『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のTV放送がスタートしました。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式サイト
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式サイト


私はプロローグを含め、まだ全く見ていない(録画はしている)が、主人公機にファンネルが搭載されているそうで。恐らくそれを契機に、Twitterでファンネルの話が色々出ており、それに刺激を受けて、自分でもツイートしたし、こうして記事に仕立てることにもしました。

前述のように水曜日の魔女たち(金妻みたいにいうな)こと『水星の魔女』は見ていないので、同作品でのファンネルについての話はできないのでしません。
私にできる話ということで、『機動戦士ガンダム』から『Zガンダム』『ガンダムZZ』、そして映画『逆襲のシャア』までの限定的な話に留めておきます。

さらにいえば「ファンネル」話の総論的なものは、あでのいさん(@adenoi_today)が、すでに記事をまとめておられます。ファンネルの基本と網羅的な理解はこちらで。

機動戦士ガンダム水星の魔女1話感想??〜主人公機1話からファンネルってどうなん?問題の話〜

↑この記事自体に、私がしたツイートの内容も一部盛り込まれてはいるのですが、同じ話をしても仕方ないので限定的がゆえの話に努めることにしましょう。

「ファンネル」「ビット」とは何か?


冒頭から説明なしに、さらっと出てきた「ファンネル」というワード。

これは、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業ではなく、『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する架空兵器の名前です。
「ファンネル(ビット)」は、モビルスーツ(ロボット)などに搭載されて、四方八方肘鉄砲の「オールレンジ攻撃」と呼ばれる攻撃をしかけます。

最大の特徴は、この兵器は脳波でコントロールされていることです。
ニュータイプと呼ばれる人たちが脳波で操るため、総じて「サイコミュ兵器」とも言われます。

『ガンダム』を見たことない方は、超能力バトルで無数の石を浮かせて、それをコントロールして、相手にぶつけるようなよくあるシーンを想像してもらえると近いでしょうか。

超能力バトルを見たこともないお嬢様方は、現実世界の「自爆型無人ドローン」でも想像してください。あれを脳波でコントロールして目標にぶつけるようなものです。

実際のところ、自爆型ドローンが現実に存在し、脳波コントロールも研究されていることも考えると、この2つが結びつけば近いものにはなる気はする(ファンネルミサイル方面だが)。
『ガンダム』という物語世界としては必然的にモビルスーツが先で、それに搭載するビットやファンネルなどサイコミュ兵器はあとで実用化されたが、本来のテクノロジーツリー(Civilization)でいけば、「モビルスーツ」と「サイコミュ兵器」は当然別系統で、現実での実現度が高いのは「サイコミュ兵器」(的なもの)になるだろう。

ただ現実で考えると、自律型(AI)でいいだろとはなっても、なぜ兵器のコントロールにわざわざ人の脳波を使わなければいけないのか?という話には当然なりますね。

その当然の疑問について、『機動戦士ガンダム』では前提として、電波障害(ミノフスキー粒子)という存在があります。

ガンダム宇宙は、ミノフスキー宇宙


「ミノフスキー粒子」とは、『機動戦士ガンダム』に出てくる架空の物質。
役割だけいうと、ガンダム世界(宇宙世紀)というフィクションを支える、言い訳用の架空物質でエクスキューズ粒子といってもいい。
SF的な荒唐無稽の言い訳をほとんどをこの粒子でまかなうので、説明しようとすると膨大かつ多岐に渡ります。よって今回の記事に関係するものだけに絞って、簡単に説明します。

「ミノフスキー粒子」とは?

「ミノフスキー粒子」は電波障害を引き起こすよ

だから戦場に散布されると電波障害が起きて、無線やレーダーが使用不能になるよ。
誘導ミサイルなんかも使えないんだ。

じゃあ機動兵器(ロボット)で近づいて、目視で斬り合うしかないね。


というもの。もちろん因果は逆で、ロボットアニメだから同一フレーム内でチャンバラして欲しい、が先。欲しい結果が先で、理由はそのためにあとで作られたもの。

ここで「ファンネル(ビット)」の話に戻ろう。
ニュータイプが脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、このミノフスキー粒子散布の戦場を大前提にして戦ってきた『機動戦士ガンダム』終盤で登場させた、びっくり兵器。
脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、電波障害を受けない。
誘導兵器が使えない戦場で登場した、ひとつだけ誘導ができる兵器。それがビット(ファンネル)です。誘導力が落ちない、ただひとつの掃除機。

※識者諸兄へ。サイコミュの設定自体にミノフスキー物理学が絡んできますが、本筋の理解に関係ないので省略します。

ただし、この兵器が使えるのは強い脳波をもつ、作中で「ニュータイプ」と呼ばれる特別な能力を持つ人達だけです。

ミノフスキー粒子散布下が前提の戦場において、ニュータイプ能力の軍利用という意味で大きな価値を持つのは「通信」でしょう。
ですからニュータイプ&サイコミュ兵器の組み合わせによって、電波障害の中、通信して誘導兵器をコントロールできる、というのが本来のビット(ファンネル)の第一の価値だと思います。

ニュータイプ・ララァと、モビルアーマー・エルメス


『機動戦士ガンダム』において、完全な無線でのサイコミュ兵器は、ニュータイプであるララァ・スン専用モビルアーマー・エルメスが持つ「ビット」だけです。



このララァ&エルメスが連邦軍に占領されたソロモン要塞でやっていたように、「本体は見えないのに、どこからか謎の攻撃を受けている」というのが、サイコミュ兵器の利用としては、最も理にかなっていると思います。

エルメスは指令を出す送信機の役割で、レシーバー(受信機)であるビットが攻撃を担います。
技術的に小型化が困難なせいもあって、エルメスを始めとしたサイコミュ搭載機はどれも大きく、いわゆるドッグファイト、近距離での格闘戦(作品として望まれたバトル)ができるような機体ではないし、そもそもそれを想定していません。
戦場に接近する必要はあるでしょうが、最大の役割はサイコミュの送信機。
攻撃兵器としてはビットが本体で、機体はおまけのようなものです。

ジオングに脚が必要かどうか、というのは本編内でもいじられたぐらいだが、サイコミュ送信機という観点から見れば、確かに脚は不要であって、あの技術士官の言っていることは正しい。

このあたり『機動戦士ガンダム』でのバトルの元ネタのひとつである、チャンバラや忍者物の文脈で言えば

・姿は見えないが、手裏剣や小石が自分めがけて飛んでくる
・術者は見えないが、催眠で操った人間たちをけしかけて攻撃してくる

といった敵役とのバトルになるでしょう。

今でもネットの世界では、自分で動かず他人をコントロール(扇動)して攻撃させることを指して「ファンネル」と言われることがありますが、まさしくそのような兵器です。

この種のバトル、基本的には操っている本体を探し出す駆け引きになることが多く、本体自体にそこまで戦闘力はない(あればこの手法を使う必要が無い)というのがパターン。

『機動戦士ガンダム』だと、マ・クベがまさしくそのようなタイプなのですが、ニュータイプ能力は無いので古典的な小細工のみで、むしろニュータイプという新しい存在に蹂躙される役割になっています。

第39話「早すぎる修正パッチ」


さて、これまでの話から分かる通り、エルメスやブラウ・ブロには必然的に護衛のモビルスーツが必要になることが分かりますね。

しかし、ここからが『機動戦士ガンダム』の本当に巧妙かつ周到なところ。

第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」において、初のサイコミュ搭載機であるブラウ・ブロは単騎で出撃して、ニュータイプとしてガンダムの性能をも上回りつつあるアムロに敗れます。
アムロが目を閉じ心眼殺法みたいなことするのが、いかにもチャンバラ、忍法文脈。



もちろん相手がアムロでなければ単騎でもやすやすと撃破されてはいないでしょう。
オールレンジ攻撃を避け、本体を察知し、そこまで近づけてしまうガンダムは、まさしく天敵といえる。あまりに相性が悪すぎる。
先ほどの忍者物の例えだと、目を閉じ心眼で「そこだ!」と隠れている本体に対して、手裏剣を投げて当てれるタイプ。

それにしても、なぜシャアは、ブラウ・ブロに護衛をつけなかったのでしょうか。
劇中のセリフを引用してみましょう。

ララァ「なぜ(シャリア・ブル)大尉だけおやりになるんです?」
シャア「律儀すぎるのだな。ブラウ・ブロのテストをしたいといってきかなかった」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「不服か?私はエルメスを完全にララァに合うように調整してもらわぬ限り、ララァは出撃はさせん」


シャリア・ブル、止めるの聞かず、発ったんだわ。
そして、ブラウ・ブロが撃破され、シャリア・ブルが敗死したあとのやりとり。

シャア「シャリア・ブルまで倒されたか」
ララァ「今すぐエルメスで出ればガンダムを倒せます」
シャア「あなどるな、ララァ。連邦がニュータイプを実戦に投入しているとなると、ガンダム以外にも」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「戦いは危険を冒してはならぬ。少なくともソロモンにいるガンダムは危険だ。それに、シャリア・ブルのことも考えてやるんだ。彼はギレン様とキシリア様の間で器用に立ち回れぬ自分を知っていた不幸な男だ。潔く死なせてやれただけでも彼にとって」
ララァ「大佐、大佐はそこまで」
シャア「ララァ、ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した人類の悲しい変種かもしれんのだ」


とまあ、本来ならしないであろう一騎打ちの理由を、パイロット側(シャリア)の個人的なところに落ち着けている。
さらにこの回には、ララァに関する以下のやりとりがある。

シャア「わかったのか?ララァが疲れすぎる原因が」
フラナガン「脳波を受信する電圧が多少逆流して、ララァを刺激するようです」
シャア「直せるか?」
フラナガン「今日のような長距離からのビットのコントロールが不可能になりますが?」
シャア「やむを得ん、というよりその方がよかろう。遠すぎるとかえって敵の確認がしづらい」
フラナガン「そう言っていただけると助かります。なにしろ、サイコミュが人の洞察力を増やすといっても……」


先にソロモン要塞での長距離ビット攻撃が、もっともサイコミュ兵器の有効な使い方である、と延べたが、それについて修正パッチを当ててきた。なぜなら、次の回は第40話「エルメスのララァ」。アムロのガンダムと、シャアゲルググ&エルメスが交戦する回。

見えない場所からのオールレンジ攻撃は、ブラウ・ブロ戦を見てもアムロには通用しないし、そもそもそれではミノフスキー粒子をまいてまで接近戦をやれる戦場を設定した意味がない。
アムロとシャリア・ブルとの間に、特に何もドラマが発生しなかったのは……直接的には話数短縮の影響大だろうが、逆に言えば、特にドラマ無しで終わらせるなら、あの戦いでいいわけです。
だがララァというキャラクターが背負うドラマは、それこそ話数短縮の影響もあって、より大きい。

ミノフスキー宇宙の戦場に対する、ただひとつの誘導兵器として登場させていながら、結局のところ、こうしてドラマの発生する近距離で戦闘するために外堀が、早々に埋められていく。
矛盾のように思えるかも知れないが、これで分かるのは、SFガジェット的な世界設定中の特異点兵器を描くことよりは、近距離に敵味方をおさめる分かりやすい絵面にしつつ、コクピット同士でしかない宇宙戦闘で何とかドラマを発生させることを優先している、という事実だ。

私は「ニュータイプは戦争(ロボットアニメ演出)のための道具でしかない」と度々、このブログでは書いている。
ニュータイプの使うサイコミュ兵器も、当然その例外ではない。
その最初期から、つまりブラウ・ブロ、エルメスの時から、SFガジェットとしての設定より、TVアニメとしての「劇」が描きやすい距離が優先されたことに注目してほしい。
SF的想像力は存在するが、SF的な描写は良くも悪くも最優先されない。

ベテランパイロットたちのサボタージュ


第40話「エルメスのララァ」では、さらに周到な外堀埋めが行われる。
シャアの部隊は、ホワイトベース隊の前に、連邦の戦艦マゼランやサラミスと接敵し、ララァは出撃する。シャアは護衛に2機のリックドムをつける。

シャア「ララァ、恐くはないか?」
ララァ「は、はい」
シャア「初めての実戦だ、リック・ドム2機のうしろについて援護をすればいい」
ララァ「はい」


しかし結果的に言えば、この護衛のドム2機は役割を果たさない(サボタージュする)。
ドムパイロット(バタシャム)のセリフは興味深いので引用してみましょう。

バタシャム「……エルメスのビットが?ま、まるでベテランパイロットじゃないか。あれが初めて戦いをする女のやることなのか?」
ララァ「よーし、もう1隻ぐらい、あっ!」
「あっ! ドムが援護を?」
「あっ! ドムがうしろに下がる」
「なぜあたしのうしろにつこうとするの?初めて戦いに出るあたしを前に出して」
「あたしがやるしかないの?」
「ああっ、援護がなければ集中しきれない」


シャアがゲルググで出撃し、ララァのあとを追う。

スクリーンショット 2022-10-10 160734

シャア「ん?どういうことだ?」
「バタシャムめ、貴様が前に出るのだろうが」
バタシャム「馬鹿言え、エルメスがいたら俺達が前に出ることはないだろ」


シャアのサポートもあり、ララァは無事に帰還する。
当然、ドムのパイロットたちは、シャアから呼び出しを受け、説明を求められる。

バタシャム「ひょっとしたらエルメスはシャア大佐のゲルググ以上でありましょう」
シャア「歴戦の勇士のお前達がそう言うとはな……」
バタシャム:「我々はニュータイプの能力というものを初めて見せられたのです。あれほどの力ならばララァ少尉はお一人でも戦闘小隊のひとつぐらいあっという間に沈められます。その事実を知った時、我々は馬鹿馬鹿しくなったのであります。ララァ少尉ほどのパイロットが現れたなら、我々凡俗などは……」
シャア「ララァに嫉妬しているのではないのか?」
バタシャム「心外であります。……いや、皆無とはいえませんが、なによりもニュータイプの実力に驚きました」
シャア「うん」
バタシャム「軍法会議も覚悟しております。が、エルメスの出る時、後衛にまわることだけは認めてください!」
シャア「できるか?少尉」
ララァ「中尉のおっしゃることはわかります」
シャア「そうしてくれ」
「中尉、いいな?」
バタシャム「は、大佐」


面白いよねこの会話。
ベテランパイロットがこう答えたのにはいくつか感情があったと思うが、大事なことは、彼らはここまで説明してきたようなサイコミュ兵器の本質を全く理解していない、ということ。
もちろん戦争末期にいきなり登場したびっくり兵器なので仕方ない部分もあるのだろうが、そもそもどういう運用がされるべき兵器なのか全く分かっていない。

シャアは理解してるはずなので、部下がここまで全く分かっていない責任は上官のシャアにある。
ただ物語として必要なのはシャアの責任どうこうではなく、ドムがエルメスの後衛に回ってもOKになったこと、そしてシャアがララァのサポートをするしかない、ということだ。

これで次回、第41話「光る宇宙」という城の外堀は完全に埋まった。
ここまで読んできた人であれば、せっかく姿を見せずに長距離誘導攻撃ができるはずのエルメスが、この回「シャアがくる」をバックに颯爽と片腕落とされたシャアゲルググを護衛に、アムロのガンダムと近距離戦をやらされることの恐ろしさが分かるだろう。

まさしく翼をもがれた状態いや、翼の折れたファンネル。
“もし私がニュータイプだったなら、ガンダムを近づけやしないのに……”
そんな大佐のつぶやきにさえ うなづけない 心がさみしいだけ
(これがやりたいだけだろ、とか言ってはいけない)



シャアはこの時点で最もニュータイプの実用性を信じ、サイコミュ兵器の意味も理解している男のひとりだが、最大の問題は、連邦に白いやつがいること。

ミノフスキー粒子が散布された戦場で、全兵器に対するアンチユニットになれるはずのエルメスに対する、ただ唯一のアンチユニット。それがアムロとガンダムの組み合わせ。
ドムパイロットの「ビット強すぎじゃん、お前一人で戦争やればいいだろ」に対する最悪の答え。

だからエルメスで近距離戦などもちろんするべきではないが、ビットの攻撃をさばきながら接近できてしまうのだから仕方がない。
シャアが護衛の役割を果たすべきだが、アムロの戦闘力はシャアをも上回り、むしろシャア守るためにビット使わされて「邪魔です」と言われる始末。
このあたりの来たるべきポイントへの周到な用意とパワーバランスの妙。

でもフラナガン機関とジオン開発者の目論見は全く間違ってないはず。
ミノフスキー粒子散布下での「通信」の保持とコントロールにこそ、ニュータイプ能力を使うというのは妥当のはず。
ただ実際は、ブラウ・ブロもエルメスもジオングも全部、アムロ(ガンダム)が叩き潰している。

研究と開発の責任者には心から同情する。
あと、ここまで外堀を丹念に埋められて、翼を折られたララァ・スンにも。

ゆるふわインド少女最強伝説


ニュータイプ能力に目覚めたものの存在と、サイコミュ兵器。
『機動戦士ガンダム』では諸事情もあって、ララァ・スンがその身に背負うことになる。
ララァはそもそも軍人ではないし、軍人として戦おうとも思っていない。
ただ出会い拾ってくれたシャアへの恩義と情愛で訓練を受け、戦場に出る。
結果として、エルメスは短時間に絶大な戦果を上げ、ベテランパイロットどころか、赤い彗星以上の存在となった。

ニュータイプ能力とサイコミュ搭載ニュータイプ専用機のおかげで、屈強なジオンのおっさん軍人より、ふわふわインド少女の方が戦場で活躍できるようになったわけで、『ガンダム』世界では最強パイロット表現に、性差と年齢は関係ないことになった。

「あたしは絶対にイングラムを否定しないんだ。あたしの筋肉だからね!」と言い切ったのは、『機動警察パトレイバー』の泉野明だが、たしかにロボットであれば女性でも戦うことができるだろう。本人の筋肉量と関係なく。いわんやサイコミュをや。



それは現在のフラットな視線から見れば「当たり前」としてしかるべきで、特に理由なくパイロットに男性も女性もいる、ということになるだろう。
実際に『機動戦士ガンダム』以降のシリーズでは、職業軍人として普通に数多くの女性パイロットが登場する。

ただその一方で、サイコミュ兵器を操るニュータイプのパイロットにはファースト以後も少女が多く、『Zガンダム』からは「強化人間」という人工ニュータイプにも少女が多く登場する。
正直に言えば、これはフラットということではなく、少女であることと、強い戦闘力(ニュータイプ能力)をもつことが、同時に求められたのだろうと思う。作品の中で、というより作品の外で。
ララァ・スンが結果としてアムロとシャアの間のファム・ファタール的な悲劇のヒロインになったとすれば、強化人間はそうなるように、まさしく人工的に作られた存在といえるだろう。

ニュータイプ能力が必要なファンネルやビットは、性差や年齢を超越した兵器ではあるけれど、それを操るニュータイプ(強化人間)に関しては、ドラマの道具立てとしてはどうしても性差や年齢は超越していないと思える。

もちろんこれはあくまで、本記事が取り扱う範囲である、何十年も前の少年主人公アニメでのお話。Twitterの反応やインタビュー記事などを読むと、今回の『水星の魔女』はいろいろと違っているようなので、楽しみにしておきたい。

ニュータイプ・ハマーンと、モビルスーツ・キュベレイ


『機動戦士ガンダム』から7年後の世界『機動戦士Zガンダム』での、ビット(ファンネル)搭載機は、キュベレイ。
いわずとしれた、ハマーン・カーンの乗機にして、アクシズ(ジオン)の象徴のような機体だ。



もともと「ファンネル」とは、キュベレイの装備する小型版ビットで、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業とは関係なく、形が漏斗(ろうと、じょうご)に似ているから、そう名付けられた。
しかしこれ以降、同タイプの兵器は形状関係なく「ファンネル」と呼ばれることになる。

元々は形状を示していたのに、その意味が抜け落ちて呼び名だけが残った、というのは例えるなら、あれだ。あれ。我々で言うところのあれ。まさにあれみたいなものだ(この部分、このまま公開時に残っていたら何も思いつかなかったと思ってください)。

今回の話の流れとして、このキュベレイの何がすごいかといえば、キュベレイ単体でちゃんと戦えて強い、ことでしょう。

小型化にも成功してモビルスーツサイズとなり、ビームサーベルもあり近接戦闘も出来る。
パイロットであるハマーンの能力も相まって、ファンネル攻撃はもちろん、本体のモビルスーツとしても普通以上に戦える。
いわばララァとアムロの良いとこ取りのファンネル搭載機で、ジオン系開発者のガンダムへのトラウマが見えるようで面白い。

エルメスのビットには、熱核反応炉が内蔵されており、稼働時間も長く、ビームの出力も高いが、その代わりサイズが大きい。
キュベレイのファンネルは、バッテリー式でビットに比べれば、稼働時間や出力は低いが、小型化に成功した。
バッテリーがなくなったら本体に戻し充電が可能なので、現在の目で見れば、ルンバ(ロボット掃除機)の充電のようなイメージだろうか。

ファーストの頃から近距離戦を余儀なくされたサイコミュ兵器だが、ファンネルではこの仕様の変化もあり、戦闘の形式自体も最初から違っている。

忍者物の例えで言うなら、もう本体は隠れていない。
本体は見せたまま、でも見えない角度から攻撃が飛んでくる敵、みたいな感じになる。
または、攻撃方向が多数方向すぎて、対処しきれないタイプの敵。
こうなると戦闘の駆け引きは本体探しではなくなるし、分かりやすい攻略法はない。普通に強い。

さらに重要なことは、キュベレイのパイロットがハマーン・カーンであることだ。
そもそも、ファンネル搭載機をモビルスーツサイズに出来たからといって、ファンネルとモビルスーツのコントロールを両方高いレベルですること自体が困難なのであって、その意味でまさしくハマーンはモビルスーツで15勝、ファンネルで34HR、大谷翔平クラスの二刀流ユニコーンといってもいいだろう。

それだけではない。
ララァが敵であるアムロと戦場で精神的に強くつながり、それをシャアに嫉妬された上に彼をかばって命を落としたことを思い出してもらいたい。
ハマーンはララァと違い、敵対するニュータイプと接触し、互いの心が深くつながってもそれを拒絶するニュータイプだ。
ハード(モビルスーツ)、ソフト(パイロット)の両面でスキはない。
※全然褒めてない。そんなハマーンに誰がした。なあノースリーブよ。

ちなみに『Zガンダム』では、ファンネル搭載機がキュベレイ一機しか登場しないが、その持ち主がハマーンであることは興味深い。
本体(キュベレイ)とファンネルは支配・被支配の関係にある。
ハマーンの人間関係の基本がそこにあり、彼女が使うモビルスーツがファンネル搭載機なのは象徴的だ。ハマーンの象徴。(これが言いたいだけだろ、とか言ってはいけない)

また別の視点として、ファンネルがエネルギー充填のために本体にお乳を吸いに戻ることを考えれば、キュベレイとファンネルはある種の親子関係とも言うことができよう。

ハマーンはキュベレイのファンネルで四肢をぶった切って、百式をダルマ状態にしてでも、シャア(クワトロ)に自分の元に戻るように迫る。

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支配・被支配の関係、さらに私が昔から提唱している「ハマーン=アクシズのシングルマザー」文脈での逃げた元亭主の首根っこを掴む視点から見ても興味深い。
まあそれでもシャアは逃げるんですが。

なぜハマーンはファンネルで勝負をつけなかったのか


『機動戦士ガンダムZZ』最終回「戦士、再び……」での、主人公ジュドーとハマーンの一騎打ちは、最終的にビームサーベルの斬り合いでジュドーが勝利する。

決着後ジュドーが、なぜもっとファンネルを使わなかったのか、と尋ねると、ハマーンは「一騎討ちと言ったろ」と答える。
実際、この戦いの勝敗自体に特に意味はないので、彼女の精神的な決着の為だけにあるはず。
だから、ハマーンがファンネルを使わず、剣での決着を望んだ、ということになるだろう。

ファンネルは被支配の兵器であくまで主体からコントロールされたものでしかないので、精神的決着にハマーン(つまり主体)の気持ちが乗らなくてどうする、つまりキュベレイが握るサーベルに意思を乗せるしか無いだろう、ということだ。

他にも、もうキュベレイのファンネル戦闘で面白い絵面も無さそうだし、ハマーンの自殺願望とか、あのオカルト空間でどうせファンネルなんかどうせ効果ないし、とか色々言えてはしまうのかも知れないが。

結局のところ、サイコミュ兵器やファンネルとしての利点を、SFガジェットや軍事的な思考で突き詰めるよりは、TVアニメーションとして同一フレーム内で接触すること(それはキャラクターの意思を直接表現すること)がここでも優先されているといえる。

ただその上で、ハマーン・カーンというキャラクターに寄り添った解釈をしてあげるなら、前作『Zガンダム』の時に、ファンネルで百式をダルマにしてもシャアに拒まれたという経験がすでに存在している、というのがひとつ。
ファンネルでモビルスーツ戦に勝利したとしても、シャアに言うことを聞かせることはできず、彼女が欲しかったものは得られなかった。

もうひとつは、アクシズの指導者として『Zガンダム』から『ガンダムZZ』まで、ミネバと彼女の信奉者をファンネルのごとく上手く操ってここまで来たが、グレミー離反と、ジュドーの抵抗もあって全ては水泡に帰した。
この期に及んで、何かを操るような方法(=ファンネル)をようやく意識的にやめたのかも知れない。まあ操るものはこの時点でファンネル以外に何も残っていないのだけど。

ハマーンはファンネルがごとく、人と人との関係も上手くコントロールし、支配する。
だからこそ彼女は「ハマーン様!ハマーン様!」と叫ぶ崇拝者に囲まれていながら、常に孤独にならざるを得なかった。

そして大事なことは、彼女の孤独を救ってくれるはずのシャアもジュドーも、けして自分の思い通りにはならない存在であることだ。
それを味わった百式ダルマ戦を踏まえた上での、ジュドーとの最終決戦で「ファンネルで決着をつけることを選ばなかったハマーン」という視点を加えると、物語の豊かさがより増すのではないだろうか。

手に入れたいものは、手に入らないもの


もうすでにファンネルの話というか、完全に単なるハマーンの話にスライドしているが、このあたりがいちばん書きたいところなので、このまま脱線を続ける。

「戦士、再び……」では最終回なので珍しくハマーンが色々と気持ちを吐露するけれど、個人的にはそこに意味があるようにはあまり思えない。

ジュドーは言う。

「そんなに人を信じられないのか!?」
「憎しみは憎しみを呼ぶだけだって、分かれ!」
「憎しみを生むもの! 憎しみを育てる血を全て吐き出せ!」


これに対して

ハマーン「吐き出すものなど……ない!」


こう突っ張るけれど、無いわけがない。
どう考えても山程ある。吐き出す相手がいないだけで。吐き出す素直さが無いだけで。ついでにいえば吐き出してどうにかなる余地もないだけで(最終回だからね)。
これを見て、この矜恃、さすがハマーン様!みたいな事は全く思えない。

決着後もジュドーが本当に欲しい答えをはぐらかすように話していて、ここのハマーンの台詞にも特に意味がある感じはしない。
むしろ、最後までやせ我慢して、この期に及んでこの人は……と思ってしまう。

要は、ここで必要なのはただひとつ。コクピットハッチを開いてジュドーの方へ飛び込んでいくことなんだけど、もちろんハマーンにはそれが出来ない。

実際に前話「バイブレーション」でクインマンサのプルツーがそれをやっている。
ハマーンのシャドウたる子供のプルとプルツーは出来た。
だけどハマーン本人にはそれが出来ない。年齢も立場もプライドも己が今までやってきた事も全てひっくるめて出来ない。
結果的にジュドーとは逆方向に彼女は飛んで、そして自ら命を絶つことになる。

敗北したキュベレイと同じくダルマ状態にされた百式で、クワトロが池シャアシャア(池田秀一とシャアにしか使えない特殊表現)と生き残った事に比べれば、大変潔い。あまりに潔すぎる。

色々都合よく始末をつけすぎるのは、ジュドーが木星にいくのと同じで、制作も決まった映画『逆襲のシャア』の下準備という側面もあるけれど。

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有名なシャアと少女時代のハマーンとの写真。
どれだけ意図されたものかは分からないが、意図のあるなしとは無関係に私はよくできた写真だと思ってるんですよ。

シャアより7歳下でこの時まだ少女であるハマーンだが、年上の男性であるシャアの胸に自分を預けるのではなく、背伸びしてでもシャアと同じ高さ、目線で映ろうとしている。
シャアをパートナーと考えていたハマーンにとって「対等」である事は重要だったのではないか。

だからこそシャアと対立し、ハマーンを政治と戦争に担ぎ出した張本人であるシャアは逃げ出す。
(ララァは戦いをする人ではなかったのに、誰かが戦場へ連れ出したことを思い出して欲しい)

シャアは子供の、いや女性(といった方がよいか?)に合わせて頭(目線)は下げてくれない。
だからこそジュドーとの関係で必要だったのは、ハマーンがジュドーの目線に合わせることなんだけど、最後の最後まで出来ない。

ジュドーは14歳の子供。それでも10歳のプルとプルツーなら飛び込める彼の元へ、ハマーンは最後まで行けない。
シャアの時と同じく私の所へ来いとは言うのだが、もちろん失敗する。
(勘違いするような人などいないと思いますがこれ、行けないのが悪いという話ではないですよ)

少女時代を捧げたのに逃げられた年上のシャア(追いかけて包丁突きつけても拒否される)。
そのシャアと似ている男をやっと見つけたと思ったら、年下の14歳。まっすぐな魂をもっていて、ハマーンの心に土足で踏み込まずにストレートに言葉で気持ちをぶつけてくる。好ましく強い子だ。だけど悩ましい。

最後の「強い子に会えて……」の気持ちに嘘は無いと思うが、自分がシャアと同世代だったらと思ったように、ジュドーが自分と同世代だったら……と思わずにはいられなかったのでは。
年下のジュドーに対して素直になれない自分である以上は。
サーカスの子供がたった一人、ガラスのロープを目隠しで渡るんじゃない。

結局どれだけ多くのものを支配下においても、本当に手に入れたいものは、自分ごときに支配などされないもので、恐らくそれだけが彼女と対等の関係を結び、孤独から解放する存在。
だけど彼女はその相手と関係を結び、維持する方法を知らない。最後まで。
それがハマーン・カーンというキャラクターです。

個人的には、無理やりでも目線を対等に持っていこうとするハマーンを好ましく思っています。
改良型ハマーンであるナナイの方が、シャアから見てかわいげがあるのだろうけど、個人的にはハマーンの方がいいですね。(これも勘違いのないように書けば、劇場用に用意されたキャラクターとしてはナナイで問題ない)

『逆襲のシャア』でのファンネルvsファンネル


さて。シャアが絡む話になるといつも脱線するが、本筋の「ファンネル」の話に戻す。

ともかくキュベレイとハマーンの組み合わせは、エルメス路線での本来の意味でのサイコミュ兵器運用とは別で、キュベレイがその後のファンネル搭載兵器のひとつのスタンダードになる。

もちろんエルメス路線も、ここまで説明した通り、護衛ドムのサボタージュや役に立たない護衛(シャア)など丁寧に下ごしらえした上で、エルメスとガンダムのドッグファイト状態にしたわけで、結局は「あんた達、同じフレーム内で戦闘しなさいよ!めんどくさいのよ!」という話ではあるんだろうけど。

そして映画『逆襲のシャア』では、シャアとアムロがモビルスーツ本体で戦闘しながら、ファンネル戦闘するにまで至る。
ザザビーとνガンダムのファンネルが飛び回りながら、絡み合いながら、くんずほぐれつ、くんずほぐれつ。
まあいやらしいったらない。



作画、演出的にもまさしく劇場版の豪華さで、νガンダムvsサザビーこそ達人同士の忍術合戦。戦闘の全プロセスに白土三平調のナレーションを入れて解説できるはず。

チャンバラと忍術がベースになっているのは、はっきりいえば制作者の世代によるところが大きいとは思う。静と動のメリハリがあってアニメ向きというのもあるのかも知れないけど。

富野由悠季作品としてのファンネル演出は、この作品がひとつの到達点で、以降は別の工夫が必要になるフェイズに入ったんだろうと思います。

その工夫は、他の監督たちが模索していくことになり、恐らくその先に『水星の魔女』でのいきなり主人公機がファンネル、にもつながっていくのでしょう。

挑戦者たちの勇気がファンネルの未来を開くと信じて……!
ご愛読ありがとうございました。

まとめ、もしくはあとがき


先行している総論的な記事(あでのいさん)がある以上、そうではない記事を書くことを意識したというのはあります。
が、結局いつもの、シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りになってしまった……。だが私は後悔していないし、謝らない。

ちなみにハマーンのところは、昔のハマーン&シャアツイートなども加えて、さらにボリュームを増やそうと思っていましたが、ファンネル部分だけでも想定より分量が増えてしまったのでカロリミットして、また別記事で書くことにしました。
シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りをまたお待ち下さい。

ファンネル(ビット)に関していえば、結局のところ『ガンダム』最初期から、兵器の特性よりはTVアニメでドラマを組むことを優先されているわけです。そこが富野由悠季らしく、個人的にはドラマ重視で好みではあるのですが、それは当時の制作者としてのひとつの選択であって、単純にそれが正しいわけでもなければ、悪いわけでもありません。

ただ、制作者が変われば、時代が変われば、表現技術が変われば、他にもさまざまな表現ができるロボットアニメバトルのすばらしい道具であることは間違いなく、実際他のいろいろなガンダム作品で工夫と活用がされてきました。
ファンネルの面白い表現や演出にこれからも期待したいと思います。

とりあえず私は、この記事をまとめるまでは、思考がとっちらかってファンネル制御の思念波に乱れが生じる恐れがあるため視聴を控えた、水星狸合戦ぽんぽこ、こと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を楽しみに見てみようかと思います。

それではまたお会いしましょう。





関連記事紹介コーナー


では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。


僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

ニュータイプの因果の中心に関わったシャア・アズナブルと、ハマーン・カーンを中心にした話。
基本的にSFガジェットであり、また人によってはニューエイジの影響といわれる「ニュータイプ」だが、結局のところその方面で強化されることはなく、人間ドラマ上の道具でしかなっていない(それが私の好きなところ)。そしてそれはシャア・アズナブルという男のささいな嫉妬から始まり、それがハマーンがカミーユを拒絶する瞬間に結実する。映像の世紀、バタフライエフェクト。

空虚なハマーン・カーンを救うことは可能か<『機動戦士ガンダムZZ』感想戦>

ハマーン・カーンのキャラクターについてと、彼女を救済する可能性について検討しています。「救済」というものがどういう意味を指すかは、ぜひ記事をご覧ください。

お、おま、ファンネルじゃなくて、ハマーン関連記事ばっかりじゃねーかとお嘆きの諸兄。
そのとおりです。


サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

ファンネルにだけ注目したわけでないですが、本記事でも触れた、マスターニンジャであるサザビーとνガンダムの戦闘についての記事です。どのようにこの戦いの目的が設定されているか、が主題でしょうか。

『機動戦士ガンダムZZ』を自分の中で整理しておこうとしたのですが、そのための前提となるシャアとハマーンの関係性をまとめはじめたら(いつものごとく)長文化したため、単独記事として別にしておくことにしました。

『ZZ』話のためにまとめた内容ですが、『機動戦士ガンダム』から『機動戦士ガンダムZZ』までを範囲とした「ニュータイプとその因果の中心にいたシャア・アズナブルの話」に仕立てましたので、独立した記事としても読んでいただけると思います。

では、宇宙世紀のブロックごとに分けて見ていくことにしましょう。まず『機動戦士ガンダム』から。

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本記事の主役であるシャアを中心にした、簡単な見取り図を作成しましたので、参考にご覧ください。
「主人公」「シャア」「ニュータイプ少女」「妹(偽妹)」という4つの要素でまとめています。
もっと要素を増やすこともできますが、複雑化しますし、本記事のテーマ的にあえて4つに絞りました。

0079

この図をご覧いただくとお分かりの通り、『機動戦士ガンダム』での4つの要素は以下になります。

・主人公 = アムロ
・シャア = シャア(当たり前)
・ニュータイプ少女 = ララァ
・妹 = セイラ(シャアの妹)


物語の主人公であるアムロと、立ちふさがるシャア。シャアが見出したニュータイプの少女・ララァ。
この宇宙三角関係は、第41話「光る宇宙」で不意にクライマックスを迎えます。

激しい戦闘の最中に、アムロとララァがニュータイプ同士の心の交流を果たします。
これはこれ以後長く続くガンダムシリーズで初めて描写された、ニュータイプ同士の深い精神のつながりです。

シャア「ララァ、奴との戯言(ざれごと)はやめろ!」


しかしシャアがこれに嫉妬し、二人の間に割って入ることで、決定的な喪失=ララァの死が発生します。

言わずと知れた『機動戦士ガンダム』の名場面ですが、この場面の成立にはアムロ、ララァ、シャアの3要素だけでなく、4要素目としてセイラ・マスも関与しています。

■ララァか、アルテイシアか


悲劇の直前、シャアのゲルググは、アムロと兄の間に割って入ろうとするセイラのGファイター(コアブースター)を斬ろうとするが、寸前でナギナタの刃を止め、相手が妹アルテイシアだと気づく。
だが、そのスキをアムロに突かれて片腕を斬られてしまい、さらにとどめを刺されようかという絶体絶命のピンチをララァにかばわれ、彼女は命を落とします。

ニュータイプ・アムロとララァによる心の交流を表現する上での対比・強調の問題だと思いますが、この場面でのシャアは、肉親であるセイラの存在に徹底的に気づかない。
赤の他人でロクに会話すらしたことがないアムロとララァが感じ合い、分かり合ったのと比べて、血が繋がっているはずのシャアとセイラの通じなさは極めて象徴的だと思う。

そもそもシャアがナギナタの刃を止めることができたのも、先にララァがセイラを感じ取り「大佐、いけません!」と止めたからに過ぎません。
しかもその後に、シャアがコクピット内のセイラを目視して「アルテイシアか!」と気づく主観のカットをわざわざ入れている(これがすばらしい)。

セイラの存在を知っていたかどうかすらも怪しいララァが先に感知し、目視でないと愛する妹に気づかない兄に親切に忠告してくれたおかげで、シャアはセイラを殺さずに済んだ。だが、それゆえにララァの死を招いた。
結果的にではあるが、シャアは、妹の命を助けることを引換にして、後に自分で母とも呼ぶ女性の命を失ったともいえるでしょう。

だがこの後の最終話、ア・バオア・クー内で、セイラをアムロ(ホワイトベースの仲間)の所へ送り出し、妹とも決別するので、シャアは一年戦争で、「ニュータイプ少女」と「妹」の両方を失ってしまった。
(ついでにいえば、姉ともいうべきキシリアも自分で殺したので、すべての女性関係を一度失ったともいえる)

大事なものを失ったシャアは、アクシズへと逃げ延び、次のフェイズへ入ります。

UC0081 アクシズ時代


かけがえなのない女性ララァと死別し、また最愛の妹であるアルテイシアとも決別したシャアは、その後アクシズで、ハマーン・カーンに出会い、恋人関係になったといいます。

この時期に関しては、物語内で直接描写があったわけではないので、あまり考えすぎても意味がないと思います。あくまで設定上の問題と考えることにしましょう。(北爪宏幸さんのマンガがありますが、最初の方しか読んでませんし、そもそも、それがあったからどうとも思わない)

ではシャアとハマーンだけの問題ではありますが、この時代の見取り図です。

0081

シャアの業が深いなと思うのは、結局この人はララァ喪失後に、ニュータイプ少女(少年も)を何人も引っ掛けることになるんですよね。

その結果から考えると、最初のひとりとなったハマーンは、一年戦争で失ったララァと妹の代用物だったように思えます。

ただ、ニュータイプ能力以外何も持たず、また持とうともしないララァと違い、ハマーンには家柄もあれば、政治能力や統率力などさまざまな才能を持っていたようです。
ハマーンは、シャアの推挙を受けてミネバ・ザビの摂政になり、政治の表舞台に立ちます。
(父シャーマン……マハラジャ・カーンのあとを継いで、アクシズの第2弾ヘッドとなったわけですね)

しかしミネバの扱いなどを原因に、シャアとハマーンは政治的に対立して、シャアはアクシズを離れたという。
ミネバという子供の教育方針に対し、夫婦である父シャアと母ハマーンが対立したような形ともいえますね。
父シャアは責任を放棄して出ていき、残った母ハマーンが引き続きミネバを育てることになります。

物語上の描写がないのであくまで推測ですが、シャアにとってのハマーンは、短い間に「妹」「ララァ(の幻影)」「恋人」「妻(パートナー)」とさまざまなポジション(あくまで構造上の配置)を取ったキャラクターになると思います。

ハマーンの方でも、築いた関係の行き着く先として、頼れる夫(大人の強い男)の役割をシャアに求めたかも知れません。
それなのに対立したシャアは家(アクシズ)を出ていってしまい、ハマーンは、残された子供であるミネバとアクシズの民の面倒を見るシングルマザーになってしまう。
ハマーンが、決定的に「大人の男」に対する不信感を抱いたとすればここになるでしょう。

そもそもハマーン・カーンはシャア無しでは存在しえないキャラクターで、彼女の行動原理は「シャア無き欠損をどうするか」ということに尽きると思う。(初登場の『Zガンダム』ですでにシャアを失っていた)
直接キュベレイでシャアの首根っこを抑えて連れ戻そうとしたり、ジュドーにシャアを感じてそれにこだわったり、シャアがいなくても一人でがんばる!と強がったりするが、どれもシャアの存在なしでは成立しない。

シャアに与えられた欠損は少女に大きな傷を残したと思われ、それは次の世代に影響を及ぼします。

UC0087 『機動戦士Zガンダム』


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では『Zガンダム』の見取り図を見てみましょう。シャアはクワトロと名前を変えて登場。
「主人公」はカミーユになるが、これはクワトロがスカウトしたニュータイプ。その意味では「ニュータイプ少女」の位置だと言ってもいい(と、言うとカミーユに殴られるけれど)。クェス・パラヤの立ち位置は「女カミーユ」でしたが、逆をいけばカミーユは「男クェス」ですからね。
ニュータイプ少女は、クワトロには引き続きハマーン。
カミーユに対しては、フォウやロザミア(偽妹でもある)、サラなど数多く登場するが、その全てが死んでいく。

0087

『Zガンダム』終盤、第47話「宇宙の渦」において、ハマーンのキュベレイとカミーユのZガンダムは、戦闘中に精神が共鳴して、深いレベルでつながる。
『ガンダム』でのアムロとララァを彷彿とさせる、ニュータイプ同士での「僕達は分かり合える」シチュエーションの再来ですね。

この場面のキャストは高いニュータイプの素養を持つハマーンとカミーユの2人だけ。
「光る宇宙」での「シャア」や「妹(セイラ)」のような要素が参加していない。
『ガンダム』で達成し得なかった、敵味方を越えて、ニュータイプ同士で心が通じ合える条件は揃っている。「光る宇宙」のその先へいけるかも知れない。

だが皆さんご存知のとおり、ニュータイプであるハマーン本人が、カミーユを拒絶します。

ハマーン「よくもずけずけと人の中に入る。恥を知れ!俗物!」
カミーユ「やめろ!僕たちは分かり合えるかもしれないだろ。ここに来るまで……」
ハマーン「黙れ!貴様もシャアと同じだ!」
ハマーン「貴様は確かにすぐれた資質を持っているらしいが。無礼を許すわけにはいかない!」


そうだった。
ニュータイプ能力があろうと、人間は分かり合えることを拒絶していく愚かな生き物なのだったな。
この場面は2人だけである必要があり、当事者である2人でないと、この絶望がきちんと露わにならなかっただろう。

私は「ニュータイプのドラマ」というのは、最初のサンプルであるララァの死の場面で基本的には終わっていると思っています。最初の機会でよくあれをやったな、と出し惜しみのなさに感動を覚えます。
ガンダムにおいて、ニュータイプという異能者を通して常に逆説的に描かれるのは、あくまで人間です。ニュータイプは人間を描くための悲しき戦争(アニメ)の道具と言ってもいい。
そこで描かれるのはもっと言ってしまえば、「人間は分かり合えない生き物だ」というひとつのテーマ。
これは人として逃れ得ない絶望だ。確かに、これを結論としてしまうなら絶望のままで終わるだろう。
だが、分かり合えないということを分かり合っていくことはできる。それが唯一の希望だ。
そのことを示すには、長い時間と多くのドラマが必要となってくる。

だから宇宙世紀では、はじめに起きた絶望を出発点にして、ニュータイプのドラマをさまざまなバリエーションで延々と繰り返していく。
ハマーンとカミーユのドラマもそのバリエーションのひとつでしかない。
ニュータイプとして心を開いた悲劇(ララァ)に対する、心を閉じた悲劇。絶望のバリエーション。

とはいえ、なぜこの場面でハマーンは心に踏み込まれるのを頑なに拒んだのだろうか。
それはハマーンの「貴様もシャアと同じだ!」のセリフにあるとおり、カミーユより以前にハマーンの心に入った人間がおり、その人は彼女を救ったかも知れないが結果的に大きな傷を残したからなんだろう。
ハマーンがこういう人間になったのは、彼女自身の性質もあるかも知れないが、シャア・アズナブルに大きな責任があると思っていいはずだ。

もちろん例えばの話だが、シャアが年上の男性としてうまくハマーンを導くことができていたら、仮に対立してもハマーンから逃げ出さなければ、彼女がカミーユを拒絶するようなニュータイプにならなかった可能性はあると思う。

そう考えれば、「光る宇宙」から「宇宙の渦」までがニュータイプのエピソードとして、物語のひとつのサイクル。
一年戦争末期、ニュータイプに夢を見始めていたシャアが、宇宙世紀はじめてのニュータイプ同士の精神の交流という歴史的な場面を、個人的な感情で崩壊させてしまった。
その後シャアは、失った妹とララァの代用品であるハマーンを得るが、結局のところ彼女を傷つけ、責任も取らず逃げだしてしまう。
さらにその後シャアは、カミーユという新たなニュータイプの素材を見つけ、シャアが見出した2人のニュータイプであるカミーユとハマーンが戦場でついに出会う。
そして、カミーユはアムロがララァにしたのを同じことをしようとして、ハマーンに、分かり合えるはずのニュータイプ本人に拒絶されてしまう……。

ハマーンによる「光る宇宙」の再演は、シャアにとって「ララァの因果に、ハマーンが報い」であり、因果応報といってもよいのではないか。

ハマーンは、その昔シャアがララァに求めたように、カミーユとの「戯言(ざれごと)」を途中でやめましたからね。
よかったですね、クワトロ大尉。ハマーンはララァと違って、あなたがいなくても戦闘中の「戯言」をやめる人間に育ちましたよ(にっこり)。

シャアは、この一連のニュータイプドラマに常に中心で関わりながら、あまりの人間らしさゆえに悲劇しか生み出せない役割を与えられています。
ニュータイプというものの可能性をあの時点で最も信じていたと思われるシャア・アズナブルが、ニュータイプ同士で起こった宇宙世紀初の交流を自らの手で壊し、さらに次世代のニュータイプ同士の出会いと拒絶にも影響を与えた、というのは運命の皮肉というほかありません。

シャアのことを揶揄する「ニュータイプのなりそこない」という言葉がありますが、その言葉はモビルスーツでの戦闘能力などではなく、この一連のドラマの主人公としてこそふさわしいものだと思います。
本当に彼はニュータイプになりそこなった。もう人間そのもので人間以外の何者でもない。私達と何も変わらない不完全きわまりない人間です。
愛されて当然のすばらしいキャラクターだと思います。

※参考
『Zガンダム』のこの場面については、TV版と劇場版で異なる部分があります(流れ自体は変わりません)。
それについては、以下をご参考になさるとよろしいかと思います。
カミーユとハマーンの交感(テレビ版と劇場版の違い) - 『だからtominoは・・・』ライナー・ノート(仮) - だからtominoは・・・

UC0088 『機動戦士ガンダムZZ』


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そして『機動戦士ガンダムZZ』。
『ZZ』についてはまた別に記事を書く予定ですし、自分の中でも整理しきっていないので、あくまで「シャアとハマーン」という今回の流れに沿ったものだけにしておくことにします。

「主人公」はジュドー・アーシタに変わります。ジュドーにはガンダム主人公で初めて「妹」のリィナがいます。

ポイントは「シャア」の不在。当初の想定では、後半に登場予定だったのですが、映画『逆襲のシャア』製作決定を受けて、『ZZ』への出演が無くなってしまいました。
「ニュータイプ少女」はハマーンが引き続き登場しますが、前述のようにハマーンは、シャアありきのキャラクター。シャア不在の物語である『ZZ』はいったいどうなっているのでしょう。

0088

見取り図を見ていただくと分かるのですが、シャアの要素は、主人公ジュドーと、ネオ・ジオンの士官グレミー・トトの2人で分け合うような形になっています。シャアの表裏をそれぞれ担当します。

ジュドーは、妹がいるお兄ちゃんで、ハマーンにシャアの気配と勘違いさせるガンダム主人公です。
グレミーは、そもそもが出演キャンセルとなったシャアの代わりを務めるためのキャラクターで、血統に支えられた金髪エリートで、ニュータイプ少女を手中にしています。

『ZZ』前半では、ジュドーとグレミーで、リィナの保護権を巡って取り合いを繰り広げます。
グレミーはジュドーの実妹リィナを手に入れることで、より本物のシャアに近づくことができます。
対するジュドーは、グレミーの支配下にあるニュータイプ少女(プル、プルツー)を解放して保護していきます。
ジュドーとグレミーの戦いは「妹(偽妹)」「ニュータイプ少女」を手に入れ、シャア・アズナブルに近づくための戦いと言ってもいいかも知れません。

ただ、シャアの半身ゆえにジュドーもグレミーも、不完全な兄ではあります。

ジュドーは妹リィナに対して、過保護な愛情を与えます。お前はオレのようになるな。幸せにしてやるから兄ちゃんのいう通りにしてろ。愛情はたっぷりですが、近視眼的で危なっかしく心配な兄です。

一方のグレミーは、ジュドーには与えることができない、豊かな生活と高等教育を与えることができます。
しかし、妹リィナに愛情を注ぐ一方で、同じような年頃の少女であるエルピー・プルを平気で戦争の道具に使うことができる兄です。
(シャアが妹セイラに与えた「過保護な忠告」が、ジュドー。贈った「金塊」が、グレミーともいえます)

不足している半身は、ジュドー自身が持つパーソナリティで補って、より強い存在になるべきなんでしょうね。

■ハマーンのシャドウ、プルとプルツー


同じように、ハマーンのキャラクターも、プルとプルツーという2人の少女に分かれています。
後期OP「サイレント・ヴォイス」にもそれを象徴させるような、プルとハマーンが重なるカットがありますね。



プルとプルツーは、ダークサイド・シャアであるグレミーに支配されています。
2人を解放していくのが、ライトサイド・シャアであり、宇宙世紀最強のお兄ちゃんであるジュドー。
それを達成したからこそ、ジュドーは最終回で、ハマーンと一騎打ちする資格を得ることができる、と『ZZ』全体を考えることができるかも知れません。

そもそもアクシズはジオンの残党の集まった小惑星で、国力も限られ、兵たちも練度も低い。
でもアクシズにはろくな大人がいない。将官も兵も(そして外部でも)多くが「ハマーン様!ハマーン様!」と呼び崇拝するが、愛染(『BLEACH』)なら「崇拝は、理解から最も遠い感情だよ」と言うかも知れない。
「ハマーン様」と呼ぶ人間は、ハマーンにとって最もどうでもいい存在だろう。必要とあればマシュマーのように強化でもして使うまで。
例えばラカン・ダカランあたりは大人に見えるが、結局、ハマーンとグレミー、小娘と小僧の間を行ったり来たりするような存在にすぎない。頼れる大人がいない。パートナーがいない。私はいつも孤独だ……。

多分、ハマーンの期待に応えられるような強い存在は、富野由悠季が言うところの「迷いを捨てたシャア」しかいない。アムロをあっという間に消し、ジュドーやグレミーもお話にならない。多分、ハマーン自体もすぐに殺し、アクシズ全軍を掌握してしまうような男。それこそがハマーンが望む強い存在。

もちろん「迷いを捨てたシャア」というのは、辞書にも「ありえないものをあらわす例え」と書いてあるので、どこにも存在しない。

でも地球圏には、強い大人の男はいなかったが、強い子供はいた。

強い子供であるジュドーが面白いのは、彼はハマーンと面と向かって、批判し、説得し、コミュニケーションをとろうとするんですよね。
実は、ジュドーにはアムロや、カミーユと同じ形でのニュータイプの交感シーンがない。
これを「ニュータイプ能力が一段劣る」ジュドーと言えないこともないですが、私はむしろ、ハマーンに対してはそんなジュドーだからこそ良かったのだと思います。
ジュドーは、ニュータイプ力で心の中に入ろうとはせず、正面から人間として対話しようとした。
ニュータイプであるがゆえに傷を負い心を閉じたハマーンにとっては、恐らくその方が好ましい存在だったと思います。

そんなハマーンの最後のセリフは、有名なこれでした。

ハマーン「帰ってきてよかった……強い子に会えて……」


エピローグでは、死んでいたと思った妹リィナが、シャアの妹セイラによって救われており、涙の対面を果たしますが、ジュドーはリィナに別れを告げて、木星に旅立ちます。
これはもちろん『逆襲のシャア』とジュドーを無関係にする意義が大きいでしょうが、妹と別れ、他者であり妹ではない女性ルー・ルカと旅立つというのは、物語の落としどころとして、それなりに意義のあることだったと思います。(このあと、ジュドーとルー・ルカの関係がどうなるかということはどうでもいい)
リィナは元より、プルもプルツーも、そしてハマーンも、妹たちはジュドーのそばにいることは許されませんでしたし、ジュドーも言い方は悪いですが、彼女らの死(リィナの死も含め)を通過儀礼としたようです。
こうも多くの少女が死なないと得られない少年の成長ってなんなんでしょう、と思わないでもないですが。

ちなみにシャアの要素をジュドーとグレミーが受け持ったり、ハマーンがプルとプルツーに分かれて、グレミーに支配されていたりするのは、永井豪『バイオレンスジャック』と思えばわかりや…す…くは全くないけど、面白いよね。『バイオレンスジュドー』。豪ちゃん世界では割りとよくあることなので。
ハマーンを飛鳥涼とした場合、ジュドーがジャック(逞馬竜でもあるけど)、グレミーがスラムキングかな?

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巻末付録など


今回はシャアを中心に『ガンダム』から『ZZ』までのニュータイプの因果を振り返ってみました。
もちろん要素を絞ったので、シャアもハマーンもここに書いたことはある一面に過ぎません。

『ZZ』については、また違った角度で別の記事を書く予定です。
『ZZ』はいまいち掴み切れなくてスッキリしないのですが、もともと外部要因などもあって歪みを内包する作品なので、歪みなくキレイに整理できたら、それはそのために何かを歪めているような気もします。
だから矛盾や不明点を抱えたままでいいかな、無理に整理しなくても、と今は思っています。

さて、各パートで使用した見取り図ですが、これを全部つなげた大きな画像を作成しましたので、巻末付録(おまけ)として置いておきます。
あくまで本記事に必要だった四要素だけですが、宇宙世紀0079~0088を一覧できますので、シャアさんの因果応報ぶりでも確認して楽しんでみてください。

※画像が大きいので縮小しています。クリックして別ウィンドウでご覧ください。
『機動戦士ガンダム』シャアを中心とした、ニュータイプ因果の流れ
「ニュータイプは戦争の道具じゃない!」

いや、ニュータイプほどステキな戦争の道具はないんじゃないかな?


"ニュータイプ"を中心に、機動戦士ガンダムにおけるお約束と言い訳について、色々考えてみましょう、というお話です。

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以前書いた記事で、ガンダムがすばらしかったと考える理由の一つとして以下のものをあげました。

・これまでのロボットアニメのお約束をはずすのでなく、全てを高いレベルで盛り込んだこと
・このあらゆるお約束に大人の言い訳をしてくれたこと。


現在から見ると、"ファースト以前、ファースト以後"にロボットアニメを区分けする意識も強いですが、ファーストにはきっちりと"ファースト以前"のロボットアニメ(あるいは男の子アニメ)のお約束が盛り込まれています。
だからこそ当時幼かった自分でもそれほど違和感なく楽しめたのではないかと思っています。(要するに小さい子供でも、マジンガーZのようなロボットアニメからスムーズに移行できた)

ワクワクするバトルアクション(=ロボットチャンバラ)アニメだったことも、男の子アニメのお約束であり、小さくても熱中できた理由の1つです。(ファーストでのアクションについては、 「ロボットチャンバラ」としてのガンダム<ビームサーベル戦闘論> をご覧下さい。)

そして何より基本設定にお約束がきっちり入っています。
キリが無いのですが、あくまで分かりやすい所を思いつくままあげてみましょう。

・大前提としてロボットプロレスであること
・父がつくったロボットに乗る主人公
・仮面の美形ライバル
・敵味方に分かれた兄妹(実は王子とお姫様)
・無敵のスーパーロボット(全然傷つかない)
・合体変形コアブロック。レーザーサーチャー同調!
・次々と現れる新型ロボットと敵パイロット
・ジェットストリームアタックのような必殺攻撃
・でっかいモンスターロボット登場(グラブロ、ザクレロ、ビグザムなど)
・戦争なんだけどスポットをあてるのは主役ロボット周りだけ


などなど。そして、これらのお約束にきちんと大人の言い訳を用意してくれています。

「どうして、わざわざロボット同士で撃ち合ったり斬り合ったりしないといけないの?」
「それはね、セ・リーグとパ・リーグが戦うからだよ」
まちがえた。
「それはね、ミノフスキー粒子があるからだよ(以下は略します)」

「どうして、ガンダムはあんなに無敵なの?傷つかないの?」
「それはね、ガンダニウム合金だからだよ。あとマジンガーZと違って同じ人類の科学レベルの争いなので、超合金Zも溶かす謎の溶解液などは出ないからだよ」

「どうして、連邦vsジオンの戦争なのに、結局ホワイトベースとガンダムだけなの?」
「それはね、第13独立部隊という囮部隊だからだよ。意味なくホワイトベースが単独行動しているわけではないんだよ」

「どうして、素人でしかも子供のアムロがガンダムに乗れたの?」
「それはね、父がガンダム開発者で自身もメカマニア、そこへザク襲撃のどさくさ、目の前にマニュアル。ガンダムに乗るのに一番近いところにいたからだよ」

「どうして、その後もずっとアムロが乗り続けるの?」
「それはね、大人がみんな死んじゃってサバイバル状態になったからだよ。子供でもやれるならやらなきゃいけない極限状態だったから、仕方がなかったんだよ」

「どうして、アムロはあんなすごいスピードでシャアに勝つぐらいに強くなったの?」
「それはね、アムロがニュータイプだからだよ」

「どうして、クラムボンは死んだの?」
「それはね、やまなし、オチなし、そして意味なしだよ。ガンダム全然関係ないよ。あとクラムボンはかぷかぷわらつたよ」

「どうして、がるまは死んだの?なぜ?なぜなの?」
「それはね、そうだなあ…」
「な…ぜ………ZZ…ZZ…」
「おや、ダブルゼータかい?いや、寝てしまったんだね?(毛布をかける)おやすみ、坊や」

などなど。お分かりの通り、こうしたお約束に伴う疑問への答えは全て言い訳です。
本当の理由はもちろん別にありますが、こうした言い訳がキレイに、より面白く、作品を形作ってくれています。ここが工夫のしどころです。

ガンダムはその言い訳のリアリティレベルを全ての面で上げたため、お約束を全てクリアーしながらも、"ファースト以前"の作品とは別物になることができたと思うのです。つまり"ファースト以前"のロボットアニメと、用意されたお約束内容は同じでも、それを説明する言い訳が違っているわけですね。

この辺りが、スポンサーの要求(制限)を飲み込んだ上で最大限の作品作りをしてきた監督として、私が評価しているところなんですが、以前の記事では言葉足らず(オチ)にしたせいで誤解を生んでしまったようです。

ガンダムは戦いそのものも宇宙移民の独立戦争という、人類同士の政治的な闘争にしましたし、それを支えるSF設定も整えられました。こうした、これまでのロボットアニメとは違うリアリティを設定する中で各部門の言い訳がきっちりと整えられましたが、個人的にここで一番注目すべきは、そうした世界観、SF設定だけでなく、

「アムロみたいな子供が、4ヶ月で急成長するのには無理があるよね」

と主人公が強くなることにも言い訳をきっちり用意したことだと思います。つまり、それが、「アムロは実はニュータイプという異能者だった」という言い訳です。

言い訳としてのニュータイプ


実は私はいわゆるニュータイプ論、ニュータイプ思想的なものへの興味が無いので、私にとっての第一の存在意義は「言い訳としてのニュータイプ」ということになります。

主人公がロボットへ乗り込み、そこで戦う状況が揃うまで、というのは割とこれまでのロボットアニメもきっちり言い訳つくったと思うのですが、ロボットに乗った主人公が大活躍する部分は自動的に約束された道としていたものが多かったように思います。
(実は何とか一族の末裔なんたらなどの設定があっても、結局「乗る理由=活躍理由」であって純粋な「活躍理由」ではなかったように思います)

それぞれの世界観がありますから、良い悪いという話ではありません。ガンダムの場合では、富野監督が作品世界全体のリアリティレベルを考えたときに「この世界で主役ロボで活躍するアムロには何か理由がいる」という判断をした、ということだと思います(この辺りが、私の考える富野監督版のリアリティコントロールといえます)。

ニュータイプが必要かどうか。誰でも引っかかりそうではあるのですが、少なくとも私はその場でそれが必要と思えたかなあ、と考えると自信がありません。

「子供がいきなり戦争行って、そんな簡単に生き残れるわけないでしょ。まして大活躍なんて」

という大人の(ある意味冷めた、いや覚めた?)正気が必要な気がしますね。

ここで重要なのは、ニュータイプがいかなる力で、それは現実的(またはSF的)にありえるのか、というようなことでなく、言い訳を「するか、しないか」の選択そのものだと考えています。

例えば「現実世界の主人公が異世界で大冒険」のようなお話がたくさんありますよね。普通、異世界で私たちの言葉は通じません。でも物語進行上、言葉が通じないとお話が円滑に進まない。ですので「言葉が通じる」言い訳をすることになります。
この時、理由が魔法やテレパシー(能力)であろうと、翻訳こんにゃく(道具)であろうと、世界のしくみ(世界観)であろうと、理屈はどうでもいいのです。
物語はどんどん進行していきますから、見てる方は「あれ?言葉が何で通じてるの?」という疑問(引っかかり)をとりあえずクリアーできるなら、どんな言い訳でも、ひとまずそれで納得して見続けることにするからです(言い訳として提示した設定が、上手いか、苦しいか、というのはその次の問題としてあります)。

言葉が通じない面白さを題材にしたり、童話など、言い訳を必要としない物語(世界)もあります。必ずしも言い訳がいるわけではありません。でも創作上「言い訳がいるの?いらないの?」という問いかけは必要で、問いかけの上「言い訳はいらない」と選ばれることが重要じゃないかな、と考えます。


そういう意味では、ニュータイプとはガンダム全体のリアリティと釣り合いを取るために色々考えられる言い訳パターンの一つでしかありません。問題となっているのは「アムロの不自然な成長と戦闘能力をどうするか?」であって、ニュータイプ能力はその解決案の1つに過ぎないのですから。

しかし実際には、ファーストガンダムとニュータイプは切り離すことができない関係にありますね。

ニュータイプで複数の問題を解決しよう


宮本茂「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」


とは、ポール・マッカートニーにもサインをしたという任天堂のえらい人の言ですが、私はどうやら、1つのアイデアで複数の問題を解決するのが大好きのようです。特に、実利的な解決が、物語にもプラスにもなる、というアイデアが大好物です。

※過去、記事に書いたところでいうと、押井守「イノセンス」におけるバトーのジャケット問題、がそれに当たります。

ニュータイプも単なる言い訳にとどまらず、これ一つで複数の問題を解決するものとして使用されています。それがテーマ的なまとめ方にまで影響しているため、他のものでは代替の効かないものになっていると思われます。
というわけで、ニュータイプがガンダム中でどう利用されているかをあげてみましょう。

ニュータイプの導入効果


【言い訳としての効果】

・アムロの不自然な成長の説明(言い訳)
・人知を越えた超絶戦闘アクション理由


この辺りは紹介済み。ただ、これだけだと単なる戦闘(とその演出)に関する設定。
ゲームで例えるなら、RPGの戦闘と成長システム部分だけあるようなもの。
これが、物語面にも効果的に働いてこそ、複数の問題を1度に処理したことになり、作品に1本の軸が通ることになります。

【アニメ演出上の道具としての効果】

・不可能な相手とのコミュニケーション
・不可能な状況でのコミュニケーション、情報伝達


富野アニメではロボットアニメでは成立しづらいコミュニケーション機会を何とか作ろうとしているのが大きな特徴です。宇宙で全員、鉄のハコに乗って撃ち合っているだけでは、ドラマが全然起きないですからね。
ニュータイプ能力は、それをサポートできるものになっています。
戦場の流れを敏感に感じ取ったり、人の生死が分かったり、守るべき人達の危機を察知しアドバイスを与えたり、死者と会話したり、真正面からやろうとすると描写や段取りが色々面倒なところをニュータイプ能力で全て吹っ飛ばすことができます。
距離や、敵味方、人の生死、モビルスーツの装甲、それこそミノフスキー粒子の濃さも、ニュータイプの感応力には関係ないのですから。
(まあ、ここの部分は、これ以降、便利に使われすぎなこともありますが、今日はとにかくほめときましょう)

【テーマ的な効果】

・人類進化テーマ(SF的テーマ、問題提起)
・人は分かりえるかも知れない。でも人はどこまでいっても人なのよね。


ニュータイプのアムロとララァは、戦場でシャアが嫉妬するほどの深い心の交流を果たします。
しかし一年戦争時点で、いや、ガンダム全体を通しても最高峰のニュータイプであるララァですら、アムロへ完全に傾くのを踏みとどまりました(彼女はシャアをかばって戦死します)。しかし、その理由が、

「あなたが来るのが遅すぎたのよ」=(シャアと)先に出会ってしまったから

今出会ったニュータイプのあなたより、先に出会って救ってくれたシャアを愛したいから(でも、アムロとの方が深く感じあえる、分かり合えることはララァ本人が一番分かっている)

というのは、なんて業が深いのでしょう。
ニュータイプになったからといって自由になるわけでも何でもない。とことん人間であることから逃れられない。
「ニュータイプは人間的には不幸な人が多い」とは劇中でもいわれますが、それは不幸にもなりますよ。悩み事が単純に増えるだけですもん。

それにしても、この時のアムロの絶望と、シャアの嫉妬は想像を絶しますね。
だってシャアは、ビームきらめく戦場の真っ只中で、自分の女をアムロに寝取られたわけですから。
なんて官能的な関係なんでしょう!

すなわち"純白のモビルスーツ、スカートつきの戦場、最高の女(ララァ)と、ビットでドン・ペリニヨン"ということですね。
こんな浜田省吾のような体験をすれば、そりゃ何もかもみんな爆破したくなるよ。

そして何がすごいって、このドラマが展開された時、舞台は戦場であり、ララァはエルメスの、アムロはガンダムのコクピットから一歩も降りていないこと。「戦場で戦いながら、ロボットからも降りずに、こんなドラマをやってやったぞ!」という力強い手ごたえを感じますね。
スポンサーの注文に全て応じた上で(ここ重要)、こんなエロいドラマをロボットアニメに入れ込んだ富野監督は本当にすごいと思いますが、この一連のシーンを描くにあたって、ニュータイプ能力が最大限に活用されたのは言うまでもないでしょう。

余談ですが、こうして見るとニュータイプのお話ってやっぱりアムロとララァで終わっている気がしますね。ニュータイプって人類の革新かも知れないけど、やっぱりどうしようもなく人間だよねー、そのジレンマが物語的には一番魅力的で面白いよねー、ってことなので。
だからあとはバリエーション。もちろんそれでいい。バリエーションは作品を豊かにしてくれるから。
ニュータイプを突き詰めると、エヴァの「人類補完計画」になるか、もしくは森岡浩之のSF小説「星界シリーズ」のアーヴになるのかな。宇宙に適応した種族アーヴ(ニュータイプ)の中で、適応していない人間が1人だけ、という完全な逆転現象。

【ラストの落としどころとしての効果】

ニュータイプvsニュータイプである、ララァ戦が終わると、あとは1人残された孤独なニュータイプアムロが悟りきって戦う最終決戦(ア・バオア・クー)に向かいます。(ララァ戦後の、アムロのシャア越えについては、こちらのエントリーにまとめてみました。)
この最終決戦でも、ニュータイプはラストの落としどころというか、うまくまとめるためにも活用されます。

ニュータイプが活かされたガンダムのラスト

・ホワイトベースクルーのみんなへ、アムロからのメッセージが頭の中へ届けられます。サポートを受けてみな脱出。
・ホワイトベースクルー、ア・バオア・クーを脱出。ただアムロが来ない。
・ブライトやミライ、セイラ達、年長組がアムロを感じて、呼ぼうとするが分からない。
・その時、最も幼いクルーである子供たち(カツレツキッカ)が騒ぎ始める。
・アムロを誘導する子供たち。アムロはコアファイターで脱出成功。
・「まだ帰れるところがある」とみんなの元へ帰るアムロ


文句のつけようがないラストの流れ。
クルーの脱出と、アムロ自身の脱出にニュータイプ能力がうまく活用されています。

初見の記憶なんて幼すぎて思い出せないけど、クルーを誘導するシーンを見ながら、多分アムロが死ぬんじゃないかってドキドキしてたんじゃないかな。だって、アムロの肉体も映らないし、最後の贈り物というか、天のお告げみたいなんだもの。

実際、アムロも死の覚悟をするような状況だったんでしょうが、そこで大破したガンダムを見つける。最後の最後でコアブロック(変形合体、おもちゃの為の機構)を利用してコアファイターで脱出させるのがまたいい。

そして、おチビちゃんの誘導の下、脱出する。
分かり合える可能性をもったララァと死に別れ、それが原因で永遠に分かり合えないシャアとも別れ、残ったニュータイプは自分たった一人と思えた宇宙で、めぐりあった希望。
おチビちゃんをここまでひっぱって、最後の最後にこの役どころを任せるのは本当にうまいことまとめたなあ、と思います。

安彦さんがニュータイプの事について聞かれた際に「物語の落としどころとして使ったという意味ではうまいと思った」というようなことを言ってましたが、確かにもう純粋に、落としどころを決めて、まとめるというテクニックの上手さをとにかく感じます。

まとめ ニュータイプは?


最後にもう一度まとめますと、

(1)言い訳としてのニュータイプ(戦闘のための異能力)
(2)ロボットアニメ演出上の道具としてのニュータイプ
(3)テーマ、物語の落としどころとしてのニュータイプ


という3つの大きな役割がありますね。
割と(3)の意義で語られがちなんですが、(1)(2)の意義も大きいと思うので、3つまとめて考えておくと面白いんじゃないかな、ということです。

「ニュータイプは戦争の道具じゃない!」

いや、ニュータイプほどロボットアニメの戦争の道具としてすばらしい発明はないよ。戦争(ロボットアニメ)で使うために生まれた、ステキな戦争の道具だよ。

それを劇中では「戦争の道具じゃない」と言っておく所がいいですよね。物語上、テーマ的な立場では(1)、場合によっては(2)のニュータイプは否定しておくところがポイントでしょうか。



最後に


ニュータイプが万能に面白いと思ってるわけでもありませんが、ゼロからこの道具(ニュータイプ)を生んだのは、すばらしい発明といっても差し支えないと思っています。
ただ、生まれた道具のその後の取り扱いについてはやっぱり色々ありますね。
安彦さんも、ファーストでのニュータイプの使いどころは良かったと言いつつ、その後はエキセントリックすぎて僕にはついていけないよ、というような事を言っていたような。私はこういうスタンスなので、その気持ちはちょっと分かるような気がします。

私はターンAガンダムとキングゲイナー大好きなのですが、ガンダムからニュータイプが必要なくなり、またそれなしでも面白いロボットアニメを富野監督自身が作ってくれているので、ニュータイプは天寿を全うしたのかな、とも感じますね。

※富野作品の記事を色々書く前に、自己紹介も兼ねて書いてみたのですが、とんでもなく長くなってしまいました。すみません。最後まで読んでいただいた方ありがとうございました。

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