めっきりと寒く、坂本冬美風に言うなら、寒か寒か、心も体も、寒か、な今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

しかし南極の寒さときたら、こんなものではないのです(行ったことも、行く気もないけれど)。

ワタシハ、魔犬タロ・ジロ。コンゴトモヨロシク……。(ブフ系に強い仲魔)


TBS開局60周年記念番組 日曜劇場『南極大陸』。回ごとに見たり見なかったり、部分的に見たり。

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先日久しぶりに見てみると、次週が最終回らしい。第三次南極観測隊が出発し、南極に置き去りにされた犬たちを木村拓哉が迎えにいくようだ。
ということは最終回のクライマックスは、感動の名場面である犬たちとの再会シーンですね。

生き残ったタロ、ジロを見つけたキムタクは、涙ぐみながら、大きな声で犬たちの名を叫ぶ。
タロ、ジロは、キムタクの元へ一目散に駆けていき、抱きしめるために両手を大きく広げたキムタクの胸に飛び込んで、その喉笛を噛み千切る。
飢えと、過酷な環境と、死んだ仲間たちの怨念が彼らを魔犬にした。
二頭の魔犬は倒れたキムタクをそのままに、観測船に乗り込み、乗員をひとりづつ牙にかけていく。

タロ、ジロが観測船のブリッジを強襲し、乗員が逃げ惑った際に、はずみで船が動き出してしまう。
瀕死の中、何とか立ち上がったキムタクが見たのは、自分を置いて南極を去っていこうとする観測船の姿だった。
甲板には返り血を浴びて赤い魔犬と化したタロ・ジロが悠然とキムタクを見下ろしている。
「ちょっ、まてよ!」またない。船はそのまま南極大陸を離れていく。

この後、キムタクの代わりに日本へ戻ったタロ、ジロが、綾瀬はるかと結婚。
翌年、懐妊した綾瀬はるかが割腹し、八つの玉がはじけ飛ぶ。
その玉を持って生まれたひとりが堺雅人であり、彼はのちに料理人として南極に赴く。
そこには彼を含め8名の越冬隊員がおり、全員がそれぞれ別の文字が刻まれた玉を持つ不思議な因縁で結ばれていたのだった……。


という感じで、TVドラマ『南極大陸』映画『南極料理人』を結ぶ、『南極里見八犬伝』をつくればいいと思うよ。

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『南極料理人』に登場する越冬隊員の人数は、
ぴったり8人八犬士。

『南極料理人』主演の堺雅人は『南極大陸』にも出演しており、キムタクの大学時代の同期にして、南極大蔵省事務補佐官として南極に同行しています。
帰国後、再び観測隊への参加を希望するがかなわないという役どころですので、ハ玉の持ち主のひとりとして転生し、念願である南極の地を踏んだということにしましょう。
これにより堺雅人は、けっきょく南極料理人として夢大陸でアドベンチャーする運命だということが『南極里見八犬伝』で確定的に明らかになったわけです。

今、『南極大陸』のWikipediaを見たら、キムタクの部下?で犬担当だった山本裕典の役名が「犬塚夏男」らしい。彼も転生体かも知れない。

八つの玉に刻まれた文字は、「日」「曜」「劇」「場」「南」「極」「大」「陸」かなと思ってましたけど、「木」「村」「拓」「哉」「S」「M」「A」「P」でもいいかも知れない。
もしくは、「ま」「ま」「満」「足」「一」「本」「満」「足」の八文字にすれば、うまいandでかいandヘルシーで、南極の非常食としてタロ・ジロも満足してくれると思います。仮に満足できずに噛み千切られるとしても草君は「いいひと」なので大丈夫です。

『南極里見八犬伝』によって『南極大陸』が『南極料理人』につながっていくと仮定したら、人はすべてを許せるんじゃないだろうか?許せない?そんなことよりラーメンだ?まあ許せないなら仕方ないので、のびないうちにラーメン食べましょう。

ともかく日曜劇場『南極大陸』感動の最終回は、明日12月18日放送です。ぜひともお見逃しなく!
私は見るかどうか、その日の気分次第だと思いますが、ぜひともお見逃しなく!
ちなみに因果応報の木村先生は、タロ、ジロだからネックローリング程度で済みましたけど、もしリキが生きていたら「絶・天狼抜刀牙」で首が飛んでいます。

最大104人の大規模同時対戦『機動戦士ガンダムオンライン』


モビルスーツのパイロットになって戦うPCオンラインゲーム『機動戦士ガンダムオンライン』が発表になりました。



ガンダムゲーム史上最大の同時対戦ゲームだそうですが、104人という人数が中途半端ですよね。
これは両軍2人ずつの戦術指揮に専念する、指揮官役を含むからのようです。つまり、

連邦(パイロット:50名+指揮官:2名)VS ジオン(パイロット:50名+指揮官:2名)
=104人対戦


ということになりますね。

戦闘レベルをプレイするパイロットだけでなく、戦術レベルをプレイする指揮官役が存在するのが興味深いところ。
こうなれば、あとは戦略レベルをプレイする政治家が存在すれば、私が昔妄想したイメージどおりのゲームに限りなく近くなってくれそうです。

【政治家】をプレイするガンダムゲームがどのようなものなのかは以下をご覧ください。

【政治家】ほど楽しいゲームはない<ガンダムオンラインゲームのアイデアメモ>

ぜひ、この『機動戦士ガンダムオンライン』と連携するモバイルゲームをリリースして欲しいな。
パイロットにはなりたくないが、1日1回モバイルゲームをチェックする程度でいいなら、一年戦争に介入したい。そしてみんなで楽しい民主主義して衆愚を極めたい。

メビウスの輪から抜け出す富野由悠季ゲーム


妄想ガンダムゲームといえば、「ガンダムゲーム」ではなく「富野由悠季ゲーム」があるとすれば、どんなものになるか記事を書いたことがあります。

メビウス(双方全滅)の輪から抜け出せなくて<「富野由悠季シミュレーションゲーム」>

このゲームのポイント

2つの勢力でおこなわれる戦争が舞台。だが、この戦争の終着点は「双方全滅」と決められている。
それを何度も何度も工夫しながらやり直して、全滅の輪廻から逃れるのがゲーム目的。

これを、ルート分岐型のコマンド選択アドベンチャーではなく、AIキャラ(富野AI搭載)を使ったアドベンチャー、シミュレーションゲームにする。(「ガンパレードマーチ」、PS2「魔法先生ネギま!」のイメージ)

自分以外は、AIキャラが勝手に行動するので、AIキャラ同士で、好き合う真似ごとや、傷を舐めあう道化芝居が始まったりする。
AIキャラが勝手に命令違反でロボットで出撃したり、そのまま敵に捕まって洗脳されて帰ってきたりする。
さらに和平会談がAIキャラのせいでダメになったり、勝手に暗殺をしたりされたりするかも知れない。
要するに主人公が「戦争ダメ!」と思っても、各キャラが個別のエゴで勝手に動くので、ちっとも戦争が終わらない。


要は、富野宇宙を舞台にした箱庭AI遊びですね。ガンダムパレードマーチ。

この記事を書いた後、富野ゲームらしさをAIいじり遊びで表現するために「因縁システム」の要素を入れると面白いかも、と考えていたのを先日思い出したので、書いておきましょう。

「因縁システム」とは?


富野AIゲームは、AIキャラとの人間関係で戯れるゲームですが、その人間関係の要素として「因縁」という概念を取り入れる
「因縁」はプレイヤー、AI問わず、すべてのキャラクター間で発生する。

例えば、プレイヤーがある敵キャラクターを殺したとする。
すると、殺した敵キャラクターに関わりの深いキャラにプレイヤーとの「因縁」がつく。
この場合、プレイヤーに「親しい人、大事な人を殺された」という因縁になる。

この「因縁」がついたキャラは、プレイヤーやまたはプレイヤーに関わりの深いキャラを殺そうと、戦場で執拗に追い回し始める。
つまり復讐を行動原理にするキャラクターに変異する。

もし、それで味方の誰かが殺されると、今度は味方側のキャラクターに敵への「因縁」がつく。

具体例を上げれば、お互いの大事な人を最後まで殺しあったカミーユとジェリドであり、父を殺されたことを行動原理にして戦うソシエお嬢さんだったりする。
殺したり、殺されたりの「憎しみの連鎖」が深まったり、より多くの人物間に広がっていく。

つまり「因縁」はAIキャラクターの行動原理を規定し、またそれを他のキャラクター間に影響を広げていくシステムといえる。

さまざまな因縁パターン


分かりやすいので復讐の連鎖を例に出したが、殺す殺さないだけでなく、いくつかのパターンを「因縁」で表現してみよう。

恋人関係の因縁


例えば、恋人関係になったキャラクター同士が別れた場合に、それぞれのキャラに、元カレ、元カノとしての「因縁」がつく。
因縁がついたキャラに対してどう反応するのか、というのはキャラクターごとの個性の問題としてもいいが、ハマーンとシャアの関係などはこの元恋人という「因縁」で処理する。
ゲームだからと、やりたい放題で暴れまわると、さまざまな「因縁」がくっついてきて、人間関係がえらいことになってしまうかも知れない。

落ちぶれの因縁


富野アニメには、ライバルを中心に落ちぶれるキャラクターがよく出てくる。バーン・バニングス(黒騎士)や、ギジェが代表例だろうか。
敗北による屈辱であったり、作戦失敗の責任を取らされた左遷や降格であったり、もっと大きく、うまくいかないことへの苛立ちや絶望かも知れない。
彼らを落ちぶれさせた「因縁」の何かに執着するキャラクターになるだろう。その意味では「因縁」の対象はキャラクターに限らない方が面白いかも知れない。

肉親の因縁


親子、兄弟、姉妹などは、ただそれだけなら単なる人間関係のひとつに過ぎないが、敵味方に分かれたときに「因縁」化するとか。
兄弟や父、子を殺すことに執着したり、逆に手加減が発生したり。
具体例でいえば、親子ならばルーザ・ルフトとリムル・ルフト。兄弟ならば、シャアとセイラ、ハルルとカララ、ウルルとサララなど。
ちなみにウルルとサララはダイキンエアコンです。湿度と乾燥は切っても切れぬ因縁といっても過言ではない。ムーン・ムーンの人はサラサで、石田ひかりはサラダひかりです。

このゲームは全滅リプレイすることが前提のゲームなので、これらの中でも深い因縁は転生(リプレイ)した先でも初期ステータスとしてくっついてくることにしてもいい。前世からの因縁というやつですね。

あとは「因縁」同士のコンフリクトがポイントになるでしょうね。
肉親だけど、恋人を殺した憎むべき敵とか。命の恩人だけど、父の仇とか。2つ以上の因縁の衝突。
「因縁」と「因縁」が衝突して、疑似葛藤をつくるような形。その上でAIキャラがどういう動きをするのか、というのがAIドラマとして現れてくれば面白いかな。
所詮、表に出てくるものは処理結果でしかないんだろうけれど、それに影響を及ぼす「因縁」自体はゲーム上存在していると。

目の前で因縁は生まれ、連鎖していく


プレイヤーは、2つの勢力間の戦争を終わらせようと奔走するけれど、戦争の理由などゲームの場合、戦い合っていることを説明するための設定でしかないので、実際にゲーム中で繰り広げられるゲームシステム上では「因縁」ということで処理してしまうのもひとつの手。

各個人を対象にしたものだけでなく、何か概念的(名誉・出世・自由など)なものや、勢力・組織への「因縁」もあってもいいかも知れない(「ザビ家」への因縁とか)
戦略的な設定があった上で、AI感情的には「そちらが先に手を出した」「そちらがやり返した」だけで戦争を続けるとかね。

戦争が続いている本当の(ゲーム上)の理由が、敵のAI総司令がもつ個人的な「因縁」である「娘(妹)が敵に寝取られた」と「優秀な軍人の娘(姉)が、男じゃなかった」みたいなことになってたらいいんじゃないかな。リアルな戦争からはかけ離れるが、それよりもドラマが欲しい。AIキャラクターに損得を越えた行動原理が欲しい。

そして、プレイヤーはその因縁を解き放つための存在として何かゲーム上の仕組みがいる。「俺は人は殺さない。その因縁を殺す」ができればいいのだけど、いいものが思いついていない。
(全滅輪廻から解脱しなくてよいゲームであれば、特に何もいらないのだけど。)

まあ全滅回避はゲーム上のお題目でしかないので、敵に殺された仲間の仇を討って、今度は敵に恨まれて、また殺して、また殺されて、というどうしようもない「因縁」の憎しみの連鎖もしたい。
アムロも、イセリナだの、ハモンだの、シャアだの色々やられたあれ。

ゲームに限らず、過去のトラウマがあって現在の人格になったキャラクターをカウンセリングするというパターンの物語が多いですが、個人的にはあまり好みではありません。
現在進行形で、自分の目の前でトラウマが生まれるドラマの方が圧倒的に好きです。それがプレイヤーには制御しきれないAI世界の中で生まれるといいんですけどね。

因縁と叔父貴のグランド・セフト・オート


「因縁」システムについては『グランド・セフト・オート(GTA)』で導入するのが手っ取り早いので、マフィアもので使うのもいいですね。
『GTA』シリーズは、アメリカの架空都市を舞台に、車を盗んでイカした(イカれた?)チンピラライフを満喫する自由度の高いゲーム。

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私は『GTA3』が出た頃にこのゲームの存在を知りました。
実際にプレイしたのも『GTA3』だけですし、しかもアクションが苦手でクリアできず途中で断念したぐらいなので、雰囲気が分かる程度ですが、さまざまな面で非常に興味深かった。

調べてみると作品によって、ミッションの進め方で街にあるいくつかのギャング勢力に信頼されたり、恨まれたりするシステムがあるようですし、ギャング抗争として縄張り争いをするシステムもあるようなので、要素としては近く「因縁」システムとの相性もよさそうです。

大恩ある「叔父貴」こと若頭との、プラスの「因縁」とか、その若頭をよそのギャングに殺された「因縁」とか、派手に暴れまわったせいで特定のマフィアの構成員全員に報復の「因縁」がついて、見つかる度に襲われたり、任侠物的に「因縁」システムを処理した方が、かえってシンプルで分かりやすいのかも知れません。

ひとつの街にいくつかのマフィアが同居しながら、縄張り争いしたり、同盟組んだり、暗殺したり、報復したりするのはいいですね。
若頭であるプレイヤーが報復は絶対するなと命じていたのに、部下のマサ(AIキャラ)が勝手に敵ギャングの幹部に鉛玉撃ちこんだりして、泥沼の抗争になるのは楽しそうです。

箱庭AIゲームは要するにAIいじり遊びなので、いじるための何か面白いルールがあればいいんですよね。
浦沢直樹『MONSTER』のヨハンのように、プレイヤーがAIキャラ同士の憎しみの「因縁」を煽ることで、何十人もの人間が殺しあうのを、 ただ眺めていることも可能かも知れません。



以上、色々考えてきましたが、「因縁」システムはあくまで概念というかコンセプトの提示に過ぎないので、現実的に考えてどうなのか、というのはあまり考えていません。
ただ「富野由悠季」ゲームというのを考える上で、運命とエゴに振り回される人間を「因縁」でまとめるというのは、面白そうな方法のひとつではないかな、と考えています。

以前の記事でいただいた皆さんのリアクションや、今回の「因縁」要素などを含めて、またいつか「富野由悠季ゲーム2」(影も形もない妄想ゲームの続編)の記事が書けたらいいですね。
http://www.enterbrain.co.jp/game_site/moeken/
↑これのこと。では全然なくて。

この前の「新撰組!」の記事で書こうと思ってたけど、文脈的に入れられなかった事があったのを思い出したので、それだけ忘れないうちに書いておこう。

「新撰組!」登場人物間の(史実に無い)交流の多さに関してです。
これが「ガンダム」(というか富野演出)との関連を感じて。

■史実にない接触

どういうことかというと、これまた「新撰組!」が歴史に詳しい人々に不興を買った原因の一つなのですが「会ってないはずの人同士が会ってしゃべったりすること」です。

「新撰組!」では、近藤勇が、桂小五郎や坂本龍馬と昔から知り合いで、さまざまな交流をしたり、影響を受けたりしてました。

これは歴史上ではもちろん無いことで、大変リアリティに欠けることはなはだしいわけです。史実を良く知っている人にとっては耐えられない改変なんだろうと思います。

■これって何かに似てないか?

これは、とても興味深いと思いました。
三谷さんも歴史には詳しいので当然あえて、こういうドラマ展開にしたのでしょう。とすると、あえて史実をはずした、その意図はなんでしょうか?

実は、この件で僕が連想してたのは「ガンダム」の富野由悠季監督が言っていた作劇論なんですよね。それはこれ↓

「とにかく強引でもいいから、敵と味方を直接会わせるんだよ!」

■お肌のふれあい回線

どこに書いてあったのを読んだのかソースを忘れたので、引用でなく、あくまで大意ですが、そんな感じのことです。

「ガンダム」なんて、宇宙挟んで戦争してるわけですから、敵味方の人間同士の接触なんて、普通に考えたらほぼ皆無。
とはいえ敵側のドラマと味方側のドラマが交互に進むだけでは単調なので、戦場で敵と味方がぶつかってドラマをおこすわけです。
さらに言えば、モビルスーツに乗って戦いながらしゃべくりあうより、生身の人間同士が接触する方がなおいい。

これを知った上で「ガンダム」を見ると、この作劇論を実践しているのが良く分かって面白いですよ。

・いきなりキャノピー開けて、顔見せながらしゃべりあう。
・とりあえずコクピットに複数人いれておけ!
・大事なモビルスーツ下りて、生身でディベート大会(Zの最後とか)。
・敵につかまり捕虜になったりなられたり。
・生身で敵の基地に潜入。生き別れの妹に接近遭遇。
・コロニーで偶然色んな人にばったり。シャアやララァに会ったり。
・酒場でもばったり。アムロくん、おごらせてもらうよ。
・クエス!ノーマルスーツも無しで!

とか色々いろいろ。ガンダムっ子は色んな場面を思い出していただきたい。
何とか顔を見せ合っての接触を増やそう増やそうとしてるのが分かって大変面白い。
ファーストガンダムでのアムロとシャアの最終対決も、モビルスーツ戦ではなく、生身でのフェンシングでしたね。

もちろん強引と思えるものもある。でも、そこには「ストイックに戦争してて、どうすんだよ!ドラマつくってんだよ!ドラマをつくるにはどうしたらいい?(ライラ・ミラ・ライラ)」という意図がある。私はそれに賛成するな。
ロボットプロレスと呼ばれていたジャンルで、何とかドラマを作ろうとがんばってきた先駆者の苦労がしのばれます。

まあ戦争に勝つには相手にしゃべりかけずに、黙ってビームライフル撃っておけばいいんでしょうけどね。でも私達が見ているのは、戦争の中継映像ではなく、ドラマですから。

■新撰組での接触編と発動編

で、「新撰組!」に戻ります。
史実にない人物同士の交流を見て、思い出したのが、この富野式のドラマ作りでした。

混迷を極める幕末には色んな立場の人間がいた。
彼らはそれぞれ「日本のために!」とがんばっていたけど、身分も藩も思想も方法論も違っていて、とにかくややこやしい。

それでいて、みんなが会って、自分の思想や考えを戦わせて、歴史を進めたわけでもない。

じゃあ歴史にはないけど、この人達を会わせて、お互いの考えをしゃべらせてみよう。議論させたりケンカさせたりしよう。
それでお互いの立場がはっきりする。キャラも立つ。

という感じでしょうか。
歴史上のいわゆる人物像を、当人同士の直接イベントで表現しようということですね。
選挙の立候補者同士がする公開討論会みたいなもんだと思ってもいいかも知れない。あれも、それぞれの立候補者の人となりや公約を良く知らない者にとっては、立候補者を知るのにもってこいのイベントですよね。同じ質問に対する回答や姿勢が、いいキャラクターの比較になる。

「新撰組!」における、史実を無視した人物同士の交流は、要するにはこのような意図だったろうと思う。
もちろんこれは、史実を知らない人であるほど効果的であろうし、逆に史実を全て心得ている人達にとっては、特に不必要であったろう。だから歴史ファンに嫌われるのも良く分かる。

でも大抵の人にとって、幕末は複雑でめんどくさい。
戦国ものみたいに戦争の結果で分かりやすく歴史が進むわけではないし、同じ人物でも所属や思想も変わったりする。
それを出来る限り分かりやすく視聴者に伝えようとしたことは素直にえらいと僕は思う。多分、歴代の大河でもここまで配慮したものはないのかも知れない。

■ここからはおまけというか蛇足

「でも、そういうドラマ作りは龍馬とかでやれば?」
とか、思ってしまったのも確かなんだよね。マンガ「お~い龍馬」もかなりこういう事やってるけど、近藤勇より龍馬の方がキャラクター的に自然なんだよね。題材の新撰組はNHKが決めたんだろうし、やむをえないかなあ。
ただ三谷さん視点(しばしば現代人的視点でもあるが)は龍馬だったよね。宮崎駿にとってのムスカみたいなもんで。

あと三谷さんが舞台出身というのもあるのかなあ。
舞台を見た経験がほとんどないのに言うのもなんだけど、舞台はシーンをテレビドラマほど頻繁に変えられるわけでも無いし、物理的に遠く離れた敵側→味方側のカットバックができないし。
となると、一つのシーンで処理するのが舞台の難しさ、面白さであるわけで、そういうのも影響してるのかな、とか思った。

薩長同盟のとことか、いかにも喜劇を書く人ならではの「実際にあるわけないけど面白い」というシーンがいっぱい見れて楽しかったけどね。
今年の大河ドラマ「新撰組!」です。
今日、NHKで総集編がやってました。

私は大体全部観ました。これだけ大河ドラマを観たのは竹中直人の「秀吉」以来です。

視聴率が大変悪かったのですが、三谷幸喜のドラマは「古畑」以外はたいして良くないので、三谷作品にしては数字がいいと言ってもいいんじゃなかろうか。

数字も悪かったが、周りにも見てない人が多かった。
もったいないと思う。

1年間楽しませてもらったので、面白かった所をいくつかあげてみたい。

このドラマを4つに分けると、こんな感じになる。

1)多摩編(江戸青春編)
2)京都編(芹沢鴨暗殺)
3)新撰組編(池田屋事件と暗殺粛正の嵐)
4)近藤斬首(新撰組の崩壊)


■はじめに

まず全体を言うならば、良く出来ていた。
そりゃ満点ではないけど、1年間やるドラマを減点法で話すのはおかしいので。それより1年を通して三谷さんの意図どおりの事は出来ていたと思うので、そこを評価したい。
個人的に一番面白かったのは、2)と3)のとこ。

近藤勇を主人公に据えた場合の問題となるのが、
その結末だが、これもうまい落としどころを見つけてある(口述します)。

■怒涛の1話一殺

3)のところにあたり、1話につき、一人ずつ新撰組の仲間が死んでいく(その間に、坂本龍馬も死んでいく)。そしてそれが、局長暗殺(未遂)まで何話も続くのだ。

本編で誰かが死に、次回予告でまた違う誰かが死ぬのを知る。
これを連続で毎週毎週見せられるシリーズ構成とドラマ自体のテンションがすばらしかった。
そしてこれが終わったとき、新撰組から大事な仲間と人材がごっそりといなくなり、嫌でもその後の崩壊を感じすにはいられないのだ。

見ていた僕のテンションが一番高かったのもここだった。
物語的には、その後の薩長との戦争より、ここでの死人の方が圧倒的に多い。それが新撰組の異常性を物語っていいよね。

■近藤斬首の落としどころ

近藤勇は、官軍に投降して斬首という幕末ものとしては非常に中途半端なところで終わってしまう。

新撰組もののデフォルトとなっている司馬遼太郎「燃えよ剣」が、新撰組をテーマに置きながら、主人公を局長近藤でなく副長土方に置いたのは、当たり前と言える。
土方は局長として分かりづらい近藤と対照的に、副長として組織の実務を担当し、新撰組にとってのア・バオア・クーこと五稜郭で最後まで戦う。どう考えても土方から書いた方が面白くて、しかも最後まで書ける。

しかし「新撰組!」の主人公はあくまで近藤勇なので、近藤斬首が最終回となる。さて、どう落とすのか。

これは結論から言えば「近藤に薩長官軍の徳川に対する恨みを全て背負って死んでもらう」というものだった。
平民の出ながら、徳川でもっとも武士らしい武士は、武士らしく切腹することも許されず、武士の代表として新政府軍に殺されたわけだ。

実際の歴史上ではもちろん成り行きが重なっての斬首だろうが、ドラマの落としどころとしては悪くない。
この部分はもちろん創作にすぎないだろうが、大事なのは1年もやってきたドラマの結末をきれいにつけることなので、そういう意味では僕はかなり評価している。

ガンダムの「ニュータイプ」という概念があくまでガンダムという物語を落とすための落としどころとして作られたことを思い出すね。

■歴史と創作

多分、このドラマは深く歴史や新撰組を知っている人には受けが悪いだろうと思う。歴史に詳しければ詳しいほど受け入れがたい創作も色々あると思う。

僕は完全に、ドラマ>歴史の人なので、ドラマ的に面白いかどうかしか興味がないです。

ただこれまでの大河ファンや、時代劇を良く知っている人にも受けは悪かったみたい。それはメインキャストの年齢層の若さや現代風のくだけた会話劇などがそうなのかも知れない。同世代の人たちが集まってるので学園ドラマみたいな部分もあったし。

でもキャストは、新撰組の実年齢に今までで最も近いキャストだし。脚本が三谷さんの時点で、コメディ要素が多いことや、くだけた会話が多いことも、始まる前から分かってたわけだし。

それにこのキャスティングにこめられた意図を受け取ったら、楽しめることは請け合いだと思うんだけどね。
今回の新撰組に対する僕の解釈はこうだ。

■株式会社「新選組」

新撰組をベンチャー企業にでも例えると分かりやすいと思うのだ。
幕末(ITバブルとか?)の混乱期に乗じて、平民ながら組織をつくり、会津藩からの出資を受け会社をつくった。

経営者が二人いて(芹沢と近藤)対立したので、芹沢を経営陣から追放。芹沢派を一掃した。社名を「新選組」と改めた。
社長は近藤。副社長は土方だ。

その後、経営はうまく行くが、内部での対立が激しく、実務をとりしきる土方は組織を守るため、よそものや創業メンバーや次々を追放していく。この辺りで「あれ?会社創業メンバー(人)を捨てて会社(組織)をとるんだ。ふーん、そういう会社になっちゃったんだ」となる。

で、ITバブルがはじけ、「新選組」という会社もはじける。

近藤は、経営責任をとり斬首。
土方はまだ終わっちゃいねえぜ!と言いながら次々と会社つくっていくタイプか。しまいには東南アジアで会社つくったりしてるかも知れない。ほら、この人は目的でなく手段の人なんで、どういう会社にしようとか社会に貢献する企業にとかなくて、売り物はどうでもいいから、俺に任せろ。売って会社をでかくしてやる。っていう人なんで目的なんてどうでもいいんだよね。

そんな感じか。
あー、ベンチャー企業に良くある風景のような気がしてきた(笑)。

実際こんなもんだと思うよ。近藤も土方もベンチャー企業として一旗あげたかったわけで、極端な話、長州に生まれてたら奇兵隊みたいなのつくって一旗あげたんだろうし。
一旗あげることが最優先事項で、それが江戸近郊に生まれた人間にとっては、旗本、大名になっただけ。

で、キャストが若くて世代が揃っているのも、こう考えると理解できますよね。こういうベンチャー精神を持った人間の集まりが幅広い世代の組織になるわけがない。
必然的に自分の腕に自信を持った若者の集まりになる。

同じ志を抱いた同志集団でしばらく続くが、会社の発展と共に上下関係と役割分担が明確となり、対立し、崩壊する。トップ近藤も仲間と同世代であり、これを押さえることは出来ない。

でもね、組織としては崩壊するんだけど、うまくいってるうちは楽しくて仕方ないんだよね。同じ志を持った同世代との仲間と過ごすというのはね。学園祭準備みたいなもんでね。「新選組!」でも、学校のような同世代集団として楽しい場面が数多くあった。これこそが新選組の魅力の一つだろう。

■まとめ

「若者がベンチャー企業つくって、最後に倒産した。でもその中で若者達はとても輝いてバカをやっていた。でも絶対楽しかったに違いない」
ということに尽きるのではないか。

だから「新撰組!」の若手キャストにはドラマ的な必然があったし、1年のドラマでそれは表現されていたと思う。
「せめてキャストを信頼できる俳優に」ということになると年齢層が上がるが、それは総合的な演技力は上がっても、代わりに何かを失うだけだ。
高校生が出る青春映画のキャストを「演技力のために30~40代中心」にする人はいないでしょう。だって「青春映画」なんだから。

まあこの辺りは、ドラマを見ての好みというより、制作者のアイデアとコンセプトとその達成をほめてるだけなんで、全然ドラマの評価になってないと思われる方もいるかも知れません。でも僕はこの部分だけでも評価してしまうんですよね。

あと村上龍「愛と幻想のファシズム」と関連づけても面白そうなのだが、やめておく。

以上のようなことを踏まえて見ると、満点ではないが、とっても楽しいドラマのはずなので、ぜひ機会があれば見てみることをおすすめしたい。

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