この小説のタイトル『15×24』は、「15人×24時間」のこと。
主人公は自殺志願少年を含めた少年少女15人。舞台は12月31日、東京の24時間。
というのを聞いて、それだけの興味で買いました。うん、面白そうだ。
手に入れて2巻まで読みました(3巻が未だ買えていない)。そして実際に面白かった。
面白かったので、紹介も兼ねて、感想や考えたことをメモしておきましょう。(※ネタバレなし)
ちなみに私は、新城カズマさんの小説を読むのはこれが初めて。
そしてライトノベルは普段はほぼ読みません。以前読んだのは、桜坂洋『All You Need Is Kill』(2004)。その前は、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズ(1998~)をいくつか、という程度。
キャラクター小説としては読まずに、物語の枠組みが面白いという評判を聞いたものだけ読んでいる感じです。
『15×24』はどんなおはなし?
![]() | 15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1) (2009/09) 新城 カズマ 商品詳細を見る |
大晦日を迎える東京で、1人の少年が自殺サイトで知り合った人物「17」とともに死のうとしていた。しかし、「17」と連絡を取り合うのに使う携帯電話が盗まれてしまう。そしてその携帯電話の中にある自殺予告のメールは17歳の少年少女に転送されていき、彼らはそれぞれの理由で少年を捜索し始める。その一方で自殺予告のメールはインターネットを通じて拡大していき、暴力団をも巻き込むようになる……。
(Wikipedia - 『15×24』あらすじ)
12月31日、少年が間違いで出した自殺予告メールをめぐり、クラスメイトや巻き込まれた人たちが、少年を探して東京中を駆け回る。タイムリミットまでに自殺を止めることができるのか、というようなお話。
携帯、メール、ネットを駆使する、東京中を舞台にした24時間鬼ごっこ、という感じです。
今のところ(私が読んだ2巻まで)は基本プロットどおりの展開なので、想定の範囲内であるが面白い。まだまだ話を広げているところなので、ここからどうなるかは分からないけれど、毎度ながら私はそんなのは全く気にしない。
主人公だけでも15人いて、めまぐるしく視点が変わるのがとても楽しいが、15人全てが高校生ほどの少年少女。
ライトノベル的には当たり前かも知れないが、はじめは少し抵抗感があった。
なぜ主人公である15人全員が少年・少女なのか
「主人公(視点となる人物)が15人もいるなら、小さな子供や大人や老人も入れたら視点も幅も広がるし、読者側でも感情移入先の幅が広がってバランス良くなるのに」と思いました。第一印象として。はじめはね。
『サマーウォーズ』でも、高校生2人を中心に置きながら、家族をいう形態をとることで意識的に幅広い年齢をカバーしようとしていました。広く遠くへ届くものにするときはその方が良いことが多いはずです。
なぜ、15人もいる主人公が全員、少年・少女なんでしょうか?
「そりゃライトノベルだから、当たり前でしょう」なんて声が聞こえてきそうですが、考え方はともかく結論は同感なので、「うん。そうだね」と私も答えるでしょう。そして、次にこう続けるかな。
「なぜなら、この作品はライトノベルが引き受けるべき、正しいジュブナイル(少年・少女向け)だと思うから。」
多数のキャラクターをひとつのテーマでつなぐ物語
自殺志願の少年を探して止めようと全員が奔走する中で、15人の少年・少女達は「生と死」について考え直すことになります。
現実の世界でそうであるように、「死生観」については全員がバラバラです。
全員がひとつの目的のために行動するお話なのですが、その行動動機は全く違い、それが各キャラクターの違いになります。
つまり、この物語で、各キャラクターの個性というのは「死生観」によって表現されています。
「死生観」が各人バラバラであることでキャラを立てているわけです。
早い話、少年少女15人が
「死ぬっていけないこと?」
「生きるってどういうこと?」
というトークテーマの『真剣10代しゃべり場』をしている物語といってもいいでしょう。
登場人物が多い物語をコントロールする方法のひとつとして、テーマ(抽象的で、絶対にひとつの答えが出ないものがのぞましい)を設定し、登場人物全てに、そのテーマに対する考えを述べさせます。
これによって、多数の登場人物のポジショニングを分かりやすく整理し、キャラクターを立てるわけです。
たとえば、田中芳樹ならトークテーマは「政治」「戦争」「民主主義」あたり、福本伸行なら「金」「勝負」などだったりしますね。
考え方が真逆のキャラクターや、同じ考え方なのに敵味方のポジションに別れるキャラ、テーマに対しておちゃらけて真剣に答えないキャラ、テーマに対する考え方を述べない謎のキャラクターなど、ひとつのテーマに沿っているので、読者にとっても多数のキャラクターを覚えやすくなります。
『15×24』の場合は、トークテーマが「死生観」。
このテーマに対して、どう考えるか、どう行動するか、それが各キャラクターの個性です。
「でも主人公だけでも15人もいるんでしょ?こんがらがりそう。覚えきれるのかな…」
そういう心配はあまり必要ないと思います。
人間なら誰でも関わる根本的なテーマですし、「死生観」を軸に巧みに整理されていますので、必ず主人公達を覚えることができるでしょう。
非常に上手いというか真っ当なつくりだと思います。
15人もいるキャラクターを個性分けするのに、このような手法を使い、いわゆるオタクデータベース的な、類型的なギミックにはほとんど頼っていない。
普段ライトノベルを読まないような人(私もそう)でも、すんなり受け入れることができる構造と強度があることが読み進めるうちに分かってきたので、ならばなおのこと、全員を少年・少女にしてしまうのはもったいない、と思えてきたのだけど、2巻までを読み終えて分かった。
それでもこの『15×24』では、15人全員が少年・少女である方がいい。そうあるべきだ。
大人はわかっちゃくれない――いやわかったことにしてるんだ
![]() | 15×24link two―大人はわかっちゃくれない (集英社スーパーダッシュ文庫) (2009/09) 新城 カズマ 商品詳細を見る |
ある程度年齢がいった読者(私もそう)であるなら、『15×24』で書かれる少年・少女たちの多様な「死生観」を見ても、驚くことも、新しく発見することも、考えが変わることもないでしょう。
それは、この年齢になるまでに、みんなそれなりに『しゃべり場』を済ませたし、実際の体験もいろいろしたから。
だから、このトークテーマの『しゃべり場』に「参加者としての大人」を混ぜてはいけない。
話が一瞬にして終わってしまう。
それは子供の考えより、大人の方が正しいから――ではない。
大人はその話を終わらせる(折り合いをつける)ことで生きているから。生きることにしたから。
私自身も何か悟ったわけでもない。かろうじて分かったことはわずかに2つ。
1つ、正しい答えなんかない。誰も答えは知らない。
2つ、それを踏まえた上で、自分なりに答えを用意して、生きていくしかない。
(中島敦『悟浄出世』ですよね。要するに)
大人はこのトークテーマの『しゃべり場』に参加する資格がない。すでに失った。
参加資格があるのは、まだこの折り合いをつける前段階を生きる少年・少女達のみ。
だから、パネラーである15人全員を少年・少女にして、「死」と「生」について考えて、討論しながら、行動し続けるのが正しい。
大人は『しゃべり場』のおとなゲストのようにあくまでアドバイザー、または立ち塞がるもの、としてしか、この物語には関わらない方がいいんじゃないかな。
『15×24』における主人公15人全員が少年・少女というのは、きちんと意味があり、またそれが物語中で機能していると思います。
まだ途中だけど、それは最後まで裏切られることは無いんじゃないかな。2巻読了までにそう信じていい、という信頼感が私の中に生まれています。
ちなみに、ジュブナイルとしてすばらしいと、私はいってますが、「死生観」を含めて、大人には食い足りない、子供向け、というわけではありません。
年寄りの私でも充分に楽しんでいます。「死生観」だけでなく、ミステリ、パズル的なタイムサスペンス、現代のコミュニケーション(とすれ違い)ドラマ、ネット(メール、ブログ、掲示板)要素など、多層的に面白さを積み上げているので、さまざまな楽しみ方ができるはずです。
2009年の12月31日には、こん平師匠のカバンと同じくまだ若干の余裕があります。もし興味をもたれたら、ぜひ読んでみることをおすすめします。
今年の大晦日は、『15×24』を知っているかどうかで、いつもと違う大晦日になるかも知れませんよ。
余談:『15×24』はライトノベルであるべきか
![]() | 15×24 link three 裏切者! (集英社スーパーダッシュ文庫) (2009/10/23) 新城 カズマ 商品詳細を見る |
『15×24』がライトノベルで出たことについて、主に売上の面からネットでいろいろ意見がありましたね。詳しいことは、まとめてくださっている以下の記事で読んでいただくとして。
『15×24』問題まとめ - ウィンドバード
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20091101/1257034123
サマーウォーズ問題の次は、15×24問題か。日本は今日も問題だらけだ。
その中には「マニアック」「フックが弱い」というご意見もありますね。
主人公は少年少女15人。舞台は12月31日の24時間。携帯やネットを駆使した東京鬼ごっこ。
というのは、フックにもならないのかな。私はこれで読む決意をしたのだけれど。
映画だとこれぐらいの情報で、中身(の面白さ)が伝えられるものを、面白そう!となって見に行くイメージですよね。(ひとことで面白さが伝えられるものに落とし込んでいる)
私がこういう時の説明にいつも使うのは、『スピード』。
「時速80km以下になったら、バスが爆発する!走り続けるバス。乗客の運命は?」
これだけで面白さが説明できる良い映画。この一行で見に行ける。
実際、『15×24』を貸すよ、と言った友達に、上記の一行で説明したけど、なかなか面白そうね、と言ってくれた。
もちろん、映画と小説では形態が違うし、
「『15×24』はキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックがいないんだよ」(そちら側のフックもあるので)
とも言えるかも知れないけれど。
ライトノベルはマンガ雑誌に似ていると思うので、週刊連載マンガのように、耐久性と汎用性のある設定の物語を構築して、あとは人気が続くまでシリーズを続けられるような体制を整える方がいいんでしょう。
初期目標は変わらないけど、道のりは調整できるようにして、人気キャラクターや敵(エピソード)を自由にやりくりできるようにする方が使いやすいはず。
でも、長編人気マンガと同じく、そういう面白さはキャッチーな一言では説明できない(しきれない)と思う。少なくとも私はできない。
外部にまで通じる面白さは、説明が一行で終われるタイプの方が向いていると、個人的には思っています。
ただここまで述べたように、ライトノベルというものに、いわゆるジュブナイル(少年少女向け)という意味と機能がまだきちんとあるのであれば、『15×24』はライトノベルで出すにふさわしい小説だと、私は考えます。
まさしく中学生とか高校生に読んでほしいから、彼らがおこづかいで買えるように、安価な文庫で売ってあげてほしい。
その役割をするのにいちばんふさわしいレーベル(ジャンル?)こそがいわゆるライトノベルじゃないの?
だからライトノベルで出たことは全然間違ってないと思うけどなあ。
もちろん「ライトノベル」というものについては全く無知なので、ジャンルやビジネス的にどうこう言えないけれど、こういう作品を引き受けることにライトノベルの価値があるんじゃないのかな。ちがうの?
それとも面白いのに売れてないらしいと、大人が売り上げを心配して、あれこれ言ってるだけ?
もちろん、いちばん読んで欲しい層(中・高生)が全然買ってくれてない、興味も持っていないということであれば、大変さみしいことだし、そこは問題にしてもいいけれど。
単に売り上げがどうこうを問題にするのはあまり意味が分からないなあ。
それとも売り上げの悪いライトノベルがすぐ絶版になったりするなどの心配なのかな?
それこそ、その際は初期目的は終わったということで、他の出版社などから、違う売り方で出しなおしたりすればいいかな、とも思う。面白いのは確かなんだから、何とでもなるような。何とでもしようよ。
なんとなく、そのシチュエーションの方が映画がよりステキになる気がしたから。
友人A「…『サマーウォーズ』やってるシネコンがある、でかいショッピングモールまで、車ですっごいかかるけどな!」
君たちもTVCMなんか見て、面白そうって言ってたじゃないか。
友人B「でも、誘われなかったら、見には行かなかったな。遠くて大変だし」
まあ、車出してもらった君らは確かにお疲れサマーウォーズなんだけど、きっと君たちに損はさせない。
この映画は、そういう映画のはずなんだ。

映画『サマーウォーズ』上映終了。
―どうだった?
友人A「おもしろかった!『ぼくらのウォーゲーム!』は昔見たけど、いい感じに忘れてて全然楽しめたよ」
友人B「俺はアニメとか全然見てないけど、おもしろかったよ。で、OZってなに?」
―終わってから言うか。ああ、あなたはPC持ってなくて、ネットも全然やってないもんな。
友人B「でも携帯ではやってるし、映画の最初にOZのプロモーションビデオがあるし、なんとなくは分かったけどね。」
友人A「思い切って来てよかった。楽しかった」
―友人たちは、とても楽しんでくれたようだ。良かった良かった。さあ、ご飯食べて帰ろうか。
友人B「で、自分はどうなの?」
期待していたのは「みんなにとって80点の映画」
『サマーウォーズ』については、前回のエントリで書いたように、幅広く多くの人に楽しんでもらえる映画になればステキだな、と期待をしていました。
この映画は、「誰かにとって100点の映画」であることより、「みんなにとって80点の映画」であることを選択すべきだろうと。
例えば、まだ感想記事がまとめきれてないけれど、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、私にとって100点といってもいい。でも、それはこれまでのエヴァ体験を含めた人生が大きく影響するので、みんながみんな100点をつける映画だとはとても思えない。人によって極端に差が出るタイプの映画だと思う。
その意味では『サマーウォーズ』は、そういう私の期待に応えてくれた。
ホームランバッターではなく、アベレージヒッターに徹していて、平均点が高い映画になっていると思う。
劇場には、お盆ということもあってか、家族連れの姿も多かったし、アニメをパチンコの液晶でしか見ていないような地元の友人も楽しい映画として、面白がってくれた。
公開前に、あんな記事を書くほどに期待と心配をしてたわけだから、私もとてもうれしい。
なのに、なぜ、こんなにも、もやもやサマー(ウォー)ズなんだろう。
純粋に私自身の体験としてはどうなんだ、と言われたら、それが、その、正直に告白して、びっくりするほど、テンションが上がらなくて困った、という他ない。
楽しんでいないかと言われれば、楽しんだ。面白かった。
うまいなあ、らしいなあ、と感心しながらも見た。
にも関わらず、目の前(スクリーン)に美人がいるのにちっともエレクチオンしないので、これは私がウォーゲームをDVDでたくさん見てるからだなとか、いろいろ理由をつけながら見たが、結局、最後まで自尊心とラブライフを取り戻すことは出来なかった。
そのことには困惑している。理由は自分でも未だによく分からない。
僕の体が昔より、大人になったからなのか。
本当は「ネットと現実」、「家族」、「田舎」などについて、何か話をするのが『サマーウォーズ』感想のお作法だと思うけれど、こういった経緯もあり、あまりそれらの要素と、それを語ることに興味が持てなかったので、鑑賞しながら、考えていたことをメモ形式で書くことにします。(※思い出したり、思いついたことは随時追加する予定です)
メモなので、思考があっちこっちに行ってますから、メモ同士のつじつまがあっていなかったりもしますし、絵コンテ集や設定資料なども見てないので、あくまで映画を見た上でのメモと、とらえてください。
<ネタバレ注意>
上映中なので全てを語るようなネタバレはしませんが、それでもネタバレ満載なので、ご注意を。
ただし、最大のネタバレはやはり『ぼくらのウォーゲーム!』なので、未見の人はそのまま見ずに『サマーウォーズ』に行った方が良いでしょう。
映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ
全体で見ると、「世界規模の混乱を家族だけで解決するには、どういう家族構成にすればいいか」、という視点で見ると、とても興味深い映画だった。
実際のところ、主人公の友人1名を除けば、田舎の陣内家のみで話が進み、問題が解決する。
陣内家は、この映画のためにつくられた、問題解決のための家族集団なので、そこにリアリティがどうこう言うのは、割合ナンセンスかな、と思います。
■「陣内家の人々」
- 「映画の舞台となる陣内家は、由緒正しい名家だが、財産の類は一切ない」というのを冒頭でわざわざ強調するのも、家族のネガティブ要素のひとつ「親族間での財産争い」をなくすためでしょうね。映画に不必要な要素は全てつぶしておく。
- 内科医、自衛官、消防士、救急救命士、警官、水道局員など、問題解決に役立つ職業を出す必要があるが、これを家族だけでまかなうには、陣内家の男たちがそういう特殊な職業ばかりについていなければならないことになる。
しかし、その理由として、「『人の役に立て』というのが栄ばあちゃんの教えであり、それを忠実に守っているから」で処理しているのは、なかなかすばらしい。 - 親族が映画に必要な職業にしかついていないのは必然なので、あとはどう言い訳するかだけ。
それを、栄おばあちゃんの信念ということにし、ばあちゃんを敬愛し実行している子供たち、ということにしてしまうのはストーリーの補強的にも悪くない。(いわゆる私の好きな「1アイデアで複数の効果」というやつ) - ただ女性陣は主婦ばかり。ちょっとバランスが悪いかも知れない。
もし専門的な職業についた男性陣と主婦である女性陣ということで分ける意図なら、女性陣は「男どもはバカだよねえ」と言いつつ、家の実務的なことを切り盛りしている方が良かった気がするなあ。葬式や食事の準備、子供の世話とか。
栄ばあちゃんのもうひとつの教えである「よくないのは、ひとりでいること、おなかが空いていること」については、女性陣が解決する、と分かりやすく単純化しても良かったかも知れない。
アカウント貸しはしないといけないけど。 - 公式サイトの陣内家家計図を見たときに気づくのは、長男(栄ばあちゃんの長男)がいないこと。
長男の存在が消されているのは、家長としての栄ばあちゃんの強化と、「栄の退場」後に家長権の委譲が長男へスムーズに行われてしまうからでしょうね。主導権を取る人間が存在してしまうと、混乱が発生しないから。 - ヒロインである夏希先輩の両親は、OZの混乱の影響もあり、エンディングにしか登場しない。両親がいると夏希先輩は、当然のように親を頼るので、両親は解決後にしか娘の元へ来させない。
- インタビューなどで監督自身が語っていたように、「家族の食卓」は作画的にもテーマ的にも重要な役割を果たしていた。とにかく、みんなでご飯を食べる。
- 侘助登場。彼は食卓の輪には加わらず、食事も口にしない。
- そのあと、栄ばあちゃんが侘助をナギナタで追い回す際に、食卓は一度崩壊する。
- 次の日の朝(「栄の退場後」)、これまでひとつの食卓を囲んでいたが、はじめて別々のテーブルで、一人ひとりに配膳された食事をとり、食卓がバラバラに。
- しかし、侘助が帰還し、親族が再びひとつになると、大テーブルをみんなで囲み、大皿の料理を取り分ける食事をとる。ここは良かった。侘助が食卓につく際に当たり前のように誰も何も言わないのがよかった。
- そしてその後、同じ食卓で食事をした全員で、ラブマシーン撃破に成功する。
- 食卓の役割が非常に分かりやすい。
- と、思ったら、「世界危機のタイムリミットが刻まれているときに、なぜ呑気に全員でご飯食べてるんだ」と怒っている人もいるらしい。現実で取るべき正しい行動と、フィクションでの正しい行動は別物なんだけどな。
- OZ混乱の犯人扱いされたあと、警官の翔太兄(にい)に身柄を拘束され、車で連行されるが、そのときに「え?この家を出るの?」って驚いた。
連行途中で陣内家に引き返すのだけど、『ぼくらのウォーゲーム!』がマンションの部屋から一歩も出ずに解決したように、陣内家から一歩も出ずに解決させるのかな、と勝手に思っていた。
あれは、ケンジに実際発生している混乱を、肉眼で確認させるためなんだろうか? - ちなみに陣内家に来た夜には、大家族なんて苦手だ、と言っていたのに、翌日の身柄拘束時には、楽しかった、来れて良かったと告白する。正直、ここはよく分からない。
- 個人的には、親類一堂が集まって大家族状態になることが当たり前の夏希先輩にとっては、普通で面白くもない毎度のことで、そういう当たり前が、ビジターのケンジにとっては楽しい、ということにした方が良かった気がするなあ。
ケンジ「こうやって、全国から親族が集まってみんなで食事するって面白いですね」
夏希「そう?私には当たり前すぎて、面白くとも何ともないんだけど」 - その後、「栄の退場」があったり、侘助と親族のいさかいがあったりして、夏希先輩が親族特有のうっとうしさがイヤになり、「家族」に絶望するパートに進んでおく。
そこでケンジがバラバラになってた家族をひとつの目的でまとめあげて、夏希が再度、家族っていいな、と再発見する。
ケンジが陣内家に入っていって、親族の大切さ、すばらしさを再認識させてくれたから、夏希はケンジに魅かれる。というような展開の方が分かりやすかったんじゃないのかな、という気がする。 - 先に書いたように、個人的には「家族」の良さを認識するのは、ケンジでなく、この人であるべきな気がする。そういう意味で夏希を主人公のように扱う方向もあったかも知れない。
- 「侘助に負けているのに、花札決戦の代表になることに説得力がない」との声も耳にするが、侘助との勝負では、夏希の方が手札も良く、引きも良く、基本的に夏希はついてた。ただ、勝負の駆け引きという意味では侘助の方が上だったというのを見せたかったんじゃないかな。
ラブマシーンは花札の知識が無い上に、AIのせいか駆け引きも侘助ほどでは無いので、十分勝てる見込みのある勝負だった、という意図だったのかな、と思った。 - ただ後述するが、私個人としては、こういう映画ならくどいほどにフリがあって、それを回収していくのが好きなので、夏希=ラッキーガールのシーンが細かく挿入されている方が好き(もちろん、ケンジ君は対比としてアンラッキーということになって気の毒な目に会うだろうけどね)。幸運であることは絶対にセリフでは出ないが、こうした細かいコメディシーンで分かる、ということにする。
- 最後に軌道がずれた人工衛星が落ち、温泉が湧き出るのも夏希のおかげにすればいいよ。もちろん、何かするわけではなく、衛星をキッとにらんで、「ここには!おばあちゃんのいるこの家には落ちないで!」と叫ぶだけでいい。それで十分。
- 「栄の退場」のあと、このまま伊丹十三『お葬式』になってしまうんじゃないか、と思ったが、映画見た後で調べてみたら、『お葬式』の主人公の名前が「侘助 (山崎努)」なのか。なるほどね。
- 仮想世界OZでのアクション担当。
- カズマの問題は、いじめと、はじめて年の離れた兄弟が出来たことに起因するが、解決にはケンジはほぼ関係ない。
- 主人公が全ての問題を解決する必要は無いが、あれほど大家族の食卓から離れていたカズマが、中盤からはいつの間にか家族の輪に入っていたので、食卓の輪に戻るきっかけだけ、ケンジが作った方が良かったかな、と思うんだけど、どうだろうか。
- 年少組の子供たちがマスコットなだけなので、カズマの兄弟っていいな、お兄ちゃんになるっていいな、と思うきっかけ作りに貢献してもいいかも知れないな。
- 敵であって、敵でない。善悪の概念の無く、全ての人々に迷惑をかける災害のようなもの。
災害に対して、誰が悪い、なぜこうなったと言っているヒマなどなく、行動して、ことを収めることが何より先決。そして陣内家には、災害対処のエキスパートが揃っている。
この映画は、災害を収束させたところで終わり、内面や、善悪の判断は、意図的に映画の外に置いている。 - ラブマシーンが、アカウントを奪い、成長して、権限を増やし、神々しくなっていく様を見て、星新一のショートショートを連想した。
「神」とは何か、を知るため、研究者が「神」に関するありとあらゆるデータをコンピューターにインプットしていく。コンピューターは次第に光を帯び、そして最後は人間からは見えなくなった。
(と、いう感じの話だったと思う。あれは、どこに収録された、なんと言う話だったろう?) - ラブマシーンは知識欲、知的好奇心を与えられたハッキングAIだそうだ。知識を蓄え、知的好奇心を満足させられるなら何でもする。しかし、ラブマシーンから与えられた意味不明の暗号を、知的好奇心だけで解いてしまったケンジと、何がちがうのだろうか(ケンジは結果的に無罪だったが)。
もちろん違うのだけれど、その辺りは割りと省略してあるのかな。 - ケンジがなぜ、数学オリンピック代表になれなかったのか、というあたりと、ひたすら貪欲に知識を蓄えて強大化するラブマシーン、とかの対比でもうひとつぐらいテーマ足せそうだけど、まあ優先度低いよね。
- ケンジの友人佐久間くんは、すばらしく便利だな。デジモンだと光士郎だね。
- 『ぼくらのウォーゲーム!』は、「デジタルモンスター」という、ポケモンタイプの作品が原作だったため、主人公はデジモンを前線で戦わせ、後方で指示を出す、という形だった。この形式は「友達」を戦わせる一方で、主人公は手を汚さない。
そのため『ぼくらのウォーゲーム!』では、後半で主人公がモニタの中のネット世界へ入りこみ、デジモンと一体化して、直接戦いに参加する。 - 「主人公が主体として戦闘に参加する」というのは絶対に必要なシークエンスだと思うが、『ぼくらのウォーゲーム!』の中でもっとも、概念を大事にして、現実を飛び越えた場面だった。ポケモンタイプの作品で主人公が戦いの主体となるためには仕方ないのだが、他の場面とのリアリティレベルと比べて、どうしても私は違和感が残った。
- 『サマーウォーズ』では、本人がアバター(ネット世界での分身)と同一なので、デジモンが抱えていた問題は最初からクリアーされている。時代の変化と、オリジナル作品であることで自然かつスムーズに解決されたね。
- 「栄の退場」後、ショックを受ける家族全員を大広間側から、カメラを横移動させながらとらえるシーン。メガネのおばさん(声は『時かけ』のヒロイン)が、赤ちゃんにお乳をあげている。非常に分かりやすい。
- 栄ばあちゃんは、物語の途中であんなことになってしまうが、あれ無しで何とか構成できないかな、というのを色々考えた。
もちろん「かわいそうだから」とかではもちろん無く、あれが絶対必要な要素なのかどうか、ちょっと考えてみたかったのだが、映画という限られた時間だと、あれを入れて構成を組むのがもっとも分かりやすくて、流れもスムーズになるはず。
ただ、もっとも効果的であるのを認めた上で、それに抗いたい気持ちに少しなった。 - 後半の見せ場、花札決戦。夏希アバターの魔女っ子変身シーンで、てっきり栄ばあちゃんにもらった朝顔柄の浴衣にちなんで、朝顔柄に変わるかと思ったのに全然そんなこと無かった。ジョンも気がきかねーな!
- 最後に温泉が湧きますが、温泉が湧くこと自体は全然いい。リアリティとかなんて関係なく、むしろ湧くべきだとすら思うが、温泉の「フリ」が無いような気がする。「フリ」した上で温泉湧こうよ。
先に書いたように、湧いたのは、ラッキーガール夏希のおかげということでいい。
そしてスタッフロールを後日譚のフォトアルバムみたいにして、一族みんなで温泉入ろうよ。
いやがるカズマも湯船に入れて、カズマが女の子だという誤解にとどめをさそうよ。 - 紅白まんじゅう等の、まんじゅうネタは回収されてるんだっけ?セリフは無かったと思うけど、背景にあったりしたんだろうか。そこまで確認できなかったけど。
- 物語と並行して進行する高校野球の試合は、細田さんらしい要素なんですが、決勝戦の決着は問題解決後、いつのまにか着いてしまっていました。
非常に分かりやすい要素なので、どうせなら最後も、やりすぎなほど、重ねるほうが好み。例えばこんな感じ。
延長戦。ランナーを置いてのサヨナラのチャンスに、上田高校のピッチャー(陣内家)が平凡な外野フライを打ち上げる。ダメかと思いきや、なぜか敵外野手がこれを落球。サヨナラ勝ち。
(もちろん、このプレイが行われている瞬間には、ケンジによる軌道修正が行われており、プレーの描写自体は当然省略される)
アナウンサー「平凡な外野フライに見えましたが・・・なにか落下予測地点に誤差が生じたのでしょうか?風でしょうか?」
解説「どうでしょうか?これはまさに、奇跡としかいいようがありませんね」 - あとは、落ちてくる小惑星探査衛星を、エヴァ三体で受け止めたらよかったんじゃないかな。三体の配置は女のカンで。
アスカ「思ったより、全然速いじゃない。私じゃ間に合わない!」
ケンジ「よろしくお願いします!」(エンターキーを押す)
落下軌道を微妙に変える小惑星探査衛星。
シンジ「軌道が変わった!ミサトさん!」
ミサト「605から607!急いで!」
箱根から上田までは遠いけど、シンジさんが音速を越えて走ればきっと何とかなるよ。
■「家族の食卓」
■「主人公ケンジくん」
■「ヒロイン夏希先輩」
■「侘助」
■「キング・カズマ」
■「ラブマシーン」
■「その他いろいろ」
細田守に何を求めるのか―私の場合
私は細田さんに、情緒的な所は全然求めていないんですよね。
求めているのは、構成が巧みで、視点が俯瞰的で、対比を重視して、展開を同時進行して、それをキレイに最後に全部回収して、というテクニカルなところなんですよね。テクニカルな「まんが映画」なところが好き。
だから例えば、細田さんの作品で「泣く」ことはこれまで無かったですし、求めてもない。
そういう意味では、『サマーウォーズ』はもっと悪ノリして「やりすぎ」て欲しかったという気がする。
リアリティなんて、豚に食わせてもいいから、うまくいきすぎ、やりすぎな細田アニメが私の好みです。
■やりすぎサマーウォーズ
『サマーウォーズ』まとめ
いい映画であることは間違いないのですが、細田さんにしては、同時進行イベントと、対比構造が弱いのでは、という印象を受けました。(もちろん、私は「やりすぎ」大好き病なんですけどね)
リアリティや、話のつじつまやディティールを、勢いとスピード感でねじ伏せるような映画であれば、前半でまいておいた要素が全てクライマックスに向かっていく必要がありますが、(意図的でしょうが)回収していないものや、スムーズでないものもあり、全てが1点に集まるような感覚が私には味わえませんでした。
私がノリ切れなかったのは、『ぼくらのウォーゲーム!』体験のせいでもなく、このあたりなのかな、という気が、この文章を書きながら何となくしてきました。
リアリティがどうこうでもなく、家族やネット世界の描き方がどうこうでもないんですけどね。
映画ってむずかしいですね。
いろいろ書きましたが(妄想しか書いてない)、『サマーウォーズ』は金曜ロードショーで立派に放映できる映画です。
そこが本当の『サマーウォーズ』のスタートなのかな、という気もします。
『サマーウォーズ』関連記事(四部作)
このブログの『サマーウォーズ』記事です。よろしかったらどうぞ。最初の記事はネタバレありません。
■見る前(上映前)のレビュー
日本の夏。『サマーウォーズ』の夏。 < 『ぼくらのウォーゲーム』再構築(リビルド)の価値は >
■見た後のレビュー(この記事) ※ネタバレあり
サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>
■特別編:ゴハン食べるの?食べないの?(フード理論) ※ネタバレあり
世界の危機には「家族で食事」を <『サマーウォーズ』 フィクションと現実で異なる「正しい行動」>
■完結編:『サマーウォーズ』のパッケージングと可能性の検討について ※ネタバレあり
10年前、世界を救ってくれた子供たちと、日常を守ってくれた大人たちへ<『ぼくらのウォーゲーム!』と『サマーウォーズ』>
と、私の中のゴースト(ベムベムハンターこてんぐテン丸の意)が囁くので、『アンジェリーナ・ジョリー主演最大ヒット作』という身もフタもない宣伝展開をされている映画「WANTED」を先行ロードショーで見てきました。
ステキなトレーラーはこちら。未見の方はぜひ。(CMいっぱいしてますが)
正式には公開したばかりなので、意味深な言葉で、核心に迫らないようにネタバレ無しでがんばりたいと思います。………と、決意して書き始めましたが、やっぱ無理でした(笑)。ダメ。無理。
そこで「ウソをいっぱい混ぜる事でどれが真実なのか分からない」→「どれがホントで、どいつがウソで。俺がお前で、お前が俺で」ということにさせていただきます。
結果、このエントリは「ウソ、大げさ、まぎらわしい」にまみれていますので、ご了承ください。
真実は君自身の目で確かめてくれよな!(ファミコン時代のRPG攻略本)
■かんたんな「WANTED」あらすじ
主人公ウェスリー・ギブソンは、顧客管理担当の冴えないサラリーマン。
恋人は同僚の友人バリーに寝取られてるし、女性上司には毎日ガミガミ言われてる。口癖は「すみません(I'm sorry)」と「お醤油かしてください」
そんなある日、美人の暗殺者フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)に命を助けられたところから、彼の運命が動き始める。
なんでも生後7日で生き別れた父が、実はスゴ腕の暗殺者だったが先日殺された。お前も暗殺者の素質があるからなりんしゃい、ということらしい。
ウェスリーさんはサラリーマンから暗殺者へ転職することに決め、ジョリー姐さんについて暗殺組織"フラタニティ"へ。
ジョリー姐さんにいきなり「いただきマンモス!」とエレキベースで殴られると、ウェスリーさんの頭に角が!暗殺者としての力が目覚めはじめる。
ついにCMでおなじみの弾道曲げ撃ちも会得し、一人前の暗殺者となったウェスリーさんは、父のカタキであるメディカルメカニカの暗殺者「クロス」と戦うのだった。
こんな感じの映画です。
ジョリー姐さんは、主人公の師匠にして同僚の先輩暗殺者ということになりますね。メインキャストですけど、主役ではないです。
キレイに起承転結の映画です。エピソードも4つ。
[起] オープニング~暗殺組織"フラタニティ"へ。
ジョリー姐さんとの出会い、日常との決別
[承] 暗殺者修行
暗殺組織"フラタニティ"の紹介と、どM修行。
[転] 父のカタキ、暗殺者「クロス」との対決
列車を舞台に、暗殺者同士のバトル。
[結] 暗殺組織"フラタニティ"全滅まつり
果たしてウェスリーさんの運命は!
それでは、各パートでのオモシロポイントをいじれるだけいじっていきましょう。
[起] オープニング~暗殺組織"フラタニティ"へ。
ジョリー姐さんとの出会い、日常との決別
つまらない日常
しがないサラリーマンからはじまり、非日常へ踏み出すのはマトリックスパターン。
隠れて主人公の恋人を寝取りながら友達面する親友バリーと、ふくよかなメガトンボディを持った拒食症の女上司。つまならい日常の象徴であり、主人公がひとたび非日常へ踏み出せば、二度と出さないようなキャラクターですが、実はこの映画ではこの2人を最後までとことん使い倒します。ラストシーンにもこの2人が登場するなんて私は最初想像してませんでした。
ジョリー姐さんが、車でウェスリーを回収するシーンのが実写版Gun Smith Catsでよかった(ガンスミが、こういう映画のマンガ化なんですけども)。
日常との決別
そして何より、ウェスリーさんが会社をお辞めになるシーンがすばらしかった。
拒食症の嫌われ女上司にネチネチ問い詰められたウェスリーさんはついに日常を捨てることを決意。
「くたばっちまえ!」と言い放つ(ここまでの一連の台詞にも愛があふれていてすばらしい)。
呆然とする女上司。キーボードだけを抱え、去っていくウェスリーさん。
それを見て「お前は最高だ!」と喝采をあげる同僚バリーへ、ハイタッチ代わりのキーボードフルスイング。
バリーの顔面にヒットして砕けるキーボード。飛び散るキーを目で追うと………「F」「U」「C」「K」「Y」「O」「U」。
これは「O」「M」「O」「R」「O」「I」。(他にも文字遊びがいくつかあり)
このシーンで、私はこの映画に忘れないKOI-GOKOROを抱きました。
場面としてはごく平凡な日常への決別シーンなんですが、見せ方が楽しければそれでも全然大丈夫なんだ、ということを改めて思い知らされたのです。
[承] 暗殺者修行
暗殺組織"フラタニティ"の紹介と、どM修行。
暗殺組織"フラタニティ"
"フラタニティ"は、古代ギリシャの時代より1000年以上も続く暗殺集団。
殺すべき人物の「神託」を受け、神に代わって"運命の意志"として、暗殺を実践してきた。
その「神託」が面白い。機織機が編んだ布の織り目を暗号として、二進法で読み解くと、殺すべき人物名が浮かび上がるというしくみ。コンピュータ(機械)がランダムで決めた相手を「神託」として殺しているような感じ。
父のカタキである暗殺者「クロス」を倒すには、ウェスリーさんも暗殺者にならなければいけません。
"フラタニティ"のリーダー、スローン(モーガン・フリーマン)は、「クロス」を倒すには、ウェスリーで無ければいけない、と説きます。
私は見ててここで引っかかり「なぜウェスリーなのか理由の説明はしないのか?」と疑問に思っってしまいましたが、実はここちゃんと伏線でした。
暗殺者どM修行
さて修行シーンといえば、話題にもなっていたジョリー姐さんにメリケンサックでガスガス殴られる主人公。
「どうしてココに来た」と問われ、どう答えても殴られる。こんな命を賭けた大喜利見たことない。山田君にも座布団の枚数分殴られる始末。
当然、血まみれで失神。でも"フラタニティ"秘伝の回復風呂につかると、すっかり元通り。かくして殴られて風呂、風呂上がりに殴られ、という無限のドMサイクルが完成。
瀕死状態から何度も回復するウェスリーさんの戦闘力はいつのまにか、ザーボンさん、ドドリアさんを越えるほどに。
銃弾曲げ撃ちのメカニズム
このパートでの見ものは、CMでもおなじみ、弾丸ねじ曲げ撃ち、カーブ撃ちの修行。
早速、曲げ撃ちのお手本を見せてくれるモーガン・フリーマンが、その秘密を教えてくれた。
ははーん、分かったぞ!要は『気持ち次第』だってことだな!「拳銃の弾は真っ直ぐ飛ぶものだと知っているから真っ直ぐ飛ぶ。だがそれを知らなかったらどうなる?」(みたいなこと言ってました)
理屈とかは特になかったです(あっても見せない)。精神が物理を支配できるので、つまり気持ちです。気持ちを弾道に載せるのが大事なのです。「コブラ」のサイコガンなのです。
でも「WANTED」のいいところは、それをするために曲げ撃ちする時に腕を振りながら撃つところ。
ただ曲げて撃つのではなく、腕を振りながら撃って、弾道を曲げるのです。
「いや、腕振ったからって、銃弾がカーブするのと関係ないだろ」という人は、弾道ではなく心が捻じ曲がっています。精神で弾を曲げるということが分かっていません。
あのね、私、銃撃ったことないんですけど、いや、無いからこそ固定観念なく思うのですが、きっと「腕振って撃ったら曲がる」んじゃないしょうか。それぐらい「腕の振りって……いるかな?……いるよな!」と思わせる、何とも言われぬ説得力がありました。
私は劇場を出るとき、すっかり腕の振りに疑問を持たなくなり、読売巨人軍の斎藤雅樹投手(全盛期)だったら、恐らく修行なしで曲げ撃ちできるよな、と考えながら家路につくほどでした。
一方、巨人の斎藤とは違い、なかなか上手く曲げ撃ちができないウェスリーさん。
「曲がる」という気持ちが足りない。キモチ!キモチ!キモチで負けてるよ!(ラモス瑠偉)
しかし、卒業試験。ジョリー姐さんが的の正面に立つ。曲げて的に当てないとジョリー姐さんが死ぬ。そんな「鉄拳チンミ」的シチュエーションで見事、一級暗殺士合格。さすが君にもできる資格のユーキャン。詳しくは明日の朝刊の折込みチラシをご覧ください。
私の胸の鍵を壊して逃げていったアイツ
この辺りで、ウェスリーさんが自宅へ父の形見の銃を取りに戻る場面があるのです。
久しぶりに自宅に戻ると、すでに恋人と親友バリーが同棲しているのでした。ウェスリーさんに罵詈雑言を浴びせる恋人。
そこで登場するジョリー姐さんが「あんちくしょうに逢ったら、ただでは置いておかない。私の腕にかかえて、くちづけ責めにあわせる」感じで実に良かった。
あとウェスリーさん自体もピンクレディーの「ウォンテッド」で考えてもいいと思います。
ある時、冴えないサラリーマン、ある時、スゴ腕暗殺者、ある時、炎の復讐者、あいつはあいつは大重体。(殴られすぎです)
[転] 父のカタキ、暗殺者「クロス」との対決
列車を舞台に、暗殺者同士のバトル。
いっちょまえの人殺しになったウェスリーさんは、父のカタキ「クロス」との戦いに挑みます。
チャリングクロス駅で列車に乗って、ギリシャ神話のようにまぶしいクロス(聖衣)まとって、列車内で壮絶なバトル。はじける小宇宙(コスモ)は宇宙創世のビッグバン級。巻き込まれた乗客全滅。
お互い弾丸を曲げるので、弾丸と弾丸が中央でぶつかって相殺され、なかなか決着はつきません。さすがだね!(もう洗脳されているので疑問は何も感じません)
くそう。面白い。ガン=カタ使いなども含めて、変態銃使い最強決定戦をやってほしい。
ここで物語は急展開します。
[結] 暗殺組織"フラタニティ"全滅まつり
果たしてウェスリーさんの運命は!
ここはさすがにどう書いてもネタバレ、すなわちBAD COMMUNICATIONになってしまうと思うので、要点だけ並べます。
とりあえず壮絶なアクションといい、ジョリー姐さんの弾丸に込められた"GOOD BYE"といい、それが描く美しい軌跡といい、良い落とし方だと思います。
続編を作ることなど考えないまとめ方がすばらしかったです(と思ってたら、続編決定らしい)。
個人的には、ウェスリーがジョリー姐さんの方を1度振り向く「だけ」。というのが、いいなと思いました。全くウェットでなくて。
この映画は、ジョリー姐さんとの関係ですらウェットにしないので、暗殺される側の言い分や背景、巻き添えにされる一般市民(彼らを救うために暗殺してるはずなんですが)などの描写も割り切って省略してますが、それもまたよし。
そして最後の最後に、オープニングと同じシーンを入れて、さらにそこに親友バリーと女上司もからめるという、面白ければとにかく入れようという、足し算発想、私は大好きです。
まとめ
映画の完成度などは「ダークナイト」(私は未見)なんかの方が全然高いんだろうと思いますが、腕の振りで弾丸を曲げるような勢いとユーモアたっぷりの暗殺者皆殺し映画です。
CMで見せている部分が全てではありませんよ。オモシロポイントはたくさんあるので、ぜひご覧になることをオススメします。
私の中で「ウォンテッド」といえば、長らくピンクレディーとベムベムハンターこてんぐテン丸の2つを意味しましたが、そこへついに第三のウォンテッドが加わりました。
これからは、この3つを「世界三大ウォンテッド」とすることを宣言したいと思います。異議がある方は自分の足元に×(バッテン印)が無いかどうかご確認を。
関連リンク(外部):
ちなみに「WANTED」原作はアメコミだそうです。(私はもちろん未読です)
映画はかなり変えているようですので、知らなくても問題なく楽しめますが、原作は原作で非常に興味深いことを、こちらの記事で知りました。
聞くだけで面白いメタさ。この世界は、1986年に悪役側が勝利してたのか!(もちろん一般市民の私はそれに気づくことも出来ませんでした)・実は、超人的なヒーローや悪役たちは本当に存在していたのだ。
・そして1986年、スーパーヒーローとスーパーヴィラン(悪役)の間で全面戦争が起こり、後者が勝利を収めた。
・その結果、かつて超人たちが実在していたことは闇に葬られた。彼らを知っていた者はヴィランたちにより記憶を消され、その姿はコミックや映画などに残るのみである。
- とりミンチ - 『ウォンテッド』原作がかなり出来のいいメタフィクションな件
すばらしい記事ですので、私のバカ感想に飽き飽きした方はぜひご一読を。
これで説明が終わる映画。
これにときめきを感じるか否かで、この作品を見たトゥナイトがメモリアルなものになるかどうかが決まる。
ちなみにスパルタ戦士300人は全員、ハダカにパンツ一丁に赤マントのマッチョ軍団です。
↓公式サイトを見ればそれは明らか!
http://wwws.warnerbros.co.jp/300/
スパルタ教育でおなじみのスパルタの王が、大国ペルシアの降伏勧告をしりぞけて徹底抗戦。
絶望的な状況での奮闘に感動するような、日本でいうと真田幸村の悲劇に燃えるような感じのお話ですね。
フリーザ様「私の軍勢は53万です」vsバーダック(悟空の親父)といった方が近いでしょうか。
敵のペルシア軍が分かりやすい化け物集団人外魔境になっているのですが、やってることは割とまともで、大変政治的。
スパルタへの侵略も、まず外交から入るし、根回しもするし、謀略もかけるし、最後通告もちゃんとする。
それをスパルタが完全拒否。使者も「ディスイズスパルタ!(これがスパルタだ!)」といって全部斬る!政治や根回し無し!ズンバラリンと容赦なく。そいつがスパルタのYARIKATA!
もちろんペルシアに征服されたらひどいことされるのだから抵抗するのは分かるんですが、やりようはあるでしょうに。
スパルタの方が野蛮で、ペルシアの方が真っ当な政治センスもってる文明国のように見えるけどいいの?いいか?いいよな!「これがスパルタだ!」(だんだんスパルタ流に頭が麻痺)
なぜならこれは戦闘民族スパルタ人の比類なき戦闘力をひたすら楽しむ映画なのだから。
それは徹底している。戦闘シーンでは、敵の攻撃にはスローかけて、スパルタ人の動きは早回し。それを映画中、とことん繰り返す。通常スピードの戦闘が無いほどに。
途中から「分かった。スパルタ人が比類なく強いのはもう分かった」と根を上げかけるほど、スパルタ人の強さを強調している映像がひたすら続く。
ペルシア人はスパスパ斬られて突かれて死んでいく。デストロイドスパルタン。デストロイドモンスター。スパルタ人こえー。
とはいえ相手は100万人、結局スパルタ人300は全滅するのですが、その戦いは人々の心を打ち、1人戦場を逃れたカカロットがその人々を集めて再度ペルシアに戦いを挑む。というとこで終わる。
300人の全滅は無駄じゃなかったよ、というやつですね。
これも色々もったいない映画ですね。割り切って見るのが1番いいでしょう。
まあ1番面白かったのは、フリーザ様こと敵ボスのペルシア王クセルクセスが、途中からダルビッシュ有にしか見えなくなったことです。
鼻ピアスしてましたよダルビッシュ。そしてどうしてもダルビッシュのイメージが頭を離れなかったので、そのうち私は考えるのをやめた。
映画としては色々問題があるのですが、ここまででピンと来たら110番。TELのちレンタルだ。レンタルでいい。レンタルでいいが見ろ!「これがスパルタだ!」
世にも奇妙な物語からSMAP主演のエピソードだけを集めたものです。その中の「BLACK ROOM」だけはもう1度と思い、見ましたよ。
「BLACK ROOM」は、木村拓哉主演、石井克人監督。
キムタクが久しぶりに実家に帰ると真っ暗な部屋だけがあった。父と母が迎えてくれたがどうも様子がおかしい…というお話。
有名なエピソードなので、見たことある人も多いと思うんですが、ネットなどを見ても賛否両論まっぷたつに割れる作品です。
結論から言うと、ラストのオチは、私から言うと「なし」です。
(見てない人もいると思うし、説明する気もおきないオチなので、ネタバレはしません)
あれが面白く「あり」という人もいるのは理解できるのですが、その人とは何か決定的に趣味が違う気がして多分良いお友達にはなれない気がします。
ただBLACK ROOMのネタ自体はすばらしい。大変うまく、かつ魅力的だ。
だから「もったいない」というのが私の評価になる。
世の中には面白くないものの方が当然多いわけだが、中には素材はいいのに料理としてまずくなってしまったような作品も多い。
私は作品がトータルで面白くなくても、良い部分があれば、それだけで十分興味深く、存在意義のある作品だと考えます。
ただ、あまりにもったいない作品が多いので、それを惜しんで、何回かに分けて書き残しておくことにします。
ということで「もったいない作品」シリーズ第1弾は「BLACK ROOM」です。
■BLACK ROOMの面白さともったいなさ
BLACK ROOMの面白いところは何と言っても、タイトルどおり実家のリビングだけに灯りがともり、その周りは謎の暗黒空間に包まれていることにある。
シーンとしては、このリビングのシーンしかないと言って良い。
ここでキムタクがこの真っ暗な我が家について、両親に説明を求めるが、まるで要領を得ない、という会話劇の面白さだけで進む物語。
真っ暗なため、部屋の全体像がつかめない。
母親は、お茶を取りにいくために暗黒空間に走って入っていき、足音が消え、しばらくたってからぜえぜえと息を切らして戻ってくる。
父親は、原付と思われるものに乗って(暗くて見えない)、エンジン音が消えるところまで走って戻ってくる。
「どんだけ広いねん」「どんだけ走っとんねん」という場面。
一番すばらしいのがここだが、何がすばらしいのか。
(1)リビングのシーンしかいらない。しかも周りは真っ暗で何もうつらない(うつさなくていい)。
→大変安く制作できる。
(2)真っ暗なので、音のしかけしかいらない。
→大変安く制作できる。見てる人の想像にまかせることができる。
何がすばらしいって、ここまでエネルギーとお金がかからず、面白い舞台装置を考えたのが何よりえらい。
テーブルとイスしかいらない。コント並の労力で、こんな魅力的な舞台を考えたのはすばらしい。
(ただし、ここで節約した労力を全てオチに使っているかと思うと、やるせない)
いわゆる「CUBE」「SAW」「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」なんかの低予算ゆえに舞台設定に知恵を絞った作品と同じ流れですよね。
ただし、この魅力的な設定を生かしきったとは私は思っていない。
暗黒空間も上記の2つのネタでしかいじらない。ここはもっといじり倒す方が私は好みです。
・電車や車や自転車が通過する。(光と音)
・黒電話が鳴るが、電話が見つからない。
・キムタクが実家の記憶を頼りに何か探すが暗闇に迷う。
・暗闇に消えた両親が、消えた場所とは全然違うところから戻ってきてびっくり。
・キムタクが激高して、モノを投げつけるがはずれ、後ろの暗闇空間に吸い込まれていくが、何かにぶつかった音がしない。
・暗闇の中で何かをイヤなものを踏んづけるが、何を踏んだのか見る気がしない。
・動物ネタ。イヌとかネコとか、あとは鳴き声が特徴的な動物など。
など、ちょっと適当にいくつか考えてみました。
会話劇で進むのは設定上仕方ないけど、BLACK ROOMであることをからめまくった方が好みです。
実際、BLACK ROOMでの会話劇は、暗闇空間である必然があまり無い。多分少し変えれば、別の設定で通用するように思う。これも、もったいないと思っているポイント。
私が石井克人の会話のノリを全然面白く思わない、という趣味の問題もありますが、この設定を上手く生かした会話劇というだけなら、それこそ三谷幸喜やクドカンとかの方が多分面白いものができるんじゃないだろうか。
いっそ同じ「BLACK ROOM」の設定で、5人くらいに短編作らせたら面白いんじゃないだろうか、と思います。
これやれば、ネットでの賛否両論もある程度、決着がつくのではないかと。
なぜなら「BLACK ROOM」は世界観からスタートした物語であって、けして結末(オチ)から逆算したものではないわけですよね。どう考えても。
予算と労力をかけずに面白くする設定が先に生まれて、あとはこの世界観で、どう展開するか、どうオチつけるかを考えていく流れ。
だから、展開とオチは無数に考えられる。石井克人もさまざまなパターンを検討してあのオチを選択したはず(それがやるせない)。
だから複数人に考えてもらって、それぞれ競ったら、色んなBLACK ROOMができて楽しいし、優劣が如実に分かるというわけです。
こうしたさまざまな可能性を秘めた舞台設定を持っているから「BLACK ROOM」はすばらしい。
だから、あのオチだけで全否定する人はもったいないことをしていると思うし、あのオチで全否定をさせてしまった石井克人は罪深いなあ、とも感じます。
私は「BLACK ROOM」がこういう構造である以上、設定とお話は切り離して評価していいと思ってますので、設定は手放しで賞賛します。
お話は…えーと、私の趣味じゃないので…なんというか…その…ち、ちょっとお茶取ってきます…タッタッタ…(闇の中へ消えていく)。