『機動戦士ガンダム』シリーズの舞台である「宇宙世紀」で、「悪女」のレッテルを貼られた3人のキャラクターのことです。「宇宙世紀三大悪女」と言った方が正確な表現になるでしょうか。
ところが友人と話してみると、その3名のうち2名は同じだったが、3人目が一致しない。
(さて、ここで皆さん「ガンダム三大悪女」が誰だか思い浮かべてみましょう。――浮かびましたか?では続きをどうぞ)
一致した2名は、恐らく皆さんの想像通りかも知れない。
・カテジナ・ルース(Vガンダム)
・ニナ・パープルトン(ガンダム0083)

問題は3人目。
私が挙げたのは、ベルトーチカ・イルマ(Zガンダム)
友人が挙げたのは、クェス・パラヤ(逆襲のシャア)
ベルトーチカもクェスも、それなりに納得できる部分があるので、お互い「なるほどな」と思ったのですが、私も友人も三大悪女はネットで見たことがあるというだけにすぎません。
世の中的にはどちらが支持されているのでしょうか。
検索して調べてみると、こんなことが書いてありました。
ガンダムWiki - 宇宙世紀
http://wiki.cre.jp/GUNDAM/%E5%AE%87%E5%AE%99%E4%B8%96%E7%B4%80#.E7.94.A8.E8.AA.9E
ニナ・パープルトン、カテジナ・ルース。あと一人はクェス・パラヤ説とベルトーチカ・イルマ説がある。
あー、なるほど。3人目にはベルトーチカとクェス、両方の説もあったわけですね。
私と友人は、ベルトーチカ説、クェス説をそれぞれ覚えていたというわけか。
つまりは、カテジナ、ニナの2人は固定であることが多いけれど、3人目には不動のメンバーがいないわけですね。
無理に三大にせず、2トップにするなり、四天王にするなりすればいいと思いますが「三大美女」「三大悪女」のように女性を3人1セットにする言葉が元々あったところに合わせたからでしょうか。
3人目に不動がいない以上は、「三大悪女の三番目はあなたの心の中にいます」として空席とし、各自が悪女と思うキャラクターを当てはめればいいんじゃないでしょうか。
普通にシーマ姐さん(ガンダム0083)とか、サラ・ザビアロフ(Zガンダム)とか、シャクティ(Vガンダム)なんかが票を集めるかも知れない。人によっては、バーニィを殺したクリス(ポケットの中の戦争)を挙げることさえできるかも知れません。挙げようと思えば誰でも当てはめることは出来るでしょう。
以下のページで紹介されている「宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン」も大変面白い。
確かにシャアとアムロの人生を狂わせた影響力は『ガンダム』シリーズ最大級と言ってもいいですから。
宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン
http://drupal.cre.jp/node/1900
個人的には、ベルトーチカはどこかで読んだ3人目というだけなので特に推す理由もありません。
というかですね。3人目どころか、不動の2トップであるカテジナ、ニナも別に悪女と思わないんですよね。
ネットを見ると、この2人は蛇蝎のごとく嫌われているのですが、私にはなぜそこまで嫌う必要があるのかよく分からないのです。
今回は、ちょっとその辺りを突っ込んで話してみましょう。
ニナ・パープルトン(ガンダム0083)
ニナ・パープルトンは、アナハイム・エレクトロニクス社のシステムエンジニア。ガンダム開発計画の中で製造されたガンダム試作1号機、ガンダム試作2号機を担当します。兵士ではなく、ガンダムを作る立場のキャラクターです。
ニナの人物について、参照はこちら(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニナ・パープルトン
ニナについては、昔、ファーストガンダムと比較する形で書いたことがあります。
ガンダム0083とガンダム0079の比較
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-26.html
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カテジナと並んで不動の悪女とされている彼女ですが、エンジニアですから人殺しのような事は何もしていないのに、ここまで嫌われるのはなかなかすごいですね。
彼女については以前書いたように、シリーズ途中での監督交代などの影響もあって、シリーズ構成や脚本が悪いのであって、ニナ自身はその犠牲になった、むしろ被害者といってもよいと思います。
「あの場面」を生かすのであれば、少なくとも以下の要素が必要だったのではないでしょうか。
・ガトーのガンダム強奪の時点で、ニナがガトーに気付く
・フォン・ブラウン市でニナがガトーに出会ってラストへの伏線をふっておく
・阻止限界点後、ガトーはかばうが、コウには銃は向けない
(コウに殺しをさせたくないのに、彼に人殺しの道具である銃を向けてはいけない。人殺しの道具そのものを否定して止めるべき)
しかし、これらは明らかにシリーズ構成や脚本が悪いわけで、ニナはそのワリを食った格好。
ガンダム0083は、ビデオ作品として第一期、第二期に分けてリリースされたはずですが、売れ行き次第では第一期で販売が終わることもあったのではないか(もちろん好評につき全て制作された)。
そのOVAの変則的なリリース体制が、監督交代に影響を与えたのだろうか、とも思うのですが、私には詳細は分からない。
ニナとガトーの関係描写に変化が生じたのは監督交代の影響のようだが、その詳細も私にはよく分からない。
分かっていることで判断すれば、ニナの「罪状」を全てキャラクターに背負わせるのはあまりにかわいそうだな、と私は思っています。
もちろん裏側で何があったにせよ、視聴者が見ているのはTV画面であるわけで、そこで物語が展開された以上、画面に出ているキャラクターに責任が生じてしまうのも理解はできます。
ですが、それにしたって「ニナがコウを裏切った」とか「裏切っておいてエンディングではちゃっかり微笑みながらコウのところへ戻ってきた」などは、あまりにキャラクターの表面的な行動だけで好悪を決めすぎていて、もったいないとしか思いません。
世の中には、主人公(0083の場合、本当はガトーだけど)にダメージを与えるキャラクターに過敏に反応する人が多いのでしょうか。でもダメージを受けたのは主人公であって、視聴者(あなた)じゃないんだから、そこまで嫌ったり、憎んだりしなくてもと思うのです。
この記事は検索したところから始まって、調べながら書いているわけですが、レコア・ロンド(Zガンダム)も評判悪いと分かって今びっくりしました。
みんな、女の裏切りというだけで許さないのかな? お話が面白くなるかどうかとか、豊かになるかどうかとかは全然関係ないんですかね。
カテジナ・ルース(Vガンダム)
↓人物詳細はこちらで(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/カテジナ・ルース
ニナが人殺しなしで悪女界入りした女なら、カテジナは人を殺しすぎて悪女界入り。
(あー、でも結局、彼女も主人公サイドから敵サイドへの裏切りキャラとして認識されているのか)
私はカテジナに非常に思い入れがあって、いつかきっちり彼女について書こうと長年思っているのだけど、とりあえずその雛形のつもりで書く。
まずカテジナの「罪状」を整理してみようか。
(1)主人公ウッソの「憧れのお姉さん」から、敵(ライバル)の「女」へ(裏切り)
(2)敵パイロットとして、主人公に立ちふさがる
(3)シュラク隊皆殺し(最終回まで続く)
(4)ウッソの母を捕獲(母の死の遠因)
(5)生身の水着美女部隊(ネネカ隊)をウッソにぶつける
(6)ウッソとクロノクルを戦わせて、残った方を愛すと宣言
(7)最後の最後にオデロに手をかける
(8)ラスボスとしてウッソと対決
………こうして並べるとすごいね。
裏切りや味方キャラ殺しなんかはいくつかのキャラクターがやっているけど、ここまで揃えた人は確かにいない。ガンダム界の松永久秀。
では、これらの「罪状」に対して出された「判決」はどうだったのか。
・愛したクロノクルを失う。
・視力を失う。
・記憶を失う(ここはどちらともとれる)
・ウッソ・エヴィンを失う
(つまり全てを失い、精神と肉体に深い傷を負う)
・生まれ故郷の街ウーイッグへ全てを失って戻る
最大のポイントは極刑である「死刑」を免れたことでしょう。
「死刑」判決が出なかったことに不満を持つ人も多いようですが、そう思うのはとても悲しいことだと私は感じます。
これについては後ほど解説しましょう。
それではまず、ここから私は弁護人として、カテジナの罪状を弁護してみます。
その前に、Vガンダムそのものについてある程度語っておかないといけないが、長くなるので乱暴なのを承知で、1点だけに絞ります。
それは「Vガンダムは狂った世界、登場人物も状況も全て狂っている(ついでにいえばその当時の監督も)」ということ。
カテジナを考えるときに、これを前提とする必要があるということは覚えていて欲しい。
【カテジナの弁護】
(1)主人公ウッソの「憧れのお姉さん」から、敵(ライバル)の「女」へ(裏切り)
カテジナは、ウッソにとっては憧れの年上のお姉さんポジションだったんですよね。
ウッソは成り行きでガンダムに乗り、レジスタンス組織リガ・ミリティアのパイロットになってしまうが、子供をモビルスーツに載せて戦うようなリガ・ミリティアのやり方に反発していたのがカテジナさんです。
リガ・ミリティアのカミオン隊は老人ばかり。その老人が子供に人殺しをさせようとしている。これに嫌悪を表明したカテジナ。どちらが狂っていてどちらがまともなのか。
とにかく、もともとリガ・ミリティア(味方サイド)の理念に共感しているわけでも何でもなかったということは覚えておかなければいけない。
「でも結局、敵であるクロノクルにホイホイついていっちゃった娘さんなわけだよね?」
確かに行動はね。
でもね、彼女を勝手に「憧れのお姉さん」像(アイドル)として見てたのはウッソであって、それはカテジナの実体じゃない。
wikipediaでは「家庭を顧みない父、それにかこつけて愛人を作っていた母に幻滅していた」と紹介されている。カミーユみたいな家庭環境ですね。
多分カテジナは故郷の街(ウーイッグ)を出たかった。こんな家族や生まれ故郷と関係のないところで生きたかった。
そこへ紳士的な好青年クロノクルがやってきた。彼女は新しい世界へ連れて行ってくれるクロノクルについていく。(カミーユがクワトロについていったのと行動は同じ)
カテジナに必要だったのは彼女を孤独から救い外へ連れて行ってくれる存在、はっきりいえば白馬の王子様であって、彼女を幻想のお姫様として崇めたてまつる少年じゃない。
(もっといえば、外へ行くきっかけがあればいいわけで、厳密にはクロノクルでなければいけない必要すらないのだが)
地方の高校生が進学時に地元ではなく東京の大学を選んで、親元を出て、自分の住む世界を変え、自分を変えていこうとするのと根本的には変わらないと思う。
その時に自分を慕ってくれた近所の子供がいるからといって、東京へ行くのをやめる人がいるだろうか。そしてそれは裏切りなのか。
ウッソはこの「憧れのお姉さん(ウッソの幻想)の裏切り」が最後の最後まで理解できない。
そのことがウッソとウッソ以上にカテジナを苦しめることになる。
(2)敵パイロットとして、主人公に立ちふさがる
クロノクルについていったカテジナは、敵パイロットとして登場する。
外の世界に出たカテジナがパイロットとなったのは、もうついていった男(クロノクル)が軍人だからとしか言いようがない。
ここで「クロノクルの女」のポジションに納まり何もしないのは、カテジナの本意ではない。
カテジナは外の世界へ何かを見つけるため、何かに変わるために来たのだ。主婦になるためではない。そのための行動力も能力もある。彼女の状況で男(クロノクル)のために働くと軍人になる。
(カテジナが自分の両親の関係に反発と嫌悪を抱いていることで、男を支える女性になろうと努めたのかも知れない)
(3)シュラク隊皆殺し(最終回まで続く)
(4)ウッソの母を捕獲(母の死の遠因)
(5)生身の水着美女部隊(ネネカ隊)をウッソにぶつける
(7)最後の最後にオデロに手をかける
ここはまとめて「ひどいことした」シリーズ。
この中で私がいらないな、と思うのはオデロ殺しぐらい。あとは、もうどうしようもないかな、と思う。
最初の大前提として「Vガンダムは狂った世界」と書いたが、Vガンダムはとことん成人男性が戦わない世界だ。
ウッソが所属するカミオン隊は、老人ばかり。そこへウッソ達子供が戦闘員として加わり、後に女性だけのシュラク隊が加わる。
まともな成人男性はシュラク隊の隊長オリファーのみ。これは明らかに狂っている。
敵対するザンスカールも、表で戦うエースは、カテジナ、ルペ・シノ、ファラなどが中心で、クロノクル、ピピニーデン、タシロは女を戦場に出し、自分は後方に構える。
(さらにいえば、ザンスカールの実権を握るのはカガチだが、シンボルとして表に出すのは女王マリアである)
Vガンダムは、戦場で女と子供達が殺し合いをする「狂った」お話なのだ。
この戦場では、お互い殺す相手は当然、女性(シュラク隊、ネネカ隊)や子供(オデロ)になるだろう。もうVガンダムの世界ではどうしようもない。
(それでも個人的には最後にオデロを殺すのだけは余計だったんじゃないかと今でも思う)
(6)ウッソとクロノクルを戦わせて、残った方を愛すと宣言
(8)ラスボスとしてウッソと対決
これも狂ったVガンダムの世界が生んだこと。
クロノクルがラスボス(シャア)のポジションに座ればいいのだが、彼は「女王の弟」というポジションだけで精一杯の人間だった。
クロノクルは人が良すぎたし真面目すぎた。彼が女王の弟でなければ、軍人でなければ、カテジナと愛の巣をつくって幸せに暮らしたかも知れない。
だが彼は不向きな軍人も女王の弟もやらなければならない運命だった。真面目だからそれを愚直にこなそうとした(地球クリーン作戦のような狂った作戦すら)。
カテジナは最終回で「……クロノクル、来いっ!」と、クロノクルを呼び寄せ、ウッソと戦わせますが、あれはクロノクルにウッソを討って欲しかったんだろうな。カテジナ自身がウッソを倒すのでは意味がない。愛した男がそうしてくれなければ、何も断ち切れない。
そう考えるとクロノクルvsウッソは、カテジナ"が"愛した2人の男の戦いであり、「勝った方を愛す」という、彼女の宣言はあまりに悲しすぎる。必ずどちらかを失う悲愴の決意であって「男を手玉にとる」ようにはとても見えない。
しかし敗北するのはカテジナが勝ってほしかった(愛したかった)クロノクル。その彼が死の間際に「姉さん、マリア姉さん、助けてよ…マリア姉さん…」と叫んだのもあまりにも悲しいが、彼をこんな目に合わせたのは女王マリアだし、救いを求めたのも姉マリアだった。カテジナではない。
こんな男しかいないVガンダムの世界では女性が頭をはるしかないのだ。
カテジナがラスボスになるのは、こうした状況からも、これまで彼女が殺した人間の数からもどうしようもなかったのではないか。
男達が敵としての役割(人殺し、うらまれ役)を果たさないから、女が引き受けるはめになっているだけで。
以上で弁護を終わる。
一番大きいのは、カテジナが孤独で、自己実現欲の強い積極的な女性だったということじゃないかな。
ウーイッグの麗しき令嬢ということで、経済的にも容姿も能力も不足はなかったはず。でも両親を含めた周りの大人達には絶望していた。脱出したかった。飢えていた。
終盤にウッソとこんなセリフのやりとりがある。
カテジナ「腐らせる物は腐らせ焼く物は焼く、地球クリーン作戦の意味も分からずに!女王マリアは子供達の為に汚い大人達を潰して地球の肥やしにしたいのよ!」
ウッソ「ウーイッグのカテジナさんの言う台詞じゃないですよ!あなたは家の二階で物思いに耽ったり、盗み撮りする僕を馬鹿にしていてくれれば良かったんですよ!」
カテジナ「……男の子のロマンスに、なんで私が付き合わなければならないの!」
ウッソが言うカテジナは、カテジナにとって本当のカテジナではない。だから「男の子のロマンス(幻想)」には付き合うつもりはないと言っている。
だがウッソにはそれが分からない。「カテジナさん、おかしいですよ!」と迫り、彼女を追い詰める。
「ウーイッグのお嬢さん」「二階で物思いにふける」「ウッソのお姉さん役」というのは、カテジナにとって捨ててきたものだというのに。
ただカテジナは「ウーイッグのお嬢さん」から「ザンスカール帝国の軍人」へクラスチェンジすることで、多くのキャラクターを殺した。それは事実だ。
普通、ガンダムでは何人かのキャラクターに分散させる「キャラ殺し」をただ1人で背負った格好だ(なぜここまでさせたのだろうとは思う)。
例えば全滅ラストのZガンダムですら、カミーユと因縁の深いジェリド、野蛮なヤザン、ラスボスのシロッコなどに「キャラ殺し」を分散させているのに。
物語で犯した罪にはそれ相応の対価を支払わなければならない。
つくりものの世界だからといって何をしてもよいということは決して無い。因果は応報する。
では、ここまでの罪を犯したカテジナがなぜ「死刑」ではないのか。
私は裁判長(富野監督)が下した判決は極めて妥当だと考えています。それはなぜか。
【カテジナ裁判判決の妥当性】
私は本放送中、終盤でカテジナが「死ねなくなった」と感じたのを覚えています。
あまりに罪が多すぎて、「死」ですらそれをあがないきれないほどの業(ごう)を背負ってしまったからです。
「死」は現実では最大の罰ですが、物語のキャラクターにとって最大の罰とは限りません。物語の中の「死」といえば、そのキャラクター最大の見せ場になることも多いからです。
こうして憎まれるキャラクターが死ぬことで、視聴者はカタルシスを得て満足し、ようやく許される場合もあります。
しかしカテジナは死んで罪をつぐなう限度すら越えてしまった(と、私は見ていて感じました)。 だから「死ねなくなった」。
このためVガンダムの終盤での私の関心事は「カテジナを殺してしまうのかどうか」でした。
カテジナを死なせてしまったら、富野監督を見損なうな、と思っていました。
そこへあのエンディング。富野監督はカテジナを殺さなかった。
ごめんなさい。さすがです。疑ってすみません。と感動しながら思いました。
wikipediaにはラストについてこういう記述があります。
死亡せずに生き残った理由は富野由悠季総監督の意図であり、「死よりも重い罰を与えたかった」とコメントしている。
この発言、出典が明らかでないですが、特に間違っているとは思えません。
エンディングでのカテジナの扱いは、まさに死より重い罰といっていいでしょう。
彼女は、肉体と精神に深い傷を負い、全てを失った上で、あれほど出たかったはずのウーイッグに戻り、これから先の人生を生きていくことになります。
ただね、このカテジナのラストは「死よりも重い罰」と同時に「救い」なのだと、私には感じられる。富野監督は、カテジナを絶対殺したくなかったんじゃないかな。
カテジナを殺さないためには「死よりも重い罰」を与えるほかない。
Vガンダムは、まるで「名作物」のような感動のエンディングになっているが、こんなガンダムのラストは史上初めてだった。
この感動のエンディングの主役は、シャクティとカテジナの両ヒロイン。
視聴者に憎まれ、あれほど死を渇望されたカテジナにあんなエンディングを用意するなんて!
あれはもう「死より重い罰」と同時に最高の愛であり、カテジナの救済であると私は信じる。
富野監督はあのラストについて、対外的には「死よりも重い罰を与えたかった」と言っているかも知れないが、それは一般的に憎まれ役になっているカテジナのことを配慮した表現であって、実のところ、最大限の罰を与えることで、最大限に彼女を救いたかった、というのが本当のところなのではないだろうか。
救うにはあの方法しかなかった。殺してはダメ。それでは救えない。だからVガンダムのエンディングはあれしかない。あれ以外のラストがあると思えない。
それはVガンダムの中でたった一人、「死ねない」ところまで追い込んだキャラクターに対してのつぐないかもしれない。
ちなみにシャクティとのラストシーンも色々解釈できるつくりになっているので、どうとでも取れますがここでは深入りはやめておきましょう。また別の機会に。
というわけで、以上が私がカテジナを悪女と思わない理由です。
いや、悪行三昧なのは事実なんだけど、「悪女」のレッテルで片付けたくない理由、といった方がいいかな。
これほど作品の中の重いものを背負わされ、その背負ったものに対する代償を払わされたキャラクターはガンダムではいないんじゃないでしょうか。
「ガンダム三大悪女」(またはその候補者たち)のレッテルが、主人公を裏切った女に与えられている傾向があるのは、ちょっとあまりに男性の身勝手な視点すぎる気がしますね。なぜそこまで憎めるのかちょっと不思議に思います。
(女性の選ぶ「ガンダム三大悪女」を聞いてみたい気がします)
私は、創作物のキャラクターを憎むということが基本的にないのでその気持ちが良く分かりません。
キャラクターを上手く扱ってくれなかった制作者をうらんだりはしますけどね。
(ジャイアントロボとかジャイアントロボとかジャイアントロボとか!)
そこから、ファーストガンダムとの比較。そして「アムロのシャア越え」の話まで。
昔、友人に送ったメールに多少の修正をしただけのもの。要するに省エネの手抜き更新です。
ガンダム0083は、1991年制作のビデオ作品で、最初のガンダムとZガンダムの間の話。初めて「ガンダムvsガンダム」をやった作品でもあります。
→機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY(Wikipedia)
※ネタばれ満載でお送り致します。
ガンダム0083のお話面での評判の悪さについて
ガンダム0083はメカニック的には人気があるのですが、お話的な評価は低いイメージありますね。
その理由は私が思うに大きく2つあると思われます。
一つは、ヒロインが最後にとった行動によるもの
一つは、主人公とライバルの対比と関係
0083のライバルであるガトーは、その髪型が現す通り「侍」をイメージしてつくられたキャラクターです。
ジオンの大義のためには死すら恐れず、信念を貫きとおす。
しかし、それは新しい時代に取り残された、古い、生きた化石のような男でもあるのです。
デラーズ・フリートは、明治という時代に生きられなかった新撰組だと思えばいいし、デラーズは近藤勇。ガトーは土方歳三。と思ってもいいでしょう。
ガトーの目的は「星の屑作戦」の遂行です。
対して主人公のコウは、何もありません。モビルスーツが好きなただの青年です(これはパトレイバーの野明と全く同じです)。
はっきり言って戦う理由がありません。信念もありません。
だから物語中、コウは「ガトーを倒す」「ガトーの目的を阻止する」という理由だけでガトーと戦っています。
0083の最後で、コウはいよいよガトーを倒す(殺せる)チャンスを得ますが、ヒロインであるニナ・パープルトンが出てきてガトーをかばいます。コウ、大ショック。
実はガトーとニナはかつて恋人同士だったのです。
(※ここがお話の評判が悪い理由の一つ。 )
主人公から、ライバルをかばうヒロイン
この行動でガンダム悪女界に入れられることも多いニナですが、ガトーをかばい、コウがガトーを殺すのを阻止しようとしたのは、かつての恋人ガトーのためというより、むしろコウのためのはずです。
フィルム上そう見えなかったのは様々な不備の問題で、構造上はそうでなくてはおかしい。
コウが軍人として果たすべき目的はジオンの「星の屑作戦」の阻止である。しかし阻止限界点は突破し、コロニーは地球へ落ちることになってしまった。
「星の屑作戦」は成功し、この時点ですでにガトーは目的を果たしている。
コウがガトーを殺すチャンスを得たのは阻止限界点突破後のこと。ガトーを殺しても、コロニーが落ちなくなるわけではないのだ。
つまり「星の屑作戦阻止のため殺す」ではなく、「ガトーを殺すために殺す」という目的で戦うコウは、戦争の中で目的を見失っている。
それはもう戦争じゃなくて人殺しだ。ニナは戦争でなく人殺しをしようとするコウを止めた。
ここでコウがガトーを殺したら、コウは決定的な過ちを犯すことになる。だから止めたんでしょうけども。
そういう意味で、このシーンはあっていいと思います。
ただこれをやるには、色んなものが足らなかった。だから「ニナは最後にコウを捨てて元カレのガトーに走った」とか言われてしまう。かわいそうにね。
では、もう一つの良くない点、「主人公とライバルの対比と関係」はどうでしょう?
主人公とライバルの対比と関係
連邦でガンダムに乗るコウと、それに立ち塞がるジオンのエースパイロットガトーは、そのまま初代ガンダムのアムロとシャアの関係でもあります。
シャアは目的のため、仮面で素顔を隠し行動してきました。
シャアの目的はザビ家の打倒(復讐)です。ジオンの勝利ではありません。ですからジオン軍の不利益になるような事もたくさんしています。
ララァ(ニュータイプ)の可能性に最も早く気付いた人間でもあります。
アムロは基本的に状況に巻き込まれただけで、戦う理由は特にありません。
戦う理由が無く、守るべきものが無いことは、ララァとの戦闘中に彼女に指摘されたことでもあります。
「ランバ・ラルに勝ちたい」など場面によって目的を持つこともありましたが、これは男の理由であっても戦争の理由ではありません。
だからララァの言うとおり、目的なく戦うアムロは不自然な存在でした。
ガトー、シャア=自分の信念と理由を持つ大人
コウ、アムロ=目的もなく成り行きで戦う子供
という感じですね。
でも0083と違って、ファーストが偉大なところは、ララァの死を通してラストでこれが逆転するところです。
ファーストに見るアムロのシャア越え
目的のため戦うシャアと、目的のないまま戦うアムロ。
この両者の関係はララァの死を境に逆転し、アムロは最後にシャアを越える。
シャアは「自分の母になってくれるかも知れなかった女性」ララァをアムロに殺され、初めて感情的な姿を見せます。
その結果、最終決戦のア・バオア・クーでは、ジオングでアムロと個人的な決着をつけようとします。
最後の最後で、シャアは「ララァを殺された恨み」という私怨で戦ってしまうわけです。
一方のアムロは、ララァとの交流と別れを経て、真のニュータイプにより近づきました。
この戦争をいち早く終わらせるためには、ザビ家の頭領を倒すしかない、というところについにたどりつきます。
ア・バオア・クーでのアムロの戦闘目的はまさしくこれで、シャアとの個人的な戦闘決着など全く頭にありません。
実際、ジオングとの戦闘もしかけてきたのはあくまでシャアの方です。
TV版ガンダムでのセリフを交えつつ見ていきましょう。
(ジオングで出撃したシャア)
シャア「よし。しかし、奴はどこにいるのだ?」
(シャアに気づくアムロ)
アムロ「大物だ。シャアか?」
アムロ「しかし、今はア・バオア・クーに取りつくのが先だ」
アムロ「本当の敵はあの中にいる、シャアじゃない」
シャア「情けない、ガンダムを見失うとは。どこだ?奴は」
アムロ「シャアか。こちらを見つけたな」
シャア「見えるぞ、私にも敵が見える」
ここでアムロが言う「敵」とは「ザビ家」。しかしシャアが言う敵とは「アムロ」になっている事に注目。
ここにアムロとシャアの目的は逆転し、シャアが捨ててしまった「ザビ家打倒」はアムロの目的となった。
仮にアムロが先にジオングを見つけていたとしても、この時のアムロだったら無視したかも知れません。
アムロが戦争終結の高みへ思考が行っているのに対し、シャアはあくまでアムロ個人にこだわってしまいます。
だから、シャアは当然のようにアムロに敗れます。
(モビルスーツから脱出し、生身の戦闘をするシャアとアムロ)
アムロ「シャアだってわかっているはずだ。本当の倒すべき相手がザビ家だということを。それを邪魔するなど」
アムロ「…今の僕になら本当の敵を倒せるかもしれないはずだ」
アムロ「ザビ家の頭領がわかるんだ」
シャア「今、君のようなニュータイプは危険すぎる。私は君を殺す」
アムロ「本当の敵はザビ家ではないのか?」
シャア「私にとっては違うな」
敗れたシャアは生身での一騎打ち(フェンシング)を挑む。殺しあう2人
そこへセイラさんが止めに入る。
セイラ「やめなさいアムロ、やめなさい兄さん」
セイラ「二人が戦うことなんてないのよ、戦争だからって二人が戦うことは」
シャアの元々の目的→ザビ家の打倒
アムロが辿り着いた目的→ザビ家の打倒
二人の目的は同じだから、セイラさんの言ってることは全く正しい。
セイラ「兄さんの敵はザビ家ではなかったの?」
シャア「ザビ家打倒なぞもうついでの事なのだ、アルテイシア。ジオン無きあとはニュータイプの時代だ。アムロ君がこの私の言うことがわかるのなら、私の同志になれ、ララァも喜ぶ」
この辺り、シャアのセリフに理想と本音が入り混じっていて面白いな。
ザビ家打倒が目的のシャアだが、ニュータイプララァとの出会いにより、人の革新、ニュータイプの時代を切り開くことが新しい目的となりつつあったのは事実だろう。
それは過去の復讐という後ろ向きのものと違い、未来のための前向きな目的になるはずだった。
その希望のニュータイプララァが、ニュータイプアムロに殺されるまでは。
シャアのスカウトに対するアムロの返答はないまま、アムロとシャアは別れる。
次に2人が再会するのは7年後の「Zガンダム」においてということになる。
その時、2人は同じエウーゴの同志になるのだが。
セイラ「兄さんはどうするのです?」
シャア「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
シャアは、アムロがするつもりだった戦争の幕引きを自分が引き受ける。
ここでやっとシャアは、本筋であった目的「ザビ家打倒」に戻ってくる。
(ザンジバルのブリッジにバズーカを向けるシャア)
シャア「ガルマ、私の手向けだ。姉上と仲良く暮らすがいい」 (ガンダムでの最後のセリフ)
アムロは、ララァを失っても自分には居場所があることに気付き、仲間の元に帰還する。
アムロ「ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ。こんな嬉しいことはない。わかってくれるよね?ララァにはいつでも会いに行けるから」 (ガンダムでの最後のセリフ)
これで、ガンダムは終わる。
新春大型ジオン時代劇 幕末残光伝
以上のようにファーストガンダムを踏まえた上で、改めて0083を見てみましょう。
ニナが、ガトーとコウの殺し合いに割って入るのは、シチュエーションだけならセイラさんの再来といえます。
しかし、この場面を止めるだけのロジックがない。シーンの積み上げがない。
だから「最低女」だとか「こんなシーンいらない」とか言われてしまう。かわいそうにね。
しかも、これは作った世代のせいということもあるのですが、0083自体が滅びの美学といいますか、ジオンびいきの物語でした。
本当の主人公はガトーだったと言ってもいいでしょう。そのせいでコウはガトーを越えられないまま終わってしまいました。
信念を貫いて滅ぶ男が美しい、というままで話が終わってしまいました。
本当はコウが、自分の信念で地球を汚し、大量に人を殺す男ガトーをぶんなぐらないといけなかったはずです。
いっそニナが殴ってもいいですが、ガトーを良く知るニナは、信念のこり固まったガトーについてはもうあきらめていたかも知れないな。しかしコウの事はあきらめてなかったのでコウのために割って入った(そのせいでひどい事言われる羽目になったけども)。
制作サイドもガトーをかっこよく描くことしか頭に無かったみたいだから、どうしようもないだろうな。
そんなわけで、主人公、ライバル、ヒロイン、全てに問題を抱えているので、「物語」として見た場合やはりつらい作品であると思います。
新春大型10時間時代劇「五稜郭」とか「白虎隊」的に楽しむのがいいんじゃないでしょうか。
それにしてもファーストの構成は本当にすばらしい。
改めて見ると本当にほれぼれする。
シャアがジオングに乗ってさえアムロに勝てないのは、モビルスーツの性能うんぬんの前にすでに目的レベルで負けているからで、構造上の必然になっているんですよね。
とはいえ最後の最後にシャアはその目的を取り戻し、キシリアの頭をふっとばして物語にケリをつける。
一方のアムロは「ザビ家打倒」をシャアに返し、真の目的「何のために戦うのか」「守るべきものが何なのか」を知る。ララァにはそれが無いと言われたけど、本当はあったんだよね。
ガンダムは最後の最後にアムロがそれを見つけることで完結する。
…結局0083をだしに、ファーストすばらしいって言ってるだけですね。