『聖戦士ダンバイン』の本放送当時、私は小学生でしたが熱心に見ていました。
その証拠に、後年、大人になってから全話見直しましたが、かなりの部分を覚えていました。
当時、我が家にはビデオデッキすら無かったこと、放送時間が小学生の遊ぶ時間の真っ只中だったことを考えると、相当がんばって視聴したはずです。
ダンバインかどうかは忘れましたが、近所の広場で友達と野球か何かで遊んでいて、富野作品を見るために各自帰宅し、終わったら集合してまた野球。みたいな覚えはあります。
これをいわゆる"富野"による試合の一時中断と呼び(豪雨、雷雨と同じ扱い)、その後、エルガイムやZガンダムでも続いていくことになります。

この時には、すでに富野由悠季作品と自覚して見ていたはず。
世の中にまだこれほどファンタジーがあふれていなかったので、ダンバインは人生で初めて体験したハイファンタジーだったと言ってよいと思います。
また、ザンボットの最終回は見逃していたし、イデオン発動篇を見るのはもう少し後だと思うので、まともに見た初めての全滅最終回でした。
初めてのファンタジーかつ、富野全滅バージンを捧げた作品ということになります。
そういう意味では思い入れのある作品ですね。

ということで、今回は『聖戦士ダンバイン』で"物語の始め方"を考えてみましょう。



主人公ショウ・ザマが犯した過ち


大人になってからは、子供のころには知らなかった当時の監督インタビューなんかも読みましたが、リアルタイムに読めなかったのを後悔するぐらいの面白さ。
その中でも、圧倒的に面白かったのは以下の話。

※主人公ショウ・ザマについて

富野:作劇的なミスがショウ・ザマという人をあのように決めてしまった、というのも事実です。
編集:どのようなミスですか。
富野:簡単に言っちゃうと、こうです。第1話でショウが地上から降りて来た時に、圧倒的に過酷な状況であったならよかったんです。あの人、バイストン・ウェルで一晩寝たでしょう。あの間がショウ・ザマを自堕落にしたんです。降りて来た時に完全な戦闘空間にスポーッと入っていたら、弾んだね。
編集:あれは不思議な感覚でしたね。
富野:不思議だね。なぜ寝かせたのか、僕にも分からないんだよね。
それこそ敵味方を順々に見せていくというTVの作り方を投影させて、ショウにその中を上手くくぐり抜けていかせよう……という穏やかなルートを作った。個人でなく世界を上手く見せようという気分がここにも出てた。考えれば最悪の始まり方をしたんだよね。

「聖戦士ダンバイン大事典」インタビューより
(私は「富野語録」に再録されたものを読みました)


「ダンバインに乗る前に、ショウが一晩寝た」
この発言は本当に面白くて、個人的にはダンバインという作品のイメージは、これに集約していいのではとすら思っています。
大事なのは、これは単にキャラクターのお話(キャラクター論)では無いということです。第1話の重要性の話であり、シリーズ構成のお話であり、「ダンバイン」の作品全体を支配してしまう作品カラーの問題でもあります。
ここでは、キャラクター論の話は置いておいて、そちらの話をしていきましょう。

『聖戦士ダンバイン』第1話の流れ


第1話で「ショウが寝る」かどうかが、なぜそんなおおごとになってしまうのか?
まずは『ダンバイン』第1話の流れを大雑把にみてみましょう。

<第1話「聖戦士たち」>
(1)ショウの召還(地上→バイストン・ウェル)
冒頭で、バイクに乗っていたショウがいきなり異世界バイストン・ウェルに召還されます。ついたところはドレイク城。

(2)バイストン・ウェル(世界)の紹介
何がなんだか分からないショウに、バイストン・ウェルの説明が入ります。「聖戦士」として呼び出されたことも聞いて、何とか状況と自分の立場を把握。
(あくまで説明を受けたのであって、ショウ自身が体と頭で感じとったわけではないという所もポイントでしょうか)

(3)オーラバトラー(ロボット)の紹介
続いて、オーラバトラー工房を見学し、同じ地上人のショット・ウェポンから、ロボット(オーラバトラー)についての説明を聞きます。
その後、宴の余興で、バーンの乗るオーラバトラー「ドラムロ」のデモンストレーションを見て、動きや強さに驚きます。

実はここでニー・ギブンのゼラーナ隊が宴へ奇襲をかけてきますが、単なる顔見せですぐに撤退。何も起こりません。

その後のタイミングで、ショウはおやすみタイム。
これが作品を決定付ける重要なできごと。

(4)ダンバインへ搭乗(トカマク撃墜)
翌日、ショウ達は初めてダンバインに乗ります。再びニー・ギブンの襲撃。この戦いでいきなり、ショウと同時に呼ばれた地上人トカマクが戦死します。
童話の中のようなファンタジックな世界だが、戦って敗れれば現実として死ぬのだ、そういう世界へ連れて来られたのだ、という事が分かるシーン………とか何とかもっともらしい理屈は何でも言えますが、小学生の私らの間ですら、トカマクか、柿崎か、というぐらい、やられキャラの代名詞でしたよ、トカマク。ごっこ遊びのときに、なってはいけないキャラクターNo.1でした。
ショウは、ここでマーベル・フローズンと戦い、彼女に「ドレイクに手を貸すバカな男」と言われてしまいます。

ニーの最初の奇襲があまり生きてない印象とはいえ、第1話中に主役ロボットの初お披露目もしているし、そこで敵から自分のポジションが間違っていると指摘され、次回へつながる流れもきっちりあります。
では、何がいけないのでしょう?

ショウが寝たことによる影響


あれこれ考えるよりまず富野監督ご本人に聞いてみましょう。
同上のインタビューで、すでに話してくれていますので、いくつかピックアップ。

※前半はファンタジー+ロボットだが後半は完全にロボットものに方向転換したことを指摘されて

富野:転機というのは第1話のラッシュを見た瞬間です。

<中略>

観た時"ああ、あまりにも自分の作りたい物を作りすぎているな"と感じたんです。それは実際に商売として―――何だかんだ言っても5時半の時間枠にやる番組として正しいことなのか?とちょっとクエスチョンマークがついたんです。

<中略>

一般視聴者が興味が湧く展開になっているのかどうなのかっていう時に、とてもわかりづらい。その理由も分かっています。始まった当初からの作劇というものが、世界を描くことのみに興味を置いたシフトであったために、個人を描くことをしていないためです。
<中略>
バイストン・ウェルという世界を描きたかったし、それを俯瞰する作品にしたかった。そこでロボット物を利用させてもらおうと思った。とても明解な意図があった。ところがそれを実際にやってみたら"そら見ろ!"となったわけ。

<中略>

(バイストン・ウェルという)モチーフに対してのミスはしていません。ただTVという媒体でやることを間違った。口惜しいけどそれだけは認めざるを得ない。


これらは第1話を見直したとき、実際に私自身も感じたことでもあります。

「主役がショウ・ザマでなく、完全にバイストン・ウェル(背景世界)になっている」

バイストン・ウェルは、「陸と海の間」にある架空の異世界。
テレビアニメ『聖戦士ダンバイン』のほか、いくつもの小説の舞台となって、「バイストン・ウェルもの」として富野監督のライフワークにもなっています。
(どうでもいいけど、ショウ・ザマって、狭間で生きる―または翔ぶ?―から来た名前なんでしょうか?)

当時ファンタジーはまだ今ほど身近なものではありませんでした。視聴者(特に当時の私のような小学生)はファンタジーをよく知りません。
いきなり異世界バイストン・ウェルに連れて来られた主人公ショウと同じように、状況と、作品のコンセプト、カラーが良く分かりません。

そのため第1話で達成すべきミッションは2つありました。

(1)当時、身近でないファンタジーを(子供たちにも)分かりやすく紹介する。
(2)その上で「ファンタジーでロボットもの」をするためのオーラバトラーを紹介する。


これはなかなか大変なミッションです。
ダンバインは「ファンタジーなのに、ロボット(オーラバトラー)もの」というギャップが設定上の見せ場ですから、前提としてのベーシックなファンタジー物がまずあって、次にその世界でロボットが登場すると、サプライズがガシっと決まるわけです。
ところが前提となるファンタジーがまだ身近で無かったので、舞台であるファンタジー世界を紹介するところから始めないといけませんでした。

その結果『ダンバイン』第1話がどうなったかというと、富野監督自身が言うように、完全に世界説明が主役になってしまっています。
ショウはお客様扱いで、観光旅行か社会見学かという感じ。しまいには、オーラバトラーによる闘技場での怪獣退治ショーまでついてくる始末。
最後はドレイク城ホテルのふかふかのベッドでぐっすり眠って、バイストン・ウェル旅行の楽しい1日目は終わってしまいます。

1日目で観光と社会見学が終わったので、2日目は体験学習とまいりましょう。
ここでようやく実際にオーラバトラーに乗って大空に舞い上がるというオプショナルツアーに進めるわけです。
この段階で初めてハプニングが発生し、やっと物語が動き始めます。それがトカマクの戦死だったり、初戦闘でのマーベルとの接触であったりするわけですが、これはもう段取り通りのツアー(第1話)の最後の最後で起こったハプニングということになるわけです。

こうしてショウがお客様気分でバイストン・ウェルとオーラバトラーを体験するという始まり方は、第1話に限らずその後にも影響を与えています。

私個人の感想としても、導入部といえる第1話~4話あたりまではいいとして、5話以降の第1クールの話は、監督が言うように物語が弾んでないように感じます。
それでも私みたいな富野アニメ好きはどうとでも楽しめるからいいですよ。
でもね、初めて『ダンバイン』見る友人にビデオを貸したら、物の見事に第5話「キーン危うし」で視聴がストップしたんですよね。そうなった気持ちは分かるから「後で面白くなるから我慢して見ろ」とは私は言わなかった。アニメは我慢して見るようなものではないですし。
ただ、その代わりこう言いました。

「そこから第15話まで全部飛ばして、次は第16話を見てほしい。それでダメならもう見なくていいよ」

『聖戦士ダンバイン』第16話といえば、言わずと知れた「東京上空」です。

「東京上空」に見る物語の軌道修正


第16話「東京上空」は、ショウのダンバインとガラリアのバストールの戦闘中にオーラロードが開いてしまい、地上(東京)に出てしまう、というお話です。第16~18話で東京三部作ですね。
オーラバトラーが東京上空で戦ったり、ショウが両親と決別したり、地上人に追われたりと、後半の展開の前哨戦・前フリでもあり、ターニングポイントとなった重要な回です。

実は、このお話は当初3クールの頭(27話くらい)に予定されていたそうです。もし27話として放送されていたら、ダンバインの評価が今日より下がっていたことは間違いないでしょう。

前述のとおり、第1話の時点で富野監督は、この作品の危うさに気づき、最速で軌道修正しようとしました。
その時にすでに2クール分の物語が作業として動いているので、すぐには変えられなかったのですが、「東京上空」を改善できる最短の話数に持ってきました。それが16話です。
この逸話は、制作進行中での軌道修正の難しさを物語ってもいますが、恐らく厳しい状況下でのベストの選択だったのではないでしょうか。それぐらいすばらしい決断だと思います。

他にもさまざまな軌道修正やリカバリーの策がとられました。

・シーラ様は、男性の老人の予定だったが、美少女へ変更
・東京上空を早める→地上への浮上も早まる→舞台としてのバイストン・ウェルを捨てる(これはすごい)
・地上への浮上後は、完全にロボット物の展開に


これらはもちろん物語的な修正だけでなく、商品としての修正も多分に含まれます。
ビルバインが背中にキャノン背負って、メカメカしいのも、その一つかも知れません。

ショウが第1話で寝たことは、ショウ・ザマというキャラクターの形成上にも大きな影響を及ぼしました。
ですが、それ以上に『聖戦士ダンバイン』という作品自体が、重く背負うことになったのです。

これは第1話を、特に「世界や設定、動機の処理が大変なロボットアニメ」の第1話をどうするのか?という意味で非常に面白く、ためになるサンプルだと私は思います。

『ダンバイン』第1話のあるべき姿とは


では『ダンバイン』は、どのような第1話にすれば良かったのか。
それもまた、富野監督がインタビューですでに話しています(さすが、菅野よう子に「全部言う監督」と言われた人)。

富野:(ショウはバイストン・ウェルに召還されたときに)迫水真次郎のようにパッと降りて来た時に刀を掴んでいなけりゃいけなかった。
極端な言い方をすればダンバインに乗っていなけりゃならなかった。


迫水真次郎は「バイストン・ウェルもの」の小説の1つ。「リーンの翼」の主人公。
実は私は「リーンの翼」は読んでいません。(なぜか「ガーゼィの翼」は全部読みました)
ですが、富野監督が伝えたいことは分かるような気がします。

ショウは何がなんだか分からない状態だろうが、とにかくダンバインのコクピットに乗って、目の前の敵と戦わなければならなかった。
つまり、背景世界やロボットの説明を後回しにしても、まずドラマやアクションで主人公と観客をゆさぶって、作品にひきこむことを優先させなければならなかった、と私は理解しました。
説明してるヒマは無いから死にたくなければとにかく乗れ、とばかりに戦わせて、それが終わってひと息ついてから詳しい説明タイムとなるわけです。
これ、よく考えたらそもそも「ガンダム」のアムロがそうですよね。
(「リーンの翼」については、どなたか教えていただけるとありがたいです)

このタイプの第1話については、ハリウッドのアクション映画冒頭でのオープニングエピソードも参考になるように思います。
これを連続物の第1話と同じような役割ととらえると、まずオープニングで軽めのミッションをカッコいいアクションでこなしつつ、世界、キャラクターを何となくで紹介しています。
時間が2時間しかないので、丁寧に段取りを踏んで、というわけにもいきません。まず魅力的なアクションなどの見せ場で観客を作品世界にひきこむのが何より先決。詳しい説明はオープニングが終わって、ひと段落してからでも十分。という作りが多いですよね。
これらもいわば「いきなりコクピットに乗せられる」タイプ、いや全体の尺の長さを考えるとその極地といえるかも知れません。

ちなみにこのオープニングをするためには、映画冒頭でのアクション要員が必要になります。ですが、ヒーロー物第一作なんかですと、映画冒頭ではまだ主人公がヒーローなっていません。
そのため「ヒーローの導き手」が主人公の代わりにオープニングの主役を務めることになります。「マトリックス」のトリニティなんかもそうですし、先日見た「WANTED」でのアンジェリーナ・ジョリーもそうでしたね。
ヒーローになった主人公は、第二作目でやっとカッコよくオープニングに登場することができるのです。

このタイプの第1話にするのは、確かに方法のひとつでしょう。
少なくとも主役がバイストン・ウェルから、ショウ・ザマになることは間違いないでしょうし。

『ダンバイン』以降の富野作品第1話


しかし、TVシリーズをこれだけやっている富野監督を持ってしても、第1話というのは本当に難しいものなんですね。
いや、数多くやっているからこそ、違うことに色々挑戦したくなったりして、結果こうなるということかも知れません。

『ダンバイン』後の作品での第1話を見渡すと、やはり『Vガンダム』と『ターンAガンダム』が思い当たります。

『Vガンダム』の1話については、wikipediaでの記述を引用しましょう

もともとの構成ではVガンダムが初登場するのは第4話の予定であったが、第1話から主人公MSが登場しないことにスポンサーが難色を示したため、Vガンダム初登場を第1話として、第2話~第4話はそれ以前の話をシャクティが回想するという構成になった。


これは実際に当時、本放送見ていて多少混乱した覚えがあります。
第1話でいきなりガンダムに乗るのは、先の「いきなりコクピット」論や商業的な意味を踏まえても、悪くないはずなのですが、『Vガンダム』は無理がありすぎてさすがに苦しく、当時の制作上の混乱が垣間見えます。

『Vガンダム』で叶わなかった"第1話でロボットに乗らないガンダム"というのは、その後の『ターンAガンダム』で実現します。

『ターンA』第1話では、背景世界とキャラクターの紹介に1話分をまるまる費やしました。
第1話は、月から主人公ロランが地球にやってきて、親切な人たちに拾われて成長しながら、地球での生活を楽しむ様子が描かれます。
2話目が実質的な第1話。初めて敵が登場し、主役ロボのターンAが初めて登場し、それに主人公ロランが乗って、初戦闘をします。

ロランは、ターンAに乗るまでに一晩眠るどころか、劇中で2年も地球で過ごしてしまいました。いっぱい寝すぎですね。
フィルム上の時間を見ても、1話分以上、ガンダムに乗っていません。

『ターンA』はこれまでのガンダムの延長上で考える世界では無いため、全く新しい舞台が用意されました。第1話では、『ダンバイン』と同じく、その新しい世界とキャラクターを伝えることを優先させてしまっていて、敵やロボット、戦闘が後回しになってしまっていますね。
でも『ダンバイン』と違って、何度見直しても、これでいい、いやこうでないと、と思うんですよね。

その理由は色々あるのですが、『ターンA』が世界紹介パートを第1話、ロボットアニメパートを第2話として回を分けたことは大きいのではと思います。
その結果、1話ではたっぷりと世界名作劇場が楽しめたし、2話では1話分かけて紹介した世界にメガ粒子砲と複葉機が舞う戦闘のサプライズを楽しめました。
世界名作劇場の空にメガ粒子砲の光が走るのを見て、2話目で初めて「面白い!」と思わず声が出たのを覚えています。
確かにそういう意味では真に「面白い」と初めて唸ったのは第2話なのですが、これは1話があってのこと。いきなり2話の内容をやっていたら「面白い!」と声にまで出さなかったでしょう。
連続物のTVシリーズゆえの楽しさだったように感じますね。
(『ターンA』についてはたっぷりやりたいので、ここはこのぐらいにしときます)

今の富野監督なら、ゆったりバイストン・ウェルをやってもいいんじゃないかな。
『ターンA』『キングゲイナー』までいった富野監督ならそれが出来るんですよね。
(OVA「リーンの翼」は未見ですが、OVAでは全体の尺の制約があるので、こういう方式ではできないでしょう)
その時に『ダンバイン』第1話のリベンジをして欲しいなあ。
もちろん「いきなりコクピット」の第1話ではなく、バイストン・ウェルを楽しそうに描いて、ロボットに乗らない第1話としてのリベンジ。
バイストン・ウェルに住んでみたいな、と思える第1話を。

以前、友人との雑談に「ガンダム三大悪女」の話題が出ました。

『機動戦士ガンダム』シリーズの舞台である「宇宙世紀」で、「悪女」のレッテルを貼られた3人のキャラクターのことです。「宇宙世紀三大悪女」と言った方が正確な表現になるでしょうか。

ところが友人と話してみると、その3名のうち2名は同じだったが、3人目が一致しない。

(さて、ここで皆さん「ガンダム三大悪女」が誰だか思い浮かべてみましょう。――浮かびましたか?では続きをどうぞ)

一致した2名は、恐らく皆さんの想像通りかも知れない。

・カテジナ・ルース(Vガンダム)
・ニナ・パープルトン(ガンダム0083)


ガンダム三大悪女

問題は3人目。

私が挙げたのは、ベルトーチカ・イルマ(Zガンダム)
友人が挙げたのは、クェス・パラヤ(逆襲のシャア)

ベルトーチカもクェスも、それなりに納得できる部分があるので、お互い「なるほどな」と思ったのですが、私も友人も三大悪女はネットで見たことがあるというだけにすぎません。
世の中的にはどちらが支持されているのでしょうか。

検索して調べてみると、こんなことが書いてありました。

ガンダムWiki - 宇宙世紀
http://wiki.cre.jp/GUNDAM/%E5%AE%87%E5%AE%99%E4%B8%96%E7%B4%80#.E7.94.A8.E8.AA.9E

ニナ・パープルトン、カテジナ・ルース。あと一人はクェス・パラヤ説とベルトーチカ・イルマ説がある。


あー、なるほど。3人目にはベルトーチカとクェス、両方の説もあったわけですね。
私と友人は、ベルトーチカ説、クェス説をそれぞれ覚えていたというわけか。

つまりは、カテジナ、ニナの2人は固定であることが多いけれど、3人目には不動のメンバーがいないわけですね。
無理に三大にせず、2トップにするなり、四天王にするなりすればいいと思いますが「三大美女」「三大悪女」のように女性を3人1セットにする言葉が元々あったところに合わせたからでしょうか。

3人目に不動がいない以上は、「三大悪女の三番目はあなたの心の中にいます」として空席とし、各自が悪女と思うキャラクターを当てはめればいいんじゃないでしょうか。

普通にシーマ姐さん(ガンダム0083)とか、サラ・ザビアロフ(Zガンダム)とか、シャクティ(Vガンダム)なんかが票を集めるかも知れない。人によっては、バーニィを殺したクリス(ポケットの中の戦争)を挙げることさえできるかも知れません。挙げようと思えば誰でも当てはめることは出来るでしょう。

以下のページで紹介されている「宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン」も大変面白い。
確かにシャアとアムロの人生を狂わせた影響力は『ガンダム』シリーズ最大級と言ってもいいですから。

宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン
http://drupal.cre.jp/node/1900

個人的には、ベルトーチカはどこかで読んだ3人目というだけなので特に推す理由もありません。

というかですね。3人目どころか、不動の2トップであるカテジナ、ニナも別に悪女と思わないんですよね。
ネットを見ると、この2人は蛇蝎のごとく嫌われているのですが、私にはなぜそこまで嫌う必要があるのかよく分からないのです。

今回は、ちょっとその辺りを突っ込んで話してみましょう。




ニナ・パープルトン(ガンダム0083)


ニナ・パープルトンは、アナハイム・エレクトロニクス社のシステムエンジニア。ガンダム開発計画の中で製造されたガンダム試作1号機、ガンダム試作2号機を担当します。兵士ではなく、ガンダムを作る立場のキャラクターです。

ニナの人物について、参照はこちら(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニナ・パープルトン

ニナについては、昔、ファーストガンダムと比較する形で書いたことがあります。

ガンダム0083とガンダム0079の比較
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-26.html

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カテジナと並んで不動の悪女とされている彼女ですが、エンジニアですから人殺しのような事は何もしていないのに、ここまで嫌われるのはなかなかすごいですね。

彼女については以前書いたように、シリーズ途中での監督交代などの影響もあって、シリーズ構成や脚本が悪いのであって、ニナ自身はその犠牲になった、むしろ被害者といってもよいと思います。
「あの場面」を生かすのであれば、少なくとも以下の要素が必要だったのではないでしょうか。

・ガトーのガンダム強奪の時点で、ニナがガトーに気付く
・フォン・ブラウン市でニナがガトーに出会ってラストへの伏線をふっておく
・阻止限界点後、ガトーはかばうが、コウには銃は向けない

(コウに殺しをさせたくないのに、彼に人殺しの道具である銃を向けてはいけない。人殺しの道具そのものを否定して止めるべき)


しかし、これらは明らかにシリーズ構成や脚本が悪いわけで、ニナはそのワリを食った格好。

ガンダム0083は、ビデオ作品として第一期、第二期に分けてリリースされたはずですが、売れ行き次第では第一期で販売が終わることもあったのではないか(もちろん好評につき全て制作された)。
そのOVAの変則的なリリース体制が、監督交代に影響を与えたのだろうか、とも思うのですが、私には詳細は分からない。
ニナとガトーの関係描写に変化が生じたのは監督交代の影響のようだが、その詳細も私にはよく分からない。

分かっていることで判断すれば、ニナの「罪状」を全てキャラクターに背負わせるのはあまりにかわいそうだな、と私は思っています。

もちろん裏側で何があったにせよ、視聴者が見ているのはTV画面であるわけで、そこで物語が展開された以上、画面に出ているキャラクターに責任が生じてしまうのも理解はできます。
ですが、それにしたって「ニナがコウを裏切った」とか「裏切っておいてエンディングではちゃっかり微笑みながらコウのところへ戻ってきた」などは、あまりにキャラクターの表面的な行動だけで好悪を決めすぎていて、もったいないとしか思いません。

世の中には、主人公(0083の場合、本当はガトーだけど)にダメージを与えるキャラクターに過敏に反応する人が多いのでしょうか。でもダメージを受けたのは主人公であって、視聴者(あなた)じゃないんだから、そこまで嫌ったり、憎んだりしなくてもと思うのです。

この記事は検索したところから始まって、調べながら書いているわけですが、レコア・ロンド(Zガンダム)も評判悪いと分かって今びっくりしました。
みんな、女の裏切りというだけで許さないのかな? お話が面白くなるかどうかとか、豊かになるかどうかとかは全然関係ないんですかね。




カテジナ・ルース(Vガンダム)



↓人物詳細はこちらで(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/カテジナ・ルース

ニナが人殺しなしで悪女界入りした女なら、カテジナは人を殺しすぎて悪女界入り。
(あー、でも結局、彼女も主人公サイドから敵サイドへの裏切りキャラとして認識されているのか)

私はカテジナに非常に思い入れがあって、いつかきっちり彼女について書こうと長年思っているのだけど、とりあえずその雛形のつもりで書く。

まずカテジナの「罪状」を整理してみようか。

(1)主人公ウッソの「憧れのお姉さん」から、敵(ライバル)の「女」へ(裏切り)
(2)敵パイロットとして、主人公に立ちふさがる
(3)シュラク隊皆殺し(最終回まで続く)
(4)ウッソの母を捕獲(母の死の遠因)
(5)生身の水着美女部隊(ネネカ隊)をウッソにぶつける
(6)ウッソとクロノクルを戦わせて、残った方を愛すと宣言
(7)最後の最後にオデロに手をかける
(8)ラスボスとしてウッソと対決


………こうして並べるとすごいね。
裏切りや味方キャラ殺しなんかはいくつかのキャラクターがやっているけど、ここまで揃えた人は確かにいない。ガンダム界の松永久秀。

では、これらの「罪状」に対して出された「判決」はどうだったのか。

・愛したクロノクルを失う。
・視力を失う。
・記憶を失う(ここはどちらともとれる)
・ウッソ・エヴィンを失う
(つまり全てを失い、精神と肉体に深い傷を負う)
・生まれ故郷の街ウーイッグへ全てを失って戻る


最大のポイントは極刑である「死刑」を免れたことでしょう。
「死刑」判決が出なかったことに不満を持つ人も多いようですが、そう思うのはとても悲しいことだと私は感じます。
これについては後ほど解説しましょう。

それではまず、ここから私は弁護人として、カテジナの罪状を弁護してみます。
その前に、Vガンダムそのものについてある程度語っておかないといけないが、長くなるので乱暴なのを承知で、1点だけに絞ります。
それは「Vガンダムは狂った世界、登場人物も状況も全て狂っている(ついでにいえばその当時の監督も)」ということ。
カテジナを考えるときに、これを前提とする必要があるということは覚えていて欲しい。

【カテジナの弁護】

(1)主人公ウッソの「憧れのお姉さん」から、敵(ライバル)の「女」へ(裏切り)
カテジナは、ウッソにとっては憧れの年上のお姉さんポジションだったんですよね。
ウッソは成り行きでガンダムに乗り、レジスタンス組織リガ・ミリティアのパイロットになってしまうが、子供をモビルスーツに載せて戦うようなリガ・ミリティアのやり方に反発していたのがカテジナさんです。
リガ・ミリティアのカミオン隊は老人ばかり。その老人が子供に人殺しをさせようとしている。これに嫌悪を表明したカテジナ。どちらが狂っていてどちらがまともなのか。
とにかく、もともとリガ・ミリティア(味方サイド)の理念に共感しているわけでも何でもなかったということは覚えておかなければいけない。

「でも結局、敵であるクロノクルにホイホイついていっちゃった娘さんなわけだよね?」
確かに行動はね。
でもね、彼女を勝手に「憧れのお姉さん」像(アイドル)として見てたのはウッソであって、それはカテジナの実体じゃない。
wikipediaでは「家庭を顧みない父、それにかこつけて愛人を作っていた母に幻滅していた」と紹介されている。カミーユみたいな家庭環境ですね。
多分カテジナは故郷の街(ウーイッグ)を出たかった。こんな家族や生まれ故郷と関係のないところで生きたかった。
そこへ紳士的な好青年クロノクルがやってきた。彼女は新しい世界へ連れて行ってくれるクロノクルについていく。(カミーユがクワトロについていったのと行動は同じ)
カテジナに必要だったのは彼女を孤独から救い外へ連れて行ってくれる存在、はっきりいえば白馬の王子様であって、彼女を幻想のお姫様として崇めたてまつる少年じゃない。
(もっといえば、外へ行くきっかけがあればいいわけで、厳密にはクロノクルでなければいけない必要すらないのだが)

地方の高校生が進学時に地元ではなく東京の大学を選んで、親元を出て、自分の住む世界を変え、自分を変えていこうとするのと根本的には変わらないと思う。
その時に自分を慕ってくれた近所の子供がいるからといって、東京へ行くのをやめる人がいるだろうか。そしてそれは裏切りなのか。

ウッソはこの「憧れのお姉さん(ウッソの幻想)の裏切り」が最後の最後まで理解できない。
そのことがウッソとウッソ以上にカテジナを苦しめることになる。

(2)敵パイロットとして、主人公に立ちふさがる
クロノクルについていったカテジナは、敵パイロットとして登場する。
外の世界に出たカテジナがパイロットとなったのは、もうついていった男(クロノクル)が軍人だからとしか言いようがない。
ここで「クロノクルの女」のポジションに納まり何もしないのは、カテジナの本意ではない。
カテジナは外の世界へ何かを見つけるため、何かに変わるために来たのだ。主婦になるためではない。そのための行動力も能力もある。彼女の状況で男(クロノクル)のために働くと軍人になる。
(カテジナが自分の両親の関係に反発と嫌悪を抱いていることで、男を支える女性になろうと努めたのかも知れない)

(3)シュラク隊皆殺し(最終回まで続く)
(4)ウッソの母を捕獲(母の死の遠因)
(5)生身の水着美女部隊(ネネカ隊)をウッソにぶつける
(7)最後の最後にオデロに手をかける

ここはまとめて「ひどいことした」シリーズ。
この中で私がいらないな、と思うのはオデロ殺しぐらい。あとは、もうどうしようもないかな、と思う。

最初の大前提として「Vガンダムは狂った世界」と書いたが、Vガンダムはとことん成人男性が戦わない世界だ。
ウッソが所属するカミオン隊は、老人ばかり。そこへウッソ達子供が戦闘員として加わり、後に女性だけのシュラク隊が加わる。
まともな成人男性はシュラク隊の隊長オリファーのみ。これは明らかに狂っている。

敵対するザンスカールも、表で戦うエースは、カテジナ、ルペ・シノ、ファラなどが中心で、クロノクル、ピピニーデン、タシロは女を戦場に出し、自分は後方に構える。
(さらにいえば、ザンスカールの実権を握るのはカガチだが、シンボルとして表に出すのは女王マリアである)
Vガンダムは、戦場で女と子供達が殺し合いをする「狂った」お話なのだ。
この戦場では、お互い殺す相手は当然、女性(シュラク隊、ネネカ隊)や子供(オデロ)になるだろう。もうVガンダムの世界ではどうしようもない。
(それでも個人的には最後にオデロを殺すのだけは余計だったんじゃないかと今でも思う)

(6)ウッソとクロノクルを戦わせて、残った方を愛すと宣言
(8)ラスボスとしてウッソと対決

これも狂ったVガンダムの世界が生んだこと。
クロノクルがラスボス(シャア)のポジションに座ればいいのだが、彼は「女王の弟」というポジションだけで精一杯の人間だった。
クロノクルは人が良すぎたし真面目すぎた。彼が女王の弟でなければ、軍人でなければ、カテジナと愛の巣をつくって幸せに暮らしたかも知れない。
だが彼は不向きな軍人も女王の弟もやらなければならない運命だった。真面目だからそれを愚直にこなそうとした(地球クリーン作戦のような狂った作戦すら)。

カテジナは最終回で「……クロノクル、来いっ!」と、クロノクルを呼び寄せ、ウッソと戦わせますが、あれはクロノクルにウッソを討って欲しかったんだろうな。カテジナ自身がウッソを倒すのでは意味がない。愛した男がそうしてくれなければ、何も断ち切れない。
そう考えるとクロノクルvsウッソは、カテジナ"が"愛した2人の男の戦いであり、「勝った方を愛す」という、彼女の宣言はあまりに悲しすぎる。必ずどちらかを失う悲愴の決意であって「男を手玉にとる」ようにはとても見えない。
しかし敗北するのはカテジナが勝ってほしかった(愛したかった)クロノクル。その彼が死の間際に「姉さん、マリア姉さん、助けてよ…マリア姉さん…」と叫んだのもあまりにも悲しいが、彼をこんな目に合わせたのは女王マリアだし、救いを求めたのも姉マリアだった。カテジナではない。

こんな男しかいないVガンダムの世界では女性が頭をはるしかないのだ。
カテジナがラスボスになるのは、こうした状況からも、これまで彼女が殺した人間の数からもどうしようもなかったのではないか。
男達が敵としての役割(人殺し、うらまれ役)を果たさないから、女が引き受けるはめになっているだけで。

以上で弁護を終わる。
一番大きいのは、カテジナが孤独で、自己実現欲の強い積極的な女性だったということじゃないかな。
ウーイッグの麗しき令嬢ということで、経済的にも容姿も能力も不足はなかったはず。でも両親を含めた周りの大人達には絶望していた。脱出したかった。飢えていた。

終盤にウッソとこんなセリフのやりとりがある。

カテジナ「腐らせる物は腐らせ焼く物は焼く、地球クリーン作戦の意味も分からずに!女王マリアは子供達の為に汚い大人達を潰して地球の肥やしにしたいのよ!」
ウッソ「ウーイッグのカテジナさんの言う台詞じゃないですよ!あなたは家の二階で物思いに耽ったり、盗み撮りする僕を馬鹿にしていてくれれば良かったんですよ!」
カテジナ「……男の子のロマンスに、なんで私が付き合わなければならないの!」


ウッソが言うカテジナは、カテジナにとって本当のカテジナではない。だから「男の子のロマンス(幻想)」には付き合うつもりはないと言っている。
だがウッソにはそれが分からない。「カテジナさん、おかしいですよ!」と迫り、彼女を追い詰める。
「ウーイッグのお嬢さん」「二階で物思いにふける」「ウッソのお姉さん役」というのは、カテジナにとって捨ててきたものだというのに。

ただカテジナは「ウーイッグのお嬢さん」から「ザンスカール帝国の軍人」へクラスチェンジすることで、多くのキャラクターを殺した。それは事実だ。
普通、ガンダムでは何人かのキャラクターに分散させる「キャラ殺し」をただ1人で背負った格好だ(なぜここまでさせたのだろうとは思う)。
例えば全滅ラストのZガンダムですら、カミーユと因縁の深いジェリド、野蛮なヤザン、ラスボスのシロッコなどに「キャラ殺し」を分散させているのに。

物語で犯した罪にはそれ相応の対価を支払わなければならない。
つくりものの世界だからといって何をしてもよいということは決して無い。因果は応報する。
では、ここまでの罪を犯したカテジナがなぜ「死刑」ではないのか。

私は裁判長(富野監督)が下した判決は極めて妥当だと考えています。それはなぜか。

【カテジナ裁判判決の妥当性】

私は本放送中、終盤でカテジナが「死ねなくなった」と感じたのを覚えています。
あまりに罪が多すぎて、「死」ですらそれをあがないきれないほどの業(ごう)を背負ってしまったからです。

「死」は現実では最大の罰ですが、物語のキャラクターにとって最大の罰とは限りません。物語の中の「死」といえば、そのキャラクター最大の見せ場になることも多いからです。
こうして憎まれるキャラクターが死ぬことで、視聴者はカタルシスを得て満足し、ようやく許される場合もあります。

しかしカテジナは死んで罪をつぐなう限度すら越えてしまった(と、私は見ていて感じました)。 だから「死ねなくなった」。

このためVガンダムの終盤での私の関心事は「カテジナを殺してしまうのかどうか」でした。
カテジナを死なせてしまったら、富野監督を見損なうな、と思っていました。

そこへあのエンディング。富野監督はカテジナを殺さなかった。
ごめんなさい。さすがです。疑ってすみません。と感動しながら思いました。

wikipediaにはラストについてこういう記述があります。

死亡せずに生き残った理由は富野由悠季総監督の意図であり、「死よりも重い罰を与えたかった」とコメントしている。


この発言、出典が明らかでないですが、特に間違っているとは思えません。
エンディングでのカテジナの扱いは、まさに死より重い罰といっていいでしょう。
彼女は、肉体と精神に深い傷を負い、全てを失った上で、あれほど出たかったはずのウーイッグに戻り、これから先の人生を生きていくことになります。

ただね、このカテジナのラストは「死よりも重い罰」と同時に「救い」なのだと、私には感じられる。富野監督は、カテジナを絶対殺したくなかったんじゃないかな。

カテジナを殺さないためには「死よりも重い罰」を与えるほかない。

Vガンダムは、まるで「名作物」のような感動のエンディングになっているが、こんなガンダムのラストは史上初めてだった。
この感動のエンディングの主役は、シャクティとカテジナの両ヒロイン。
視聴者に憎まれ、あれほど死を渇望されたカテジナにあんなエンディングを用意するなんて!

あれはもう「死より重い罰」と同時に最高の愛であり、カテジナの救済であると私は信じる。

富野監督はあのラストについて、対外的には「死よりも重い罰を与えたかった」と言っているかも知れないが、それは一般的に憎まれ役になっているカテジナのことを配慮した表現であって、実のところ、最大限の罰を与えることで、最大限に彼女を救いたかった、というのが本当のところなのではないだろうか。
救うにはあの方法しかなかった。殺してはダメ。それでは救えない。だからVガンダムのエンディングはあれしかない。あれ以外のラストがあると思えない。
それはVガンダムの中でたった一人、「死ねない」ところまで追い込んだキャラクターに対してのつぐないかもしれない。

ちなみにシャクティとのラストシーンも色々解釈できるつくりになっているので、どうとでも取れますがここでは深入りはやめておきましょう。また別の機会に。

というわけで、以上が私がカテジナを悪女と思わない理由です。
いや、悪行三昧なのは事実なんだけど、「悪女」のレッテルで片付けたくない理由、といった方がいいかな。
これほど作品の中の重いものを背負わされ、その背負ったものに対する代償を払わされたキャラクターはガンダムではいないんじゃないでしょうか。



「ガンダム三大悪女」(またはその候補者たち)のレッテルが、主人公を裏切った女に与えられている傾向があるのは、ちょっとあまりに男性の身勝手な視点すぎる気がしますね。なぜそこまで憎めるのかちょっと不思議に思います。
(女性の選ぶ「ガンダム三大悪女」を聞いてみたい気がします)

私は、創作物のキャラクターを憎むということが基本的にないのでその気持ちが良く分かりません。
キャラクターを上手く扱ってくれなかった制作者をうらんだりはしますけどね。
(ジャイアントロボとかジャイアントロボとかジャイアントロボとか!)

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