8月6日金曜ロードショーにいよいよ、細田守監督作品『サマーウォーズ』登場。

2009年8月1日より劇場公開され、興行収入16.5億円を記録(全国128館にて上映)し、第33回日本アカデミー賞ほか国内外の映画賞を多数受賞した劇場アニメ『サマーウォーズ』。3月3日に発売されたBlu-ray/DVDは、オリコンランキングにていずれも初登場1位を獲得するなど、パッケージでも大ヒットを記録した。
そんな『サマーウォーズ』が、早くもテレビ初登場! 2010年8月6日(金)、「金曜ロードショー」(日本テレビ系金曜21時00分~)にて放送されることが決定した。
マイコミジャーナル:今年の夏も、家族みんなで『サマーウォーズ』! 金曜ロードショーに8/6登場


公式サイトTOPにも大きく「テレビ初登場!」と出ていますね。

サマーウォーズ公式サイト

去年の夏、この作品の公開時に
「金曜ロードショーこそが『サマーウォーズ』の本当のスタートかも知れない」
というエントリを書いたものとしては、劇場でなく、DVDでもなく、こういう場で初めてこの作品を見る人たちの反応を見守りたいと思います。

『サマーウォーズ』どこを切る?


『サマーウォーズ』上映時間155分に対し、金曜ロードショー放送時間が154分。
CMが合計20分ほどあるそうなので、単純に考えれば20分ほどカットになる計算です。
しかし細田監督自ら再編集した特別バージョンで放送されるとのこと。

8月6日日本テレビ系で放映される『サマーウォーズ」、金曜ロードショー枠に合わせて再編集&再ダビングしました。再編集はさておき、テレビ放映のためだけにダビングをやり直せるのは結構珍しいのでは?なかなかいい仕上がりになったと思います。

細田監督のtwitterより(http://twitter.com/hosodamamoru/status/19664311468


これは楽しみ。
あの中身パンパンの映画をどうカットしてどう編集するのでしょうか。
すでに見ている身の上としては、そちらの方が断然興味深い。

とりあえずエンディング(スタッフロール)は総カットできますね。
『サマーウォーズ』では、エンディングが「単なる名場面集+ED曲」となっており、正直なところ、劇場での初見時には正直やや寂しい感じもしました。
しかしTV放映前提のこの作品が、本編が終わって以降は「作品内の時間を1秒も進ませていない」のも、総カットができることを考えれば納得がいきます。

とはいえ個人的に、『サマーウォーズ』という作品は、あの内容のまま、その全てを2時間以内のサイズに収めるというのは、かなり無理があると思っています。
そのため、公開後いろいろ批判されたようにいくつか歪みもあるのですが、破綻するような内容を、綱渡りのようにギリギリのところで映画にしていて、そちらにドキドキするタイムサスペンス映画です。
ですから今の『サマーウォーズ』である以上、むしろ足りないぐらいで、カットできるようなところなんて無いはずなんですよね。

そういう『サマーウォーズ』の根本的な枠組みを問題には触れないまま、作品の細部について
「なんでこうなるわけ?こうするべき!」
というような批判があったりします。
しかし、その批判通りの展開に必要な時間(+3分、+5分など)と、その代わりに削るシークエンスに配慮のないものは、私は正直いって、ほとんど有益性を感じていません。
みんなの改善点を追加して、もし2時間半や3時間になるのであれば、それはむしろ根本的に枠組みを考え直す必要があるように思えます。

例えば、劇場で見た当時の感想記事にも書きましたが、物語中盤での栄に関するあの処理も、あれしか無かったのかと友人と検討したりしました。
それは感情的にどうこう抜きで、いや抜きではなく、感情的になる前に構成として正しいのかという意味で。
そして、

「あれ」が映画的には最も効果的(強み)になる上に、その後の展開に有効に働き、スムーズに進むはずだ。特に2時間におさめるためには。

というのが、その場で出した私達の結論でした。

『サマーウォーズ』公開当時、この中盤のイベントについて、細田監督がインタビューで、はじめての経験なので苦悩したことを話していたように思います。
ですが結果としては、当然のように個人的なポリシーより映画の組み立てをとったわけですよね。
創作において、組み立てや構成だけが大事なわけではないことはもちろん分かっていますが、『サマーウォーズ』ではちょっといろいろと制約がありすぎて、合理的な判断を下す以外なかったのではないか、というような気がしています。

※実をいうと「中盤のイベント」回避パターンもありえると思って考えたのですが、それこそ根本的な枠組みレベルで変える必要がでてくるはずです。
さらに中盤イベント回避パターンと、実際の『サマーウォーズ』、どちらが映画として良いのかというのは非常に難しい。方向自体が変わってくるので、単純な改善ポイントではなく、やはり別の映画として、枠組み、方向性レベルの検討になってくると思います。


そんな『サマーウォーズ』を、テレビ放映版では、20分…エンディング抜いても15分ぐらいは単純にカットしないといけない。
もちろん微妙な間の調整なんかを全体的しているようですが、あのギリギリ成立している映画のどこがカットされているのでしょう。実際どうなっているのか本当に楽しみですね。

すでに劇場やDVDなどで見た方も、明日はオリジナル版とどこが違うのか確認してはいかがでしょうか。


しかし8月6日に『サマーウォーズ』か……。
日付と作品名の兼ね合いで、いらぬ誤解を招かねばよいが……。

『サマーウォーズ UEDA WAR』~ 8月6日 ある家族の風景 ~


(食卓を囲みながら、金曜ロードショーを見ている家族)

祖父「(渋い顔しながら)うーむ……」
母「どうしたんですか?おじいちゃん」
祖父「ここはどこだ?広島か?疎開先か?『サマーウォーズ』という映画なのに、ぜんぜん戦争が始まらんぞ」
父「あのさ父さん、確かにウォーズなんだけどさ…、ネット上の仮想世界OZといって」
祖父「何の話だ。少なくともまだ戦争など始まってはおらん」

長男「(いきなり、ブツブツしゃべりだす)始まってますよとっくに!
……気付くのが遅過ぎた。金曜ロードショーでの放送、いやその遥か以前から戦争は始まっていたんだ」


祖父「お前は何を言っとるんじゃ」
妹「どうせまた、アニメかなんかのセリフでしょ」
母「あの子、『サマーウォーズ』初めて見るのかしら」
父「それで、気付くのが遅過ぎたとか言ってるのか(去年、夫婦で劇場で見ている)
母「ずっとアニメばっかり見てるのに、なんで知らないのかしらねえ」
妹「そりゃ映画館もレンタルショップも、どこにも行かないからでしょ」

(ひとりをのぞいて、ひとしきり笑う家族)

長男「……突然ですがあなた方には愛想が尽き果てました」

妹「家族側がいつ尽き果てたかは聞かないの?」
父「お前はもう少し利口な子だと思っていたがな」

母「(息子より画面)ほらほら、おじいちゃん。たった今ラブマシーンのハッキングで、人工衛星が」
祖父「(聞いてない)この白い世界はなんじゃ?ぬいぐるみがいっぱいおるぞ」

長男「だから!OZだと言ってるんだ!」

(ひとりをのぞいて、画面を見続ける家族)

―ひとつ教えてくれんか。何故自決しなかった?
もう少し、見ていたかったのかもしれんな。
―見たいって何を?
この映画の、続きを。

というわけで、8月6日は、家族で『サマーウォーズ』。
それまでは全員、自決禁止なので、そこんとこよろしく!ここんとこごぶさた!(シャレになってない)



『サマーウォーズ』関連記事(四部作)

このブログの『サマーウォーズ』記事です。よろしかったらどうぞ。最初の記事はネタバレありません。

■見る前(上映前)のレビュー
日本の夏。『サマーウォーズ』の夏。 < 『ぼくらのウォーゲーム』再構築(リビルド)の価値は >

■見た後のレビュー ※ネタバレあり
サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>

■特別編:ゴハン食べるの?食べないの?(フード理論) ※ネタバレあり
世界の危機には「家族で食事」を <『サマーウォーズ』 フィクションと現実で異なる「正しい行動」>

■完結編:『サマーウォーズ』のパッケージングと可能性の検討について ※ネタバレあり
10年前、世界を救ってくれた子供たちと、日常を守ってくれた大人たちへ<『ぼくらのウォーゲーム!』と『サマーウォーズ』>
一ヶ月記事を書かないでいたために、またFC2より広告表示の辱めを受けてしまいました。
ちゃんと新年のあいさつでもしておかないからこんなことになる。
とりあえず広告消すために、冷蔵庫にあるもの(twitterまとめ)でちゃちゃっと一品作ろうと思います。

雑多な過去のtwitter投稿が元ネタなので内容が古くてカオスですが、かなり加筆修正して記事に仕立て直しました。



ゴールデンアバター(Golden Avatar)


昔、押井守が『マトリックス』第一作を見たときに、「若ガキの映画だね」と感想を語った。
どこが?キアヌが思っている現実が実は仮想世界だったというところを中盤までで済ませているから。
面白い映画にするなら、マトリックスの設定がバレるところを映画の最後(クライマックス)に持ってこないといけない。そういうことを言っていた。

言ってることは方法論のひとつとしては分かる。だが当時これを聞いたとき、
「それをするのはアンタだけで充分だよ」と思った。
私は『マトリックス』が仮想世界ネタばらしをさっさと済ませたのを、「思ったより丁寧に処理したな」と感じたほどだ。

個人的に『マトリックス』は、先行するSF小説や、それこそ攻殻機動隊なんかをデータベース的に前提に置いて、世界の説明は可能な限り省力化して、その先にあるパーティタイムを目的にしてる映画だと思っているので、仮想世界ネタばらしは、オチじゃなくて前提だと思う。

ウォシャウスキー兄弟は押井守からの影響も公言しているわけで、同じことをしても仕方ないし、同じことをするのなら、確かに押井守の方が上手いだろう。
そういう意味でも「それをするのはアンタだけで充分だ」というわけだ。

なぜ、こんな話を今頃するかというと、ジェームズ・キャメロン 『アバター(Avatar)』について押井守がどうコメントするのするかなと思って。
アバター』良く知らないけど、CMを見る限り、ファンタジーやる前に、きっちりSF的にネタの仕込みをして、SFとファンタジーを並行させる感じみたい。世界の説明は初めから順を追って丁寧にされていくっぽい。

押井守「あの青い異星人の1人が、全く別の姿(地球人)になる夢に毎夜悩まされはじめる。青い肌の自分と、夢の中の地球人の自分、一体どちらが本当の自分なのか分からなくなったりしないとね。SFネタばらしは後でいいから」


―とか言い出して欲しいなあ、と思って。

そんなことを公開前に言っていたら、公開後、押井監督のコメントが本当に出た。

押井守映画アバター』には久々に燃えたんで、僕ももう少し頑張ろうと思います。キャメロンに勝てるとは言わないけど、僕らにしかできないことをやるしかない。違う戦争ならできるからね」
押井守監督、『アバター』の完成度に衝撃!「10年かけても追いつけない」と完敗宣言でみんなで乾杯!?


押井監督は全然負けてると思ってないよね。そもそも戦争のやり方が違うんで、自分の戦争なら負けないとは思ってる。だから『アバター』という戦場においては簡単に完敗宣言が出せる。
富野監督は、過去の発言を踏まえて考えても、多分、キャメロンと同じフィールド(戦場)で戦わなければならないと思っている。だから完敗宣言は言わないし、言うべきじゃない。

ちなみに『アバター』はいまだに見ていないのです。

動かざること明のごとし


友人と酒を飲んだときのこと。彼が言う。
「この間、永井豪が書いた武田信玄のマンガを読んだんだけど」

豪ちゃん先生の武田信玄?(友人が内容を説明しだすが、全く聞いてない)

それはつまり、全世界の武田騎馬隊を終結させた風林火山軍団と、上杉謙信(顔は飛鳥了)率いる毘沙門天軍団が激突して、気づいたら全裸の謙信の隣で、上半身だけの信玄が眠ってるんだろ?
と、言いつつふと見れば、友人が眠っていた。

検索したところ、友人の言ってたマンガはこれのことかな?
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永井 豪ダイナミック・プロ

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そういえば「上杉謙信は実は女性だった」という謙信女性説があったけど、飛鳥了ということにすれば何の問題もないな。
ちなみに、この川中島ハルマゲドン後に、信玄を失った謙信の後悔の念が、尾張のスラムキングこと第六天魔王信長を生んだ、ということにすれば、さらに問題はないな。(私の頭以外は)

NHK大河ドラマ龍馬伝


今年のNHK大河『龍馬伝』で、勝海舟役が武田鉄矢に決まったことが私含めごく身近で話題を呼んでいる。
完全に武田鉄矢のキャスティングが先で役が後だよね。多分。

決まったからには、どう面白くなるか考えないと損なので、
「勝(武田鉄矢)を殺しに訪ねた龍馬(福山雅治)に、勝がギターを教えて、ましゃ感動」
というのがいいのではないか。

そして、勝の指導のもと、龍馬は初めての自作曲「姉に捧げるバラード」を完成させる。

♪今も聞こえる あの 姉さんの声、僕に 剣道を 教えてくれた 恐ろしい姉さん。
(姉に捧げるバラードより)


勝には、ゴルフも教えてもらう。

「龍馬よ!エゲレス人は棒を穴に入れるのをスポーツとして楽しんでやがる!しかも全部で十八番やるそうだぜ!」
「じゅ、十八番?先生!わしゃ、とてもじゃないが、そんなにもたんぜよ!」


ゴルフレッスンが始まると、それがただのスポーツであり、全然エロいことじゃなかったことに気がつき赤面する龍馬。
そんな龍馬に、自分もカップヌードルにヌード写真が入ってるとエロ勘違いをしたことがあると、笑いながらなぐさめる勝(というか武田鉄矢)。
そしてオリキン…いや勝仕込みのゴルフテクニックを身につける龍馬。飛べバーディー。

最終的には、ギターで弾き語りをしながら、維新志士を説得する龍馬。
襲いかかる新撰組を勝直伝のハンガーヌンチャクで追い払う龍馬。
薩長ゴルフコンペを企画し、西郷と桂と同組で回り、薩長同盟を成立させる龍馬。
そして暗殺の日。風邪気味で、うどんぐらいしか食べる気がしない龍馬。
買い置きの「どん兵衛」ならあるという宿の者に、あくまで「赤いきつね」が食べたいと買いに行かす龍馬。
そこへ刺客が!手を伸ばす龍馬。しかしそこにあったのは耐久性の無いプラスチックのハンガー…。

もちろん、こんな『龍馬伝』を放送すれば、「こんな龍馬ありえない」「ふざけるな」という非難や抗議がNHKに多数寄せられることになるでしょう。
でも大丈夫。勝と龍馬で「J!O!D!…AN!」とやれば何も問題はない。そう何も問題はない。(私の頭以外は)

というわけでは『龍馬伝』。
結構、途中から見たり、見逃したりしてますが。勝が出てからが本番なので、いいよね。

パチンコ『トップをねらえ!』



[CM]
ノリコ「お姉さま、あれをやるわ」
カズミ「ええ、よくってよ」
ノリコ「うわああああああ!」

店内で出る台が1台しかなく、それを複数の人間が打ちたい場合、自分以外を殺して打っても罪には問われない―『カルネアデスパチンコ』システム採用!

ノリコ「奇跡は起きます起こしてみせます!」(血まみれの拳で腕組みするノリコ)


トップをねらえ!』のパチンコが出るそうだ。
確かこんな感じのCMを見た気がしたのだけど、こうやって動画を見ると全く違う…。おかしい…。

身近にはいないので実感は無いのですが、好きなアニメがパチンコになることに憤りを感じる人ってやっぱりある程度いらっしゃいますね。
それにも色んなタイプがいるんでしょうけれど、私がネットで目にした限りでは、「大好きなアニメ作品がパチンコ業界とその中毒者の消費財になるのが耐えられない」といった感じが多いかな、という気がします。

そんなこといっても今の世の中、自分の好きなものがパチンコ化されていない日本人などもういない。
パチンコをする年齢層の好きなものを片っ端からパチンコ化してるんだから、それは当然のことで、アニメに限らずそうなります。

例えば「パチスロTHE BLUE HEARTS」が出ると聞いたときはなかなかの衝撃でした。
負けたものたちが夕暮れ、さらに負ける台をたたく。
その音が響き渡ったときに、加速するのは果たして何なのか。
この台なんかも、アニメのパチンコ化と同じく拒否反応がありそうですが、実際はどうだったんでしょうね。

私は全然どうでもよく、むしろ面白がっているので、いろんなパチンコネタを考えたりもしました。もちろん『トップ』パチンコもね。

さらに去年の夏。『ヱヴァ破』を観終わったときには、
「みんなもっとエヴァパチンコやろう!もっと!もっとお金を!この映画に募金する気持ちで!みんなやろうよ!打とうよ!私は全くパチンコしないけど!」
という、より積極的な肯定気分になっていました。面白いアニメのためなら、簡単に悪魔に魂を売り渡す気分に。
これは良し悪しの問題ではなく、理屈の問題でもなく、気分の問題なのだが、そんな気分にさせる作品を見るためなら、私は何がどうなってもいい。世界がどうなったっていい。だけど綾波だけは絶対助ける(覚醒)。

バイストンウェル・ベースボール・クラシック


アニメ『聖戦士ダンバイン』の舞台で、富野監督のライフワークでもある異世界バイストンウェル
バイストン・ウェルもので昔から考えているネタがある。

■概要

召還される主人公は高校教師。
彼は異世界から来た聖戦士として、バイストン・ウェルの人達から何かを求められるが、平凡な自分には与えるようなものが何もないことに気付く。
しかし、呼ばれたからには何か役割があるはずだし、なにより何もしないのでは聖戦士の立場も危うい。
そこで主人公は自分にできることとして、元高校球児、今野球部顧問の経験を生かし、人々に「野球」を教えることにした。


という設定のお話。
つまり、バイストン・ウェル・ベースボール物語

野球を教えるといっても、バイストンウェルの人は誰もそのスポーツを知らないし、道具もない。
グラウンドやバットやボールを作り、メンバーを集めるところからはじめなければならない。
オーラバトラーとかは出て…これないかな。これは。

もちろん『ROOKIES』や『大正野球娘』がやりたいわけではないし、単に野球を知らない土地へ野球を伝えるというだけではアフリカ奥地の村を舞台にするものと変わらなくなってしまう。

何かバイストンウェルならではの話の軸が必要になる。
とりあえず、ここでは、主人公が呼ばれた国と、その隣の国が緊張状態にあることにし、主人公は隣国との戦争を「野球」で解決できないかと画策することにしてみよう。
「野球」で問題が解決できれば、主人公の勝ち。
解決できずに「戦争」へ突入すれば、主人公は聖戦士として隣国の兵士をおおいに殺すことを求められるだろう。
それが出来なければ死ぬし、それを拒否すれば聖戦士ではないとして味方に殺されるかも知れない。

なんとか「野球」で、戦争を回避しなければいけない。

そこで戦争の代替物として、祭りとして、ゲーム(試合)を肯定的に使う。
「平和にする」のではなく、争い自体は否定せず、その代わりに「死人が出ない戦争」を導入させるという視点にする。
その意味では、野球が何らかの神聖な儀式であるというハッタリを、聖戦士の立場を利用してつくる必要があるかなあ。
聖戦士と野球を利用しようとする王族、戦争回避できるなら手段は何でも使いたい政治家、野球の存在を邪魔に思っている軍人なんかもいるでしょうか。

主人公は、監督としてチームを鍛える一方で、もちろん代表チームの一員としても試合に参加する。
いわば聖戦士は、助っ人外国人選手のようなものだ。

もちろん試合の相手である敵国にも、監督兼選手の助っ人地上人がいる。
レッドソックスのお膝元ボストン出身のトッド・ギネス!
かくしてWBCならぬBWC(バイストンウェルクラシック)の火蓋がきって落とされる!

…という感じ。
バイストン・ウェルものとしては、外伝というか、番外編みたいなものだけど、こういう地に足がついているようなタイプがあるのも悪くないな、と思うんですけどね。どうでしょう?

個人的にはサッカーが好きなのだけど、物語の中でサッカーを表現するのは難しいし、現実でワールドカップが世界規模の代理戦争のようなことをしているので、野球のほうがいいかも知れない。

■話の落とし所
オチとしては、野球を戦争の代替物として利用しながらも、本当に野球が面白いので、いつしか野球そのものが目的になっていく。
毎年開催することが両国間で決められ、そのため両国では野球が人気の競技となり、いつのまにか二国間での練習試合や人的交流もはじまり、崇高な儀式だったはずが、結果的に単なるスポーツに成り下がる。めでたく「成り下がる」。

地上人の召喚もいつしか、外国人助っ人を連れてくるのと変わらなくなってくる。
「打率2割4分。ホームラン6本。…今年の聖戦士はハズレじゃな。」
ハズレ聖戦士は、1シーズンで契約を打ち切られ、地上に返される。

もちろん、二つの国が仲良くなっているわけでもない。
でも、どちらかの国が戦争で滅ぼされることは当分はないだろう。
国が二つないと、国を背負って野球で戦う楽しみがなくなってしまうからね。
「来年はギタギタにしてやる」と思いながら、お互いの国は今日も野球に励む。

という感じでどうかな。なんかレベルEみたいになってきたな…。

野球を代理戦争にしたままだと、戦争と変わらないので、何とかその構図は崩したいなあ。
二国が楽しく堕落してくれたらいいんだけど。

主人公は誰かな。ダルビッシュ有?
いや冗談抜きで、ダルビッシュはバイストンウェルで聖戦士やる条件が揃っているんだよね。
翼を顕現させたハイジャンプオーラ魔球でも投げてもらおうかな。
それをハイパーオーラ打法で打ち返す。いやジャコバ流星打法にすべきかな?
前回記事では、映画『タイタニック』をサンプルに「大きな物語」について考えてみました。
今回はさらに話題を広げて、「大きな物語」の有効活用を考えてみましょう。

■簡単なおさらい

・SFX特技監督として有名だったジェームズ・キャメロンが、こだわりのタイタニック号をより多くの人に見てもらうために「悲劇のラブロマンス」というベタな物語を使用した。

・ロボットアニメの監督として有名だった富野由悠季が、キャメロンの『タイタニック』に大きな衝撃を受けて、「ロボットアニメの富野」として、より「大きな物語」を作ることを目指した。

なぜ『タイタニック』は世界中の海を渡れたのか<富野由悠季と映画『タイタニック』にみる「大きな物語」>

※ここでの「大きな物語」とは「より多くの人で価値が共有できる物語」程度の意味です。限られた一部の人ではなく、みんなが親しみ楽しめるおはなし、のことです。



「大きな物語」利用のポイントと欠点


「大きな物語」を効果的に利用するには、いくつかのポイントがあると思われますので整理してみましょうか。

■前提条件
・見せたい世界やギミックなど、強力かつ魅力的な被写体があること。

『タイタニック』では、「タイタニック号」がそれにあたります。
『タイタニック』の「世界」はタイタニック号そのもので、魅力的なギミックもまたタイタニック号です。この映画はラブロマンス以外はタイタニックしか要素がないので、タイタニック様の思うがままです。世界が滅亡(沈没)するかどうかもタイタニック様のやる気次第です。すばらしい。
富野監督は「タイタニックは、要するにモビルスーツ(ロボット)だ」と言いましたが、「ガンダム」の場合ですと「モビルスーツとそのために用意された宇宙世紀」ということになりますね。
ここが作品で一番見せたい、こだわりたい部分になります。

■利用方法
・基本は「強力かつ魅力的な被写体」+「大きな物語」
・お話は誰もが共感でき、理解できるようなシンプルなものを。

見せたい被写体をより多くの人に見てもらうために、誰にでも分かるシンプルなストーリーを採用します。
作品の舞台が過去であろうと未来だろうと、人である限り共感できるような類型的な物語がふさわしい。

ただし、「大きな物語」は、ありがちな「陳腐な物語」だと批判される可能性があります。
場合によっては確かに有効かも知れないけれど、みんなで共有できる物語=陳腐なストーリーになりがちだという欠点は確かにあります。
『タイタニック』については、半分は誉め言葉のようなものですが、もう半分は批判されても仕方ないかも知れません。
最大公約数的なベタストーリーを選ぶのは、ベターではあっても、どうしてもベストでは無いかも知れません。

だからといって、ひねったストーリーにするのでは意味がありませんよね。
『タイタニック』タイプについては、最も見せたい被写体が先にあり、物語はあくまでそれを生かすために使います。被写体の部分はどれだけマニアックになってもいいですが、ストーリーがマニアックになるのでは、楽しめる人が限定されてしまい本末転倒です。

もちろんシンプルでも力強く誰でも楽しめる面白ストーリーがあれば言うことなしですが、そんなパワーのある脚本があるならば、それを最大限に生かすように、他の要素を揃えていったほうがいい映画になりそうです。

誰でも分かるストーリー構造のままで、何度も見たくなったりする奥が深い作品をつくる方法はないのでしょうか?

その方法の一つを、『タイタニック』がつくった観客動員記録を塗り替えて日本新記録をつくった映画、『千と千尋の神隠し』で考えてみましょう。



『千と千尋の神隠し』に見る「大きな物語」


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個人的には「『タイタニック』的なもの」を一番うまくやっている日本の作品は、宮崎駿『千と千尋の神隠し』ではないかと思っています。

『千と千尋の神隠し』でのタイタニック構造は、以下のようになります。

「魅力的な被写体」→「舞台となる湯屋"油屋"。不思議がいっぱいの世界」
「大きな物語」→「昔話のようなシンプルでどこかなつかしいお話」


初めて『千と千尋の神隠し』を見た時に驚いたのは、神話や民話・説話をほとんどそのまま形で入れていたことでした。話には聞いていたけれど、想像を大きく越えていました。
民話のエッセンスだとかメタファーだとか、そういうことではなく、民話の類型をほぼそのままの形で入れていることが非常に興味深かったです。
もちろん、さまざまな民話的なエピソードは巧みにパッチワークされていて宮崎駿独自の世界になっており、特定のお話にはなってはいないが、各パーツは非常に類型的。
さらに全体がいわゆる「行きて帰りし物語」という、非常にオーソドックスなお話になっている。
ジブリ映画を絵本化したものが出版されているが、この作品がもっとも自然に絵本化できているのではあるまいか。
(逆にジブリ絵本「もののけ姫」なんてどうしたんだろ。「エボシごぜんの、うでが ふきとびました」とか?)

『タイタニック』→『ターンAガンダム』→『千と千尋の神隠し』という時系列で体験して、「大きな物語」への回帰というような大きな流れを当時感じたのを今でも覚えています。

無数の解釈ができる物語は無敵


『千と千尋の神隠し』のお話は、お話はそれこそ小さな子供でも分かるほどにシンプル。構造しかない。
あらすじを書けと言われたら、ジブリ絵本そのままになると思う。それ以上のお話はない。
ところが、見る人が各エピソードにどういう意味を見出すかで大きく解釈が異なっていく。
ストーリーは1つで、無数の解釈ができる物語は無敵だな、とつくづく感じたのがこの作品です。

■皆さんに聞きました!『千と千尋』ってどんな話?
・「生きる力が退化した子供達がそれを取り戻す話だ」
・「両親のために遊郭で働くはめになる少女の物語」
・「環境破壊で傷ついた神様(自然)を少女が癒す物語だよ」
・「ちひろちゃんが、おとうさんとおかあさんをたすけるために、がんばるおはなし」


あらすじはかんたん。「では、なんの物語なのか?」という部分が、完全に受け手にゆだねられているので、どう受け取ろうが「解釈」というレイヤーで見るなら上の例も全て間違いとはいえない。どうとでも解釈できる設計だと思います。
『千と千尋の神隠し』の最終的なストーリーは、受け手の解釈をもってして完成する、と言ってもいいでしょう。

例えば、ファミリーで『千と千尋の神隠し』を見た場合はどうでしょう。
同じ映画を見て、同じおはなしを体験したのに、家族全員の感想が大きく違ってくるのではないでしょうか。
子供たちは主人公の少女に感情移入して冒険にドキドキして楽しかった、面白かったと笑う。
大人たちは、環境問題や、病める現代社会への問題提起、どこかなつかしい空間へのノスタルジー、子供へのありがたい説教などを感じとって、見てよかった。見せてよかったとなったりもするでしょう。
(お父さんはさらに、隠されたエロいメッセージを感じとっているかも知れない)

そういえば、湯屋=遊郭なので、「千」という源氏名をもらって風俗で働く話だよ、という指摘があります。
(私が見たのは町山智浩さんのこちらの記事。)
それに対して「そんな風に解釈するのはけしからん」という反応を見たことがあります。ネットで見たので性別は分かりませんが、子供を持つお母さんだったかも知れないですね。
町山さんの記事は、インテリや評論家が揃いも揃ってこれをスルーするのはおかしいんじゃないか?という指摘というか問題提起なので「こう見なければいけない」というような狭量なものではないと思います。
でも、その解釈をお母さん達に聞かせたときにおこる反応も分かる。
だから別に「湯屋=遊郭」と見なくていい。子供達にも温泉旅館でアルバイトするようなものだとして話せばいいし、それでも何の支障もなく楽しめる。親子で親子らしく解釈すればいい。
(そして、子供は何度目かの金曜ロードショーで「あ!そういうことかも…」と気づくのかも知れないが、その頃には親には言うまい。奥さん、あんたの子供は知らないうちに大人の階段登ってるよ!)

なぜ千尋の両親が豚になるのか


『千と千尋の神隠し』が意図的に無数の解釈を生むような作りをしているのは、物語冒頭で千尋の両親が豚に変わってしまうところにも見ることができます。
なぜ両親が豚にならないといけないのか、はっきりいって究極的には理由はないと思う。
ただし、意味はあり、解釈もまた無数にとれる。

映画としては、これにより、目的「両親を取り戻し、この異界から脱出する」がつくられたことになる。
だからもちろん意味はある。だが、そのためのシーンが、なぜ「ご飯を食べて豚になる」なのか。

「豚」になる解釈
・神様の食べ物を勝手に食べた罰だ
・勝手に人の物を食べてはいけませんという、ありがたい説教
・異界でうかつに物を口にすると帰れなくなるという、神話的な構造にもとづくもの
・豚は、いやしい現代日本人の象徴。飽食のシンボル。
・はいってきたにんげんをぶたにしてたべちゃう、わな?


といった感じに、色んな解釈ができますね。
浅い深いとか考え方の違いはあれど、解釈はどうとでも取れ、どれも間違いではないと思います。
と言いますか、映画的には「目的の発生」というところをちゃんと理解してもらえればよく、あとはどうでも好きにしてくれ、という作りにしていると思います。
宮崎駿の中で正解となる解釈があるかも知れませんが、その解釈しかしてほしくないのであれば、やりようはいくらでもあると思いますから。だから宮崎の意図とは関係なく、解釈は自由に任される。

ここで間違えてはいけないのは、子供は浅くしか受け取れないが、大人は深く作品を理解できたので、より楽しめた、ということではないということ。
スクリーンに映されたお話を体験し、楽しんだ、ということに関しては、大人も子供も全く平等。
単純きわまりない話として展開されるので、映画のお話としては、老若男女が同じように楽しむことができる。

ただし大人は、この単純きわまりない話に「勝手に」「自動的に」意味を見出す。
というより、あまりに神話的、寓話的なお話なので、どうしても、象徴や、意味や、役割を見出してしまう。

だから、おおいに自分の解釈を語り、他人の解釈を聞き、あーだこーだ言うのが正しい楽しみ方の作法と言ってもいいでしょう。
実際ネットでも大人たちが語るジブリ映画の感想は基本的に解釈論です。
たまに、トンデラハウスの大冒険的な(オブラートな表現)飛躍のある解釈をされる方もいるが、そういう人でもストーリーはちゃんと理解しているはずです。子供でも理解できるお話だから当然ですが。
あくまでも解釈のレイヤーで、トンデラハウス(オブラート)しているだけでね。

私は見てませんが『崖の上のポニョ』も見てきた人によって、感想が大きく違ってました。
私は自分が見ていないだけに、逆に皆さんのポニョ感想を楽しく読みましたが、この作品も『千と千尋』同様に相当な解釈遊びができる映画のようですね。同じ映画を見たとは思えないほどバラエティにあふれてました。
でもみんな同じ映画を見ているし、同じ月を見ている。
日本では月でウサギがモチつきをしていることになっているが、世界にはさまざまな解釈がある。だが、どれもそれぞれにとって正しいし、そこに月があることは変わらない。見ているのは同じ月だ。

『千と千尋の神隠し』に正しい解釈による見方、のようなものは多分無い。というかあってはいけない。あったとしてもあってはいけないことにしよう。
全ての人で共有できるような「大きな物語」を提供して、あとは受け手が勝手に「解釈」して完成する作品だから。

この仕組みは、本当にすばらしいですね。
老若男女が楽しめるから、ファミリーで見に行くことが出来るし、大人も子供のお付き合いだけでなく、大人らしい解釈で物語を読み取ることができる。
だから受け取り方を変えながら何度も見ることができるし、年齢を重ねても、その年に見合った見方へ変化しながら、いつまでも見ることができる。
複数回劇場に行くことが出来るし、見た人同士の会話も楽しい。金曜ロードショーで見るたびに少しずつ違う見方をしても面白い。それは国民的アニメになるよね。
シンプルな「大きな物語」を使って、それでも陳腐と言われないための有効な方法の一つなんだろうな、と思います。

余談:『イノセンス』それは、なに?


押井守の映画も、意味を読み取るのを楽しむ映画ですよね。
『イノセンス』なんかは、劇場で見た時にストーリー自体は単純すぎるぐらいに単純なことが面白かった。つまり映画のポイントはもうそこにはない。
(中島敦の『悟浄出世(わが西遊記)』を連想しましたよ。なぜか。)
ただ、理詰めの部分が大きいので、宮崎駿と比べて良くも悪くも「混沌」さが少なく、解釈の深度はあってもどうしても幅は狭く感じられます。

また、解釈をしない層に対してのサービスが悪すぎると思います。もちろんそこは意図して、客を選んでいるのでしょうけれど。それに関しては押井免疫の無い友人達と劇場で『イノセンス』を見たときに出てきた感想が面白かった。
友人A「なんかすごく単純で淡白というか面白みのない話だったなあ」
友人B「うーん、セリフばっかりで難しいなあ。色々深そうなんだけど俺にはわからん」
という感じの両極端なものだったのは興味深かった。友人達、あんた達はわるくない。わるくないよ!
友人B「あと、中盤の天丼(館への潜入)はくどくない?」
いやあ、あれはジョン・ウーの鳩みたいなもんなんで。どれが現実でどれが夢かなんて誰にも分かりはしないんです。
スクリーンに映る光もそれを見つめる俺達すらも全ては幻、胡蝶の夢なんです。
友人A「(苦笑して)それにしては全然覚めないよね、私らの夢。もうそろそろ覚めてもいいよね?」
…全く。

そういう意味では、次回作が「宮本武蔵」だと最初に聞いたときは面白いなあ、と思いました。
日本人なら誰でも知ってる人物だし、「バカボンド」などで若い人にも広く知られた人物ですから。
誰でも知ってるようなお話を押井守がやる、というのはいいなあ、と最初思ったのに、監督じゃなかったので、それが残念でしたけども。



新海誠さんの話ができなかったので、また次回へ。
また話は大きく変わるので、続きものというわけではありませんが。
前回記事、飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話> を多くの方に見ていただいたようで誠にありがとうございます。
ご訪問いただいた方、コメント、トラックバック、ブックマークしていただいた方、言及記事を書いていただいた方など皆様に感謝いたします。

身近な友人・知人向けに書いているようなブログなので、何気なくアクセス解析をのぞいた時は何事かと怯え、おしっこもれそうになりました。(我慢しました)
さらに、はてなからの訪問が多かったので見てみると、私の想像を絶するブックマーク数が!(ここで残念ながらもれました)
正直そこまでの内容の記事でもないなと自分でも思うので、時期も時期だし、皆様が何かを考えたり意見を述べるきっかけ作りぐらいにはなったのかな、と受け止めることにしました。

あとみんな宮崎駿と押井守好きすぎです。
どんだけ好きなんですか。(特にはてなの方)


調べてみると、囚人022さんにブックマークしていただいたのがきっかけになったようです。
囚人022さんのはてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/prisoner022/
囚人022さんには、この少し前の記事もブックマークしていただいたようでありがとうございます。以前からブログを拝見していましたので嬉しいです。

記事については、アクセスやブックマークに対して嬉しいというより、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちでいっぱいだったのですが、コメントやブックマークコメント、言及記事などを見ると、より深い情報や鋭いツッコミ、別視点、補足などがありとても刺激的でした。

ですので、私の記事だけでなく、ブクマコメや言及記事なども読んでいただき、丸ごと楽しんだり考えたりしていただくのが一番いいですね。
コメントやブクマコメに良いこと面白いことがいっぱい書いてあるので、それも読んでいただいて「なるほど!」「面白いな!」「いやいやこうも考えられないか?」「待てよ、そういえば…」「知っているのか雷電!」で全然いいと思います。

というわけで私の記事部分だけでなく、ぜひ記事コメント、ブックマークコメントや言及記事などもご覧下さい。

はてなブックマーク - 飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話>
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html
(とりあえずブックマーク数が圧倒的に多いはてなを。コメントと言及リンクがまとまっていて紹介しやすくていいですね)

最初は記事にいただいたコメントやブックマークコメントを受けて、色々お返事したりしようと思っていたのですが、量的に私の手に負えない感じなのと、色んな方が鋭い分析や示唆に富む発言をしてくださったりしてるので、あまり必要性を感じないと思っていますがどうでしょうか。
(いただいたコメントなどを見て、私自身が大体満足したからというのもあります)
なので、皆さんの刺激を受けて書きたいな、と改めて思ったことだけ書かせていただこうと思います。



■前回記事について

前半は、押井監督のリアリティをコントロールするという概念が面白いなあ、というメモ。
後半は、押井・宮崎両監督のキャラクターというか性質の違いを分かりやすく考えようとしたもの、という感じです。
個別の作品論や、作品全てを分析した総括というわけでもないので、そういうご期待に添えなくて申し訳ないです。

先日放送のNHK「崖の上のポニョ」密着番組を見たのですが、その中で宮崎監督が

「この映画見て、『波の上を走れるんじゃないか?』と子供が思ってくれたら、やったぜ、と思うね」

みたいなことを言ってましたね。
この発言などはまさしく、無茶をアニメーションの魅力で通す人ならではだと感じました。

押井監督の舞台もアニメですが、こういういかにもアニメらしい説得の仕方はしないです。
かといって「じゃあやっぱり押井監督はアニメじゃなくて実写やってればいいのに」というわけでも無い気がするんですよね。

アニメは言うなれば全て幻想で、背景からキャラから何から何まで全てをゼロから用意しなければ成り立たないのですが、逆に言えば用意したものには全て理由がある。必要なものと判断して選択したものだからです。
言わば画面にある要素は全て押井監督が選択したものであり、意図が反映されたもの。
その全ての要素をコントロールできるところが、アニメが押井監督に合っている、というか好みなんじゃないかな、と思うんですよね。
その結果、押井アニメは押井監督の意図やメッセージがすみずみまで盛り込まれていることになり、押井純度が限りなく高くなるのがたまらんのでしょうね。
実写は情報量が多すぎてコントロールしきれなかったり、その情報量がノイズになってしまうことさえありますから。(もちろんそれが魅力なんですけども)
押井実写映画を私はあまり見ないのですが、見てない「アヴァロン」なんかは実写をアニメ素材みたいにコントロールしようとした作品みたいなイメージがあるのですが、どうなんでしょう?

結局、宮崎、押井の両監督共に幻想であるアニメを作る以上は、いかにすばらしい嘘をつくか、という世界のお人だと思います。その意味では同じなんですよね。
いかにこの嘘に説得力を持たせて観客に見せるか、という所こそが大事なのであって、そのためのアプローチが違うからこそ対照的に見えて面白いんじゃないでしょうか。
宮崎世界がリアリティが低い、死なないとか、押井世界がリアリティ高い、死ぬ、ということではなく、見せたいモノのためにチョイスしている世界とやり方こそが面白いということですね。

宮崎駿

・すばらしいアニメーション(動き)で無茶に説得力を持たせる。そのクオリティは宮崎本人が担保する。
・このためキャラクターデザインを作品ごとに選ぶということはなく、どの作品も当然「宮崎キャラ」になる。
・「コナン」や「ラピュタ」でも人は死にますが、危機的状況で死んでしまう人々と生き残る主人公の差は(それは言ってしまえば配役の差なのですが)、画面上においては「主人公としての精神と行動」の結果である、というように見せている気がします。
・つまり前回記事でも言いましたが、少女を守ろうとする「意志の強さ」や「優しさ」、それを行動に移す「勇気」。それがある人間は死なない(死ぬべきじゃない)。ここが嘘部分。こういう人間はこうあって欲しいという嘘。
・そして、その嘘は宮崎のすばらしいアニメーションで説得される。「パズーえらい。すごい。がんばった。」すばらしい説得。喜んで説得されますよ私は。
・あと、ピンチを勇気をもってくぐり抜けようとする時、その行動は報われるという視聴者(子供たち)との見えない信頼があり、それを守っているイメージがあります。


押井守

・動きの説得力については、押井本人は担保できないし、しない。
・代わりに、脚本や絵コンテ、画面構成などのクオリティは担保する。
・キャラクターデザインも、作品ごとに表現したい世界を体現できるような説得力を持ったキャラクターを選択する。
・例えば、押井監督がパズーがピンチをくぐり抜ける場面を作るとして、その理由を「勇気と優しさに支えられた行動」のような精神的なものには決してしないだろうなあ(もっと色々理屈がつくはず)。
・街並みや銃器などのリアリティも、大きな嘘の説得力をもたせるために外堀を埋めているようなもんなんでしょうか(本人の趣味でもあるでしょうが)。
・別に押井監督に限らず、宮崎駿みたいな方法で動きの説得力を担保できない場合、それ以外の要素をきちんと固めて説得しようとするのが当たり前だし、それが冷静な判断な気がします。


私は「ポニョ」も「スカイ・クロラ」も見てませんし、作品ごとに色々例外もあると思いますが、両監督のキャラクター傾向として。
両監督ともやっぱり面白いですね。
個々の作品が、というか両監督が同じように好きです。

押井監督の制作スタンス辺りから、少し前に菅野よう子さんのインタビューで見かけた「富野監督は音楽も絵も信じてない」という話題につなげたりできないかな?と考えました。

菅野よう子:とにかく言葉がいっぱい、攻撃か弾幕のように出てくる方で(笑)、おまけに本人が音楽の力をまったく信じてない。多分、自分の言葉しか信じてない、全部台詞で言っちゃう。最初は「あ゛ぁ~! 」って感じでしたけど、「音楽も絵も信じてない人なんだ」って分かってからは大丈夫でした(笑)。


富野監督も押井監督と同じく、画や動きの説得力を本人が担保するわけではないので、やっぱり脚本(セリフ)や設定(世界観)、絵コンテなどを押さえることで自分の作品を作るタイプなんだろうと思います。
しかし押井監督以上に信用してないイメージがあるのは、元々の性質もあるでしょうが、虫プロの時代からありとあらゆる作品に参加してさまざまな体験をされていることが影響しているかも知れませんね。

視聴者に対して物語のクオリティを保証する方法として、自分がコントロールできる要素以外をあまり信用しない、という作り方を選んだ(選ばざるを得なかった)という部分があったのかも。
動画がひどいかも知れない、イメージに合う音楽がない、キャスティングに不安要素がある、安彦さんが倒れた、デザインや設定にノーを出された、などなど。
これまで体験した極限状況が、「信用しない(完全にコントロールしきれない要素には寄りかからない)」作品を生んでしまった一要素なのだとしたら、監督本人にとっても参加スタッフにとっても悲劇なのかも知れませんね。
でもそこで菅野さんみたいに監督に色んな意味で負けないような人が音楽の力を見せてくれれば、お互いのためにもそれでいいんでしょう。



■余談(富野由悠季の場合)について

富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。


上記について、何人かの方がコメントなどしてくださってましたが、前回記事はタイトル通り、宮崎押井の話題に絞ろうと思っていましたので、富野監督は最初からオチだけ担当していただこうと考えていました。
そのため、いくつかパターンは考えました。

絶体絶命
→女性が[かばう]コマンドで代わりに死んでくれる(ただし男性のみ有効)

絶体絶命
→そのとき、なんかが発動した。で、歴史が動いた!あとお腹の赤ちゃんも!

絶体絶命
→黙示録(皆殺しwith万有引力)


結局、2代目ロボ登場パターンを選びましたが、戦闘中に駆けつけるビルバインやZガンダム等が何とか該当するものの、(ご指摘のとおり)ピンチ脱出には直接関係ないパターンが多いですね。
この表現には「グレートマジンガー」登場が最もふさわしいというのはごもっともと思います。(特に劇場版「マジンガーZ対暗黒大将軍」)

「2代目ロボ」という言葉に集約させましたが、商品を次々に登場させないといけないさだめのTVアニメを色々工夫して作ってきたという意味だと思っていただければ。
スポンサーとの兼ね合いの中、ああいう作品を作る富野監督は(大変でしょうけども)とても素晴らしいと思っています。
イデオンのデザイン押し付けられて、105mの巨大遺跡にして乗り切ったのは本当にすごいですよね。

※トミノ愛について
用を足しに行くときに「どこへ行くの?」と問われて「トイレに行くと言っている」と答えるほどには富野監督、富野アニメ共に愛してますので、愛ゆえにオチに使わせていただいたことをご理解いただければ幸いです。
(「とってつけたオチ自体いらないだろ」とのご意見もあるかと思うのですが、何かオチが無いと不安で仕方ない悪い病気です)
富野アニメ記事はまた色々書いていきたいと思いますので、その際にまた考えたりすることにします。
高いビルから飛び降りたら、あなたは死にますか?
そりゃあ死にますよね。だってにんげんだもの(みつを)。


ではアニメやマンガの住人はどうでしょう?
現実と同じく死んでしまうお話もあれば、地面に人型に穴があいてギャグになって終わり、というのもありますね。
その違いって一体なんなの?

というようなお話。



こういった作品ごとに違うリアリティに対して、押井守は、
「作品のリアリティは、監督によってコントロールされるべきものだ」
とインタビューで話しておりました。
(出典はアニメスタイル2号の押井守インタビューですが、部屋のどこにあるのか見つからないので大意です)

ここでのリアリティとは、出てくるキャラクターや背景が写実的なのか、という画だけの問題でなく、演出などを含めた作品全体で表現されるリアリティをさします。
つまり高いビルから飛び降りたときに、キャラクターが死んでしまう作品なのか、ギャグで済む作品なのかは、監督がコントロールするものであるということですね。

押井守はインタビュー中で、自身が監督した「機動警察パトレイバー」を例に出していました。

例えば、2階からパトレイバーのキャラクターが飛び降りたとする。
その時に下に池があり水しぶきがあがるだけで<ケガをしない>のか。
それとも<ケガはするが次のシーンですっかり直る>のか。
それとも<現実どおりのケガをする>のか。

パトレイバーは展開されたメディアによってリアリティのレベルが微妙に違うものとしてコントロールされている、と。

ちなみにマンガとアニメのパトレイバーだと<ケガはするが次のシーンですっかり直る>ぐらいのリアリティかな?
<現実どおりのケガをする>のは、劇場版パトレイバーのリアリティになるでしょうか。
<ケガをしない>のは、パトレイバーのコメディ回でもありえますが、まあ、うる星やつらですかね。

つまり太田さんが同じように暴れても、アニメやマンガではケガをするぐらいで済む(でも次の回には治っている)けれど、劇場版では死んでしまうかもしれないわけですね。

■作品世界を体現するために選ばれるキャラクター

このインタビューで面白いなあ、と思ったのは、押井守にとって、まず作品で表現したいリアリティレベルの設定ありきで、キャラクターデザインの絵柄は、そのために選ばれるものだということです。

先のパトレイバーでいうなら、劇場版は明らかにアニメ版とは違うリアリティでリデザインされているし、映画「攻殻機動隊」では、主人公草薙素子を肉感的なリアリティのあるキャラクターデザインとし、原作士郎正宗のものから大きく変えました。
それは全て、作品で表現したいリアリティをキャラクターに体現してもらうため。
ビルから飛び降り、格闘し、大口径の銃をぶっ放すサイボーグ軍人女性の首が細いわけはない、肩が張っていないわけはない。
だから原作の士郎正宗がデザインした首の細い(いわゆる)マンガ的なキャラクターを使わなかった。
つまり、作品の方向性、必要なリアリティと密接な関係がある以上、キャラクターデザインは単純な絵の好み、良し悪しだけでは選べないということ。
こういう考えの元では、結果的にキャラクターデザインと作品世界のリアリティが一致し、「ずれ」は生じない。

そんな押井守監督作品では「うる星やつら」の諸星あたるも「攻殻機動隊」の草薙素子も、高い所から飛び降りても死なないキャラクターになっています。
しかし作品で設定されているリアリティが違うため、結果は同じでも理由は違う。
「うる星やつら」はそもそもキャラクターが死なない(ギャグで済む)リアリティレベルであるから。飛び降りても好きな子の名を叫べば夢から覚めて助かるような不思議SF世界といった方がいいでしょうか。
「攻殻機動隊」ではうる星と違い、キャラクターは死にます。トグサや荒巻ですら飛び降りたら死ぬでしょう。そんな世界で死なないために全身義体のサイボーグで、さらに頑強な肉体を持ったキャラクターにリデザインする必要があったわけです。
(無茶をするため道理を通すのが、リアリティの高い作品の制約であり、その言い訳の工夫こそが面白さとも言えるでしょうね)

制作側はまず表現したい世界ありき。そしてその世界の表現に適したキャラクターが選ばれる、という過程があるというのが面白いところです。
選ばれたキャラクターは作品世界を体現した存在ですので、デフォルメキャラ→ギャグ世界と、キャラクターを見ただけで世界を理解してもらえるようにしてるわけですね。
(この世界は物理法則や人体構造を無視してますよ、というメッセージですよね)
一方、視聴者は制作過程などすっ飛ばして作品をまず見ますから、リアルなキャラクターだからリアルな世界で、デフォルメキャラだからギャグ世界だと素直に感じるのですが、それはメッセージの受け取り方として間違ってないわけです。

ちなみに同インタビューでは、押井が、他のアニメ作品をさして、
「キャラクターと作品世界が一致していない作品が多すぎる」というようなことも言ってましたね。
具体的な作品名は一切あげていなかったけども、思い当たるフシは色々ある。
リアリティのないキャラクターでハードな生き死にバトルをしたり、萌え美少女たちがトラウマ博覧会して人生を語ったりするようなことを言ってるんじゃないかな。
私も未見のアニメ作品のキャラクターだけ見た後で、実際に作品を見て「え?中身はこんな話だったの?」と見かけとのギャップに驚いたことが何度もあったように思います。

さて、この「飛び降りてケガをするか、死ぬかどうか」というのは、あくまで「リアリティのコントロール」を説明するための例にすぎないのですが、この例を色々考えていくと面白いところにぶつかります。
なぜなら「飛び降りても絶対死なないアニメ」を作っている国民的アニメ監督がいるから。
もちろん宮崎さんちのハヤオ君のことです。

■飛び降りる宮崎駿

それは例えば宮崎アニメでよくあるこういうシーン。
高い塔やビルのてっぺんで、少年はとらわれの少女を助けるが敵に追い詰められる。逃げ場はない。
絶体絶命のピンチ。どうする?どうやってこの危機を乗り切る?

こんな時、宮崎アニメで少年はどうするか?………そう、正解は「勇気をもって飛び降りる」です。
少女をお姫様だっこして飛び降りる。飛び降り方は色々バリエーションあれど、とにかく飛び降りる。
少年は地面に着地し、体全体にしびれが走るが、両足をふんばり、少女と共に駆け出す。
まさに宮崎アニメだと毎度1回は必ずあるようなシーンですよね。特にコナン、カリ城、ラピュタが思い浮かびます。

でもこういった宮崎アニメの見せ場シーンも押井守に言わせるとこうなる。
「せっかく絶体絶命の危機のシーンを作ったのに、主人公の無茶で簡単に脱出されるんだったら脚本の意味が無いじゃないか」

↑これ、昔、何か古いアニメ評論の本で読んだ気がするのですが、手元にないので良く分かりません。(こういう場面でで「アニメであること」に逃げるからダメなんだ的なことも言ってたような気もします)

まあ、確かに飛び降りても大丈夫なようにあれこれ理屈をつけたり、夢世界にしたり、キャラクターすら変えた押井先生に対して、「我慢する」ですからねえ(笑)。

先ほどのリアリティコントロールの話と合わせて、2人の作家性の違いが見て取れて大変面白いですね。
私が感じるに、つまりこういうことじゃないかな。

宮崎駿

・絶体絶命のシーンをドキドキワクワクのダイナミックな動きで突破することこそアニメーションの楽しさと信じている。
・そうでなくて何がアニメーションなのか。飛び降りてケガをするキャラクターの物語は、リアルな肉体を持った実写でやればよい。
・無茶を通せば道理が引っ込むものだ。観客が「道理が引っ込んで当然」と思うほどの魅力的な動きを作ればよい。
・飛び降りた少年がケガするのはナンセンスで、ケガをするかどうかでなく、少女を守るために飛び降りる勇気があるか、少女の重さを歯を食いしばって耐えられるかどうか、そこが重要なところだ。それができる少年がケガするわけがない。


押井守

・絶対絶命のシーンは道理(脚本・構成レベル)でつくられる。ならばその解決も道理で行いたい。
・というか絶体絶命までの最悪のシナリオを登場人物たちが知恵を絞り、行動し、それを回避するような話が好き。(劇場版パト1なんか完全にそう)
・観客が危機回避を納得できるだけの理屈は必要なはずだ。そのためには、危機脱出のための伏線をはったり、駆け引きさせたり、言い訳をちゃんと作ろう。
・問題はその作品のリアリティレベルがどの程度か、ということだ。それに応じてシーンはつくられ、リアリティが守られる。
・最終的に飛び降りざるを得なくなったとしたら、飛び降りても助かる理屈を付けるし、その作品のリアリティレベルに応じてケガをさせるだろう。
・もしくは好きな子の名を叫べば夢から覚めればよい。夢の中ではリアリティは関係ないからどうとでもなる。
・夢から覚めた世界もまた夢の中でないとなぜ言い切れる?いや、まて。そもそもこの映画を見ている俺達の実存さえも疑わしい。いや、まて…(以下、永遠に続く)


乱暴にまとめれば「道理を壊して無茶を通す宮崎駿」「無茶をするため道理を通す押井守」といったところでしょうか。

この2人の違いは思想の違いもあるけれど、宮崎が絵を描くことができる監督であり、押井は絵を描くことができない監督であるという違いも大きく影響しているでしょうね。

宮崎駿の考え方こそアニメーションそのもの、とは言えると思います。ディズニーやトム&ジェリーなどにも通じる魅力ですね。
ただこれは宮崎駿本人が天才アニメーターであることで支えられている。ジブリ作品(紅の豚以降?)はしっかりした脚本がないそうで、脚本はアニメ作りながら作るし、アニメの都合でどんどん変えられていく。 (ジャッキー・チェンの映画の作り方と似ているなと思います)
究極的に言えば、自分だけでアニメが作れるから出来る方法です。

一方の押井守は絵が描けないので、当然絵は誰かに描いてもらうことになるわけです。
そうなると自分はそれを管理(コントロール)する側にならざるを得ない。
だから脚本、絵コンテ、画面構成を重視することになります。なぜなら、その部分さえしっかり握っていれば、誰が絵を描こうと、押井守の映画になるからです。
それらをさえてれば、自分の映画をれる=押井守。そうか、そこから来たネーミングか!(押井さんはキャラクターではありません)

私個人でいえば、絵心が無いことと、理詰めで理解しやすいことを考えると、押井守の考え方に感銘を覚えます。
(もちろん、宮崎駿「作品」は魅力的で大好きなのですが)

解決法の違いがそれぞれの監督の長所や魅力となっているので、どちらが正しいとかではなく、お互いが自分の信じる演出をするのが正しいのでしょうね。
それにしても対照的で面白いですね。

※余談
富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。
これじゃないですかね。やっぱり。スポンサーの枠組みの中で最大限の仕事をしてきた人としては。ピンチは新商品が登場するためにこそ存在する!

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