そりゃあ死にますよね。だってにんげんだもの(みつを)。
ではアニメやマンガの住人はどうでしょう?
現実と同じく死んでしまうお話もあれば、地面に人型に穴があいてギャグになって終わり、というのもありますね。
その違いって一体なんなの?
というようなお話。
こういった作品ごとに違うリアリティに対して、押井守は、
「作品のリアリティは、監督によってコントロールされるべきものだ」
とインタビューで話しておりました。
(出典はアニメスタイル2号の押井守インタビューですが、部屋のどこにあるのか見つからないので大意です)
ここでのリアリティとは、出てくるキャラクターや背景が写実的なのか、という画だけの問題でなく、演出などを含めた作品全体で表現されるリアリティをさします。
つまり高いビルから飛び降りたときに、キャラクターが死んでしまう作品なのか、ギャグで済む作品なのかは、監督がコントロールするものであるということですね。
押井守はインタビュー中で、自身が監督した「機動警察パトレイバー」を例に出していました。
パトレイバーは展開されたメディアによってリアリティのレベルが微妙に違うものとしてコントロールされている、と。例えば、2階からパトレイバーのキャラクターが飛び降りたとする。
その時に下に池があり水しぶきがあがるだけで<ケガをしない>のか。
それとも<ケガはするが次のシーンですっかり直る>のか。
それとも<現実どおりのケガをする>のか。
ちなみにマンガとアニメのパトレイバーだと<ケガはするが次のシーンですっかり直る>ぐらいのリアリティかな?
<現実どおりのケガをする>のは、劇場版パトレイバーのリアリティになるでしょうか。
<ケガをしない>のは、パトレイバーのコメディ回でもありえますが、まあ、うる星やつらですかね。
つまり太田さんが同じように暴れても、アニメやマンガではケガをするぐらいで済む(でも次の回には治っている)けれど、劇場版では死んでしまうかもしれないわけですね。
■作品世界を体現するために選ばれるキャラクター
このインタビューで面白いなあ、と思ったのは、押井守にとって、まず作品で表現したいリアリティレベルの設定ありきで、キャラクターデザインの絵柄は、そのために選ばれるものだということです。
先のパトレイバーでいうなら、劇場版は明らかにアニメ版とは違うリアリティでリデザインされているし、映画「攻殻機動隊」では、主人公草薙素子を肉感的なリアリティのあるキャラクターデザインとし、原作士郎正宗のものから大きく変えました。
それは全て、作品で表現したいリアリティをキャラクターに体現してもらうため。
ビルから飛び降り、格闘し、大口径の銃をぶっ放すサイボーグ軍人女性の首が細いわけはない、肩が張っていないわけはない。
だから原作の士郎正宗がデザインした首の細い(いわゆる)マンガ的なキャラクターを使わなかった。
つまり、作品の方向性、必要なリアリティと密接な関係がある以上、キャラクターデザインは単純な絵の好み、良し悪しだけでは選べないということ。
こういう考えの元では、結果的にキャラクターデザインと作品世界のリアリティが一致し、「ずれ」は生じない。
そんな押井守監督作品では「うる星やつら」の諸星あたるも「攻殻機動隊」の草薙素子も、高い所から飛び降りても死なないキャラクターになっています。
しかし作品で設定されているリアリティが違うため、結果は同じでも理由は違う。
「うる星やつら」はそもそもキャラクターが死なない(ギャグで済む)リアリティレベルであるから。飛び降りても好きな子の名を叫べば夢から覚めて助かるような不思議SF世界といった方がいいでしょうか。
「攻殻機動隊」ではうる星と違い、キャラクターは死にます。トグサや荒巻ですら飛び降りたら死ぬでしょう。そんな世界で死なないために全身義体のサイボーグで、さらに頑強な肉体を持ったキャラクターにリデザインする必要があったわけです。
(無茶をするため道理を通すのが、リアリティの高い作品の制約であり、その言い訳の工夫こそが面白さとも言えるでしょうね)
制作側はまず表現したい世界ありき。そしてその世界の表現に適したキャラクターが選ばれる、という過程があるというのが面白いところです。
選ばれたキャラクターは作品世界を体現した存在ですので、デフォルメキャラ→ギャグ世界と、キャラクターを見ただけで世界を理解してもらえるようにしてるわけですね。
(この世界は物理法則や人体構造を無視してますよ、というメッセージですよね)
一方、視聴者は制作過程などすっ飛ばして作品をまず見ますから、リアルなキャラクターだからリアルな世界で、デフォルメキャラだからギャグ世界だと素直に感じるのですが、それはメッセージの受け取り方として間違ってないわけです。
ちなみに同インタビューでは、押井が、他のアニメ作品をさして、
「キャラクターと作品世界が一致していない作品が多すぎる」というようなことも言ってましたね。
具体的な作品名は一切あげていなかったけども、思い当たるフシは色々ある。
リアリティのないキャラクターでハードな生き死にバトルをしたり、萌え美少女たちがトラウマ博覧会して人生を語ったりするようなことを言ってるんじゃないかな。
私も未見のアニメ作品のキャラクターだけ見た後で、実際に作品を見て「え?中身はこんな話だったの?」と見かけとのギャップに驚いたことが何度もあったように思います。
さて、この「飛び降りてケガをするか、死ぬかどうか」というのは、あくまで「リアリティのコントロール」を説明するための例にすぎないのですが、この例を色々考えていくと面白いところにぶつかります。
なぜなら「飛び降りても絶対死なないアニメ」を作っている国民的アニメ監督がいるから。
もちろん宮崎さんちのハヤオ君のことです。
■飛び降りる宮崎駿
それは例えば宮崎アニメでよくあるこういうシーン。
高い塔やビルのてっぺんで、少年はとらわれの少女を助けるが敵に追い詰められる。逃げ場はない。
絶体絶命のピンチ。どうする?どうやってこの危機を乗り切る?
こんな時、宮崎アニメで少年はどうするか?………そう、正解は「勇気をもって飛び降りる」です。
少女をお姫様だっこして飛び降りる。飛び降り方は色々バリエーションあれど、とにかく飛び降りる。
少年は地面に着地し、体全体にしびれが走るが、両足をふんばり、少女と共に駆け出す。
まさに宮崎アニメだと毎度1回は必ずあるようなシーンですよね。特にコナン、カリ城、ラピュタが思い浮かびます。
でもこういった宮崎アニメの見せ場シーンも押井守に言わせるとこうなる。
「せっかく絶体絶命の危機のシーンを作ったのに、主人公の無茶で簡単に脱出されるんだったら脚本の意味が無いじゃないか」
↑これ、昔、何か古いアニメ評論の本で読んだ気がするのですが、手元にないので良く分かりません。(こういう場面でで「アニメであること」に逃げるからダメなんだ的なことも言ってたような気もします)
まあ、確かに飛び降りても大丈夫なようにあれこれ理屈をつけたり、夢世界にしたり、キャラクターすら変えた押井先生に対して、「我慢する」ですからねえ(笑)。
先ほどのリアリティコントロールの話と合わせて、2人の作家性の違いが見て取れて大変面白いですね。
私が感じるに、つまりこういうことじゃないかな。
宮崎駿
・絶体絶命のシーンをドキドキワクワクのダイナミックな動きで突破することこそアニメーションの楽しさと信じている。
・そうでなくて何がアニメーションなのか。飛び降りてケガをするキャラクターの物語は、リアルな肉体を持った実写でやればよい。
・無茶を通せば道理が引っ込むものだ。観客が「道理が引っ込んで当然」と思うほどの魅力的な動きを作ればよい。
・飛び降りた少年がケガするのはナンセンスで、ケガをするかどうかでなく、少女を守るために飛び降りる勇気があるか、少女の重さを歯を食いしばって耐えられるかどうか、そこが重要なところだ。それができる少年がケガするわけがない。
押井守
・絶対絶命のシーンは道理(脚本・構成レベル)でつくられる。ならばその解決も道理で行いたい。
・というか絶体絶命までの最悪のシナリオを登場人物たちが知恵を絞り、行動し、それを回避するような話が好き。(劇場版パト1なんか完全にそう)
・観客が危機回避を納得できるだけの理屈は必要なはずだ。そのためには、危機脱出のための伏線をはったり、駆け引きさせたり、言い訳をちゃんと作ろう。
・問題はその作品のリアリティレベルがどの程度か、ということだ。それに応じてシーンはつくられ、リアリティが守られる。
・最終的に飛び降りざるを得なくなったとしたら、飛び降りても助かる理屈を付けるし、その作品のリアリティレベルに応じてケガをさせるだろう。
・もしくは好きな子の名を叫べば夢から覚めればよい。夢の中ではリアリティは関係ないからどうとでもなる。
・夢から覚めた世界もまた夢の中でないとなぜ言い切れる?いや、まて。そもそもこの映画を見ている俺達の実存さえも疑わしい。いや、まて…(以下、永遠に続く)
乱暴にまとめれば「道理を壊して無茶を通す宮崎駿」と「無茶をするため道理を通す押井守」といったところでしょうか。
この2人の違いは思想の違いもあるけれど、宮崎が絵を描くことができる監督であり、押井は絵を描くことができない監督であるという違いも大きく影響しているでしょうね。
宮崎駿の考え方こそアニメーションそのもの、とは言えると思います。ディズニーやトム&ジェリーなどにも通じる魅力ですね。
ただこれは宮崎駿本人が天才アニメーターであることで支えられている。ジブリ作品(紅の豚以降?)はしっかりした脚本がないそうで、脚本はアニメ作りながら作るし、アニメの都合でどんどん変えられていく。 (ジャッキー・チェンの映画の作り方と似ているなと思います)
究極的に言えば、自分だけでアニメが作れるから出来る方法です。
一方の押井守は絵が描けないので、当然絵は誰かに描いてもらうことになるわけです。
そうなると自分はそれを管理(コントロール)する側にならざるを得ない。
だから脚本、絵コンテ、画面構成を重視することになります。なぜなら、その部分さえしっかり握っていれば、誰が絵を描こうと、押井守の映画になるからです。
それらを押さえていれば、自分の映画を守れる=押井守。そうか、そこから来たネーミングか!(押井さんはキャラクターではありません)
私個人でいえば、絵心が無いことと、理詰めで理解しやすいことを考えると、押井守の考え方に感銘を覚えます。
(もちろん、宮崎駿「作品」は魅力的で大好きなのですが)
解決法の違いがそれぞれの監督の長所や魅力となっているので、どちらが正しいとかではなく、お互いが自分の信じる演出をするのが正しいのでしょうね。
それにしても対照的で面白いですね。
※余談
富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。
これじゃないですかね。やっぱり。スポンサーの枠組みの中で最大限の仕事をしてきた人としては。ピンチは新商品が登場するためにこそ存在する!