ナナイ・ミゲルからシャア・アズナブルへの質問と確認と安堵と絶望 <映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でのすれちがい宇宙>
アニメ富野由悠季映画逆襲のシャアシャア・アズナブルナナイ・ミゲルガンダム
2022-10-27
劇中、ネオ・ジオン総帥となったシャア・アズナブルと、その部下にして恋人ナナイ・ミゲルが、シャアの私邸?で会話するシーンにこんなやりとりがある。
ナナイ「クェス、よろしいんですね?」
シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」
ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」
このすれ違い!
このすれ違い会話がいつ見てもたまらない。
ナナイの質問は明らかに複数の意味を込めている。
だから、シャアの回答でも間違いではない。
間違いではないが、コミュニケーションとしては完全にすれ違っている。
はたしてナナイは何を確認したかったのか?
今回は映画『逆襲のシャア』から、ナナイとシャア、大人の男女2人がお酒を飲むこのシーンだけに絞り、公私ともにパートナーであるはずの2人がする、すれ違いの会話を丁寧に追ってみたい。
なのでモビルスーツやファンネルの血湧き肉躍る話は一切出てきません。
(もうファンネルのことは書かんでええやろ!)
※小説などもありますが子供の頃に読んだきりですし、あくまで映画を材料に話を進めます。
公私共にシャアを支えるパートナー、ナナイ・ミゲル
伊東マンショ、中浦ジュリアン、ナナイ・ミゲル、そしてブルーノ・サンマルチノ。
※よいこのみんなへ
4人並べるネタで、2人ボケちゃダメ。半々になってフリもボケもブレるから。
しかもナナイじゃなくて、サンマルチノがいちばん言いたいからって最後に置くのもっとダメ。
本題に入る前に、人間発電所ブルーノ・サンマルチノの基本プロフィールを確認しておこう。
ナナイ・ミゲル(声 - 榊原良子)
ネオ・ジオンの戦術士官で大尉。ニュータイプ研究所の長も務める。シャアと個人的にも親しく、思いを寄せている。軍事では参謀として、私的な場では恋人として、彼を公私にわたってサポートする。軍人としては部下に厳格な面を見せる。シャアが連れてきたクェス・パラヤをシャアから任され彼女を強化するが、彼女に対して多少の嫉妬も抱いており、何かとクェスをかまうシャアに苛立ちを見せることもあった。
Wikipedia:機動戦士ガンダム 逆襲のシャアの登場人物
ナナイ・ミゲルは、シャアの公私を支えるパートナーという重要なキャラクターだが、『逆襲のシャア』にて初めて登場する。
ハマーン・カーンを映画用に、可愛げと従順さを強化した(強化人間!)ようなキャラクターと思って頂ければよいだろう。
演じるのは、ハマーンと同じく榊原良子さん。
『逆襲のシャア』は、アムロとシャアが決着をつけるための映画。
ナナイは、シャアにとって都合の良いパートナーとしての「いい女」としてデザインされているので、映画の主旨をよく理解して、話をかき回したりすることはない。
シャアのパートナーとして見れば、改良型ハマーンとして完璧だと思うが、ハマーンが不適格というよりも、シャアがあまりにシャアすぎるので、ナナイぐらいの調整して合わせてあげないとダメだったと考えるべきだろう。
とすると、むしろ浮き彫りになるのはシャアの「変わらなさ」だと思う。
個人的には、シャアの思いどおりには動かない「やっかいな女」であるハマーンの方がキャラクターとして好みだ。
もちろんこの映画での役割として、ナナイというキャラクターのデザインには何の問題もない。
そして、そのナナイに榊原良子さんがキャスティングされているのは、ハマーンは「シャア無き欠損」を抱える空虚なキャラクターでもあったが、あの声はそうではないという事だと思う。
声と中身のバランスを取ったキャラとしてのリメイクともいえるかも知れない。
『機動警察パトレイバー2 the Movie』での、南雲隊長にも何らかの影響を与えているような気がしている。
押井守監督が『逆襲のシャア』結構好きで、声が同じく榊原良子さんで、というだけでなく、過去に囚われたテロリストの幻想に巻き込まれる女性として。
連邦側に属してシャアに手錠をかける方のナナイ。
会話シーンを語る前の前提(ここまでの逆シャア)
『逆襲のシャア』は約2時間(1時間59分)の映画で、本題の会話シーンは約45分経過したあたり。ここまでの展開のうち、会話に関係するポイントだけは前提として抑えておきたい。
冒頭の会話に出てきた名前、クェス。クェス・パラヤ。
地球連邦の高官アデナウアー・パラヤの娘にして、13歳の少女。民間人。
コロニー・ロンデニオンで、シャアとアムロの罵り合いながらの格闘(有名な巴投げシーン)で、シャアに加勢し、シャアの「行くかい?」で、本当にシャアについていってしまう。
その後、ニュータイプ研究所(ナナイが所長)で訓練を受け、ニュータイプとしての才能を開花させる。

わずかな訓練で、ファンネル攻撃を成功させるクェスを見て、シャアがつぶやく。
シャア「あの子と同じだ」
「あの子」に該当する人間が、複数人存在するのがシャアのやばいところだが、この映画では最初のひとりであるララァ・スンのことであると思ってよいでしょう。つまりララァの再来のような才能だ、ということですね。マラドーナ2世です。
次のシーンが有名な電車のシーン(この映画、有名なシーンしかないな)。
シャアを「ドブ板選挙のできる男」と評したのは、あでのいさん(@adenoi_today)だが、まさしくその象徴のようなシーン。
ここでのクェスは初めて軍服姿で登場する。もはや民間人でもゲストでもないことが分かる。
そして高級ハイヤーで、ギュネイにクェスを送らせる。
先に降りるシャアは別れ際にクェスに優しい言葉をかけ、彼女の手にくちづけをして別れる。
シャア「大丈夫か?明日からの作戦は遊びじゃあない」
クェス「勿論、あっ」
(手にくちづけをする)「大佐」
シャア「今夜はよく休め」
明日からの作戦とは、もちろん軍事作戦を指す。
つまりクェスはいよいよ軍人として実戦に投入されるということだ。
緊張するクェスに優しい言葉をかけ、お姫様のように扱うシャア。
だが彼はなぜ先に車を降りたのか。それは私邸でナナイと過ごすため。
そして、シャアとナナイの2人だけの会話シーンが始まる。
ナナイ・ミゲル酒豪伝説
バーカウンターもある一室。
2人ともナイトガウンを着てリラックスした状態であり、完全なプライベート空間だ。
ナナイが酒を用意し、シャアに持っていく。

ちなみに、シャアがロックグラスで、ナナイがロンググラス。
ナナイは水割りかな?と思ったら、色指定的には同じ(濃さが同じ)に見える。
シャアがストレート(そのまま)だとすると……ナナイ酒豪だな、と思った。
ここからは、シャアとナナイの会話をすべて順に追っていこう。

ナナイ「アクシズを地球にぶつけるだけで、地球は核の冬と同じ規模の被害を受けます。それは、どんな独裁者でもやったことがない悪行ですよ」
「それでいいのですか?シャア大佐」
シャア「いまさら説教はないぞ、ナナイ。私は、空に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにする為には、誰かが人類の業を背負わなければならない」
ナナイ「それでいいのですか?」
(シャア、黙ってうなづく)
もちろん親しい仲での雑談ではあるが、いきなりナナイは確認から入る。
アクシズ落としは、どんな独裁者でもやったことがない悪行だが、それでいいのですか?と。
シャアはブレない。シャアが述べていることが世迷言でも、インテリの世直しでも、ニュータイプという蜘蛛の糸にすがるカンダタでも何でもいい。問題は目的遂行のために迷いがないかだ。
この会話シーン全体に言えることだが、ナナイは基本的に、シャアを見つめながら話をする。
しかしシャアは他を見ているか、もしくはナナイとは真正面から視線を合わせない。きちんとナナイの目を見て話すのはごくわずかである。
もちろん現実でも、視線を見つめ合って話をすることは結構少ない。たとえ親しい仲や家族でも。
だから、ある種のリアルだとは言えると思うが、一方が見つめることが多く、もう一方はそれを見ないことが多い、という非対称性は映像としての会話のデザインであろうと思う。
ここではナナイがシャアを見ている一方で、シャアは別のところを見たり、視線をはずしたりするというのが、2人の関係性ということになる。
それを踏まえて見ていくとなかなか面白い。次の会話。

ナナイ「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
シャア「私はそんなに小さい男か?」
ここでは、ナナイが窓際に歩いて、手前にナナイ、奥にシャアという構図に変わる。
早速、ナナイがシャアから目線を切っているじゃないか、となるわけですが、会話の内容を見て欲しい。
ナナイはまた確認の質問をする。
「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
つまり、結局はシャアの個人的な動機なんでしょ?と問う。
シャアが「私はそんなに小さい男か」と答えるが、このタイミングでナナイは目線をはずす。
当初から質問しかしていないことに加え、この芝居を見る限り、ナナイは、ジオン・ダイクンの息子としてスペースノイドを導く指導者を最後までやってくれるのかどうかについて、かなり疑っている。いや不安に感じているといった方がよいか。
歴史に最大の悪行を残してでも、人類のニュータイプ覚醒といった大義のために大仕事にやり遂げる覚悟は本当にあるのだろうか。
最後の最後に全部ほっぽりだして、ただのモビルスーツ乗りとして恋人(宿敵)との楽しいダンスに興じてしまわないだろうか。(鋭い。当たりです)
もちろんシャアは「私はそんなに小さい男か?(笑)」と、ナナイからの否定(フォロー)を求めるような返しをするのだが、ナナイはその顔を見ないし、答えない。
そして目線をはずしたまま、つぶやくように言う。
ナナイ「アムロ・レイは、やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男です。女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」
これ、かなり重要な台詞だと考えています。
ナナイが、アムロのことを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」として批判していると捉えている解釈を見かけたりしますが、私は違うと思います。
ナナイにはアムロと何の因果も因縁もありません。会ったことも話したこともないでしょう。
ナナイが知るアムロというのは基本的に「シャアが語るアムロ」になるはずです。
であれば「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」は、シャアによるアムロ評でしょう。
シャアの認識では、アムロは戦場で出会った敵(ララァ)とふれあい、深くつながろうと互いを理解し合おうとした男です。
一方のシャアは「戦いをする人ではなかった」ララァを戦場に連れ出して、戦争の道具として利用しましたが、アムロはそうしなかった。敵であるはずのララァと2人だけの密会をして、分かり合おうとした。
しかし結局は、アムロによってララァは喪われてしまった!
やさしさアプローチで近づいて、ニュータイプNTRしてきたアムロのせいで!
シャアとしては自身の罪に向き合うのでなければ、シャアがしない(できないともいう)ニュータイプ能力の使い方をしたあげく、ララァを殺めたアムロを否定するしかない。
かくして、アムロは「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」というインディアンネームを与えられ、恐らくナナイもシャアから何度も聞いていたことでしょう。
しかしナナイは「女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」と続けている。今の話の流れで行けば、この許せる女性はララァ・スンのことになるでしょう。
しかしシャアにとっては、ララァが許しても、私が許さんわけです。
個人的には、ナナイが意図する「女性」とは、ララァだけでなく、ナナイ自身も含まれていると思っています。いや下手したら女性全体ぐらいを想定している可能性すらあるかも知れない。
もしそうであれば、「光る宇宙」でのアムロについて、被害者のララァどころか、私(ナナイ)も別に許せるし、もし全ての女性にアンケート取ったら多くの女性はアムロを許せるかも知れない。
シャア相談員「許せない」、上沼相談員「許せる」、ゲストの瀬川瑛子相談員「許せる」。
アムロを許せないのはつまりはシャア大佐、あなただけでしょう? という意味になる。
これを最初の質問とつなげれば、あなたは自分が許せないからこそ、アムロが生涯許せないし、だからネオ・ジオン総帥として道化を演じてまで対決を望んでいるのでしょう?でも、あなたについてきた多くのスペースノイドや私達のために嘘でも違うと言ってください。
……ぐらいの超意訳ができるかも知れない。
それなのにですよ。ナナイのこの台詞を聞きながら、なんとシャアは「光る宇宙」の回想に突入してしまうのです。
「光る宇宙」で悪いの誰だ? 誰が「白鳥」殺したの?
『機動戦士ガンダム』第41話「光る宇宙」での場面、映画が直接引用するのは、ファーストの劇場版である『めぐりあい宇宙』ですが、とにかく、アムロがララァを誤って殺めてしまう場面が、シャアによって回想される。
基本的には、アムロとシャアの因縁を明示するための過去回想で、観客のために挿入されたシーンになるだろう。この映画で挿入される回想はこれだけであり、その重要さが分かる。
(もっとも、この映画を見るような人には、このシーンの紹介が必要ない人も多いだろうけれど)
場面としてはおなじみではあるが、宇宙世紀0093年のシャア・アズナブルによる回想であることに意味がある。
シャア自身が当時のことを今現在どう捉えているのか、という点こそが重要なので、その視点で見ていこう。

シャア『ジオン独立戦争の渦中、私が目をかけていたパイロット、ララァ・スンは、敵対するアムロの中に求めていたやさしさを見つけた。あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』(回想突入)
シャア「む?」
アムロ「ララァ」
ララァ 「アムロ」
シャア「ララァ、敵とじゃれるな」
ララァ 「大佐、いけません」
シャア「何?」
シャア『あの時、妹のアルティシアがいなければ』
ララァ 「ああーっ」
アムロ「しまった」
シャア「ララァ」
『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』
見ての通り、語りどころが色々とある。
『あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』の箇所。
これ結構重要で、シャアは恐らく死ぬまで、アムロがララァとしたような、カミーユがハマーンとしたようなレベルでの、ニュータイプ同士の共感というものをしていない。
なので「だろうとはわかる」という言い方になる。

これについては、過去に記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(記事の終わりに、関連記事として紹介します)
次、『あの時、妹のアルティシアがいなければ』。
「光る宇宙」において、アムロ、ララァ、シャアの3人だけが注目されがちだが、セイラ(アルテイシア)もその現場に居て、かなり重要な役割を果たす。
これも、過去にこの話で記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(2度目。記事の終わりに、関連記事としてまとめて紹介します)
『あの時、妹のアルティシアがいなければ』のあとに続く言葉は、当然「ララァは死なずに済んだのに」である。
実際はどうだったか。
悲劇の直前、アムロと兄キャスバルの間に割って入ろうとするセイラのGファイター(映画、回想ではコアブースター)。シャアのゲルググは斬ろうとするが、寸前でナギナタの刃を止め、相手が妹アルテイシアだと気づく。
だが、そのスキをアムロに突かれて片腕を斬られてしまい、さらにとどめを刺されようかという絶体絶命のピンチをララァにかばわれ、彼女は命を落とします。
ニュータイプ・アムロとララァによる心の交流を表現する上での対比・強調の問題だと思いますが、この場面でのシャアは、肉親であるセイラの存在に徹底的に気づかない。
赤の他人でロクに会話すらしたことがないアムロとララァが感じ合い、分かり合ったのと比べて、血が繋がっているはずのシャアとセイラの通じなさは極めて象徴的だと思う。
そもそもシャアがナギナタの刃を止めることができたのは、先にララァがセイラを感じ取り「大佐、いけません!」と止めたからに過ぎません(だから刃を止める→気づくの順番)。
つまりララァは、アムロが「取り返しのつかない過ち」を犯す前の段階で、シャアが「取り返しのつかない過ち」を犯す所だったのを止めてくれてるわけです。
しかもこの際に、シャアがコクピット内のセイラを目視して「アルテイシアか!」と気づく主観のカットをわざわざ入れている。この目視のカットの挿入が実にすばらしい(回想では省略)。
この戦場でセイラを認識していないのはシャアだけ。彼だけにはこのカットが要るのです。
風が吹けば桶屋が儲かるといいますが、物事は連鎖しますので『妹のアルティシアがいなければ、ララァは死なずにすんだのに』といえないことはないですよ。そりゃあ。
でもこの時、宇宙世紀0093年です。事件から10年以上経過しています。それでなお、妹のせいだという認識なんです。
そして『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』
シャアがララァに導いて欲しかったのはまぎれもない本心だと思います。
ジオンの遺児という己の生まれからの逃走という意味では、キャスバル→エドワゥ→シャア→クワトロと何度も別の人間になろうとしたが、成りきれないシャアにとって、ララァは自分が「ジオンの息子」ではない何かに生まれ変わる為に必要な存在だった(そのための母)。
ただ『なまじ、人の意思が感知できたばかりに』が問題で、ララァがアムロの意思をキャッチできて、それを受け入れる包容力があったことが問題だと言っているに等しい。
シャアは、ララァと男女の関係になったとしても、その体験はしていない。それは、シャアの嫉妬を生み、そこから悲劇が始まった。
でもシャアにとっては、人の意思が感知できたせいで起こったことであり、いわばララァのせいなのです。
人のニュータイプへの革新を信じ、アクシズを地球に落としてでもという男が、宇宙世紀0093年に言うことかとお思いでしょうが、私もそう思います。(だからナナイも不安がるわけです)
では「光る宇宙」回想について、シャアの認識をまとめましょう。
・アムロのせい (ララァにやさしさで接触し、最終的に手をかけたので主犯。許さん)
・アルテイシアのせい (なんであんなとこに飛び込んでくるんだよ。ララァが言うまで気づかなかったじゃん!)
・ララァのせい (ニュータイプ同士で意思を感知できるからって、俺を無視してアムロとつながんなよ!)
以上が、10年以上経過した宇宙世紀0093年での認識です。
これは、もう、なんというか、あれです。まさにあれとしか言いようがありません。
もちろん、そもそも「戦いをする人ではない」ララァ・スンをニュータイプとして訓練し、戦場に連れ出した張本人が誰だったのか、という根本的な原因についての追求はありません。
誰が白鳥殺したの?
「わたし」とアムロが言いました。
わたしのビームサーベルで、わたしが白鳥殺したの。
誰が白鳥殺したの?
「妹」とシャアが言いました。
木馬を降りずに戦うので、妹が白鳥殺したの。
誰が白鳥殺したの?
「ララァ」とシャアが言いました。
敵と戦場でじゃれあって、ララァが白鳥殺したの。
誰が白鳥殺したの?
「アムロ」とシャアが言いました。
やさしさを勘違いしてるから、アムロが白鳥殺したの。
ここで、ミライさんが「さあ、みなさん、お手を拝借!」とやり、カイ・シデンが歌い、ワッケイン司令が踊ってくれたら、白鳥も成仏できるかも知れないし、できないかも知れない。(常春のコロニー・マリネラ)
シャアの瞳にうつるララァに乾杯

…………。
ナナイ「どうなさいました?」
わ!そうだった。ナナイにアムロの話されて、ナナイほっぽりだして回想してたんだった。
シャア「似過ぎた者同士は憎みあうということさ」
ナナイ「恋しさあまって憎さ百倍ですか?」
シャア「ふん、まあな。明日の作戦は頼むぞ」
ナナイ「…」
シャア「私はアクシズに先行してお前を待つよ」
このシーン。
ここまでを踏まえると、シャアが、自分とアムロを「似すぎた同士」と語っているのもツッコミポイントだが、画面も面白い。
自分を見ていない(そりゃそうだ。回想してたからね)シャアに乗りかかるようにして、シャアの正面へ。
これでシャアもナナイを正面から見るしかない。

と、思いきや、微妙に体をずらして、真正面からは向き合わないシャア。
このあとすぐカットが切り替わるし、見てのとおり表情が描き込まれないサイズなので、顔を見せるというよりは本当に姿勢(視線)をずらしているだけ。
この動き。意図(真意)はともかく、この記事をここまで書いてきた私としては十分必然性に納得はできる。

そして、シャアは自分のロックグラスをナナイに預け、席を立ってしまう。

ソファの正面に立ち、肘掛けに両手をついて、逃がさないポジションを取ったナナイからすると、ロックグラスを渡されて左手が塞がり、スペースが開いたところをスルッと逃げられた形。
両手を広げてディフェンスしているナナイだが、シャアにグラスを渡されたら無視せず受け取ってしまう従順な習性を利用されて、逃げ道を与えてしまった。(ハマーンなら全無視で逃さないのだろうか)
そしてナナイは、退室するためドアに向かって歩くシャアを目で追いながら、最後の質問をする。
ここでようやく、冒頭で紹介した会話にたどり着く。
「クェス、よろしいんですね?」でナナイは何を聞いているのか

ナナイ「クェス、よろしいんですね?」
言葉をあえて補えば、「クェスを実戦投入して、よろしいんですね?」になるだろうか。

ドアに向かって歩いていたシャアは、ナナイの質問に振り返る。
シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」

ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」
シャアはそのまま部屋を出ていく。
冒頭に書いたように、ナナイの台詞「クェス、よろしいんですね?」には複数の意味が込められているはずだ。
その中でも特に、兵士として実戦に投入されることが、クェス・パラヤという少女にとって、ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)になることをシャアに確認している。
それに対するシャアの回答は「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」である。
シャアは、ナナイが訓練や強化の不足を危惧して、そんな質問をしたと解釈した。
だから、あれ以上の訓練・強化をしなくても、もう戦場に出せる戦闘力を持っているから大丈夫だよ、と返している。
これがつまりシャアの認識であって、クェスを兵士、もっといえば戦闘マシーンぐらいにしか思っていないことを意味する。
シャア「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」
のちのこの台詞が無ければ、全てわかっている上ですっとぼけているという解釈の余地もあったかも知れないが……。
そもそもニュータイプ研究所の所長であるナナイには、クェスが実戦投入できるレベルであることなどもちろん分かっているだろう。わざわざそれをシャアに確認する必要などない。
この直前にララァの回想を挟んでいることから分かるとおり、ニュータイプの素質のある少女を訓練し実戦投入して一生もののトラウマを引きずるシャアに対して、新たなニュータイプ少女クェスの実戦投入について最終確認をしている。
本当に、本当によいのかと。
そう考えると、シャアの返答 「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」 は、完全に勘違いのすれ違いだが、会話はそのまま続く。
ナナイは言う「あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」と。
訓練を担当したニュータイプ研究所所長として、シャアの判断に太鼓判を押したように見える。
問題は「サイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプ」のところ。ギュネイのような強化人間と違い、本物のニュータイプの素質のある少女だと言っている。つまり「ララァ・スン」のようなニュータイプだと。
それはクェスがファンネルを操るのを見たシャアの「あの子と同じだ」という感想と重なる。
だから「そうだろうな」と、ナナイの評価に同意し、そのままシャアは退室する。
そしてこのあとクェスは実戦投入され、初陣で父アデナウアーを殺害。回帰不能点を越える。
アデナウアー→アムロ→シャアと流れてきたクェス・パラヤの避難所(アジール)はかくして、巨大モビルアーマーだけになる。そこへ追い込んだ当人の自覚なしに(これが本当にひどい)。
ナナイ「……、ジオン・ダイクンの名前を受け継ぐ覚悟が、大佐を変えたと思いたいが。くそっ」
「あんな小娘に気を取られて」

部屋に残されたナナイは、シャアに手渡された(ここ重要)ロックグラスを床に投げつけて、イライラするように髪をかき上げて、このシーンは終わる。
シャアのグラスを投げて 「あんな小娘に気を取られて」だから、シャアがクェスに気を取られている、という台詞なのだろうが、実際はここまで見てきた通り、シャアはクェスのことを道具ぐらいにしか認識していない。
せめて、本当にクェスに「気を取られていたら」どれだけ救いがあっただろうか。
だから実質、気を取られていたのは、シャアではなくナナイということになるだろう。
わずか3分程度の会話シーンだが、ナナイとシャアという公私ともにパートナーであるはずの2人の(視線を含めた)会話がここまですれ違っており、それでいながら見かけ上ごく普通の会話のように進行していくのは見ごたえがあり、大変すばらしい。
ナナイは確認はとるが、シャアには反論しない。
なぜならシャアの「いい子」だから。
シャアの「いい子」と、ハサウェイの名前
『逆襲のシャア』には、シャアによる「いい子」という台詞が2つある。
ひとつはクェスに対して。
有名な(有名なシーンしかない)生身で宇宙に出るシーン。
シャア「クェス、パイロットスーツもなしで」
クェス 「ほんとだね?ナナイを折檻してやって」
シャア「ああ、本当だ」
クェス 「なら、少し働いてくる」
シャア「調子に乗るな」
クェス 「でも」
シャア「実戦の恐さは体験しなかったようだな」
クェス 「恐さ?」
シャア「ああ」
クェス 「気持ち悪かったわ、それだけよ。なのに、ナナイはやさしくなくって」
シャア「それで、私の所に来たのか」
クェス 「大佐」
シャア「その感じ方、本物のニュータイプかもしれん。いい子だ」

「大佐」と胸に飛び込んでくるクェスを抱くが、当然、視線はクェスを見ていない。
もうひとつがナナイに対して。シャアがサザビーで出撃する直前のシーン。
ナナイ「四番艦、アクシズに入りました」
シャア「よし、核爆弾は地球に激突する直前に爆発するようにセット、クルーは収容しろ」
ナナイ「大佐、もうお止めしませんが、アムロを倒したら?」
シャア「ああ、あとはナナイの言う通りにする。戦闘ブリッジに入ってくれ」
ナナイ「はい」
シャア「いい子だ」
2人に対して同じ「いい子」を使っていることで分かる通り、本質的にクェスもナナイも、シャアにとって同じ扱いであることが分かる。
当然、対等ですらない。対等な相手を「いい子」などとは呼ばない。
クェスはもちろん、公私共にパートナーを務めてきたナナイに対しても「いい子」である。
ララァ以後のシャアにとって、全ての女性は「いい子」までにしかならない。
その上、シャアは宇宙世紀随一の「貧しい愛」の使い手なので、愛と引き換えに「いい子」の女性たちに何らかの奉仕をさせてしまう。シャアが本当に欲しいのはそうでないだろうに……。
そうなればますます対等ではありえない。
クェス 「あたし、ララァの身代わりなんですか?」
シャア「クェス」
「誰に聞いた?いや、なんでそんな事が気になる?」
クェス 「あたしは大佐を愛してるんですよ」
シャア「困ったな」
クェス 「なぜ?あたしは大佐の為なら死ぬことだってできるわ」
シャア「わかった。私はララァとナナイを忘れる」
クェス 「……なら、あたしはαで大佐を守ってあげるわ、シャア」
『逆襲のシャア』においての「貧しい愛」の例。
少女が「あなたのためなら死ぬことだってできるわ」と言い、それを言われた大人の男性が「わかった。過去の女を忘れるよ」と返す。つまり取引だ。
これで少女は愛する男に「過去の女を忘れてもらう」代わりに、死ぬことも辞さない奉仕をすることになる。
時を越えて、作品を越えて。
『∀ガンダム』において、キエル・ハイムと仮面の男ハリー・オードの男女が、同じようにコクピット内で以下の会話をする。
キエル「わかりました。なら、私をディアナにしてミドガルドに預ければ、アグリッパ達と刺し違えればよろしいのでしょ」
ハリー「ギム・ギンガナムが出てきたのです。まっすぐにアグリッパの所には行けそうもありません」
キエル「ハリー大尉にとってキエル・ハイムは、ディアナ様の影武者にもならない女でしょうか?」
ハリー「どういう意味でしょう?キエル嬢はご立派に」
キエル「私は、ハリー殿が好きなのです」
ハリー「ありがたいことです」
キエル「そういうことではありません、ハリー・オード」
ハリー「自分は親衛隊の隊長でありますから、ディアナ様以外に心を動かされることは……」
キエル「ハリー殿!」
ハリー「動かされることはござい……」
キエル「ハリー!」
「好きだとおっしゃってくだされば、アグリッパを暗殺する事だってやってのけましょうに」
ハリー「キエル・ハイム、いかように私をなぶっていただいてもよい」
キエル「……」
ハリー「あなたには、ディアナ様の盾になっていただきたい」
キエル「……」
ハリー「そのかわり愛するという愛では、それは貧しいでしょう」
『∀ガンダム』第38話「戦闘神ギンガナム」より
キエル嬢は、ハリー大尉が好きと言ってくれさえすれば、危険な暗殺だってやるという。何でもやる。命だって惜しくはないと言っているわけです。
だがハリーは、これをするから、代わりにこうしてほしい、という契約と取引による「その代わりの愛」、それでは貧しいときっぱりと本人に告げる。
あなたとの関係を「貧しい愛」にはしたくないと。
『∀ガンダム』はさまざまな意味で、『機動戦士ガンダム』という巨大な何かを終わらせる作品だが、仮面の男が始めた「貧しい愛」を、仮面の男が否定するという意味でも、大きな価値がある作品だ。
話を『逆襲のシャア』に戻す。
クェス・パラヤは、シャアとの取引を守り、モビルアーマーα・アジールを駆って戦場で戦い、最終的に命を失ってしまう。
まさに「大佐の為なら死ぬことだってできる」わけだが、そんな彼女の前に現れたハサウェイに対しての呼び方に注目したい。
ハサウェイ「クェスだろ?これに乗っているの」
クェス 「なれなれしくないか?こいつ」
※中略
ハサウェイ「駄目だよクェス、そんなんだから敵だけを作るんだ」
クェス 「あんたもそんなことを言う。だからあんたみたいのを生んだ地球を壊さなくっちゃ、救われないんだよ」
※中略
ハサウェイ「クェス、そこにいるんだろ?わかっているよ、ハッチを開いて。顔を見れば、そんなイライラすぐに忘れるよ」
クェス 「子供は嫌いだ、ずうずうしいからっ」
と、ここまでさんざん「こいつ」「あんた」「子供」呼ばわりしたあげくに
クェス 「直撃!? どきなさい、ハサウェイ!」
ここで咄嗟に、思わず「ハサウェイ!」と名前を叫んでしまうのは本当に最高だと思う。
私はここがあるから、クェスのことは絶対に嫌いになどなれない。
これについて監督の富野由悠季は「クェスのように最後の3秒間だけ人の気持ちを考えても遅いんです」と語っていたような記憶がある。
それは事実かも知れないが、「貧しい愛」の契約に囚われた少女が最後に、思わず名前で呼んでしまう少年のために死んでしまうというのは、絶望の中の救いでもあると思う。
シャアから愛をもらう為だけに、死ぬことだって厭わないはずの少女が、本気でクェスのことを見てくれる少年のために命を使えたのだから。
最後にそういうクェスであったことだけが、わずかな救いになる。
だから、この場面の結末が異なる『閃光のハサウェイ』は当然、意味が違ってくるし、『GUNDAM EVOLVE』で富野由悠季がストーリーを書き下ろしたのが、この場面の変奏、クェスを導くアムロとそれによって変化したクェスだったことにも注目したい。
『GUNDAM EVOLVE』自体はプロジェクト的に3DCG技術を用いた戦闘シーンが主目的であったとは思うが、富野監督がストーリーを書き、変化させたのが、アムロとシャアの戦闘やその結末などではなく、このクェスとハサウェイの場面であったことは、この物語で何が必要で何が重要かを示していると思う。
(世の中は広いので、この映画にクェスやハサウェイが必要ない、と仰る方もいらっしゃいます)
ナナイが確認したかったものと得たもの
いつものように脱線してきたので、ナナイ・ミゲルの話に戻そう。
ナナイは、この場面で質問(確認)ばかりしている。
・どんな独裁者でもやったこともない悪行(アクシズ落とし)をしますけど、いいんですか?
・アムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?
・(アムロへの)恋しさあまって憎さ百倍ですか?
・クェス、(実戦投入して)よろしいんですね?
こうしてみると、ナナイは本当にシャアのことがよく分かっているのだと思う。
分かっているのだとしたら恐らく、ネオ・ジオン総帥としてのシャアに対して、ここまでついてきた私達を見捨てないで、という気持ちと、恋人としてシャア本人が本当にやりたいことは止めようがない(諦めにも似た)から自由にやらせてもあげたい、という思いが同居していることだろう。
だからこそ「クェス、よろしいんですね?」に込められた意味は重い。
これは、大佐が後悔し続けているララァ・スンのような少女を戦場に出すのと同じようなことをしようとしていますよ。それでいいんですか?という問いだ。(ハマーンで繰り返し、カミーユもある意味そうだし、ナナイ自身も該当するかも知れない)
ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)はクェスにとってだけではない。
シャアもそうだろうし、彼と共に進むつもりのナナイにとってもそうだ。
またニュータイプ少女を貧しい愛で消費するというポイントを越えるんですけど、いいんですよね?大いなる目的のためですから、いいんですよね?
ナナイは彼女自身100%答えが分かっている質問をしているだろう。
彼女が質問する相手は、アムロ・レイを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」というのだから。
10年以上前のララァの死は、アムロとアルテイシアとララァ自身のせいなのだから。
そしてシャアは、恐らく彼女の予想通り、期待通りの返答をした。
「これでこそシャア・アズナブルだ」と、ナナイは思ったかも知れない。安堵といってもいい。
貧しい愛を振りまいて、ニュータイプを戦争の道具に使い、それでもスペースノイドを導く道化を演じるジオン・ダイクンの遺児。
それでこそ、私の愛するシャア大佐。
そして、そう安堵をしたならば、同時に絶望もしたろう。シャアという男の変わらなさに。
ナナイが質問と確認で得たものは、この安堵と絶望だったのかも知れない。
ナナイ「私は大佐に従うだけです」
シャア「いいのか?」
ナナイ「愛してくださっているのなら」

まとめ、もしくはあとがき
この記事で取り上げた会話シーンは、2時間の映画でわずか3分ほどですが、こうして記事が1本書けるほど、濃密で見ごたえのある場面になっています。
恋人関係にある2人の会話でありながら、決定的にディスコミュニケーションであり、それでいながら見かけ上は普通に進行していく会話。面白いですね。
この記事では、ナナイの視点から見る関係上、シャアにはかなり厳しい言葉を連ねましたが、私は『機動戦士ガンダム』のシンボルとなるキャラクターはシャア・アズナブルだと思って、愛しています。
シャアについては、色んな視点から色々な記事を書いていますので、興味があればぜひ読んでみて下さい。この記事でのシャアは、彼のひとつの面でしかありません。
また、この記事を何日かに分けて執筆していた時に『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の発送通知が届きました。
正直なところ、届いて色々気になるところを確かめて、それを記事に反映させようか迷いましたが、資料としても膨大ですし、記事をアップするのがかなり遅れそうだったので、一切見ないことにしました。
商品は届いたけれど、記事アップ後のご褒美ということにしましたので、これでやっとご褒美にありつけるという思いが大きいです。今は。
小説版も同じですが、公式記録全集を資料として参考にすることはあっても「答え」が書いてあるわけでもないので、映画を見てどう感じたか、どう読み取ったかということ自体は、自分がフィルムと向き合うしかありません。これで良かったと思います。
※追記。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の絵コンテ情報によると、舞台となる私邸は、ナナイの私邸であるようだ。しかし、その情報は物語に特に必要ないため映画に盛り込まれず、従って本記事の内容にも一切影響を与えることは無い。
ちなみに『逆襲のシャア』という、ひとつの映画作品としてはこれで全く問題がないですが、シャア・アズナブルというキャラクターの連続性として見た場合、この映画のシャアはやはり本人のいうとおり道化を演じていると言わざるをえないところがあります。
アムロとシャアの決着、初のオリジナル劇場映画、ということで、現在の言い方でいえば、魔王を演じて、無理やり舞台に勇者を引っ張り出すようなところがどうしてもあります。
だからシャア・アズナブルとしては、一世一代の大舞台を富野監督にオファーされ、それでも渋るシャアに「アムロとはたっぷりいちゃいちゃさせてやるからさ」と口説かれたような感じでしょう(最後に死ぬことは伝えてない)。
個人的には、映画を成立させるために、その程度のことは当然必要であると思っています。
そして作られたこの映画は、今なお鑑賞に耐える濃密さを抱えており、こうして私は21世紀になっても長文記事を書いているのです。
今だと各配信サイトなどで気軽に見ることができます。
初めての方も、そうでない方も、『逆襲のシャア』を楽しんでください。
それではまたお会いしましょう。
関連記事紹介コーナー
では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。
文中であとで紹介すると書いた、関連記事です。
アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」>
アムロとララァはニュータイプ同士で深くつながったが、シャアはその体験をしていないという話がありましたが、そもそもシャアはいつ「ニュータイプ」だと、アムロに認識されたのか?という記事です。
そして記事タイトルに入っているように、相互不理解と「貧しい愛」の話もしています。
僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>
「光る宇宙」にはシャアの妹セイラも関わって、重要な役割をしていると書きましたが、その話はこの記事で。
全体としては『ガンダムZZ』に至るまでの、シャアを中心としたニュータイプを巡る因果応報の話です。
落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>
想定以上にこの記事が読まれて、初めて訪問された方がかなり多いようなので紹介記事を追加。
『映像の原則 改訂版』発売記念の応援記事として、2つの小惑星およびサザビーとνガンダムの戦いを「上手・下手」の原則で解説したもの。富野アニメ系の記事では多分、私の名刺代わりの記事。
「画面構成がこうだから、ここはこういう場面なんです」という画面ありきの読み解きではなく、「こういう物語構成だから、映像を流れにしたときにこの画面構成が選ばれた」という記事になるようにこころがけました。
アムロ・レイが、宇宙世紀の最後にしてくれたこと。<『逆襲のシャア』で起きた【奇跡】>
「ララァ以後」のアムロとシャアの女性観を軸に、『逆襲のシャア』で起こった【奇跡】とはいったい何だったのか?を考えます。
この物語での【奇跡】とは、アクシズが地球に落ちなかったという些末なことではない、という話です。
サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>
「νガンダムとサザビーはどっちが強いの?」という質問はよく提示されますね。みなさんは、どちらが強いと思いますか?
この問いと「アムロの完全勝利」という実際のフィルム上の結果との関係から、νガンダムvsサザビー戦を考えます。
ほかにも『逆襲のシャア』や、シャア・アズナブルについての記事を色々書いていますので、目次ページで興味を引くものがあればご覧頂ければ幸いです。
【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
最後にもうひとつ。
私の記事ではありませんが、クェスの最終的な避難所となった「αアジール」については、おはぎさんのすばらしい記事をおすすめ致します。
逆襲のシャアにおける、αアジールの機体名の意味から考えるクエス・パラヤ論
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2144.html
前記事『シン・ウルトラマン』同様、Twitterでの感想ツイートをベースに、簡単に記事にまとめておくことにします。

映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』公式サイト
私はもちろんドラゴンボールのマンガを読み、TVアニメを見てきましたが、劇場でドラゴンボール映画をこれまで見たことがありませんでした。TVで放送してるドラゴンボール映画も部分的に見たものはあっても、頭から最後まで見たものはひとつもありません。
それなのに今回はなぜ?と言えば、TwitterのTLで信用している人たちが『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を楽しそうに話していたのがひとつ。そこで、ピッコロと孫悟飯が中心になっていることを知って興味をもったのがひとつ。
あとひとつは、最寄りの映画館でチケット買う寸前まで『ソー:ラブ&サンダー』とどちらにするか迷いつつ、窓口のお姉さんになぜか「ドラゴンボール大人1枚」と伝えたから。
飲食店でA、Bどちらのメニューかまだ迷ってるのにあえて店員を呼び、それを契機として何となくで決断する感じと似ている。(ありますよね?)
土壇場のアドリブ決断で見た、初めてのドラゴンボール映画。大変楽しかったです。
なので、いわゆるガチ勢では全くありません。
ドラゴンボール映画の基準が何もないので、『スーパーヒーロー』がそれらと比べてどうだったのかは分かりません。
それでも初めてのドラゴンボール映画は楽しかったという話です。
※ネタバレしまくっています。未見の方はご注意ください。
主役は、ピッコロと悟飯の超人師弟コンビ
未見の方も、この公開後PVを見ると、なんとなく映画の雰囲気は伝わるかと思います。
映画全体をレビューするつもりは最初から無いですが、一応、公式サイトのイントロダクション・ストーリーを引用。
STORY
かつて悟空により壊滅した悪の組織「レッドリボン軍」。
だがその意思は生きていた!
復活した彼らは、新たな人造人間「ガンマ1号&ガンマ2号」を誕生させ、復讐へと動き始める。
不穏な動きをいち早く察知したピッコロはレッドリボン軍基地へと潜入するが、そこでまさかの”最凶兵器”の存在を知るのだった……!
パンをさらわれ基地へとおびき出された悟飯も参戦し、かつてない超絶バトルが始まる!
果たして死闘の行方は!? そして、地球の運命は!?
実際にピッコロと悟飯の超人師弟コンビが主役といってよく、孫悟空とベジータは登場こそすれ地球の危機を救いません。
ピッコロと悟飯だけで最後まできっちり行くのはいいですね。それを見に来たので。
この映画での孫悟空は、ビルスの星にてベジータ、ブロリーと共に修業しています。(『ドラゴンボールZ 神と神』も『ドラゴンボール超 ブロリー』も見てないのでWikipediaを参照した)
私はもう終盤まで、それこそデウス・エクス・マキナ的にあの2人(悟空とベジータ)が来てしまうんじゃないかと、そっちにハラハラしながら見ていましたよ。
瞬間移動があるから、物理的な制約に関係なく、瞬間的に登場できるしね。
テレポート仕掛けのサイヤ人は。
ピッコロが悟飯の娘パンに修行をつけたり、ビーデルに頼まれて幼稚園に迎えにいったり、悟飯一家にとって頼れるおじいちゃんになっており、こうした前半の日常のわちゃわちゃと、レッドリボン軍が登場してからのピッコロ潜入大作戦などがやはりこの映画の楽しみどころ。
ただ、キャラクターが強すぎて本質的な危機に陥らない。
スパイ潜入で仮に見つかったとしても、レッドリボン軍の人間兵士相手に、逃げるにも暴れるにも特に問題はない。
比肩する戦闘力をもつキャラクターで無いとどうにもならない。つまり戦闘をやるしかない。
もちろんドラゴンボールはスパイアクション映画ではないので、潜入はある種のコメディシーンでしかなく、バトルこそが見せ場なので戦闘をやるしかない。
よって中盤からは、戦闘を始めるしかないがゆえに、戦闘が始まってしまう。
ドラゴンボールにおける危機
レッドリボン軍基地で本格的に戦闘が始まったあとは、基本的にバトルが物語を進め、問題を解決する。
この「あとはバトルのお仕事です」となった時にドラゴンボールの映画を見に行ったのなら喜べばいいだけなんだろうけどね。
子供なんかは待ってました!という時間なわけで。戦闘シーンのクオリティも高かったです。
これは、ドラゴンボール映画に見に来ておいて「あとはバトルのお仕事です」に不満があるというわけではなく、ごく単純にここまで強いキャラクター揃いだと、映画のサイズで、ひとつの物語を作るにあたり、色々苦労があるだろうなと思ったのだった。
映画的な危機(物理的でも精神的でも)に陥らせるのが非常に難しいので、この映画でも単純にいえば「ものすごい強いやつが殴ってくる(だから戦闘が発生する)」にはなっている。
それで戦闘になって大ピンチになって逆転して勝つので問題はない。
だって『ドラゴンボール』の映画なんだから。
これに何か物理的な制限をかけようと工夫すると、悟空を子供に戻して瞬間移動もなくした『ドラゴンボールGT』みたいな処理が必要になってしまう。『GT』全部見てないけど、その設定にしたい気持ちはよく分かる。
ただ私はドラゴンボール映画を全く見ていないので知らないだけで、恐らくこれまで映画のためにさまざまな工夫やチャレンジがされてきたのだろうと想像します。
ちなみに「キャラクター強すぎる」問題を極端に推し進めていくと、『ワンパンマン』につながっていく気はする。
サイタマがワンパンチすれば戦闘は終わる。
だからこそ、ワンパンチするまでの他のヒーローたちの奮闘と葛藤こそがドラマの中心となる。
その意味では映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、『ワンパンマン』型のサイタマ以外のヒーローの活躍を見る物語。
最後まで悟空とベジータが現場にやって来ないので、いわゆるワンパンチが放たれることはないですが。
神龍の3つの願いを、何に、どう使うか?
この映画ではちゃんと、ドラゴンボールと願いを叶える神龍も登場します。
ブルマが集めたドラゴンボールを使って、ピッコロが呼び出し、自らのパワーアップに使用。
これにより、ピッコロが最後まで最前線で戦えるようになっています。
ちなみに残り2つの願いは、ブルマのささやかなアンチエイジングに使われますが、20代への若返りとかではなく、ちょっとしたエステ程度のささやかさ(しょうもなさ)なのが興味深かったですね。やるべきことをやってきたブルマとしては、別に年齢を重ねること自体は否定することではないということかな? いいですね。もちろん美容自体には気を遣うけれど。
この映画では、こうして神龍の3つの願いを決戦前に済ませてしまい、地球からビルスの星にいる悟空たちを呼び寄せる手段を事前に無くす処理がされているわけです(でも悟空側が一瞬で移動する手段はあるので、最後までハラハラはするわけです)。
例えば、この神龍を終盤まで温存しておくパターンはどうかな?
決戦中の土壇場で7つのドラゴンボールが揃い、神龍を呼び出して、ピッコロがパワーアップする。
叶える願いが3つもあるので逆に処理が難しいんだけど。
3つ目の願いで悟空を呼び寄せるか、それとも瀕死で絶体絶命の悟飯を全回復させるかの二択で、ピッコロが悟飯選ぶとか。瀕死のサイヤ人の復活=パワーアップイベントでもある。
もしくは逆に、悟飯がお父さんを呼ぶか、ピッコロ助けるかで、ピッコロ選ぶとか。
神龍での悟空召喚をピッコロ達がうっかり気づかず使い果たすことの必要性は理解するけど、ピッコロが主体的に悟空召喚を拒否し、悟飯の可能性にかけて、最後の3つ目の願いをあえて悟飯につぎ込む、とかどうかな?などと劇場で見ながら考えていた。
劇場鑑賞から何日も経過した現在は、ブルマのしょうもない願いで選択肢無くすほうがドラゴンボール世界としてはよいか、と思っている。
これは、単にコメディタッチの緩さの話だけでなく、今回の映画そのものの本質に関係してくるが、これは後述しよう。
何かのために魔貫光殺砲を使えるように
『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』では、大魔王でも神でもなく「ただのピッコロ」と本人が言うシーンが複数回ある。
それは本当にそうで、孫のようなパンの面倒を見るピッコロは、大魔王でもなく神でもない。
とはいえ悟飯一家の心配して、(彼らが生きる)地球の心配して、先回りにしてあれこれ手を打ってと、結局は神様のようなことをしているんだよね。
完全におはようからおやすみまで、暮らしを見つめるピッコロだが、見つめる暮らしは悟飯一家だけでなく、この星全体の暮らしになっている。悟飯一家が住む星だからなのか、神の一部がそうさせるのか、ピッコロ本人にも分からないだろう。
外敵から地球を守るための動機とやり方が、やはりサイヤ人連中とは根本的に違うように感じる。
そのピッコロが、生物学者になった悟飯のやりたい事(研究)を尊重してるのは、忙しいからと幼稚園へのお迎えを頼まれて結局引き受ける事でも分かるけれど、悟飯には研究ばかりでなく、何かあった時の為に鍛えておけよと忠告する。
実際にそのあとすぐにレッドリボン軍によって「世界の危機」が訪れるわけだから、さすがサボらずに魔貫光殺砲を開発した人。的確なアドバイス。
生粋の戦闘民族である悟空やベジータには何かあった時の為に鍛える、という発想自体が恐らくないのでは。
体鍛えて、修行のために戦ってというのは、目的がなくてもやる。有事に備えなくてもやる。それがサイヤ人にとっての普通であり日常という気がする。
まあ悟飯への「何かあった時の為に鍛えておけよ」は、半分は言葉通りでも、もう半分は「仕事は分かるけど、お前もたまにはオレに付き合え」という意味だろうとは思うけど。
ピッコロと悟飯たちによって守られたもの
「世界の危機」といっても、ピッコロが手早く動いて、自ら潜入活動までしたおかげで、レッドリボン軍が本格的に復讐に入る前に、その野望は砕かれる。
よって戦闘の舞台としては、序盤の顔見せを別とすれば、レッドリボン基地しかなく、そこだけで問題は解決される。
だから地球のほとんどの人たちは世界レベルの危機にあったことに気づいてないはず。
神ではないが、ただのピッコロさんが東奔西走して、穏便に皆の日常を守った、ほぼ誰にも気づかれることなく、という構造の映画である。
こういう構造の作品の場合、メインのストーリーラインと並走するサイドのストーリーを展開することがよくある。
ヒーローが非日常の対応に奔走する中で、何とか表側の日常が守られた。
例えば、子供のパンが楽しみにしている遠足に行く、とかね。
子供の日常を守るために、ヒーローが体を張るなんて典型的だ。
しかしピッコロの狂言誘拐により、パンも最前線(レッドリボン軍基地)に来てしまっている。
では、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』での日常サイドとは何か。
それは多分、ビルスの星での、ベジータvs悟空の死力を尽くした大激闘。
ベジータと悟空が何にも考えず精根尽き果てるまで戦い合う時間。
あれこそがピッコロが守ったものであり、メインのvsレッドリボン軍に並行するサイドストーリーなんだろうと思う。
何とも物騒ではあるが、これがサイヤ人の「日常」で、今回の話では悟空を呼ぶ呼ばないという以前に、悟空とベジータはその日常を守られる側のキャラクターになっている。
悟空とベジータが、ビルスの星で修行をしている。2人は腕試しの試合を始める。
だが、神龍の願いはブルマに消費されるし、ウイスへの連絡もアイスクリームのカップごときが邪魔してつながらない。
しょうもないことや、小さな偶然で、悟空が地球へ戻って新しい敵をやっつけてくれるという可能性がなくなっていく。
では、地球と隔絶したまま延々と続く、ベジータvs悟空戦とは一体何なのか。
悟飯とピッコロの映画とはいえ、DB2大スターに出演機会を作るための、単なるサービスなのか。(もちろん、そういう面も多少はあるだろう)
戦いが始まったとき、私は劇場でそう思った。でも違った。
『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、本来の主人公である孫悟空こそが新たな敵を倒すべきなのに、何かと理由をつけてそれをしない映画、ではない。
ピッコロと悟飯は、多くの人に気づかれることなく地球の平和を守ったのと同時に、悟空やベジータの「日常」をも守った。
悟空vsベジータは、単なるサービスではなく、その尊い「日常」の象徴になっていると私は見る。
誰のためでも、何かあった時のためでもなく、ただ自分自身がやりたいからする、ハナクソほじる力も残っちゃいねえほどのバトル。
満足気に倒れる2人は、映画の最後まで、地球でどんなピンチがあったのかを知らない。
シビアすぎない、好ましい緩さが許される映画世界
そのために、ピッコロが、幼稚園の迎えにいったり、潜入捜査したり、仙豆を回収したり、神龍呼び出したり、悟飯復帰のお膳立てしたりと、八面六臂の大活躍をするわけです。
神じゃないと言いつつ、地球(日常)の守護者になってしまってるピッコロを楽しむ映画であることは間違いないでしょう。
逆に言えば、Z戦士……とは言わないか。地球が誇る超戦士全集結でなくても、ピッコロとブランクのある悟飯で何とかなった事例ではあるので、そのぐらいのスケールの話ではあるし、ピッコロの早め早めの行動で未然に防いで地球規模の危機にもなってない。
だから仮にベジータや悟空がいれば、もっと早く事態が収まった可能性はあるだろう。
強いカード2枚を抜きにして、それでも勝てたわけだから、事実としてはね。
でもだからこそ、神龍をブルマのしょうもない願いで消費したり、悟飯復帰の為の狂言誘拐といえども、パンを戦闘現場に連れ出したり、フュージョン大失敗だったり、それぐらいの緩さ(それこそ愛嬌と言ってもいいと思う)を許容する作品世界にはなっている気がする。
つまり、地球人類が全員殺されるかどうかのようなシビアな話ではない。
ネットでよくいじられているが、全員死んでもドラゴンボールで全員生き返らせればいいなど、あんなことを悟空に言わせなくてもいい世界ということでもある。
ただ本来の鳥山明の世界はこれぐらいの、ギャルパン(ギャルのパンティおくれ)や、まつげエクステ2mmは全然OKのはずなので、そういう意味では正しく、鳥山明作のドラゴンボール映画だったと思います。
この緩さと、悟空抜きでも問題解決できるスケールとバトルを、物足りないと思う人もいるかも知れませんが、私はむしろこういうものが見たかった、と思えました。なので初ドラゴンボール映画、楽しめました。そう思える方、おすすめします。
ということで、悟空とベジータがイチャイチャする空間を、ピッコロが守りつつ、その息子とイチャイチャする映画こと『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』大ヒット上映中!ぜってえ見てくれよな!(もう終わっちゃう……見れる人は早く見て!)
公式サイト 『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』劇場リスト
https://toei-screeninginfo.azurewebsites.net/theaterlist/02851
『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』については冒頭に書いたように、TwitterのTLで楽しそうなツイートを読んだのがそもそも見るきっかけでしたし、鑑賞後にも私の感想ツイートにリアクションしてくださった方たち無しには、色々と思索を広げることができなかったと思います。とても感謝しております。
持つべきものは、おはようからおやすみまで信頼できるTLですね。
今までやったことないけれど、見た当日にちゃちゃっと冷蔵庫(自分の中)にあるものだけで1品つくるように書いてみます。
何も参照しないし、元々ウルトラマンに詳しくないし、書きたいところだけ書いて総論的なことは最初から放棄します。
※当社独自のネタバレ―ションテクノロジーにより、要するにネタバレしまくっています。未見の方はご注意ください。
TV版『シン・ウルトラマン』の総集編映画
総論としてまとめはしませんが、全体的な印象をいえば一種の総集編映画ではあるでしょう。
ウルトラマン登場前に「禍威獣(カイジュウ)」が何体か出現し、「禍特対(カトクタイ)」がそれを退治しています。
(この当て字をコピペするために、結局、Wikipediaページを見てしまった)
兵隊怪獣バボラーや、エーテル生命ゲゲラギロンもきっと退治されていることでしょう。
ウルトラマン登場後もいくつかの怪獣、星人が登場し、それらを撃退して映画は終わります。
開幕2秒で怪獣登場、即退治の流れに笑いましたが、まあ怪獣が出現する世界でないと、科学特捜隊は設立されないし、退治の実績もないと、対策の中心に置かれないし、で前史が必要と理解しました。
この映画を見て、『新世紀エヴァンゲリオン』を連想する人も多かったようですが、そもそもルーツのひとつですし、むべなるかな。
この、なんでいきなり「敵」が出現して、日本だけが狙われるのか、という当然の疑問を早めにうまく説明するのではなく、思わせぶりな謎にして、物語の興味として引っ張っていくメソッドってあの当時、本当に効果的だったなと思いますね。
もちろん『シン・ウルトラマン』では、もうそんなことはしていません。
ウルトラマン誕生と神永の献身
序盤、ウルトラマン登場と融合の流れ。
主人公・神永 新二(斎藤工)は、避難できていない子供を発見し、「私が保護します」的なことを言って、班長の田村(西島秀俊)も了承して、作戦本部を抜け出していく。
そして子供を保護し、ウルトラマンの地表衝突の衝撃から子供を守って命を落とす。
これがウルトラマン誕生の段取りだから流れは分かるんだけど、作戦本部には多数の自衛隊員がいるのに、5人しかいない「禍特対」のスーツ組の神永がわざわざ席をはずして、子供を保護しにいくのが不自然でもう少し何とか自然にならないのかな、と思えた。
この時の神永の献身は、ウルトラマンの心を動かすものであったと後に明かされるけれど、恐らく自衛隊員でも子供を守って命を落としただろう。同じことをしただろう。
これはただの偶然。そこに誰がいても同じことをするけれど、たまたま神永がその場にいて、命を落としたからウルトラマンになった、でもいいのかも知れない。が、その「たまたまその場にいた」がすごく不自然なんですよね。
例えば、神永が一人だけ外にいないといけない自然な理由を作るか、もしくは自衛隊員数名を連れて子供を保護にいくが、衝撃の瞬間にとっさに子供を抱えて吹き飛んだのが神永という感じで特権性を与えても良いのではないかと感じた。
ウルトラマンと彼
これは難癖ではなく、単なる素朴な疑問と前置きした上で。
『シン・ゴジラ』がそうであったように、ウルトラマンが存在しない世界に現れた銀色の巨人は「ウルトラマン」と呼称され、「彼」と呼ばれる。
これ、なんで「マン」で「彼」なんだろうな、と考えると色々と興味深い気がする。
ウルトラマンだから、マンだし、彼なのは当たり前だろう、という話なんだけど、例えばあれが本当に現実に現れたと想像するときに、マンで彼にするだろうか、いや人型ゆえに、そして人間の女性の身体的特徴が見えないゆえにやはりマンで彼になるだろうか、などと、どうでもいいことをマンで彼である私は思ったりした。
バディ関係を結ぶ者、上下関係を結ぶ者
この映画では、ウルトラマンと神永が融合してバディ(相棒)関係にあることを軸に、「禍特対」内での神永と浅見(長澤まさみ)とのバディ関係、さらにいえば、人類と外の星から来た知的生命体としてのウルトラマンとのバディ関係が強調される。
浅見と神永のバディ関係は、これがTVシリーズであればその関係性の構築をじっくり楽しめたことだろうが、総集編的映画なので、どうしてもそのつながりを支えるイベントが弱い(少ない)。
「禍特対」オフィスで、机を挟んで対面している浅見と神永だが、神永の机の周りにはテトラポッドが置かれている。
これはウルトラマンである秘密を隠している神永が、物理的にも心理的にも敷いている壁だろうが、これもTVシリーズであれば、その変化を色々と楽しめただろうと思う。(りんごが、切ったウサりんごになったり)
まあ、このテトラポッドは神永が人類に対しての消波ブロックの役割でもあることを示しているんだろう。テトラポットのぼって、てっぺん先にらんで、宇宙に敵飛ばそう。(「ボーイフレンド」の歌詞だとテトラポット)
その意味では、人間(日本政府)に従属を強いるザラブ星人はもとより、上位存在として認めろというメフィラスも当然、バディ関係は結べない。
だから単純に地球を襲うような怪獣より、そういう役割を果たせる外星人が選ばれたんだろうけれど。(でも、ウルトラ的な思い入れがあまりないので、ザラブ&ニセは省略できないかな、と思ったりもした)
そしてそれはゾフィー(ゾーフィ)にも同じことが言える。
メフィラスがウルトラマンとの戦闘中、ゾフィの監視に気付き、あれだけ地球にこだわっていたのに、やべーの来たからずらかるぜ、と身を引くのが面白かった。
確かに今作のゾフィーはやばい。
地球と人類を絶滅させるための兵器ゼットンを持ち込んでくるのがゾーフィなのだから。
発進!未完の最終兵器ゼットン
ゾフィーが発動させたゼットンが展開されていく。シルエットがロールシャッハテストのようだ。
これはまさに人類に対するロールシャッハテストなんですよ!(何か言っているようで何も言っていないコメント)
例の「1兆度の火球」で人類を滅ぼそうとするわけだが、記憶が確かなら、これに対する神永の説明が足らないのでは。
ゼットンが展開を終わり、「1兆度の火球」を放つまで、ある程度の時間がかかることを説明するセリフが無かったように思う。
これは具体的でもいいし、単に曖昧に時間がかかることだけを伝えてもいいと思う。
これが分からないので、いわゆる人類滅亡へのカウントダウンのスケールがうまく掴めなかった。
実際に、作中ではウルトラマンがゼットンに挑んで敗北。入院して、「禍特対」で滝がヒントを掴んで、国際会議も開き、対策を考えて、神永が目覚めて、再びゼットンに挑むまで、結局最後まで「1兆度の火球」は放たれない。
タイムサスペンスが無いなら無いでもいいと思うんだけど、結果から言えば「1兆度の火球」自体は特に人類の脅威では無かった。
あと映画見る前にTwitterで見かけた「ガンド・ロワ」はこれのことか、と納得もした。
決戦前。浅見に「行ってらっしゃい」と送られ、「行ってくる」と答えて変身し、ゼットンに向かうウルトマン。
作戦は成功し、帰還しようと必死で飛ぶがついには逃げ切れない。
ここはもう素直に見ながら、「ごめんキミコ、もう会えない!」だな、と思いながら見てました。
―― 1万2千年後。
ウルトラマンが太陽系に辿り着き、地球を見れば、地球には明かりが無い。
ああやはり、私がいない間に人類は外星人によって滅ぼされてしまったのか。
そうウルトラマンが思った瞬間、地上に小さな明かりがつく。
そのひとつひとつの小さな明かりが集まり、ひとつの言葉が浮かび上がっていく。
山本耕史「オカエリナサイ、私の好きな言葉です」
メ、メフィラス!<『シン・ウルトラマン』完>
境界線上の、狭間の存在ウルトラマン
色々といびつな所や思い切って割り切ったところもある映画で、『シン・ゴジラ』を同じく完璧さを目指した作品ではそもそも無いと思うので、それらがあることは前提として呑み込んだ上で、ウルトラマンなどへの思い入れなどで加点すればよく、いわゆる減点法で語っても、あまり意味がない作品ではあるでしょう。
私個人は、幼少期はウルトラマンと仮面ライダー大好きっ子でしたが、その後『機動戦士ガンダム』に出会ってから、そちらへ行ってしまった人間です。
幼少期のアルバムを見れば、すべて光線ポーズかライダー変身ポーズで写真に映っていたのに、ある時期から棒(ビームサーベル)を構えた姿に変わる。ここでガンダムを見たという境目が一目瞭然。
それからはウルトラマンを追い続けてはいませんが、それでもカイジュウとウルトラマンのバトルを十分楽しみました。迷っている方がいれば、見てみると良いと思います。おすすめします。
特撮やウルトラマンに詳しい方は、この作品をより楽しめると思いますが、私程度でも十分楽しめるのは、マーベル映画シリーズ(MCU)などと同じですね。
幼少期の私を思えば、子供視点とか民間人視点とか一切なかったなと思いますが、子供の頃、あてがわれたような子供視点キャラは好きではなかったし、作り手側的にも得意でないことはやらず、得意なことにリソースを費やすという意味では妥当(こういうのも完璧さではなく割り切りの選択)なのかな、とも思います。
そして、ウルトラマンと人間・神永が融合し、中間的な、境界線上の存在になったのを見て、やはりこれこそ主人公の王道のひとつだなと感じました。
ウルトラマン側から見れば、言ってしまえば『アバター』や『ラスト サムライ』であり、外部から来ながら現住人類に興味を持ち、そちら側に立つことにした男の物語でもある。
これは富野作品でいえば、『聖戦士ダンバイン』のショウ・ザマであったり、『∀ガンダム』のロラン・セアックだったりします。
ということで、何の話をしても最後は富野作品の話をしてしまう、というのがアドリブの書きなぐりでも証明されたところで、終わりといたしましょう。
普段は、富野由悠季ロボットアニメを中心にした記事を書いています。
もし興味があれば、以下の目次ページから良さそうな記事を物色してみて下さい。
【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
『機動戦士ガンダム』からRX-78、主役ロボットであるガンダムが登場するということで公開前から話題になりました。
このガンダム登場シーン。
初代ガンダムが、後のシリーズ作品である『ガンダムZZ』の主役機ZZガンダムの決めポースをするということで、Twitterなどで違和感の表明や批判なども見かけました。
また、これに対する批判として、制作側のコメントを引用したり、(何らかの)愛はあるのだ、というような弁護も見受けられました。
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私はこの予告編を見た時に、ZZポーズがどうこう以前に、物語の設定上のこともあるだろうけど、ガンダムへ「変身」することにアメリカっぽさを感じました。自分自身がガンダムになる。俺がガンダムだ。
日本で同じようなシーン(ガンダムで戦う妄想の具現化)がつくられるとしたら、恐らく白いノーマルスーツを着て、コクピット内で後ろから照準をぐいっと前に持ってくるというコクピット内のアムロの動作を「見得」として表現するような気がします。
日本のロボットアニメ的には、ロボットを操縦する少年(アムロ)になりたいからね。
例外的なZZガンダムのヒロイックポーズ
『レディ・プレイヤー1』でのガンダムは、オンラインゲームのプレイヤー(ダイトウ)が使用する一種のアバターのようなものなので、物語設定上でもガンダムへの「変身」で問題はなく、そこを踏まえておくことは重要でしょう。
このシーンで、ガンダムと一体化した変身を完了したダイトウに「見得」を切らせたい、と考えるとしても、ヒーロー物のような分かりやすい「見得」は『ガンダム』(特に富野ガンダム)にはほとんどありません。
それでもあえて富野ガンダムから引用したければ、必然的にZZのあのポーズが選ばれる可能性は高いのではないでしょうか。
確か『レディ・プレイヤー1』のスタッフ発言では選んだ理由として、シンプルに「かっこいいから」というような事を語っていたと思いますが、そもそもシンプルに「かっこいいヒーローポーズ」を探しても選択肢はかなり少ないわけです。
個人的には、愛がない/あるなどの批判や弁護以前に、これが本質的なところであり、なおかつ興味深いところだと思っています。
例えば、ZZの合体シーンを手がけたという越智博之さんのツイート。
レディ・プレイヤー1 のガンダム出撃。空中で一瞬取るあの決めポーズの元ネタは、やっぱりコレなんだろうか。
— 越智博之 (@Corporate_X) 2018年4月19日
実はコレ、自分が描いたものなんだ。えらい昔の仕事だが。#レディ・プレイヤー1 pic.twitter.com/flwPQBQKmM
シリーズの途中からZZの決めポーズが無くなったのは、富野さんの意向です。監督が手を入れたコンテで具体的な指示が出ています。
— 越智博之 (@Corporate_X) 2018年4月19日
自分は#1のときZとは意識を変えてコミカルな芝居を入れろと演出に指示しているのを見てスーパーロボットに寄せてみたんですが、どうやら好みではなかった様子で。
この合体バンクが許されるようなコメディタッチで『ガンダムZZ』の物語は始まりましたが、後半にシリアス路線への修正があったことが、決めポーズの消失に影響があったのかも知れません。
それはマシュマー・セロやキャラ・スーンといった、前半のコメディ路線で活躍したキャラクターが、後半の物語に登場するために(強化人間として)人格を変更させられたのと同じように。
もちろん全体の話として、富野監督が自分が手がけたロボットアニメ作品内での「かっこいい決めポーズ」が好みではないというか、ひとつの方向性として意図的に取り除いていた、ということもあるでしょう。
ZZガンダムのあのポーズにしても、操縦するロボットという観点で言えば、ロボットの動作は全て操縦の結果であって、あの決めポーズをわざわざ操縦しているのですか?という話ですし、仮に合体バンクよろしく、合体時のオート機能の賜物であるならアナハイム正気ですか?という話にもなるわけです。蛍原さん、正気ですか?(ケンコバ)
ちなみに今川泰宏監督の『機動武闘伝Gガンダム』では、モビルスーツによるケレン味あふれる「かっこいいポーズ」が頻出しますが、エクスキューズとして、この作品のモビルスーツはパイロットの動作を再現(=トレース)するモビルトレースシステムを搭載しており、ダイトウのガンダムアバターと同じく、操縦ではなく一体化した状態です。
ガンダムの動きやポーズは、モビルファイター(格闘家)の動きやポーズそのものなので、何も問題はありません。
『レディ・プレイヤー1』でのダイトウのガンダムは、そういう意味では『Gガンダム』に近いものといえるでしょうね。
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登場シーンのあとの戦闘シーンはどうなのか
ちなみに、予告編を見たあと、実際に劇場で『レディ・プレイヤー1』を見に行きましたが、ガンダムでの戦闘シーンは(映像としての)ガンダムっぽさはありませんでした。
アムロっぽい動きもないですし、戦う相手である巨大なメカゴジラをビグザムに見立てたようなカット割りもありません。
ですがこれはアバターで変身したダイトウによるアクションシーンなのですから、当然なのです。
ただ、予告編のZZポーズでどうこう騒ぐ意味は肯定であれ否定であれ特に無いと思いますが、この戦闘シーンの方が「ヘイ!アメリカンにカッコよくしといたぜブラザー。クールだろ?」感は正直あります。
アムロの操縦ではなくダイトウのアクションなので、もちろん間違ってはいない.。
間違ってはいないが、ガンダムっぽさがあるかどうかといえば、特にガンダム感はない。
とはいえ、登場シーンに関しては『レディ・プレイヤー1』はハリウッド映画であることや物語の設定、それを踏まえた登場時の演出上の要請を考えると、選択肢の少なさからZZのポースが選ばれるのは妥当ではないか、と個人的には思います。
『ZZ』への愛とか、あれがいちばんカッコいいガンダムのポーズかどうかとは以前の問題として。
「ガンダム、大地に立つ」と「ラストシューティング」
と、いうわけでヒロイックな見得切りポーズが少ないファーストガンダムですが、日本人的な感覚だと、ガンダムが胸から排気しながら立ち上がり目が光る、いわゆる「ガンダム大地に立つ」シーンだけでも、充分にヒロイックさを感じているような気がします。
単に寝てるところからよっこらせと立ち上がっているだけなのですが、『機動戦士ガンダム』の、そして今となってはガンダムシリーズの極めて象徴的なシーンですからね。
ファーストガンダムには他にも印象的なアクションがいくつかありますが、第一話の「ガンダム大地に立つ」と合わせて、もっとも有名で人気があるのは最終話の「ラストシューティング」ではないでしょうか。
シャアが乗るジオングとの最終決戦で頭部と片腕を失ったガンダムによる、長い戦いを締めくくる最後のアクション。
以前の記事に書いたことがありますが、『機動戦士ガンダム』最終局面での、ガンダムの頭と片腕の吹っ飛ばしは、最後の大サービスといえるでしょう。
子供時代から、頭(と片腕)を失ったガンダムには最終回ならではの特別感(サービス)を感じていたと思います。
子供の私は大喜びだったわけですが、あの場面で傷ついていくガンダムにガックリきたり、テンションが下がったという人の話は、少なくとも私の経験では聞いたことがありません。
頭と片腕がなくても、生理的嫌悪感も倫理的罪悪感も感じる必要はない機械の体。
要するにこれこそがロボットという肉体だと思うんです。
いくつかの意味で傷つくことを(簡単には)許されない、事実上のスーパーロボットだったガンダムが、身体に欠損を生じながらも戦う姿、これこそ「傷つくことを許された肉体」であるロボットならではの戦闘シーンです。
「たかがメインカメラ」と言えるすごさ
『機動戦士ガンダム』はシリーズ化され、さまざまなガンダムという機体が生まれますが、角つきのあの顔であればガンダムというぐらいに、顔自体がヒロイックなシンボル(物語内でも商業的にも)となっています。
その顔がジオングの攻撃によって失われた時、アムロはこう言い放ちます。
アムロ「まだだ、たかがメインカメラをやられただけだ」
これはかなりすごい台詞で、ガンダムのシンボルであるあのヘッドが、アムロ・レイにとっては「たかがメインカメラ」であるというのは、のちにリアルロボットと呼ばれるこの作品らしい認識であると思います。
さらにはメインカメラという重要な機能を失っても、ニュータイプであるこの時のアムロなら戦える、シャアのジオングを追える、という『機動戦士ガンダム』だからこそ到達した最終話の台詞でもあります。
私は未読なのですが実際、マンガ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』では頭部を失ったら戦えなくなるという描写があるという話も聞きました。
ガンダムサンダーボルトで個人的に好感度高いのは、アタマを吹っ飛ばされたモビルスーツがみんな戦えなくなるところですよ。吹っ飛ばされても平気なくらいなら、最初からアタマなんてつけませんよ。大事だからついてるんですよ。
— もくば (@soratobu_uma) 2016年3月20日
ロボットの頭部が重要なメインカメラやセンサーの機能を持つ部位であるという世界観で、それを失えば、普通の人間だったらまともに戦うのはかなり難しい、というのは想像はつきます。
アムロの台詞は、ヒーローロボットの頭を「たかがメインカメラ」であるというリアリティに置いた上で、飾りでなく機能をもった頭部を失っても、なお戦えるニュータイプが登場したこの作品ならではの発言と考えると、大変興味深く、すばらしいものだと感じます。
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「RX-78 ガンダム」のアイデンティティ
さらに言えば「ラストシューティング」のシーンでは、オートで動く無人状態で、パイロットのアムロは搭乗していません。
つまり「ラストシューティング」は、ガンダムの顔も無い、主人公のアムロも乗ってない、何だかよく分からない片腕のロボットが演じるラストシーンなのです。
しかしTVシリーズ第43話を、映画でも3本の劇場版を見てきた者にとって、あれは紛れもなく応援してきたガンダムで、直前にアムロと分離したことで、より純粋にロボットとしてのヒーロー性、シンボル性が高まったようにも思えます。
顔のないロボットによるラストシューティングは、今も『機動戦士ガンダム』屈指の名場面としてシンボル化されています。
ガンダムの顔ついてないのに。 主人公が乗ってないのに。
映画『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』では、このラストシューティングがポスター化もされています。
(検索したらちょうどAmazonでこのポスターが出品されていた)
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TVアニメ作品の映画化であり、すでに「ラストシューティング」が名場面として認知されていたとはいえ、そして他にもポスターがあるとはいえ、大胆なポスターです。
『機動戦士ガンダム』と言いつつ、肝心のガンダムの顔がどこにもないわけですから。
それでもこのポスターが作られたのは、玩具(商品の顔)として、キャラクターとして、大事な頭部を失っているけれども、ラストシューティングをするあのロボットというのはガンダムでしかありえないのだ、という事なのでしょう。
ガンダムフェイスを失ってなお、いや失ったからこそ成立するキャラクター・アイデンティティ。
のちのシリーズが示すように「あの顔」を持つロボットこそが特別なモビルスーツ「ガンダム」と呼ばれます。
でも始祖たるファーストは、「あの顔」を失っても「ガンダム」と呼ばれる境地に到達している、といえるかも知れません。
頭部などたかがメインカメラだと、そう言えるニュータイプによって。
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おまけ『宇宙世紀残侠伝 片キャノンの政』
ラストシューティングと言えば有名なのは、ここまで書いたように当然ガンダムのあれです。
しかし同じく最終話、リックドムに一撃もらうものの、倒れ込みながらの片キャノン(片乳的な表現)で通路の先のリックドムを撃ち抜いた、ガンキャノンのラストシューティングもかなりの美技で、個人的には大好きです。
え?ガンタンク? ハヤトは……ハヤトは……がんばってたよ!うん、がんばってた。
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もしガンキャノンのパイロットになれたら、あの倒れ込みながらの片キャノンの練習だけしようと思います。
そして、「片キャノンの政(まさ)」みたいなあだ名で恐れられるぐらいになって、
「キャノンを2発とも同時に撃っちまうのは素人のすることよ」
「お、おめえは片キャノンの政!」
といった感じで背後から颯爽と登場したい。
「か、片キャノンの政……知ってるぜ。奴の片キャノンで仕留められなかった機体はねえ」
「……じゃあ両肩にキャノン積まなくていいような?」
「バカ野郎!奴は前方と直上の敵を同時に左右の片キャノンで撃ち抜けるって話だ」
「見ろよ、なんてえキャノンさばきだ……」
「奴のガンキャノンの赤は、返り血を浴びた真っ赤な血の赤よ!」
……片キャノンの政、同時に2発撃ってるな。
まあ、彼にとって同じところに2発同時に撃ちこむのは無意味ぐらいの意味かな。
いや、どうでもいい。片キャノンの政の発言の整合性なんて死ぬ程どうでもいい。
ていうか、そもそも片キャノンの政ってなんなんだよ。誰だよ。
関連記事
「ロボットチャンバラ」としてのガンダム<ビームサーベル戦闘論>
本稿でも触れた「傷つくことを許された肉体」であるロボットの戦闘シーンについての記事。
ガンダムが「ガンダム」である意味
ファースト以降のガンダムは物語的にも、メタ的にも全てフェイクである、というまとめ。
ファーストとは違い、フェイクだからこそガンダムフェイスの存在が重要であって、失うわけにはいかないものになっています。
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記事タイトルは、釣りというか、とんちです。
映画『バケモノの子』については、これまで2本の記事を書きました。
子育て西遊記 in ケモ街diary <映画『バケモノの子』と中島敦『わが西遊記』>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-237.html
東京都渋谷区「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件<映画『バケモノの子』の「父子」と「普通」について>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-238.html
※本記事も含め、当社独自のネタバレーションテクノロジーにより、全編に渡ってネタバレしております。
特に2本目の記事では、物語について、私自身が疑問に思うことを確認しながら考えています。
その中で、大きくスペースを割いて書いたのが、「バケモノの父・熊徹と、主人公・九太(蓮)が、親子ゲンカでもして親離れ・子離れせず、逆に一体化してしまうこと」に対する疑問でした。
ステレオタイプの古い頑固親父として描かれた熊徹と、現実世界での進学を考えている九太の間には、進路に対する家庭内対立がありました。
しかし、この対立はその後の「一郎太事件」もあり、曖昧なまま解消されることになります。
熊徹は最後まで九太を子供扱いして、「我が身を犠牲にしてでも我が子を守る」を文字通り実践します。
実際のところ、九太との修行によって熊徹は強くなれましたし、猪王山との決戦も九太なしでは勝てなかったでしょう。一方的な保護・被保護の関係ではないと思います。
それにも関わらず、あくまで親と子の関係にこだわり、九太のために身を尽くす熊徹。
結果的に熊徹が消えたことで、現実世界へ九太を返すことになりましたし、心の剣は進学はもちろん九太が生きる支えになるとは思います。でも、正面から九太に向き合って、二人で答えを出したわけではないんですよね……あくまで父による独断、一方的な愛情表現に過ぎない。
この展開に、父親または男性としての都合の良いロマンチシズムを濃厚に感じてしまいました。
私自身が父親という立場を経験したことがない、という受け手の問題も要因としてあるとは思いますから、「オヤジの愛情とはそういうもの」「自己満足だが、だからこそいい」という意見もあるかも知れません。
ともあれ、私としては「熊徹と九太の一体化」に対して、感動というよりは、違和感、疑問を感じてしまったわけです。
「熊徹と九太による感動のシーン」の肯定
そこまで熱心に調べたわけではないけれど、ネットでの『バケモノの子』の感想や反応を見る限り、映画はおおむね好評なのではないでしょうか。ラストの「熊徹と九太の一体化」についても基本的には感動を呼ぶシーンとして、受け入れられている印象を受けます。
興行収入50億円突破、おそらく60億円近く稼いでいる映画ですから、その結果から見ても、多くの観客が作品に期待を寄せ、そして観客の望むものを提供できているのだろうと思います。
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私としては否定的な「熊徹と九太の一体化」シーンも、このラストこそが求められているものだった、ということなのでしょう。
実際に、このシーンで涙したり、多くの感動を呼んでいるのはまぎれもない事実ですしね。
ですから、この事実を一旦受け入れた上で、この映画をもう一度考え直してみることにしました。
つまり「熊徹と九太が一体化する」という展開は、この映画にとって正しいものであった、というスタンスを取ることになります。
これは、前回書いた自分の記事を真っ向から否定するものになるのですが、それはやむをえません。
前回までに書いた諸々のことは一旦忘れることにしましょう。
何か新たな視点を得ることができればそれで良いのです。
「熊徹と九太が一体化する」ことを捉え直す上でポイントとなってくるのは、熊徹と九太ではなく、九太の実の父親だと私は感じています。
この実父を足掛かりに考えてみることにしましょう。
二度のピンチを救った父と救ってくれなかった父
物語の後半(ラスト)は、一郎彦が変化した巨大な白鯨が出現し、大混乱の渋谷が舞台となります。
バケモノの世界「渋天街」ではなく、現実世界で決着するわけです。
それにも関わらず、九太の実父はラストには一切関与をしません。
九太の実父は、久しぶりに会う子供との距離感が上手くつかめず、子供の意志を尊重しているようでいて、その心に土足で上がりこまない代わりに、まったく踏み込んでくれません。
優しいけれど肝心なことはしてくれない父親です。
位置関係を見ても、九太が父親と再会を果たした商店街もまた渋谷区で、この近辺に住んでいるはずですから、実父は渋谷区民のはずです。
しかし、それでも父親が登場することはありませんでした。
何より大事なことは、このことによって、実父は我が子九太(蓮)の本当のピンチに、二度とも駆けつけなかったということです。
一度目のピンチは、母が死んで孤児になった9歳のとき。(映画の最初)
二度目のピンチは、渋谷で白鯨に襲われて死にかけるその8年後。(映画の最後)
この二度のピンチをともに救ったのが、熊徹です。
渋谷で路頭に迷っていた蓮を見つけ、九太と名付けて弟子にし、実質の養父として8年育ててくれました。
さらに渋谷で白鯨に追い詰められていた九太を助けるため、我が身を捨てて九太の力になることを選んでくれました。
九太と熊徹は一体化し、熊徹は九太の心の中で見守り続ることになります。
そして九太は現実世界で実父と暮らし始める、という所で物語は終わり、めでたしめでたし、となるわけですが、これは逆に言えば、心の中に熊徹がいなければ、実父と普通に暮らしていけなかったということでもあると思うんですよね。
だって二度とも自分を助けてくれなかった父親ですから。
幻想の父親と、現実の父親
心の闇(穴)を埋めてくれた他人がいて、初めて九太は安定を得たわけです。
映画の描写を見る限り、実父と暮らすことで安定したわけではなく、熊徹によって安定した九太だから、実父との暮らしを受け入れることができた、と考えた方が因果が自然です。
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私などは、九太と熊徹の疑似親子の決着としての「九太と熊徹の一体化」に反発を覚えたわけですが、何も助けてくれない血縁の父親よりは、実際に手を差し伸べてくれた赤の他人との関係の方がまだ信用に値するという話であれば、理解できます。
映画のメインは熊徹と九太の親子関係なので、見ている男性、特に実際に父親の立場の方は、そちらに感情移入してしまいがちだと思います。
でも実際の親子関係は、九太と実父のそれに近い方がほとんどのはずです。
熊徹のようなステレオタイプの昭和親父でもないし、師匠と弟子として何かを教えながら四六時中一緒に生活しているわけでもないし、何よりバケモノと人間の疑似親子ではなく、実父と九太のように血縁の親子である方がほとんどでしょう。
現実の父親たちは「熊徹」ではなく「実父」に近い。
だからこそ幻想(理想)の父親として熊徹が機能している。
これを前提に、ラストの実父(現実の父親)と九太の同居を考えてみれば、父親または父性というものへの視線はむしろシビアと言えるのかも知れません。
もちろん熊徹の方へ感情移入して感動することは自然で容易だし、実際にそちらへ誘導して気持ち良くさせてくれるのですけどね。
熊徹と実父が渋谷で出会う可能性
『バケモノの子』がこのような構造をしているからこそ、可能性として浮かぶのは、渋谷で2人の父が出会う物語。
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例えば物語後半の白鯨が現れて大パニックの渋谷。
同じ渋谷に住んでいるだろう実父は、TVニュースなどで事件を知り、また映像の中で逃げ惑う九太の姿を目にして、自転車に飛び乗り、勇気を振り絞って現場へ向かう、という展開はひとつのパターンとして考えられます。
もちろん武術の心得も何もなく、息子より弱い父親が現場に駆け付けても何にもならない。
だが、息子が大ピンチで自分は父親なのだ。そういう問題ではない。
このパターンの場合、熊徹は重体の体を押して、九太を追って渋谷に出てきていることにしましょう。
そこで、熊徹と実父が出会う。
「九太!」「蓮!」お互いが同じ子供を助けに来たと気づくが、それぞれ呼びかける名前が違い、それでお互いが「九太の実の親父か」「蓮を育ててくれたという恩人はこの人か」と気づく。
その後「誰が九太(蓮)の父で、誰が息子を助けるのか」という父同士の意地の張り合いの後、致命傷で動けない熊徹が刀に変化して九太に加勢することを思いつき、その意気を汲んだ実父が協力することで、父親間の父権のスイッチ(熊徹から実父へ)がスムーズに行われるかも知れない。
このとき実父は、刀になった熊徹を九太に手渡す役割を果たし、「九太、負けるなよ」みたいに、熊徹の代わりに「九太」と呼びかけて激励しても良いかも知れないですね。
この場合、九太の救出は、熊徹の独断ではなく、2人の父親による共同作業ということになるでしょう。
もちろんこれは単にひとつの例(妄想)に過ぎませんが、実父を排除した上での九太と熊徹の一体化ではなく、実父(現実の父)と熊徹(理想の父)の一体化のように見せることが出来るかもしれない。
この映画には、現実の渋谷と幻想の渋天街という2つの世界があり、父親もまた現実の実父と、幻想の父親の2人がいるが、最後にその2人が出会って、少しだけ2つの世界が近づく、というような形で。
役割を終えた幻想の父は消え、彼から父親をきちんと継承した現実の父が、息子と暮らし始める。
このような感じなら、実父と九太のその後の生活も何も心配することはないでしょう。
なぜ実父は物語のラストに関われなかったのか
でも前述したように、実際には同じ渋谷区にいながら、実父はこの場に現れることはありませんでした。
9歳の蓮を救えなかった実父には、8年後の二度目のピンチに今度こそ駆けつけるという機会すら与えられてはいない。
これは意図的な排除であると私は思います。
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お話をシンプルに熊徹と九太に集約したり、尺の問題などの要因もあるでしょうが、そもそもここで実父を救う映画ではないのです。多分。
この実父の扱いをベースに考えれば、この作品は「母親は選べないけれど、父親は選べる」という話です。
助けてくれない血縁の実父より、人生や生きる方法を教えてくれる大人の方が自分にとって大きな存在になりえます。
誰から生まれてくるか(母)は選べないけれど、父親(師)は子供が選べる。
自分にとって適切な父親(師)を探しなさい。
それは何人いてもいいのです。そういう人をたくさん見つけなさい。
さらにこの映画でいえば、バケモノのように、自分とは異なる存在でも父親(師)になりえるのですよ。
……というメッセージ。
このメッセージは正しいと思う。
もちろん大人だからといって完全な存在ではなく、子供と一緒に成長しなければならない不完全な存在だということも描いています。不完全な父親しか登場していませんしね。
ただ、大人とは、大人であることを引き受けた存在の事を言い、一定の能力や資格のことではありませんから、別にそれはそれでかまわないとは思います。
『おおかみこどもの雨と雪』と『バケモノの子』の息子たち
先ほどの「母親は選べないけれど、父親は選べる」という話で行けば、前作『おおかみこどもの雨と雪』との対比も面白いでしょう。
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『おおかみこどもの雨と雪』は『バケモノの子』とは逆に、父と死別し、母と暮らす2人のおおかみこどもの物語です。
物語の後半、母である花とは全く関係ないところで、男の子である雨が父親(師)となる老アカギツネの先生を見つけて、親離れしようとします。
花は彼に「なにもしてあげてない」と嘆きますが、実際に具体的なことは何もしていません。
ですが、男の子はそれでいいのです。母の知らないところで自分の世界を見つけ、勝手に大人になっていくのです。
この「男の子が、実親と関係ないところで勝手に父親(師)を見つけて独り立ちする」という要素は『おおかみこどもの雨と雪』も『バケモノの子』も全く同じですね。
『おおかみこどもの雨と雪』では、子離れの気配に気づいた花は我が子を手放すまいとしますが、最終的には子供の選択を承認して、子離れ・親離れが成立します。
花さんは田舎に引っ越し、右に曲がれば山、左に曲がれば人里(学校)という形で、おおかみか人間かの選択肢だけは用意しました。
そこでおおかみの道を選択した息子を、独立した個人として承認し、自分を子供にとって不要な存在として認めて子離れしたので、立派な母親です。
花さん、えらい。母の映画は、我が子を逃がすまいとするシーンと手放すシーンが必要なのかも知れない。
では、母不在で父親複数の『バケモノの子』ではどうでしょう?
九太は最初から実父を頼っていませんね。
それは孤児になった9歳のときからで、父親を探そうとも求めようともしていませんでした。
彼にとって父とはその程度のものという認識だったのかも知れませんが、その後、外部で父(師)となる熊徹を見つけ、渋谷の白鯨事件を通して、勝手に大人になってしまいます。
大人への通過儀礼を終え、九太から蓮に戻った彼は、はっきりいってすでに大人ですから一人暮らしでもすればいいのです。
現実世界を支える存在としては楓がいますし、目標も実父に相談することなく大学進学と決めています。
それでも蓮が実父との同居を選んだのは、彼の優しさと、前述のとおり心の中の熊徹のおかげといってよいと思います。
すでに大人だからこそ、父の事を考えて同居を選ぶという域に達しており、要するに大人になった蓮の気遣いと温情で、子供とその父親という関係が継続しているに過ぎません。
もちろん実父はそれを何も知らないでしょう。
実父は蓮のおかげで父親をやらせてもらい、蓮もまた彼の前では子供を演じるでしょう。
もしかすると蓮の配慮により、空白の8年間を埋めるために今後8年ぐらいは、実の父子による「疑似親子」関係が続く可能性もあります。
大人になった男の子が、母から離れる『おおかみこども』と、父と同居してあげる『バケモノの子』という対比は面白いと思います。
これは細田監督の母へのリスペクトと、父への憐み(自己憐憫)を私は感じます。
そういう意味では、蓮は少し出来が良すぎる息子で、父親にとっての「幻想の息子」に近いかも知れませんけどね。
それでも映画に登場した実父という存在
熊徹はあくまで幻想(理想)の父親です。
ゆえに21世紀の今、ほとんど存在していない古めかしい頑固親父のような造形でも構わない。
そういったステレオタイプの昭和親父と同じく、フィクションとしての父親なのですから。
だからこそ、この映画を見ている父親を含んだ男性たちは、熊徹に過度に感情移入し、子供と一体化して永遠の心の中に生き続ける展開に感動しすぎない方が良いような気がします。
もちろん普通に見れば、熊徹と九太親子にスポットが当たっているので、男性に限らず多くの人が、熊徹に感情移入して感動して泣けるんだろうとは思います。
でもそれは細田監督からしてみたら計算通りみたいなものでしょう。
だから幻想の父だけでなく、きちんと現実での父も登場させている。
そのあたりが大人(男性)向け目線かなと思いますね。
実際のところ、両親をともに交通事故で亡くすというプロットでも映画は成立すると思うんですよね。
そうなると現実世界とバケモノ世界の天秤という意味では、楓の役割がより重要となるはずです。
実父不在の場合はバランスの為にも、蓮との恋愛関係に近いところまで踏み込まざるを得ないでしょう。
しかしそれで何の不都合が?
実父のシーンを楓との恋愛描写に振り分けた方が「商品」としてはより魅力的になったかも知れない。
だがこの映画では、楓を恋愛対象ではなく、あくまで蓮に対する共感者、導き手ぐらいに留めている。
逆に言えば、そこまでしてでも、この実父というキャラクターを登場させているとも言えます。
つまり細田監督にとって、実父というキャラクターは、この映画に絶対欠かさないものだったはずなのです。
であるにも関わらず、ラストの危機にも楓や熊徹が参戦する一方で、実父は場にいる機会すら与えられない。恐らく意図的に。そこが面白いところです。
熊徹と九太のような親子関係という男性にとって気持ちの良いものを提供しながら、自身も父親となった細田監督は、現実の父(自分自身)とはこういうものだと思っているのかも知れません。
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ですから、パッと見の第一印象ほどには父性礼賛な作品ではないですね。
むしろ、父性への戸惑い(模索)からか、良い父親はひとりも出てこない。
そういう分かりやすい父親像はすでに存在しないのだ、ということで、血縁でなくとも、複数の父を探そう、という話にしていると思います。
もしくは、ひとりの偉大な父ではなく、複数人で役割分担をして、何とかひとり分ぐらいにならないか……というぐらいの弱々しい父性なのかも知れません。
それは今の少子化社会で、父親になれないまま生きる男性(私を含む)の問題でもあります。
実の子はいなくても、誰かの父親(役)になることはできるかも知れないし、それぐらいはしなければならないのかも知れない。
別にひとりで子供を背負うこともなく、地域社会や共同体内や職場などで、それぞれが少しずつ役割分担をすればよいのかも知れない。
もしかすると、熊徹のように、実の父親以上に影響を与えるようなケースもなかにはあるかも知れない。
ただ「この子の心の中で生き続けたい」などと言う父親側の自己陶酔的な欲望は必要ないと思うけどね。
最後に。「熊徹と九太の一体化」の肯定
ここまで「熊徹と九太の一体化」を一旦肯定した上で、実父に視点を置いて改めて考えてみましたが、いかがだったでしょうか。
私は、実父という存在を前提にするのではあれば「熊徹と九太の一体化」も一つの方法だと、肯定するに至りました。
KADOKAWA/角川書店 (2015-08-05)
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前回記事から続きで読んでいる人からすると「完全に意見が真逆になってるじゃねーか」と思われるかも知れませんが、前提条件と違う視点を設定したら、違う答えが出てくるのは自然だと思います。わたくしは全く悪びれない。
それに、これまでの自分の見方や意見を捨てたりしたわけではありません。
異なる視点をひとつ手に入れた、ということなので、単純に見方が増えたと自分では思っています。
実際、映画の中心たる熊徹と九太の関係と決着を、犠牲をしいられた一郎彦のことを含めて、父親側にとって都合のよいものとして批判することはできると思いますし。
ただ「見たいもの」「気持ちいいもの」を提供するのがフィクションのひとつの役目という意味では、それで50億円以上稼げるわけですから、まさにバケモノですよ。
それでいて、実父の存在のように、気持ちいいだけの、快楽だけの映画にはしていないのが特徴的ですね。
(これが、いわゆる細田映画の「モヤモヤ」を生む要因のひとつ)
私の中では、映画『バケモノの子』についてはこれで決着です。
また何かどなたかの刺激的な意見を目にしたら変わるかも知れませんが、記事としてはこれで完結としたいと思います。
興収50億円以上、毎年金曜ロードショーで放映できる映画で、こういう構造の作品をつくるのはやっぱりすごいと毎回思っています。
次作も楽しみですが、やっぱり、そろそろ息抜きが必要な気はしますね。押井守の監督勝敗論的にもね。
スイッチパブリッシング (2015-06-20)