↑これのこと。では全然なくて。
この前の「新撰組!」の記事で書こうと思ってたけど、文脈的に入れられなかった事があったのを思い出したので、それだけ忘れないうちに書いておこう。
「新撰組!」登場人物間の(史実に無い)交流の多さに関してです。
これが「ガンダム」(というか富野演出)との関連を感じて。
■史実にない接触
どういうことかというと、これまた「新撰組!」が歴史に詳しい人々に不興を買った原因の一つなのですが「会ってないはずの人同士が会ってしゃべったりすること」です。
「新撰組!」では、近藤勇が、桂小五郎や坂本龍馬と昔から知り合いで、さまざまな交流をしたり、影響を受けたりしてました。
これは歴史上ではもちろん無いことで、大変リアリティに欠けることはなはだしいわけです。史実を良く知っている人にとっては耐えられない改変なんだろうと思います。
■これって何かに似てないか?
これは、とても興味深いと思いました。
三谷さんも歴史には詳しいので当然あえて、こういうドラマ展開にしたのでしょう。とすると、あえて史実をはずした、その意図はなんでしょうか?
実は、この件で僕が連想してたのは「ガンダム」の富野由悠季監督が言っていた作劇論なんですよね。それはこれ↓
「とにかく強引でもいいから、敵と味方を直接会わせるんだよ!」
■お肌のふれあい回線
どこに書いてあったのを読んだのかソースを忘れたので、引用でなく、あくまで大意ですが、そんな感じのことです。
「ガンダム」なんて、宇宙挟んで戦争してるわけですから、敵味方の人間同士の接触なんて、普通に考えたらほぼ皆無。
とはいえ敵側のドラマと味方側のドラマが交互に進むだけでは単調なので、戦場で敵と味方がぶつかってドラマをおこすわけです。
さらに言えば、モビルスーツに乗って戦いながらしゃべくりあうより、生身の人間同士が接触する方がなおいい。
これを知った上で「ガンダム」を見ると、この作劇論を実践しているのが良く分かって面白いですよ。
・いきなりキャノピー開けて、顔見せながらしゃべりあう。
・とりあえずコクピットに複数人いれておけ!
・大事なモビルスーツ下りて、生身でディベート大会(Zの最後とか)。
・敵につかまり捕虜になったりなられたり。
・生身で敵の基地に潜入。生き別れの妹に接近遭遇。
・コロニーで偶然色んな人にばったり。シャアやララァに会ったり。
・酒場でもばったり。アムロくん、おごらせてもらうよ。
・クエス!ノーマルスーツも無しで!
とか色々いろいろ。ガンダムっ子は色んな場面を思い出していただきたい。
何とか顔を見せ合っての接触を増やそう増やそうとしてるのが分かって大変面白い。
ファーストガンダムでのアムロとシャアの最終対決も、モビルスーツ戦ではなく、生身でのフェンシングでしたね。
もちろん強引と思えるものもある。でも、そこには「ストイックに戦争してて、どうすんだよ!ドラマつくってんだよ!ドラマをつくるにはどうしたらいい?(ライラ・ミラ・ライラ)」という意図がある。私はそれに賛成するな。
ロボットプロレスと呼ばれていたジャンルで、何とかドラマを作ろうとがんばってきた先駆者の苦労がしのばれます。
まあ戦争に勝つには相手にしゃべりかけずに、黙ってビームライフル撃っておけばいいんでしょうけどね。でも私達が見ているのは、戦争の中継映像ではなく、ドラマですから。
■新撰組での接触編と発動編
で、「新撰組!」に戻ります。
史実にない人物同士の交流を見て、思い出したのが、この富野式のドラマ作りでした。
混迷を極める幕末には色んな立場の人間がいた。
彼らはそれぞれ「日本のために!」とがんばっていたけど、身分も藩も思想も方法論も違っていて、とにかくややこやしい。
↓
それでいて、みんなが会って、自分の思想や考えを戦わせて、歴史を進めたわけでもない。
↓
じゃあ歴史にはないけど、この人達を会わせて、お互いの考えをしゃべらせてみよう。議論させたりケンカさせたりしよう。
それでお互いの立場がはっきりする。キャラも立つ。
という感じでしょうか。
歴史上のいわゆる人物像を、当人同士の直接イベントで表現しようということですね。
選挙の立候補者同士がする公開討論会みたいなもんだと思ってもいいかも知れない。あれも、それぞれの立候補者の人となりや公約を良く知らない者にとっては、立候補者を知るのにもってこいのイベントですよね。同じ質問に対する回答や姿勢が、いいキャラクターの比較になる。
「新撰組!」における、史実を無視した人物同士の交流は、要するにはこのような意図だったろうと思う。
もちろんこれは、史実を知らない人であるほど効果的であろうし、逆に史実を全て心得ている人達にとっては、特に不必要であったろう。だから歴史ファンに嫌われるのも良く分かる。
でも大抵の人にとって、幕末は複雑でめんどくさい。
戦国ものみたいに戦争の結果で分かりやすく歴史が進むわけではないし、同じ人物でも所属や思想も変わったりする。
それを出来る限り分かりやすく視聴者に伝えようとしたことは素直にえらいと僕は思う。多分、歴代の大河でもここまで配慮したものはないのかも知れない。
■ここからはおまけというか蛇足
「でも、そういうドラマ作りは龍馬とかでやれば?」
とか、思ってしまったのも確かなんだよね。マンガ「お~い龍馬」もかなりこういう事やってるけど、近藤勇より龍馬の方がキャラクター的に自然なんだよね。題材の新撰組はNHKが決めたんだろうし、やむをえないかなあ。
ただ三谷さん視点(しばしば現代人的視点でもあるが)は龍馬だったよね。宮崎駿にとってのムスカみたいなもんで。
あと三谷さんが舞台出身というのもあるのかなあ。
舞台を見た経験がほとんどないのに言うのもなんだけど、舞台はシーンをテレビドラマほど頻繁に変えられるわけでも無いし、物理的に遠く離れた敵側→味方側のカットバックができないし。
となると、一つのシーンで処理するのが舞台の難しさ、面白さであるわけで、そういうのも影響してるのかな、とか思った。
薩長同盟のとことか、いかにも喜劇を書く人ならではの「実際にあるわけないけど面白い」というシーンがいっぱい見れて楽しかったけどね。
今日、NHKで総集編がやってました。
私は大体全部観ました。これだけ大河ドラマを観たのは竹中直人の「秀吉」以来です。
視聴率が大変悪かったのですが、三谷幸喜のドラマは「古畑」以外はたいして良くないので、三谷作品にしては数字がいいと言ってもいいんじゃなかろうか。
数字も悪かったが、周りにも見てない人が多かった。
もったいないと思う。
1年間楽しませてもらったので、面白かった所をいくつかあげてみたい。
このドラマを4つに分けると、こんな感じになる。
1)多摩編(江戸青春編)
2)京都編(芹沢鴨暗殺)
3)新撰組編(池田屋事件と暗殺粛正の嵐)
4)近藤斬首(新撰組の崩壊)
■はじめに
まず全体を言うならば、良く出来ていた。
そりゃ満点ではないけど、1年間やるドラマを減点法で話すのはおかしいので。それより1年を通して三谷さんの意図どおりの事は出来ていたと思うので、そこを評価したい。
個人的に一番面白かったのは、2)と3)のとこ。
近藤勇を主人公に据えた場合の問題となるのが、
その結末だが、これもうまい落としどころを見つけてある(口述します)。
■怒涛の1話一殺
3)のところにあたり、1話につき、一人ずつ新撰組の仲間が死んでいく(その間に、坂本龍馬も死んでいく)。そしてそれが、局長暗殺(未遂)まで何話も続くのだ。
本編で誰かが死に、次回予告でまた違う誰かが死ぬのを知る。
これを連続で毎週毎週見せられるシリーズ構成とドラマ自体のテンションがすばらしかった。
そしてこれが終わったとき、新撰組から大事な仲間と人材がごっそりといなくなり、嫌でもその後の崩壊を感じすにはいられないのだ。
見ていた僕のテンションが一番高かったのもここだった。
物語的には、その後の薩長との戦争より、ここでの死人の方が圧倒的に多い。それが新撰組の異常性を物語っていいよね。
■近藤斬首の落としどころ
近藤勇は、官軍に投降して斬首という幕末ものとしては非常に中途半端なところで終わってしまう。
新撰組もののデフォルトとなっている司馬遼太郎「燃えよ剣」が、新撰組をテーマに置きながら、主人公を局長近藤でなく副長土方に置いたのは、当たり前と言える。
土方は局長として分かりづらい近藤と対照的に、副長として組織の実務を担当し、新撰組にとってのア・バオア・クーこと五稜郭で最後まで戦う。どう考えても土方から書いた方が面白くて、しかも最後まで書ける。
しかし「新撰組!」の主人公はあくまで近藤勇なので、近藤斬首が最終回となる。さて、どう落とすのか。
これは結論から言えば「近藤に薩長官軍の徳川に対する恨みを全て背負って死んでもらう」というものだった。
平民の出ながら、徳川でもっとも武士らしい武士は、武士らしく切腹することも許されず、武士の代表として新政府軍に殺されたわけだ。
実際の歴史上ではもちろん成り行きが重なっての斬首だろうが、ドラマの落としどころとしては悪くない。
この部分はもちろん創作にすぎないだろうが、大事なのは1年もやってきたドラマの結末をきれいにつけることなので、そういう意味では僕はかなり評価している。
ガンダムの「ニュータイプ」という概念があくまでガンダムという物語を落とすための落としどころとして作られたことを思い出すね。
■歴史と創作
多分、このドラマは深く歴史や新撰組を知っている人には受けが悪いだろうと思う。歴史に詳しければ詳しいほど受け入れがたい創作も色々あると思う。
僕は完全に、ドラマ>歴史の人なので、ドラマ的に面白いかどうかしか興味がないです。
ただこれまでの大河ファンや、時代劇を良く知っている人にも受けは悪かったみたい。それはメインキャストの年齢層の若さや現代風のくだけた会話劇などがそうなのかも知れない。同世代の人たちが集まってるので学園ドラマみたいな部分もあったし。
でもキャストは、新撰組の実年齢に今までで最も近いキャストだし。脚本が三谷さんの時点で、コメディ要素が多いことや、くだけた会話が多いことも、始まる前から分かってたわけだし。
それにこのキャスティングにこめられた意図を受け取ったら、楽しめることは請け合いだと思うんだけどね。
今回の新撰組に対する僕の解釈はこうだ。
■株式会社「新選組」
新撰組をベンチャー企業にでも例えると分かりやすいと思うのだ。
幕末(ITバブルとか?)の混乱期に乗じて、平民ながら組織をつくり、会津藩からの出資を受け会社をつくった。
経営者が二人いて(芹沢と近藤)対立したので、芹沢を経営陣から追放。芹沢派を一掃した。社名を「新選組」と改めた。
社長は近藤。副社長は土方だ。
その後、経営はうまく行くが、内部での対立が激しく、実務をとりしきる土方は組織を守るため、よそものや創業メンバーや次々を追放していく。この辺りで「あれ?会社創業メンバー(人)を捨てて会社(組織)をとるんだ。ふーん、そういう会社になっちゃったんだ」となる。
で、ITバブルがはじけ、「新選組」という会社もはじける。
近藤は、経営責任をとり斬首。
土方はまだ終わっちゃいねえぜ!と言いながら次々と会社つくっていくタイプか。しまいには東南アジアで会社つくったりしてるかも知れない。ほら、この人は目的でなく手段の人なんで、どういう会社にしようとか社会に貢献する企業にとかなくて、売り物はどうでもいいから、俺に任せろ。売って会社をでかくしてやる。っていう人なんで目的なんてどうでもいいんだよね。
そんな感じか。
あー、ベンチャー企業に良くある風景のような気がしてきた(笑)。
実際こんなもんだと思うよ。近藤も土方もベンチャー企業として一旗あげたかったわけで、極端な話、長州に生まれてたら奇兵隊みたいなのつくって一旗あげたんだろうし。
一旗あげることが最優先事項で、それが江戸近郊に生まれた人間にとっては、旗本、大名になっただけ。
で、キャストが若くて世代が揃っているのも、こう考えると理解できますよね。こういうベンチャー精神を持った人間の集まりが幅広い世代の組織になるわけがない。
必然的に自分の腕に自信を持った若者の集まりになる。
同じ志を抱いた同志集団でしばらく続くが、会社の発展と共に上下関係と役割分担が明確となり、対立し、崩壊する。トップ近藤も仲間と同世代であり、これを押さえることは出来ない。
でもね、組織としては崩壊するんだけど、うまくいってるうちは楽しくて仕方ないんだよね。同じ志を持った同世代との仲間と過ごすというのはね。学園祭準備みたいなもんでね。「新選組!」でも、学校のような同世代集団として楽しい場面が数多くあった。これこそが新選組の魅力の一つだろう。
■まとめ
「若者がベンチャー企業つくって、最後に倒産した。でもその中で若者達はとても輝いてバカをやっていた。でも絶対楽しかったに違いない」
ということに尽きるのではないか。
だから「新撰組!」の若手キャストにはドラマ的な必然があったし、1年のドラマでそれは表現されていたと思う。
「せめてキャストを信頼できる俳優に」ということになると年齢層が上がるが、それは総合的な演技力は上がっても、代わりに何かを失うだけだ。
高校生が出る青春映画のキャストを「演技力のために30~40代中心」にする人はいないでしょう。だって「青春映画」なんだから。
まあこの辺りは、ドラマを見ての好みというより、制作者のアイデアとコンセプトとその達成をほめてるだけなんで、全然ドラマの評価になってないと思われる方もいるかも知れません。でも僕はこの部分だけでも評価してしまうんですよね。
あと村上龍「愛と幻想のファシズム」と関連づけても面白そうなのだが、やめておく。
以上のようなことを踏まえて見ると、満点ではないが、とっても楽しいドラマのはずなので、ぜひ機会があれば見てみることをおすすめしたい。