11月に入ったというのに、7月公開の映画の話を続けます。俺たちの夏はまだ終わらない!
記事タイトルは、釣りというか、とんちです。



映画『バケモノの子』については、これまで2本の記事を書きました。

子育て西遊記 in ケモ街diary <映画『バケモノの子』と中島敦『わが西遊記』>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-237.html

東京都渋谷区「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件<映画『バケモノの子』の「父子」と「普通」について>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-238.html

※本記事も含め、当社独自のネタバレーションテクノロジーにより、全編に渡ってネタバレしております。

特に2本目の記事では、物語について、私自身が疑問に思うことを確認しながら考えています。

その中で、大きくスペースを割いて書いたのが、「バケモノの父・熊徹と、主人公・九太(蓮)が、親子ゲンカでもして親離れ・子離れせず、逆に一体化してしまうこと」に対する疑問でした。

ステレオタイプの古い頑固親父として描かれた熊徹と、現実世界での進学を考えている九太の間には、進路に対する家庭内対立がありました。
しかし、この対立はその後の「一郎太事件」もあり、曖昧なまま解消されることになります。

熊徹は最後まで九太を子供扱いして、「我が身を犠牲にしてでも我が子を守る」を文字通り実践します。
実際のところ、九太との修行によって熊徹は強くなれましたし、猪王山との決戦も九太なしでは勝てなかったでしょう。一方的な保護・被保護の関係ではないと思います。

それにも関わらず、あくまで親と子の関係にこだわり、九太のために身を尽くす熊徹。
結果的に熊徹が消えたことで、現実世界へ九太を返すことになりましたし、心の剣は進学はもちろん九太が生きる支えになるとは思います。でも、正面から九太に向き合って、二人で答えを出したわけではないんですよね……あくまで父による独断、一方的な愛情表現に過ぎない。

この展開に、父親または男性としての都合の良いロマンチシズムを濃厚に感じてしまいました。

私自身が父親という立場を経験したことがない、という受け手の問題も要因としてあるとは思いますから、「オヤジの愛情とはそういうもの」「自己満足だが、だからこそいい」という意見もあるかも知れません。

ともあれ、私としては「熊徹と九太の一体化」に対して、感動というよりは、違和感、疑問を感じてしまったわけです。

「熊徹と九太による感動のシーン」の肯定


そこまで熱心に調べたわけではないけれど、ネットでの『バケモノの子』の感想や反応を見る限り、映画はおおむね好評なのではないでしょうか。ラストの「熊徹と九太の一体化」についても基本的には感動を呼ぶシーンとして、受け入れられている印象を受けます。
興行収入50億円突破、おそらく60億円近く稼いでいる映画ですから、その結果から見ても、多くの観客が作品に期待を寄せ、そして観客の望むものを提供できているのだろうと思います。

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私としては否定的な「熊徹と九太の一体化」シーンも、このラストこそが求められているものだった、ということなのでしょう。
実際に、このシーンで涙したり、多くの感動を呼んでいるのはまぎれもない事実ですしね。

ですから、この事実を一旦受け入れた上で、この映画をもう一度考え直してみることにしました。

つまり「熊徹と九太が一体化する」という展開は、この映画にとって正しいものであった、というスタンスを取ることになります。

これは、前回書いた自分の記事を真っ向から否定するものになるのですが、それはやむをえません。
前回までに書いた諸々のことは一旦忘れることにしましょう。
何か新たな視点を得ることができればそれで良いのです。

「熊徹と九太が一体化する」ことを捉え直す上でポイントとなってくるのは、熊徹と九太ではなく、九太の実の父親だと私は感じています。
この実父を足掛かりに考えてみることにしましょう。

二度のピンチを救った父と救ってくれなかった父


物語の後半(ラスト)は、一郎彦が変化した巨大な白鯨が出現し、大混乱の渋谷が舞台となります。
バケモノの世界「渋天街」ではなく、現実世界で決着するわけです。

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それにも関わらず、九太の実父はラストには一切関与をしません。

九太の実父は、久しぶりに会う子供との距離感が上手くつかめず、子供の意志を尊重しているようでいて、その心に土足で上がりこまない代わりに、まったく踏み込んでくれません。
優しいけれど肝心なことはしてくれない父親です。

位置関係を見ても、九太が父親と再会を果たした商店街もまた渋谷区で、この近辺に住んでいるはずですから、実父は渋谷区民のはずです。
しかし、それでも父親が登場することはありませんでした。

何より大事なことは、このことによって、実父は我が子九太(蓮)の本当のピンチに、二度とも駆けつけなかったということです。

一度目のピンチは、母が死んで孤児になった9歳のとき。(映画の最初)
二度目のピンチは、渋谷で白鯨に襲われて死にかけるその8年後。(映画の最後)

この二度のピンチをともに救ったのが、熊徹です。

渋谷で路頭に迷っていた蓮を見つけ、九太と名付けて弟子にし、実質の養父として8年育ててくれました。
さらに渋谷で白鯨に追い詰められていた九太を助けるため、我が身を捨てて九太の力になることを選んでくれました。

九太と熊徹は一体化し、熊徹は九太の心の中で見守り続ることになります。
そして九太は現実世界で実父と暮らし始める、という所で物語は終わり、めでたしめでたし、となるわけですが、これは逆に言えば、心の中に熊徹がいなければ、実父と普通に暮らしていけなかったということでもあると思うんですよね。

だって二度とも自分を助けてくれなかった父親ですから。

幻想の父親と、現実の父親


心の闇(穴)を埋めてくれた他人がいて、初めて九太は安定を得たわけです。
映画の描写を見る限り、実父と暮らすことで安定したわけではなく、熊徹によって安定した九太だから、実父との暮らしを受け入れることができた、と考えた方が因果が自然です。

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私などは、九太と熊徹の疑似親子の決着としての「九太と熊徹の一体化」に反発を覚えたわけですが、何も助けてくれない血縁の父親よりは、実際に手を差し伸べてくれた赤の他人との関係の方がまだ信用に値するという話であれば、理解できます。

映画のメインは熊徹と九太の親子関係なので、見ている男性、特に実際に父親の立場の方は、そちらに感情移入してしまいがちだと思います。

でも実際の親子関係は、九太と実父のそれに近い方がほとんどのはずです。
熊徹のようなステレオタイプの昭和親父でもないし、師匠と弟子として何かを教えながら四六時中一緒に生活しているわけでもないし、何よりバケモノと人間の疑似親子ではなく、実父と九太のように血縁の親子である方がほとんどでしょう。

現実の父親たちは「熊徹」ではなく「実父」に近い。
だからこそ幻想(理想)の父親として熊徹が機能している。

これを前提に、ラストの実父(現実の父親)と九太の同居を考えてみれば、父親または父性というものへの視線はむしろシビアと言えるのかも知れません。

もちろん熊徹の方へ感情移入して感動することは自然で容易だし、実際にそちらへ誘導して気持ち良くさせてくれるのですけどね。

熊徹と実父が渋谷で出会う可能性


『バケモノの子』がこのような構造をしているからこそ、可能性として浮かぶのは、渋谷で2人の父が出会う物語。

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例えば物語後半の白鯨が現れて大パニックの渋谷。
同じ渋谷に住んでいるだろう実父は、TVニュースなどで事件を知り、また映像の中で逃げ惑う九太の姿を目にして、自転車に飛び乗り、勇気を振り絞って現場へ向かう、という展開はひとつのパターンとして考えられます。

もちろん武術の心得も何もなく、息子より弱い父親が現場に駆け付けても何にもならない。
だが、息子が大ピンチで自分は父親なのだ。そういう問題ではない。

このパターンの場合、熊徹は重体の体を押して、九太を追って渋谷に出てきていることにしましょう。
そこで、熊徹と実父が出会う。

「九太!」「蓮!」お互いが同じ子供を助けに来たと気づくが、それぞれ呼びかける名前が違い、それでお互いが「九太の実の親父か」「蓮を育ててくれたという恩人はこの人か」と気づく。

その後「誰が九太(蓮)の父で、誰が息子を助けるのか」という父同士の意地の張り合いの後、致命傷で動けない熊徹が刀に変化して九太に加勢することを思いつき、その意気を汲んだ実父が協力することで、父親間の父権のスイッチ(熊徹から実父へ)がスムーズに行われるかも知れない。

このとき実父は、刀になった熊徹を九太に手渡す役割を果たし、「九太、負けるなよ」みたいに、熊徹の代わりに「九太」と呼びかけて激励しても良いかも知れないですね。
この場合、九太の救出は、熊徹の独断ではなく、2人の父親による共同作業ということになるでしょう。

もちろんこれは単にひとつの例(妄想)に過ぎませんが、実父を排除した上での九太と熊徹の一体化ではなく、実父(現実の父)と熊徹(理想の父)の一体化のように見せることが出来るかもしれない。

この映画には、現実の渋谷と幻想の渋天街という2つの世界があり、父親もまた現実の実父と、幻想の父親の2人がいるが、最後にその2人が出会って、少しだけ2つの世界が近づく、というような形で。

役割を終えた幻想の父は消え、彼から父親をきちんと継承した現実の父が、息子と暮らし始める。
このような感じなら、実父と九太のその後の生活も何も心配することはないでしょう。

なぜ実父は物語のラストに関われなかったのか


でも前述したように、実際には同じ渋谷区にいながら、実父はこの場に現れることはありませんでした。
9歳の蓮を救えなかった実父には、8年後の二度目のピンチに今度こそ駆けつけるという機会すら与えられてはいない。

これは意図的な排除であると私は思います。


お話をシンプルに熊徹と九太に集約したり、尺の問題などの要因もあるでしょうが、そもそもここで実父を救う映画ではないのです。多分。

この実父の扱いをベースに考えれば、この作品は「母親は選べないけれど、父親は選べる」という話です。
助けてくれない血縁の実父より、人生や生きる方法を教えてくれる大人の方が自分にとって大きな存在になりえます。

誰から生まれてくるか(母)は選べないけれど、父親(師)は子供が選べる。
自分にとって適切な父親(師)を探しなさい。
それは何人いてもいいのです。そういう人をたくさん見つけなさい。
さらにこの映画でいえば、バケモノのように、自分とは異なる存在でも父親(師)になりえるのですよ。
……というメッセージ。
このメッセージは正しいと思う。

もちろん大人だからといって完全な存在ではなく、子供と一緒に成長しなければならない不完全な存在だということも描いています。不完全な父親しか登場していませんしね。
ただ、大人とは、大人であることを引き受けた存在の事を言い、一定の能力や資格のことではありませんから、別にそれはそれでかまわないとは思います。

『おおかみこどもの雨と雪』と『バケモノの子』の息子たち


先ほどの「母親は選べないけれど、父親は選べる」という話で行けば、前作『おおかみこどもの雨と雪』との対比も面白いでしょう。

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『おおかみこどもの雨と雪』は『バケモノの子』とは逆に、父と死別し、母と暮らす2人のおおかみこどもの物語です。

物語の後半、母である花とは全く関係ないところで、男の子である雨が父親(師)となる老アカギツネの先生を見つけて、親離れしようとします。

花は彼に「なにもしてあげてない」と嘆きますが、実際に具体的なことは何もしていません。
ですが、男の子はそれでいいのです。母の知らないところで自分の世界を見つけ、勝手に大人になっていくのです。

この「男の子が、実親と関係ないところで勝手に父親(師)を見つけて独り立ちする」という要素は『おおかみこどもの雨と雪』も『バケモノの子』も全く同じですね。

『おおかみこどもの雨と雪』では、子離れの気配に気づいた花は我が子を手放すまいとしますが、最終的には子供の選択を承認して、子離れ・親離れが成立します。

花さんは田舎に引っ越し、右に曲がれば山、左に曲がれば人里(学校)という形で、おおかみか人間かの選択肢だけは用意しました。

そこでおおかみの道を選択した息子を、独立した個人として承認し、自分を子供にとって不要な存在として認めて子離れしたので、立派な母親です。
花さん、えらい。母の映画は、我が子を逃がすまいとするシーンと手放すシーンが必要なのかも知れない。

では、母不在で父親複数の『バケモノの子』ではどうでしょう?

九太は最初から実父を頼っていませんね。
それは孤児になった9歳のときからで、父親を探そうとも求めようともしていませんでした。
彼にとって父とはその程度のものという認識だったのかも知れませんが、その後、外部で父(師)となる熊徹を見つけ、渋谷の白鯨事件を通して、勝手に大人になってしまいます。

大人への通過儀礼を終え、九太から蓮に戻った彼は、はっきりいってすでに大人ですから一人暮らしでもすればいいのです。
現実世界を支える存在としては楓がいますし、目標も実父に相談することなく大学進学と決めています。

それでも蓮が実父との同居を選んだのは、彼の優しさと、前述のとおり心の中の熊徹のおかげといってよいと思います。
すでに大人だからこそ、父の事を考えて同居を選ぶという域に達しており、要するに大人になった蓮の気遣いと温情で、子供とその父親という関係が継続しているに過ぎません。

もちろん実父はそれを何も知らないでしょう。

実父は蓮のおかげで父親をやらせてもらい、蓮もまた彼の前では子供を演じるでしょう。
もしかすると蓮の配慮により、空白の8年間を埋めるために今後8年ぐらいは、実の父子による「疑似親子」関係が続く可能性もあります。

大人になった男の子が、母から離れる『おおかみこども』と、父と同居してあげる『バケモノの子』という対比は面白いと思います。
これは細田監督の母へのリスペクトと、父への憐み(自己憐憫)を私は感じます。

そういう意味では、蓮は少し出来が良すぎる息子で、父親にとっての「幻想の息子」に近いかも知れませんけどね。

それでも映画に登場した実父という存在


熊徹はあくまで幻想(理想)の父親です。
ゆえに21世紀の今、ほとんど存在していない古めかしい頑固親父のような造形でも構わない。
そういったステレオタイプの昭和親父と同じく、フィクションとしての父親なのですから。

だからこそ、この映画を見ている父親を含んだ男性たちは、熊徹に過度に感情移入し、子供と一体化して永遠の心の中に生き続ける展開に感動しすぎない方が良いような気がします。

もちろん普通に見れば、熊徹と九太親子にスポットが当たっているので、男性に限らず多くの人が、熊徹に感情移入して感動して泣けるんだろうとは思います。
でもそれは細田監督からしてみたら計算通りみたいなものでしょう。
だから幻想の父だけでなく、きちんと現実での父も登場させている。
そのあたりが大人(男性)向け目線かなと思いますね。

実際のところ、両親をともに交通事故で亡くすというプロットでも映画は成立すると思うんですよね。
そうなると現実世界とバケモノ世界の天秤という意味では、楓の役割がより重要となるはずです。
実父不在の場合はバランスの為にも、蓮との恋愛関係に近いところまで踏み込まざるを得ないでしょう。

しかしそれで何の不都合が?
実父のシーンを楓との恋愛描写に振り分けた方が「商品」としてはより魅力的になったかも知れない。
だがこの映画では、楓を恋愛対象ではなく、あくまで蓮に対する共感者、導き手ぐらいに留めている。
逆に言えば、そこまでしてでも、この実父というキャラクターを登場させているとも言えます。

つまり細田監督にとって、実父というキャラクターは、この映画に絶対欠かさないものだったはずなのです。
であるにも関わらず、ラストの危機にも楓や熊徹が参戦する一方で、実父は場にいる機会すら与えられない。恐らく意図的に。そこが面白いところです。

熊徹と九太のような親子関係という男性にとって気持ちの良いものを提供しながら、自身も父親となった細田監督は、現実の父(自分自身)とはこういうものだと思っているのかも知れません。

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ですから、パッと見の第一印象ほどには父性礼賛な作品ではないですね。
むしろ、父性への戸惑い(模索)からか、良い父親はひとりも出てこない。
そういう分かりやすい父親像はすでに存在しないのだ、ということで、血縁でなくとも、複数の父を探そう、という話にしていると思います。
もしくは、ひとりの偉大な父ではなく、複数人で役割分担をして、何とかひとり分ぐらいにならないか……というぐらいの弱々しい父性なのかも知れません。

それは今の少子化社会で、父親になれないまま生きる男性(私を含む)の問題でもあります。
実の子はいなくても、誰かの父親(役)になることはできるかも知れないし、それぐらいはしなければならないのかも知れない。
別にひとりで子供を背負うこともなく、地域社会や共同体内や職場などで、それぞれが少しずつ役割分担をすればよいのかも知れない。
もしかすると、熊徹のように、実の父親以上に影響を与えるようなケースもなかにはあるかも知れない。

ただ「この子の心の中で生き続けたい」などと言う父親側の自己陶酔的な欲望は必要ないと思うけどね。

最後に。「熊徹と九太の一体化」の肯定


ここまで「熊徹と九太の一体化」を一旦肯定した上で、実父に視点を置いて改めて考えてみましたが、いかがだったでしょうか。
私は、実父という存在を前提にするのではあれば「熊徹と九太の一体化」も一つの方法だと、肯定するに至りました。

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前回記事から続きで読んでいる人からすると「完全に意見が真逆になってるじゃねーか」と思われるかも知れませんが、前提条件と違う視点を設定したら、違う答えが出てくるのは自然だと思います。わたくしは全く悪びれない。

それに、これまでの自分の見方や意見を捨てたりしたわけではありません。
異なる視点をひとつ手に入れた、ということなので、単純に見方が増えたと自分では思っています。

実際、映画の中心たる熊徹と九太の関係と決着を、犠牲をしいられた一郎彦のことを含めて、父親側にとって都合のよいものとして批判することはできると思いますし。

ただ「見たいもの」「気持ちいいもの」を提供するのがフィクションのひとつの役目という意味では、それで50億円以上稼げるわけですから、まさにバケモノですよ。
それでいて、実父の存在のように、気持ちいいだけの、快楽だけの映画にはしていないのが特徴的ですね。
(これが、いわゆる細田映画の「モヤモヤ」を生む要因のひとつ)

私の中では、映画『バケモノの子』についてはこれで決着です。
また何かどなたかの刺激的な意見を目にしたら変わるかも知れませんが、記事としてはこれで完結としたいと思います。

興収50億円以上、毎年金曜ロードショーで放映できる映画で、こういう構造の作品をつくるのはやっぱりすごいと毎回思っています。
次作も楽しみですが、やっぱり、そろそろ息抜きが必要な気はしますね。押井守の監督勝敗論的にもね。


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前回記事では、映画『バケモノの子』の感想をお送りしました。

子育て西遊記 in ケモ街diary <映画『バケモノの子』と中島敦『わが西遊記』>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-237.html

作品のモチーフのひとつである『西遊記』を中心にした話をして、最後に、長年見たかったものを私に見せてくれて、細田監督ありがとう、と感謝の意を表しました。大変きれいな記事でございました。

今回は細田映画の風物詩「モヤモヤ」を中心に、鑑賞後に物語について色々考えたことをメモしてみます。

あのですね。はっきりいって呆れるほど長いですよ。自分でも呆れますから。

思考のぐるぐるをそのまま書いてますからね。ズバッと一言で切り捨てていけば短く済むでしょうが、思考のはらわたを書くこと、見せることこそ、この記事の本質ですから、どうしても長くなります。申し訳なかとです。

ブロックを、映画の要素ごとに分けていますから、なんでしたら興味のあるブロックだけご覧ください。

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もはや遠慮するような時期でもないので、ネタバレ全開でお送り致します。
ただ、映画を見たのが7月の1回だけですから、記憶の方がすでに曖昧になりつつあります。
当時の自分のツイートを確認しつつ、何とかあの頃のピュアな気持ちを思い出して、がんばる所存です。

映画『バケモノの子』について


映画『バケモノの子』は、2015年7月11日に公開された日本のアニメーション作品。

『時をかける少女』、『サマーウォーズ』、『おおかみこどもの雨と雪』の細田守監督の長編オリジナル最新作で、興行収入50億円突破の大ヒットを記録しています。

あらすじなどは前回記事をご覧ください。



映画前半と後半で大きく異なる雰囲気


さて、前回記事からの流れでいきますと、前半はおおいに楽しんだと。では後半および物語の終わり方についてはどうなの?
と、当然なるわけですが、この作品は前半と後半でかなり雰囲気が異なっています。
少なくとも『西遊記』的なものは前半で終了します。

後半、特に物語の落とし方に関しては、個人的にはかなり疑問というか、モヤモヤが残りました。
その後しばらく何日かは、物語というものについて考えさせられたといってもよく、これは細田映画で毎度体験する宿題のようなものです。
この鑑賞後の何日間に残るモヤモヤと、それを晴らすために思考を巡らすことが、細田映画の楽しみ方のひとつと表現するのであれば、私は今回もめいっぱい楽しんだことになるでしょう。

では、そのあたりのことを色々と書いていくことにしましょう。
後半と物語の落とし方のことが中心ですが、それに関わる前半の要素についても言及します。

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あらかじめ申し上げておくと、これは批判というわけでも、自分が思ってたストーリーにならなかったクレームでもありません。
映画自体にもの申すというより、自分自身の物語に対する考え方(スタンス)を確認している、というのが近いと思います。

「モヤモヤ」するところは、細田監督と私とで何らかの考え方の違いが生じているはずなので、映画ではなぜこうだったのか。もし自分だったらどう考えるか、ということを私なりに確認していきます。

ですから、物語はこうあるべきだ、というような「物語の正しさ」の話でもありません。

つまりは長々と単なる「好み」の話をするわけです。
ですが、物語に対する最終的スタンスはこの「好み」でいいのでは、と思っています。
(多分やってはいけないのは、「物語の正しさ」を説くフリをしながら「好み」を話すこと)

主人公「蓮(九太)」について


バケモノ世界へ行くまでの主人公「蓮(九太)」の境遇は、以下のようになります。
  • 両親は離婚しており、母親と共に暮らしていた
  • 9歳のとき、母親が交通事故死で他界する
  • 母方の親族が、九太を引き取って育てることになった
  • 母方の親族は、ある程度裕福そうで、また貴重な男の子ということで大事にすると言っていた
  • 父親は母の死後、現れなかった。(親族が意図的に知らせなかったと思われる)
  • 親族にもらわれることを拒み、渋谷の路地裏で孤児となる。

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両親を揃って交通事故死としなかったのは、のちに実父を登場させ、人間世界とバケモノ世界の狭間で悩むジレンマを作るためと思われます。
生き残るのが母ではなく父だったのは、父親がテーマであるこの作品で、人間世界の実父とバケモノ世界の養父という対比をさせるためでしょう。
また父でなく母が生存していた場合、熊徹では勝負にならないほど母という存在が強い(勝ってしまう)、ということもあると思います。母には勝てなくとも、父VS父なら勝負になります。

実父が生存しているにも関わらず「孤児」の立場を作るために、前段階で離婚させた上で、母の死後(推測ですが)母の親族による情報の遮断をさせています。実父はこれで「不可抗力」で息子を孤児にできます。
(実父は、のちに事故と子供の失踪を知り、それからは息子を探し続けていたということが知らされます)

実父「無罪」のまま子供を孤児にする一方で、母の親族は、イヤな大人の役回りを担当しています。
彼らの蓮に対する態度もどこか高慢で好感を持たれるようなものではありません。

とはいえ蓮を引き取ること自体を嫌がってはいませんし、恐らく不自由のない暮らしは約束されています。
もちろん彼らの都合の良いように蓮の人生は流れてしまうでしょうが、誰も引き取り手がいないとか、あからさまに迷惑がられるとか、引き取ったあと児童虐待されるような最悪の状態にはならなさそうです。

しかし、蓮はそれでも彼らの世話になるのではなく、「一人で強く生きていく」ことを選び、孤児となり、渋谷の裏路地に暮らすストリートチルドレンとなります。(もちろん「一人で強く生きていく」は、蓮の本当の望みではないわけですが)

正直なところ、母方の親族が記号的で、孤児の境遇をつくるための道具となっているのですが、かといって渋谷の裏路地で暮らした方がマシに思えるほどの最悪な大人にもしていないように思えます。
「一人で強く生きていく」を孤児になるための、そしてバケモノ世界へ飛び込ませるための動機として使って問題ないと思うのですが、あの時点で、わずか9歳の主人公・蓮があそこまで親族を憎んで、ひとりで生きていくことを選ぶモチベーションの持ち方が、映画を見る限り私にはよく分からなかったところがあります。

ちなみに画面に登場する母の親族は、みな顔が見えない演出がされています。

この作品で他に「顔の見えない大人」といえば、女子高生・楓の両親です。
ですから、顔の見えない大人=蓮の母方の親族=楓の両親 という意味では、「親族にもらわれていった蓮」こそが楓の姿である、とは言えると思います。

それは分かるのですが、実父生存のまま「不可抗力」で孤児にするという作品の都合と、しかし母方の親族も最悪の人間というわけでもない、というやや中途半端な処理が私の違和感の出所なのかも知れません。

母の親族はこれ以降まったく登場しませんから、あくまで道具立てのための存在であるなら、いっそのこと最悪の存在にした方が良かったのでは、という気が個人的にはしています。

熊徹への弟子入りと「強さ」について


孤児となった蓮は、バケモノ熊徹に拾われ、色々あった末にその弟子「九太」として、バケモノ世界で暮らしていくことになります。本記事でも、以降は「九太」と呼ぶことにしましょう。

師匠・熊徹に与えられた朝食は、卵かけごはん。九太は生卵が気持ち悪くて食べられない。
九太の大好物は、お母さんのハム入りオムレツ。
しかしバケモノ世界にそんなものはありませんし、作ってくれる人もいません。
生きていくためには、もうオムレツ(母)が無いことを自覚し、生卵(父)を受け入れないといけません。
九太は、覚悟を決め、食べられない卵かけごはんを無理やり飲み込みます。

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そんなこんなで、バケモノ世界で修行を始めたあたりから、「強く生きていく」の「強さ」が、武術的な意味での「強さ」に変化していきます。

もちろん9歳の子供が願った「一人で生きていける強さ」を、弟子入り後に武術的な「強さ」に変化させてもいいけれど、その場合、武術修行を建前にして、共同生活能力や、料理・洗濯などの生活能力などを学ぶ、という感じになることが多い気がします。
武術的な「強さ」を求める修行をしていたけど、人生で本当に役立つ、本質的な人間の「強さ」とはそこにある、という感じで。

九太も、武術を学ぶかたわら、弟子として掃除や洗濯もするわけですが、そもそも、バケモノのリーダーを決める熊徹VS猪王山の戦いも、弟子を育てた経験が参加条件とはいえ、力と力の激突で決定されるもの。
作品全体を通して、戦闘力としての「強さ」が支配しているように思えます。

実際、猪王山の次男である次郎丸が、九太と友達になったのは、九太が強くなったからです。
(逆に言えば「強さ」が無ければ、この友情は成立していなかったと思われる)

このルールとシステムの中で生きてきた熊徹が求める「強さ」とは、バケモノ世界でいちばん腕っぷしが強いこと、になるでしょう。それはバケモノなんですから当然と言えば当然です。

ただ九太。君が欲しがっていた「強さ」って、本当にそれで良かったんだっけ?
それとも、もう1人じゃなくなったから、武術的な「強さ」で良くなっちゃったのかな?

『悟浄出世』的な諸国漫遊をして、この世にはさまざまな「強さ」の考え方があり、直線的な概念でもなく、その道の達人や賢者でも簡単に答えなど出ないということに、九太も感銘を受けていたようでしたが、それが後半に活きた印象は受けませんでした。(だから、この場面はまるまるカットした方が映画としては分かりやすくなるかも知れない)

このバケモノ世界を支配する「強さ」と対比されるのが、恐らく現実世界での「勉強」で、後半、九太は勉強にのめり込むことになります。
一見、バケモノ界での「強さ」から離れ、人間世界での「強さ(勉強)」に目覚めたようにも見えますが、こちらはこちらで、モヤモヤするところがあったりします。では、次はそのお話を。

楓の出会いと勉強と、得られる「普通」


中盤あたりで、九太は、熊徹から逃げる形で偶然、現実の渋谷に戻ってきます。

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渋谷の図書館で女子高生の楓と出会い、9歳から学校へ通っていない九太は、彼女から勉強を教えてもらうことになります。
九太はめきめきと学力を伸ばし、楓から高卒程度認定試験を受けて、大学進学を目指してはどうかとすすめられます。

バケモノの世界で力となる強さを教えてくれた師が熊徹であるなら、人間世界で力となる知識を教えてくれる師が楓ということになります。

そのどちらに対しても九太が用いたのは、素直にマネをする、ということです。
これは『悟浄歎異』で、悟空が八戒に説いた変化の術の極意であり、恐らくこれが、九太の最大の武器でしょう。

ただ勉強をしていく中で私が気になったのは、九太が「これでオレも普通になれるかな」みたいなことを言うところ。
ここでいう「普通」というのは、恐らく人間としてのごく「普通」の生活だということですよね。
人間世界で、学生として勉強して、大学に進学して、就職して、といったような、皆と同じような「普通」の人間としての生き方。
これが九太の学習動機のひとつであるようです。

大学進学を勧める楓からすると、バケモノを実際に見たのはラストだけなので、九太を少し変わった子だとは思っているでしょうが、詳しい背景は分かっていないでしょう。
ですから、特殊な背景を持つ九太を「普通(マジョリティ)」に誘っている、という意識は特に無いでしょう。
若木が水を吸い込むように学力を伸ばしていく彼を見て、素直に進学を勧めただけのはずです。

ただ、九太がこの時点で「普通」というものを気にしていることが、私は少し気になります。
この話には、実父との再会もからんできますので、この先の展開を見ながら、また考えてみましょう。

再会、父よ ~思い出のオムレツを添えて~


楓と区役所で住民票を調べるうちに、実の父親の住所を知り、九太は父親との再会を果たします。
実父は、蓮をずっと探しながら、ひとりで暮らしてきたようで、再会時、18歳となった我が子を商店街で抱きしめます。

実父の印象としては、私には彼が「子を失くしたお母さん」のように見えました。子を求める寂しい母。
母の象徴だったハム入りオムレツを再現して食べさせようとするところも印象的で、お父さんだけど、これ実質、お母さんじゃない?と思いました。もちろん本当に女性なわけではなく、そういう印象を受けるようなパパとして設計されている、ということです。
昭和的で極めて粗雑な熊徹との対比で、こういう父親にしたのだとは思うのですが……。

実父はオムレツの材料を買ってますが、実際に焼けるかどうかは分からない。
単に家族3人の思い出として再現したいだけかも知れず、がんばるけど上手く焼けないかも知れない。

バケモノ世界で炊事洗濯などを全てこなした九太の方が、料理が上手くて思わず手が出て、器用に料理をする九太を見て、父は息子の成長を感じる。

一方の九太も、生卵は食べれるようになったけど、現実世界には思い出のオムレツの味を共有している唯一の人がいて、自分のためにそれを作ろうとしてくれた。そこに家族のつながりや、実の父という実感を感じたり……。

みたいなところまで見せてくれたら良かったかも知れないですね。
ただ時間の関係などが大きいはずですが、オムレツを実際に焼く機会はなし。
「父」であるという感触を、強く感じさせてくれる場面は特にありませんでした。

ですから、人間界の実父VSバケモノ界の養父、のような父性VS父性の対立はありません。
2人の父というより、一人はお母さん(みたいなお父さん)で、あれからずっと子供を探し続けてました。

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例えば……再婚、父よ ~思い出のオムレツは消えて~


個人的には、実父にはすでに再婚した家族がいて、子供もいて、オムレツを食べながら幸せに暮らしている、ぐらいでも面白かったのかも、とは考えます。
実父はもちろん、再婚した家族と一緒に暮らそうと、優しく九太を誘ってくれます。
義母もいい人です。オムライスが得意なのよ。よかったら食べて、と微笑みます。

しかし九太は、父さん、俺はもう18歳にもなって字も読めないバケモノの子なんだよ……と、渋天街に逃げ帰って、卵かけご飯を無言でかっこむ、(で、それ見て、怪訝な顔をする熊徹)みたいなのも悪くないかなあと。

もしくは、現実世界とバケモノ世界とで時間の流れが違うことにしてみるとか。
バケモノ世界で8年暮らすうちに、現実世界で倍の16年が経過していた。
渋谷で赤ん坊の楓と出会ったことにして、16年経過して17歳。
若い子はいいけれど、実父は九太が想像するより倍、老けていた。
「このまま、渋天街にとどまると、楓や父さんと同じ時間を過ごせなくなる……」
と、九太は実父と暮らすことを考え始める。みたいな感じにもできるかも知れない。

実父の父親像について


恐らく、「再婚もせず、子供をずっと探し続ける父」という、免罪されたキレイな父親像を選んだと思うのですが、父が再婚でもして、九太が俺はバケモノの子だから一緒に暮らせない!みたいなコンプレックスを持ってくれたら、猛勉強して、現実世界にも馴染んで、普通の息子にならなくっちゃ!みたいな動機がすごく分かりやすくなるようが気がします。

しかし実際のところ「免罪された父(実質、お母さん)」を選んで、主人公に多大な負荷をかけることもしていないので、九太の「普通」になりたいという想いは、外部要因ではなく、彼の中から自発的に生まれたものということになるしかない気がしますね。

ということは、バケモノ世界とバケモノに囲まれて暮らすのは、九太にとっては「普通」ではない(異常な)状態という認識であり、人間世界で普通になりたいと、渋谷に出て、楓と出会って勉強を始めてから思い始めたということなんでしょうか。

九太いや蓮にとっての「普通」とは、母がいて父がいて、学校行って友達と暮らして……という、ごく当たり前の生活?
でも、それはもはや失われて帰ってこない。かといって母の親族から「普通」をあてがわれることにも、九太は全力で拒否した。
大人にあてがわれる「普通」よりは、異常なバケモノの世界でもたくましく生きる方を選ぶ子供、だから渋天街でも生きていけたと思うんですが……あれ?

受け入れてくれたバケモノ世界。養父・熊徹や、千秋坊など周りの世話を焼いてくれる大人たち、次郎丸など種族を越えた友人などがいても、それはどこまでいっても「異常」でしかなく、やっぱり「普通」であることを求めるの?

ということは、渋天街はあくまで一時的な通過儀礼的な空間ということになるのだろうか。
これについては、ラストにも関係しますので、また後で考えてみましょう。

人の子にのみ宿るという、「心の闇」とは


その後、熊徹に受験勉強がバレてしまい、人間世界への進学を反対され、渋天街を飛び出した九太。
実父の元へ行くが、「一緒に暮らそう」という父に、ささいなことからイラ立ち、これも拒絶して、父の前から去る。
九太の心は揺れ、自分の心の中にある闇を知るが、楓によって落ち着きを取り戻す(三蔵法師方式)。

バケモノの世界では、人間を渋天街に住まわせると、いつしか心に「闇」を宿し、大変なことを引き起こすという言い伝えがあるそうな。のちに楓も語るように、あらゆる人間に「心の闇」は存在するが、それは心ゆえに基本的に見えるものではない。
人間がバケモノ世界で暮らすことによって、「心の闇」が具現化するのだろうか?

しかしこの映画で最初に兆候が見られたのは、九太が孤児となった初期の渋谷。
この時はバケモノ世界とまだ関わりがないはずだけど……まあ子供たちにも分かりやすく「心の闇」を見える化したもの、ということかな。

人間をバケモノ世界に住まわせると心に闇を宿し、というのは別にバケモノ界が原因になっているわけではなく、そもそも人間は精神的に弱い生き物でトラブルメーカーだ、という、バケモノ界での人間に対する評価・認識ぐらいに考えておけばいいだろうか。

その後、九太には、2人の父と上手くいかなかった際と、熊徹があんなことになった時に、闇は再び現れた。
人間だけが持つという心の闇は、この作品の結末において、重要な役割を果たします。

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非常に分かりやすい設定なのですが、この「心の闇」は人間にのみ存在し、バケモノにはないシステムということになっています。

しかし映画を見る限り、バケモノは人間と同じく、悪いやつも良いやつもおり、欲望も隠し事もある。精神性として人間と特に違ったところは見られない。
バケモノは半神のようなもので、人間より上位種族のように優れており、「心の闇」のような弱さとは無縁なのだろうか。そうかも知れないが、映画ではバケモノと人間の決定的な違いが私には見えない。
もう少し、違う世界の、違う生き物っぽさが出ていてもいいのかも知れない。

例えば、バケモノは基本的に死なないけれど、人間はあっという間に死ぬ。だから死ぬ前に何かしたい、こうなりたいという欲望はバケモノの比ではない。それがエネルギーとなって前へ進む力を生むが、その急いた心はマイナスにもなる……とか。

人とバケモノは生き物として何か決定的に違うのだ、という所が、設定面でも演出面でも、もっとあってもよかったのかも知れない。外見上のケモノの顔だけでなく。

そういう設定があれば、現代の渋谷と重なる渋天街が、なぜ未だにカンフー映画の舞台のような古めいた世界であり、一方の渋谷がビルが立ち並び発展しているのか、という世界の違いの説明に使えるかも。
また、九太が人間の子供の身でありながら、わずか8年あまりでバケモノ世界の武術をおさめることが出来た背景(言い訳)にも使えるかも知れないですね。

人間の「心の闇」という表現は、割とよくあるものですが、それが具現化する本作の「心の闇システム」は、物語を落とすために導入されたギミックだな、という印象を私はどうしても強く感じてしまいました。
物語的な取り回しの良さだけでなく、バケモノと人との違いを表現するものとして、もう少し突っ込んでみても良いのかも知れません。

映画のための犠牲となった白クジラ


さて、この作品には「心の闇」問題から、バケモノ世界で禁忌といわれる、渋天街で暮らしてしまっている人の子が2人います。

ひとりはもちろん、主人公・九太。
そしてもうひとりは、熊徹のライバル猪王山の長男・一郎彦。

一郎彦は、赤ん坊のころ、渋谷で捨て子になっている所を猪王山に拾われて、バケモノ世界にやってきました。
ですから、人間界の記憶も知識も、自分自身が人間であるという自覚もありません。
父・猪王山のような立派なバケモノになることを夢見ており、父もいずれそうなれるよと、息子に話してきました。
しかし、人間の彼は当然、父のような「立派なバケモノ」になれるわけもない。
成長した彼が自分が人間であることに気づき、それをコンプレックスだと悩み始めたとき、心の闇は大きくなっていきました。

終盤は、この一郎彦が起こした暴走を、九太たちが止める、という展開になっています。
映画のラスボスとして、倒すべき敵となった彼の役回りは相当にかわいそうなものになっています。
一郎彦の終盤のアクションを中心に簡単にまとめてみましょうか。
  • 熊徹が猪王山との勝負に勝った直後、逆上して、背後から念力で熊徹に剣を突き刺す
  • 心の闇が暴走した一郎彦はそのまま失踪する
  • 九太は一郎彦を「もうひとりの自分」といい、彼を止めるために、重体の熊徹を千秋坊たちに託す
  • 渋谷で楓に会い、自分の覚悟を話す九太の前に、一郎彦が現れる
  • 一郎彦は九太の持っていた本『白鯨』をチラッと拾い見て、巨大な白クジラに変身する
  • 一郎彦(クジラ)により、渋谷は爆発炎上、大混乱に陥る(しかし死者ゼロ)
  • 追い詰められた九太と楓だが、熊徹の助けにより、九太は一郎彦の闇を断つことに成功する
  • 一郎彦は大暴れした一連の記憶を失くし、バケモノ世界で目を覚ます

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一郎彦の「心の闇」の根幹にあるのは、自分が人間であり、父・猪王山の期待に応えるような立派なバケモノにはなれない、ということです。

その意味では、親の期待に応えて自分を抑圧し、優等生をやっている楓と似たようなものです。
前述したように、その楓とは、親族にもらわれていった「もうひとりの蓮」です。
そして劇中で九太が言うように、一郎彦とはバケモノを親として育った「もうひとりの蓮」です。

さらに楓が語っていたように『白鯨』のクジラは、もしかしたら自分自身かも……ということなので、「もうひとりの蓮」こと一郎彦は、白クジラに変化します。

よって、蓮=楓=一郎彦=白クジラ というラインが成立するわけです。

これが、白クジラになった一郎彦に対して、楓が呼びかけた言葉につながっていきます。
あれは「いきなりしゃしゃり出て、何説教してるの?」というわけではなく、このラインを前提にすれば、「もうひとりの蓮」に、そして自分自身に語りかけているものと同じだと分かります。
みな似たようなもので、似たような闇を抱えながら生きている、あなたも私も、というわけですから。

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ただ一郎彦に関していえば、父・猪王山が人間であることを隠して育てた上、思春期に自分のアイデンティティに疑問を持つようになっても誤魔化すような子育てが原因として、あまりにも責任の所在がはっきりしすぎています。

猪王山の教育方針と、何でもお見通しのはずの津川雅彦(宗師)の無介入が招いた人災に近く、一郎彦自身に「心の闇」の責任がほとんど無いケースなのではないかと思ってしまいました。

基本的にはラストで渋谷が派手に大変なことになって、九太と熊徹が協力体制を取るためのキャラクターであろうと思います。

ですから赤ん坊の時にバケモノ世界に拾われていったのに、9歳でバケモノ世界に行った九太でも読めない「鯨」を、本をちらっと見ただけで理解し、白いクジラに化ける器用なマネについても、ツッコミを入れるのは野暮で、むしろ彼の「俺はお前で、お前は俺なんだよ」という献身を褒めてあげた方がいいでしょう。

「心の闇」についても、九太は一郎彦の心の闇を取り込んで、そのまま刀で自分の胸を刺し貫くことで問題を解決しようとしました。
そんな技いつ覚えたの?とか、他人の「心の闇」を取り込むことが解決になるの?などの疑問はありますが、これらはその直後に誤った解決法であると否定されますので、特に気にしなくても良いと思います。

もちろん直後の解決法も、刀で闇を切り払うものであり、とりあえず白鯨が消滅するので映画的には何も問題のない解決ですが、一郎彦視点で見た場合、根本的な問題は解決していないことに気がつきます。

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全てが終わったあと、一郎彦がバケモノ世界で目覚めたとき、周りには心配した家族が疲れ果て眠りこけていました。

猪王山は子育てに失敗しましたが、人間でも息子を愛しているのに変わりはなく、母も弟も同じなのです。
気がつくと、一郎彦の指には赤いリボンが結ばれています。九太の心の暴走を押しとどめた楓のおまじない(三蔵法師の輪っか)が、ここで継承されています。

一郎彦は自分が行った行為の記憶を全て忘れ、また渋谷の混乱でも死者がゼロという処理を行いました。
これは正気を取り戻した一郎彦が罪人としての重荷を背負わないようにするための配慮と思われます。
ただその結果、一郎彦視点でみると「何もしてない」ことになりました。本人の記憶的にはそうです。
しかし本人に覚えはなくとも、映画の終盤を盛り上げるための存在として、彼は充分に働きました。
無罪放免はそのせめてもの慰労が込められているかも知れません。

彼の根本的な問題「父のような立派なバケモノになる」は解決していません(元々解決できない)。
家族は夜通し心配していた。でも何も解決はしていない。父は自分に真実を言わなかったし、自分には父のようなキバは生えない。 記憶が飛んでいるので、鬱屈したところから一郎彦は前には進めていません。

ですから猪王山が猛省して、息子に真実を語り、それでも彼を愛し、後継者としても認めていることを告げる必要があります。
そして一郎彦が、父と同じ姿になることが子の成長では無いと悟り、自分が人間であることを受け入れることが出来れば、初めて一郎彦側の「心の闇」問題が解決できるのだと思います。
この映画でそこまで描かれることはありませんでしたが、その日が来ることを祈りましょう。
(しかし、その為に家族は「一郎彦暴走」の事実を封印するという、別の嘘をつき続ける必要があるような気がしますが)

ネモ船長「猪王山が嫡男、一郎彦、君は人間だ」
一郎彦「それでは、私のやっていたことはすべて……」
ネモ船長「幻だったのだよ。君の記憶は消し、渋谷の死者も出ない。この映画は熊徹と九太のものだ」
一郎彦「そうか……さらばだ」


どうしても私は映画の落とし所のために、九太&熊徹親子に奉仕した感を受けてしまうので、かわいそうな一郎彦にはひどく同情的になってしまうのでした。

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熊徹の選択と、親子物の落とし方について


一郎彦の活躍により生じた、九太のピンチを解決するため、重体の熊徹が選んだ方法が「付喪神として刀にその身を変える」でした。
熊徹の化身であるこの刀は、九太の胸に吸い込まれていきます。熊徹と一体となり、彼の炎をまとった刀で、九太は一郎彦の闇を粉砕することができました。

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「付喪神」については、オチから逆算でつけたような千秋坊の台詞が前半に確かひとつ。
「心の剣」については、前半の修行時に、熊徹が剣術を教える際に、基本概念のような形で説明に使っています。

熊徹にはある(感じることが出来る)が、九太には無いものとなっていましたが、九太は長年修行して武術をおさめたように見えても、基本にして極意といった感じの「心の剣」は未だに無かったんですね。
あれだけ毎日親子、師弟として修行の日々を過ごしても心の剣は九太に生まれなかった?
人間にはそもそも無理なんでしょうか。

育ての親・熊徹が、息子・九太の「心の剣」になるシーンは感動的ではあったものの、人間の「心の闇」は、8年程度の親子暮らし程度ではどうにもならず、身を捨てるレベルの献身的な愛でもしないと穴が埋まらない、ということになるのでしょうか。
(そう考えると今後の一郎彦は大丈夫なんだろうか……。九太ですらここまで必要だったのに)

熊徹は天涯孤独の身だったと思いますが「心の剣」を持っていたようなので、別に親や師から継承するものでもないようです。
人間にはないけど、バケモノには元々あるものなんでしょうか。
もしくはバケモノ一般の話ではなく、熊徹のモチーフのひとつである孫悟空を思えば、親の腹から生まれる人とは違い、天と地を父母として生まれた孫悟空のような存在には元々備わっているようなものなのかも知れません。

いや……私は意地悪な書き方をしていますね。
映画的にはこのシーンは絶対に必要です。
細かな理屈抜きにしても、ビジュアルで分かりやすく、熊徹と九太が一体化して、アクションで問題を解決しています。何も問題ありません。

私が「モヤモヤ」するのは、心の剣がどうこうではなくて、恐らくこの映画自体の「落とし方」の問題だと思います。
この作品では「父子」関係というものを、どう考えるの?ということになるでしょう。

熊徹と九太は、なぜケンカせず、一体化してしまうのか


父と子の関係を描いたこの作品を、どう決着させるのか。どう落とすのか。

現実世界の実父とバケモノ世界の養父、といった状況的は、別に問題解決するようなことは何もありません。
九太は、現実世界とバケモノ世界を自由に行き来できるわけですから、実父に進学のために戸籍を預けて、あとは2つの世界を行ったり来たり、自由によろしく生きていくことは可能です。
一郎彦が大事件を起こさなければ、日常系バケモノ物語『ケモ街diary』で終われます。

唯一の問題は、進学するための参考書を熊徹に見つかり、口論となったことです。
九太的には、高校まで親子で夢中になってた野球をやめて、都会の大学へ行きたがる年齢になった、みたいなものですね。

でも熊徹は、ひと昔、ふた昔前のステレオタイプのような頑固おやじ。つまり熊 一徹(声:加藤精三)なので人間世界への進学には、ちゃぶ台をひっくり返す勢いで反対します。
もちろんそこには、知らぬ前に九太と実父のつながりがあることを知ったショック(嫉妬)も含まれるでしょう。

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熊 一徹は冗談としても、古めかしい父親像で描かれた熊徹は、親として、そして師として息子を育て上げたあとは、偉大な敵として息子の前に立ちふさがるしかないのではないか。
そして父は越えるべき敵として、最終的に子供に敗れることで、親子関係は決着する。

落とし所、どうしよう?と考えたときの、ひとつのオーソドックスなパターンがこの「親子げんか」だと思うんですよね。

見事、父を乗り越えて人間世界へ去ってしまった九太。
そのあと、寂しくひとりで生活する熊徹を、多々良や千秋坊が慰める。
そこへ、ひとりの迷い込んだ小さな男の子が。聞けば、身寄りもなく、行くあてもないという。
多々良や千秋坊が見つめ合ってにやり。
熊徹が嬉しそうに問う「坊主! お前、齢はいくつだ!」<バケモノの子・完>

みたいな可能性も考えられるとは思います。ひとつの典型的なパターンとして。
熊徹を古い頑固親父のように描いているだけにね。

この「親子げんか」パターンは制作時に話には出て、検討されたかも知れませんが、採用はされていません。
代わりに「子育てに失敗した親子」との対決パターンが選ばれ、父・熊徹が猪王山に勝ち、子・九太が一郎彦に勝つ、という展開になっています。

なぜ「親子げんか」パターンのように、子供が親を越えて、親離れをするというポイントを作らなかったのか。私はこの作品でここが、いちばん考えてみるのに面白いポイントだと思っています。

最後まで保護・被保護の関係の2人


付喪神になる直前の熊徹の、大きくなったといっても子供は子供。今でも親の助けがいるのだ、という台詞通り、最後まで熊徹は九太を保護するものとして終わりました。
しかも、子供の中の「心の剣」になって一体化し、一生見守り続けるという展開で。

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殴り合って子供に負けたら、親としての役割がなくなってしまう、というわけでは当然ありませんよね。
親子関係が、保護と被保護の関係しかないと考えるなら終わりでしょうが、子供の成長によって関係が変化するだけで、一生続いていくのが親子関係というものでしょう。

でも、父と子の戦いによる親離れ、子離れのようなオーソドックスな展開ではなく、むしろ父と子が一体化する展開が選ばれています。
自分が消えることで、九太は実父の元へ返してあげるけれど、その息子の心の中に自分を永遠に刻み付けておく、という形で。

しかも熊徹はバケモノ10万を統べるリーダーに決まった瞬間に、それを全部捨てて、息子の為に身を投げ出すんですよね。
もちろん「パパはそんな地位(宗師)より息子の方が大事なのだ」ということなのだと思いますが、親子とバケモノ10万のリーダーとしての責任、どちらを選ぶかなどの葛藤は逡巡すらなく、殴り合いの結果だけで決めるリーダー選出法は問題あるんじゃないのかな?と思えてなりませんでした。

いずれにしろオーソドックスな「親子げんか」を通した親離れ・子離れは、定型的過ぎるし、今作が描きたいものではないのだろう、と察しますが、そのパターンを避けるにしては、あまりにも熊徹が古めかしい昭和の頑固親父のように設計されていることが気になりました。

正直ここは、細田監督ご自身の親としての意識が、だだ漏れなんじゃないかな、とも感じるのですが……。
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見た時も、お子様に絵本を読んであげたり、かわいい盛りという感じでしたし、かなり親側目線での都合のよさというものを、私は感じてしまいました。

私は自分自身が人の親ではなく、子を持った経験がないため、イマイチこの親子関係の処理の仕方が掴めないのかも知れません。

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実際に、Twitterやブログで親交のある坂井哲也(@sakaitetsu)さんと、この父子問題についてお聞きしたところ、「親にはすごく都合のいい展開なんですけどね」と前置きした上で、同じ「親」として監督の気持ちは分かる、と仰っていました。


未だに誰かの親でなく、子の立場にしかなったことない私には、そうなんだろうなと理屈は分かっても、感情的には正直よく分からないとしかいえないですね。今の私には。

ですから「親」ではない立場で、あれこれ好みと理屈を書き連ねてきましたが、この落とし方が親となった細田監督の表現したかったことなら、それは私がどうこう言うことではないのかも知れません。

ただ『バケモノの子』を考えるのであれば、やはり最も面白いポイントはここだと思います。

物語の終わりと「普通」の描き方


一郎彦の白クジラは、九太と熊徹の初めての共同作業、炎の刀の乱舞により退治され、渋谷における、のちに「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件と呼ばれる全てのトラブルが解決しました。


九太は人間界に戻り、実父と共に暮らすことになりました。
もう心の闇がうずくことはありません。心の中には、熊徹が黙って見守っているくれるのですから。
<バケモノの子・完>

と、正真正銘、物語の終わりとなります。

九太は、人間界に戻り、実の親と暮らし、大学へ進学するでしょう。
彼が望んだ「普通」になることができたのかも知れません。

ただ私は、前述したように、この状態を「普通」というのに抵抗があって。
蓮が、自分は母親がいないけれど、父親は人間界にひとり、バケモノ世界にひとり……いや、千秋坊や多々良も入れたら3人、合わせて父親4人かな、という自分の境遇こそを自分の「普通」と受け入れて生きていくような形の方が現代的だと思うし、個人的にも好みです。

人間とバケモノの差異も、父親だけが複数人いるような環境も、フラットに捉えるような形ですね。

「この映画は、父親が多すぎる!」と言ったような意見も目にした覚えがありますが、それは元々この映画が意識的に描いているところだと思うので、批判されるべきポイントではありません。

母1人、父1人という「普通」の親子の形だけでなく、複数人の父がいてもいいし、共同体全体で子供を育ててもいい。
実際に、蓮は、バケモノ世界という共同体の中で、複数人の父や、祖父(宗師)によって、育てられた子供です。

ですから、蓮の環境は「異常」であり、いつかは「普通」になる方が望ましい、という描き方はしない方が良いと私は考えるのですが、前述したように、肝心の蓮本人が「これで普通になれるかな」と願望を口にしますし、映画は人間世界に戻って終わります。

バケモノ世界はあくまでも一時的な雨宿りであって、通過儀礼的な仮の宿であり、仮の親だと考えることもできますが、9歳から17歳までの8年間は子供時代として大事な期間すべてと言って良く、大人になるための一時的な儀式空間というよりは、がっつり子供時代を過ごした生活空間になっているかと思われます。

映画を見る限りでは、共同体や複数の父のようなモチーフが出ていながら、なぜか「普通」への回帰を目指すのが私にはちょっと分からないところです。せっかくなのですから、「普通」の解釈は広げてみても良かったのではないでしょうか。

「バケモノ」とバケモノの街「渋天街」の弱さ


共同体での子供の育成、という面で言えば、現実世界の渋谷にバケモノが出てきている機会が、(ラストを除いて)映画には2回あります。

ひとつは、猪王山による赤子(一郎彦)を拾うところ。
もうひとつは、熊徹が九太をスカウトするところ。

いずれも、子供を渋天街に連れていく場面しかありません。
(逆に言えば、バケモノが渋谷になぜ出てくるのかの説明が一切ない。まるで子供を拾いに来たようだ。)

それを利用して、いっそのこと、渋谷の家出少年少女や捨てられた赤子など、行き場のない子供をバケモノ街に連れていくという機能が、渋天街にあっても面白いのかも知れない。
渋谷の監視カメラも、バケモノがハッキングして、そういう孤児が出ていないかどうか監視をしている、とか。

昔からそうしてきて、みなしごの子供を拾って、渋天街という共同体で育ててきた。
もちろん、働かざるもの食うべからずなので、『千と千尋の神隠し』のように働かされたりもしたけど、疑似的な家族(里親)と共同生活をして、心の闇が晴れたら、また人間界に戻っていく、とか。 (逆に、子供の「心の闇」を晴らす役割を持たせる)

青少年保護&更生施設としての、渋天街側のメリットは、労働力……としては大したことないでしょうが、例えばバケモノ世界で子供というものは貴重で「子育て」をやってみたい夫婦は、人間の子供を育てたがっている、とか。
また、子供からもたらされる人間界の遊びや流行などが、そういった方面では停滞しているバケモノ世界の刺激になる、とか。
本格的に『千と千尋の神隠し』になってしまう恐れもありますけどね。

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ただ、人間拾ってきちゃダメルールが、実際の渋天街にはあるんですよね……。
(それなのに次期リーダー候補が2人とも、子供拾って来てるんですけどね)

それは「心の闇」システムで落とすためだけのルールにすぎないので、それよりは渋谷の裏側にある異世界という世界観をもっと膨らます方向の方が良いのではと考えます。

なぜなら正直、渋天街が渋谷の裏側にある意味があまりなく、「バケモノだらけの渋谷」というビジュアルイメージと、人間界と異世界の行き来を瞬間的に行える、というメリット以上のものをあまり私は感じなかったからです。

熊徹は古めかしいステレオタイプの親父と言いましたが、蓮がもらわれていく先が、ビートたけしの父親のような下町のペンキ職人であっても、基本的には成立するのではないかと考えます。
武術によるアクションシーンが必要なら、鹿児島の剣道おじさんとか、東北の柔道おじさんにもらわれていく話でも、大体は再現できます。
なんなら、実写版として役所広司さんに、おじさん役をやってもらっても構いません。ヒゲ生やしてもらって。
もちろんその場合「心の闇」もそれを塞ぐ「心の剣」も、あれほど分かりやすくビジュアル化はされませんけどね。

先にバケモノの精神性が人間と決定的に違う描写が無いと書きましたが、渋天街と合わせて、異世界とその住人を描く、という点ではかなり弱いと思います。

異世界もバケモノも、それを描くことが主目的では無いのだから、という意見もあるかも知れませんが、それでもバケモノと渋天街が必要だったのは、鹿児島の剣道おじさんを動物置き換えした方がキャッチーだからでしょうか。ビジュアル的な引きと場面転換の利便性で選ばれた世界なのでしょうか。

「渋天街」と「バケモノ」が必要であるという、その選択自体はとても正しいとは思います。だけど……。

その意味では前作『おおかみこどもの雨と雪』における、「おおかみ」の方がきちんと人間と異質なものととして描かれていたと思います。

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「バケモノ」と「渋天街」については結局、映画の道具立て以上になれていないように感じて、個人的には非常にもったいないのではないかと思っています。魅力的な要素はたくさんあるのですけどね。

まとめ・あとがき


長々とここまで、あることないこと書いてまいりましたが、お別れのときが近づいたようです。

あーだこーだ、めんどくさい事が色々書いてあるので、気の短い方は「そんなに文句があるなら、見るなよ!」と怒られそうですが、映画自体は非常に楽しんで見ましたよ。皮肉でも何でもなく心から。

映画見てるときは楽しまないと何のために見てるか分からないですから、素直に楽しむに決まってるじゃないですか。

映画を見終わった後、映画を見ていないときでも楽しめるのが、あれこれ映画について考えることです。
例えば、電車に揺られているとき、お風呂に入っているときに、あれはどういう意味なんだろう? あそこは別の処理をしても面白いかも? 私は何を面白いと感じるのだろう? というようなことを考えるのは楽しいものです。
こういう習慣を持たない方はもしかすると、映画を見ることの楽しむことと、批判は両立しないと勘違いをされるかも知れません。

安心して下さい。楽しんでますよ! (2015年後半に何が流行っていたかを後世に残す努力)

前書きにも書いたように、とにかく明るい私は、作品に嘆きをぶつけるというより、宿題をもらったような気持ちで、自分が物語をどういうスタンスを取るかを確認するために、考えて、記事にまとめています。

その私からすると映画『バケモノの子』は、興収50億円突破も納得のエンタテイメント作品です。
映画としての格は、『おおかみこどもの雨と雪』の方が上だと思いますが、『バケモノの子』の方が老若男女、より多くの人が楽しめる作品であったことは興収とみなさんの反応が証明しています。
(なので、説明過多問題などは、あえて触れないことにしました)

個人的には、昔妄想していた「子連れ西遊記」「子育て西遊記」を、スクリーンで見せてもらって大感謝です。

物語としては、父子関係の落とし方をどうすべきか、という所で面白いポイントがありました。
子供の「心の中」でいつまでも生きる、というのは「父親」であれば、共感できるのだろうと思いますが、作品内における「普通」に対する処理については個人的には不満が残りました。

蓮が、バケモノだろうと、何人の父がいようと、それを自分の「普通」として、生きていくような展開が私の好みでした。

ただ、それをするには最後だけでなく、全体を変える必要があるでしょう。
ここに限らず、無駄な場面などなく、ひとつの画面にきっちりと「意味」が詰まっている作品ですので、何かを変えるとなると、全体に手を入れる必要があります。ここの場面抜いて、代わりにこの場面を入れたらOKという単純なものではありませんから。

こんなバカみたいな長文を書く過程で、すばらしく上手い処理をしているところ、面白いと感じるポイント、そして細田監督と自分との、あるテーマにおける考え方の違いなどがはっきりして、個人的には非常にすっきりしました。満足です。

こうして「モヤモヤ」の入道雲は晴れましたが、ふと気がついてあたりを見回すと、その頃にはすっかり秋の空になっていたのでした。(おしまい)




夏映画の感想を秋になって公開した理由


こんな時期外れに『バケモノの子』の感想記事をアップしたのには理由があります。

この作品についてはTwitterでのツイート感想だけで終わらせようと思っていたのですが、ブログやTwitterで親交のある坂井哲也さん(@sakaitetsu)とのやりとりが刺激になって、ブログで記事をまとめておこうと思い直しました。

その際の坂井さんとのやりとりは、以下のTogetterにまとめて頂きました。

『バケモノの子』で描かれている父子像から得られるのは、感動かモヤモヤか笑いか。
http://togetter.com/li/888520

そして、坂井さんご自身もブログで『バケモノの子』感想記事をアップしていらっしゃいます。

好感持てる作品だけれど、古臭いオヤジ像にどこまでついていけるか。『バケモノの子』感想・レビュー
http://tominotoka.blog.so-net.ne.jp/2015-10-18

さらに、もともとこの作品のことをTwitterで話し合っていたpsb1981(@takepon1979)さんも、記事をアップされました。

そして父になる 〜バケモノの子〜
http://tentative-psb1981.hatenablog.com/entry/2015/10/31/163722

私が前編の記事タイトルの元ネタにつかったのが、『海街diary』。そしてpsb1981さんが、『そして父になる』。
偶然にも両者とも、是枝裕和監督作品からの引用というのが、ちょっと面白いですね。


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日増しに秋も深まりゆく10月。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。司会のおりも政夫です(昭和のあいさつ)。
秋たけなわプリンスホテル(昭和の季語)の今、真っ青な空に入道雲が印象的な夏の映画『バケモノの子』の感想をお届けいたします。

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もはや遠慮するような時期でもないので、ネタバレ全開でお送り致します。
ただ、映画を見たのが7月の1回だけですから、記憶の方がすでに曖昧になりつつあります。
当時の自分のツイートを確認しつつ、何とかあの頃のピュアな気持ちを思い出して、がんばる所存です。

映画『バケモノの子』について


映画『バケモノの子』は、2015年7月11日に公開された日本のアニメーション作品。

『時をかける少女』、『サマーウォーズ』、『おおかみこどもの雨と雪』の細田守監督の長編オリジナル最新作で、興行収入50億円突破の大ヒットを記録しています。


あらすじ


引用しようとした公式サイトの「あらすじ(ストーリー)」ページが画像になっている……一次ソースである公式サイトがこういう処理するのは愚かでキライです。引用されるのを想定してテキストにして欲しい。
やむなくWikipedia:『バケモノの子』の「あらすじ」でも引用しようかと思ったら、全編に渡って詳細に物語展開が書いてあった。なんなんだこれは……。仕方ないので、各所つまみながら独自に書きます。

人間の世界【渋谷】と重なるように存在する、バケモノの世界【渋天街】。
この2つの世界が本作の舞台です。

孤独な少年「蓮(れん)」は、バケモノ「熊徹(くまてつ)」に拾われて「九太(きゅうた)」という名を与えられ、チョロQいや武術の弟子として一緒にバケモノ世界で暮らすことになります。

九太と熊徹の出会い、そして共同生活の中で、二人が親子のように成長していくのが映画の前半。

8年後、たくましく育った九太が偶然、人間の世界【渋谷】に戻り、そこで高校生の少女「楓(かえで)」と出会って、勉強を教えてもらうようになるあたりから、後半の物語が動き始めます。

楓から、高卒程度認定試験を受けて大学進学を目指してはどうかと勧められ、実の父とも再会でき、人間界での進学を考える九太。
そして、それが気に食わない熊徹。

そこから物語はクライマックスへ。
バケモノ世界でのリーダー後継者決定戦となる、熊徹とライバル猪王山とのバトル。
さらに猪王山の息子「一郎彦」の暴走を引き金に、現実世界の【渋谷】を巻き込んだ大事件が発生する。
果たして、九太と熊徹の決断とは――


決断とは――も何も、この後、感想書く中でネタバレしていくのですが。

映画全体の印象など


前作『おおかみこどもの雨と雪』が「母と子」の映画だとすれば、今作『バケモノの子』は「父と子」の映画ということになるでしょう。
但し前作同様、その関係は一方的なものではなく、子は父に学び、父もまた子に学びます。
そこには細田守監督ご自身が、実際に子を持つ父となったことも大きく影響しているはずです。

映画は興行収入50億円突破の大ヒットとなったわけですが、毎度のことながら、私にはもやもやとしたものが残りました。
『サマーウォーズ』から劇場で鑑賞をしていますが、もはや、このモヤリエンヌ状態を楽しむために見ているような気がしてきます。

それは決して、キライな映画を自虐的に見て楽しむような行為ではなく、見終わった後の数日、なんとなくもやもやして、物語というものについて、あれこれつい考えてしまう、というような感じ。その感覚はキライではありません。
そういう意味では、少なくとも映画のチケット価格分はいつも楽しんでいると言えます。

映画という意味では前作『おおかみこどもの雨と雪』の方が好みです。
ただ、物語の素材(元ネタ)は『バケモノの子』の方が好きなんですよね……その話をしましょうか。

本作の大きな素材(元ネタ)のひとつ、『西遊記』


エンドクレジットの参考文献として、中島敦『悟浄出世』が挙げられているということを知ったのは、この作品を観に行こうかどうしようかと迷っていた時期のことです。

今回はなぜか公開前に、映画を見に行くモチベーションが全く上がらず、ホワイトベースのエンジンを2分で直せと言われたセキ大佐ぐらい困っておりましたが、これを聞いて、やっとモーターのコイルがあったまってきて、ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ、となり、テールランプの残像を残しながら劇場へ向かいました(脳内検閲の無い文章)。

中島敦「わが西遊記」と『悟浄出世』


中島敦「わが西遊記」はこの『悟浄出世』と『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』の短編2編からなります。
沙悟浄を主役にすえて、西遊記的な見せ場である妖怪バトルなど一切無し!ですが、まあ面白いこと。面白いこと。

『悟浄出世』は西遊記の前日譚。
人生の答えを求めて悟浄がさまようお話。
絶対に答えが出ないテーマを題材にして、各方面のコメントを順番に集めて廻る物語構造のすばらしさ。

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『悟浄歎異』は三蔵一行と旅の途中の悟浄が、悟空、八戒、三蔵のキャラクター評論をするお話。
構造上、語り手である悟浄に対する評論はありませんが、主役作『悟浄出世』での自問自答、そして本作でも、旅の仲間たちをここまで評論するような内面を持つ人物は、悟浄以外ありえないことが彼の自己紹介になっています。



つまり『悟浄出世』が三蔵一行に加わる前の沙悟浄を描くエピソード・ゼロ。
三蔵一行に加わったあとの悟浄による、各キャラクター評論が『悟浄歎異』。

いずれも『西遊記』の二次創作としてのコンセプトが素晴らしく、また内容に関しても『山月記』と同じく、大人になる手前あたりの子供が読むと得るものが大きいはずです。
少なくとも私はそうでした。大人になる一歩手前には誰しも、李徴にも悟浄にもなりえるものだと思うから。

映画『バケモノの子』のエンドロールでは、メルヴィルの『白鯨』、そしてもうひとつ、この『悟浄出世』を参考文献として確認できます。本作の数々ある元ネタの中でも、影響の大きなもののひとつです。

子育て西遊記 in ケモ街diary


実際に劇場で『バケモノの子』を見てみると、映画前半は私の想像以上に『西遊記』でした。
というか、この構成で参考文献に『悟浄出世』だけ載せて、『悟浄歎異』を出さないのはちょっと分からないぐらい。
特に九太に剣の稽古をつけるシーンでの、熊徹の長嶋茂雄的な指導などは『悟浄歎異』を連想せずにはいられませんでした。
『悟浄出世』と『悟浄歎異』のハイブリッドと言っていいのでは?

そもそも登場する「バケモノ」たちが、『西遊記』なんですよね。
モチーフとなる動物をずらしていますけどね。

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主人公の師匠(父)となる、熊徹(クマ)が、孫悟空。
熊徹の悪友で皮肉屋、多々良(サル)が、猪八戒。
主人公たちを見守る、お坊さん百秋坊(ブタ)が、リリー・フランキー。いや沙悟浄。

このパーティに、人間の少年・九太が加わる形です。

主人公も本名は「蓮(れん)」なので、イメージ的に蓮とゆかりの深い、哪吒(なた)太子のイメージなのかも。

もしそうならば、師匠である熊徹(悟空)が炎で、主人公を助ける女の子の名前が、木偏に風と書いて「楓」なので、風と火の助けということなり、すなわち哪吒が飛び立ち、戦うための風火輪。……などという、こじつけも出来るかも知れない。

こじつけついでに言えば熊徹のライバルとなる、猪顔のバケモノ、猪王山(いおうぜん)。
劇場で見た時、最初、名前を何と言っているのか正確に聞き取れず、耳では「ようぜん(正確には、ようせん)」にしか聞こえなくて。
すなわち楊戩。西遊記では悟空とも戦った二郎真君。だから息子の名前が、一郎彦、二郎丸だったところも、少しニヤリとしてしまいました。
息子は2人だったので、三郎丸三郎はいませんでした。(ダントツにどうでもいい)

つまり『バケモノの子』は、悟空や八戒や悟浄が、人間の子供を育てる「子育て西遊記」になっているわけです。

実はこの「子連れ狼」ならぬ猿たちが行う「子連れ西遊記」は、昔「今、西遊記(の二次創作)やるなら、三蔵一行に子供を加える話をやるのが面白い」と考えて、ツイートしてたんですよね。


その意味で『バケモノの子』は、まさしく私が望んでいたそのものが現れたのです。あくまで個人的なことですが、もうそれだけでこの映画には価値がある!

ちなみに当時、この「子連れ西遊記」については、以下のような形で考えていたようです。





「子供に対する反応の仕方」で、各人物を表現したり、「子供に各人物の評価をさせる」などは『バケモノの子』でもそのような要素がありました。

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愛のままにわがままに、僕は何もかも傷つけない


さて悟空、八戒、悟浄に子供(九太)を加えた「子連れ西遊記」と見立てるとしても……三蔵法師が足りませんね。

バケモノではなく、人間の立場から、九太に接して導いてくれるキャラクターが必要のはずですが、右も左もバケモノだらけのこの映画でそんなキャラクターは……いた! いました。中盤で登場する女子高生、楓(かえで)です。

楓というキャラクターに関しては批判も見かけましたが、西遊記モチーフというのを前提に置いた場合、彼女はどう考えても、三蔵法師でしょう。

主人公が闇堕ちして暴れ出しそうな所をストップかけて、理性を保つための輪っか(リボン)をくれたんですから。
そして、人間社会で生きるための勉強を教え、その先の道を提示してくれました。
(これはバケモノ保護者たちにはできないこと)

三蔵法師として見れば、別に彼女がいわゆる「ヒロイン」でもないし、恋愛対象として登場させたわけでもないと思っています。

「え? 三蔵法師って、ヒロインでしょ?」という話も出るかも知れませんが、それは『西遊記』だと三蔵が妖怪のターゲットなのと、日本では伝統的に三蔵法師が女性が演じるものだからですが、この作品ではそういった構造はありませんし、特別「女性」ということを必要とされて描かれてもいないと思います。

はっきりいえば、終盤の展開には必要のないキャラクターなので、彼女の方から積極的に行動しなければ、無関与のまま終わってしまったでしょう。

「良い子」を演じて自分を抑えていた彼女が、九太のために親の目を盗んで夜の渋谷に出かけていくことで、彼女自身の変化も表現をしていますが、別に敵のターゲットでもない彼女が、何の解決手段もない足手まといのまま同行することに、ストレスを感じた方もいらっしゃったかも知れません。

ただ、『西遊記』モチーフであることを作品内でオープンにしたら、三蔵法師としての彼女のあの献身は説明できるはずです。

子連れ西遊記の夢を叶えてくれた映画


とにもかくにも、妄想していた「子連れ西遊記」というモチーフを見せてもらったことは感謝しても仕切れません。

「強さとはなにか」を求めて旅をする、『悟浄出世』での話の主軸を、数分で終わらせたことに驚きを感じたりもしましたが、その後の展開からすると、あれは丸々カットできるシーンなので、むしろよくぞ多少でも入れてくれたと思いました。
(金曜ロードショーのときにカットされる可能性があると思います。それぐらい、その後に関係しない)

ただ、押井守の『イノセンス』などは、2時間たっぷり『悟浄出世』やってるような映画です。
ひとつのテーマに対し、尋ね歩き、色々な人の話を聞くだけで2時間終わらすような図太いことやって欲しい気もしますが、それだと50憶稼げなかった可能性は、もちろんあります。
細田監督が背負ったものを考えると、そういうわけにもいかないかも知れません。

前半は『西遊記』好きとして、また中島敦「わが西遊記」好きとして非常に満足させて頂きました。
細田守監督、ほんとうにありがとう!


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夏映画の感想を秋になって公開した理由


こんな時期外れに『バケモノの子』の感想記事をアップしたのには理由があって。
Twitterでのツイート感想だけで終わらせようと思っていたのですが、ブログやTwitterで親交のある坂井哲也さん(@sakaitetsu)とのやりとりが刺激になって、ブログで記事をまとめておこうと思い直しました。

その際の坂井さんとのやりとりは、以下のTogetterにまとめて頂きました。

『バケモノの子』で描かれている父子像から得られるのは、感動かモヤモヤか笑いか。
http://togetter.com/li/888520

そして、坂井さんご自身もブログで『バケモノの子』感想記事をアップしていらっしゃいます。

好感持てる作品だけれど、古臭いオヤジ像にどこまでついていけるか。『バケモノの子』感想・レビュー
http://tominotoka.blog.so-net.ne.jp/2015-10-18




まとめと……次回予告?


『バケモノの子』は、子供も楽しめるエンターテイメント作品でありながら、さまざまな要素を含んだ作品です。
語る際にも、色々な角度で語れますので、私は自分が好きな『西遊記』視点から語ってみました。

興行収入50億円突破も納得の作品に仕上がっていますが、押井守の映画監督勝敗論でいうと、上がり続けるハードルはこれからしんどくなるかも知れませんね。
肩の力を抜いた作品を作るチャンスがあればいいのですが。

次回作がどのようなものになるのかは分かりませんが、期待しましょう!

……。

……。

……え? 感想が『西遊記』がらみ(前半)だけだし、今回の「もやもや」について、何も書いてない?

その話する? 本当はこの記事の後半に入れるつもりで「もやもや」成分書き出したら、あまりに長くなりすぎて結局カットした話する?

分かりました。私が『西遊記』ネタを中心にこの映画を楽しんだことは事実ですが、それとは別に今回も「もやもや」はあって、あれこれ悩んだり考えたりしたものは確かにあります。
映画自体にもの申すというより、自分自身の物語に対する考え方(スタンス)を確認している、というのが近いと思います。

それは別記事としてまるごと収録することにしますので、まあモノ好きな方はそちらをご覧ください。
この記事が陽(ヤン)なら、そちらの記事は陰(イン)だとは思うので、ヤンが卿ならそう思うという気持ちでご覧頂ければ。

老若男女、多くの方が楽しめる良い映画だということは確かです。
これは心からそう思います。

※10/22追記:第2弾の記事書きました。

東京都渋谷区「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件<映画『バケモノの子』の「父子」と「普通」について>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-238.html



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さて毎年恒例、一年の締めくくりは本年度の当ブログ記事まとめです。
……まとめるも何も、2012年は、記事が5本しかありません。

もともと多く書ける方では無いとはいえ、さすがに最小記録。5本では完全に自由契約選手ですよ。
来年は、複数年契約が結べる程度にもう少し精力的に活動し、ラルフ・ブライアントぐらいアッパーなスイングで、派手な打ち上げ花火(か三振)でもあげたいと思います。最後にドカンと虹のグランドスラム。
(というような適当な事を感情が全く動かないままタイプしてるようでは来年もダメだな、と思います)

ただ各記事は手間暇をかけており、それなりに読み応え(キルタイム的な意味で)はあると自負しています。
では、2012年記事TOP5をどうぞ。



『機動戦士ガンダム』関連記事(当ブログの主力)


Love Love ハマーン・カーン お願いきいて(魔法の摂政ブラスターハマーン)


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僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

CS放送のアニマックスで『機動戦士ガンダムZZ』の全話放送があったので、自分の中での『ZZ』を整理しようと思って書いた記事。

『ZZ』のためにまとめた内容ですが、結局のところ『機動戦士ガンダム』から『機動戦士ガンダムZZ』までを範囲とした「ニュータイプとその因果の中心にいたシャア・アズナブルの話」になっています。

ホワーイ!(出川哲朗) 『ZZ』のシャアなんて、クイズしか出してないだろ古い地球人!


と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、元々『ZZ』にはシャアの出演予定がありました。
しかし映画『逆襲のシャア』製作決定に伴い、『ZZ』はシャア不在の物語となってしまいました。
『ZZ』を整理するなら、この「見えざるシャア」について考えるのが面白いと私は思います。
あと古い地球人なのは事実なので、そっちの指摘は受け入れます。
(この記事もすでに古い地球人がいくつも。そしてここからも)

『ZZ』については、これ以前から少しずつ準備稿的に書いた記事がありますので、順番に読んでいただくと、問題意識とどう整理したかの流れが分かりやすいかも知れません。

『ZZ』記事(1)
だから少女は、毎度コントロールされる。<富野アニメ 洗脳少女の系譜>

『ZZ』記事(2)
【2011年記事まとめ】好きあう真似事や傷を舐めあう道化芝居でもいいじゃない。だってにんげんだもの。

『ZZ』記事(3)
僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

『機動戦士ガンダム』系の記事は当ブログの主力なんですが、主力記事が1つとか本当に自殺行為だネ!

『戦闘メカ ザブングル』30周年


惑星ゾラ開発委員会(今だと制作委員会の名前にしか見えない)


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小滝進、横尾まり 他

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2012年は『戦闘メカ ザブングル』30周年。それを記念し、いくつか記事を書きました。
今年書いた記事の実に40%が『ザブングル』記事ということになるわけです。
では渾身の2記事ご覧ください。

※模範的ツッコミ「40%って、たった2記事じゃねーか!これはまるで……あれが、あれじゃねーか!」(三村マサカズ)

ブルーストーン経済によるシビリアンコントロール<『戦闘メカ ザブングル』惑星ゾラ開発史>

『ザブングル記録全集』に寄せた富野監督の寄稿文を手がかりに、『戦闘メカ ザブングル』の舞台である「惑星ゾラ」が生まれるまでを追っています。

「惑星ゾラ」は支配階級イノセントによってつくられた世界です。この星のルールやシステムは全て、シビリアンによって与えられたものです。

それをメタ的に見れば、ロボットアニメが成立する世界になるように、富野由悠季が惑星環境と整えたということになります。はたしてロボットアニメをやれる世界とはどういうものなのか?その答えを知りたい方は、ぜひ記事をご覧ください。続きはWebで!最初からWebだけど!

ジロン・アモスの持論に基づくダブルスタンダード<『戦闘メカ ザブングル』のイノセント・ワールド>

上のブルーストーン経済記事の続編というか、補遺拾遺のような記事。

主人公ジロンは三日限りの掟を破るのと同時に、都合よく掟を利用している。つまりダブルスタンダード。
そこに単にルールの破壊者ではないジロン・アモスの特異性を見る……いや、これ内容を大分盛ってるな。
実際は、3つぐらいの話に分かれています。

さて来年2013年は、自動的に『聖戦士ダンバイン』が30周年になるわけですね。
せっかくだから『ザブングル』のように何か書きたいけれど、さてどうしようか。
『ダンバイン』については、すでにいちばん書きたいことは書いてしまった観があるけれど。

映画『おおかみこどもの雨と雪』


雨は夜更けすぎに、犬(狼)へと変わるだろう


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おお、神は山にいまし すべてこの世は事もなし<映画『おおかみこどもの雨と雪』鑑賞メモ>

前作『サマーウォーズ』とは違い、シンプルな構成をとっているがゆえに細田守の演出を堪能できる映画。

前作ほどではないが、お話という意味では今回も色々問題点があり、批判するのはたやすい作品。
だが私はそれを前提としても『時をかける少女』『サマーウォーズ』より良い映画だと思っています。

私はフィクションを評価するとき、プラスとマイナスを相殺させません。
プラス点の大きさが問題で、そこが大きいならば(ひとまず)良い作品だと思います。
大したマイナスが無くとも、面白さの大きさが小さいものはあまり興味の対象になりません。
だから作品に点数をつけようと思ったことがない(つけられないともいう)。

ネットでの賛否も真っ二つに割れている印象があるが、そうなっても仕方ない部分は確かにある。
ただ、視聴と感想をアウトソーシングして「あー、そういう作品か。やっぱり見なくて正解だったな」みたいなコメントをするのではなく、できれば自分の目でどういう映画かを確かめてほしいと思いますね。

実質その機会は、いつかは知りませんが金曜ロードショーになるでしょう。その時が楽しみです。

ゲーム系のネタ・アイデアなど


ナディア「おはよー!森の動物たちー!」(動物たち完全無視)


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『スカイリム』と「やさしい世界」と「家計簿アプリ」<ゲームアイデア・ネタまとめ>

ゲームのプレイは全然してないのですが、ゲーム系の記事をたまに書きます。2012年も1本書きました。
かなりいくつものネタをまとめていますので、目次として内容を書きだしてみると、

・『スカイリム』のスカイ無理な話
・とびだせ!やさしさの森脱出ゲーム(妄想)
・宇宙船のエネルギーコントロールゲーム(妄想)
・逆襲のシャア×ソーシャルゲーム(妄想)
・∀ガンダム×ソーシャルゲーム(妄想)
・家計簿アプリ「マイナスをプラスに」(妄想)


ということで、ほぼ全て妄想の、存在すらしていないゲームの話ですね。
私にとってゲームとは脳内ハードで動作するものであることが分かります。
このお品書きでピンと来た方は、もしかすると脳内ハードに互換性があるかも知れませんので、一度ご覧になっていただき「このトラックは再生できません」とか怒られてみてください。



2012年の記事は以上です。

5本しか記事がないので、例年に比べてひときわボリュームが少なく思えますね。
そこで2012年のアニメの中からひとくち感想をお送りします。
基本見た作品ですが、見てなくても言いたいものは言います。

『Another』


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今後、何か人生でつらいことに出会う度に「Anotherなら死んでた」(生きてるから何とかなる)を胸に強く行きていこうと思います。

『探偵オペラ ミルキィホームズ 第2幕』


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(2012/03/21)
三森すずこ、徳井青空 他

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第一話が大変すばらしかったような覚えがあるけど、もう記憶が定かではない。

『銀河へキックオフ!!』


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(2013/02/20)
小林ゆう、中津真莉子 他

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まさるちゃん(監督)の放任主義にやきもきしながら、普通に楽しんでいたアニメ。

『じょしらく』


じょしらく 1(期間限定版) [Blu-ray]じょしらく 1(期間限定版) [Blu-ray]
(2012/09/26)
佐倉綾音、山本希望 他

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最終話の宇座亭ウザンヌちゃんがうざすばらしかった。あとは、女の子の可愛さをお楽しみ頂くため邪魔にならない程度の差し障りのない会話を楽しみました。(つまんねーこと書くなよ!)

『ももへの手紙』


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(2012/10/26)
美山加恋、優香 他

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見てないのですが、『ももへの手紙』と聞いて思いつくことは、ひとつしかない。

『人狼』の沖浦監督からのお便り。「瀬戸内の小さな島の港町『汐島』を舞台に妖怪達との奇妙は交流を通して成長するハートフルファンタジーアニメです」次の戦いの舞台は瀬戸内の妖怪か!……って沖浦、それはお前の新作だろ。
次回、魁!男塾『遠すぎた橋 田沢 松尾 瀬戸内海に死す』…そこんとこ、よろしく。


『GOTHICMADE ゴティックメード-花の詩女-』


花の詩女 ゴティックメード オリジナル・サウンドトラック花の詩女 ゴティックメード オリジナル・サウンドトラック
(2012/10/31)
音楽:長岡成貢 歌:川村万梨阿

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この映画の制作の間、連載が停まったことに対するF.S.Sファン(永野護パトロン)の暴動を抑えるただひとつの方法は、この映画を「年表のどこか」にねじこむこと(巻末年表もこっそり改訂)。

と、いうようなことをTwitterでお話してたんですが、さすが……永野護……。信者の精神コントロールに一分の無駄もない……。

『ソードアート・オンライン』


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(2013/02/27)
松岡禎丞、戸松遥 他

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第一部終わりの、主人公がオンラインゲーム世界から現実に戻ってきた回を見たら、点滴引きずって光の中へ歩いていくエンディングだったのがすばらしすぎた。

第二部がはじまると、主人公のことが大好きな巨乳の妹が、実は都合よくいとこだったりして……ははーん、これまだゲーム世界だな。次回、ヒロインの婚約者をソードスキルで刺して逮捕→死刑執行されて、また現実で目覚め、また点滴引きずって光の中へ歩いていくところで二部ENDだな。

と思っていたら、そんなことはなかったぜ!
天丼で構わないので、二、三話に1回は点滴引きずって光の中へ歩いていくエンディングを見せてくれたらもっとすばらしい作品になっていたのではと思います。

『ガールズ&パンツァー』


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渕上舞、茅野愛衣 他

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楽しい戦車道アニメ。ジャンル的には『咲-Saki-』と同種ですね。ひとつ大きな嘘をつくタイプ。
そういえば、咲さんにも戦車乗ってほしいなあ。
咲「ファイエル!ファイエル!もいっこファイエル!砲撃って楽しいね!(笑顔)」

戦車での団体戦という必然上、大量の少女が動員されるわけですが、基本的にキャラ紹介をカットしたところがすばらしいと思っています。
もちろん、ちゃんと戦車戦メインにしようと思ったら、そんな尺が無いからですが、主人公チームだけある程度、掘り下げただけで、あとは全てカットしてとにかく戦車に乗せている。
1人1人のキャラではなく、戦車1台=1キャラクターとしているのはすばらしいと思う。

例えば歴女チームは、歴女の戦車ということが戦車外装も含めて分かればよく、個々のキャラクターがどういう少女か(この場合、どういう歴女か)というのは理解する必要がない。
もちろん、熱心なファンは個々のキャラクターの名前や特徴を理解して楽しめばいいが、それはあくまで楽しみであって、物語を理解する上で必須なものにしていない。

これが2クールあれば、セオリー的にキャラ紹介を増やしたり(仲間集めなど)、各チームの主役回を用意したりしたのかも知れない。
1クールで、戦車戦を目いっぱいやるためのシリーズ構成だと思うけれど、その制約が好ましい結果を生むことになっているのだと思う。

ということで『ガールズ&パンツァー』は大体見るべきものは見つという感じなんですが、あとはゼロ距離に接近した戦車同士が砲塔を砲塔でさばいてお互いの射線をずらし、砲撃をかわしあうガン=カタが見たい。
いや、この場合、パン=カタと呼んだ方がいいのだろうか?

ガン=カタは個人で行うものだが、パン=カタは複数人の搭乗者が一心同体少女隊となり、1台の戦車を自由自在に動かす連携があってこそ成立する高度な「機甲術」(パンツァークンスト)である。いや、そういう意味じゃないパンツァークンストは。

だが発勁のように、打撃力は並でも装甲に勁を通すような射撃ができたら、小口径の戦車でも勝ち目が……。いや、そういう意味じゃないパンツァークンストは。



以上です。

今年は水島努監督作品ばっかり見てた気がします。来年の活躍も期待したいですね。
私も来年は水島監督を見習って、もう少し精力的にいろいろがんばろうと思います(皇潤を飲みながら)。

それでは皆さま、よいお年を。
映画を見ました。
夏期休暇に田舎に帰省して、地元の友人2人と映画『おおかみこどもの雨と雪』を見てきたのです。
そう、3ヶ月ほど前にね。



そしていつしか季節は巡り、秋たけなわプリンスホテルの今、8月に見た映画の感想に何の価値があるのかと自分でも思いますが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の後には多分、アップする気が無くなりそうなので、心の区切りをつけておくためだけにメモを公開します。

※2012年11月17日注
とか言ってたら、もう公開日が来た!今更感ドン!さらに倍!はらさんができなければ全てお返しします。

このメモについて


『おおかみこどもの雨と雪』の鑑賞後、断片的なメモを書いたのですが、自分のメモといえど、3ヶ月後では熱量と記憶が全くちがうため、まとめるのは不可能でした。単なる「メモの集まり」ということにしておきます。
相変わらず、自分でも呆れるほど、無意味に長文です。
ブロックごとに見出しをできる限りつけましたので、興味のある箇所だけ読んでいただければ結構です。
ネタバレは当然しまくっていますが、特に誰も気にしないでしょう。夏映画のネタバレなど。



全体的な印象


破綻するほど要素を盛り込んだ『サマーウォーズ』の反動からか、極めてシンプルな要素で組まれていました。
ふしぎ要素は「おおかみおとこ」だけ。(これも「おおかみこども」登場のために必要なだけなのですが)
ストーリーラインも驚くほどシンプル。
2人の「おおかみこども」が生まれて、母がひとりで育てて、子供が自立する。それだけ。

映画を見ながら、多くの作品を連想しましたが、シンプルなストーリーと濃密な演出で連想したのは、押井守の『イノセンス』または『スカイクロラ』。

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これに近いものを今回『おおかみこどもの雨と雪』を見て感じました。
もちろん押井守っぽい演出ということでなく、映画の枠組みというか、基本構造の話としてです。

『おおかみこどもの雨と雪』は子供が生まれて、成長して、自立する、という、生物の流れを追っているだけで、そこには想定できる必然しか起こりません。驚くべき衝撃展開などもありません。
だが、それでもこの映画は豊かで楽しい。

同ポジ、分岐路、同ポジ、同ポジ、分岐路。さいごちょっとみぎ?(山の方向)という感じで、2時間たっぷり細田守の演出を堪能しました。
要するに、シンプルな物語を細田演出フィルターを通して、出力する形式が私には好ましかった。
私は『時をかける少女』と『サマーウォーズ』より圧倒的に好きです。

では、映画の流れを追いながら、メモを並べてみましょう。

物語のはじまり。主人公:花について


映画の序盤では、主人公の花が、「おおかみおとこ」の彼と出会い、愛を育み、母になるまでが、花の娘・雪を語り手とした回想で語られます。

  • あまり幸せな生い立ちでは無かった花は、奨学金で大学に通う大学生。
    身寄りがいないのは、おおかみこどもの子育てに親族が関与しないため(映画の要素を減らすため)という実利から導入された面が大きいのでしょう。
    それに「奨学金で大学に通う苦学生」と「つらい時も、笑顔をつくってしまう」あたりを合わせて、補強しつつキャラクターにしている。

  • でも逆に言えばそれぐらいしか無くて、花は「苦労しているシングルマザー」という属性無しには、成立しようがないキャラクターだと思う。少なくとも映画だとそう見える。
    「母」を描くための、「母」主人公の物語とはいえ、それはあまり好みではありません。
    「母」になる前の大学生の花が、何をしたいのか、将来何になりたいのか、どういう夢があるのか、どういう生き方を目指しているのか、みたいなことが良く分からない。
    「母」である以前に、ひとりの人間として、やりたい夢や、なりたい職業などがあった方が良かったのではないか、と思う。

  • もちろん、それすら要素整理の対象だったのかも知れない。
    結局、花は社会人にはならずに母になってしまうので、「子供が生まれたせいで自分自身の夢をあきらめた」ように観客に見えてしまうのを避ける意味合いがあったのかも知れない。
    (もしそうなら、『サマーウォーズ』のときに頻出した「観客を信用しない優しい配慮」だと思うけどね。)

  • 不幸な身の上から、花が「暖かな家族をつくりたい」「子供をつくってお母さんになりたい」と、そもそも願っていたことにする、という方法はあり、特に表現されていないが、結果とそれを受け入れたことを見れば、花はわりとそれに近いキャラクターだったのかな、という気はします。
    しかし、そうすると今度は、奨学金とバイトの掛け持ちしてまで大学通う花の夢が「母」なの?という問題が発生しないこともない。
    のちの展開を踏まえて、保育科や医学部にするのもひとつの手だけれど、「彼との出会い」「貧乏」などとのバランスが悪くなるかも知れない。(学部は物語の補強にうまく使えた気がするけども)

  • 語り手、雪の視点を借りて、事実関係は分かるけれど、結婚前の花についてはよく分からない(語らない)ということにして処理しているということかも知れないね。
    雪にとっては、花は当然最初から「母」でしかなく、「母」でない花は、雪にはまだよく分からない。ただ、父と母が出合って自分が生まれた事実だけははっきりしている。

「彼」との出会いと、結ばれる二人


とにかく、花は「おおかみおとこ」と出会って、彼の正体も見た上で、結ばれます。

  • ベッドシーンのとき、おおかみの姿になっているのは、彼がおおかみであることを受け入れた上で、異なるもの同士が結ばれるという象徴的な意味合いが大きいのでしょう。

  • ただ、本筋には全然関係ないが、色々考えてみるのも興味深い。
    おおかみこども達が、自分たちの意思以外にも、気が高ぶったり、興奮したりすると、つい、おおかみの姿に戻ってしまったことを考えると、おおかみおとこの「彼」も、もしかすると、あの姿(ビーストモード)じゃないとセックスできないのかも知れない。
    まさにSOS(セックスのときに、おおかみの、すがた)。男はおおかみなのよ、(変身に)気をつけなさい。年頃になったなら、(女の子見て変身しないよう)慎みなさい。
    大人だから、自分の意思以外では滅多におおかみにならないけど、極度の興奮状態に陥ったらどうしようもないよね、という具合に。

  • そうなると、恋人に対しては事前におおかみになって、受け入れてもらえるかどうかの確認は絶対に必要となるプロセス。
    だから、星降る夜に、彼は自分の全てを晒し、花は彼を受け入れた。
    そして次の日の朝、花のとなりですやすや眠る彼は、すっかり人間の姿に戻っていた。夜、獣になって、朝、賢者(人間)に戻る彼。

  • あとは花が、日没後は人間、昼間はタカに姿を変える設定だといいんじゃないかな。
    男は、昼間は人間。夜は、オオカミになる。
    女は、昼間は港署の刑事。夜は、人間。「ユウジ!」「タカ!い・く・ぜ!ウェイカップ!」
    (ネタのレイヤーを重ねすぎて、よくわからないようになってきた)

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おおかみこどもの誕生


妊娠した花は、どんな子供が生まれるのか分からないので、リスクのある自宅出産を選択。
そして、長女の雪と、その翌年には弟の雨が生まれます。ふたりは「おおかみこども」。

  • 自宅出産にはいろいろと批判がありました。
    この出産をはじめとして、花と「彼」は全く人間社会を信用していないのですが、それには、「彼」のルーツが、ニホンオオカミであることを理由付けにしているのだと思っています。

  • ニホンオオカミ絶滅の原因は、いくつかの複合的な理由のようですが、人間による駆除や、開発による餌資源の減少や生息地の分断なども理由としてあるようです。
    オオカミ絶滅に大きく関与したであろう人間を、追われたものとしてニホンオオカミが信用しないのはまあ普通かな、と私は思います。言い訳にはしていいんじゃないでしょうか。
    もちろん自分たちを追った人間社会に興味はあるし、憧れもあるけれど、信用はしていない。

  • その意思は、花が受け継ぎ、人間社会を信用しないまま、こどもたちを育てていきます。
    そういう意味で、花は人間ではないと言えるかも知れません。気味悪がられて、批判されても当然のね。
    このあたりは、後の良平登場のあたりでまた。

おおかみこどもの年子問題


もうひとつ、雪と雨が年子(1つ違いの姉弟)であることも批判がいろいろあったようです。
おおかみこどもを2年連続で自宅出産をするなんて、いったいどういう家族計画なのかしら。

物語上、「おおかみこども」に求められる設定を考えてみましょう。

・こどもはひとりでなく、複数人(ふたり)いた方が色んな意味で良さそう。
・できれば子供2人は、性別や年齢や性格を変えて、バリエーションをつくりたい。
・ラストに子供を2人とも自立をさせるためには、姉弟の年齢差は少ないほうがいい。


おおかみこどもは、映画のバラエティさの為にも、ラストのそれぞれの自立の為にも、2人は欲しいところです。
この映画では、姉と弟という組み合わせになりましたが、ラストで2人に自立させるのであれば、年齢差があるのはあまりよろしくない。
自立に時間差が生じてしまうので、できる限り、2人の年齢差は少なく抑えた方がいいはずです。

こうした背景があって、用意されたのが「年子の姉弟」なんでしょう。

ちなみに、上記の条件を満たすものとして「おおかみ双子」ではダメなのか?ということを当然考えました。
双子であれば、1回の出産で、2人のキャラクターが手に入ります。
条件は満たしていますし、母親に、2年連続で自然出産を強いることもありません。
なぜ双子ではないのか。

これは難しい問題ですが、『おおかみこどもの雨と雪』という映画としては、やはり双子ではなく、年齢差のある姉弟である必要があると思います。
話を変えるならできるでしょう。でも『おおかみこどもの雨と雪』のまま、おおかみ双子は選べないだろう、というのが、鑑賞した私の考えです。
双子を選ぶ道も当然あったと思いますが、できあがったフィルムを見て、私は姉弟を選択したことを尊重したいと思いました。
なぜ双子でなく姉弟なのか。これについては、また直接関係ある場面で詳しく書くことにしましょう。
(注:こんな白土三平みたいなメモばっか。そして、その後を書いたメモは見当たらない)

『赤ちゃんと僕』でのパパとママ


さて、この「おおかみこども」の前日譚ともいえる「花と彼が出会い、子供が生まれるまで」のパートを見ながら連想していたのは、マンガ『赤ちゃんと僕』でした。

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『赤ちゃんと僕』は、母を亡くした小学生の男の子が、パパと幼い弟を育てながら奮闘するホームコメディ。
この作品の中で、まさに前日譚として、パパと亡くなったママの出会いの物語が描かれます。
パパ(榎木春美)は、顔はいいけどチャラい大学生。突然、不慮の事故で両親を亡くし、家族を喪失する。
ママ(由加子)も、幼い頃、両親をなくし、引き取られた叔父の家を飛び出して、弁当屋でバイトする18歳。
おおかみこどもの2人と似たようなものですね。その後も似たようなもので、この2人も知り合って、同居をはじめ、子供ができちゃったのをきっかけに結婚します。

家族のいないもの同士が、寄り添って、新しく自分たちの家庭をつくっていくという定番のドラマなのですが、私は、春美と由加子の物語がとても好きです。
おおかみこどもの2人と比べて良いと思うのは、大学生の春美ちゃんがチャラいことです。
最初のきっかけとして、弁当屋の女の子(由加子)に声をかけるのも、無計画に子供をつくってしまうのも、基本的には、春美のチャラさで成り立っています。

その後、2人は幸せな家庭をしっかり築くとことまでは同じですが、『赤ちゃんと僕』ではこの後が逆で、母が亡くなり、父が残ります。
春美パパは2人の幼い子供を抱えて、父親としての責任を果たし、子供を育てていきます。それが、つまり『赤ちゃんと僕』の本編。
それがあっての、前日譚でのチャラい大学生なわけですが、早すぎる出産が発生する必要があるなら、こうしたチャラい男であった方が、物語としては健全かな、と思います。人は誰も、若いときは特に、無計画でバカなことをするものです。(バカなだけでダメなわけではない)
だから、おおかみおとこの「彼」が、春美パパのような未熟でチャラい男で、花を愛しているのは本当だけど、子供が2人できたのは、計算外だったなあ、まあいいか、という男にする方法もあったかな、という気はします。

でも、おおかみおとこの「彼」は実直で生真面目そうで、声が大沢たかおで、花のことを心から大事にしてそうなキャラクター設定です。
にも関わらず、年子を孕ませて連続自宅出産させるのは、映画としての要請と、映画が見せたいキャラクター(のルックス)が乖離しているので、批判が出ても仕方ないかな、という気はします。

どうせ、存在を序盤で消すのであれば、もっと積極的に「彼」に責任を負ってもらってもよかったのでは。
もちろん「できちゃったとか間違いではなく、愛しあう2人が心から求めて授かった子供」にしたいのは、分からないでもないけど、これも個人的には「観客を信用しない優しい配慮」に感じます。

語り手の雪が、子供が欲しいと願っていたパパとママは大喜びしたそうです、とナレーションしながら、画面では、妊娠検査薬の結果を前にしながら、2人が、どうするよ……と深刻な顔をしている、という「ズレ」で笑いをとるぐらいのおおらかさでも、別にいいのでは、と私は思います。

さて、これでめでたく「おおかみこども」が生まれたので、もはや「彼」は不用とばかりに、不可解な死に方をします。
この映画が欲しいのは「おおかみこども」で、「おおかみおとこ」ではないのです。父でなく母なのです。

都会生活からの逃亡と、田舎への移住


「彼」亡きあと、花は、ふたりの「おおかみこども」を育てようとしますが、人とは違う「おおかみこども」を人目の多い都会で育てることに疲れ果て、田舎への移住を決意します。

  • 子供ができる前の花と「彼」が、山々(立山連峰?)が描かれた絵ハガキのようなものを眺めながら、「彼」が何か話しているカットがあったので、てっきり「彼」の故郷というか、おおかみおとことしてのルーツになる山があり、のちの田舎暮らしの伏線になるのかな?と思ったのですが、ハガキ見ながら田舎で家探ししたぐらいでした。
    もしかすると、小説などではフォローがあるのかも知れませんね。

  • 田舎への移住には、都会から逃げ出すというネガティブ要素だけでなくて、「彼」(おおかみ)のルーツに近いところで子供たちを育ててやりたい、というようなポジティブ要素も合わせもったものだと思いますが、あまり伝わっていないような気がします。

  • この映画での「おおかみおとこ」は、西洋的な狼男ではなく、ニホンオオカミをルーツとしたものですが、特に山の神の使いとしての「オオカミ信仰」とのつながりを感じます。
    劇中でも、「おおかみこども」のいる花の畑だけが、害獣の被害から守られたりしていましたので、恐らくベースにはあるのでしょうが、使い方としてはその程度にして、表面化はさせていません。そういうバランスを選んだのだと思います。

  • 民間信仰とはいえ、ある種の宗教色やファンタジーを抑制するというのは分かるのですが、それらの幻想性を排除した結果生まれたのが、批判もある「お花さんのファンタジー田舎生活」であるならば、正真正銘のファンタジーに言い訳を委託してもいいのかも知れないと思います。

例えば、こんな風に考えてみました。

・「彼」には、おおかみおとことしてのルーツになる山がある。
・そこには、オオカミ信仰が未だ残るような山里がある。オオカミは神の使いとして大切にされている。
・「彼」は、いいところだから、おおかみこどもを育てる場としてはいいかも知れないと、生前、花に話す。
・「彼」の死後、都会で行き詰った花は、移住先として、「彼」が話していた山里を選ぶ。
・移住した当初の苦労の時期、玄関先に人知れず山の幸(キノコなど)が置いてあることがあった。
・「山の王」の帰還を感じた山の動物たちが、引っ越し祝いで持ってきたものだろうか?まだ畑で収穫のできない花は、よく分からないが、ありがたくそれを受け取る。
・鳥がワラをくわえて飛んできて、屋根の雨漏りを直す……のはやりすぎだから、やめておこうか。
・花が移住してきて、おおかみこども達が里で遊び始めてから、里全体の畑に害獣被害がなくなる。
・よく分からないが幸運を運んできた花に、村の人々は優しくなり、彼女を受け入れる。
・村人たちが花の家に遊びに行くと、おおかみの子供(にそっくりな)犬をよく目撃する。
・……まあ、よく分からんが、とにかくオオカミ(山の神の使い)に感謝しておこうか。んだ。んだ。
・もしかすると、村人は雪と雨の正体に薄々気づいているけれど、あえて何も触れないのかも知れないね、としておく。(単純な優しさだけではなく、畑が守られているという幸運=利益を失いたくない、触らぬ何とかにタタリなし)
・そこへあえて「お前、オオカミか?」と触れてくるのは、里の外部の人間だけ(つまり転校生の草平)。


あくまで例えでしかないけれど、話自体をあまり変えずに、バランスが傾きすぎないように、軸にオオカミ信仰を通してみました。
あまり、オオカミ信仰にウェイトをかけすぎると、山の中には狐の先生ではなく、モロ師岡こと三輪明宏先生が住むことになってしまうので、このぐらいのサジ加減でどうでしょ「黙れ小僧!」

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まあ何でもよいのですが、都合のよい田舎生活がせめて軌道に乗るまでは、こうしたファンタジーで言い訳を委託してもいいかな、と思います。

もちろん基本のストーリーラインは変わらなくとも、これはこれで物語のバランスや肌触りは変わってしまいます。
「母が人間の力で全ての問題を解決しなければ」とか、「おおかみこどもを、都合のよい神の子にはしたくない」という問題点はあるかも知れません。

ただ私は、子供が迷惑をかける存在だけでなく、子供にしかできないことで、母が救われてもいいと思っています。
この場合、「オオカミ」として霊的な意味での救済がひとつと、可愛い「こども」として、花と村人(大人同士)をつなぐパイプ役としての救済の二面でしょうか。

要するに「偉大な母」と「世間から隠さなければいけないマイノリティの子供」というバランスよりは、私はその方が好みだな、という個人的な話ですね。

用意された分岐路


田舎に移住したおおかみこども、雨と雪は、それぞれ成長をはじめます。

  • 公開前に『おおかみこどものアメとムチ』というネタを言っていた。
    「なんでこんなことが出来ないの!」と悪鬼のごとく子供達にキレてから、「……良くできたわね」と菩薩のように抱きしめる育児もの。実際見てみるとアメはあってもムチはなかった。

  • 移住した家の前にあるのは、分岐路。
    ←左に行くと、学校(人里)へ。 右に行くと、山へ→
    細田監督おなじみ分岐路ですが、初めて見る方でも分岐路の持つ意味がすんなりと受け取れると思います。

  • これまでY字路が多かった気がしますが、今回はT字路。
    モチーフとなった家の前に実際にT字路があるそうですが、この作品にはT字路がふさわしいのかも。
    Y字路と違ってT字路は、異なる道をゆくものが完全に背中を向けてしか歩いていけないものです。
    もうひとつの道とそこを歩くものに背を向けるしかない、完全に異なる道ですからね。

  • もちろん「なぜ、おおかみこどもが、おおかみと人間、どちらの道しか選べないのか」という問題はあります。彼らの父親も、人間とおおかみを内包したまま死んだのにねえ。
    子供を2人用意して別々の道を歩ませるのは、はっきりいって映画的な要請ですが、もし3人目の子供がいたら、用意された分岐路から自分の道は選ばないでしょうね。

  • もうひとつ。この映画の主人公が、分岐路を選んでいく子供たちではなく、この家に移住を決めた花であるということ。
    つまり、「分岐路を選ぶ方」でなく、「分岐路を用意する側」が主人公ということですね。
    インタビューにおいて、細田監督が「僕は心情的に、おおかみおとこの『彼』ではなく、花のほう」と語っていましたが、分岐路を用意するものが花であることを考えると、ちょっと面白いなと思いました。

ソーシャルゲーム『おおかみこどもの雨と雪』


ソーシャルゲーム『おおかみこどもの雨と雪』があるとしたら、プレイヤーが田舎で家と畑つくって、ふたりのおおかみこどもを育てるゲームになるのだろうか。

もちろん田舎生活は映画同様、ゼロか始まる。家が修理できず、野菜が収穫できなければ死ぬしかない。
ここで攻略のヒント。アバターをかわいい女の子にしておけば、他のプレイヤーから農業のレクチャーやプレゼントをもらえるぞ。序盤はこれで乗り切ろう。

毎朝、子供たちは出かけていく。家の前に分岐路があり、左に行くと学校(人里)、右に行くと山。
どちらに行くかで、内部パラメータが変化して、最終的にどちらの道を選ぶのかが決まる。
そして、大事なことはプレイヤー自身にどちらの分岐路へ行かせるか選ぶ権利がないこと。
プレイヤーにできるのは、分岐路を用意し、毎日朝食を食べさせて家から送り出すことだけだ。

雨の死と、再生


雪が積もった日。田舎で生きる場所を得た親子3人は、何かに解放されたかのように雪原を走り回る。
この映画の見せ場のひとつ。

  • その帰り道。雨が急に野生に目覚め、野鳥をとろうとして、真冬の川に落ち、流されて、死にかけますが、雪が飛び込んで助け、九死に一生を得ます。

  • シチュエーションとしては、雨の父親の死とほとんど同じ。多分、こんな感じで死んだのかな、という気もします。うっかりと。

  • 花はあと少しで再びおおかみの死に遭遇するところでした。
    彼女としては、もう二度とこんな思いはしたくないと思ったでしょう。何とか息を吹き返した雨を強く抱きしめますが、雨はこの日から変わってしまいます。
    狩りの中で通過儀礼的に一度死に、そして再生したことで、別のものに生まれ変わってしまったようです。

子供らしいおもちゃがない?


花の家庭に、ゲーム機もキャラクター玩具も何も無いという指摘がありました。
そのほか垣間見えるライフスタイルを含めて、花の育児に対する考えについて疑問をもつ方もいたようです。

私自身は独身男性で、もともと育児法の話題には疎かったこともあり、劇場鑑賞時はゲーム機やキャラクター玩具などが無いのは、単に映画が古びれるのを避けるためなのかな、と思っていました。

この映画は、携帯電話も出ませんが、かといって特定の古い時代を舞台にしているというわけでもなく、新しいものと古いものが混在して、受け手次第でどうとでも取れるようになっています。
恐らく意図的に曖昧にしているのではないかと思います。

「カラオケに使われる映像には携帯電話を映さない」という話を聞いたことがありますが、その理由は「すぐに映像が古びれて見えてしまうから」というものでした。それに近いですね。

この映画を見た私としては、ある程度、古びれない配慮をすることに賛成です。
普遍的なテーマとアニメーションの魅力に溢れたこの作品は、幅広い世代が自分の生きた時代をイメージしながら楽しみ、さらに経年劣化に出来る限り耐えることが望ましい。
私なら、それを第一目的として、花のおもちゃの与え方やライフスタイルを、それに合うように多少都合つけることを考えるかも知れない。

そのあたり、やっぱり『よつばと!』を連想する。

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『よつばと!』も少しそういうところがあって、製品や企業名などで割りと固有名詞は出てくるのだけど、数年レベルの時間経過に耐えられないようなものは基本的に出していないと思う。
特に、1年単位でめまぐるしく作品が入れ替わるキャラクター玩具などは登場させない。
だから、よつばの相棒はテディベアだし、レンタルビデオ店行っても借りるのは動物のDVDで、『ポケモン』も『プリキュア』も借りることはない(版権的な問題以前の例えの話ね)。

それは『よつばと!』世界のコントロールとして、意図的に行われていると思うけれど、必要なコントロールだと思う。現実と同じにすることがテーマの作品だと思っていないので。

雪と雨の、天上姉弟大ゲンカ


人間として生きようとする雪と、おおかみとして生きようとする雨は対立して口論となり、姉弟ゲンカがはじまります。この映画の見せ場のひとつです。

雪は弟に、学校へ行って人間として暮らせというが、雨は姉に、人間じゃないのだから山へ行こうと言う。
意見は真っ向から対立しケンカがはじまると、二人は戦闘モードに入り、おおかみのすがたになります。
家の中をめちゃくちゃにしながら、二匹の獣が爪と牙で傷つけ合っていく。

ビーストモードで戦闘中の2人を、人間の花は止めようがない。止めるすべがない。

おおかみこどもは特殊な状態としても、母親は自分が生んだ子に対して、生物として、体力的にもう抑えられないと感じる瞬間が必ず来る。
多分、私の母にもあっただろう。自分のお腹にいた子が自分より強くなるというのは、一体どういう感覚なんだろうか。私には一生分からないことだ。

幼い日より、年長で活動的な姉は、弟の雨とケンカをしても負けることは無かったんでしょう。この日までは。
戦いはいつしか、弟である雨の優勢となり、雪は風呂場へ逃げ込む。
かちり、と閉まる風呂場のカギ。それでケンカは終了。

湯船の中で背を向けた雪は、肩を震わせて泣いている。
その背中には無数の傷跡……エロス&バイオレンス!

私はこのシーンが、『おおかみこどもの雨と雪』の中でもっとも好きです。すばらしい。見てよかった!

この映画の3大エロいシーンとしては恐らく「花と彼の子作り(獣姦)」「雪と雨のケンカ」「夜の学校での雪と草平」の3つがあると思われます。私はもちろん「雪と雨のケンカ」派です。

特に好きなのがこのケンカの結末が、雪が閉める風呂場のカギであること。
先ほどまで、獣同士の殺し合いのようなケンカをしていたのに、なぜ風呂のカギを閉めたぐらいで、急にこの大ゲンカが終わるのか。

それは多分、もう雪と雨が一緒にお風呂場に入ることがなくなったから。
雪がカギを閉めたら、そこへ雨は入らないというルールが存在するような年齢に2人がなっている。
女性がお風呂に入っているのに、そこへ男性が入り込むわけにはいかないですからね。
それが雨の、獣としての本能よりも上のレイヤーにあることが、「カギかちり」でケンカが終わったことで分かる。(そういう意味ではこの雨はちゃんと人間ですよね)

恐らく雪も、風呂場に逃げ込めば、雨が風呂場にはもう入り込めないことを知っているんだろう。
雨が男で、自分が女であることを自覚している。
まあ、エロい。これはもう完全にエーロスエロス、エロすんませんですよ。

映画の体感時間的には、ちょっと前まで二人は仲良く風呂に入ってたわけで、少し見ない間に2人ともなんとまあ、いっちょまえに大きくなって!と、久しぶりに会った親戚のおじさんのような気持ちで見てました。

そして「なぜ、おおかみ双子じゃないのか」問題。

なぜ、おおかみ双子ではなかったのか?


根本的には同じである双子では、これまで負けたことがない姉が成長した弟に初めて負ける、というこの場面がもつニュアンスが崩れてしまう。
私には現実的な合理性より、映画としてこの場面の方が大事なので、双子ではなく年齢差のある年子の姉弟であることを支持したい。
しかし、それならばもう少し姉弟の生まれる環境は整えようがあったのでは、というのは先に書いたとおり。

幼い頃、雨を生命の危機から救ったのは、花ではなく、同じおおかみこどもで年長の姉だった。
人間として生きていくと決意した雪だが、別の道を進もうとする弟を止めるためにやむなく、おおかみの力を借りる。おおかみになりさえすれば、弟は止められると思っていた。
そして結果は雪の敗北で終わる。もう雪でも止められない。と、いうことは、この家で雨を止められるものは誰もいないということだ。
恐らくこれ以降、雪は雨の人生には不干渉となったのだろうと思う。
だから、姉弟の物語としてはここでおしまい。

ここから物語は、雪ルートと、雨ルートに分岐する。
母である花は、雨ルートを進む。では、雪ルートは?

草平と、おおかみに与えられた傷


雪のクラスに転校生としてやってきた少年草平に「けものくさい」と言われてしまい、雪は彼を避けはじめる。
自分がなぜ避けられているのか分からない草平は、雪を追い詰めてしまい、雪はおおかみの爪で草平を傷つけてしまう。

傷つけられた草平の耳には、傷が残ってしまうが、彼は雪がやったのではなく、おおかみがやったことだと言い、さらに、母である花にはその傷をつけたおおかみを「きらいではない」と告げる。

  • この草平を見て、物語終盤、花は雪のことを彼に任せていいと確信し、自分は雨ルートに進む。
    というのは分かるし、問題ないと思うが、終盤の段取りはもう少し何とかならなかったのかな、と思う。

  • 草平の耳につけられたのは、もはや聖痕と言ってもいいのかも知れない。
    彼は、おおかみに傷つけられた上で、おおかみを受け入れ、おおかみの真の姿を知る資格を得た。

  • この映画では、草平と花の二人だけが、おおかみの秘密を知ることができたことになる。
    おおかみの聖痕を得て、なお、おおかみを受け入れたものが、おおかみに近づく。
    「彼」亡きあとの、花のスタンスは人間というより、おおかみのそれだし、草平もつらい境遇に負けず、大人に頼らず早く自立したいと願っている。花と草平の笑顔は基本的に同質のものだ。

  • それを考えると、この映画で「おおかみに傷をつけられたのは二人」とした方が面白いかも知れない、と思う。
    ひとりは、もちろん雪の爪で引っかかれた草平だが、花はどう傷つけられたことにすればいいのか?

  • そうなると、花が「彼」を受け入れたあの夜に、体に傷を受けたことにするのが良いのかな、と思います。
    要するに、花が処女であり、「彼」によって、おおかみの聖痕を受けたことにする。

  • フィクションに登場する女性キャラクターが処女かどうかは、物語構造にからむものでも無ければ、個人的には極めてどうでもいいのですが、花と草平を「聖痕」で結ぶのなら、花が処女であった方が都合がいいなあ、と思っています。
    ほかに「彼」から受けた傷があればいいのですが、大人同士だとDVにしかならないので、双方合意の上で与える/受ける傷として、これしかないかな、と思うのですが、まあ世迷いごとですね。

ともかく雪ルートは、こうして草平が担当しました。
あらしのよる、学校で、雪は自分の正体を明かし、草平はそれを受け入れます。(雪ルート・完)

では、雨ルートは?

雨と雪、どちらを選ぶか


同じくあらしのよる。雪を学校に迎えに行こうとした花だが、雨が山に入っていくのを見かけ、それを追う。

花と草平の役割分担は、すでに述べたとおり、準備はできているので、それ自体は問題ないのだが、ストーリー進行上、それがうまく段取りできていないと思う。
雪が草平と一緒にいるということは、花は知らないので、「雪は草平に任す」というスイッチができていない。
花は、家の前の分岐路で、学校か山かで一瞬、逡巡して、山を選ぶが、スイッチができてないので、雪を放置し、雨を優先させたように見える。

お姉さんで学校に(恐らく)いて安全な雪より、嵐の山に入っていった弟の雨を優先させるのは当然とも言えるが、母親を描く映画で、その極めて冷静な判断の見栄えがいいとは思わない。
(そもそも、嵐の山に入って危険なのは、人間である花自身であり、雨ではない)

雪の状態を確認できた描写があるといいのだが、先に述べたようにこの映画は携帯電話を使わない。
かといって、雪が学校から、自宅の母に電話をひとつ入れる、というのも違うように思う。
彼女はこの後、母との約束を破り、おおかみこどもであることを他人である草平に明かす。
その展開を考えると、母と雪との間にコミュニケーション機会を発生させないほうがいい気がする。
そう考えると、草平がひとりになった時間帯に、花へ電話する、というあたりでどうだろうか。
草平は「雪は学校で俺といる」と言い、花は「雪をお願い」と任せ、役割分担をする。

いや……夜の学校での、雪と草平には、全く大人が介在していない方がいいかな。

先に帰った雪の女友達(とお父さん)とか、何か全く別系統の方がいいのかも知れないが、自然にシナリオに織り込めるかどうかは難しいね。
こうしたことをいろいろ検討した上で、この要素自体をカットしているのだと思うけれど。

雨は夜更けすぎに、犬(狼)へと変わるだろう


雨を追って、山に入った花だが、足場の悪い山に苦戦したり、熊と遭遇するが、二匹の小熊を連れた母熊に見逃してもらったりする。倒れた花を助けるために現れた雨。そして今、万感の思いを込めて汽笛が鳴る(鳴りません)。

雨とのお別れのとき、花は自分が子供に「なんにもしてあげてない!」と言う。

これは、花の視点から見ると、実際に「なんにもしてあげてない」。
例えば雪は、母関係なく、草平との確執と和解の中で大人の階段を登っていくし、雨も自分で、山の中の先生(老狐)を見つけてきて教えを受け、これを継ぐ決意をする。

子供たちの自立に、花は関わっていない。
子供は親とは関係のない自分の世界を見つけて、そこで成長し、大人になっていく。
そうでないと自立では無いので、花は関わっていなくて正しい。

ただ「なんにもしてあげてない」というのも、正しくない。
花は、都会から田舎に引越し、安心して暮らせる環境を与えた。
家の前の分岐路で「学校(人間社会)」と「山(おおかみの世界)」のどちらにも行ける選択肢をつくった。
人間として生きたい雪には、おおかみにならないオマジナイを教え、かわいいワンピースも与えた。
学校に興味の薄い雨には、自然を学ばせ、シンリンオオカミに会わせた。

環境を整え、選択肢も用意し、きっかけとサポートをしながら、子供を育てた。
そして、花が「なにもしていない」のに、成長した子供たちは自分で選択し、それぞれ母離れした。
分岐路を用意してあげた上で、その選択は子供に任せ、そして、それぞれが選んだ道を最終的に肯定した。

極端に言えば、母は子供に捨てられて、子育て成功なので、花の子育ては成功といっていい。
だから山中で気を失った母は、花園の中で再び「彼」と出会い、君はよく子供を育てた。ありがとうと抱きしめられる。

この最後に「彼」に褒められて抱きしめられるシーン。
意味は分かるけど、これ無しで構成できないかなと考えたりした。私はこのシーンを無しで組むほうが好みです。

ただ、恐らく「君はよく子供を育ててくれたね。ありがとう」と言って、愛する人に抱きしめられることが、現実世界で圧倒的に不足しているのだろう。このシーンは良し悪し以前に、現実世界で不足しているからこそ、構成に加えられたシーンであるように思う。恐らく、その判断は正しい。
正しいが、こんなシーンは必要とされない世界である方が望ましいし、映画作品としても無い方が私の好みなので、世の父親であり夫である皆さんは、とっとと愛する妻を抱きしめといて下さい。

エンディング:物語の終わり


エピローグでは、二人の子供が共に巣立ち、山奥に一人で暮らす花の姿が描かれる。
もう完全に余生状態だったので、やはり花には「母」以外の属性が何かあった方が良かったと思う。

たまに、山奥からおおかみの遠吠えが聞こえてくる。耳をすませる花。
雨は自分が元気であることを、母に伝えているようだ。

しかし、この遠吠えが、突然の銃声と共に断ち切られたら、という想像をせずにいられなかった。

付近住民から「おおかみのような遠吠えが頻繁に聞こえ、不安である」との声。

自治体に相談。

猟友会に要請。

遠吠えが銃声でかき消される。


そういえば夏頃、今年は『おおかみこどもの雨と雪』のあとに『伏 鉄砲娘の捕物帳』が公開されるので、これは、おおかみこどもが根絶やしにされるな、という冗談を言っていた。雨だけでなく、人間社会に溶け込もうとする雪も当然、狩られる。

その不安を解消するためにも、前半に述べた、普通の山村に見えて、実はオオカミ信仰のある集落。
ということにしておくと、山は神聖なものとして不可侵となり、雨が狩られる心配も無くなるのではと思っています。(理由は何でもいいのだが、不安感だけ解消して欲しい)

感想のまとめ/あとがき


ここまで長文にお付き合いありがとうございました。
最初は断片メモをまとめて、ちゃんとひとつの読み物にしようと思いましたが、記憶が薄れすぎて、もう無理でした。映画への記憶もそうだし、自分の書いたメモの心境についての記憶も薄れていたり。

まさか『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の公開日に記事をアップすることになるとは思いませんでしたが、甘んじてこの周回遅れの罰ゲームを受けたいと思います。これで心置きなく『ヱヴァQ』に行ける。

さて冒頭で述べたように、私は『時をかける少女』と『サマーウォーズ』より圧倒的に好きです。
問題はいろいろとありますが、前二作より一段上のステージへ進んだ映画だと思います。

この映画の悪い部分のために、良い部分を見ないでおく、というのはあまりにもったいないです。
人からの伝聞で食わず嫌いする方も多そうですが、できれば自分の目で見て、良いところと悪いところを見極めて欲しいな、と思います。

では最後に『おおかみこどもの雨と雪』とセットで読んで欲しい作品を紹介しましょう。

『九井諒子作品集 竜のかわいい七つの子』収録の短編、「狼は嘘をつかない」。

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現代社会に生きる狼男をテーマにしたこの短編は、二つのマンガで構成されている。

ひとつは、ほのぼの育児エッセイマンガ風に書かれた「我が家のワンぱく息子」。
絵柄も、育児エッセイマンガ風のゆるいもので、「狼男症候群」という病気を持って生まれた男の子を育てる母が書いたという設定だ。

『おおかみこどもの雨と雪』と違うのは、狼男が「病気」の一種であるという設定であり、社会的に認知されているということだ。それゆえに、おおかみこどもでは直接的には書かれなかった社会的「ハンディキャップ」として、狼男が扱われている。

1歳で「狼男症候群」を発祥した息子を持ったママの、人とは違う我が子の子育て苦労が、エッセイマンガとして描かれるが、社会的に認知されている世界なので、病院でも検査があり、専門の支援センターがあり、同じ子を持つ保護者の交流会など社会的サポートがあることが紹介される。

エッセイマンガの最後は、いろいろと大変だったが、ひとりで全て気負わず、皆と一緒に少しずつ歩んでいくことが大切だ、というママの前向きなコメントで締められている。

そして、このエッセイマンガを踏まえた上で、本編「狼は嘘をつかない」がはじまる。

絵柄も九井諒子本来のものに戻り、主人公も母から「狼男症候群」の息子本人に代わる。
息子はすでに大学生に成長しており、持って生まれた「狼男症候群」によって、苦労しているようだ。
病気を理由にバイトがクビになったり、病気で学校の欠席も多く、友達もできない。

大学では病気のことは隠して生活しているらしく、それゆえの気苦労も耐えない。

母は、息子の育児体験をマンガで発表したり(先のエッセイマンガね)、講演会で後援をしたり、ハンディを持った息子を育てた体験をもとに、活動を行っているようだ。
狼男の症状を抑える薬が存在するが、副作用などの面から反対派であるらしい。

そんな母親にもやもやとイライラがつのった息子は、思わず母に言ってしまう。

楽しそうだよな。講演会も、あのくだらない漫画も。
「息子は不幸にも病気を持って生まれましたが」
「私の努力の甲斐あって、変な薬に頼らず、ちゃんと育てることができました」
そういうアピールをするのが楽しいんだろっ。
俺のため俺のためって全部あんたの自己満足だ。
俺をだしにするのはもうやめてくれないかな。


『おおかみこどもの雨と雪』とセットで読むことで、それぞれのアプローチの違いを楽しめます。
どちらかでなく、両方見ていただくのを強くおすすめします。
どちらも、愛と、それからコメディにあふれていますよ。

そして、どちらも母の物語です。
神が天にいて我々を見守ってくれているのかどうか、私には分かりませんが、
この二作を見た私には確実に言えることがひとつだけあります。

「母は地上にいまし、全て世は事もなし」



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