なぜハマーンはファンネルで決着をつけなかったのか <『機動戦士ガンダム』から『逆襲のシャア』までのサイコミュ兵器四方山話>
アニメ富野由悠季ガンダム物語ZガンダムガンダムZZ逆襲のシャアファンネルニュータイプハマーン・カーン
2022-10-11

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式サイト
私はプロローグを含め、まだ全く見ていない(録画はしている)が、主人公機にファンネルが搭載されているそうで。恐らくそれを契機に、Twitterでファンネルの話が色々出ており、それに刺激を受けて、自分でもツイートしたし、こうして記事に仕立てることにもしました。
前述のように水曜日の魔女たち(金妻みたいにいうな)こと『水星の魔女』は見ていないので、同作品でのファンネルについての話はできないのでしません。
私にできる話ということで、『機動戦士ガンダム』から『Zガンダム』『ガンダムZZ』、そして映画『逆襲のシャア』までの限定的な話に留めておきます。
さらにいえば「ファンネル」話の総論的なものは、あでのいさん(@adenoi_today)が、すでに記事をまとめておられます。ファンネルの基本と網羅的な理解はこちらで。
機動戦士ガンダム水星の魔女1話感想??〜主人公機1話からファンネルってどうなん?問題の話〜
↑この記事自体に、私がしたツイートの内容も一部盛り込まれてはいるのですが、同じ話をしても仕方ないので限定的がゆえの話に努めることにしましょう。
「ファンネル」「ビット」とは何か?
冒頭から説明なしに、さらっと出てきた「ファンネル」というワード。
これは、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業ではなく、『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する架空兵器の名前です。
「ファンネル(ビット)」は、モビルスーツ(ロボット)などに搭載されて、四方八方肘鉄砲の「オールレンジ攻撃」と呼ばれる攻撃をしかけます。
最大の特徴は、この兵器は脳波でコントロールされていることです。
ニュータイプと呼ばれる人たちが脳波で操るため、総じて「サイコミュ兵器」とも言われます。
『ガンダム』を見たことない方は、超能力バトルで無数の石を浮かせて、それをコントロールして、相手にぶつけるようなよくあるシーンを想像してもらえると近いでしょうか。
超能力バトルを見たこともないお嬢様方は、現実世界の「自爆型無人ドローン」でも想像してください。あれを脳波でコントロールして目標にぶつけるようなものです。
実際のところ、自爆型ドローンが現実に存在し、脳波コントロールも研究されていることも考えると、この2つが結びつけば近いものにはなる気はする(ファンネルミサイル方面だが)。
『ガンダム』という物語世界としては必然的にモビルスーツが先で、それに搭載するビットやファンネルなどサイコミュ兵器はあとで実用化されたが、本来のテクノロジーツリー(Civilization)でいけば、「モビルスーツ」と「サイコミュ兵器」は当然別系統で、現実での実現度が高いのは「サイコミュ兵器」(的なもの)になるだろう。
ただ現実で考えると、自律型(AI)でいいだろとはなっても、なぜ兵器のコントロールにわざわざ人の脳波を使わなければいけないのか?という話には当然なりますね。
その当然の疑問について、『機動戦士ガンダム』では前提として、電波障害(ミノフスキー粒子)という存在があります。
ガンダム宇宙は、ミノフスキー宇宙
「ミノフスキー粒子」とは、『機動戦士ガンダム』に出てくる架空の物質。
役割だけいうと、ガンダム世界(宇宙世紀)というフィクションを支える、言い訳用の架空物質でエクスキューズ粒子といってもいい。
SF的な荒唐無稽の言い訳をほとんどをこの粒子でまかなうので、説明しようとすると膨大かつ多岐に渡ります。よって今回の記事に関係するものだけに絞って、簡単に説明します。
「ミノフスキー粒子」とは?
「ミノフスキー粒子」は電波障害を引き起こすよ
▼
だから戦場に散布されると電波障害が起きて、無線やレーダーが使用不能になるよ。
誘導ミサイルなんかも使えないんだ。
▼
じゃあ機動兵器(ロボット)で近づいて、目視で斬り合うしかないね。
というもの。もちろん因果は逆で、ロボットアニメだから同一フレーム内でチャンバラして欲しい、が先。欲しい結果が先で、理由はそのためにあとで作られたもの。
ここで「ファンネル(ビット)」の話に戻ろう。
ニュータイプが脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、このミノフスキー粒子散布の戦場を大前提にして戦ってきた『機動戦士ガンダム』終盤で登場させた、びっくり兵器。
脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、電波障害を受けない。
誘導兵器が使えない戦場で登場した、ひとつだけ誘導ができる兵器。それがビット(ファンネル)です。誘導力が落ちない、ただひとつの掃除機。
※識者諸兄へ。サイコミュの設定自体にミノフスキー物理学が絡んできますが、本筋の理解に関係ないので省略します。
ただし、この兵器が使えるのは強い脳波をもつ、作中で「ニュータイプ」と呼ばれる特別な能力を持つ人達だけです。
ミノフスキー粒子散布下が前提の戦場において、ニュータイプ能力の軍利用という意味で大きな価値を持つのは「通信」でしょう。
ですからニュータイプ&サイコミュ兵器の組み合わせによって、電波障害の中、通信して誘導兵器をコントロールできる、というのが本来のビット(ファンネル)の第一の価値だと思います。
ニュータイプ・ララァと、モビルアーマー・エルメス
『機動戦士ガンダム』において、完全な無線でのサイコミュ兵器は、ニュータイプであるララァ・スン専用モビルアーマー・エルメスが持つ「ビット」だけです。
このララァ&エルメスが連邦軍に占領されたソロモン要塞でやっていたように、「本体は見えないのに、どこからか謎の攻撃を受けている」というのが、サイコミュ兵器の利用としては、最も理にかなっていると思います。
エルメスは指令を出す送信機の役割で、レシーバー(受信機)であるビットが攻撃を担います。
技術的に小型化が困難なせいもあって、エルメスを始めとしたサイコミュ搭載機はどれも大きく、いわゆるドッグファイト、近距離での格闘戦(作品として望まれたバトル)ができるような機体ではないし、そもそもそれを想定していません。
戦場に接近する必要はあるでしょうが、最大の役割はサイコミュの送信機。
攻撃兵器としてはビットが本体で、機体はおまけのようなものです。
ジオングに脚が必要かどうか、というのは本編内でもいじられたぐらいだが、サイコミュ送信機という観点から見れば、確かに脚は不要であって、あの技術士官の言っていることは正しい。
このあたり『機動戦士ガンダム』でのバトルの元ネタのひとつである、チャンバラや忍者物の文脈で言えば
・姿は見えないが、手裏剣や小石が自分めがけて飛んでくる
・術者は見えないが、催眠で操った人間たちをけしかけて攻撃してくる
といった敵役とのバトルになるでしょう。
今でもネットの世界では、自分で動かず他人をコントロール(扇動)して攻撃させることを指して「ファンネル」と言われることがありますが、まさしくそのような兵器です。
この種のバトル、基本的には操っている本体を探し出す駆け引きになることが多く、本体自体にそこまで戦闘力はない(あればこの手法を使う必要が無い)というのがパターン。
『機動戦士ガンダム』だと、マ・クベがまさしくそのようなタイプなのですが、ニュータイプ能力は無いので古典的な小細工のみで、むしろニュータイプという新しい存在に蹂躙される役割になっています。
第39話「早すぎる修正パッチ」
さて、これまでの話から分かる通り、エルメスやブラウ・ブロには必然的に護衛のモビルスーツが必要になることが分かりますね。
しかし、ここからが『機動戦士ガンダム』の本当に巧妙かつ周到なところ。
第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」において、初のサイコミュ搭載機であるブラウ・ブロは単騎で出撃して、ニュータイプとしてガンダムの性能をも上回りつつあるアムロに敗れます。
アムロが目を閉じ心眼殺法みたいなことするのが、いかにもチャンバラ、忍法文脈。
もちろん相手がアムロでなければ単騎でもやすやすと撃破されてはいないでしょう。
オールレンジ攻撃を避け、本体を察知し、そこまで近づけてしまうガンダムは、まさしく天敵といえる。あまりに相性が悪すぎる。
先ほどの忍者物の例えだと、目を閉じ心眼で「そこだ!」と隠れている本体に対して、手裏剣を投げて当てれるタイプ。
それにしても、なぜシャアは、ブラウ・ブロに護衛をつけなかったのでしょうか。
劇中のセリフを引用してみましょう。
ララァ「なぜ(シャリア・ブル)大尉だけおやりになるんです?」
シャア「律儀すぎるのだな。ブラウ・ブロのテストをしたいといってきかなかった」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「不服か?私はエルメスを完全にララァに合うように調整してもらわぬ限り、ララァは出撃はさせん」
シャリア・ブル、止めるの聞かず、発ったんだわ。
そして、ブラウ・ブロが撃破され、シャリア・ブルが敗死したあとのやりとり。
シャア「シャリア・ブルまで倒されたか」
ララァ「今すぐエルメスで出ればガンダムを倒せます」
シャア「あなどるな、ララァ。連邦がニュータイプを実戦に投入しているとなると、ガンダム以外にも」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「戦いは危険を冒してはならぬ。少なくともソロモンにいるガンダムは危険だ。それに、シャリア・ブルのことも考えてやるんだ。彼はギレン様とキシリア様の間で器用に立ち回れぬ自分を知っていた不幸な男だ。潔く死なせてやれただけでも彼にとって」
ララァ「大佐、大佐はそこまで」
シャア「ララァ、ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した人類の悲しい変種かもしれんのだ」
とまあ、本来ならしないであろう一騎打ちの理由を、パイロット側(シャリア)の個人的なところに落ち着けている。
さらにこの回には、ララァに関する以下のやりとりがある。
シャア「わかったのか?ララァが疲れすぎる原因が」
フラナガン「脳波を受信する電圧が多少逆流して、ララァを刺激するようです」
シャア「直せるか?」
フラナガン「今日のような長距離からのビットのコントロールが不可能になりますが?」
シャア「やむを得ん、というよりその方がよかろう。遠すぎるとかえって敵の確認がしづらい」
フラナガン「そう言っていただけると助かります。なにしろ、サイコミュが人の洞察力を増やすといっても……」
先にソロモン要塞での長距離ビット攻撃が、もっともサイコミュ兵器の有効な使い方である、と延べたが、それについて修正パッチを当ててきた。なぜなら、次の回は第40話「エルメスのララァ」。アムロのガンダムと、シャアゲルググ&エルメスが交戦する回。
見えない場所からのオールレンジ攻撃は、ブラウ・ブロ戦を見てもアムロには通用しないし、そもそもそれではミノフスキー粒子をまいてまで接近戦をやれる戦場を設定した意味がない。
アムロとシャリア・ブルとの間に、特に何もドラマが発生しなかったのは……直接的には話数短縮の影響大だろうが、逆に言えば、特にドラマ無しで終わらせるなら、あの戦いでいいわけです。
だがララァというキャラクターが背負うドラマは、それこそ話数短縮の影響もあって、より大きい。
ミノフスキー宇宙の戦場に対する、ただひとつの誘導兵器として登場させていながら、結局のところ、こうしてドラマの発生する近距離で戦闘するために外堀が、早々に埋められていく。
矛盾のように思えるかも知れないが、これで分かるのは、SFガジェット的な世界設定中の特異点兵器を描くことよりは、近距離に敵味方をおさめる分かりやすい絵面にしつつ、コクピット同士でしかない宇宙戦闘で何とかドラマを発生させることを優先している、という事実だ。
私は「ニュータイプは戦争(ロボットアニメ演出)のための道具でしかない」と度々、このブログでは書いている。
ニュータイプの使うサイコミュ兵器も、当然その例外ではない。
その最初期から、つまりブラウ・ブロ、エルメスの時から、SFガジェットとしての設定より、TVアニメとしての「劇」が描きやすい距離が優先されたことに注目してほしい。
SF的想像力は存在するが、SF的な描写は良くも悪くも最優先されない。
ベテランパイロットたちのサボタージュ
第40話「エルメスのララァ」では、さらに周到な外堀埋めが行われる。
シャアの部隊は、ホワイトベース隊の前に、連邦の戦艦マゼランやサラミスと接敵し、ララァは出撃する。シャアは護衛に2機のリックドムをつける。
シャア「ララァ、恐くはないか?」
ララァ「は、はい」
シャア「初めての実戦だ、リック・ドム2機のうしろについて援護をすればいい」
ララァ「はい」
しかし結果的に言えば、この護衛のドム2機は役割を果たさない(サボタージュする)。
ドムパイロット(バタシャム)のセリフは興味深いので引用してみましょう。
バタシャム「……エルメスのビットが?ま、まるでベテランパイロットじゃないか。あれが初めて戦いをする女のやることなのか?」
ララァ「よーし、もう1隻ぐらい、あっ!」
「あっ! ドムが援護を?」
「あっ! ドムがうしろに下がる」
「なぜあたしのうしろにつこうとするの?初めて戦いに出るあたしを前に出して」
「あたしがやるしかないの?」
「ああっ、援護がなければ集中しきれない」
シャアがゲルググで出撃し、ララァのあとを追う。

シャア「ん?どういうことだ?」
「バタシャムめ、貴様が前に出るのだろうが」
バタシャム「馬鹿言え、エルメスがいたら俺達が前に出ることはないだろ」
シャアのサポートもあり、ララァは無事に帰還する。
当然、ドムのパイロットたちは、シャアから呼び出しを受け、説明を求められる。
バタシャム「ひょっとしたらエルメスはシャア大佐のゲルググ以上でありましょう」
シャア「歴戦の勇士のお前達がそう言うとはな……」
バタシャム:「我々はニュータイプの能力というものを初めて見せられたのです。あれほどの力ならばララァ少尉はお一人でも戦闘小隊のひとつぐらいあっという間に沈められます。その事実を知った時、我々は馬鹿馬鹿しくなったのであります。ララァ少尉ほどのパイロットが現れたなら、我々凡俗などは……」
シャア「ララァに嫉妬しているのではないのか?」
バタシャム「心外であります。……いや、皆無とはいえませんが、なによりもニュータイプの実力に驚きました」
シャア「うん」
バタシャム「軍法会議も覚悟しております。が、エルメスの出る時、後衛にまわることだけは認めてください!」
シャア「できるか?少尉」
ララァ「中尉のおっしゃることはわかります」
シャア「そうしてくれ」
「中尉、いいな?」
バタシャム「は、大佐」
面白いよねこの会話。
ベテランパイロットがこう答えたのにはいくつか感情があったと思うが、大事なことは、彼らはここまで説明してきたようなサイコミュ兵器の本質を全く理解していない、ということ。
もちろん戦争末期にいきなり登場したびっくり兵器なので仕方ない部分もあるのだろうが、そもそもどういう運用がされるべき兵器なのか全く分かっていない。
シャアは理解してるはずなので、部下がここまで全く分かっていない責任は上官のシャアにある。
ただ物語として必要なのはシャアの責任どうこうではなく、ドムがエルメスの後衛に回ってもOKになったこと、そしてシャアがララァのサポートをするしかない、ということだ。
これで次回、第41話「光る宇宙」という城の外堀は完全に埋まった。
ここまで読んできた人であれば、せっかく姿を見せずに長距離誘導攻撃ができるはずのエルメスが、この回「シャアがくる」をバックに颯爽と片腕落とされたシャアゲルググを護衛に、アムロのガンダムと近距離戦をやらされることの恐ろしさが分かるだろう。
まさしく翼をもがれた状態いや、翼の折れたファンネル。
“もし私がニュータイプだったなら、ガンダムを近づけやしないのに……”
そんな大佐のつぶやきにさえ うなづけない 心がさみしいだけ
(これがやりたいだけだろ、とか言ってはいけない)
シャアはこの時点で最もニュータイプの実用性を信じ、サイコミュ兵器の意味も理解している男のひとりだが、最大の問題は、連邦に白いやつがいること。
ミノフスキー粒子が散布された戦場で、全兵器に対するアンチユニットになれるはずのエルメスに対する、ただ唯一のアンチユニット。それがアムロとガンダムの組み合わせ。
ドムパイロットの「ビット強すぎじゃん、お前一人で戦争やればいいだろ」に対する最悪の答え。
だからエルメスで近距離戦などもちろんするべきではないが、ビットの攻撃をさばきながら接近できてしまうのだから仕方がない。
シャアが護衛の役割を果たすべきだが、アムロの戦闘力はシャアをも上回り、むしろシャア守るためにビット使わされて「邪魔です」と言われる始末。
このあたりの来たるべきポイントへの周到な用意とパワーバランスの妙。
でもフラナガン機関とジオン開発者の目論見は全く間違ってないはず。
ミノフスキー粒子散布下での「通信」の保持とコントロールにこそ、ニュータイプ能力を使うというのは妥当のはず。
ただ実際は、ブラウ・ブロもエルメスもジオングも全部、アムロ(ガンダム)が叩き潰している。
研究と開発の責任者には心から同情する。
あと、ここまで外堀を丹念に埋められて、翼を折られたララァ・スンにも。
ゆるふわインド少女最強伝説
ニュータイプ能力に目覚めたものの存在と、サイコミュ兵器。
『機動戦士ガンダム』では諸事情もあって、ララァ・スンがその身に背負うことになる。
ララァはそもそも軍人ではないし、軍人として戦おうとも思っていない。
ただ出会い拾ってくれたシャアへの恩義と情愛で訓練を受け、戦場に出る。
結果として、エルメスは短時間に絶大な戦果を上げ、ベテランパイロットどころか、赤い彗星以上の存在となった。
ニュータイプ能力とサイコミュ搭載ニュータイプ専用機のおかげで、屈強なジオンのおっさん軍人より、ふわふわインド少女の方が戦場で活躍できるようになったわけで、『ガンダム』世界では最強パイロット表現に、性差と年齢は関係ないことになった。
「あたしは絶対にイングラムを否定しないんだ。あたしの筋肉だからね!」と言い切ったのは、『機動警察パトレイバー』の泉野明だが、たしかにロボットであれば女性でも戦うことができるだろう。本人の筋肉量と関係なく。いわんやサイコミュをや。
それは現在のフラットな視線から見れば「当たり前」としてしかるべきで、特に理由なくパイロットに男性も女性もいる、ということになるだろう。
実際に『機動戦士ガンダム』以降のシリーズでは、職業軍人として普通に数多くの女性パイロットが登場する。
ただその一方で、サイコミュ兵器を操るニュータイプのパイロットにはファースト以後も少女が多く、『Zガンダム』からは「強化人間」という人工ニュータイプにも少女が多く登場する。
正直に言えば、これはフラットということではなく、少女であることと、強い戦闘力(ニュータイプ能力)をもつことが、同時に求められたのだろうと思う。作品の中で、というより作品の外で。
ララァ・スンが結果としてアムロとシャアの間のファム・ファタール的な悲劇のヒロインになったとすれば、強化人間はそうなるように、まさしく人工的に作られた存在といえるだろう。
ニュータイプ能力が必要なファンネルやビットは、性差や年齢を超越した兵器ではあるけれど、それを操るニュータイプ(強化人間)に関しては、ドラマの道具立てとしてはどうしても性差や年齢は超越していないと思える。
もちろんこれはあくまで、本記事が取り扱う範囲である、何十年も前の少年主人公アニメでのお話。Twitterの反応やインタビュー記事などを読むと、今回の『水星の魔女』はいろいろと違っているようなので、楽しみにしておきたい。
ニュータイプ・ハマーンと、モビルスーツ・キュベレイ
『機動戦士ガンダム』から7年後の世界『機動戦士Zガンダム』での、ビット(ファンネル)搭載機は、キュベレイ。
いわずとしれた、ハマーン・カーンの乗機にして、アクシズ(ジオン)の象徴のような機体だ。
もともと「ファンネル」とは、キュベレイの装備する小型版ビットで、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業とは関係なく、形が漏斗(ろうと、じょうご)に似ているから、そう名付けられた。
しかしこれ以降、同タイプの兵器は形状関係なく「ファンネル」と呼ばれることになる。
元々は形状を示していたのに、その意味が抜け落ちて呼び名だけが残った、というのは例えるなら、あれだ。あれ。我々で言うところのあれ。まさにあれみたいなものだ(この部分、このまま公開時に残っていたら何も思いつかなかったと思ってください)。
今回の話の流れとして、このキュベレイの何がすごいかといえば、キュベレイ単体でちゃんと戦えて強い、ことでしょう。
小型化にも成功してモビルスーツサイズとなり、ビームサーベルもあり近接戦闘も出来る。
パイロットであるハマーンの能力も相まって、ファンネル攻撃はもちろん、本体のモビルスーツとしても普通以上に戦える。
いわばララァとアムロの良いとこ取りのファンネル搭載機で、ジオン系開発者のガンダムへのトラウマが見えるようで面白い。
エルメスのビットには、熱核反応炉が内蔵されており、稼働時間も長く、ビームの出力も高いが、その代わりサイズが大きい。
キュベレイのファンネルは、バッテリー式でビットに比べれば、稼働時間や出力は低いが、小型化に成功した。
バッテリーがなくなったら本体に戻し充電が可能なので、現在の目で見れば、ルンバ(ロボット掃除機)の充電のようなイメージだろうか。
ファーストの頃から近距離戦を余儀なくされたサイコミュ兵器だが、ファンネルではこの仕様の変化もあり、戦闘の形式自体も最初から違っている。
忍者物の例えで言うなら、もう本体は隠れていない。
本体は見せたまま、でも見えない角度から攻撃が飛んでくる敵、みたいな感じになる。
または、攻撃方向が多数方向すぎて、対処しきれないタイプの敵。
こうなると戦闘の駆け引きは本体探しではなくなるし、分かりやすい攻略法はない。普通に強い。
さらに重要なことは、キュベレイのパイロットがハマーン・カーンであることだ。
そもそも、ファンネル搭載機をモビルスーツサイズに出来たからといって、ファンネルとモビルスーツのコントロールを両方高いレベルですること自体が困難なのであって、その意味でまさしくハマーンはモビルスーツで15勝、ファンネルで34HR、大谷翔平クラスの二刀流ユニコーンといってもいいだろう。
それだけではない。
ララァが敵であるアムロと戦場で精神的に強くつながり、それをシャアに嫉妬された上に彼をかばって命を落としたことを思い出してもらいたい。
ハマーンはララァと違い、敵対するニュータイプと接触し、互いの心が深くつながってもそれを拒絶するニュータイプだ。
ハード(モビルスーツ)、ソフト(パイロット)の両面でスキはない。
※全然褒めてない。そんなハマーンに誰がした。なあノースリーブよ。
ちなみに『Zガンダム』では、ファンネル搭載機がキュベレイ一機しか登場しないが、その持ち主がハマーンであることは興味深い。
本体(キュベレイ)とファンネルは支配・被支配の関係にある。
ハマーンの人間関係の基本がそこにあり、彼女が使うモビルスーツがファンネル搭載機なのは象徴的だ。ハマーンの象徴。(これが言いたいだけだろ、とか言ってはいけない)
また別の視点として、ファンネルがエネルギー充填のために本体にお乳を吸いに戻ることを考えれば、キュベレイとファンネルはある種の親子関係とも言うことができよう。
ハマーンはキュベレイのファンネルで四肢をぶった切って、百式をダルマ状態にしてでも、シャア(クワトロ)に自分の元に戻るように迫る。

支配・被支配の関係、さらに私が昔から提唱している「ハマーン=アクシズのシングルマザー」文脈での逃げた元亭主の首根っこを掴む視点から見ても興味深い。
まあそれでもシャアは逃げるんですが。
なぜハマーンはファンネルで勝負をつけなかったのか
『機動戦士ガンダムZZ』最終回「戦士、再び……」での、主人公ジュドーとハマーンの一騎打ちは、最終的にビームサーベルの斬り合いでジュドーが勝利する。
決着後ジュドーが、なぜもっとファンネルを使わなかったのか、と尋ねると、ハマーンは「一騎討ちと言ったろ」と答える。
実際、この戦いの勝敗自体に特に意味はないので、彼女の精神的な決着の為だけにあるはず。
だから、ハマーンがファンネルを使わず、剣での決着を望んだ、ということになるだろう。
ファンネルは被支配の兵器であくまで主体からコントロールされたものでしかないので、精神的決着にハマーン(つまり主体)の気持ちが乗らなくてどうする、つまりキュベレイが握るサーベルに意思を乗せるしか無いだろう、ということだ。
他にも、もうキュベレイのファンネル戦闘で面白い絵面も無さそうだし、ハマーンの自殺願望とか、あのオカルト空間でどうせファンネルなんかどうせ効果ないし、とか色々言えてはしまうのかも知れないが。
結局のところ、サイコミュ兵器やファンネルとしての利点を、SFガジェットや軍事的な思考で突き詰めるよりは、TVアニメーションとして同一フレーム内で接触すること(それはキャラクターの意思を直接表現すること)がここでも優先されているといえる。
ただその上で、ハマーン・カーンというキャラクターに寄り添った解釈をしてあげるなら、前作『Zガンダム』の時に、ファンネルで百式をダルマにしてもシャアに拒まれたという経験がすでに存在している、というのがひとつ。
ファンネルでモビルスーツ戦に勝利したとしても、シャアに言うことを聞かせることはできず、彼女が欲しかったものは得られなかった。
もうひとつは、アクシズの指導者として『Zガンダム』から『ガンダムZZ』まで、ミネバと彼女の信奉者をファンネルのごとく上手く操ってここまで来たが、グレミー離反と、ジュドーの抵抗もあって全ては水泡に帰した。
この期に及んで、何かを操るような方法(=ファンネル)をようやく意識的にやめたのかも知れない。まあ操るものはこの時点でファンネル以外に何も残っていないのだけど。
ハマーンはファンネルがごとく、人と人との関係も上手くコントロールし、支配する。
だからこそ彼女は「ハマーン様!ハマーン様!」と叫ぶ崇拝者に囲まれていながら、常に孤独にならざるを得なかった。
そして大事なことは、彼女の孤独を救ってくれるはずのシャアもジュドーも、けして自分の思い通りにはならない存在であることだ。
それを味わった百式ダルマ戦を踏まえた上での、ジュドーとの最終決戦で「ファンネルで決着をつけることを選ばなかったハマーン」という視点を加えると、物語の豊かさがより増すのではないだろうか。
手に入れたいものは、手に入らないもの
もうすでにファンネルの話というか、完全に単なるハマーンの話にスライドしているが、このあたりがいちばん書きたいところなので、このまま脱線を続ける。
「戦士、再び……」では最終回なので珍しくハマーンが色々と気持ちを吐露するけれど、個人的にはそこに意味があるようにはあまり思えない。
ジュドーは言う。
「そんなに人を信じられないのか!?」
「憎しみは憎しみを呼ぶだけだって、分かれ!」
「憎しみを生むもの! 憎しみを育てる血を全て吐き出せ!」
これに対して
ハマーン「吐き出すものなど……ない!」
こう突っ張るけれど、無いわけがない。
どう考えても山程ある。吐き出す相手がいないだけで。吐き出す素直さが無いだけで。ついでにいえば吐き出してどうにかなる余地もないだけで(最終回だからね)。
これを見て、この矜恃、さすがハマーン様!みたいな事は全く思えない。
決着後もジュドーが本当に欲しい答えをはぐらかすように話していて、ここのハマーンの台詞にも特に意味がある感じはしない。
むしろ、最後までやせ我慢して、この期に及んでこの人は……と思ってしまう。
要は、ここで必要なのはただひとつ。コクピットハッチを開いてジュドーの方へ飛び込んでいくことなんだけど、もちろんハマーンにはそれが出来ない。
実際に前話「バイブレーション」でクインマンサのプルツーがそれをやっている。
ハマーンのシャドウたる子供のプルとプルツーは出来た。
だけどハマーン本人にはそれが出来ない。年齢も立場もプライドも己が今までやってきた事も全てひっくるめて出来ない。
結果的にジュドーとは逆方向に彼女は飛んで、そして自ら命を絶つことになる。
敗北したキュベレイと同じくダルマ状態にされた百式で、クワトロが池シャアシャア(池田秀一とシャアにしか使えない特殊表現)と生き残った事に比べれば、大変潔い。あまりに潔すぎる。
色々都合よく始末をつけすぎるのは、ジュドーが木星にいくのと同じで、制作も決まった映画『逆襲のシャア』の下準備という側面もあるけれど。

有名なシャアと少女時代のハマーンとの写真。
どれだけ意図されたものかは分からないが、意図のあるなしとは無関係に私はよくできた写真だと思ってるんですよ。
シャアより7歳下でこの時まだ少女であるハマーンだが、年上の男性であるシャアの胸に自分を預けるのではなく、背伸びしてでもシャアと同じ高さ、目線で映ろうとしている。
シャアをパートナーと考えていたハマーンにとって「対等」である事は重要だったのではないか。
だからこそシャアと対立し、ハマーンを政治と戦争に担ぎ出した張本人であるシャアは逃げ出す。
(ララァは戦いをする人ではなかったのに、誰かが戦場へ連れ出したことを思い出して欲しい)
シャアは子供の、いや女性(といった方がよいか?)に合わせて頭(目線)は下げてくれない。
だからこそジュドーとの関係で必要だったのは、ハマーンがジュドーの目線に合わせることなんだけど、最後の最後まで出来ない。
ジュドーは14歳の子供。それでも10歳のプルとプルツーなら飛び込める彼の元へ、ハマーンは最後まで行けない。
シャアの時と同じく私の所へ来いとは言うのだが、もちろん失敗する。
(勘違いするような人などいないと思いますがこれ、行けないのが悪いという話ではないですよ)
少女時代を捧げたのに逃げられた年上のシャア(追いかけて包丁突きつけても拒否される)。
そのシャアと似ている男をやっと見つけたと思ったら、年下の14歳。まっすぐな魂をもっていて、ハマーンの心に土足で踏み込まずにストレートに言葉で気持ちをぶつけてくる。好ましく強い子だ。だけど悩ましい。
最後の「強い子に会えて……」の気持ちに嘘は無いと思うが、自分がシャアと同世代だったらと思ったように、ジュドーが自分と同世代だったら……と思わずにはいられなかったのでは。
年下のジュドーに対して素直になれない自分である以上は。
サーカスの子供がたった一人、ガラスのロープを目隠しで渡るんじゃない。
結局どれだけ多くのものを支配下においても、本当に手に入れたいものは、自分ごときに支配などされないもので、恐らくそれだけが彼女と対等の関係を結び、孤独から解放する存在。
だけど彼女はその相手と関係を結び、維持する方法を知らない。最後まで。
それがハマーン・カーンというキャラクターです。
個人的には、無理やりでも目線を対等に持っていこうとするハマーンを好ましく思っています。
改良型ハマーンであるナナイの方が、シャアから見てかわいげがあるのだろうけど、個人的にはハマーンの方がいいですね。(これも勘違いのないように書けば、劇場用に用意されたキャラクターとしてはナナイで問題ない)
『逆襲のシャア』でのファンネルvsファンネル
さて。シャアが絡む話になるといつも脱線するが、本筋の「ファンネル」の話に戻す。
ともかくキュベレイとハマーンの組み合わせは、エルメス路線での本来の意味でのサイコミュ兵器運用とは別で、キュベレイがその後のファンネル搭載兵器のひとつのスタンダードになる。
もちろんエルメス路線も、ここまで説明した通り、護衛ドムのサボタージュや役に立たない護衛(シャア)など丁寧に下ごしらえした上で、エルメスとガンダムのドッグファイト状態にしたわけで、結局は「あんた達、同じフレーム内で戦闘しなさいよ!めんどくさいのよ!」という話ではあるんだろうけど。
そして映画『逆襲のシャア』では、シャアとアムロがモビルスーツ本体で戦闘しながら、ファンネル戦闘するにまで至る。
ザザビーとνガンダムのファンネルが飛び回りながら、絡み合いながら、くんずほぐれつ、くんずほぐれつ。
まあいやらしいったらない。
作画、演出的にもまさしく劇場版の豪華さで、νガンダムvsサザビーこそ達人同士の忍術合戦。戦闘の全プロセスに白土三平調のナレーションを入れて解説できるはず。
チャンバラと忍術がベースになっているのは、はっきりいえば制作者の世代によるところが大きいとは思う。静と動のメリハリがあってアニメ向きというのもあるのかも知れないけど。
富野由悠季作品としてのファンネル演出は、この作品がひとつの到達点で、以降は別の工夫が必要になるフェイズに入ったんだろうと思います。
その工夫は、他の監督たちが模索していくことになり、恐らくその先に『水星の魔女』でのいきなり主人公機がファンネル、にもつながっていくのでしょう。
挑戦者たちの勇気がファンネルの未来を開くと信じて……!
ご愛読ありがとうございました。
まとめ、もしくはあとがき
先行している総論的な記事(あでのいさん)がある以上、そうではない記事を書くことを意識したというのはあります。
が、結局いつもの、シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りになってしまった……。だが私は後悔していないし、謝らない。
ちなみにハマーンのところは、昔のハマーン&シャアツイートなども加えて、さらにボリュームを増やそうと思っていましたが、ファンネル部分だけでも想定より分量が増えてしまったのでカロリミットして、また別記事で書くことにしました。
シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りをまたお待ち下さい。
ファンネル(ビット)に関していえば、結局のところ『ガンダム』最初期から、兵器の特性よりはTVアニメでドラマを組むことを優先されているわけです。そこが富野由悠季らしく、個人的にはドラマ重視で好みではあるのですが、それは当時の制作者としてのひとつの選択であって、単純にそれが正しいわけでもなければ、悪いわけでもありません。
ただ、制作者が変われば、時代が変われば、表現技術が変われば、他にもさまざまな表現ができるロボットアニメバトルのすばらしい道具であることは間違いなく、実際他のいろいろなガンダム作品で工夫と活用がされてきました。
ファンネルの面白い表現や演出にこれからも期待したいと思います。
とりあえず私は、この記事をまとめるまでは、思考がとっちらかってファンネル制御の思念波に乱れが生じる恐れがあるため視聴を控えた、水星狸合戦ぽんぽこ、こと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を楽しみに見てみようかと思います。
それではまたお会いしましょう。
関連記事紹介コーナー
では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。
僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>
ニュータイプの因果の中心に関わったシャア・アズナブルと、ハマーン・カーンを中心にした話。
基本的にSFガジェットであり、また人によってはニューエイジの影響といわれる「ニュータイプ」だが、結局のところその方面で強化されることはなく、人間ドラマ上の道具でしかなっていない(それが私の好きなところ)。そしてそれはシャア・アズナブルという男のささいな嫉妬から始まり、それがハマーンがカミーユを拒絶する瞬間に結実する。映像の世紀、バタフライエフェクト。
空虚なハマーン・カーンを救うことは可能か<『機動戦士ガンダムZZ』感想戦>
ハマーン・カーンのキャラクターについてと、彼女を救済する可能性について検討しています。「救済」というものがどういう意味を指すかは、ぜひ記事をご覧ください。
お、おま、ファンネルじゃなくて、ハマーン関連記事ばっかりじゃねーかとお嘆きの諸兄。
そのとおりです。
サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>
ファンネルにだけ注目したわけでないですが、本記事でも触れた、マスターニンジャであるサザビーとνガンダムの戦闘についての記事です。どのようにこの戦いの目的が設定されているか、が主題でしょうか。
カイ・シデンは人が神様になれることを信じるか <ガンダムUC『獅子の帰還』と、人が世界を変えるための正攻法の話>
アニメ富野由悠季ガンダムZガンダムガンダムUCカイ・シデンシャア・アズナブル
2021-06-11
その『獅子の帰還』には、『機動戦士ガンダム』に出演していたカイ・シデンが登場して、この小説での主人公リディ・マーセナスに対して、こう話す場面があるという。
「神様に片足突っ込んだ馬鹿を友人にしちまったのは、君だけじゃない」
カイ・シデンのセリフと考えると、なかなか興味深いと思いませんか?
今回はこの一言のセリフだけをよすがに、1本書いてみることにします。
神様に片足突っ込んだ馬鹿とは誰か
『獅子の帰還』は、このBlu-ray BOX初回限定版の特典として、脚本が付属したのが初出らしい。
その後、ドラマCDにもなり、今はマンガ化もされているようだ。
私はいずれも読んでいないが、現在も将来的にも恐らく読みそうにないので、Wikipediaの記述を頼りにすることにしよう。
Wikipedia:「カイ・シデン」には、『獅子の帰還』に登場する彼についてこう書かれている。
連邦から釈放されたリディ・マーセナスに11月12日に接触し、「バナージ・リンクスは生きている」と告げ車に乗せる。情報局の尾行をまくためにハンドルをさばきつつ、ミネバ・ラオ・ザビを戦争の矢面に立たせないために、リディを争いに巻き込まないために、バナージは消えるしかなかったと説明する。バナージの生存を確かめたいと言うリディに対し、命がけの覚悟が必要と諭しつつも、「必要な情報はくれてやる」と告げる。なぜ自分にそこまでしてくれるのかと問うリディに対し、「先輩風を吹かせたかったんだろうよ。神様に片足突っ込んだ馬鹿を友人にしちまったのは、君だけじゃない」と答えている。
Wikipedia:「カイ・シデン」
検索して、いくつか調べてみたが、このとおりのセリフが登場するのはどうやら事実のようだ。
カイが言う「神様に片足突っ込んだ馬鹿(友人)」とは、当然アムロ・レイのことでしょう。
ということは、アムロもバナージも同じ「神様に片足突っ込んだ存在」であると、カイが語ったことになる。
『機動戦士ガンダム』で「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」とまで言ったあのカイ・シデンが、『逆襲のシャア』と『ガンダムUC』後のこの時代には、アムロ・レイを「神様に片足突っ込んだやつ」と思うように変化したのだ、という解釈なのだろうか。うーん……。
逆シャアのラストを見て、あれは「神様に片足を突っ込んだやつ」とサイコフレームがあれば起こせる、再現性のある説明可能な現象(なんたらショック)なのだ、という立場でいくと、そういう解釈になるのかな。
神様になる方法は逆立ちではなく、足を突っ込むことだったんだな。
どこをどうを突っ込めばいいのかは分からないが。
逆立ちしたって人間は神様にはなれないとは何か
復習と確認を兼ねて『機動戦士ガンダム』での「逆立ちしたって…」の場面を引用してみよう。
第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」にて、出撃前の作戦会議にてアムロが、ニュータイプの立場で「作戦は成功します。あとビットコインは買いです」と皆に断言します。
そのあと、出撃の為にエレベーターで降りていく場面。
カイ 「さっきお前の言ったこと、本当かよ?」
アムロ 「嘘ですよ。ニュータイプになって未来の事がわかれば苦労しません」
セイラ 「アムロにああでも言ってもらわなければみんな逃げ出しているわ、恐くてね」
カイ 「そりゃそうだな。逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」
一年戦争の時、カイ・シデンは、アムロと同じようなタイミングでモビルスーツに乗り始め、その後ずっとアムロの後ろで戦っていた。
アムロが自分達とは何か違うことについて、よく分かっている人間のひとりだろう。
そのアムロが、みんなの為に「優しい嘘」をついたことを知って、カイは「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」と言う。
ここでの「人間」は、アムロ個人のことでもあるし、人類全体のことでもある。
「逆立ちしたって」というのは、どうやっても、どうあがいても実現できない、という言い回し。
つまりカイは、アムロにはちょっと違うところもあるけれど、結局は自分たちと同じただの人間であって、都合のよい便利な存在(神様)ではないし、なりようもない、と結論づける。
ニュータイプ様の「優しい嘘」はありがたく受け取った上で。
「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」はいかにもニヒルなカイ・シデンらしい台詞ではあるけれども、それはニュータイプという道具の不完全さを皮肉っただけでなく、同時にアムロ個人を、自分たちと少し違うだけの同じ人間と定義づけている言葉で、個人的にはどちらの意味も重要だと考えている。
この後のア・バオア・クー戦で、カイも他のホワイトベースクルーと同じく、頭に直接響くアムロの声を聴く。
しかしカイと仲間たちに特に驚いた様子はない(もちろん余裕のある状況ではそもそも無いが)。
姿なき声だけで人々を導く、という状況だけを見れば、人によっては「これこそ神様に片足」と思うかも知れないのに。
このあたりは最終回としての畳み掛けるような処理ではあるのだけど、ホワイトベースという共同体が長い時間をかけて完成した上に、事前にカイによる「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」――つまり、多少人と違う事が出来ても同じ人間でしかない、とこの作品でのニュータイプを結論づけているので、ホワイトベースクルーが自然にこれを受け入れていることに不自然さは感じない。
アムロからの皆への心の呼びかけは、おチビちゃんたちが脱出するアムロに呼びかけ誘導する形で返される。
ランチ(脱出艇)の上で、両手を広げ、アムロを迎え入れるホワイトベースの仲間たち。
このランチの上の人々のニュータイプ的な能力、感度は実にバラバラだ。
高い人もいれば低い人もいるだろう。カイ・シデンも別に高い方ではない。
でもそのことは、ホワイトベースに偶然乗り合わせた仲間たちの中では何も問題にならない。
だからこそ、アムロはニュータイプの自分にとってあまりにも魅力的な、同種のニュータイプであるララァの世界を振り切って、同じ人間として生きる仲間たちが待つ世界へ帰還することが出来た。例え人間の世界が色々大変でも。
(と、書くとエヴァ旧劇的な要素も内包していると分かる)
『機動戦士ガンダム』最終話のサブタイトル「脱出」は、炎上する宇宙要塞ア・バオア・クーからの脱出は当然として、もうひとつの意味は、甘美なララァとの世界から抜け出せるかということだろう。
そのためにアムロは、外が見えない状態のコアファイターで宇宙要塞の産道を通って外の世界へ「脱出」するのだが、そこには待ってくれている人たちがいた。アムロを祝福し歓迎してくれる人たちがいた。
ちなみに、シャア・アズナブルの最期も限りなくこの状態に近い(モニターが死んだ脱出カプセル)のだが、彼を待っていたのは母なる地球の大気圏と断熱圧縮の熱だけだった。
神様になれない人間が、世界を変えるためには
『逆襲のシャア』劇中では、シャアがアムロに対して「今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ!」と迫るシーンがある。
もちろんこんな事は神様だってやったことない無理難題です。
シャアもそれは分かっていますが、それでも言いたくなったわけですし、実際に全人類という体で私を救ってほしいという意味では本音ではあるでしょう。
ただ、もしもカイ・シデンが、この「今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ」という台詞を聞いていたらひどく呆れるでしょう。
カイはガンダムの続編『Zガンダム』の時に、こう手紙に書いています。
「リーダーの度量があるのにリーダーになろうとしないシャアは卑怯」
そしてハヤト・コバヤシがその手紙の内容を受けて、直接シャアに進言します。
「10年20年かかっても、地球連邦政府の首相になるべきです」
このカイとハヤトの台詞はまったくの正論です。
シャアに本気で世界を変えるつもりがあるならば、いちパイロットに逃げてウダウダするのはやめて、覚悟を決めて何十年かけても政治で世の中を動かしなさいと言っている。
これが出来ないと最終的に、自分を道化と愚痴りつつ小惑星を落とす羽目になるのだから。
カイとハヤトがこの正論を言うことができるのは、アムロと一年戦争を戦い抜いて、「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」メンバーズとなり、ニュータイプに叡智を授けてもらおうなど欠片も思っていないからです。
ニュータイプの力をずっと近くで目の当たりにし、ア・バオア・クーでは脳内に呼びかける声も聞いた2人なのに、人類のニュータイプへの革新だの希望だの、そういった幻想を全く持っていないのは、なかなか尊いですね。
地に足のついた2人には分かっている。
「人間の世界」を変えるには、地味でも遠回りでも、何十年かけようが、正攻法をする以外は無いと。都合のよい魔法など無いと。
その正攻法の旗印になれとシャアに勧めるのは、シャア・アズナブルもまた自分たちと同じ普通の人間だからです。
彼に期待するのは本人のニュータイプ能力や人の革新だの何だのではなく、その生まれや能力を活かしてリーダーシップを取ることだからです。
もし何十年もかけて正攻法で世界にアプローチする覚悟があるならば、2人はこれを支持するでしょう。
ところがシャアという人はこれが出来ない人で、彼の人生のテーマとは「キャスバル・レム・ダイクンという己の運命から、いかに逃走を果たすか」だと言っていいと私は考えている。
名前を変えて違う人生を生きるのはシャアにとってはそのために必要不可欠なことだった。
そして完全に違う人間に生まれ変わるために必要だったのがララァ・スン。彼女を導き手(母)として生まれ変わるその機会を、アムロによって永久に奪われたことが、アムロとシャアの因縁として最後まで付きまとう。
シャアは、カイやハヤトの言う正論自体は理解していたと思いますが、はっきりいって自分はそれをやりたくない。
だから、何十年もかけて地球連邦の首相にはならないくせに、かといってセイラのように軍や政治からきっぱり身を引くわけでもなく、クワトロという偽名のいちパイロットとして中途半端に戦争に関わる。
セイラが身内として、死んで欲しいと思うのもまた正しいと思うぐらいには、不穏な男です。
キャスバル=シャア=クワトロとして、ダカールでは(珍しく)自ら表舞台に立って演説しましたが、ブレックス准将が生きていれば自分ではやらなかったと思われるし、この演説自体は内容が割とふわふわしていて、ティターンズvsエゥーゴの政争(世論がエゥーゴに傾く)としては価値があったものの、言ってみればそれだけという気もする。
第24話「反撃」でブレックス暗殺→第37話「ダカールの日」。
ブレックスの死とシャアのダカール演説までの間には話数が結構あるが、別にその間、シャアがリーダーシップを発揮してるわけでもない。
まるで劇場版的な圧縮処理だが、ダカールで演説する予定だったのはブレックスにしておいて、控室にいた所を暗殺される。遺言を残されて、シャアは急遽、血まみれのスーツで演説を行う。赤い彗星の赤は返り血の赤よ!
これぐらいのドタバタであれば、ふわふわ演説でも大丈夫かな、と思える。
こうして運命に逆らい続けたものの、最終的にはジオンの遺児キャスバルから逃げ切れず、ネオ・ジオン総帥になってしまい、アムロ・レイから
「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」
と言われるようなことをしてしまう。
このアムロの台詞は、カイとハヤトが『Zガンダム』でシャアに時間をかけた正攻法を勧めたことを踏まえると、アムロ、カイ、ハヤトの3人が共有している基本的な理念のようなものと言えるかも知れません。
カイもハヤトも『逆襲のシャア』への出演はありませんが、『Zガンダム』で突きつけた正論は刻を越えてシャアに刺さっていく。
話が大幅にずれた(すぐにシャアの話になってしまう)。
ちなみに『獅子の帰還』でのリディ・マーセナスは、「軍を辞め、父ローナンの私設秘書となる」そうなので、色々あって、結局は政治の道に入ることを選んだ、ということになるのかなと思います。
この話の流れで言えば彼はシャアとは違い、何十年もかかる正攻法の道を選んだ賢明なキャラクターともいえるだろう。
ただ個人的にはその要素よりは、このキャラクターを生んだ人間の物語の駒として、恐らく何十年もこれからの宇宙世紀や地球連邦に影響を及ぼす役割なんだろうな、と考えてしまうが。
それに私は、シャアのその徹底的な逃避を愚かなものだけとは思ってはおらず、むしろある種の賢明さとして尊いものだと考えているんですよね。
どうしようか。今回はカイ・シデンの……まあ、いいか(よくない)。
うちに帰れば「死ねば」のFAX30m
父性的な責任から逃れるのがシャアのライフワークと私はよく言いますが、これは単に批判なだけではなく、とても賢明で、その抵抗を尊いものだとも思っている。
貴種流離譚的なものからの徹底的な逃走というか。
キャラクターとしても物語にしても、リディのようになる方が賢明で収まりはいいし、もしくはシャアの場合、逆にジオン総帥には立場上すぐにでもなれてラスボスになれる。
そのどちらも選ばない。物語の類型を拒み、運命を拒み、モラトリアムな逃走を続ける。
そういうシャアを愚かというのは簡単だけれど、この点において私は、彼の逃走意思を絶対に否定はしたくない。
シャアの立場だとジオン・ダイクンの遺児としてリーダーでも革命家でも何でも出来る。
周囲も利用したがるし、頼りたがる。カイやハヤトだってフロントにはクワトロに立ってもらうことを考えた。
安易な革命ごっこに乗らず、インテリの世直しもせず、逃げることを選択したクワトロは賢明だと思うけど、完全に逃げ切って、別の人間として生きるためにはやはりララア・スンが必要になったと思う。
そのララァを奪ったのがアムロで、シャアの人生設計(アムロもだが)これによって狂いまくる。
だからシャアはジオンの遺児という己の運命からついに逃げ切れなかったことを、アムロの責任にしている部分がある。
逃げ切れなかったシャアは、アムロを巻き添えにする。お前にも責任があると。
セイラの「死んで欲しい」は本当に正しいので、シャアのオフィスに「死ねばいいのに」と書いたFAXを何枚も送って欲しい。
(これはFAXでないと、何ともいえない情念と面白みが出ない)
サイコな妄想(ゆめ)の扉
話がなぜか(なぜかではない)大幅にずれましたので、元に戻しましょう。
カイ・シデンという人物に対する私の認識は
「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」
原作でのこの言葉が示すとおり、アムロもシャアも人間に過ぎす、神様にはどうやってもなれない。人間として自分たちの出来ることで前に進んでいくしかないな。
……ぐらいのスタンスかな、と考えていました(今も)。
カイは一年戦争で理不尽な悲しい思いもしたし、ニュータイプの存在も体験も身近にあったのに、それでもこの現実的な視点が彼らしいな、と思っています(今も)。
もちろん「そのカイが考えを改め、人間が神様になることを認めるほどにサイコなあれはすごいのですよ」と、仰る方もいるかも知れないですが、後付けマッチポンプに特に興味がないので、私の知ったこっちゃないです。
それより純度の高いサイコフレームを一発キメると、気持ちのいい幻覚、時にはアムロやララァの亡霊すら見えて、強烈な快楽を得られると言われています。
但し宇宙世紀依存症の副作用や、闇社会の資金源として食い物にされる事もあるので服用には皆様も注意されたい。
あなたの考えるカイ・シデンは、人間が神様になれることを信じますか?
それでは最後にすてきなナンバーをお送りしてお別れしましょう。
明石家さんまで「ウイスキー・コーク」
サイコフレーム ギュネイ・ガス そしてあふれる人…人…人…・
そんなありふれた街でありふれた恋を僕はひらうかもしれない
でもぼくは沢山のひとと付き合うより ただ一度のありふれた恋でもいい
めぐりあったそのひとを 守ってあげたいと思う
(イントロ鳴り始める)
……あれ? このオチ、むしろ私が純度の高いサイコフレームをキメてるように見えない?
ブログ投稿のリハビリとして、過去ツイートから適当にネタを選んでおいたのだが、期せずしてある種のタイムリーさが出てきたような気がする。が、それは単なる偶然であって、人がそんなに便利になれるわけ……ない・……。
【関連記事の紹介】
「帰れる船」としてのホワイトベースとアーガマの対比 <『機動戦士ガンダム』での優しい嘘の共同体>
記事中にあった、物語終盤のホワイトベース共同体の成熟について具体的な例を紹介しています。これがあった後に、アムロの「優しい嘘」が来るという流れになっています。
また対比として『Zガンダム』終盤のアーガマはどうだったのか、という点を考えています。
今回は昨年2017年度のご報告となります。まっこと遅くなり申した。
単なる怠惰の産物であり、どきゃんもこぎゃんもあらしまへん。
2017年中に書いた記事数は、6本。
そのうち富野アニメ関係の記事は4本(実質5本)と、最低限の義務は果たしたというか、上出来じゃん!という思いでいっぱいでございます。
どの記事も面白い自信はあるのですが、世間の評価とアクセス解析の結果を見る限り、ほとんど誰にも読まれてないし、誰にも評価されていないという有様。
それが本当に妥当かどうかチェックするチャンスが今、幸運なあなたに与えられました。
(「妥当でした」というリアクション不要です)
2017年度 珠玉のブログ記事(もう何も言うな)
「永遠のフォウ」は耐えられるが、「ロザミアの中で」は耐えられない
フォウ・ムラサメが三度死んだとき、ロザミアはようやく兄を見つける。<『機動戦士Zガンダム』「ロザミアの中で」でのカミーユの絶望>
『機動戦士Zガンダム』第48話「ロザミアの中で」を見ていく中で、フォウ・ムラサメの「三度の死」を検証します。
「ロザミアの中で」は劇場版ではカットされた要素なのですが、尺の問題以前に、劇場版のラストに向かうためにはカットする以外の選択肢が無い、という事が重要です。
劇場版『Zガンダム』は、ラストの変更が話題になることが多いですが、『ブレンパワード』、『∀ガンダム』、『キングゲイナー』と当時の作品を追っていれば、何一つ驚きはなく、実際に予定調和的なものでした。
ですから劇場版に関しては、ラストに注目するよりも、ラストを変更するためにどのような再構成がされたか。さらにいえば「何が取り除かれたか?」を考える方が面白いかも知れません。
その視点の一助になる記事ではないかと思っています。
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沈まなかったアーガマに帰らなかった魂
「帰れる船」としてのホワイトベースとアーガマの対比 <『機動戦士ガンダム』での優しい嘘の共同体>
TV版『機動戦士ガンダム』にだけ存在する「光る宇宙」でララァに取り返しをつかないことをしてしまった直後、ホワイトベースに帰還したシーンについての話。
劇場版は素晴らしいのですが、やはり私の心のベースはTV版なのです。
長い旅路の末、ホワイトベース内部には疑似家族的なコミュニティが成立します。
アムロはニュータイプであるがゆえに、この疑似家族的なコミュニティへの最後の参加者になりました。
そしてこの終盤のホワイトベースとアーガマを比較します。
「ロザミアの中で」で同じように傷ついて母艦に戻ったカミーユに待っていたものは果たして何か。
ということで、先の「ロザミアの中で」解説記事に接続します。
ぜひ2つの記事をセットでお楽しみ下さい。
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パンダ目暗殺おじさん、一世一代の晴れ舞台
わがままはディアナの罪、それを許さないのはみんなの罪 <『∀ガンダム』第44話 「敵、新たなり」のミドガルド、女王に救いを求めて走ること>
『∀ガンダム』第44話 「敵、新たなり」の解説記事なんですが、主役は完全にパンダ目暗殺おじさんことミーム・ミドガルドになっております。
ここまでミドガルドおじさんに寄り添った記事はないのではないか、と思っていたのですが、今改めて読み返すと、寄り添ってはいるけど全然ミドガルドに優しくないですね。
殺し殺されたらカーニバル(中森明菜)の回だから仕方ないかな。キスは命の火です。
記事後半には、おまけとして『∀ガンダム』でよく言われる「ギンガナムへの責任の押しつけ問題」について書いています。
ある種、こちらの方が本編のような気もします。
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誰が悪いんじゃない。みんな貧乏が悪いんだ。
異世界にアメリカ人が5人。天才がふたり、軍人がふたり、さて残るひとりは? <『聖戦士ダンバイン』での地上人 from USA>
『聖戦士ダンバイン』では、現世から異世界バイストン・ウェルへ召喚されてしまった人間(地上人)が何人も登場します。
その中で、アメリカ国籍を持つ地上人5人にスポットを当てた企画です。
いちばん書きたかったのは、マーベル・フローズンについて。
そして彼女との関係を考えることで明らかになる主人公であり日本人ショウ・ザマの立ち位置についてです。
ショウはダメな主人公と言われることがありますが、そこには日本や日本人ゆえのという部分が見え隠れします。
良くも悪くもアメリカという国との付き合いが、日本には強い影響を及ぼしていますが、バイストン・ウェルでもショウの前にはさまざまなパターンのアメリカ人が登場いたします。
さて、どのアメリカ人を友人として付き合いましょうか?
そんな視点でお読み頂けたら楽しいかと思います。
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海南大附属の王者・牧紳一は本当にすごいのか問題
基準(物差し)となるキャラクターから考える物語<『スラムダンク』『キャプテン翼』『機動戦士ガンダム』のパワーバランスとキャラクターの格>
バトル(スポーツ)物の作品における、キャラクターの「格」についての記事。
こういった作品でキャラクターが強くあるために必要なのは、身体能力とか必殺技とかではなく、「格」なのです。
『スラムダンク』、『キャプテン翼』などの名作マンガを例に記事は進みますが、後半『機動戦士ガンダム』の戦闘バランスの話になって、そこから結局いつものガンダム漫談が始まります。
本当は『スラムダンク』、『キャプテン翼』のパートだけでも、ちゃんとひとつの記事として成立してると思うんですけどね。
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どうしていっちゃうんだよロベルトォ!
四人兄弟を養う日向家 VS 居候ロベルトを養う大空家 <『キャプテン翼』小学生編でのキャラクター経済格差>
純粋にサッカーマンガ『キャプテン翼』の記事。ガンダム漫談に脱線したりもしない貴重な記事。
『キャプテン翼』小学生編における富裕層と貧困層の戦い。
それがいかに現実に存在するワールドサッカーの構図そのものか、ということを解説します。
そういえば、大空家に居候していた時のアル中天パおじさんこと、ロベルト本郷の金回りってどうだったんでしょうか。
元プロ選手とはいえ、アル中寸前の浮浪者のようにまで身を崩したロベルトはお金持ってたんですかね。
渡航費用や日本での検査費用、日常の大空家でのご飯など、大空キャプテンのご好意というイメージがあるんですが、どうなんでしょうね。
名目(ロベルトに負担をかけないための建前)は翼の個人コーチとしての居候とか何とかで。
つまり何が言いたいかというと、小学生編ラストでブラジルに帰国する渡航費用は誰の金だったんだろう、という。
そもそも大空キャプテンは、自分が長期航海でほとんど家を空けるのに、まだ若い自分の妻と、たくましい元スポーツマンしかもラテン系サッカー選手だったロベルトを平気で同居させるという、大変懐の大きな人物です。
翼ママ「バスタオル用意しておくの忘れちゃったわ。入るわよロベ(脱衣場に入ってくる)……」
ロベルト「(ちょうど浴室から出てきた全裸ロベルト)……ママさん」
翼ママ「ご、ごめんなさい!(あわてて扉を閉める)」
だから昔から良くネタとして妄想してたのは、ロベルトのブラジル帰国の真の理由です。
ロベルトの手紙「翼、おまえはこの日本にいてもきっと素晴らしい選手になれる。おれがいなくともおまえはきっとそうなれる。翼、サヨナラだ。……P.S. ママさん、愛しています」
翼「どうしていっちゃうんだよロベルトォ!」
飛び立つ飛行機を見上げながら、思わず自分のお腹を抑えてしまう翼ママ。
翼。ロベルトはいっちゃったからブラジルへいっちゃうのよ。
そして翌年、翼とは全く似ていない浅黒い肌とチリチリの天パをもった次男が大空家に生まれるのだった。
《 『キャプテン翼』小学生編・完 》
……みたいな。
ただひとつ言えることは、私の中で大空キャプテンは大海原のようにとてつもなく大きく、懐の深いド変態だということです。(あくまで私の中で)
2018年の抱負など(もう一ヶ月分終わってますが)
以上、選びに選びぬいた、珠玉の2017年ブログ記事でございました。
2018年もどうせ大して記事の数は書けないと思いますので、せめて中身は充実野菜であって欲しい。せめて充実であれ。
『機動警察パトレイバー』のシリーズ記事がストップしているので、何とか再開したいです。
もう一度、胸のエンジンに火を入れるのはなかなか大変なのですが、2018再起動が今年の抱負です。
あと言いたいことは、ファブリーズのTVCMですね。
パパ役に千鳥ノブをキャスティングしているのは喜ばしいことですが、標準語しかしゃべらせないことに何の意味があるんじゃ!ノブが死ぬ!
「シンプルに靴がくさい!」「さすがママじゃ!」など合わせやすいセリフにも出来るのに、せっかくの「神の『じゃ』を持つ男」に標準語のセリフ与えて何がしたいんじゃ!
このCMを企画した無能な広告代理店やCMディレクター、そしてOKを出したメーカーは、猛省のため智弁和歌山高校のノックを受けて頂きたい。
ということで、2月に言うことではないですが、今年もよろしくお願い致します。
次の記事でまたお会いしましょう。
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よく登場する出撃ハッチに隣接した部屋で、パイロットスーツのままなので、ホワイトベースに帰還したすぐ後なのだろう。
出撃したカイ、ハヤト、セイラに加え、ハロと子供たちまで来て、アムロを囲んでいる。
ちなみにこれはTV版だけのシーン。
今回の出撃でアムロに何があったかは誰も、いちばん距離的に近かったセイラですらきちんと分かっていないだろう。
それでも帰還した直後のアムロを囲んで、恐らく「大丈夫か?」といった心配している。
それに対してアムロの方も、「取り返しのつかない事をしてしまった」直後にあれほど号泣していたのに、皆に笑顔を見せる。
この場面での台詞のやりとりはアムロとハロだけで、セイラやカイ、ハヤト、子供たちの台詞は省かれているが、描かれていないことでそこに恐らくあったであろう自然なやりとりやフォローを想像させてくれる。
アムロ 「大丈夫です、戦えますから」
アムロ 「な、ハロ、大丈夫だろ?僕」
ハロ 「アムロ、ノウハ、レベル、ユウリョウ、ユウリョウ」
アムロ 「ははは、ありがとう」
心配した?ハロが太鼓判を押してくれた「脳波レベル優良」が皮肉めいている。
そうなのだ。アムロの脳波は優良すぎて、戦場で敵パイロットとつながってしまうほどに強い。
それが、つい先ほど起きた悲劇の原因でもあった。
しかしアムロは、気遣ってくれる仲間やハロに対して、大丈夫だと笑顔で強がる。
本当は全然大丈夫じゃない、というのはアムロが後の『逆襲のシャア』まで引きずって生きている事で分かる通り、明らかに嘘でしょう。これは一生物の傷で、それが出来た直後なんですから。
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ただこの嘘は、集まってくれた仲間たちの気遣いに対する優しさの嘘である。
ちなみに「戦えますから」の方は、嘘でも何でもなく本当なのは、この後のア・バオア・クー戦で分かる。 (シャアさんに聞いてみよう)
何かを感じ取った仲間たちは自然にアムロのそばに集まり、アムロもそれが分かっていて、ララァを失った直後であるに関わらず、仲間たちを安心させるために笑顔を見せている。
この場面は、アムロとホワイトベースの仲間たちの関係、すなわち疑似家族的な共同体の成熟を示しているといえるでしょう。
これを踏まえた上で、このあと第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」において、今度はアムロが皆を気遣って「作戦は成功します」と宣言するシーンが訪れます。
「脱出」前の帰ってこれるための布石
ジオンのソーラレイにより、レビルの主力艦隊が壊滅した状態で向かう最終決戦、宇宙要塞ア・バオア・クー攻略。
作戦前、不安を感じる皆のために、アムロが力強く発言します。
マーカー 「第二大隊と第三大隊がNポイントから進攻します。我々はルザルを旗艦として残存艦艇をまとめてSポイントから進みます」
ミライ 「いかにも戦力不足ね」
ブライト 「こちらもソーラ・システムを使えればな」
アムロ 「でも、大丈夫だと思います。ア・バオア・クーの狙い所は確かに十字砲火の一番来る所ですけど、一番もろい所だといえます。作戦は成功します」
ブライト 「ニュータイプのカンか?」
アムロ 「はい」
これが皆を安心させるためだけの嘘であることは、直後のエレベータのシーンで早々に明らかになります。
カイ 「アムロ、さっきお前の言ったこと、本当かよ?」
アムロ 「嘘ですよ。ニュータイプになって未来の事がわかれば苦労しません」
セイラ 「アムロにああでも言ってもらわなければみんな逃げ出しているわ、恐くてね」
カイ 「そりゃそうだな。逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」
これはここまで紹介してきたTV版の流れで言えば、ララァを喪った後の皆の気遣いに対する、お返しの嘘ということになると思われます。
このララァ喪失後の皆の気遣い、最終決戦前の不安に対するアムロの気遣いを見て、ホワイトベースが擬似家族的な共同体として完成しているのを確認しているからこそ、最終話「脱出」時のアムロの選択が感動的になるわけです。
なぜならララァの魅力的な誘惑を振り切れるほどに、「帰って来れる場所」もまたアムロにとって大きな存在になっているから。
「ニュータイプをやる」主人公たちがつく嘘
さて皆さん。
『機動戦士ガンダム』の続編であるTV版『機動戦士Zガンダム』においても、最終決戦直前に主人公のニュータイプは嘘をつくのです。
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第48話「ロザミアの中で」で、ロザミアを自らの手で葬ることで喪い、アーガマに帰還したあと、まずカミーユとファの会話。
ファ「ロザミアさんには言い過ぎたのかしら。あの人には罪がないのにね」
カミーユ「ファは、何も間違ったことなんて言っちゃいないさ。ニュータイプも強化人間も、結局何もできないのさ。そう言ったのはファだろ?」
ファ「でも……」
カミーユ「できることと言ったら、人殺しだけみたいだな」
ファ「カミーユ……」(ファ、去る)
この場面でのファは、矢吹丈に「灰のように真っ白に燃え尽きる」話を聞かされた紀ちゃんみたいになっており、悲しそうな顔を見せるが、そのままカミーユをケアせず去ってしまう。
その後、クワトロがなぜか微笑を浮かべながら、カミーユの肩に手を置いて話しかける。
クワトロ「あまり気にするな」
カミーユ「気にしてなんていませんよ。気にしてたら、ニュータイプなんてやってられないでしょ?」(笑顔)

で、カミーユのこの笑顔。
カミーユの言葉が嘘であることは誰もが気付くことですが、クワトロは何も言いません。
おい、ノースリーブ。お前の自室のサボテンに花が咲いているかどうか今すぐ確認してこい。
ホワイトベースのように自然と皆が集まって気遣うシーンようなシーンは無い。
そもそも、それが可能な関係性が出来上がっているならば、カミーユはこの時点ですでにドクターストップになっていただろう。
カミーユ・ビダンはこの時点で己の役割に気づいてしまっているが、そのことに誰も気づかないし、止めようともしない。
クワトロは気づいているかも知れないが何も言わない。
ホワイトベースとアムロは優しい嘘を、嘘と知った上でそれを受け入れる事が出来るような関係を最終的に手に入れたが、アーガマの中には何もない。
お前はアーガマに帰りたいの?
アムロが自らの意思で帰る場所としてのホワイトベースは、ア・バオア・クー戦の中で沈んでしまった。
しかし「帰れる場所」の本質は、当然場所そのものではなく、そこに成立した人間関係やコミュニティにある。
だから、アムロは脱出艇であるランチで待っている皆のところへ迷わず帰ってこれた。
その意味でホワイトベースという場所を最後に失ってしまうことに物語的な意味はあっただろう。
疑似家族的共同体の形成にホワイトベースという船は必須だったが、成立したコミュニティは船を失ったとしても失われない。
そのことがホワイトベースを失うことで明確になる。
ではカミーユ・ビダンはどうか。
最後の戦いが終わった後、カミーユは自らの意思ではアーガマに帰ることができない。
帰ろうとしない、とまで言ってもいいのかも知れない。
アーガマは最後まで沈まなかった。だから帰ってくる場所はある。
場所はあるけれど、そこにはホワイトベースのようなコミュニティは存在しない。
傷ついた魂はアーガマには帰らない。
これはホワイトベースとの対比として象徴的だ。
百式の残骸はそ知らぬ顔で銀河を流れていく。
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あとがきと関連記事
冷蔵庫の残り物でチャーハンを作るように、ありもので2017年内に1記事でっちあげるつもりが叶わなかった。
そのため、元日から記事あげるなんて気合入ってるね!という感じになってしまったが、もちろんそのような甲斐性はない。
成長物語としての『機動戦士ガンダム』と、ニュータイプへ覚醒したアムロが擬似家族に帰るまで辿った「心の回り道」
ホワイトベースで生まれた疑似家族的な共同体と、それに最後のメンバーとして参加したアムロ・レイのお話。
今回の記事と関連したTogetterまとめですので、宜しければどうぞ。
フォウ・ムラサメが三度死んだとき、ロザミアはようやく兄を見つける。<『機動戦士Zガンダム』「ロザミアの中で」でのカミーユの絶望>
今回の記事でも登場した『機動戦士Zガンダム』の第48話「ロザミアの中で」を深く掘り下げた記事。カミーユにとって「ロザミアの中で」がいかに絶望するものだったのか。
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富野アニメをはじめ各種サンライズ作品は、入れ替えこそあれ、常に豊富な作品が用意されていますので、お好きであれば損はしないと思います。
フォウ・ムラサメが三度死んだとき、ロザミアはようやく兄を見つける。<『機動戦士Zガンダム』「ロザミアの中で」でのカミーユの絶望>
アニメ富野由悠季物語ガンダムZガンダムカミーユ・ビダンフォウ・ムラサメロザミア・バダム
2017-02-05
「永遠のフォウ」は耐えられるが、「ロザミアの中で」は耐えられない。
これは私が『機動戦士Zガンダム』を見て以来、長年思っていることであり、ブログやTwitterなどでも何度か書いていることでもあります。
「永遠のフォウ」とは、『機動戦士Zガンダム』第36話のサブタイトル。
この回で、ティターンズの強化人間であるフォウ・ムラサメという少女が、敵である主人公カミーユ・ビダンをかばって戦死します。
これ以前のニューホンコン編においてカミーユとフォウは出会い、彼にとって特別な女の子となりました。
彼に与えた影響の大きさを考えるならば、この作品のメインヒロインと言っても過言ではないでしょう。
もう一方の「ロザミアの中で」も、同じく第48話のサブタイトル。
この回では、ティターンズの強化人間であるロザミア・バダムという少女が、命を落とします。
ただし、フォウとは違い、カミーユ自身の手によってそれはなされます。
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今回は、フォウ・ムラサメとロザミア・バダム、2人の強化人間と、カミーユとの関係を追いながら、なぜ「ロザミアの中で」が私にとって耐え難いものなのかをお伝えしたいと思います。
フォウ・ムラサメとは何だったのか
今回の主役はロザミア・バダムですが、ロザミアの事を語るには、フォウの事も語る必要があります。
フォウ・ムラサメについては以前、記事を書きました。
シンデレラ・カミーユは、地球で過去と対峙する<『機動戦士Zガンダム』挿入歌「銀色ドレス」とフォウ・ムラサメとの出会い>
この記事から、ロザミアを語る上での前提として要点だけを取り出して、かんたんにまとめておきましょう。(詳細を知りたい場合は、記事本文をご確認ください)
- 『機動戦士Zガンダム』第11~20話「地球編」で、カミーユは様々な「過去」との対峙を迫られる。
- ニューホンコンで出会ったフォウ・ムラサメもその一人。彼女は「過去に生きる少女」である。
- 未来に生きようとするカミーユと、過去に生きるフォウの心は哀しくすれちがう。
- 最終的にカミーユはそのフォウによって、自分の名前(過去の自分)を肯定する事ができた。
- カミーユを宇宙に送り出し、フォウの役割は終わる。(一度目の死)
- キリマンジャロでのフォウ再登場はまさに殺すためだけのもの。(二度目の死)
- その死により、カミーユにとって過去でも未来でもなく「永遠のフォウ」という存在になってしまう。
ニューホンコンでのフォウとの別れは、場面としてはせつないものですが、カミーユに与えた影響としてはあくまでポジティブなもの。
少女からの承認を通して、地球編ラスボスである自分の過去(名前)を肯定できるようになっています。
第1話においてジェリドの一言で見境なくキレるカミーユとは、もうこの時点で決別していると言っていいでしょう。
しかしキリマンジャロでの出会いと別れは違います。
カミーユが受けたのは哀しみと絶望だけ。そしてその絶望は、フォウによってのみもたらされたわけではないのです。
「永遠のフォウ」という儀式
「永遠のフォウ」は、一度死んだフォウ・ムラサメをわざわざ再登場させて、もう一度殺すという、何かの儀式のような回です。
新訳こと劇場版『Zガンダム』で丸々カットできるぐらいに物語的には大して意味がないパートです。
フォウの役割はニューホンコンで終わっており、そこでの死別で何も問題はありません。劇場版もそう処理しています。
ただフォウ再登場に物語的な意味はないが、まさに儀式という意味だけはあったような気がしています。
なぜなら、TV版『Zガンダム』でカミーユが最終的に迎える過酷な運命――その運命に向かう不可逆の分岐点が、この「永遠のフォウ」であると思うからです。
これを確認するためにキリマンジャロ編がどのような回か思い出してみましょう。
フォウを再登場させ、再度殺すのをある種の「儀式」であると表現しましたが、この儀式の立会人が、クワトロ・バジーナ(シャア)とアムロ・レイであったことが重要です。
「軍に利用されたニュータイプ少女」を救おうとするカミーユに対して、この2人の大人は何もしてやることが出来ません。
以前より何度か書いていますが、富野ガンダムにおいて、巨大モビルアーマーは不安定な少女たちが籠城する心の城。
四方八方に乱れ飛ぶ拡散メガ粒子砲の光は、少女たちが泣き叫ぶ涙です。
さらに強化が進められたフォウは幻の過去を求め、地上から、サイコガンダムから離れることができない。
結局、この回のコメディリリーフでしかなかったジェリドが、それが周到な前フリであったかのように冗談にならない攻撃を放ち、それをフォウのサイコガンダムが(なぜか)頭部でかばうことによって、カミーユはフォウを永遠に喪いました。
経験としては、かばわれることでララァを喪ったシャアに近い状況でしょうか。

フォウの亡骸を抱いて泣くカミーユを見ながら、直接の先輩とも言える2人の大人は
アムロ「人は、同じ過ちを繰り返す……。全く!」
シャア「同じか……」
などと、神妙な顔でもっともらしい事を言っているだけ。
この悲劇の立会人に、わざわざシャアとアムロが選ばれたのは、彼らがかつて「軍に利用されたニュータイプ少女」を巡って「過ち」を経験した当事者だからでしょう。
自分たちが死ぬ瞬間まで後悔し続けるその「過ち」の経験者であるにも関わらず、彼らはカミーユに大人の顔して「深入りはよせ」などと言うばかりで、結局、過去の自分達(カミーユとフォウ)を救うことができず、「同じ過ち」を再生産してしまいました。
ちなみにシャアとアムロは、この時代のさらに後、『逆襲のシャア』におけるクェス・パラヤのケースで、さらにニュータイプ少女をみすみす死なせているので、本当に「同じ過ち」を何度も繰り返しています。なんどめだナウシカ。
「永遠のフォウ」は、先に述べたように物語的な意味はほぼありません。
しかし、フォウを永遠に喪ったというだけでなく、アムロとシャアが立会い、さらにそれに対して無力で、「過ち」の再生産を繰り返した(彼らもそれを認めている)というのが象徴的で、これこそがひとつの絶望の儀式であろうと思います。
カミーユはフォウの亡骸を抱いたまま動かない。キリマンジャロ基地の爆発が始まる。
クワトロ「カミーユ。かわいそうだが、君はまだ死ねない身体だ」
と、クワトロとアムロは、カミーユを抱えて戦場を後にする。
結果論に過ぎないが、「かわいそうだが、君はまだ死ねない」というのは、カミーユにとって本当に残酷なセリフだと思う。
ちなみにカミーユがキリマンジャロに降り立ったのは、クワトロの百式が敵の攻撃により予定外に大気圏に落ち始めたのを救出した為で、これも結果から見れば、クワトロの命を救って、代わりにフォウを喪ったとも言えるでしょう。
そんな男が、偽名に偽名を重ねて、本来背負うべき役割から今も逃げ続けている。
この回は、カミーユとクワトロの以下のやりとりで幕を閉じます。
カミーユ「僕はもう、あなたのことをクワトロ大尉とは呼びませんよ。あなたはシャア・アズナブルに戻らなくてはいけないんです」
クワトロ「そうだな、カミーユ」
ロザミア・バダムという妹
フォウを喪ったあと、再度宇宙に上がったカミーユの前に、ロザミア・バダムが現れます。
前半にも登場していますが、フォウと同じ強化人間として、カミーユを兄と思い込むよう洗脳されての再登場。
本記事のメインですし、ちょっと以前書いたロザミアの紹介をリライトして掲載しておきましょう。
地球連邦軍のオーガスタ研究所で調整を受けた強化人間。精神調整と共に体も強化されている。一年戦争時のコロニー落としが精神に大きな傷を残しており、ティターンズはそこを利用しエゥーゴを敵と思わせるようローレン・ナカモトに精神操作させた。(Wikipedia:ロザミア・バダム)
ロザミアは17歳という設定だそうだ。カミーユと同年齢ということになるだろうか。
私はイメージでなんとなく24歳ぐらいだと思っていた。劇中でカミーユの妹にしては老け顔だ、姉に見える、といった感じのやりとりがあったせいかも知れない。
明らかに20歳すぎである女性が、記憶操作によって年下のカミーユを「お兄ちゃん」と呼ばされる、という方が、いとしさとせつなさとグロテスクさとが高まって良いと思うので、今後も私の中では24歳ぐらいのイメージにしておこうと思う。
このあとさらに記憶を操られ、カミーユでなくティターンズパイロットのゲーツ・キャパを兄と思い込まされるので、いわば三段階で精神が変質させられたキャラクターと言えるだろう。
兄役のゲーツ・キャパを演じるのが矢尾一樹というところが味わい深い。
後番組である『機動戦士ガンダムZZ』において、彼はジュドー・アーシタという宇宙世紀最強の兄を演じることになる。
話をロザミアに戻す。
ロザミアは「突然現れた押しかけ美人妹(血縁なし)」という、とんでもないキャラクターでカミーユに接近します。
しかし、「そんな都合のいい人間がこの世にいるわけないだろ。いるとすれば軍に記憶操作された強化人間であり、スパイだ」というのが、富野アニメ的な世界観でございます。
とはいえ、オタク的な願望をハードな設定で皮肉っているわけではなく、結局の所どう理由をつけても、都合よく悲劇の少女を消費してしまうことについての言い訳であり、少女の本意でなく、背後に悪い大人(作品の中にも、作品の外=制作者にも)がいるせいだと、少女の罪を免責するための仕組みであったろうと私は思っています。
大人としての狡さと誠実さと。
そのあたりの事は「洗脳少女」という切り口で過去に記事を書いていますので、興味があればご覧下さい。
だから少女は、毎度コントロールされる。<富野アニメ 洗脳少女の系譜>
でも、この翌年に「押しかけ妹(血縁なし)」を本多知恵子声でやるのが、さらにえげつない。
ロザミア=記憶を手に入れたフォウ
フォウ・ムラサメは過去の記憶に囚われ、カミーユの「宇宙へ行って、エゥーゴの技術で記憶を取り戻そう」という誘いも拒絶し、地上から、サイコガンダムから離れられずに、宇宙に上がることのないまま生を終えました。
一方ロザミアは、家族に関する偽の記憶を植え付けられ、さらにはカミーユを兄と思い込ませることによって、宇宙へ上がり、カミーユとの再会を果たしています。
そう考えればロザミアは、「記憶を手に入れて宇宙に上がったフォウ」といえるのかも知れません。
もちろん、その記憶はティターンズが人工的に植え付けたものに過ぎないのですが。
ただ「宇宙へ行って、エゥーゴの技術で記憶を取り戻そう」と主張していたカミーユだって、そこに何の保証もあったわけではありません。事実アーガマでは、ロザミアを精密検査しても強化人間であることが分かった程度で、特に何も対策が打てていません。
例えば、カミーユがフォウを救出し、宇宙へ連れ出したとする。そこでエゥーゴの医療スタッフや研究者に「無い記憶を取り戻すことは出来ない。精神を安定させるために、ニセの記憶を植え付けるしか手はない」などと言われたとしたら、どうするだろう?
それは、悪意と善意、異なるベースとは言え、本質的にティターンズがロザミアにした事と何が異なるだろうか。
これはあくまで意地悪な仮定に過ぎないが、ロザミアが、フォウ・ムラサメのありえた可能性のひとつである事は確かでしょう。
第47話「宇宙の渦」での体験
ロザミアは精神不安定の中で、結局アーガマを去り、第48話「ロザミアの中で」で、敵として再びカミーユの前に現れます。
その前にまず抑えておくべきは、前回が第47話「宇宙の渦」であることです。
この回では、ハマーンのキュベレイとカミーユのZガンダムは、戦闘中に精神が共鳴して、深いレベルでつながります。
ララァとアムロの再現のようなシーンですが、ニュータイプであるハマーン本人が、カミーユを拒絶してすることで終わります。

カミーユ「僕は、チャンスがあったのにハマーンを殺せませんでした」
クワトロ「気にするな。それは私の役目だったのだろう」
カミーユはこの体験を通して、つながった相手であるハマーンを殺せなかった事を悔み、それをクワトロが適当な事を言ってなだめて、「宇宙の渦」の回は終了します。
適当な事というか、クワトロの責任という意味では真理ではあるのですが。
根本的にクワトロいやシャアの責任である、という記事を以前書きましたので、興味のある方はどうぞ。(こうして見ると、ちゃんと要所の記事は書いてるんだな。えらい)
僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>
ニュータイプ同士に精神の深いところでつながる能力があったとしても、それと分かり合えるかどうかは全くの別。
それでは、ニュータイプが持つ力とは、ニュータイプに出来ることとは一体なんなのか。
それを抱えたままカミーユは第48話「ロザミアの中で」を迎えます。
ロザミアの中でカミーユが見たもの
第48話の冒頭で、カミーユはブライト、クワトロとこのような会話を交わします。
カミーユ「もし、このままアクシズがグラナダに落ちたら、僕の責任です。僕がハマーンを殺せなかったから」
クワトロ「ハマーンが死んでもアクシズは落ちていた。気にするな。キュベレイを動けないようにしただけでも、カミーユは十分やった」
カミーユ「でも、モビルスーツは直せます。ハマーンは、倒せば……直せないんだ」
ブライト「カミーユ、いつからそんな苦労性になった?」
カミーユ「苦労してますからね」
ブライト「アクシズの方は任せておけ。カミーユは少し休んでいろ。いつモビルスーツ戦になるかもしれないんだからな」
カミーユ「はい」
クワトロ「カミーユ・ビダンか……。いい方向に変わっているようだが……」
未だにハマーンを殺せなかったことを悔やむカミーユ。
一度は精神がつながった相手とは思えない、いや、つながったからこそなのか。拒絶され、ハマーンの本性を見たからこそ、死ぬべきであり、殺すべきである、と考えているのか。それにしても――。
前回ラストの後悔をさらに引きずっているこのカミーユを見て「いい方向に変わっている」と考えるクワトロは、色んな意味でどうかしていると思うが、カミーユを誘い、戦場に出し、さまざまなものを背負わせた張本人のセリフにはふさわしいかも知れない。
ファ「少しは休んでいなくっちゃ。カミーユ。ね、戦争が終わったらまた前みたいに学校へ行ってケンカして、昔みたいになるわよね?」
カミーユ「ファ……」
ファ「ね? カミーユ」
カミーユ「元通りにはならないさ。オレは自分の役目がわかってきたから」
このカミーユの台詞は、結末への予兆という意味で有名なもの。
カミーユが考える「自分の役目」というのが明らかになるのが、前回「宇宙の渦」であり、今回の「ロザミアの中で」になる。
フォウと同じくサイコガンダム(Mk-II)で出撃するロザミア。
精神を安定させる為に、ティターンズのパイロット、ゲーツ・キャパを兄として信じ込まされたが、アーガマに接近したことで再び不安定になり、さらにシロッコのモビルスーツ隊の強襲に、ゲーツが対応するために、ロザミアとの交信ができなくなる。
一方のカミーユは接近する敵の気配に、フォウ・ムラサメを感じ、Zガンダムで出撃する。
この回では、カミーユが何度もロザミアをフォウと見間違える描写がされる。
フォウの幻影を見るだけでなく、フォウの幻聴も聞く。
フォウ「やっと会えたね、カミーユ。もう、離れないから」
カミーユが逃げ込んだコロニーの中で、ファに銃を突きつけるロザミア(カミーユはフォウの幻を見る)。

ファはロザミアの家族の記憶が偽物だと告げる。違う、お兄ちゃんがいる、とそれに反論するロザミア。
そこへカミーユが声をかける。
ロザミア「家族はいた。父と母と、お兄ちゃんと……」
ファ「そのあなたの記憶は偽物なのよ」
ロザミア「違う、あたしにはお兄ちゃんがいる!」
カミーユ「ロザミィ、一緒にボートで遊んだこと、覚えていないのか?」
ロザミア「お前はお兄ちゃんとは違う。あたしはロザミアだ。ロザミィじゃない」
直後、頭の痛みを訴えたロザミアは、泣きながら「お兄ちゃん!」と、兄を求め飛び出していく。
走り去るロザミアにフォウの姿を見て、思わず「フォウ」と呼びかけてしまうカミーユ。
このシーン。いつもなら兄として呼びかけるカミーユに、ロザミアなら一瞬でも応えるところを、一切の迷いなく「お前は兄ではない」と瞬時に切り捨てている。
この回のサブタイトル「ロザミアの中で」とは、要するにカミーユが「ロザミアの中で」フォウを見た、フォウを感じた、という意味になるだろう。前述したように、そのような描写はしつこいほどされている。
しかしそれはロザミアから見れば、カミーユは自分を見ていない、という事を意味する。
そんな存在は「お兄ちゃん」ではありえない。
ロザミアの事を「記憶を手に入れたフォウ」と表現したが、そういう存在だからこそカミーユはロザミアにフォウを重ねて、今度こそは少女を救おうとしただろう。「人は過ちを繰り返す」だけではないはずだ。
だが、それゆえにカミーユが見ているのはフォウ(の幻影)であり、ロザミアではない。
皮肉なことにそれがカミーユに、ロザミアの兄の資格を失わせた。
目の前にカミーユがいるのにも関わらず、お兄ちゃんはどこ?と兄を探しさまようロザミィ。
この時の兄を求めるロザミアの悲痛な声を、ゲーツ・キャパはしっかり受け取っている。
同じく偽物の兄ながら、ゲーツ・キャパは最後までロザミアを気にはしている。
しかし、シロッコのモビルスーツ部隊の迎撃という上官バスクの命令を優先し、ロザミアの所には全く来てくれない。
この回でロザミアは、2人の兄の両方から自分の事を見てはもらえなかった。
主人公にできることがない。ただひとつの事をのぞいて
最終局面。サイコガンダムに乗り込んだロザミアは、メガ粒子砲を乱射しながら兄を求めてさまよう。
撒き散らされるメガ粒子の光は、ロザミアの涙だ。大号泣と言っていい。

発狂状態のサイコガンダムが、アーガマに迫る。
カミーユ「誰でもいい!止めてくれ!」
カミーユが叫ぶ。これは誰あろう、ガンダムに乗るニュータイプの主人公の叫びだ。
だが思い出して欲しい。キリマンジャロにおいて「過ち」界のパイオニア、「過ち」パイセンこと、シャアとアムロの2人が揃っていても
少女一人を何ともできなかったのに、誰にも止められるわけがない。
そしてもちろん、ロザミアに兄として映らなくなったカミーユ自身にも止められるわけがない。
カミーユ「ロザミィ、か、かわいそうだが、ちょ、直撃させる!」
「かわいそうだが直撃させる」以外に、ロザミィにしてやれることが何もない。この絶望。
本当に?本当に何もないのか?何もない。何もないことはアムロとシャアが証明し、さらに言い訳のように説明した。人の愚かな過ちはただ繰り返されるのだと。
カミーユにとっても救うべき少女の悲劇が、フォウに続き、ロザミアと繰り返されたことになる。
かくしてロザミィめがけ、救いの矢は放たれる。

ロザミアの求める「早く」と、フォウの求める「早く」
射撃の直前。カミーユの目の前に、ロザミアとフォウのイメージが描写される。
この記事を書くにあたり、「ロザミアの中で」を見直したときに、この場面での2人の台詞の違いに改めて気づいた。
ロザミア「(早く来て、お兄ちゃん!)」
フォウ「(早く!)」
カミーユ「フォウが……」
フォウ「(早く、カミーユ!)」
ロザミアが「早く」と言っているのは、どこにもいない兄に対して、私の元に早く来てと言っている。
フォウも同じく「早く」と言っている。しかし、フォウの言う「早く」は、明らかにロザミアが希望している「早く」とは違う。
またカミーユが反応しているのも、フォウの言葉であり、その直後に引き金が引かれている。
サイコガンダムの頭部を直撃も、キリマンジャロのフォウと全く同じ結末であり、これはカミーユ自身の手による三度目のフォウ・ムラサメ殺しといえるでしょう。
救うべき少女を自らの手で葬ってしまうというのは、ララァに対するアムロの体験であり、キリマンジャロのかばわれて喪うというシャアの体験と合わせて、これで両方の体験をコンプリートしたことになる。アムロとシャアが一生背負ったものを両方……。
さらにそれでありながら、最後の最後にロザミアにこう言わせる。
ロザミア「見つけた!お兄ちゃん!」

ロザミアが最後に見つけたお兄ちゃん。だがお兄ちゃんには誰が見えていたのだろうか。
フォウの導きで彼女の幻影を葬り去った瞬間、ロザミィのお兄ちゃんにまた戻ったのかも知れない。
いや。そもそも見つけるも何も、お兄ちゃん自体が偽記憶で存在などしていない。
お互いが幻を見ていたようなものにすぎない。
それでもロザミアは、最後にお兄ちゃんを見つけた。
劇場版の為に取り除かれたものはなにか
以前から「永遠のフォウ」は大丈夫だが「ロザミアの中で」は耐えられない、と何度も言っているのはこのあたりによります。
それを伝えるため、今回は長々と說明してまいりました。お付き合い頂き、ありがとうございました。
この回は、アーガマに戻った後の以下のようなやりとりで締めくくられます。
ファ「ロザミアさんには言い過ぎたのかしら。あの人には罪がないのにね」
カミーユ「ファは、何も間違ったことなんて言っちゃいないさ。ニュータイプも強化人間も、結局何もできないのさ。そう言ったのはファだろ?」
ファ「でも……」
カミーユ「できることと言ったら、人殺しだけみたいだな」
ファ「カミーユ……」(ファ、去る)
クワトロ「あまり気にするな」
カミーユ「気にしてなんていませんよ。気にしてたら、ニュータイプなんてやってられないでしょ?」(笑顔)

クワトロ大尉、カミーユは良い方向へ変わっているんでしたよね。良かったですね。
この状態でカミーユは、ラスト2話の最終決戦、「生命散って」「宇宙を駆ける」へ進みます。
「永遠のフォウ」「ロザミアの中で」を踏まえたTV版の結末は、必然のものといえるでしょう。
劇場版『Zガンダム』においては、カミーユはTV版と違った結末を迎えましたが、個人的には『ブレンパワード』『∀ガンダム』『キングゲイナー』と作品を追っていれば、結末が変わること自体は理解できるものでした。
この三作を見ている人にとっては、『Zガンダム』に対するスタンスの変化も分かるし、ラストの変更も正直、想定の範囲内でしかありませんからね。
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だからこそ私は当時、そもそも劇場版『Zガンダム』三部作を作る必要がないのでは、と否定的に考えていました。
(ガンダム以外の新作を求めていた私にとっては、劇場版制作の発表は絶望に近かった)
しかし『Zガンダム』だからこそ、新訳劇場版を見たという人も多くいたでしょうから、『Zガンダム』の形を借りなければ、より広く、また分かりやすく変化を伝えることができなかったとも言えるのだと思います。
そう考えれば、映画制作前から予測可能だったラストの変化に注目するよりも、変化するラストのために取り除かれたものは何か、を考える方が面白く、意義があるのではないでしょうか。
「永遠のフォウ」と「ロザミアの中で」は、劇場版『Zガンダム』からカットされたエピソードです。
キリマンジャロでのフォウの二度目の死は、カットも当然と思うほど物語的には意味がないものですが、TV版においては儀式としての意味はあり、それはロザミアへの直撃、すなわちフォウ三度目の死の儀式につながっています。
「永遠のフォウ」をカットして「ロザミアの中で」だけを残すことは出来ないし、もちろんその逆も出来ません。カットするなら、全てカットするしかありません。
それに前述したように、「永遠のフォウ」がTV版カミーユの運命の分岐点なのであれば、尺の問題以前に、「永遠のフォウ」&「ロザミアの中で」を収録しては、どう再編集しても劇場版のようなラストを迎えることはできないでしょう。
だから劇場版でのカットは妥当です。
繰り返し述べているように、大きなストーリーラインとしての意義は薄いのも確かです。
しかし、TV版の結末を迎えたカミーユを理解するためには、極めて重要な要素だろうと思います。
TV版『機動戦士Zガンダム』を確認したくなった皆様へ
Amazonプライムビデオで配信中のTVシリーズ『機動戦士Zガンダム』があと少しで、見放題からはずれてしまうとのこと。
今ならまだ間に合う! 見ることができる環境の方は急いで見よう。
ぜひTV版『Zガンダム』で、あなたのお兄ちゃんを見つけて下さい。
生きてるってなんだろ。生きてるってなあに。
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