前記事『シン・ウルトラマン』同様、Twitterでの感想ツイートをベースに、簡単に記事にまとめておくことにします。

映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』公式サイト
私はもちろんドラゴンボールのマンガを読み、TVアニメを見てきましたが、劇場でドラゴンボール映画をこれまで見たことがありませんでした。TVで放送してるドラゴンボール映画も部分的に見たものはあっても、頭から最後まで見たものはひとつもありません。
それなのに今回はなぜ?と言えば、TwitterのTLで信用している人たちが『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を楽しそうに話していたのがひとつ。そこで、ピッコロと孫悟飯が中心になっていることを知って興味をもったのがひとつ。
あとひとつは、最寄りの映画館でチケット買う寸前まで『ソー:ラブ&サンダー』とどちらにするか迷いつつ、窓口のお姉さんになぜか「ドラゴンボール大人1枚」と伝えたから。
飲食店でA、Bどちらのメニューかまだ迷ってるのにあえて店員を呼び、それを契機として何となくで決断する感じと似ている。(ありますよね?)
土壇場のアドリブ決断で見た、初めてのドラゴンボール映画。大変楽しかったです。
なので、いわゆるガチ勢では全くありません。
ドラゴンボール映画の基準が何もないので、『スーパーヒーロー』がそれらと比べてどうだったのかは分かりません。
それでも初めてのドラゴンボール映画は楽しかったという話です。
※ネタバレしまくっています。未見の方はご注意ください。
主役は、ピッコロと悟飯の超人師弟コンビ
未見の方も、この公開後PVを見ると、なんとなく映画の雰囲気は伝わるかと思います。
映画全体をレビューするつもりは最初から無いですが、一応、公式サイトのイントロダクション・ストーリーを引用。
STORY
かつて悟空により壊滅した悪の組織「レッドリボン軍」。
だがその意思は生きていた!
復活した彼らは、新たな人造人間「ガンマ1号&ガンマ2号」を誕生させ、復讐へと動き始める。
不穏な動きをいち早く察知したピッコロはレッドリボン軍基地へと潜入するが、そこでまさかの”最凶兵器”の存在を知るのだった……!
パンをさらわれ基地へとおびき出された悟飯も参戦し、かつてない超絶バトルが始まる!
果たして死闘の行方は!? そして、地球の運命は!?
実際にピッコロと悟飯の超人師弟コンビが主役といってよく、孫悟空とベジータは登場こそすれ地球の危機を救いません。
ピッコロと悟飯だけで最後まできっちり行くのはいいですね。それを見に来たので。
この映画での孫悟空は、ビルスの星にてベジータ、ブロリーと共に修業しています。(『ドラゴンボールZ 神と神』も『ドラゴンボール超 ブロリー』も見てないのでWikipediaを参照した)
私はもう終盤まで、それこそデウス・エクス・マキナ的にあの2人(悟空とベジータ)が来てしまうんじゃないかと、そっちにハラハラしながら見ていましたよ。
瞬間移動があるから、物理的な制約に関係なく、瞬間的に登場できるしね。
テレポート仕掛けのサイヤ人は。
ピッコロが悟飯の娘パンに修行をつけたり、ビーデルに頼まれて幼稚園に迎えにいったり、悟飯一家にとって頼れるおじいちゃんになっており、こうした前半の日常のわちゃわちゃと、レッドリボン軍が登場してからのピッコロ潜入大作戦などがやはりこの映画の楽しみどころ。
ただ、キャラクターが強すぎて本質的な危機に陥らない。
スパイ潜入で仮に見つかったとしても、レッドリボン軍の人間兵士相手に、逃げるにも暴れるにも特に問題はない。
比肩する戦闘力をもつキャラクターで無いとどうにもならない。つまり戦闘をやるしかない。
もちろんドラゴンボールはスパイアクション映画ではないので、潜入はある種のコメディシーンでしかなく、バトルこそが見せ場なので戦闘をやるしかない。
よって中盤からは、戦闘を始めるしかないがゆえに、戦闘が始まってしまう。
ドラゴンボールにおける危機
レッドリボン軍基地で本格的に戦闘が始まったあとは、基本的にバトルが物語を進め、問題を解決する。
この「あとはバトルのお仕事です」となった時にドラゴンボールの映画を見に行ったのなら喜べばいいだけなんだろうけどね。
子供なんかは待ってました!という時間なわけで。戦闘シーンのクオリティも高かったです。
これは、ドラゴンボール映画に見に来ておいて「あとはバトルのお仕事です」に不満があるというわけではなく、ごく単純にここまで強いキャラクター揃いだと、映画のサイズで、ひとつの物語を作るにあたり、色々苦労があるだろうなと思ったのだった。
映画的な危機(物理的でも精神的でも)に陥らせるのが非常に難しいので、この映画でも単純にいえば「ものすごい強いやつが殴ってくる(だから戦闘が発生する)」にはなっている。
それで戦闘になって大ピンチになって逆転して勝つので問題はない。
だって『ドラゴンボール』の映画なんだから。
これに何か物理的な制限をかけようと工夫すると、悟空を子供に戻して瞬間移動もなくした『ドラゴンボールGT』みたいな処理が必要になってしまう。『GT』全部見てないけど、その設定にしたい気持ちはよく分かる。
ただ私はドラゴンボール映画を全く見ていないので知らないだけで、恐らくこれまで映画のためにさまざまな工夫やチャレンジがされてきたのだろうと想像します。
ちなみに「キャラクター強すぎる」問題を極端に推し進めていくと、『ワンパンマン』につながっていく気はする。
サイタマがワンパンチすれば戦闘は終わる。
だからこそ、ワンパンチするまでの他のヒーローたちの奮闘と葛藤こそがドラマの中心となる。
その意味では映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、『ワンパンマン』型のサイタマ以外のヒーローの活躍を見る物語。
最後まで悟空とベジータが現場にやって来ないので、いわゆるワンパンチが放たれることはないですが。
神龍の3つの願いを、何に、どう使うか?
この映画ではちゃんと、ドラゴンボールと願いを叶える神龍も登場します。
ブルマが集めたドラゴンボールを使って、ピッコロが呼び出し、自らのパワーアップに使用。
これにより、ピッコロが最後まで最前線で戦えるようになっています。
ちなみに残り2つの願いは、ブルマのささやかなアンチエイジングに使われますが、20代への若返りとかではなく、ちょっとしたエステ程度のささやかさ(しょうもなさ)なのが興味深かったですね。やるべきことをやってきたブルマとしては、別に年齢を重ねること自体は否定することではないということかな? いいですね。もちろん美容自体には気を遣うけれど。
この映画では、こうして神龍の3つの願いを決戦前に済ませてしまい、地球からビルスの星にいる悟空たちを呼び寄せる手段を事前に無くす処理がされているわけです(でも悟空側が一瞬で移動する手段はあるので、最後までハラハラはするわけです)。
例えば、この神龍を終盤まで温存しておくパターンはどうかな?
決戦中の土壇場で7つのドラゴンボールが揃い、神龍を呼び出して、ピッコロがパワーアップする。
叶える願いが3つもあるので逆に処理が難しいんだけど。
3つ目の願いで悟空を呼び寄せるか、それとも瀕死で絶体絶命の悟飯を全回復させるかの二択で、ピッコロが悟飯選ぶとか。瀕死のサイヤ人の復活=パワーアップイベントでもある。
もしくは逆に、悟飯がお父さんを呼ぶか、ピッコロ助けるかで、ピッコロ選ぶとか。
神龍での悟空召喚をピッコロ達がうっかり気づかず使い果たすことの必要性は理解するけど、ピッコロが主体的に悟空召喚を拒否し、悟飯の可能性にかけて、最後の3つ目の願いをあえて悟飯につぎ込む、とかどうかな?などと劇場で見ながら考えていた。
劇場鑑賞から何日も経過した現在は、ブルマのしょうもない願いで選択肢無くすほうがドラゴンボール世界としてはよいか、と思っている。
これは、単にコメディタッチの緩さの話だけでなく、今回の映画そのものの本質に関係してくるが、これは後述しよう。
何かのために魔貫光殺砲を使えるように
『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』では、大魔王でも神でもなく「ただのピッコロ」と本人が言うシーンが複数回ある。
それは本当にそうで、孫のようなパンの面倒を見るピッコロは、大魔王でもなく神でもない。
とはいえ悟飯一家の心配して、(彼らが生きる)地球の心配して、先回りにしてあれこれ手を打ってと、結局は神様のようなことをしているんだよね。
完全におはようからおやすみまで、暮らしを見つめるピッコロだが、見つめる暮らしは悟飯一家だけでなく、この星全体の暮らしになっている。悟飯一家が住む星だからなのか、神の一部がそうさせるのか、ピッコロ本人にも分からないだろう。
外敵から地球を守るための動機とやり方が、やはりサイヤ人連中とは根本的に違うように感じる。
そのピッコロが、生物学者になった悟飯のやりたい事(研究)を尊重してるのは、忙しいからと幼稚園へのお迎えを頼まれて結局引き受ける事でも分かるけれど、悟飯には研究ばかりでなく、何かあった時の為に鍛えておけよと忠告する。
実際にそのあとすぐにレッドリボン軍によって「世界の危機」が訪れるわけだから、さすがサボらずに魔貫光殺砲を開発した人。的確なアドバイス。
生粋の戦闘民族である悟空やベジータには何かあった時の為に鍛える、という発想自体が恐らくないのでは。
体鍛えて、修行のために戦ってというのは、目的がなくてもやる。有事に備えなくてもやる。それがサイヤ人にとっての普通であり日常という気がする。
まあ悟飯への「何かあった時の為に鍛えておけよ」は、半分は言葉通りでも、もう半分は「仕事は分かるけど、お前もたまにはオレに付き合え」という意味だろうとは思うけど。
ピッコロと悟飯たちによって守られたもの
「世界の危機」といっても、ピッコロが手早く動いて、自ら潜入活動までしたおかげで、レッドリボン軍が本格的に復讐に入る前に、その野望は砕かれる。
よって戦闘の舞台としては、序盤の顔見せを別とすれば、レッドリボン基地しかなく、そこだけで問題は解決される。
だから地球のほとんどの人たちは世界レベルの危機にあったことに気づいてないはず。
神ではないが、ただのピッコロさんが東奔西走して、穏便に皆の日常を守った、ほぼ誰にも気づかれることなく、という構造の映画である。
こういう構造の作品の場合、メインのストーリーラインと並走するサイドのストーリーを展開することがよくある。
ヒーローが非日常の対応に奔走する中で、何とか表側の日常が守られた。
例えば、子供のパンが楽しみにしている遠足に行く、とかね。
子供の日常を守るために、ヒーローが体を張るなんて典型的だ。
しかしピッコロの狂言誘拐により、パンも最前線(レッドリボン軍基地)に来てしまっている。
では、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』での日常サイドとは何か。
それは多分、ビルスの星での、ベジータvs悟空の死力を尽くした大激闘。
ベジータと悟空が何にも考えず精根尽き果てるまで戦い合う時間。
あれこそがピッコロが守ったものであり、メインのvsレッドリボン軍に並行するサイドストーリーなんだろうと思う。
何とも物騒ではあるが、これがサイヤ人の「日常」で、今回の話では悟空を呼ぶ呼ばないという以前に、悟空とベジータはその日常を守られる側のキャラクターになっている。
悟空とベジータが、ビルスの星で修行をしている。2人は腕試しの試合を始める。
だが、神龍の願いはブルマに消費されるし、ウイスへの連絡もアイスクリームのカップごときが邪魔してつながらない。
しょうもないことや、小さな偶然で、悟空が地球へ戻って新しい敵をやっつけてくれるという可能性がなくなっていく。
では、地球と隔絶したまま延々と続く、ベジータvs悟空戦とは一体何なのか。
悟飯とピッコロの映画とはいえ、DB2大スターに出演機会を作るための、単なるサービスなのか。(もちろん、そういう面も多少はあるだろう)
戦いが始まったとき、私は劇場でそう思った。でも違った。
『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、本来の主人公である孫悟空こそが新たな敵を倒すべきなのに、何かと理由をつけてそれをしない映画、ではない。
ピッコロと悟飯は、多くの人に気づかれることなく地球の平和を守ったのと同時に、悟空やベジータの「日常」をも守った。
悟空vsベジータは、単なるサービスではなく、その尊い「日常」の象徴になっていると私は見る。
誰のためでも、何かあった時のためでもなく、ただ自分自身がやりたいからする、ハナクソほじる力も残っちゃいねえほどのバトル。
満足気に倒れる2人は、映画の最後まで、地球でどんなピンチがあったのかを知らない。
シビアすぎない、好ましい緩さが許される映画世界
そのために、ピッコロが、幼稚園の迎えにいったり、潜入捜査したり、仙豆を回収したり、神龍呼び出したり、悟飯復帰のお膳立てしたりと、八面六臂の大活躍をするわけです。
神じゃないと言いつつ、地球(日常)の守護者になってしまってるピッコロを楽しむ映画であることは間違いないでしょう。
逆に言えば、Z戦士……とは言わないか。地球が誇る超戦士全集結でなくても、ピッコロとブランクのある悟飯で何とかなった事例ではあるので、そのぐらいのスケールの話ではあるし、ピッコロの早め早めの行動で未然に防いで地球規模の危機にもなってない。
だから仮にベジータや悟空がいれば、もっと早く事態が収まった可能性はあるだろう。
強いカード2枚を抜きにして、それでも勝てたわけだから、事実としてはね。
でもだからこそ、神龍をブルマのしょうもない願いで消費したり、悟飯復帰の為の狂言誘拐といえども、パンを戦闘現場に連れ出したり、フュージョン大失敗だったり、それぐらいの緩さ(それこそ愛嬌と言ってもいいと思う)を許容する作品世界にはなっている気がする。
つまり、地球人類が全員殺されるかどうかのようなシビアな話ではない。
ネットでよくいじられているが、全員死んでもドラゴンボールで全員生き返らせればいいなど、あんなことを悟空に言わせなくてもいい世界ということでもある。
ただ本来の鳥山明の世界はこれぐらいの、ギャルパン(ギャルのパンティおくれ)や、まつげエクステ2mmは全然OKのはずなので、そういう意味では正しく、鳥山明作のドラゴンボール映画だったと思います。
この緩さと、悟空抜きでも問題解決できるスケールとバトルを、物足りないと思う人もいるかも知れませんが、私はむしろこういうものが見たかった、と思えました。なので初ドラゴンボール映画、楽しめました。そう思える方、おすすめします。
ということで、悟空とベジータがイチャイチャする空間を、ピッコロが守りつつ、その息子とイチャイチャする映画こと『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』大ヒット上映中!ぜってえ見てくれよな!(もう終わっちゃう……見れる人は早く見て!)
公式サイト 『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』劇場リスト
https://toei-screeninginfo.azurewebsites.net/theaterlist/02851
『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』については冒頭に書いたように、TwitterのTLで楽しそうなツイートを読んだのがそもそも見るきっかけでしたし、鑑賞後にも私の感想ツイートにリアクションしてくださった方たち無しには、色々と思索を広げることができなかったと思います。とても感謝しております。
持つべきものは、おはようからおやすみまで信頼できるTLですね。
「さあ、あとは年末恒例の『今年の記事まとめ』をしたら終わりだな」と思っていたけど、そもそも、まとめるほどの記事数がない。焼け石に水…あ、ウォーターですけど、ひとつ記事を書くことにしました。
先日、興味深いニュースを目にしたから、というのもあります。ご紹介しましょう。
「恐怖」をまったく感じない女性
■恐怖をまったく感じない女性、PTSD治療にヒントか
恐怖をまったく感じないという珍しい脳疾患にかかった女性に関する研究が、米科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に発表された。
論文の主著者、ジャスティン・ファインスタイン(Justin Feinstein)医師は、「人間が感じる恐怖の本質とは、生存本能。恐怖を感じることができなければ、自分の命に危険をもたらす物や状況、人物を避けることができない。彼女がこれまで生きているということ自体が驚きだ」と述べている。
<中略>
S・Mというイニシャルだけで報告されたこの女性は、脳の中で恐怖感を生み出していると考えられている扁桃体(へんとうたい)が破壊された「ウルバッハ・ビーテ病(Urbach-Wiethe disease)」という珍しい疾患の患者で、他の人ならば恐怖を感じる場面で「非常に強い好奇心」を感じるのだという。
<中略>
この女性の20代の息子は、自分の母親が怖がったところを見たことがないという。子どものころに兄弟で遊んでいたとき、大きなヘビが近づいてきたが「母は驚きもせずに、すたすたと近づいていって、道路脇の草むらに放り投げた。信じられなかったよ」
<中略>
女性は30歳のときに強盗に襲われたこともある。体をつかまれ、喉にナイフをつきつけられたが、女性がまったく動じない様子を見てとると、強盗のほうから手を放した。女性はその後、普通に歩いて帰ったという。
AFPBB News - 恐怖をまったく感じない女性、PTSD治療にヒントか
「ウルバッハ・ビーテ病」という珍しい疾患の患者であるこの女性は、恐怖を感じる場面で「非常に強い好奇心」を感じる――つまり「恐怖を感じない人間」であるようです。
幼児と違って、危険かどうかという知識はあるのでしょうか?知識としてはあったとしても、好奇心が勝つので平気で近づく、という感じなんでしょうか?
とても興味深い記事ですが、医師が語るように、恐怖は生存本能と直結しています。恐怖は無事生きるために必要なツールです。
「恐怖を感じない」というのは、一見カッコよく聞こえますが、比較的安全で平和な現代でも、生きていくのは大変なことでしょうね。
それともうひとつ。
小さい頃は暗闇や犬が怖かったという記憶があることから、疾患は生まれつきではないと考えられる。医師らは、この女性が「犯罪を犯したことはないが、逆に、強盗や銃暴力やドメスティック・バイオレンスといったさまざまな犯罪の被害者となってきた」とみている。
という記述の、先天性の疾患ではない、ということが示すこと。つまり、生存本能である恐怖を失うことが、彼女の生存に必要だったのかもしれない、と考えるとやりきれないものもあります。
ですが私はこの記事を読んだとき、不謹慎かも知れませんが、いくつかのことを連想して「面白い」と思いました。
「面白い」というのはもちろん、S・Mというイニシャルの女性の人生についてではなく、そこから連想したフィクションの世界での「恐怖」についてです。
ですからこの「面白い」は、非実在世界の非実在キャラクターを使った実在物語の中に持ち込んで、話を広げることにしましょう。
そこが私のフィールドですから。
「恐怖」に震えるヤムチャと、わくわくする悟空
昔、いわゆる『ドラゴンボール』の戦闘力的な強さでなくて、「恐怖を感じないキャラ」を、危なかっしい感じの「強キャラ」として設定できないかな、と、いろいろ考えていたことがありました。
命に執着が無くて死線を越えるのにためらいが無い、というキャラクター造形ではなくて、恐怖によって生じるマイナスを排除して勝利や成功の確率を上げるタイプ。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉がありますが、「身を捨てた方が浮かぶ確率が高ければ捨てるし、捨てない方が高ければ絶望的でも捨てずに戦う」というのを、恐怖フィルター無しで判断できるという感じか。
しかし、「恐怖」を「非常に強い好奇心」に変換する、というのは、考えもつかなかった。
意味が伝わりやすいので、『ドラゴンボール』で例えてみましょうか。例えば、強大な敵を前にしたとき。
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ヤムチャが恐怖に震える隣で、悟空が「オラ、わくわくしてきたぞ!」と好奇心をあらわにするのは、戦闘力の大小の問題ではなくて、戦闘民族サイヤ人の恐怖に対するシステムが地球人とは違うから、とか考えると面白いかも知れません。
ご存知のとおり、サイヤ人は死の淵から回復することで戦闘力がはね上がる。
そのためには積極的な危機的状況に自分を追い込んだ方がよく、好戦的なサイヤ人の性格はこの身体システムとセットになっている。
つまり、恐怖(生存本能)を押さえて、危機的状況に飛び込んでいかないと、成長機会(死の淵)には辿りつけないわけです。
恐怖を感じないわけではない。恐怖は存在するが、恐怖を脳内で無理やり「強い好奇心」に変換することで、強敵に「わくわく」して向かっていく。
結果命を落とす者も多いだろうが、生き残れば、悟空のように強いサイヤ人が生まれる。
戦闘民族サイヤ人的にはそれで正しい。
一方、地球人は戦闘民族ではないので、そんな便利なシステムは持っていない。
恐怖を感じて、自己を守るために逃げ出すのが生存本能として圧倒的に正しい。ヤムチャ様は悪くない。人間として正しい。
まあ、これはあくまで説明のための例えで、『ドラゴンボール』の公式設定とはなんにも関係ないのですが、悟空の「わくわく」や病的なまでの「強いやつと戦いたい」を、悟空の性質だけでなく、医学的、生物学的背景がある、と考えるとちょっと面白いかも知れないですね。
『マトリックス』での東洋的な恐怖克服の修行
「恐怖」というものは、目の前の物理的な何かではなく、脳内に生成されるものなので、精神的なものを重んじる、東洋的な修行シチュエーションなどでよく題材になります。
『マトリックス』の序盤に、主人公ネオが、電脳世界の街の中でビルの屋上から、ビルとビルの間を飛び越える修行のシーンがありましたね。
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電脳世界なので、肉体が実際に飛ぶわけではない。飛べるか飛べないかは、肉体ではなく、純粋に精神の問題です。自分は飛べると信じられるなら飛べる。
しかし、ネオは「落ちたら死ぬ」という既成概念的な恐怖から、飛び越えることができない。
劇場でこのシーンを見たときに私が思い浮かべたのは、もちろん『鉄拳チンミ』。
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ネオと全く同じ修行をチンミは体験しています。まず、小川をジャンプ。身軽なチンミは朝飯前で飛び越えます。
では、と、小川と同じ幅の断崖絶壁に連れていかれるチンミ。チンミのジャンプ力なら飛び越えられることは証明済みですが、「落ちたら死ぬ」の恐怖で飛び越えることができません。
ネオもチンミも、能力的には飛ぶことができるのですが、恐怖によって自分で自分に限界をつくってしまい、クリアできないわけです。
このタイプの試練は、『ジョジョの奇妙な冒険』に言わせれば、
ツェペリ:「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
ということで、「勇気」の名のもとに「恐怖」をコントロールすることで、克服することができる流れです。
そして、東洋的には精神によってコントロールができるようになれば、肉体強化をせずとも十分に限界は突破できるのです。
自分にできることと、できないことをきちんと見極め、できることは、いつでも100%の実力が発揮できるように精神で肉体をコントロールできる、というのが理想的な状態になるでしょうか。
できないことの見極めがつかずに飛び込むのは勇気ではない、と、ツェペリさんも言ってますしね。
それにしても『マトリックス』のように肉体が介在しない電脳空間では、肉体は完全に精神の支配下にあるわけですから、極めて精神の影響が大きく、非常に東洋的な空間と言えます。
『マトリックス』でのカンフーは、アクションとしてのスタイル(見かけのカッコよさ)だけでなく、電脳空間との組み合わせ相性も大変すばらしかったわけです。
最近ですと、夢世界を扱った『インセプション』なんかも大変参考になる楽しさがありますので、未見の方はぜひご覧ください。
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「主人公」という病
恐怖に対して、どう向き合い、対処するのか、というのは物語の主人公に求められる資質のひとつで、それは極端にいえば「バカ」じゃないと主人公はつとまらない、ということになります。
ここでの「バカ」とは、もちろん知能指数のことではなく、「バカなこと」ができる人間のことです。
戦略とか確率とかリスクとか身の安全とかあらゆる理屈を超越して、分の悪い賭けに自らの身を投げ出す行動がとれるのはバカしかいません。
しかし、これこそが少年マンガ的な主人公の行動といえます。
『ファイブスター物語』内で、ダイアモンド・ニュートラルという人物が出した、MH(ロボット)テストパイロットの条件をちょっと思い出しますね。
「危険を危険と分かって突っ込む」のではなく、「危険に全然気づかないで突っ込む」(でも切り抜けることができる)タイプ。
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逆に、身の危険に対して敏感なキャラクターは、物語を発生させて駆動させることができないということです。
そういう人間は、そもそも「バカなまね」をしないと解決できないような状況自体を生まないように行動をとります。 現実に私たちも、ヤムチャ的にリスクを回避して生きています。なぜならそれが「賢くて正しい」とされているからです。
ただ、その状況で「わくわくして戦うことを選ぶ」人がいないと、「わくわくするバトル」自体も、その先の奇跡の勝利も発生しないんですよね。
このあたりは、すごく昔ですが、『ジョジョの奇妙な冒険』第三部主人公承太郎と、第四部主人公仗助の違い、ということで記事にしたことがあります。
今見ると、メモ程度でしかない不足感ありありの記事ですが、良ければご参照ください。
これらと記事のきっかけとなった疾患を踏まえて、「主人公の素養というのが医学的に定義されて人体のシステムとして存在してる」という物語にすると面白いかも知れないな。
ちょっと、ツンデレを医学上で定義した『百舌谷さん逆上する』みたいだけど。もしくは『サトラレ』か。
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「主人公」の定義を、「主人公病」のような医学的な病名のある「病人」として設定する。「主人公=病人」。
その病気にも重い軽いがあって、重度患者は世界の問題(恐怖)に対して否応なく首を突っ込まざるを得ない。それは「正義感」や「勇気」ではなく、「症状」のあらわれとしてそうなる。
世界でも救わないと、身体が満足しないから。
「主人公病」の発症者は何人もいて、誰が物語の「主人公」なのかはよく分からない。争いあって、主導権を取りあったりしてもいいのかも知れない。
いわゆる、常識レベルでのリスク計算が全くできない障害?それは欠落なのか、それとも私たち(健常者)が欠落しているのか。
「主人公病」ではなく、(リスク計算用の)「天秤が壊れている病」みたいなニュアンスの名前にするといいかも知れないね。(特に着地点もなく、メモで終わります)
ということで、現実での恐怖から連想して、フィクションにおける恐怖についていくつか書いてみました。
なぜ、こんな記事を書いているのかといえば、それはもちろん、何もしてないのに、あと数日で2010年が終わるという現実での恐怖から逃れるためです。
フィクションの恐怖について考えているときだけ、人はそこから逃れることができるのです。
この記事を読んでいるあなただけは、恐怖に対して、大いなる好奇心をもって向かい合うことができますように。(そして私の記事にも、恐怖でなく好奇心を抱いてくださいますように)