが大きく変化するメインのパラメータ。
ただランバ・ラルが言うように、彼と戦った時点ではまだガンダムの機体性能で勝っていた部分も大きかったのでしょう。
実際、ガンダムの機体の方にも、化物的なスペックの他に、成長型コンピュータだのサポートメカだのありますが、成長も運用もアムロによるものですし、不自然なほどの急成長を遂げる主人公ですから、大きな変動はアムロ自身によるもの、と言っていいでしょう。
次々現れる新型モビルスーツに苦戦しながら対応していく(対応できてしまう)アムロ。
これにより、いつも画面にはハラハラ・ドキドキの熱戦が繰り広げられたわけです。
シャアの左遷とその復活は、物語全体のパワーバランス調整として意図されたものではありませんが、結果的にこれはシャアにとっては幸いしたと思われます。
アムロの快進撃に対して必然的に求められる負け役、つまりガイアの言う所の踏み台の役割を他に任せることができた為です。
もしもお休みなしの出ずっぱりであれば、出撃しては不利になって撤退するという、『Zガンダム』におけるジェリドのようなキャラクターにも成りかねません。
自分に得がないならいっそ戦わない(出演しない)方が良い。
これはつまりSGGK若林君と同じキャラクター格の維持テクニック。
ここで出演がなかったことは、シャアにとって幸運であったといえるでしょう。
物語中盤 復活のシャアと互角の戦い
シャアはジャブロー攻防戦にて、再びアムロの前に姿を現します。
アムロもかなり成長をしています。当然、シャアザクではバランスが取れません。
ジャブロー基地潜入の為もあって、シャア専用ズゴックに乗っての登場です。
シルエット的にスマートとはいえないデザインの水陸両用モビルスーツですが、早速すばやい動きからのジムへの一撃で、他と違うことを見せつけます。アムロは確信します。シャアが、赤い彗星が帰ってきたと。
このシーンは、パイロットであるシャアと共に、ズゴックというモビルスーツが最高に格好良いものとして高められた瞬間です(特にTV版)。
このジャブローでの 【アムロ+ガンダム】 vs 【シャア+ズゴック】 あたりの戦いが、ユニットとして、シャアとアムロの強さの均衡が取れている時期ではないかと、個人的には思います。
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最終的に損傷を受けてシャアのズゴックは撤退しますが、戦闘の内容自体は一進一退、双方お見事といえるものになっているのではないでしょうか。
問題は、シャアとアムロがこの時点で互角だとしても、物語はまだまだ中盤であることです。
中盤にして、すでにアムロはシャアに追いついてしまいました。さらにここからバランスはアムロ側に傾いていきます。
物語後半 ニュータイプを止められるのはニュータイプ
再度、宇宙に上がって後半戦へ。
アムロはさらに熟練し、ニュータイプへの覚醒が進みます。
【アムロ+ガンダム】 vs 【シャア+ゲルググ】 あたりになってくると、シャアは乗機のレベルをゲルググにまで上げていますが、それでもアムロの方が優勢をとってしまう、という状態に突入してしまいます。
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あの赤い彗星が新型機ゲルググに乗ってすら、ガンダムを止められない。
いや、ガンダムの機体は基本的には変わっていないわけですから、止められないのはアムロなのです。
ただこれは恐らく構成どおりの展開で、要するに目覚めたニュータイプを止めるには、同じくニュータイプが必要だ、という展開に移行していきます。
この段階でのシャアは、シャリア・ブル、ララァなどニュータイプと比較される対象となっています。
赤い彗星として、この物語の基準であり物差しであったシャア・アズナブルの前に、「ニュータイプ」というこれまでになかった存在が登場し、これまでとは全く違う、新しい価値基準が提示されていく。
ニュータイプに勝てるのはニュータイプだけ。縮退炉に勝てるのも縮退炉だけ。
そこには赤い彗星のこれまでの輝かしい経歴も無意味なのです。
ほんの少し前まで軍と縁のなかったララァに「大佐、どいてください、邪魔です」と言われる展開など、誰が想像したでしょう。
一方、そのニュータイプであるアムロはさらに成長を続けます。
ついには彼の成長にガンダムの機体性能がついていけなくなり、マグネットコーティングを施して、ようやくアムロに適応できるようになります。物語前半と違い、完全にアムロがガンダムを従える形になっており、主従が逆転しています。
戦いの構図は、 【アムロ+ガンダム】 vs 【ララァ+エルメス】 に変わり、ここでシャアが割って入ったことで、宇宙世紀最大の悲劇が生まれます。
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序盤を見ていた頃には想像すらしていなかった。
アムロとララァの戦いの蚊帳の外に置かれ、小さな嫉妬から介入するも、ララァが生命を賭してかばわなければ簡単に死んでいた存在。
物語のはじめに強さの基準にもなったキャラクターが、まさかそんな存在になるなんて。
でも強さの基準だったからこそ、シャアをこの状態に落とす必要はあったといえましょう。
それは最終決戦において明らかになります。
物語最終局面 一撃死ビームが当たらない
そして迎えた最終局面。
シャアは未完成で未テストながらも強力なモビルスーツ、ジオングを手に入れます。
これにて戦いは最終構図、 【アムロ+ガンダム】 vs 【シャア+ジオング】 となります。
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シャアは乗機をさらにグレードアップさせ、オールレンジ攻撃とガンダムと言えど直撃させれば一撃で葬れるほど強力なビームを手に入れました。
物語初期においてシャアザクでどれだけ直撃させても、ガンダムを落としきれなかったことを考えれば、ジオン(シャア)側のパラメータ変動値である「モビルスーツ性能と攻撃力」がいかに増大したのか分かりますね。
と・こ・ろ・が。
シャアが直撃でガンダム倒せるビームを手に入れた時には、アムロにはその攻撃自体が全く当たらなくなっているのでした。
ガンダム側の変動パラメータである「アムロのパイロット能力」は、ニュータイプとしての覚醒も加えて、こちらもとんでもないことになっており、オールレンジ攻撃だろうが、強力なビームだろうが、滅多なことでは当たりません。
つまり、攻撃力のインフレに対して、回避力の上昇でバランスが調整されていることで、最後までどうなるか分からない戦闘バランスが維持されています。
そしてガンダムvsジオングの戦闘結果は、皆さんご存知のとおり。
ジオングが強力なビームで、ガンダムの頭部、片腕の破壊には成功したものの、撃墜には至らず。
ガンダムはオールレンジ攻撃をくぐり抜け、ジオングを撃墜しています。
ジオングヘッドでかろうじて脱出したものの、無人オートのガンダムにラストシューティングを食らうので、ジオングはパイロット・アムロとモビルスーツ・ガンダム、それぞれに1度ずつ合計2度撃破されたと言ってもいいかも知れません。
余談 第42話ラストのナレーションについて
さて、ここから意図的に少し脱線しますが、この最終決戦に関しては、第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」ラストで、シャアの心情を説明するナレーションが入るのが印象的です。
ナレーション(永井一郎さん)「シャアは激しい焦りを感じ始めていた。ニュータイプ用に開発されたこのジオングのパワーを最大限に発揮できぬ自分に。あのガンダムのパイロットは今確実に自分を追い込んでいる」
最終決戦の主人公とライバルとの戦闘中に、ライバル側が押されて激しい焦りを感じている、とナレーション說明するなど、普通のアニメであればありえません。
しかも次回である最終回を見て分かるとおり、ここからシャアが逆転するわけではなく、ナレーション通りにジオングを最大限生かせないシャアは、アムロに追い込まれて、そのまま撃墜されています。
つまりシャアは、ロボットバトルにおけるラスボスでありながら、「弱者」として、ナレーションで心情を吐露されているわけです。なぜこのような事をするのか。
個人的に考えるに、これは要するにシャアが「人間」であるという說明(表明)であろうと思っています。
弱くて、焦ってしまって、どうしよう?このままだとやられちゃうよ!と考える、ごく普通の人間の心理です。これには、私たちも自然に共感できるはずです。
では「人間」シャアは、何と戦ってこんなに不安がっているのか。追い詰められているのか。
それはもちろん恐ろしく強い「ニュータイプ」アムロです。物語の主人公です。
しかし、ナレーションが心情を語り、心を寄せる対象は主人公アムロではなく、シャア・アズナブル。
この場面において、私たち視聴者も「人間」シャアをより身近な存在として感じ、「ニュータイプ」アムロとはそれより距離を感じているのではないでしょうか。
なぜなら、見ている私たちもシャアと同じ「人間」にすぎないのだから。
ガンダムに乗ってシャアを追い詰めていくアムロは完全に「ニュータイプ」であり、普通の人間の世界というよりニュータイプの世界、いわばララァの領域により近いところにいる。
この後アムロは、ガンダムという機体を失って、シャアにザビ家打倒の目的をスイッチし、ホワイトベースクルーの「脱出」をサポートし、己自身の「脱出」を探る中で、アムロは「人間」に近づいていく。ララァの所へ行くことをやめ、ホワイトベースの仲間達の元へ戻ることを決意する。
最終話のサブタイトル「脱出」は、アムロが人であらざる領域、ララァの住まうところから脱出し、「人間」の世界へ帰還する、という意味にも考えられるのかも知れない。
宇宙要塞ア・バオア・クーという胎内の中で、甘美なララァの母性に閉じ込められるよりも、辛いことが待っていようと外の世界へ飛び出した方がいい。幸せなことに自分を呼んでくれる仲間もいる。
それは胎内からの脱出であり、これまでの自分の死と再生であり、アムロにとっての新たなバースデー(誕生日)でもある。
この時、コアファイターの風防を鉄板で覆い、外の世界が見えない状態になっていたのも象徴的だ。
(ちなみに、シャアは『逆襲のシャア』においてサザビーの脱出コクピットでこれと同じ状態を体験する)
これを踏まえると、シャアの焦りを語るあのナレーションは、「人間」vs「ニュータイプ」の構図をはっきりさせ、かつ視聴者の心情をむしろシャアに寄せ、アムロとの距離を感じさせるような効果があったのではないか。
だからこそ次回最終話「脱出」で、アムロが(私たちと同じ)人間の世界に帰ってきてくれたことを、その選択をしてくれたことを、より感動的なものにするのではないだろうか。
なので、色々問題があったとしても、やはり劇場版よりTV版が私のベースであり、いちばん好きなのです。
まとめ 全編に渡るバランス調整と新しい価値観の提示
さて、意図的とはいえ思い切り脱線しましたので、話を戻しましょう。
『機動戦士ガンダム』全体の戦闘バランスを見てきたわけですが、アムロの成長曲線に合わせた、新型モビルスーツの登場によって、最後までゲームバランスが調節されていたのがお分かり頂けたのではないかと思います。
ポイントはどちらかが完全有利というわけではなく、常に緊張感とワクワク感のある戦闘バランスをキープすること。
『機動戦士ガンダム』の場合は、さらに「ニュータイプ」という概念によって、これまでの価値観を崩しており、つい先日まで戦いに縁のなかった少女が、赤い彗星を邪魔な足手まとい扱いするようなパラダイムシフトが発生しています。
その中でニュータイプとして強すぎる力を持つアムロは戦場では無敵でも、一個人としては先鋭、孤立化していく。
覚醒していくにつれ、従来のロボットアニメで発生するようなピンチをくぐり抜けてしまうアムロ。
例えばマ・クベとのテキサスコロニーでの攻防。
マ・クベは周到な罠を仕掛けて、ガンダムを攻撃し、また誘導しますが、消耗こそするものの致命的なダメージを負うことなく、マ・クベのギャンの前に立っています。(この時点でマ・クベの敗北確定)
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従来のロボットアニメであれば、マ・クベのやり方は十分知的でいやらしく、主人公のピンチとして成立するものでしょう。
実際、物語前半にはマ・クベの策によって、ホワイトベースは大ダメージを受けています。
ですが、テキサスコロニーの頃には『機動戦士ガンダム』の物語はすでに変わっていました。
マ・クベの作戦を、アムロはただただ小賢しいものとしてしか感じなかった。
これはある種の象徴的なものだと考えても良いと思います。
とはいえ、ニュータイプは神様ではありませんので、アムロにピンチが訪れていないわけではありません。
例えば、物語終盤におけるアムロ最大のピンチは、ララァに「なぜあなたはこうも戦えるの?あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」と言われた時でしょう。
アムロの存在と、そしてこれまでの戦いを根本から揺るがす攻撃です。
戦場で敵なしのアムロは、これに対して「だ、だから、どうだって言うんだ?」としか反論できませんでした……。
ここまで書いた『機動戦士ガンダム』の戦闘バランスについては、アムロの成長曲線や、ジオンモビルスーツのグレードアップ、パイロット+MS=ユニットの戦闘指数なんかをビジュアル化して、分かりやすくすれば、独立した記事として面白いものになると思っています。
(いつか、時が熟したら……人の革新を私は待つ)
ということで、ガンダムの話になると色々脱線するおかげで、何の話か分からないような感じになってしまいましたが、バトル(スポーツ)物におけるパワーバランスと、キャラクターが持つ「格」のコントロールのお話でした。
安易な方法として、高位とされるキャラクターをボコボコに負かせば、ぽっと出のキャラクターでも「強い」という表現には一応なります。しかし単純にそれをやるのは下策中の下策であり、上手な創作者ほどそれをもっと巧みに、誰の「格」も落とさないような形で表現できます。
そういう方が私は好みですね。
このテーマは色々切り口が考えられますので、また機会があれば書いてみたいと思います。
また、すでに書いた過去の記事で、このテーマにつながるものもあります。
例えば『逆襲のシャア』における、νガンダムとサザビーの死闘について。誰もが名勝負と認める戦いですが、結果はアムロの圧勝です。シャアの格を出来るだけ落とさずにその結果にするためにはどういう工夫が必要でしょうか?
サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>
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もうひとつ。『キャプテン翼』のバトル構造が、1vs1を基本としたものであり、格闘(ケンカ)ものや、野球に構造が近い、という話をしましたが、その中で野球というスポーツが持つ物語上での機能を検討した記事。
スポーツが生み出す「筋書きのあるドラマ」<「野球」と「サッカー」、物語機能の比較メモ>
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あとは……くっ! ガッツが たりない。
私が一番好きなキャプ翼ゲーム技は、岬のムーンサルトパスカットです。
それではまたお会いしましょう。
「さあ、あとは年末恒例の『今年の記事まとめ』をしたら終わりだな」と思っていたけど、そもそも、まとめるほどの記事数がない。焼け石に水…あ、ウォーターですけど、ひとつ記事を書くことにしました。
先日、興味深いニュースを目にしたから、というのもあります。ご紹介しましょう。
「恐怖」をまったく感じない女性
■恐怖をまったく感じない女性、PTSD治療にヒントか
恐怖をまったく感じないという珍しい脳疾患にかかった女性に関する研究が、米科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に発表された。
論文の主著者、ジャスティン・ファインスタイン(Justin Feinstein)医師は、「人間が感じる恐怖の本質とは、生存本能。恐怖を感じることができなければ、自分の命に危険をもたらす物や状況、人物を避けることができない。彼女がこれまで生きているということ自体が驚きだ」と述べている。
<中略>
S・Mというイニシャルだけで報告されたこの女性は、脳の中で恐怖感を生み出していると考えられている扁桃体(へんとうたい)が破壊された「ウルバッハ・ビーテ病(Urbach-Wiethe disease)」という珍しい疾患の患者で、他の人ならば恐怖を感じる場面で「非常に強い好奇心」を感じるのだという。
<中略>
この女性の20代の息子は、自分の母親が怖がったところを見たことがないという。子どものころに兄弟で遊んでいたとき、大きなヘビが近づいてきたが「母は驚きもせずに、すたすたと近づいていって、道路脇の草むらに放り投げた。信じられなかったよ」
<中略>
女性は30歳のときに強盗に襲われたこともある。体をつかまれ、喉にナイフをつきつけられたが、女性がまったく動じない様子を見てとると、強盗のほうから手を放した。女性はその後、普通に歩いて帰ったという。
AFPBB News - 恐怖をまったく感じない女性、PTSD治療にヒントか
「ウルバッハ・ビーテ病」という珍しい疾患の患者であるこの女性は、恐怖を感じる場面で「非常に強い好奇心」を感じる――つまり「恐怖を感じない人間」であるようです。
幼児と違って、危険かどうかという知識はあるのでしょうか?知識としてはあったとしても、好奇心が勝つので平気で近づく、という感じなんでしょうか?
とても興味深い記事ですが、医師が語るように、恐怖は生存本能と直結しています。恐怖は無事生きるために必要なツールです。
「恐怖を感じない」というのは、一見カッコよく聞こえますが、比較的安全で平和な現代でも、生きていくのは大変なことでしょうね。
それともうひとつ。
小さい頃は暗闇や犬が怖かったという記憶があることから、疾患は生まれつきではないと考えられる。医師らは、この女性が「犯罪を犯したことはないが、逆に、強盗や銃暴力やドメスティック・バイオレンスといったさまざまな犯罪の被害者となってきた」とみている。
という記述の、先天性の疾患ではない、ということが示すこと。つまり、生存本能である恐怖を失うことが、彼女の生存に必要だったのかもしれない、と考えるとやりきれないものもあります。
ですが私はこの記事を読んだとき、不謹慎かも知れませんが、いくつかのことを連想して「面白い」と思いました。
「面白い」というのはもちろん、S・Mというイニシャルの女性の人生についてではなく、そこから連想したフィクションの世界での「恐怖」についてです。
ですからこの「面白い」は、非実在世界の非実在キャラクターを使った実在物語の中に持ち込んで、話を広げることにしましょう。
そこが私のフィールドですから。
「恐怖」に震えるヤムチャと、わくわくする悟空
昔、いわゆる『ドラゴンボール』の戦闘力的な強さでなくて、「恐怖を感じないキャラ」を、危なかっしい感じの「強キャラ」として設定できないかな、と、いろいろ考えていたことがありました。
命に執着が無くて死線を越えるのにためらいが無い、というキャラクター造形ではなくて、恐怖によって生じるマイナスを排除して勝利や成功の確率を上げるタイプ。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉がありますが、「身を捨てた方が浮かぶ確率が高ければ捨てるし、捨てない方が高ければ絶望的でも捨てずに戦う」というのを、恐怖フィルター無しで判断できるという感じか。
しかし、「恐怖」を「非常に強い好奇心」に変換する、というのは、考えもつかなかった。
意味が伝わりやすいので、『ドラゴンボール』で例えてみましょうか。例えば、強大な敵を前にしたとき。
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ヤムチャが恐怖に震える隣で、悟空が「オラ、わくわくしてきたぞ!」と好奇心をあらわにするのは、戦闘力の大小の問題ではなくて、戦闘民族サイヤ人の恐怖に対するシステムが地球人とは違うから、とか考えると面白いかも知れません。
ご存知のとおり、サイヤ人は死の淵から回復することで戦闘力がはね上がる。
そのためには積極的な危機的状況に自分を追い込んだ方がよく、好戦的なサイヤ人の性格はこの身体システムとセットになっている。
つまり、恐怖(生存本能)を押さえて、危機的状況に飛び込んでいかないと、成長機会(死の淵)には辿りつけないわけです。
恐怖を感じないわけではない。恐怖は存在するが、恐怖を脳内で無理やり「強い好奇心」に変換することで、強敵に「わくわく」して向かっていく。
結果命を落とす者も多いだろうが、生き残れば、悟空のように強いサイヤ人が生まれる。
戦闘民族サイヤ人的にはそれで正しい。
一方、地球人は戦闘民族ではないので、そんな便利なシステムは持っていない。
恐怖を感じて、自己を守るために逃げ出すのが生存本能として圧倒的に正しい。ヤムチャ様は悪くない。人間として正しい。
まあ、これはあくまで説明のための例えで、『ドラゴンボール』の公式設定とはなんにも関係ないのですが、悟空の「わくわく」や病的なまでの「強いやつと戦いたい」を、悟空の性質だけでなく、医学的、生物学的背景がある、と考えるとちょっと面白いかも知れないですね。
『マトリックス』での東洋的な恐怖克服の修行
「恐怖」というものは、目の前の物理的な何かではなく、脳内に生成されるものなので、精神的なものを重んじる、東洋的な修行シチュエーションなどでよく題材になります。
『マトリックス』の序盤に、主人公ネオが、電脳世界の街の中でビルの屋上から、ビルとビルの間を飛び越える修行のシーンがありましたね。
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電脳世界なので、肉体が実際に飛ぶわけではない。飛べるか飛べないかは、肉体ではなく、純粋に精神の問題です。自分は飛べると信じられるなら飛べる。
しかし、ネオは「落ちたら死ぬ」という既成概念的な恐怖から、飛び越えることができない。
劇場でこのシーンを見たときに私が思い浮かべたのは、もちろん『鉄拳チンミ』。
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ネオと全く同じ修行をチンミは体験しています。まず、小川をジャンプ。身軽なチンミは朝飯前で飛び越えます。
では、と、小川と同じ幅の断崖絶壁に連れていかれるチンミ。チンミのジャンプ力なら飛び越えられることは証明済みですが、「落ちたら死ぬ」の恐怖で飛び越えることができません。
ネオもチンミも、能力的には飛ぶことができるのですが、恐怖によって自分で自分に限界をつくってしまい、クリアできないわけです。
このタイプの試練は、『ジョジョの奇妙な冒険』に言わせれば、
ツェペリ:「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
ということで、「勇気」の名のもとに「恐怖」をコントロールすることで、克服することができる流れです。
そして、東洋的には精神によってコントロールができるようになれば、肉体強化をせずとも十分に限界は突破できるのです。
自分にできることと、できないことをきちんと見極め、できることは、いつでも100%の実力が発揮できるように精神で肉体をコントロールできる、というのが理想的な状態になるでしょうか。
できないことの見極めがつかずに飛び込むのは勇気ではない、と、ツェペリさんも言ってますしね。
それにしても『マトリックス』のように肉体が介在しない電脳空間では、肉体は完全に精神の支配下にあるわけですから、極めて精神の影響が大きく、非常に東洋的な空間と言えます。
『マトリックス』でのカンフーは、アクションとしてのスタイル(見かけのカッコよさ)だけでなく、電脳空間との組み合わせ相性も大変すばらしかったわけです。
最近ですと、夢世界を扱った『インセプション』なんかも大変参考になる楽しさがありますので、未見の方はぜひご覧ください。
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「主人公」という病
恐怖に対して、どう向き合い、対処するのか、というのは物語の主人公に求められる資質のひとつで、それは極端にいえば「バカ」じゃないと主人公はつとまらない、ということになります。
ここでの「バカ」とは、もちろん知能指数のことではなく、「バカなこと」ができる人間のことです。
戦略とか確率とかリスクとか身の安全とかあらゆる理屈を超越して、分の悪い賭けに自らの身を投げ出す行動がとれるのはバカしかいません。
しかし、これこそが少年マンガ的な主人公の行動といえます。
『ファイブスター物語』内で、ダイアモンド・ニュートラルという人物が出した、MH(ロボット)テストパイロットの条件をちょっと思い出しますね。
「危険を危険と分かって突っ込む」のではなく、「危険に全然気づかないで突っ込む」(でも切り抜けることができる)タイプ。
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逆に、身の危険に対して敏感なキャラクターは、物語を発生させて駆動させることができないということです。
そういう人間は、そもそも「バカなまね」をしないと解決できないような状況自体を生まないように行動をとります。 現実に私たちも、ヤムチャ的にリスクを回避して生きています。なぜならそれが「賢くて正しい」とされているからです。
ただ、その状況で「わくわくして戦うことを選ぶ」人がいないと、「わくわくするバトル」自体も、その先の奇跡の勝利も発生しないんですよね。
このあたりは、すごく昔ですが、『ジョジョの奇妙な冒険』第三部主人公承太郎と、第四部主人公仗助の違い、ということで記事にしたことがあります。
今見ると、メモ程度でしかない不足感ありありの記事ですが、良ければご参照ください。
これらと記事のきっかけとなった疾患を踏まえて、「主人公の素養というのが医学的に定義されて人体のシステムとして存在してる」という物語にすると面白いかも知れないな。
ちょっと、ツンデレを医学上で定義した『百舌谷さん逆上する』みたいだけど。もしくは『サトラレ』か。
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「主人公」の定義を、「主人公病」のような医学的な病名のある「病人」として設定する。「主人公=病人」。
その病気にも重い軽いがあって、重度患者は世界の問題(恐怖)に対して否応なく首を突っ込まざるを得ない。それは「正義感」や「勇気」ではなく、「症状」のあらわれとしてそうなる。
世界でも救わないと、身体が満足しないから。
「主人公病」の発症者は何人もいて、誰が物語の「主人公」なのかはよく分からない。争いあって、主導権を取りあったりしてもいいのかも知れない。
いわゆる、常識レベルでのリスク計算が全くできない障害?それは欠落なのか、それとも私たち(健常者)が欠落しているのか。
「主人公病」ではなく、(リスク計算用の)「天秤が壊れている病」みたいなニュアンスの名前にするといいかも知れないね。(特に着地点もなく、メモで終わります)
ということで、現実での恐怖から連想して、フィクションにおける恐怖についていくつか書いてみました。
なぜ、こんな記事を書いているのかといえば、それはもちろん、何もしてないのに、あと数日で2010年が終わるという現実での恐怖から逃れるためです。
フィクションの恐怖について考えているときだけ、人はそこから逃れることができるのです。
この記事を読んでいるあなただけは、恐怖に対して、大いなる好奇心をもって向かい合うことができますように。(そして私の記事にも、恐怖でなく好奇心を抱いてくださいますように)
日本における二大メジャースポーツともいえる「野球」と「サッカー」ですが、私自身は「サッカー」好きで、「野球」は特に好きと言えるほどでもありません。
それでも「野球」というスポーツを見るたびに、「物語」に愛されるために生まれたようなスポーツだな、といつも感じてしまいます。
「物語」といっても「スポーツは筋書きのないドラマだ!劇空間プロ野球!」という意味ではありません。
筋書きのちゃんとあるドラマ、言葉どおり、おはなしとしての「物語」の意味です。
つまり「野球」は、「物語」との相性がよく、物語生成力の高いスポーツだと私は思っているわけですね。
それって、どういうことでしょう?
ということは、「物語」と相性が悪かったり、扱いづらいスポーツもある?「物語」と「スポーツ」の関係は?
そして「野球」が物語に愛される理由とはいったい何でしょう?
スポーツが持つ「物語生成力」を探ってみよう
実際、野球はマンガ、アニメ、小説、映画・ドラマなど、数多くの物語の題材として愛されてきました。
それは野球が人気スポーツであることはもちろん大前提としてありますが、「野球」が極めて物語向きのゲームシステムと強力な物語生成力を持つスポーツだからだと考えています。
今回は「野球」をメインに、比較対象として「サッカー」を例に出しながら、野球がいかに物語向きのゲームシステムを持っているか、その機能性を考えるメモです。
※ご注意と前書き
ちなみに考えるのは「野球がスポーツとしていかに面白いか」とか「野球とサッカー、どちらが魅力的か?」ではありません。野球(サッカー)のシステムやセオリーが、物語の中でどう機能するのか(相性が良いのか)です。
ですから、これを読んでくださる皆さんも例えば……そうですね「野球」か「サッカー」どちらのマンガを描こうか悩んでいるマンガ家さんの気持ちにでもなってみてください。
個人的な好みやプレー体験の有無もあるでしょうが、それらとは別に、物語の創作者やメディアの表現者としての目線で、それぞれのスポーツの持つ「機能」を比較・検討してみると、より楽しんでいただけるかも知れません。
9人の戦鬼と人の言う、野球チームとキャラクター
ではメモのはじまり。
野球は9人1チームでプレイするチームスポーツ。
野球のルールやゲームシステムは、9人のキャラクターにどう影響を与えているのでしょうか。
■9つの異なるポジション
野球には全員役割の異なる9のポジション(守備位置)がある。
進塁方向が決まっているので、一塁と三塁、ライトとレフトは右側、左側の違いだけではなく役割そのものが違う。
サードは左利きでは出来ないし、強肩のイチローはレフトでなくライトにいる。
つまり、9つのポジションは全て別のポジションで固有性を持つ。しかも、その概念は野球全体で共通のものとして使える。どのチームにも存在する、9つの異なるキャラクター。
サッカーでも左右のポジションがあるが、ルールでポジションが決められていないので、例えばサイドの選手は極端な話いなくてもよい。選手の配置と役割は、あくまでチーム単位のルールで、しかもあくまで基本配置。ゲーム内でかなり流動的に動き回る。
ということは、野球と違って、「サッカーもの」では絶対に各チームの戦術(フォーメーション)の紹介が必要になることになるね。
でも野球は全チーム守備位置は同じの上、テクニカルな二塁手、遊撃手、足の速いセンターなど、守備位置でのキャラクターがスポーツ上の必然である程度決まっているので、キャラクターが扱いやすい。
■9つの打順
野球では1番から9番まで、攻撃が1人ずつで順番が決まっているので、そこでもセオリーから個性がつくられる。
俊足好打の1番(例えばイチロー)とか、送りバントが出来る器用な2番。得点圏のランナーを返せる強打者の4番など、打順自体にキャラクターがある。
野球1チームのメンバーが9人。これは物語のメンバーとしては多いが、9人に「守備位置」と「打順」の2つのタグをまず付けられるので、そこで2つのキャラクター性を付与できるのは、覚えやすさ、キャラ立てしやすさのメリットと言っていいと思う。
極端にいえば、9つのポジションと9つ打順の組み合わせだけで、基本の1チームを作ることができるわけだ。
その上で、「打順」と「守備位置」をそれぞれランダム生成でもすると、セオリーをベースにした、セオリーはずしのチームも作れる。
例えばランダム生成をした結果、「1番」+「キャッチャー」と出た。
「1番」+「キャッチャー」=チーム一、足が速いキャッチャー?それとも賢くて分析力がすごいので、データを集める役としての1番?など。これだけでも適当にいろいろ考えられる。
サッカーだと、フォワードで背番号9とか、司令塔で10番とかが、これに近いが、ルールレベルの概念ではない上、時代、文化、国、チーム状況などの影響を受け、普遍的なものではない。しかも、チームメンバーは野球より2人多い11人。
だから、サッカーものだと、「現実の見立て」が多くなる。
よく見ないだろうか。こんな場面を。
「次の対戦相手は、堅守とカウンターのチームだ」
「次の対戦相手は、トータルフットボールを武器にしたチームだ」
チームレベルだと、オランダ、ドイツ、ミラン、バルサ、マンチェスター・ユナイテッドなど。個人レベルでは、マラドーナ、ベッケンバウアー、ベッカム、F・インザーギなどなど。「モデル」をあえて明らかにする場合も多い。
それは恐らく、野球のような「タグ付け」ができないサッカーものでは、チームタイプとメンバーの説明代わりに、現実のサッカーでの「見立て」をしてもらうのが最もてっとりばやいからだと思う。
私もサッカーものなら「見立て」を利用するのは、良し悪しは別として最も効率的な方法だと思う。
試合のコントロール
野球は、表裏9回のターン制スポーツ。
比較対象で出すサッカーは、前後半90分のリアルタイム進行タイプのスポーツです。
野球はこのターン制であることが、物語として便利な試合展開を可能にしているかも知れません。
■ピッチャーが持つ試合のコントロール権
野球はピッチャーがボールを投げることで全てが進行するスポーツです。
ですから実質、試合(ここでいう試合とは物語進行のこと)をコントロールするのは、ピッチャーということになります。ピッチャーにはそういう絶対性があります。
ピンボールは最初に球を打ち出さないと始まらない。その後に起こることは、全て打ち出しのリアクションとも言える。
ピッチャーも同じで、野球のプレーは、全てピッチャーの投球に対するリアクションといってもいい。
だから、「試合をコントロールするピッチャー」をコントロールすることで、物語をコントロールできる。
そういう意味で言えば、野球でピッチャー主人公が多いのはもうゲームシステム的に必然ともいえる。
仮にピッチャーを主人公に置かなくても「野球もの」の場合、プレーの開始点である投手を描写しないわけにはいかない。もっとも描写される対象を主人公にしてしまうのは、極めて自然な流れだろう。
例えば『ドカベン』は、ピッチャーが野球の主役であることを踏まえた上でのキャッチャー主人公マンガだ。
もっとも描写される役(ピッチャー)である里中を美少年にして、さらにアンダースローのマンガ映えする美しいフォームを与えた。
主人公山田太郎は顔の隠れるキャッチャーマスクをかぶって、どっしり座っているだけだが、彼こそが主役だ。
ピッチャー里中を精緻なコントロールと多彩な球種を持つ「キャッチャーに都合のいいピッチャー」にして、山田にリードさせることで、ピッチャーでなくてもピッチングに深く関与でき、主役がピッチャーでなくバツ&テリーいや、バッテリーになる。
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ちなみに『おおきく振りかぶって』もこのタイプと言っていいでしょう。欠点も多いが、キャッチャー次第で化けられるピッチャーですよね。キャッチャーを女房役と言いますが、女房がいないと、夫婦でないと成立しないピッチャー。
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■1vs1の個人戦
このピッチャーに対して、攻撃側は1人ずつ打席に立つので、結局、ピッチャーvsバッターの個人戦が続くことになります。
チームスポーツを前提としつつ、結局のところ、1vs1の一騎打ちを中心に描けるのは大変都合がいい。
だから極端な話、ピッチャーとスラッガーが1人ずついれば(描ければ)、野球ものはできるといってもいい。
あだち充先生が、1番センターを主人公にしたマンガ『ナイン』を描いた上で、ピッチャー主人公の『タッチ』に進んだ流れは、この辺りを考えると興味深い。
さらに『タッチ』あたりでは、ピッチャーとスラッガーの個人戦メインに試合が描かれる。他の部員はあまり顔も名前も必要とされないが、それでも充分成立する。
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■カットが割れる守備描写
TVの野球中継とか野球ゲームを想像してほしい。
まず投手vs打者の1vs1の画面。バッターが打つと、打球が飛んだ守備位置にカメラが切り替わり、主役は打球が飛んだ野手に移る。野手がボールをとって投げる。投げた先の野手のカットにうつり、ボールをキャッチ。タッチ、アウト。
この「カットが割れる」感覚が非常に便利だな、と思います。
ポイントになる過程を順に見せてくれて非常に分かりやすいし、この一連の流れはカット割った場合の方が体感として気持ちいいんじゃないだろうか。
もちろんマンガ『風光る』なんかを読むと、ピッチャーと守備の連動とかチームスポーツっぽいところも分かるし、同時多発的にいくつかのポイントで動きが発生するのも面白いんだけど、サッカーだと常に22人が動きっぱなしなので、それを考えると、「便利」と捉えた方がいいような気がする。
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サッカーは全員の動きが大事なので、ボールや特定の個人だけを描けばいいというわけでもない。
(全員が個々に動いて、フォーメーション(陣形)もあるので、むしろ戦争ものと捉えた方がいい。)
だから、サッカーとしては自然な動きでも、思いがけない動き=サプライズ的に処理する(せざるを得ない)パターンが多いような気がします。
例えば、サイドにボールが流れて誰もいない→サイドバックがここまで上がっていたー、とかね。
恐らく、実際にこの場面をスタジアムで観戦していると、サイドバックが上がっていくのは見えているはずだ。
フィールド全体見てるとそれはサプライズでも何でもないけど、カットを割ると結果的にサプライズという形になってしまう。
もちろん、これは描くもの描かないものを上手くコントロールすることで、利点にもなる。
■ピンチとチャンス
ノンストップで動き回るスポーツは、試合の流れのようなものが大事だが、得点がからまないと表現するのがなかなか難しい。
TVでサッカーを観ていると、脇から「0-0だけど、今どっちが勝ってるの?」「どっちが押してるの?」とか聞かれて困ることがある。これは、スコアに差が表れていない場合、観てない人は聞くしか無いぐらい状況が分かりづらいということ。
実際、試合をしばらく見ていないと、ゲームの流れはつかめない。
野球はこの点が非常に分かりやすい。
例えばTVで野球中継にチャンネルを変えた瞬間のことを考えてみてほしい。
ノーアウトフルベース、迎えるバッターが4番だったりすると、すぐにピンチとチャンスが伝わる。
しかも、これらは画面に分かりやすく表示されるので、ピッチャーがアップで映っていても、数秒で状況が把握できるはずだ。
チャンスといわゆる試合の流れは別物だが、ゲームシステム的にピンチ・チャンスが誰にでも分かりやすいのは、利点といっても良いだろう。
さらに野球はピンチ・チャンスで、一度に4点入る満塁ホームランというギミックがあるため、2、3点のリードでも一気にひっくり返すことができる。主人公チームはこれを何度使っていくことか。
サッカーは低スコアのスポーツの上に1点ずつしか点が入らない。
0-2で負けていれば、1点ずつ3回点を取って逆転するほかなく、試合展開づくりに慎重にならざるを得ない。
しかし逆転満塁ホームランが無い代わりに、防戦一方と思った10秒後に点を取ることもできる。
つまり、カウンターがある。攻守が一瞬で切り替わる快感とその便利さは野球には無い武器と言えるでしょう。
■3アウト×9回=1試合
野球の攻撃は3アウトになると交代。これを敵のターンと味方のターンと、交互に9回繰り替えす。
この「3アウト×9回表裏」はいいシステムだ。攻守が分かりやすく交代して、点を取るのは攻撃時だけで、守備側で得点はできない。試合全体を9つのパートに分けて、表裏の役割がはっきりしているので、試合展開を構成しやすいと思う。
例えば打者一巡を描く前半1~3回、終盤の攻防を描く7回~9回と比べると、投手戦の場合、スキップされることも多い中盤4~6回。
野球マンガですと、ゼロが続くスコアボードに両投手の力投する姿をオーバーラップさせればそれで分かります。
サッカーでこれをやるのは難しい。前半後半しか無いスコアボードでは試合の進行と状況の説明を充分に行うことはできない。
■スコアボード
その9回の試合展開を伝えるものとしてのスコアボードがまた便利。
スポーツニュースでも野球の試合結果はスコアボードを中心にして、勝ち投手、セーブ、ホームランなど、一画面でだいたい伝わりますよね。
あだち充先生のすばらしい「スコアボード芸」(と私は呼んでる)も、野球のゲームシステムの賜物だと思う。
サッカーは前後半しかなく、何分に誰が点を取ったか分かるぐらいで、どんな90分だったのかはよく分からない。
■個人の活躍を描きやすい
野球は試合自体もスコアボードに分かりやすく残りますが、個人の活躍もデータとして残りやすい。
ヒット1本、盗塁1つ、ダブルプレー1つでも部分的な活躍を描くことが出来るし、それはスコア(打率など個人成績)に分かりやすく残る。得点に全く関係ない小活躍をさせやすいし、それを分かりやすく表現できる。
『キャプテン翼』でFW新田が全く得点できないように、点が基本的に入らないスポーツで得点できるのは「選ばれし者」だけ。実際のサッカーだと全てのポジションに、それ相応の活躍があるのだけど、表現するのは本当に難しい。
森崎以上の守備力を誇るゴールポスト、クロスバーに仕事をしてもらって「あと一歩」観を演出する手もありますが、「オフサイド」を使う手もありますね。
得点シーン→オフサイド判定→ノーゴールとすることで、入ったけど入ってない、幻のゴール展開をつくることができます。
そう、これは『BLEACH』、『NARUTO』で頻出する「幻術技」と同じ構造。
実際にシーンを描いた上でそれを「全く無かったもの」として、短く時を巻き戻す幻術技は、ショートループやリプレイのような効果もあって、週刊連載のような作品では非常に便利です。しかし多用すると、藍染がどれだけ刺されても何も感情が動かないということにもなりかねません(それが虚にしろ実にしろ)。
便利だという誘惑に打ち勝って、ここぞで使う強い意志が必要です。
「オフサイド」は、意志と相談し、用法・用量を正しく守って使いましょう。
■データのスポーツだから可能なエア試合
個人データがたくさん取れるのが野球。打率、HR、打点、盗塁数などデータ(スペック)で選手のすごさが伝えられるのは、戦闘力が非常に分かりやすくて良い。それを逆用してデータに残らないすごさも表現しやすい。
ちなみに私は子供の頃、紙の上に野球チームをつくって戦わせていました。
(この話をすると、十中八九引かれるんですけども!)
要するに紙の上でエア野球チームを作って、エア試合をしていたわけです。
ランダム性を作るためにサイコロも使っていたから、テーブルトークRPGに近い感じだったけれど、トーク相手がいない上、プレイ自体は相手チームに勝つためではなく、9回表裏ある試合の、どこを山場や逆転にするか、9回に4番に回すために打順計算したり、色んな試合展開のシミュレーションするのが面白かった。よい試合展開をつくるための試行錯誤をするのがね。
ところが同じことをサッカーでやろうと思うと難しい。
チームを用意して、フォーメーションを設定するまではしたとしても、同時に22人が動く試合展開を考えるのは難易度が高すぎる。
自由すぎるので、何か試合をすすめるドラマありきでないと、上手くコントロールできない。
だから、もしやるのであれば、試合単位で行うエア試合ではなく、リーグ戦を仮想するエアリーグの方が恐らく向いているんじゃないかな。
つまり、選手ではなく監督の視点ですよね。
試合中のコミュニケーション―監督と選手の会話
ではここで「監督」という要素も含めて、試合中のコミュニケーションを考えてみることにしましょう。
ドラマを作るうえで重要なのは、どのようなコミュニケーションを発生できるか、ですからね。
■選手同士のコミュニケーション
野球では、味方同士のコミュニケーションはあまり不便はありません。
攻撃時ではベンチにチームメイトのみんながいるので話し放題ですし、守備時もピンチにはタイムをかけて内野が集まって作戦会議もできる。
ただし、敵味方のコミュニケーションがなかなか難しい。
塁に出た攻撃側の選手と守備側の内野選手が話す、ということになるので、シチュエーションが限られてしまいます。
接触という意味で、最も近く、頻度が高いのは打者とキャッチャーの関係。ですから相手チームとはキャッチャーが最もお話をすることになるでしょう。
こうした野球の性質を考えると、水島新司が『ドカベン』の岩鬼(三塁手)を、常に大音声で叫び、球場の誰とでも(スタンドとも!)自由にコミュニケーションを取れるキャラクターにしているのは本当に偉大だと思います。
この点で言うと、サッカーは選手のポジショニングが自由なので、試合中に選手同士、誰と誰がコミュニケーションを取っても問題はありません。ボディコンタクトがあること、コミュニケーションが比較的自由なのはサッカータイプのスポーツの利点でしょう。
■監督と選手のコミュニケーション
野球での監督がすばらしいな、と思うのは、選手同様、攻撃時にベンチで自由に監督と話ができることです。
高校野球ものは特に、試合中に子供達が大人(監督)と自由にコミュニケーションが取れるということが、どれだけドラマの幅を広げてくれるのでしょうか。
『タッチ』後半の柏葉監督編が私は大好きなんだけど、あのままのやりとりはサッカーではゲームシステム上できない。
サッカーの監督は、試合を迎えるまでに仕事の大部分が終わります。ゲーム中では野球ほどには試合に関与は出来ず、ハーフタイムと選手交代がポイントになります。
ということは、サッカーで監督をメインに据える場合は、試合の関与(描写)というよりは、試合を迎えるまでのバッググラウンドが大事になるということです。
となると、その背景である「カルチャーとしてのサッカー」、「スタイルとしてのサッカー」を描写することになってきます。
春からアニメ化もされているマンガ『GIANT KILLING』(ジャイアントキリング)は、サッカーの青年監督を主人公にしています。サッカー監督が主人公だから、試合には出れないし、関与する力も弱い。
だから、サッカー文化とサッカースタイル、サッカーライフが、メインのテーマになっている。
サッカークラブ論、サポーター文化、代表や移籍などそれぞれのサッカーライフ、そしてタイトルどおりにジャイアントキリング(大物喰いの番狂わせ)を狙うスタイル。
試合に出れない監督が主人公だからこそ、テーマによってゲーム内での主人公を自由に変えることができるのも良いところ。フィールドに主人公が入ると、どうしてもあの感覚が出ないと思います。
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もうひとつ。同じく連載中のサッカーマンガ『LOST MAN』。
記憶喪失のサッカー選手が、さまざまな国のサッカークラブに移籍し、どんなポジションもこなせるユーティリティプレイヤー(便利屋)であることを生かして活躍するというマンガですが、こちらも、短い期間で移籍を繰り返すことで、さまざまな国、クラブでのサッカー文化を紹介していますね。
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サッカーは野球に比べると、ゲームシステム的に表現が難しいところも多いのですが、世界中を舞台にサッカー文化、サッカースタイルの話をすれば、いくらでもネタがあるのがいいところ、というのはサッカーファンの贔屓目かな。
「野球」と「サッカー」、「キャラクター」と「世界」
実は、この一連のメモの原型は、twitter上でつぶやいていたのですが、そのときに良いリアクションをいただきました。
xx_ko
「野球はキャラクター設定、サッカーは世界設定、なんてこと考えてみました。キャラクターで物語るのか世界を描くことで物語るのか、みたいな。」
http://twitter.com/xx_ko/status/8150502187
なるほど、と思いました。確かに方向性としてはそうかも知れません。
野球は究極的には1vs1に分解できる、1人(キャラクター)単位での表現に向いたスポーツ。
サッカーは11人によって、個々のプレイヤーとは違うもうひとつの「チーム」という概念(世界)をつくるスポーツなので、その「世界」と相手チームの「世界」の激突を描くスポーツ、といった具合にね。
まとめ。物語にシステムとルールを組み込むこと。
とりあえずメモは以上になります。
改めて整理してみると、野球はやはり物語との相性がいいというか、物語表現上すごく便利な点が多いスポーツだなと、という印象です。
国民的スポーツであることも合わせ、これまで多くの作品が生まれたこともうなずけます。
しかし野球に無くて、サッカー(タイプのスポーツ)にあるものもたくさんあります。
重要なのは「野球」と「サッカー」どちらが面白い、どちらが物語に向いているということではなく、それぞれのスポーツの機能を把握した上で物語に活かすこと。
他のスポーツもあわせて、「物語機能としてのスポーツ比較」をやると面白そうだなあ(『アイシールド21』のアメフトとかね)と無責任な未来予想図を描きつつ、ブレーキランプを点滅させておきしょう(ダ・レ・カ・ヤ・レ、のサイン)。
というわけで今回は、野球とサッカーを題材に、システムやルールが生み出す物語や物語上の機能を考えてみました。
このブログでは、『ガンダム』など、富野監督のロボットアニメの記事を書くことが多いのですが、ロボットアニメも基本的なシステムやルール(お約束)は決まっており、それらを「ロボットもの」の機能として、どう物語に組み込んで活用するか、というのが重要になります。
同じように「野球もの」という枠組みがあれば、そのスポーツが持つ機能を分析して、どう物語に組み込んで活用するか考えることが必要になる、というのはこの記事を読んでいただけたらご理解いただけたかと思います。
だから、富野アニメ(ロボットアニメ)を考えることと、今回のように野球やサッカーを考えることは、関連性が無いように見えるかも知れませんが、私にとってはそう大差なく、地続きになっています。
つまり私はこういう形で物語を考えるのが好きだ、というだけのことなんですけどね。