なぜか今、特に脈略もなくゲーム『ドラゴンクエスト』の話。

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『ドラゴンクエスト』公式サイトへ


私は初代『ドラゴンクエスト』をリアルタイムで体験した世代だが、シリーズとしては6までしかプレイしていない(つまりSFCまで)。

「RPG」という言葉や存在を知ったのは恐らく本や雑誌(ベーマガとか)で、それは『ドラゴンクエスト』より少し前のことだと思うが、実際に自分で購入しクリアまでした最初のRPGは『ドラゴンクエスト』のはず。

そんな私がこれからする話は、当然ながら今更ゲームシステムや物語の考察でもなく、作品レビューでもなく、『ドラゴンクエスト』にまつわるいくつかの思い出話になる。

無知な素人が例えば、ゲームの歴史とか革命とか、やたら大きなものを語っても意味のあるものにはならないだろう。

ということで要するに“『ドラゴンクエスト』思い出語り”をするわけだが、個人が今更『ドラゴンクエスト』の話をWebに追加するとしたら、こうしたマイナーでローカルで、個人の実体験に基づくエピソードの方が価値があるのではないだろうか。

「ない」と言われると終わるしか無いので、「ある」ことにして先を書き進めることにする。

『ドラゴンクエスト』(FC:1986年5月27日発売)




『ドラゴンクエスト』第一作目を、私は友人のファミコン版で見たはずで、ぜひこれは手に入れなければ、と思ったのだろう。自分でも購入することになる。MSX版をな!
(このあたりの難儀さと悲哀があるが割愛)

Wikipediaによると、MSX版の発売はファミコン版の半年後あたりであったらしい。

『ドラゴンクエスト』(FC:1986年5月27日発売)
『ドラゴンクエスト』(MSX:1986年12月18日発売)


半年後とはいえ同年に発売してくれて御の字であろうし、発売日を見る限りクリスマスプレゼントでの購入だろう。
手に入れた『ドラゴンクエスト』を熱中してクリアしたことは、今も断片的だが覚えている。
(スタート時、たけざおで何とか乗り切る派だった気がする)

「ふっかつのじゅもん」って知ってるかい?


自分でも『ドラゴンクエスト』をクリアしたあとの出来事。どのくらいあとのことなのかは覚えていないが、発売翌年とかそういうレベルだと思う。

自宅から車で少し行ったところに祖父・祖母の家があり、歩いてすぐの距離に親戚の家があった。
そこにはひとつ年上の男の子がおり、兄貴分的な感じで当時たびたび遊んでもらっていた。

その日も歩いて遊びに行ったが、あいにく不在だという。
ただ、そのうち帰ってくるだろうから待っていたら?とのことだったので、勝手知ったる親戚の家。上がり込んで、待たせてもらうことにした。

リビングに入ると、親戚の子の姉にあたる、お姉ちゃんがファミコンをしていた。
それが『ドラゴンクエスト』だった。

お姉ちゃんはもう中(もう中学生)で齢も離れていたし、特に親しく遊んでいたわけでは無かったし、すでにクリアした『ドラゴンクエスト』だし、1人用のゲームだし、ということで、横目で見ながら、マンガでも読んで帰りを待つことにした。

姉ちゃんのドラクエは、私が訪れる前からプレーしていたのもあって結構進んでいたと思う。ファミコンで遊んでいるところを見たことが無かったので「へー、ゲームするんだ意外だな」という感じだった。

しかし、あるタイミングで驚くべきことが起こる。
姉ちゃんはプレー中、おもむろにファミコンの電源を落とした

「!!?」

衝撃を受ける子供の私。
確か「ふっかつのじゅもん」を表示していなかったし、書き取った形跡もない。
つまり、それなりにプレーが進んでいるドラクエを保存もせず、いきなり終わらせた。

いまだ動揺する私をよそに、姉ちゃんは立ち上がり

「今日は呪文○つまでしかいけなかったな」

と、つぶやいて部屋を出ていった。
○には数字が入るが、記憶がすごく曖昧で、よく覚えていない。

そこで、FC版『ドラゴンクエスト』序盤の呪文習得レベルについて検索してみると、こんな感じ。

習得レベルと呪文
レベル3 ホイミ
レベル4 ギラ
レベル7 ラリホー
レベル9 レミーラ
レベル10 マホトーン


かすかな記憶と、レベル9、10ってスタートから普通にプレイして何時間かかるんだろう?と考えると、レベル7のラリホーあたりまで進んでいたのでは、という気がする。

そこから推測すると、姉ちゃんのつぶやきは以下のようなものだったのではないか。

「今日は呪文3つまでしかいけなかったな」

レベルではなく、呪文をいくつ覚えていたかを進行度の目安にしていたことも面白いが、「今日は」という台詞からは、何度かこういう遊び方をしていることを伺わせる。もしかするとレミーラやマホトーンを覚えるまで行ったこともあったかも知れない。

……何度か?
最初からドラクエを始めて、それなりにゲームが進んだあとに、おもむろに電源を切る遊びを?
何度か?

多分、そうなんだろうと思う。
今から考えるとなぜ?と不思議に思うかもしれないが、そもそも「RPG」という遊び方になじみがまだまだ薄い時代。
しかも、いつもはファミコン(ゲーム)やらないお姉ちゃんが、説明書や攻略本などを見てる形跡もない。
RPGとはどういうゲームで、どのくらいのボリュームがあり、どこまで遊ぶのか、白紙の状態で遊ぶと結構分からないものなんじゃないか、という気がする。

RPGはじめて物語というか、明治維新の文明開化で、よく分からないものに初めて触れる日本人のおもしろエピソード的な。

ちなみに、姉ちゃんがドラクエをやめてリビングを出ていってから、しばらくして親戚の兄ちゃんがご帰宅。
私は、驚きのドラクエいきなり電源OFFについて話した。「ふっかつのじゅもん」を知らないんだろうか?
すると「バカじゃねーの?どうせ知らないんだよ。いいよ、それより遊ぼうぜ」みたいな答えが帰ってきたと思う。



『ドラゴンクエスト』による、より開かれたゲームの世界


とはいえ。
『ドラゴンクエスト』では、「ふっかつのじゅもん」というパスワードをメモして、ゲーム進行を保存することについて、ゲーム内で(というかスタート時に)チュートリアルとして情報は与えられてたはず。(プレイ環境が無いのでセリフは覚えていないが……)
仮に推測通り、何度かノーセーブプレイをしているだとしたら、なおさら全くその存在を知らないというのはありえないのではないか。

私の推測では、「ふっかつのじゅもん」システム自体は知っていた可能性は高いと思う。
恐らく、そもそも特別ゲームが好きでもない姉ちゃんにとっては、弟がいない(ファミコンが空いてる)時にやる、気まぐれの遊びでしかなく、その中でシューティングやアクションのような反射神経と慣れが不必要なゲームとして『ドラゴンクエスト』が選ばれたのではないか。

その『ドラゴンクエスト』も、「ふっかつのじゅもん」をメモまでして、何度も再開し、最後まで遊ぶつもりはなく、それなりに戦闘や冒険を楽しんだら、あー面白かったと電源を切るような遊び方で満足していたのではないかと思う。
(そう考えると、SFC時代になるがドラクエにしてローグライクである『トルネコの大冒険』がぴったりな気がする)



経験値1も1ゴールドも血の一滴、と思っていた小学生の自分にはあまりにもショッキングな遊び方だったが、大人になった今ではそういう遊び方もありだし、何も問題は無いと思える。

というか、Steamでインディーゲームをいくつも買ったあげく、少しだけ遊んで「なるほどなー、こういうゲームか。面白いな」と言いつつ、浅瀬でゲームをやめてしまうのを続けている今の自分は、限りなくそれに近いのでは――(考えるのをやめた)。

この記事を書く少し前。
法事で親類の集まりがあり、そこに親戚の兄ちゃん(というか、お互いおじさんだが)が来ていた。姉ちゃんは不在。
昼食の後、お茶を飲みながら世間話をしている時に、ふと思い出して、この「ドラクエいきなり電源オフ」について訊いてみた。
やはりというか覚えていなかったが、いくつか当時の情報を手に入れた。
(これが、今回いきなりドラクエの記事を書いた理由ときっかけでもある)

・そもそも姉がファミコンをやっていたという記憶がない。
・ゲームに興味ないと思っていた。
・ドラクエをプレイしていたという記憶も特に無い。
・恐らくクリアするまでドラクエをプレイしていないんじゃないか。


ファミコンはこの兄ちゃんの所有物だったので、そもそも弟がいる時にわざわざゲームをやってなかったのだと思う。まあ姉弟間で、オレのファミコン勝手にやるんじゃねーよ的な色々があったのかも知れない。

実際に、私が兄ちゃんとファミコンと、アクションやシューティングなどで遊んでいる時に、参加することは無かった(今から考えると、小学生男子2人の『ツインビー』とかに、中学生女子がわざわざ混ざる理由がそもそも無いけど)。
たまたま、兄ちゃん不在時に私が訪れたことで、姉ちゃんの「ドラクエおもむろ電源オフ」というレアプレイが見れたわけだ。

結果から見れば、弟の不在を選んでゲームをしていたわけで。
弟には観測されなかっただけで、ゲームには興味はあったのだろう。
ただ当時プレイしていた『アーガス』だの『マッハライダー』だの『スーパーチャイニーズ』だのに興味があったわけではなく、やっぱり『ドラゴンクエスト』というか、RPGに興味があったのではないだろうか。

いわゆるゲーム慣れしていないと、アクションやシューティングは楽しみを得づらい。
しかし『ドラゴンクエスト』に反射神経や巧みなコントロール操作は必要ないし、剣と魔法の世界としてちゃんと物語があり、冒険があり、選択肢を選ぶだけで戦えるバトルがあり、それを積み重ねればゲーム内のキャラクターが成長して強くなってくれる。

弟が『ドラゴンクエスト』をプレーするのを横目で見ながら、「面白そう」「私にもできそう」と思っても不思議ではない。

『ドラゴンクエスト』を代表とするファミコンでのRPGが、我々小学生男子に与えた影響は本当に大きかった。
でもそれ以上に、小学生男子的な身体性やスコアや勝負も必要のないゲームとしてのRPGが、女の子や大人に与えた影響はもっと大きいのかも知れない。いやアクション系が苦手な(好きでない)人全般と考えれば、ゲームが下手な私自身もそこに含まれる。

当時、RPGの利点として、プレーを続ければゲーム内のキャラクター側がどんどん強くなってくれるから、がんばれば誰でもクリアできることが、よく唱えられていたような気がする。
それぐらい「ゲームクリア」は一部の人のものだった。

もちろん実際は、レベルさえあげればクリアというほど単純なものでは無かったが、初期にファミコンでRPGという概念を普及させるにあたっては「万人に開かれたゲーム」というイメージに一役買っていたのだろうとは思う。

ちなみに、法事で会った兄ちゃんには別れ際に、「姉ちゃんにドラクエ1クリアしたかどうか、訊いてみて」と頼んでおいたけど、恐らく答えは「覚えていない」か、もしくは覚えていても「クリアしていない」だろう。

でも、毎回最初から初めて、満足したら電源ごと切る『ドラゴンクエスト』。
それでよかったんだろうと思う。多分ね。




『ドラゴンクエスト』 のテキストで物語を作る「ドラクエ文体」事件


もうひとつ、思い出話。

時代や教科書にもよるのだろうが、私が小学校の時に「空想の物語を書いてみよう」という授業があった。確か教科書には、架空の地図のイラストが載っており、それを見ながら空想の翼を広げてみよう、というものだったような気がする。

グループSNEの安田 均さんが「ファンタジーの本質は地図にある」と語っておられたが、その意味ではなかなかよい課題だ。

本来は、教科書掲載のサンプルとしての架空地図から、子供たちがそれぞれ物語を作り、同じ地図をもとにさまざまなバリエーションの物語ができるね、というものだと思う。
だが私の担任は、地図からの空想でなくともいいので、なにか短い物語を書いてみようと、地図制限のない課題に変更していたような気がする。

でも、物語をどう書くかみたいな授業は無かったと思うんですよね。
ノウハウは全く教えず、子供に自由に書かせてみようという、読書感想文のようなやり方。
今から考えれば、事前にある程度ノウハウ教えたり、フォーマットを用意して埋めていくようなやり方の方が多少まともな作品が書けるのでは、と思うが、これらが全く無いことが面白い方に作用することを当時の私は知ることになる。

多分、1週間ぐらい猶予があり、先生に提出し、授業で少し発表などもあった後、それぞれが書いたノートが手元に戻ってきた。
当然、他のみんながどんなお話を書いたのか気になり、ノートを交換して読み合いなどが始まる。

その中にひとり、私が衝撃を受けたお話を書いたクラスメイトがいた。
とりあえず文中で呼びやすいように「Aくん」と呼称することにする。

Aくんのお話は、読んで一目瞭然。
ほぼ『ドラゴンクエスト』 に登場するテキスト、特に戦闘シーンのテキストだけで組み立てられていた。

もちろん彼が書いた内容の詳細は覚えていないが、普通にドラクエの戦闘シーンのテキストを連想してもらえばいいと思う。
あくまでイメージだし、ドラクエ1テキストの正確な引用でもないが、Aくんの小説を少し再現してみよう。

スライムがあらわれた!
○○○のこうげき (※Aくんの設定した主人公の名前。ひらがな表記)
○○○は、3のダメージをあたえた!
スライムのこうげき
スライムは、2のダメージをあたえた!
○○○のこうげき
○○○は、3のダメージをあたえた!
スライムをたおした


ほぼ、このようなテキストがノートにびっしり書いてあったと思う。
いわゆるドラクエの戦闘シーンで表示されるメッセージをそのまま使って、バトルを表現しているわけです。

ドラクエをベースにしているので、主人公のセリフも、モノローグも何もない。
戦闘シーン以外をどう表現していたのかは、ぼんやりとしか覚えていないが、昔のアドベンチャーゲームのようなシンプルなテキストだったように記憶している。

・北へすすんだ。南へすすんだ。
・△△△のまちに入った。
・王様と話した。
・やくそうを買った。


実際に文章で使われていたのかは分からないが、ニュアンスとしては上記のようなイメージ。

『ドラゴンクエスト』 以後のことなので、私を含む読んだクラスメイトたちは当然、ドラクエのテキストだ!と気づく。
別にゲームブックになっているわけではないので、「にげる、しかしまわりこまれてしまった!」も、Aくんのさじ加減ひとつやないか、と思いながらも、ゲームでなじみのある文体なので、プレイしている子供にはある意味とても読みやすい。
何が行われて、何が起こったのか。ドラクエプレーヤーには分かりやすく、高いリーダビリティがある。
いや正確に言えば「読んでいない、読みやすさ」か。

『ドラゴンクエスト』=文字をたくさん読むゲーム


戦闘テキストについては、私が『ドラゴンクエスト』 をプレイしていた時に、画面を見ながら母親がつぶやいた一言を今も覚えている。

母「こんなに文字ばっかりたくさん出てきて、しかもすごいスピードで流れて、よく読めるね。楽しいの?」


母親は『ドラゴンクエスト』のことを、「たくさん文字を読むゲーム」だと認識しており、だからこの一言になるわけだが、実際のところ、プレーヤーはすべての文字をきっちり読んでいるわけではない。

特に戦闘シーンでは、テキストのフォーマットはきちんと決まっている。
先程、Aくんの小説にも使われていたように「○○○は、3のダメージをあたえた!」で、変動するのはダメージの数値だけだ。
戦闘の流れとしてテキストは流れていくが、一言一句読む必要はない。
どちらが先手か、攻撃は当たったか回避されたか、敵から逃げられたか、敵を倒したか。
戦闘の流れを掴みながら、あとは変動する数値でも把握すればよい。

だから慣れてしまえば、いわゆる文字、文章としてはほとんど読んでいないということになる。

あくまでゲームデザイン上の情報表示であり、小説などとは言葉の役割が違うからこそ、『ファイナルファンタジー』シリーズのように情報表示の置き換えができることになる。

例えば『ファイナルファンタジー』では、攻撃キャラクターが実際に剣を振るアクションをし、その攻撃が命中した敵キャラクターの上に「9999」とダメージ数が直接表示されたりする。
これにより「○○○のこうげき、○○○は、3のダメージをあたえた!」が、文章が不要な情報表示に置き換えられている。

FF4_9999

ファンタジー小説ではなくゲーム小説


話が逸れたので、Aくんの「ドラクエ文体」小説の話題に戻ろう。

Aくんの小説は、大きなインパクトがあり、ゲーム好きのクラスメイト(私含む)に好評だったが、正直なところ、ドラクエの戦闘テキストでノートを埋めた感があり、構成としてはかなり単純だったと思う。

要は、移動→戦闘(ドラクエ文体)→移動→戦闘(ドラクエ文体) のような形で、同じことの繰り返しが書いてあり、時間切れのような形で話は終わっている。
(終わりに関しては私含め皆似たようなものだったろうが)

ノートをチェックした先生はどう評価したのだろうか?
定型文のようなテキストが繰り返されているし、もしゲームのテキストであると気づいたのではあれば、自分の空想を物語にするという課題にはそぐわないと思ったのかも知れない。
(それなら物語の書き方の基礎みたいなところを教えて欲しいけれど)

当時の私も、Aくんのドラクエ文体小説を楽しんで読みつつも、私自身は一応、課題どおりにオリジナルの話を四苦八苦して書いたので「ちょっとずるいな」と思った覚えはある。

ただ、そんな自分がそれなりにがんばって書いたものは一切覚えていない。
恐らくまともな話の形にもなっていなかっただろう。

でも、Aくんの「ドラクエ文体」小説は、今こうして書いているように印象深く覚えている。
ある意味、もっとも強いインパクトを受けた「ドラクエ小説」であることは間違いない。

タイトルや固有名詞はさすがにそのままでは無かったような気がするが、ある種の「リプレイ小説」にも近いのではないか。(私がTRPGのリプレイ小説の存在を知るのは、もっと後の話)

そして、あえて大げさに書くなら、このあたりの想像力や発想力の延長上に、いわゆる「ゲーム的な小説」があるように思う。

ファンタジー世界を描く手法の一種ではなく、まずゲームという存在ありきで、そのゲームの世界を描く物語。
ファンタジーなのは、そのゲームの世界観がファンタジーだからであって、描くもの自体はあくまでもゲームの世界。

そして、それらの認識や知識が成熟し、共有化されながら、いわゆる「なろう小説」などのゲーム的ファンタジーノベルの隆盛の土壌となっていったりしたのだろうか。(この方面、全く詳しくないので、あくまで土壌としての話)

それにしても。
いきなり「物語を書け」と言われて困惑するのは、同じ課題を出されたものとして分かる。
当時流行りのRPG風冒険ファンタジーみたいなものを題材に選ぶのもすごく分かる。
しかし、自分の中でドラクエぐらいしか材料が無いから、ドラクエ文体そのままで書いてしまおうというのは、やはり今考えてもなかなかすごいと思う。
(これは私の推測だが、Aくんの人となりを知っているので恐らくそうではないかと思う)

もしかすると単なる、宿題の文字数を何とか埋めるための奇策だったのかも知れないが、私には無い面白い発想だった。

だから、あの時に私が本当にすべきことは、この「ドラクエ文体」小説のフォロワーとして、自分も書いてみたり(すぐにマネできるわけだから)、例えば『桃太郎』のような童話をドラクエ文体で書いてみたり、戦闘以外の部分をどうドラクエっぽく表現するか考えてみたり、ドラクエ風ゲームブックを作ってみたり、とにかくクラスに「ドラクエ文体」小説ブームをつくることだったような気がする。

「ドラクエ文体」小説のフォロワーになれなかったことを今でもたまに悔やむことがある。


新城カズマ『15×24』
この小説のタイトル『15×24』は、「15人×24時間」のこと。

主人公は自殺志願少年を含めた少年少女15人。舞台は12月31日、東京の24時間。


というのを聞いて、それだけの興味で買いました。うん、面白そうだ。

手に入れて2巻まで読みました(3巻が未だ買えていない)。そして実際に面白かった。
面白かったので、紹介も兼ねて、感想や考えたことをメモしておきましょう。(※ネタバレなし)

ちなみに私は、新城カズマさんの小説を読むのはこれが初めて。
そしてライトノベルは普段はほぼ読みません。以前読んだのは、桜坂洋『All You Need Is Kill』(2004)。その前は、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズ(1998~)をいくつか、という程度。
キャラクター小説としては読まずに、物語の枠組みが面白いという評判を聞いたものだけ読んでいる感じです。



『15×24』はどんなおはなし?


15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1)15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1)
(2009/09)
新城 カズマ

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大晦日を迎える東京で、1人の少年が自殺サイトで知り合った人物「17」とともに死のうとしていた。しかし、「17」と連絡を取り合うのに使う携帯電話が盗まれてしまう。そしてその携帯電話の中にある自殺予告のメールは17歳の少年少女に転送されていき、彼らはそれぞれの理由で少年を捜索し始める。その一方で自殺予告のメールはインターネットを通じて拡大していき、暴力団をも巻き込むようになる……。
Wikipedia - 『15×24』あらすじ


12月31日、少年が間違いで出した自殺予告メールをめぐり、クラスメイトや巻き込まれた人たちが、少年を探して東京中を駆け回る。タイムリミットまでに自殺を止めることができるのか、というようなお話。
携帯、メール、ネットを駆使する、東京中を舞台にした24時間鬼ごっこ、という感じです。
今のところ(私が読んだ2巻まで)は基本プロットどおりの展開なので、想定の範囲内であるが面白い。まだまだ話を広げているところなので、ここからどうなるかは分からないけれど、毎度ながら私はそんなのは全く気にしない。

主人公だけでも15人いて、めまぐるしく視点が変わるのがとても楽しいが、15人全てが高校生ほどの少年少女
ライトノベル的には当たり前かも知れないが、はじめは少し抵抗感があった。

なぜ主人公である15人全員が少年・少女なのか


「主人公(視点となる人物)が15人もいるなら、小さな子供や大人や老人も入れたら視点も幅も広がるし、読者側でも感情移入先の幅が広がってバランス良くなるのに」と思いました。第一印象として。はじめはね。

『サマーウォーズ』でも、高校生2人を中心に置きながら、家族をいう形態をとることで意識的に幅広い年齢をカバーしようとしていました。広く遠くへ届くものにするときはその方が良いことが多いはずです。

なぜ、15人もいる主人公が全員、少年・少女なんでしょうか?
「そりゃライトノベルだから、当たり前でしょう」なんて声が聞こえてきそうですが、考え方はともかく結論は同感なので、「うん。そうだね」と私も答えるでしょう。そして、次にこう続けるかな。
なぜなら、この作品はライトノベルが引き受けるべき、正しいジュブナイル(少年・少女向け)だと思うから。

多数のキャラクターをひとつのテーマでつなぐ物語


自殺志願の少年を探して止めようと全員が奔走する中で、15人の少年・少女達は「生と死」について考え直すことになります。
現実の世界でそうであるように、「死生観」については全員がバラバラです。
全員がひとつの目的のために行動するお話なのですが、その行動動機は全く違い、それが各キャラクターの違いになります。
つまり、この物語で、各キャラクターの個性というのは「死生観」によって表現されています
「死生観」が各人バラバラであることでキャラを立てているわけです。

早い話、少年少女15人が
「死ぬっていけないこと?」
「生きるってどういうこと?」
というトークテーマの『真剣10代しゃべり場』をしている物語といってもいいでしょう。

登場人物が多い物語をコントロールする方法のひとつとして、テーマ(抽象的で、絶対にひとつの答えが出ないものがのぞましい)を設定し、登場人物全てに、そのテーマに対する考えを述べさせます。
これによって、多数の登場人物のポジショニングを分かりやすく整理し、キャラクターを立てるわけです。
たとえば、田中芳樹ならトークテーマは「政治」「戦争」「民主主義」あたり、福本伸行なら「金」「勝負」などだったりしますね。
考え方が真逆のキャラクターや、同じ考え方なのに敵味方のポジションに別れるキャラ、テーマに対しておちゃらけて真剣に答えないキャラ、テーマに対する考え方を述べない謎のキャラクターなど、ひとつのテーマに沿っているので、読者にとっても多数のキャラクターを覚えやすくなります。

『15×24』の場合は、トークテーマが「死生観」。
このテーマに対して、どう考えるか、どう行動するか、それが各キャラクターの個性です。

「でも主人公だけでも15人もいるんでしょ?こんがらがりそう。覚えきれるのかな…」

そういう心配はあまり必要ないと思います。
人間なら誰でも関わる根本的なテーマですし、「死生観」を軸に巧みに整理されていますので、必ず主人公達を覚えることができるでしょう。

非常に上手いというか真っ当なつくりだと思います。
15人もいるキャラクターを個性分けするのに、このような手法を使い、いわゆるオタクデータベース的な、類型的なギミックにはほとんど頼っていない。

普段ライトノベルを読まないような人(私もそう)でも、すんなり受け入れることができる構造と強度があることが読み進めるうちに分かってきたので、ならばなおのこと、全員を少年・少女にしてしまうのはもったいない、と思えてきたのだけど、2巻までを読み終えて分かった。

それでもこの『15×24』では、15人全員が少年・少女である方がいい。そうあるべきだ。

大人はわかっちゃくれない――いやわかったことにしてるんだ


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(2009/09)
新城 カズマ

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ある程度年齢がいった読者(私もそう)であるなら、『15×24』で書かれる少年・少女たちの多様な「死生観」を見ても、驚くことも、新しく発見することも、考えが変わることもないでしょう。
それは、この年齢になるまでに、みんなそれなりに『しゃべり場』を済ませたし、実際の体験もいろいろしたから。

だから、このトークテーマの『しゃべり場』に「参加者としての大人」を混ぜてはいけない。
話が一瞬にして終わってしまう。
それは子供の考えより、大人の方が正しいから――ではない。
大人はその話を終わらせる(折り合いをつける)ことで生きているから。生きることにしたから。

私自身も何か悟ったわけでもない。かろうじて分かったことはわずかに2つ。
1つ、正しい答えなんかない。誰も答えは知らない。
2つ、それを踏まえた上で、自分なりに答えを用意して、生きていくしかない。
(中島敦『悟浄出世』ですよね。要するに)

大人はこのトークテーマの『しゃべり場』に参加する資格がない。すでに失った。
参加資格があるのは、まだこの折り合いをつける前段階を生きる少年・少女達のみ。
だから、パネラーである15人全員を少年・少女にして、「死」と「生」について考えて、討論しながら、行動し続けるのが正しい。

大人は『しゃべり場』のおとなゲストのようにあくまでアドバイザー、または立ち塞がるもの、としてしか、この物語には関わらない方がいいんじゃないかな。

『15×24』における主人公15人全員が少年・少女というのは、きちんと意味があり、またそれが物語中で機能していると思います。
まだ途中だけど、それは最後まで裏切られることは無いんじゃないかな。2巻読了までにそう信じていい、という信頼感が私の中に生まれています。

ちなみに、ジュブナイルとしてすばらしいと、私はいってますが、「死生観」を含めて、大人には食い足りない、子供向け、というわけではありません。
年寄りの私でも充分に楽しんでいます。「死生観」だけでなく、ミステリ、パズル的なタイムサスペンス、現代のコミュニケーション(とすれ違い)ドラマ、ネット(メール、ブログ、掲示板)要素など、多層的に面白さを積み上げているので、さまざまな楽しみ方ができるはずです。

2009年の12月31日には、こん平師匠のカバンと同じくまだ若干の余裕があります。もし興味をもたれたら、ぜひ読んでみることをおすすめします。
今年の大晦日は、『15×24』を知っているかどうかで、いつもと違う大晦日になるかも知れませんよ。

余談:『15×24』はライトノベルであるべきか


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『15×24』がライトノベルで出たことについて、主に売上の面からネットでいろいろ意見がありましたね。詳しいことは、まとめてくださっている以下の記事で読んでいただくとして。

『15×24』問題まとめ - ウィンドバード
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20091101/1257034123

サマーウォーズ問題の次は、15×24問題か。日本は今日も問題だらけだ。

その中には「マニアック」「フックが弱い」というご意見もありますね。

主人公は少年少女15人。舞台は12月31日の24時間。携帯やネットを駆使した東京鬼ごっこ。


というのは、フックにもならないのかな。私はこれで読む決意をしたのだけれど。

映画だとこれぐらいの情報で、中身(の面白さ)が伝えられるものを、面白そう!となって見に行くイメージですよね。(ひとことで面白さが伝えられるものに落とし込んでいる)
私がこういう時の説明にいつも使うのは、『スピード』。
「時速80km以下になったら、バスが爆発する!走り続けるバス。乗客の運命は?」
これだけで面白さが説明できる良い映画。この一行で見に行ける。
実際、『15×24』を貸すよ、と言った友達に、上記の一行で説明したけど、なかなか面白そうね、と言ってくれた。

もちろん、映画と小説では形態が違うし、
「『15×24』はキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックがいないんだよ」(そちら側のフックもあるので)
とも言えるかも知れないけれど。

ライトノベルはマンガ雑誌に似ていると思うので、週刊連載マンガのように、耐久性と汎用性のある設定の物語を構築して、あとは人気が続くまでシリーズを続けられるような体制を整える方がいいんでしょう。
初期目標は変わらないけど、道のりは調整できるようにして、人気キャラクターや敵(エピソード)を自由にやりくりできるようにする方が使いやすいはず。
でも、長編人気マンガと同じく、そういう面白さはキャッチーな一言では説明できない(しきれない)と思う。少なくとも私はできない。
外部にまで通じる面白さは、説明が一行で終われるタイプの方が向いていると、個人的には思っています。

ただここまで述べたように、ライトノベルというものに、いわゆるジュブナイル(少年少女向け)という意味と機能がまだきちんとあるのであれば、『15×24』はライトノベルで出すにふさわしい小説だと、私は考えます。

まさしく中学生とか高校生に読んでほしいから、彼らがおこづかいで買えるように、安価な文庫で売ってあげてほしい。
その役割をするのにいちばんふさわしいレーベル(ジャンル?)こそがいわゆるライトノベルじゃないの?
だからライトノベルで出たことは全然間違ってないと思うけどなあ。

もちろん「ライトノベル」というものについては全く無知なので、ジャンルやビジネス的にどうこう言えないけれど、こういう作品を引き受けることにライトノベルの価値があるんじゃないのかな。ちがうの?

それとも面白いのに売れてないらしいと、大人が売り上げを心配して、あれこれ言ってるだけ?
もちろん、いちばん読んで欲しい層(中・高生)が全然買ってくれてない、興味も持っていないということであれば、大変さみしいことだし、そこは問題にしてもいいけれど。
単に売り上げがどうこうを問題にするのはあまり意味が分からないなあ。
それとも売り上げの悪いライトノベルがすぐ絶版になったりするなどの心配なのかな?
それこそ、その際は初期目的は終わったということで、他の出版社などから、違う売り方で出しなおしたりすればいいかな、とも思う。面白いのは確かなんだから、何とでもなるような。何とでもしようよ。

いいたいことがいっぱいあったけど、もういい。
読めたからもういい。
読みたかっただけなんだ…。


解放王アルスラーンの十六翼将、ついに集結。

蛇王再臨 アルスラーン戦記13 (カッパ・ノベルス)蛇王再臨 アルスラーン戦記13 (カッパ・ノベルス)
(2008/10/07)
田中 芳樹

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『アルスラーン戦記』の最新巻「蛇王再臨」にて、最後の1人が決まり、やっとこさ16人が揃いました。
16人目は…発売間もないからネタバレしない方がいいのかな。
ここまでの流れでは、この人しか候補がいないという感じなので、ネタバレも何もないのだけれど。あのー、あれですよ。安西先生(SLAM DUNK)ですよ。
友達と一緒に十六翼将のオーディション受けに来て、友達は落ちて、自分は選ばれるという、シンデレラボウイです。

さて、この巻も色々と悲しい出来事や、たのし…悲しい出来事や、うれし…悲しい出来事などがあったのですが、その辺りはまあ実際に読んで体験していただくとしましょう。
こんな風に煽ると、読んでない方は「えー?どういう話になってるの?」と、心配でドキドキしているかも知れませんが、そんなあなたはすぐにお読みなさい。
「かなしい、たのしい、だいすき」となって、ドリームズ(妄想)が、カムトゥルーされることでしょう。

さて、それ以外の面白かったところを適当にいじっていこうかな。
(まあ、なんて富野アニメ以外のエントリは気楽なんでしょう。気楽に推敲なしに書きます)



十六翼将集結の儀式にて


まずは、十六翼将せいぞろい後の儀式。
宝剣ルクナバートに全員が、おさわりする。叛意があれば掌が焼きただれるそうな。

この儀式は、アルスラーンにつかえた閲歴の旧い順からおこなわれた。一日でも一刻でも、早い者からである。ダリューンに始まり、ナルサス、エラム、ファランギース、ギーヴ、アルフリード、キシュワード、ジャスワント、ザラーヴァント、イスファーン、トゥース、グラーゼ、メルレイン、ジムサ、クバード、最後に安西先生(※ネタバレなので伏せてます)。
掌が焼きただれたものは、ひとりもいなかった。


なるほど。
年齢は関係なく、業界に入ったのが一日でも早ければ「にいさん」と呼ぶわけだな。
子役の頃から活躍してるエラムは、グラーゼやクバードから「エラムにいさん」と呼ばれているわけだ。
吉本興業みたいでいいなあ。エラムにいさん。

皆殺しの富…田中芳樹


さて、十六翼将が揃いましたので、ここからは108星揃ったあとの水滸伝みたいになることは、作者自ら公言してるわけですが、私は田中芳樹のキャラ殺しは全くこたえないので、思う存分やっていただいて結構です。

キャラ殺しでも、死ぬことが物語構成の一部になっているものと、そうでないものがありますよね。
前者の分かりやすい例は、あだち充『タッチ』での「カッちゃんの死」でしょうか。
タッチは、カッちゃんの死がはじめから予定された、構成に組み込まれた物語。

田中芳樹作品を見てみると、『銀河英雄伝説』では、キルヒアイス、ヤン・ウェンリーがそう。
ロイエンタールも予定されていたと思うけど、彼の叛乱が実際に実行されなくても物語は成立できると思う。
でも、キルヒアイスとヤンは、死なないと『銀河英雄伝説』にならない。物語の中で死ぬことが、構成上の必然となっているキャラクターは予定通りに殺すしかない。

ファンは「死なないで!」「なんで殺したの!」と言うだろうけど、死なないと成立しないから仕方がない。最初から予定されていたことだから、ファンがどう騒ごうが死ぬ。
まあ、ファンに「死なないで!」と言わせた時点で作者の勝ちですよね。死が最も惜しまれるキャラを殺してるはずなんだから。

『銀河英雄伝説』では、他にもいっぱい、いいキャラクター達が死んでいくけど、これらはもう、展開と筆のノリ次第と言ったところで、死ぬほうが面白ければ死ねばいいし、生きてるほうが面白いなら生かせばいい、という所。
物語のメインフレームに影響しないのだから、面白さへどれだけ貢献できるか、感情レベルでの効果が高いか、など、最大限の効果が発揮されるかどうかにこだわって殺せばいい。
そうでなければ、意味も無く、もったいない殺し方をしたことになってしまうのだから。
そういう意味で、田中芳樹は死んでキャラクターの華を咲かせるのが好きな方だとは言えるでしょうね。

『アルスラーン戦記』では正直いうと、物語上死ななければならないキャラクターがいるように思えない。そんなキャラクターはもうすでに死んでるはずだと思う。
十六翼将と初期から言っていたので、仲間集めを楽しむ物語になっており、それまでは殺せなかった、ということもあるでしょう。そういう意味ではアルスラーン戦記は、タッチや銀英伝のように決定的な喪失を構成に組み入れてない物語と言えるでしょう。

私は水滸伝の108星が次々といなくなる終盤もキライではないので、せっかく集めた宝石が一瞬でバラバラに失われるというスピード感を伴った快感は味わえるかも知れない。
その十六翼将のうち、誰が死に誰が生き残るかは定かではないが、それが誰でも(面白ければ)良い、と考えているのはすでに述べた通り。

しかし、ただ1人だけ気になる人がいる。ナルサス。

ナルサスの死と引き換えにするもの


ナルサスに、死亡フラグが見え始めたのは前巻辺りからだが、今巻ではさらに死の気配がする。

ナルサスは他のキャラクターと少し違い、死は物語に大きな影響を与える気がする。
というか、物語の幕引きのために死ななければならない役割かも知れない。
(つまり「物語構成に組み込まれた死」を与えられる可能性がある)

この巻で、我らが国王アルスラーンは、生涯、結婚することも、子供をつくることもしない、という考えをもっていることが明かされる。

ナルサスは他の二名を見わたし、ゆっくりした口調で告げた。
「陛下は、いまこう考えておいでだ。『王位は血統によって決められるべきではない。だが自分に子ができれば、王位継承者として期待される。結局これまでとおなじことだ、それはいやだ』と」


王位を血統で継承しなくても、国の指導者は必要になる。
アルスラーンの希望に沿う形でそれを実現するにはどうすればいいのか。
と、考えると、議会制のようなものを導入するしかないような気がする。
もっと広く、奴隷解放からつながるものとして、民主主義的なシステムにするかも知れない。
民が選んだ者が指導者として国の代表になる、という私達も使っているしくみだ。

もともとナルサスは奴隷解放を早くに志した男。
アルスラーン本人の希望を受ける形で、王が結婚せず、子を作らなくても、次代へ国がまわるシステムを提案することになるかも知れない。

こういうシステムの変更は時代の要請に応えるもので、舞台となる国パルスは文明レベル的にもそれを受け入れる素地が十分とは思えない。もっといえば民主主義は個人の(言ってみれば)わがままを解決するために採用するものでもないと思うけど、異世界ファンタジーなのだし、思考実験としては面白いかも知れない。
普通ならこの文明レベルでは君主制で十分だと思うけど、その君主本人が「次の王となる自分の子をつくらない」と宣言するなんて、そんな王様はアルスラーンで無ければありえない。
そして、そう宣言しても普通は家臣達が、誰かを王にまつりあげて、これまでの支配体制を維持しようとするものだ。しかしナルサスがいる。
変わった考えを持つ王アルスラーンがいて、変わった考えを持つ家臣ナルサスがいる。
この条件が揃った場合、やってみても面白いかも知れない。

そしてナルサスが死ぬ理由もここにある。

これは田中芳樹の民主主義観ということになるのだが、銀河英雄伝説では、優れた専制君主国家と腐敗した民主主義が比較されている。
優れた君主の統治は、腐敗した民主主義よりすばらしいかも知れない。しかし名君もやがて死ぬ。しかしその子が同じように優れているとは限らない。無能なだけならまだいいが、残虐な人間かも知れない。しかしそれを止めるシステムがない。「良き政治」を優れた君主個人に依存してしまっている。
しかし民主主義というものは、悪い政治を止めることができるし、有能な個人に依存せず、みんなで相談して決めるシステム。いくら腐敗してもそこが民主主義が持つ希望だと。だからヤン・ウェンリーは帝国と戦った。

ここからいくと、ナルサスは死なないといけない。
正確に言うと、有能な個人である知力100のナルサスが死んでも、それなりに上手く社会が回っていく仕組みを、ナルサスは考えなければならない。
条件は、もちろん先ほど述べた「アルスラーンの子は王にならない」だ。
これらに対する答えとして、民主主義(より原始的で、理想優先な形式だと思うけど)というシステムを考え、提案するかも知れない。
そうなると、物語の役割的には死んでもいいことになる。生きていてもいいけど、死ぬと、その死後、上手く社会が回るかどうかの証明がしやすい。

そういう意味では、アルスラーン本人もそのシステムが形になれば死んでも(王を降りても)いいと言うことにもなる。
まあ実際のところ、仮にそうなったとしてもそこまで物語自体は進まず、セリフなどから後の世がこうなっていくんだろうなあ、と想像させる程度になるでしょう。こんな部分、大して魅力的でもないので戦いまくって本編を終わらせてくれればいい。そうでないといつまでたっても終わらないからそうしてくれないと困る。

小役人カーセムなんかは、初代議長かなんかになるために登場させたのかも知れないね。
いかにも田中芳樹的民主主義の中で、うまく立ち回りそうなキャラクターだし。
(で、そこからかなりの年月が立ち、アーレ・ハイネセンが宇宙へ旅立つと。)

以上の展開については単なる妄想ですが、アルスラーンの結婚問題を政治システムなどで解決するのは必要な気がします。
政治にも詳しくないし、興味もないので、あくまで田中芳樹民主主義として、物語の落としどころを考えてみただけです。推敲もしてないから怖いけど、それやると時間がかかるからやめました。ごめんなさい。
まあ、死んだり死なせたり、殺したり殺されたりするのを楽しめばそれでいいんですけどね。

とりあえず今やるべきことは、「パルス」という国名でCivilization(シヴィライゼーション)をやってみることでしょう。まず奴隷解放をめざして、その後はどうしようかな。



関連リンク(過去記事)
アルスラーン戦記関連
コードギアスを「銀河英雄伝説」「アルスラーン戦記」に重ねてみる
【アルスラーン蹴球戦記】チーム「アズライール(告死天使)」
「キャラクターの死」関連
身を捨ててこそ浮かぶキャラあれ < 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』で考えるキャラクターの生死>

シリーズでお送りする「もったいない作品」第2弾。
図書館戦争という小説を原作にしたアニメがやってたのでこないだ見ました。小説の方は未読です。
メディア良化法の名の下に国家権力の検閲によって禁止図書の取締がある架空の日本で、書物を守る図書館側と取り締まる政府側?とで戦争する話です。

■図書館戦争の面白さともったいなさ

これ、設定だけ聞くと面白そうなんですよ。「本のために銃撃ち合って殺し合う」という設定がもう出オチというか、これこそ「世にも奇妙な物語」の一遍にちょうどいい話の気がします。
ちなみに「ハチクロ」「のだめ」枠(ノイタミナ枠)でやるほど、原作からしてラブコメ成分が高いそうです。白泉社でマンガ化するほどに。
その部分はいいのですが、肝心の図書館戦争部分が全然よく分からない。アニメ化でごっそり説明を省いたりもしてるんでしょうけども。
結局「もしも」ファンタジーだと思うのですが、大ウソの部分とリアリティの部分がうまく融合してないように私には感じてとても違和感があります。
「世にも奇妙な物語」の1エピソードなら短編なので、全然気にならないと思うのですが。アニメ版は、プロダクションI.Gが真面目に戦争シーンとか作ってるのが余計に気になる。
原作既読者的にはどうなんでしょうね。というか本以外の表現メディアはどうなってるの?いや、多分そういうことはあんまり突っ込むん話じゃない気もする。
こういう舞台装置での愛と友情を楽しめばいいんだと思うんですけど、でも普通に武力衝突があって人が死ぬんですよね?

原作は面白いそうなので、アニメ化の際の料理法の問題という気もする。
I.Gが作ってるなら、全ての図書をデータ化して電脳の海に潜るのもいいのですが(で、9課に追われる)、これはやっぱり押井守がやればいいんですよね。
押井守といっても「ケルベロス」や「人狼」みたいなうっとうしいのでなく「うる星やつら」の買い食いウォーズとか「パトレイバー」の炎の7日間みたいな感じで悪ノリ全開のやつ。
千葉繁が何で本(8割方エロ本)に命をかけるのか、長ゼリフでまくしたてまくって、図書館に篭城したらいいんですよ。
で、神谷明が面堂家私設軍隊を率いてそれを武力鎮圧したらいいんですよ。
原作むちゃくちゃになりますけど、絶対面白いですよ。本当にもったいないなあ。
まあ押井守にラブコメはできないので、本編ではなく第0話として図書館隊の戦いの歴史を前史として作ってもらったらいいんじゃないでしょうか。
主人公が講義で習うテキストとか教材ビデオの設定で、DVDのおまけにつけましょう。

で、ここから意図的に脱線します。



■ちびくろさんぼは黒人差別か

出版に対する言論弾圧というと絵本「ちびくろさんぼ」を思い出します。
「ちびくろさんぼ」は一時期、黒人差別との抗議で絶版になってましたね。
私は「ちびくろさんぼ」は真っ赤な装丁の絵本を持っていて、小さい頃から何度も読んでいた大好きな絵本です。
挿絵がとても魅力的で、これを見て「ホットケーキ食べたい」と母にねだったことを覚えています。
そんな私は「ちびくろさんぼ」が黒人差別が理由で絶版になった理由が理解できませんでした。
なぜならば。

「さんぼ」に虎が出てくることからも分かる通り、元々はインドを舞台にしたお話です。それが海賊版を含めてさまざまなバリエーションが出るうちにアフリカを舞台にして、さんぼを黒人にしたものも出てきたそうです。
元はインドの話なんだから、黒人差別というのは的外れだ。という問題でもなく、舞台がインドでもアフリカでも通じる、差別とはむしろ逆のメッセージが物語に含まれていると思うんですよね。

「ちびくろさんぼ」では、さんぼがカサやレインコートやブーツなどフル装備していると、虎が次々にやってきて、それを奪っていきます。
これはインドやアフリカが西欧の国々に植民地にされたり、搾取されたり、国境を引かれたりしたことをイメージさせます。インドもアフリカも西欧にさまざまなものを奪われ、苦しめられましたから。
つまり、全てを奪われたさんぼはインドやアフリカの象徴。全てを奪った虎は西欧植民地主義の象徴というわけです。
ここまでだけ見ると、いじめられてかわいそうなさんぼだけど、皆さん知っての通り絵本の中では、さんぼの機転によって、虎達はお互い争ったあげく全員バターになってしまい共倒れしてしまいます。残ったさんぼはそのバターをホットケーキとして食べてしまう。
おしまいまで読むと、さんぼ(=植民地)のかしこさや、虎のバターも体内に飲み込んでしまうたくましさやしたたかさ、おおらかさが感じられませんか?
話の内容については差別的な要素どころか、深読みすれば西欧植民地主義に対する批判とも考えられて、むしろ欧米でもっと読ませるべき話じゃないかとすら思います。
いや、そんないやらしい政治的な深読みしなくても純粋に、差別表現は感じられないおもしろ絵本だと思います。つまり世界に通じるオモロー!絵本です。ホットケーキの枚数が3の倍数の時にバターになるほどに。
もちろんタイトルの「ちびくろさんぼ」という表現や、挿絵の黒人表現については配慮は必要だと思います。
今、復刊されている「ちびくろさんぼ」はそこのところを検討や修正をしたりしたものなんでしょうね。

だから子供たちは思いきり「ちびくろさんぼ」を読んで、ホットケーキによだれをたらしなさい。
お父さん、お母さんは子供たちのために何百枚でもホットケーキを焼きなさい。
そして親子で、さんぼの話をしながらホットケーキを食べなさい。もちろんバターをたっぷり塗って。
前回記事「幼年期の終わり」 の続き。

「幼年期の終わり」が後世に多大な影響を与えた作品であることは今読んだからこそ実感できる。
その一つがファイブスター物語。というお話。

ファイブスター物語は永野護のマンガ。ロボットアニメである「エルガイム」を母体に、架空歴史や騎士道ロマンスや世界の神話・伝説や戦車や白土三平や音楽やバレエやファッションやカブトムシなど作者の好きなものを何でもぶち込んだ壮大なおとぎ話。

人類進化のSFという部分もそうだが、もっと具体的な部分がある。
それは、悪魔だ。

ファイブスターの悪魔は完全な侵略者であるが、昆虫のような外骨格、高い知性、宇宙人、6本指(オーバーロードは7本指だが)など共通点が多く、僕は幼年期の終わりのオーバーロードを完全にファイブスターの悪魔のイメージで読んでいた。
またオーバーロードの地球総督カレルレンの名はカレンの幼名「カレ・カ=ルル=レル=カレン」に影響を与えているかも知れない。

そして何より、10年以上昔の事だが、ファイブスターの設定資料には、悪魔のことを「ライフ・ウォッチング・オーバーロード」と紹介していた事。

当時はピンと来ていなかったが、今考えれば、ファイブスターの悪魔がオーバーロードを継ぐ者であるのは明らかだ。

それにしてもライフ・ウォッチング・オーバーロードという表現は素晴らしい。
幼年期の終わりのオーバーロードは、知的生命体の進化を手助けする役目につき、人類以外にも数多くの進化に立ち会ってきた。

しかしオーバーロード自身は高い文明を持つものの高次元への進化をしていない。いやできない。
彼らは進化の袋小路に入っており、これ以上の進化は望めないのだ。ただ他の生命体の進化に立ち会うのみ。

だからオーバーロードは自分達より低い文明である人類をうらやましくも思っているのだ。

かといって人類も進化したくてするわけじゃないんだけどね。

ファイブスター物語好きな人には、幼年期の終わりおすすめ。っていうか、原作が全く進行しないので、小説でも読まないとやってられないよ。ということで。
休載期の終わりはいつなんでしょうね。

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