同じ映画を劇場へ複数回観に行ったのは実は生まれて初めて。
「聖闘士に同じ映画は二度通用しない(=貧乏+めんどい)」という車田理論で生きてきたこの私が、まさか同じ映画を3回も見ることになるとはな。
シュラ「すでに1度見た映画になど何の価値がある?なんのために何度も見るのだ!なぜだ!?」
紫龍「…シュラよ。聖闘士ならわかりきったこと…」
シュラ「…?」
紫龍「女神(アスカ)のためだ!」
これは、半分ぐらいは本当の話。
私の中では旧劇場版(『THE END OF EVANGELION(以下、EOE)』でキレイにエヴァは終わっていたため、その後の10年どころか、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(以下、ヱヴァ序)』すら興味が持てず、観にも行きませんでした。(『ヱヴァ序』はいまだに見ていません。)
しかし、チルドレン(レイ、アスカ、シンジ)が三位一体となって放つこの映画の破壊力は、小規模ながら宇宙創造のビッグ・バンにも匹敵する…すなわちアスカエクスクラメーションぐらいの衝撃があって、個人的には驚きました。快楽の量が尋常じゃない。そりゃみんな何度も見るわ。
あと、たまごまごさんこそ真のアスカエクスクラメーションの使い手です。
→ヱヴァ破の感想を3文字で書くぜ(たまごまごごはん)
では、感想メモです。
- 普通にネタバレあります。未見の方はご注意。
- 3回見たけど、最後に見てから、かなり日がたってしまったので、間違ってたりするところもある。だってにんげんだもの(みつを)。
- とんでもなく長文になってしまいましたが、メモなので全部読まないと意味が分からない記事にはしていないつもりです。できるだけ見出しをつけましたので、目に付いたところだけ読んでいただいてもいいと思います。
アバン:第3の使徒戦
- オープニングは、仮設伍号機vs第3使徒。
- ユーロネルフ伍号機開発会議。
「うちのエヴァどうする?」「日本やアメリカとは差別化したいな」「せっかくだし何かヨーロッパっぽくする?」「うーん…」「騎馬にしてランスつける?」「(全員で)それだ!」
とか言ってつくったりしてるといいな。実際、狭いトンネル内で馬上試合のような正面からのすれ違いバトルをしてたしね。 - 加持「大人の都合に子供を巻き込むのは気が引けるなあ」に対応しての、マリ「自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするなあ」。
加持の言う「大人」が自分も含めた多くの大人たちを意味しているのに対して、マリは「自分」であって「子供たち(チルドレン)」じゃないんだね。
タイトル;ヱヴァンゲリオン新劇場版:破
第7の使徒戦:前略、空の上より
- いきなりアスカさん登場。TV版の海上から空中へ、海から空へ舞台を変えて。
- 私は昔から弐号機の活躍シーンが好きすぎる。「アスカが好き」でも「弐号機のデザインが好き」でもなく、「アスカが弐号機に乗って暴れ回っているのが好き」というのを分かってもらえるだろうか。
無駄のない動きをするレイの零号機、初心者&キレたらヤクザのシンジの初号機と比べると、アスカの弐号機がもっともアニメーション的な活躍をさせやすい。 - 私は、第八話「アスカ、来日」で、弐号機が八艘飛びしたときに、これこそ何年も待ち続けたガイナアニメだ!と感動したような、SFおもしろアニメとしてのエヴァが大好きな人間なので、アスカ、いやアスカ姐さんにはいつも感謝している。
- そんな魅力的な役割を持つ弐号機だが、後でパンフを読んだところによると、弐号機のデザインが少し変わったのは、おもちゃがあまり売れなかったので、じゃあツノでもつけようか、ということであるらしい。『不思議の海のナディア』島編での「キング対キング」を思い出した。
- ここだけでなく、映画全体を通してなんだけど、弐号機のアクションシーンにイメージBG(背景)がやたら多いのはなぜなんだろうか。ゲームかパチンコ用の汎用性を前提としたアクションシーンみたいで何か面白かった。
- 使徒をキックでぶち抜いた弐号機が着地する地上には、零号機がぬぼーと棒立ち。腰に手をあて、得意げに立つ弐号機。「状況終了!」…すばらしい。ここ、いちばん笑いました。
- エヴァってパイロットと機体が同一化(シンクロ)するから、前述したようなアクションはもちろん、こういった立ち姿だけでも、アスカそのもの、レイそのものになる(だから、コクピット内のカットが省略できる)。
(メカキングを前にして、物足りなそうなサンソン)
サンソン「ツノをつけるんだ!」
ジャン「ツノなんかつけたら、重くなるんだけどなあ…」
サンソン「でもそっちの方が強そうだろ?よし、これで勝てるぞ!」
第8の使徒戦:天からくるもの
- 純粋な対使徒戦としては、今回のメインイベント。
- シンジが使徒を受け止めるよね、うん受け止めた…うわあ!変なの出てきた!
- 事前に他の皆さんの感想で見ていたとおり、確かに恐ろしいまでに旧シリーズの存在を前提にしてますね。旧シリーズが体に染みついている私は無意識のうちに、次のシーン、次のアクションの「未来予測」をするんだけど、スクリーンでその予測はどんどん裏切られていく。これはもうサービスでやっているとしかいいようがない。
- それでいて全体のストーリーラインは変わらない。ただ意味だけが変わっている。
- 映画ゆえに省略される使徒もいる中で、この使徒との戦いが選ばれて、別の意味づけがされたのはすばらしいな。オープニングで誰の力も借りずに独力で使徒を倒したアスカが、自分ひとりの無力さと、チームプレイの重要さを痛感する戦いになっている。だが、ストーリーラインは何も変わってはいない。
日常パート:告白昇降室(エレベーター)
- このパートで、みんなが少しずつ積み上げた幸せが大輪の花を咲かせる。
(ただし、咲き誇る花は散るからこそに美しい。) - 綾波レイ主催のお食事会が決定。難関と思われたゲンドウ参加の交渉を成功させたレイは、栗田ゆう子(美味しんぼ)級。これから先ゲンドウは、舌打ちしながら全ての要求に答えることになるだろう。
- アスカとレイの、おなじみエレベーターシーン。アスカの平手を受け止めたレイの手には、アスカより多くのバンソウコウが巻かれている(最初より増えてる)。
トウジではなくアスカが参号機に乗ることになるわけだが、ここに至る過程において、すべての人々が「他人のために」行動した結果であることがやはりすばらしい。
シンジ「みんなのためにお弁当(料理)をつくろう」
↓
それを食べたレイ。
レイ「私も料理を覚えよう。みんなのために食事会をひらいて、そこに碇くんと司令も呼ぼう」
↓
レイに食事会への参加を頼まれたゲンドウ
ゲンドウ「そんな時間はな…」(ユイ「シンジを頼みます」)「…ああ、わかった。行こう」
↓
レイの食事会(とシンジ)に対する想いを知るアスカ
アスカ「あんた達が楽しみにしてる食事会のために、私が参号機に乗ってあげるわよ」
↓
参号機起動実験での衝撃展開はCMのあとすぐ!
誰も悪くない。悪くないどころか、みんなそれぞれ他人のことを思いやって行動し、それが良い連鎖を起こしている。
それなのに、意味は違ってきているのに、ストーリーラインが全く同じであるゆえに、幸せを崩壊させる事件は発生する。それは運命といってもいい。
もちろん、その「運命」については、四号機消滅の際に、加持が「本当に事故なのか?」とつぶやいたりして、あらゆる人為的な可能性もあることを示唆するのがいやらしいところだ。もちろん、真実がどうかなんて知らない。
だがそれは、アスカの決意と行動の価値とは何も関係がない。だからどうか、「トウジの代わりに参号機に乗らされた」「アスカがかわいそう」とは思わないでほしい。
彼女は自分の意志で乗ることを決め、それに誇りをもっているはずだから。運命は過酷だけど、一歩先のことは誰にも分からないのだから、その時その時で悔いのない行動をとるしかない。やり直せる機会は1万5千回も来ない。
- 全員がポジティブに他人のためにする行動が連鎖して、最終的にアスカに行きつくところや、「バチカン条約」による弐号機の凍結など、全ての要素がアスカが参号機へ乗る(幸せのピーク)ために再構築されている。
- DVDが出たら、イベントやシーンをキャラクターごとにバラして、それぞれがどう機能しているかメモをとると、構成の巧みさを堪能できそうだ。
- ただ、いくら劇場作品とはいえ、多くの要素が幸せのピークを作るための材料として使われており、あまりにノイズが少なすぎるかも知れない。私は構成に無駄がないのが好きだけど。そういう意味では、マリはノイズ(違和感)効果を持つキャラクターなんでしょうね。
- 参号機事故の知らせを玄関で聞くレイ。キッチンでは盛大に吹きこぼれる鍋。
これなんの料理だったんでしょう。みそ汁?食事会で?自分は肉食べないけど、みんなが好きなごちそうだからビーフシチューを作ったとかだったり、
レイ「…精進料理。お肉、入ってない」
しないか。
第9の使徒:参号機は赤く塗れ!(己の血で)
- 日向「分析パターン出ました…青です」
…よかった。ここまであまりに「未来予測」がはずれるので、分析パターンも「青です。…限りなく透明に近い…青です」とかに変わってるんじゃないかと思ったけど、全然そんなことはなかったぜ! - シチュエーションはTV版とほぼ同じ。今回は、参号機にはアスカが乗っており、シンジはそれに気付いている。
- 参号機が初号機の首をしめる。その両手をはがそうとする初号機。あれ?両手はがせちゃうの?と思ったら、参号機からもう二本腕が生えてきた!
旧シリーズをもとにした「未来予測」はこうして楽しく裏切られる。もし次のループがもしあれば、参号機にはあと二本の腕を追加するしかないな。両肩に星マークがついているやつね。 - このパートで、なぜレイが出撃していないのか。というのは、とても気になった。
- 制作的には映画の尺とエネルギーの節約だが、時間と労力の問題を考えなくても、レイは出撃させない方がいいはずだ。なぜなら、この劇場版のシチュエーションでレイが出撃した場合、シンジにとって「アスカとレイのどちらを救うか」という二択の構図になる危険性が高くなってしまうと思うから。
- 今回の映画では特に、その構図に見えてしまう危険性は避けたいところ。つまり、あらゆる意味でレイは出撃するべきではないので、出撃しない。
- と、ここまで考えて、ではTV版はどうだったか、と気になり、思い出してみた。
- TV版では、レイ、アスカ共に出撃しているので、彼女ら2人は共に参号機と戦う立場。
しかし、恐らくは省力化を大きな理由として、レイ、アスカはすぐに撃破され、結局、シンジvs参号機という、映画と同じ構図になる。 - アスカ、レイ共に無力化されるのみで、参号機は彼女らを殺そうとはしない。殺すか殺されるかの選択を突きつけられるのはシンジのみ。当時はあまり意識していなかったが、この構図はかなり作為的につくっているなあ。
■なぜ、参号機事件の際にレイが出撃していないのか
ごく普通の物語なら、この参号機を止める話は、多分こうなるんじゃないかな。
(A)参号機を倒す → 参号機パイロットが傷つく
(B)参号機を倒さない → 参号機のために、仲間や周り(世界)が傷つく
このような構造にして、どうやっても誰かが傷つくが、主人公は選択を迫られるというジレンマにするのが、普通かな、と思う。しかしエヴァではTV版、新劇場版ともにあくまで「自分が殺されるか」「相手を殺すか」という対立軸にしている。
(A)参号機を倒す → 参号機パイロットが傷つく
(C)参号機を倒さない → 自分が殺される
- この選択に、世界と第三者は介在しない。他人のために、世界のために殺すのではなく、あくまで自分のために殺す。
しかしシンジは、この「自分が殺される」かも知れない状況を与えても、参号機への攻撃を拒む。徹底的に拒む。 - このシンジの全身全霊をかけた拒否は、エヴァンゲリオンの「エヴァと乗り手の同一化(シンクロ)」があってこそ。「根性なし」だけでは、あの拒否の徹底さが理解できなくなる。参号機の首を絞める初号機の手は、シンジの手そのものだということ。
- そうであることを踏まえたとき、このタイミングで登場する「ダミーシステム」の凶悪さにほれぼれする。
- 今回の劇場版で、従来のダミープラグはダミーシステムに変更された。ダミープラグの場合は、単に操作系統が切り替わる印象だったが、ダミーシステムは違う。コクピットの後方からダミーシステム用の機械がシンジにかぶさってくる。しかもご丁寧に、視界は隠して、後ろからシンジの両手をおさえるような形、つまりこれは「二人羽織」だ。
- 後ろから両手をつかまれて「はい、ここが参号機の首ですよ。にぎにぎしましょうね」とダミーシステムが二人羽織しながら、参号機を壊していく。これはたまらない(シンクロ切断していればいいという問題でもない)。しかも、今回は誰が参号機に乗っているのかシンジは知っているのだ。
- ダミープラグを、「二人羽織」(ダミーシステム)にしたのは、分かりやすくて、悪趣味で、本当にすばらしい。
- こうして、シンジはTV版より、さらに深く深く絶望して、いわゆる「男の戦い」パートへ進む。
■変更されたダミーシステムの凶悪さ
戦闘パートD:男の戦い、再び
- 「司令部の半分は壊せるよ」と、おなじみの脅しをかけるシンジ。
「子供の駄々に付き合っているヒマはない」と、おなじみの処理をするゲンドウ。 - ミサトがもしあの場にいたら、可能性が低くても、アスカを救出する作戦を立案してしまうだろうし、ゲンドウとは対立する可能性も高い。だからレイと同じく、ミサトもリツコもあの時、司令部を離れていた。これによって、シンジの憎しみは、ゲンドウただ1人に集約される。
- 気を失ったシンジは、これまたおなじみ脳内電車シーンへ。もう細かいセリフは覚えていないが、印象深かったのは2つ。
- SDATをある種の移行対象としてみることができるなら、ぬいぐるみや毛布をいつか手離すように、SDATとお別れするときもくるはず。
だから、シンジがSDATをゴミ箱に捨てたのは、父の保護なしで直接、世界と向き合う決心をしたということでは正しいなと思った。訣別の仕方がひどいのがエヴァだけど。 - ごく普通の物語ならどんなお別れの仕方がいいのか。
ヘッドホンつけて、世界と自分との間にSDATを入れて身を守るんじゃなくて、父やレイと一緒に音楽を聴いて共有するとか、その音楽を演奏したり歌ったりして自分のものとして消化するとか、かな。これはさすがに、エヴァでは無理…
レイ「司令…今度、碇君達とカラオケ…どうですか?」
ゲンドウ「そんな時間はな…」(ユイ「シンジを頼みます」)「…ああ、わかった。行こう」
栗田レイ子さんだったら、いけるかもしれない。 - だから、ゴミ箱のSDATをレイが拾って零号機のコクピットに入れたというのが、ちょっと良く分からなくて。ゲンドウとシンジの絆のアイテムだというのは分かるけど、それはあくまで一時的な対象のはず。やはり、お別れの仕方がこれではよくない、間違っているということなんだろうか。
- SDATの最終的な場所が零号機のコクピットというのが面白いところだな。この後の『Q』では、シンジとレイがいつまでもくっついているわけにもいかないので、TV版でのサルベージとEOEのラストを合わせたようなことをしなければいけない気がするけど、そこでの道具として、SDAT(または音楽)が使われたりするのかも知れないね。
■「楽しい世界」から「イヤな世界」へ
ひとつは、世界への嫌悪と、父への憎悪。
世界と自分を肯定しかけていたシンジが、アスカの件でがらりと変わる。
レイ「イヤな世界?」
シンジ「そうさ。怖いエヴァや使徒がいる世界。父さんがいる世界。イヤなことをさせられる世界。父さんはダミーがあれば僕がいらない世界。僕も友達も嫌な思いをする世界。でも、いいこともあったんだ。でも結局は壊れてしまう。イヤな世界さ」
『ヱヴァ破』では、幸せのピークまで上げていたからこそ、絶望への落差は深い。世界に絶望する一方で、父に必要とされない自分にも価値がないとも思っている。
■SDATとのお別れ
もうひとつは、父からもらったSDAT(音楽プレーヤー)。シンジは「これを付けていると父さんが嫌な世界から守ってくれているような気がした」と言っている。これは「移行対象」というやつなのかな。いわゆる「ライナスの毛布」。
普通は母から離れる幼児の孤独や不安を和らげる物理的な対象を指すそうだが、母のいないシンジの場合は父になるのだろうか(そういえば、アスカも人形持ってたな)。
■最強使徒襲来
- おなじみの最強(かつ最も同情されている)使徒がやってくる。
シンジもいつもどおり、街の外へ出ようとしていたはずが、いつのまにやら、ジオフロントのシェルターへ。 - マリっぺが、弐号機で出撃して、ビーストモードも使うが、敗れる。
- 続いて、綾波がミサイルかついで特攻するも、残り1枚のATフィールドが破れない。
- そこに、満身創痍の弐号機が来て、網脂(ATフィールド)を食い破る。
- ミサイルが使徒のコアに激突→シャッター閉じ→レイが弐号機を放り投げて逃がす。
ここでレイがマリに礼を言い、これでチルドレン全員に「ありがとう」を言ったことになる。 - 爆発。巻き込まれた零号機はこんがりロースト。もちろん使徒は無事。(残った零号機はスタッフでおいしくいただきました。)
- 一緒に観たパチンコ好きの友人と、鑑賞後話す。(私3回目、友人1回目)
どうだった?事前に言ってたように、パチンコにしやすいでしょ?ATフィールドもすさまじく多層構造になってて、パリパリ割り甲斐があるし。
友人「確かに。零号機の特攻リーチのときに、ビーストモードの弐号機が来たら激アツだね。」
そのあと、シャッター閉じてしまうけどな。爆炎で激アツではあるけど。 - 弐号機のマリが、シェルター内のシンジを発見するが、「(エヴァに乗るかどうか)そんなことで悩む人もいるんだ」っていうセリフが印象深かった。
旧エヴァの「乗るかどうか」というのは、かなりテーマに関わる大きな問題で、父親の用意した舞台でロボットに乗って成長するということに最後の最後までシンジは抵抗したのだけれど、マリはそれ自体が問題にならないほどの外部から来たんだな。外部というか、2009年のキャラが1995年にやってきた、という感じか。 - マリは、この映画で二体のエヴァを使い捨てている。彼女にとっては「できる」「できない」だけが問題で、そのためなら大人達もエヴァも利用する。
- マリに、乗らないなら早く逃げれば?死んじゃうよ。と言われるも初号機のもとへ走るシンジ。
■世界と少女の天秤
- 零号機(レイ)を取り込んだ使徒との戦いで、初号機はシンジの意思による覚醒をする。
シンジ「お父さんを…いじめるな!」じゃない。 「綾波を、返せ!」
ここから大感動のクライマックス。 - シンジ「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」
- 「世界」と「女の子」を天秤にかけて、「女の子」を選んでいるように見えて、実は天秤になっていない。
シンジにとって、「世界」はイヤな世界でしかないし、「自分」は価値が無い存在でしかない。
(そうではなかったはずなのに、アスカの件でそうなってしまった。)
だから今のシンジにとって「世界」も「自分」も、「代わりなんかいない大事な女の子」と釣り合いのとれる価値のあるものになっていない。 - 綾波救出の場面は本当に美しいと思うけれど、「女の子」の代わりに「世界」と「自分」をどうだっていいと言い切ってしまうシンジを見るのは、あまりにせつない。
- 「世界」と「代わりのない女の子」を天秤にかけて「女の子」をとる、というのは、言ってしまえば、シンジの父親であるゲンドウの道だと思うんですよね。ゲンドウの基本像が新劇場版でもあまり変わらないのであれば、ということですが、実際に『ヱヴァ破』でもシンジにこう言っている。
ゲンドウ「自分の願いはあらゆる犠牲を払って自分の手で掴み取るものだ。大人になれ、シンジ」
とりあえず従来のイメージで良いならば、ゲンドウの言う「あらゆる犠牲」の中には、当然のように「世界」が含まれるはずだ。
ゲンドウは世界に愛されているとは感じてはいないし、自分も世界は愛さない。「代わりのない女」と「世界」が釣り合うはずもなく、願望のためなら、喜んで「世界」を差し出すだろう。ネルフも。いつも隣で支える冬月も。息子であるシンジですらも。 - だから、『ヱヴァ破』のラストで、シンジは結局、父親と同じ事を、父より先にしてしまった、とも言える。
- そして、だからこそ、この後のシンジはゲンドウの一歩先を行き、ゲンドウと戦えるようになれるかも知れない。毎回やるやると言って、毎回やってない父と子のドラマをやれるかも知れない。
- もちろん、綾波救出が間違っているとは思わない。
使徒に侵食されたアスカ、使徒に飲み込まれたレイと、似たような構図が続くのにも価値がある。
アスカの場合には、シンジは何もできなかった。父の命令は聞けないし、殺すなら殺される方がまし。それでシンジは満足かも知れないが、何も解決しない。結果、参号機は処理された。
しかし、シンジの前に、再度同じような状況がやってくる。シンジは、ミサトの言うところの「自分自身の願いのために」、レイを救う行動に出る。シンジのレイ救出には、アスカに対する失敗が前提としてあるはずで、そう信じたい。
エヴァは「繰り返し」の物語。状況は繰り返されたが、シンジは同じ過ちは繰り返さなかった。
(だから、シンジがアスカでなく、レイを選んだ、レイがヒロインだ、というわけでもないと思う) - ゲンドウより、シンジが幸せなのは、「代わりのいない大事な人(女の子)」が、ゲンドウには1人で、シンジには2人いたことかも知れないね。
そういう意味でも感動的で、この場面は本当に、本当に、美しいけれど、この美しさは新劇場版全体のプロセスの中で、あくまで中間地点の美しさ、ということになるはずだ。ならないといけないと思う。
なぜなら碇シンジという少年は、この世界の美しさ(Beautiful world)と、自分の美しさ(Beautiful boy)を、まだ知らないのだから。
大人が子供に対して、
ミサト「この世界は、あなたの知らない面白いことで充ち満ちているわよ。楽しみなさい」
と、語り、それに対して、「そっか、私、笑えるんだ…」と自分に気づいた少女が、
アスカ「うん。そうね。ありがとう、ミサト。」
と、答えた、この世界の美しさを。
スタッフロール:宇多田ヒカル『Beautiful World (PLANiTb Acoustica Mix)』
(歌詞より)
「もしも願いひとつだけ叶うなら、君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ」
そういう意味では、シンジの願いは『ヱヴァ破』のラストで叶ってしまったんだな。
この曲で初めて、心の底から宇多田ヒカルの曲をすばらしいと感動した。本当にすばらし…
(歌詞より)
「寝ても覚めても 少年マンガ 夢見てばっか」
ほっといてくれ!あとアニメでも夢見てばっかだよ!この記事が何よりの証拠だよ!(ぬるい涙)
エンディング:天からくる槍
- 天から槍が降ってきて、初号機に突き刺さる。
- これは、シンジの「美しい救出劇」に釘を刺す一方で、TV版「男の戦い」での、覚醒したエヴァはもう誰にも止められない→次の回でなぜか止まっている、という展開に対する良い補完だと思う。
- カヲル「今度こそは幸せにするよ。碇シンジ君」
この言葉を額面とおりにとれば、新劇場版のシンジで私が目指してほしい幸せとは対立するかもね。
次回予告
- 独眼竜アスカ姐さん登場。首から下が全く見えてないのが怖い。
- 「アスカの体はどうなってるのコンテスト」を開催して、みんなから、アスカ姐さんのボディを募集したら盛り上がってレッツパーリー。
- で、応募作の中で一番面白いのを大賞に選んだ上で、それを捨てて、全然違うのを実際の画面に登場させたらいいと思います。
以上です。
個人的には、四部作の二作目として、きっちりと途中段階としてのクライマックスになっていてすばらしいと思います。
「最後までいかないと評価できない」という方も多くいらっしゃるでしょうが、私は逆にすばらしい「二作目」として評価します。このあとの二作がどうなろうと、私の中では『ヱヴァ破』がすばらしい二作目であることは変わらないでしょう。
総論的なまとめとして、いくつかのポイントについて書くつもりでしたが、あまりに長文になりすぎましたので、記事を分けます(今更言うな)。おかしいな。27曲目とかいろいろ省略したはずなのに。
一応、「リビルド」、「ループ」、「マリ」、「この後の展開」、「幸せを求めること」、「サービス」などについて、書こうと思っています。
もし、よろしければ次回もお付き合いください。