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— 映画『スパイダーマン』シリーズ公式 (@SpidermanMovieJ) June 15, 2023
🕷️本日公開❗️
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『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』
運命なんてブッつぶせ。
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▼お近くの映画館はこちら📽️https://t.co/59Kvfb1MOf#今年一番スゴいアニメの話をしよう pic.twitter.com/YYHy0ycnjn
いずれも物語のキャラクターとして定められた運命と、どう向き合うか、どう戦うか、という点で似たテーマを取り扱っており、とても興味深く鑑賞しました。おすすめです。
と、いうことで今回は、ゲーム『ドラゴンクエスト』ネタでお送りします……どういうこと?
火事とビアンカ・フローラ論争は江戸の華
堀井雄二さんとドラクエ5ゲーム実況生配信
— 🍉中川翔子🍉🐈⬛ (@shoko55mmts) May 15, 2023
一晩明けたけど伝説の発言いっぱいでした 30年以上論争続くビアンカ派フローラ派の議論を神の目の前でみんなで出来たし
ビアンカが独身のままでいる理由は主人公が忘れられなかった、心が動かなかった、と堀井さんが発言したの歴史が動いた凄かった! pic.twitter.com/pf8Sq0koCX
中川翔子さんと堀井雄二さんとドラクエ5ゲーム実況生配信の動画はこちら。
(動画の開始位置を「独身のままでいるビアンカの話」が始まるあたりにしてあります)
『ドラゴンクエスト5』といえば、やはり話題になるのは、ビアンカ・フローラ論争。
ゲームの中で主人公(プレイヤー)が結婚相手として選ぶ2人のヒロイン、ビアンカとフローラ。
どちらを選ぶのか、ビアンカ派とフローラ派で激しい論争になることもありますね。
あくまでゲーム上の選択ではあるのですが、その人のゲームや物語に対するスタンスを考える上でよいサンプルとなるでしょう。
この『ドラクエ5』のビアンカ・フローラ論争で、私が個人的に思うことはふたつ。
ひとつは、作者・堀井雄二がビアンカを選ぶストーリーを「本筋」と定め、物語上の扱いにかなり差をつけたということ。主人公(プレイヤー)はどちらでも選べるが、そもそも等価な選択肢として用意されていない。
もうひとつは、それにより、堀井雄二の本意どおりにビアンカを結婚相手に選ぶことが物語的に「普通」「当然」「正解」であり、それを選ばない人はおかしいのでは、と語るユーザーを生んだことではないだろうか。
「フローラ」を選ぶことはおかしいのか
この「ビアンカ・フローラ論争」の話を進める前に、まずは私自身の選択を示さないわけにはいかないだろう。
私は、スーパーファミコン版『ドラゴンクエスト5』では「フローラ」を選択しました。
生まれてくる子供の髪の色というのが、大きかったと記憶しています。
(これぐらいしか、選択によって子供に影響を及ぼす要素が無かったりする)
その後の2回目またはリメイク版などは未プレイです。
仮にプレイすると「今度はビアンカ選択ルートやってみるか」となりそうですし、やはり初回プレイでの選択が重要になってくると思います。
ちなみに「フローラ」を選んだことを話すと、「物語上はどう考えてもビアンカ選ぶのが普通でしょ。おかしいよ」みたいなことを平気で言う人もいる。私も身近な友人に言われたことがある。
同じようなことを言われた人は、結構いるのではないかと思う。
昔、「ビアンカかフローラか」という話題を振ったら、「そんな発想自体がおかしい。ストーリー的にビアンカしかありえないし、制作者もビアンカを正解として作っていることは明らか。論ずること自体が間違っている」と説教されたことを思い出しました。そのサブストーリーをプレイさせたい。
— ゲームラボ@2022年12月最新号発売 (@GameLabo_sansai) November 2, 2022
「ビアンカかフローラか」という話題を振ったら、「そんな発想自体がおかしい。ストーリー的にビアンカしかありえないし、制作者もビアンカを正解として作っていることは明らか。論ずること自体が間違っている」
さすがに、ここまで過激に言われたことはないが、Twitterだけでさえ同じようなことを言われたという人はそれなりに見かけた。
フローラを選んだ人たちを、「ビアンカを選ばないのはおかしい」と批判する根拠の多くは、「ビアンカを選ぶしかないストーリーになっており、それが制作者の本意(正解)だから」というあたりになっていると思われる。
フローラを選んだ私ですら、それは事実として正しいと思うし、ゲームでの実装、宣伝、制作者の発言などを含め、ビアンカの扱いが正ヒロインで、物語的にも「本筋」であることは、ほぼ明らかであると思う。
少しこのあたりを復習も兼ねて、確認してみよう。
とはいえ、この記事を書くにあたりドラクエ5をプレイし直しているわけではないので、インターネットの知見を利用させてもらうことにする。
また、以降の話はオリジナルであるスーパーファミコン版『ドラゴンクエスト5』を基本として進めることにします。
ビアンカとフローラ、ゲーム上での比較
以下のWikiを参考にさせてもらったが、大変ボリュームがあるため、要点をまとめてみる。
ドラクエ用語まとめwiki
https://wikiwiki.jp/dqdic3rd/
★能力やアイテムなどゲーム的要素での比較
- ステータスなど能力面では一長一短で特に大差ない
- 習得魔法という面では、ビアンカが覚えないイオナズンも使えるフローラが有利
- さらにフローラならアイテム「やまびこのぼうし」を使っての山彦ベホイミ、山彦イオナズンが可能
- フローラルートだと、2000Gと「みずのはごろも」が手に入る
箇条書きにすると、フローラ有利であるように見えるが、『ドラクエ5』のパーティメンバーは固定ではない。
優秀な「息子」と「娘」がいるほか、モンスターも味方に加えてパーティメンバーにできる上、そもそも3人パーティなので一家4人ですら同パーティを組めない。
ゴールドやアイテムの援助も、無いよりはありがたいが、ゲーム進行自体には影響がないレベル。
要するに、フローラ側のメリットである「富豪の娘」「イオナズン習得」などはゲーム的な影響は軽微でしかなく、無視して好みで選べるような要素でしかない、ということになる。
では、ストーリー上のキャラクターとしての2人はどうだろうか。
☆物語要素での比較
- ビアンカは「幼なじみ」として、子供時代から関わる場面が多い
- 一方、フローラは子供時代の出会いも無く、関わりも薄い
- 結婚相手に選ばなかった場合、ビアンカは独身のままだが、フローラは別の男性と結婚するストーリー(主人公が選ぶ以外にビアンカが結婚する未来が用意されていない)
- フローラに結婚を申し込むと、「本当にわたしでいいの?」と二度目の確認選択肢が入るのに対し、ビアンカの場合は確認はない
子供時代から物語に関わり、プレイヤーの情が移るよう処理されているのはビアンカのみ。
この扱いの違いは、そもそもビアンカルートが制作者の意図した「本筋」である以上、当然のことと言えるのでしょう。フローラに物語性が弱いのはシナリオのミスではない。
ちなみに花嫁選択時の「確認」の有無についてだが、結婚相手を選ぶ時に、フローラを選ぶと、最終確認の選択肢が出てくる。
しかしビアンカを選んだ場合は確認無しで、そのまま結婚、という仕様になっているそうだ。
つまりこのゲームは、フローラを「気の迷い」や「好奇心」で選んだ場合、「本筋」のビアンカに戻れるようにやり直しの機会を与えている(しんせつー)。
それがビアンカに無いのは、その選択がやり直しなど必要のない「本筋」だからだろう。つまり選び直しの機会でフローラに変えるような事態は、制作者が望んでいない。
これについて、Twitterではこのような意見も見た。
でもフローラには最終確認があって、ビアンカには最終確認がないってこれまで知らなかったから知れてめちゃめちゃ嬉しいね、より必死な方が勝った……!
— けしかす@元神レベル店長 (@ThreePlains) March 19, 2022
フローラには最終確認があって、ビアンカには最終確認がないってこれまで知らなかったから知れてめちゃめちゃ嬉しいね、より必死な方が勝った……!
個人的には、この選択肢の仕様に対して、そのような視点では見れないな……。
前述したように、プレイヤーに任された自由な二択に見えるだけで、結局は制作者の考える「本筋」に誘導させるためのデザインでしか無いものを、ここまでありがたがる気には私はなれない。
そもそも、こちとら「キャンセル」可能なフローラ選択に、最終確認出されても「はい」と答えているわけで。
より必死という意味では、2回フローラを選び、意志を変えなかったプレイヤーこそがそう言えるのかも知れない。(言えることにしよう)
ただ、今から思えば、この世界の神であり父でもある堀井雄二への反発心は強かったような気がする。
ビアンカに罪は無いけれど、父であり神にお膳立てされた正しい花嫁を選ばなくて何が悪い。
イオナズンや、子供の髪の色で選んで何が悪い。
世界の神「おお、フローラを選ぶとは……そうか、一度は真逆の答えを選んでみるという戯れじゃな。好奇心旺盛なやつめ。よいよい、もう一度チャンスを授けよう。キャンセルして、ビアンカを選ぶがよ……それでもフローラを選ぶと申すか!」
フローラを選んだ時から、もう神への反逆は始まっている(闇の反逆軍団編)。
独身ビアンカを見るのは誰なのか
ちなみにビアンカとフローラの非対称性という意味では、結婚後にも違いがある。
ビアンカと結婚すると、フローラは他の男性と結婚するが、フローラと結婚すると、ビアンカは独身のまま。
これをキャラクターの性格の違いとして説明するのは、はっきりいえば建前に過ぎないだろう。
ビアンカがフローラのように、プレイヤーと無関係に自分で幸せになる可能性を作られていないのは、当然、意図的にデザインされたもの。
ビアンカが男性と結婚し、子供も産み、彼女の家庭を作るには、プレイヤーと結婚する以外の方法が用意されていない。
これはよく言えば「ビアンカを幸せにできるのは俺しかいない!」だろうが、むしろそう思わせるためにビアンカの境遇がデザインされているに過ぎない。
ビアンカが結婚もせず独身のままであるのを目撃するのは一体誰なのか。
ビアンカを選んだプレイヤーはそれを見ることはない。
見るのはもちろん、フローラと結婚したプレイヤーだけだ。
自分はフローラと結婚したので、ビアンカが父ダンカンとともに山奥の村に住み続けるのを見た。
現実でもそうだが、別に独身だろうが子供がいなかろうが、幸せであれば一向に構わないわけだが、正直そのようには見えない。
それを見て後悔し「ビアンカを幸せにできるのはやっぱり俺しかいなかったんだ!」と、結婚前のセーブデータに戻ってやり直してくれてもええんやで。ただし、それでもフローラルートを続けるのであれば、ビアンカが独身のまま物語が終わるのを見せるまで、といったところか。
独身ビアンカを見るのは、フローラを選んだプレイヤーに限られるので、神が「君の選択は正しかったのかい?」と突き付けるために、ビアンカを独身のままでいさせている、という印象が私には強い(闇の反逆軍団なので)。
もちろん「本筋」ヒロインとして用意したビアンカが、プレイヤー以外の男性と幸せな家庭を築く、ということがタブーだという意識もあったかも知れない(今で言うところの、ヒロイン寝取られ的なニュアンスになる?)。
いずれにせよ、フローラと結婚する=ビアンカは独身のまま終わる。
結婚や出産が女性の全てでは全く無いが、ゲーム世界に用意されたものとしては、ビアンカはその人生がどうなるかをプレイヤーの選択に依存させられている、ともいえる。
その意味では私には、ビアンカは気の毒な、かわいそうなヒロインに思えてならない。
そしてそれとは逆に、フローラ自体に用意された物語はほぼ無いのだが、メタ的に堀井雄二を父あるいは神的なものと考えれば、父(神)への反逆としてのフローラを選ぶ物語は、それなりに面白く、意義のあるものになっていると個人的には感じている。
圧倒的なビアンカとの結婚率
ちなみに、過去、複数の雑誌において「あなたはビアンカとフローラのどちらと結婚しましたか?」というアンケートが行われていて、以下のページにその結果が書いてある。
ドラクエ用語まとめwiki 【フローラ】
https://wikiwiki.jp/dqdic3rd/%E3%80%90%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%80%91#i936c7ba
ファミコン通信(1993年3月12日号)
ビアンカ 81.6%
フローラ 18.4%Vジャンプ(2000年7月号)
ビアンカ 68.4%
フローラ 27.7%
PS2のリメイク版の発売が2004年なので、単純にSFC版の時間経過による変化ということになる。
それぞれの質問の仕方は不明だが、複数回プレーした人はビアンカの次にフローラを選んだりしているだろうと考えると、のちのアンケートでフローラとの結婚が増えているのは理解できる。
だが、発売翌年アンケートの「ビアンカ 81.6%」が示すとおり、やはり圧倒的多数で選ばれているののはビアンカ。
上記ページによれば、堀井雄二は以下のように発言しているらしい。
「SFC版では9割がたのプレイヤーがビアンカを選ぶと思っていたが、意外とフローラを選んだという反応も多かった」
9割ビアンカ想定であれば、81.6%は大差といえど、思ったよりは低い数字だったようだ。
ビアンカとフローラはそもそも最初からフラットなキャラクターでは無かっただろうが、さらに堀井雄二のような巧みなクリエイターの手にかかると、「ビアンカが正解」とユーザーに思わせる物語の流れが出来上がってしまう。
9割想定で、81.6%ビアンカは十分に狙い通りだとはいえるだろう。
ここまでビアンカを選ばせるつもりなら、一応、選択肢を用意しつつ結局は「本筋」のビアンカルートに流れるようにしてもいいような気がするが、実際に分岐するルートを作っておいた上で、それでもプレイヤーの9割にビアンカを選ばせる、というのが堀井雄二の目標、というか挑戦だったのかも知れない。
ともかくプレイしたユーザーは、ビアンカを選ぶしかない流れに置かれるが、フローラというもう一人の候補が現れる。
彼女はお金持ちの生まれで、イオナズンやベホイミも覚え、資金やアイテムの援助もある。
恋愛ドラマやマンガでもよくある、距離が近い異性と、距離は遠いが多くのものを持っている異性との対比。
私の世代で馴染みが深いのは、男女が逆転するけれど例えば高橋留美子『めぞん一刻』での音無響子に対する五代と三鷹。(例が古い)
五代は、冴えない貧乏学生(物語当初)だが、同じ一刻館で暮らすうちにあれこれと。
三鷹は、容姿端麗、スポーツ万能、一流大学卒、実家も資産家。声が神谷明。テニスクラブでの付き合い。
こんな2人の異性に好意を寄せられて、さてどうしましょう?という、皆さんおなじみのアレです。
古来より数多くの例がありますね。
パターンとしては、持てる者ではなく、持たざる者を選んで幸せに、という展開が多いのではないかと思います。
現実とは違いフィクションですので、客観的あるいは世俗的な幸せの形を、キャラクターの心が飛び越えていくところが見たいですからね。
この場合、家がお金持ちで、容姿端麗で、成績優秀で、といったキャラクターの要素は、本当に好きな相手を選ぶためのスパイスのようなもの。
フローラに与えられたステータスもその部類。
要は本命ビアンカを引き立てるための「当て馬」「引き立て役」であって、ビアンカ 81.6%という結果から見ると、その役割を十分に果たしていたのだと言えるだろう(これでも想定より低いわけだが)。
だから堀井雄二の誘導どおりにビアンカを選ぶのは、用意された物語、意図された選択肢という意味では正しいのは間違いない。
ただしゲームというメディアで、プレイヤーが選んだ選択はすべて正しく尊重されるべき、というのもまた事実。
例えば、Twitterでフォローしてる方のこんなツイートに感動したことがある。
#ファイアーエムブレム #紋章の謎 1章クリアしたぞおおお!!!最終的にマルス含めて3人しか残ってなかったり…いやー激闘であった…
— kiyo🍥 (@kiyooooooooooo) February 18, 2023
#スーパーファミコン #NintendoSwitchOnline #NintendoSwitch pic.twitter.com/Hq7yi3tvj4
『ファイアーエムブレム』では多くのプレイヤーが、味方の戦死者ゼロでのクリアーを目指す。
もちろん、それもひとつのゲーム体験だが、「計40名 戦死37名」の死闘でしか味わえない至高のゲーム体験というものもある。
私は素直に心底うらやましかったし、感動した。
どのような形であろうと、プレイヤー自身が選んだゲーム体験はその人のものであり、常にすばらしいものだと思う。
よって、ビアンカ・フローラ論争で唯一正しくないのは、他のプレイヤーの選択を「正しくない」と決めつけたり、「おかしい」と貶めたりするような行為、ということになるだろう。
フローラというキャラクターをどう強化するべきか
フローラは、あくまでもビアンカの当て馬で用意されたキャラクター(選択肢)で、彼女の背景である「富豪」もそれでしかないのだが、個人的にはそれをもっと尖らせたような方向性でも面白いのではないかと思う。
例えば、フローラと結婚しない限り、絶対に手に入らないレアアイテムなどがあってもいい。
ゲーム上最強の武器や防具とかね。ビアンカvsフローラ&最強剣 のような選択になる。
その程度では天秤はビアンカから傾かないかな。
では、富豪であることを活かして、色々と複合的なメリットで攻めてみようか。
レアな武器や防具、だけでなく、世界にひとつしかないような回復アイテムなども世界中から取り寄せてみよう。
商人のネットワークから、貴重な情報を集めることができてもいいかも知れない。
例えば、小さなメダルの知られざる隠し場所とかね。
そういったものをゲーム終盤までサポートしてくれる。
つまりいっそのこと、徹底的に
「物語上の必然(ビアンカ)」 vs 「ゲーム攻略上のメリット(フローラ)」
の対立軸で攻めてみる。
もっともゲームでは、フローラと結婚した場合のゲーム的なメリットの全体像が全く推測できない。
それは結局、選択に関わるほどの価値が無いからだが、ここまで豊富な富豪メリットを用意する場合は、フローラとの結婚で得られる具体的なゲーム的メリットは当然、結婚前に提示する必要がある。
彼女本人の資質(スキルや呪文など)もオープンにし、数々のメリットも結婚前に把握できるようにしておく。
何ならフローラ自身も全く主人公に興味が無いというレベルにチューニングしてもいいかも知れない。でも勇者誕生とお家のために結婚することは覚悟決めてるような女性ぐらいのチューニング。つまり2人の女性から同じように好意を寄せられているわけではないことにする。
しかし、ゲーム攻略上のご褒美目録は充実のラインナップ。課金で得られるようなVIP待遇。
例えば恋愛に興味と関心がまださほどない小学生男子などは、ゲーム的なメリットを吟味して「最強の剣?フローラ一択だろ!」と迷わず選ぶかも知れない。
それが「当然」で「普通」で「正解」として。
のちに発売されたリメイク版ではフローラのイベントなどを増やしていると聞く。
つまりフローラの「キャラクター」や「物語」を追加して、選択の不平等さを多少是正するという方向だろうと思う。
それをするのは理解できるが、個人的にはどうせなら「物語上の必然」vs「ゲームメリット」の方向を突き詰めるような形でパワーアップさせるのが好みかも知れない。
そして、さらにピーキーに調整するなら、こんな感じか。
例えばビアンカは勇者2人を産むが産後の肥立ちが悪く(この言い回し久しぶりに聞いた)、病に倒れて戦闘では輝けなくなる。でも健気で気丈で。病床にあっても子供たちや夫(プレイヤー)を愛し、常に心配してくれる。
(ゲーム的な価値をほぼゼロにしつつ、キャラクターの魅力は最大化する調整)
フローラの場合、前述したように主人公に特に好意は無いが、社会的使命も踏まえて結婚し、子供を産む。その後、ルドマンと共に商会をさらに発展させ、政治力も発揮、世界中からレアアイテムや貴重な情報を集めるネットワークを構築していく。
(ゲーム的な価値を可能な限り増やし、物語的なキャラクターの魅力やプレイヤーへの好意などは足さない)
健気な病床の愛妻ビアンカと、辣腕の豪商にして公私のパートナー、フローラ。
(なぜか、この場合のフローラの声が榊原良子さんのような気がしてきた)
さあ、どうする? どちらを選ぶ?
もちろん、どちらを選んでもいい。プレイヤーの選択はすべて正しいのだから。
悪役令嬢フローラの細腕繁盛記
ここまで書いたのは、あくまでも「ピーキーに調整する場合のフローラ」の例でしかない。
ただ現在の視点から見ると、フローラの存在はいわゆるジャンルとしての「悪役令嬢もの」との親和性が高いのではないかと思う。
貴族階級とか、ルックスや性格の問題ではなく、「選ばれないために用意されたキャラクター」として。
私は「悪役令嬢もの」はアニメになった有名なやつを見たことがあるぐらい。
あとは、Kindle Unlimitedで、お試し1巻無料で「悪役令嬢もの」をいくつか読んでみたことがある程度。
「悪役令嬢もの」というジャンル自体に詳しいわけでは無いので、Wikipediaを参照してみることにする。
「悪役令嬢」とは、フィクション作品世界の中でヒロインの敵対者として登場し、家柄や身分、容姿、資産などで有利な位置に立って、ヒロインの恋路に立ちはだかる役柄であり、権力や取り巻きを使ってヒロインを攻撃するが、ヒロインやゲームでの攻略対象(王子や公爵家子息、騎士団長嫡男など)に反撃され、最終的には敗北し破滅(バッドエンド)してしまうこともある存在である。
Wikipedia:悪役令嬢
「悪役」と入っているように、基本的にはヒロインの敵対者やライバルで、物語上は障害(スパイス)の役割でしかない。
ジャンルとしてはさまざまな経緯やバリエーションがあるが、Web小説としては
・異世界転生もの
・乙女ゲームもの (主人公が女性の、女性向け恋愛ゲーム)
これらのジャンルが合流しながら発展していき、
「乙女ゲーム世界の悪役令嬢に転生した主人公が、ヒロインに敗北し破滅する運命を避けるため悪戦苦闘する」
といった物語ジャンルとなったようだ。
この「悪役令嬢」は、いわゆる社会的ステータスは高く、王子(的なヒーロー男性)と結ばれるにふさわしいが、結局のところ、王子に選ばれないキャラクター。
王子と結ばれる真のヒロインを引き立てる役割として物語に存在し、「普通」「自然」「必然」の物語に負ける配役のキャラクター。
こうしたキャラクターに、転生者という客観視(メタ視)できる第三者の内面を与えて、その「物語の必然」というものを変えていこう(王子に選んでもらう必要のない人生も含めて)という意思が、悪役令嬢ものにあるのだとしたら、フローラは基本的に同じようなポジションのキャラクターになると思う。
もっともフローラは「悪役」でも「令嬢」でもないが、ゲーム的に選ばれないことを前提に物語が組まれているのはここまで書いてきた通り事実で、そこにこそ想像力の介入する余地があるのは確かだと思う。
物語の作者に与えられた役割(選ばれないこと)が運命だとするなら、その運命から逃れること、逆らうことは可能か。
だから私が知らないだけで、『ドラクエ5』のフローラに転生して、与えられた「物語の必然」と戦うような二次創作のWeb小説がきっとどこかにあるのだろうと思う。
そして、そういった転生フローラ小説があるのだとしたら、恐らくビアンカ、フローラ双方が救われる物語にするのではないか。
神に定められた運命(ルート)に逆らいながら、それでも幸福を得る物語であれば、いずれか片方の幸せでは神が用意した物語を越えたことにはならないので。
もしかすると、フローラと主人公(ドラクエ5)が結婚しなくてもいいのかも知れないし、ビアンカ、フローラ共に主人公と結婚してもよいのかも知れないし。
フローラは主人公と結婚するが、ビアンカも素敵な誰かとパートナーになって、良き友人になるのかも知れない。
いっそ主人公も女性で、3人とも女性のシスターフッドのようになってもいいのかも知れない。
(子供は何か方法を考えればいい。「しんかのひほう」があるなら、「かいにんのひほう」もあるかも知れない)
これらは当然『ドラクエ5』のゲームとして用意されていない展開だが、だからこそ世界の神・父に反逆する展開として、あえていくつか例を出してみた。
アカシックレコードのようなWeb小説界には、恐らくすでに存在するはずのドラクエ二次創作小説『転生フローラ細腕繁盛記』が本当に読みたくなってきたかも知れない。
存在してないなら誰か書いて欲しい。まあドラクエ二次創作でなければ、色々該当作がある内容だと思う。
前述したように、主人公に好意があって結婚したわけではく、辣腕を奮いながら世界のために主人公をサポートしてきたけれど、その終盤あたりで、それぞれかけがえのないパートナーとして、愛情を感じるような物語になっているのも個人的に好みだ。
好きで結婚(もちろん、これもこれで構わない)の対比、対極としての、ゆっくり好きになっていくパターン。
『ファイナルファンタジー5』のチキンナイフとブレイブブレイドもゲームに対するスタンスの選択肢だが、ビアンカとフローラは当然それより扱う問題の大きさと幅が広いので、さまざまな方向で思索を巡らすことが出来て面白いと思う。
もっとも、「ビアンカこそが正しい」「ビアンカを選ばない奴はおかしい」などと、用意された「正しさ」に固執していると、その楽しさを味わうことは出来ないかも知れない。
それはもったいない気もするが、何をどう選ぶかはその人の自由だ。

『ドラゴンクエスト』公式サイトへ
私は初代『ドラゴンクエスト』をリアルタイムで体験した世代だが、シリーズとしては6までしかプレイしていない(つまりSFCまで)。
「RPG」という言葉や存在を知ったのは恐らく本や雑誌(ベーマガとか)で、それは『ドラゴンクエスト』より少し前のことだと思うが、実際に自分で購入しクリアまでした最初のRPGは『ドラゴンクエスト』のはず。
そんな私がこれからする話は、当然ながら今更ゲームシステムや物語の考察でもなく、作品レビューでもなく、『ドラゴンクエスト』にまつわるいくつかの思い出話になる。
無知な素人が例えば、ゲームの歴史とか革命とか、やたら大きなものを語っても意味のあるものにはならないだろう。
ということで要するに“『ドラゴンクエスト』思い出語り”をするわけだが、個人が今更『ドラゴンクエスト』の話をWebに追加するとしたら、こうしたマイナーでローカルで、個人の実体験に基づくエピソードの方が価値があるのではないだろうか。
「ない」と言われると終わるしか無いので、「ある」ことにして先を書き進めることにする。
『ドラゴンクエスト』(FC:1986年5月27日発売)
『ドラゴンクエスト』第一作目を、私は友人のファミコン版で見たはずで、ぜひこれは手に入れなければ、と思ったのだろう。自分でも購入することになる。MSX版をな!
(このあたりの難儀さと悲哀があるが割愛)
Wikipediaによると、MSX版の発売はファミコン版の半年後あたりであったらしい。
『ドラゴンクエスト』(FC:1986年5月27日発売)
『ドラゴンクエスト』(MSX:1986年12月18日発売)
半年後とはいえ同年に発売してくれて御の字であろうし、発売日を見る限りクリスマスプレゼントでの購入だろう。
手に入れた『ドラゴンクエスト』を熱中してクリアしたことは、今も断片的だが覚えている。
(スタート時、たけざおで何とか乗り切る派だった気がする)
「ふっかつのじゅもん」って知ってるかい?
自分でも『ドラゴンクエスト』をクリアしたあとの出来事。どのくらいあとのことなのかは覚えていないが、発売翌年とかそういうレベルだと思う。
自宅から車で少し行ったところに祖父・祖母の家があり、歩いてすぐの距離に親戚の家があった。
そこにはひとつ年上の男の子がおり、兄貴分的な感じで当時たびたび遊んでもらっていた。
その日も歩いて遊びに行ったが、あいにく不在だという。
ただ、そのうち帰ってくるだろうから待っていたら?とのことだったので、勝手知ったる親戚の家。上がり込んで、待たせてもらうことにした。
リビングに入ると、親戚の子の姉にあたる、お姉ちゃんがファミコンをしていた。
それが『ドラゴンクエスト』だった。
お姉ちゃんはもう中(もう中学生)で齢も離れていたし、特に親しく遊んでいたわけでは無かったし、すでにクリアした『ドラゴンクエスト』だし、1人用のゲームだし、ということで、横目で見ながら、マンガでも読んで帰りを待つことにした。
姉ちゃんのドラクエは、私が訪れる前からプレーしていたのもあって結構進んでいたと思う。ファミコンで遊んでいるところを見たことが無かったので「へー、ゲームするんだ意外だな」という感じだった。
しかし、あるタイミングで驚くべきことが起こる。
姉ちゃんはプレー中、おもむろにファミコンの電源を落とした。
「!!?」
衝撃を受ける子供の私。
確か「ふっかつのじゅもん」を表示していなかったし、書き取った形跡もない。
つまり、それなりにプレーが進んでいるドラクエを保存もせず、いきなり終わらせた。
いまだ動揺する私をよそに、姉ちゃんは立ち上がり
「今日は呪文○つまでしかいけなかったな」
と、つぶやいて部屋を出ていった。
○には数字が入るが、記憶がすごく曖昧で、よく覚えていない。
そこで、FC版『ドラゴンクエスト』序盤の呪文習得レベルについて検索してみると、こんな感じ。
習得レベルと呪文
レベル3 ホイミ
レベル4 ギラ
レベル7 ラリホー
レベル9 レミーラ
レベル10 マホトーン
かすかな記憶と、レベル9、10ってスタートから普通にプレイして何時間かかるんだろう?と考えると、レベル7のラリホーあたりまで進んでいたのでは、という気がする。
そこから推測すると、姉ちゃんのつぶやきは以下のようなものだったのではないか。
「今日は呪文3つまでしかいけなかったな」
レベルではなく、呪文をいくつ覚えていたかを進行度の目安にしていたことも面白いが、「今日は」という台詞からは、何度かこういう遊び方をしていることを伺わせる。もしかするとレミーラやマホトーンを覚えるまで行ったこともあったかも知れない。
……何度か?
最初からドラクエを始めて、それなりにゲームが進んだあとに、おもむろに電源を切る遊びを?
何度か?
多分、そうなんだろうと思う。
今から考えるとなぜ?と不思議に思うかもしれないが、そもそも「RPG」という遊び方になじみがまだまだ薄い時代。
しかも、いつもはファミコン(ゲーム)やらないお姉ちゃんが、説明書や攻略本などを見てる形跡もない。
RPGとはどういうゲームで、どのくらいのボリュームがあり、どこまで遊ぶのか、白紙の状態で遊ぶと結構分からないものなんじゃないか、という気がする。
RPGはじめて物語というか、明治維新の文明開化で、よく分からないものに初めて触れる日本人のおもしろエピソード的な。
ちなみに、姉ちゃんがドラクエをやめてリビングを出ていってから、しばらくして親戚の兄ちゃんがご帰宅。
私は、驚きのドラクエいきなり電源OFFについて話した。「ふっかつのじゅもん」を知らないんだろうか?
すると「バカじゃねーの?どうせ知らないんだよ。いいよ、それより遊ぼうぜ」みたいな答えが帰ってきたと思う。
『ドラゴンクエスト』による、より開かれたゲームの世界
とはいえ。
『ドラゴンクエスト』では、「ふっかつのじゅもん」というパスワードをメモして、ゲーム進行を保存することについて、ゲーム内で(というかスタート時に)チュートリアルとして情報は与えられてたはず。(プレイ環境が無いのでセリフは覚えていないが……)
仮に推測通り、何度かノーセーブプレイをしているだとしたら、なおさら全くその存在を知らないというのはありえないのではないか。
私の推測では、「ふっかつのじゅもん」システム自体は知っていた可能性は高いと思う。
恐らく、そもそも特別ゲームが好きでもない姉ちゃんにとっては、弟がいない(ファミコンが空いてる)時にやる、気まぐれの遊びでしかなく、その中でシューティングやアクションのような反射神経と慣れが不必要なゲームとして『ドラゴンクエスト』が選ばれたのではないか。
その『ドラゴンクエスト』も、「ふっかつのじゅもん」をメモまでして、何度も再開し、最後まで遊ぶつもりはなく、それなりに戦闘や冒険を楽しんだら、あー面白かったと電源を切るような遊び方で満足していたのではないかと思う。
(そう考えると、SFC時代になるがドラクエにしてローグライクである『トルネコの大冒険』がぴったりな気がする)
経験値1も1ゴールドも血の一滴、と思っていた小学生の自分にはあまりにもショッキングな遊び方だったが、大人になった今ではそういう遊び方もありだし、何も問題は無いと思える。
というか、Steamでインディーゲームをいくつも買ったあげく、少しだけ遊んで「なるほどなー、こういうゲームか。面白いな」と言いつつ、浅瀬でゲームをやめてしまうのを続けている今の自分は、限りなくそれに近いのでは――(考えるのをやめた)。
この記事を書く少し前。
法事で親類の集まりがあり、そこに親戚の兄ちゃん(というか、お互いおじさんだが)が来ていた。姉ちゃんは不在。
昼食の後、お茶を飲みながら世間話をしている時に、ふと思い出して、この「ドラクエいきなり電源オフ」について訊いてみた。
やはりというか覚えていなかったが、いくつか当時の情報を手に入れた。
(これが、今回いきなりドラクエの記事を書いた理由ときっかけでもある)
・そもそも姉がファミコンをやっていたという記憶がない。
・ゲームに興味ないと思っていた。
・ドラクエをプレイしていたという記憶も特に無い。
・恐らくクリアするまでドラクエをプレイしていないんじゃないか。
ファミコンはこの兄ちゃんの所有物だったので、そもそも弟がいる時にわざわざゲームをやってなかったのだと思う。まあ姉弟間で、オレのファミコン勝手にやるんじゃねーよ的な色々があったのかも知れない。
実際に、私が兄ちゃんとファミコンと、アクションやシューティングなどで遊んでいる時に、参加することは無かった(今から考えると、小学生男子2人の『ツインビー』とかに、中学生女子がわざわざ混ざる理由がそもそも無いけど)。
たまたま、兄ちゃん不在時に私が訪れたことで、姉ちゃんの「ドラクエおもむろ電源オフ」というレアプレイが見れたわけだ。
結果から見れば、弟の不在を選んでゲームをしていたわけで。
弟には観測されなかっただけで、ゲームには興味はあったのだろう。
ただ当時プレイしていた『アーガス』だの『マッハライダー』だの『スーパーチャイニーズ』だのに興味があったわけではなく、やっぱり『ドラゴンクエスト』というか、RPGに興味があったのではないだろうか。
いわゆるゲーム慣れしていないと、アクションやシューティングは楽しみを得づらい。
しかし『ドラゴンクエスト』に反射神経や巧みなコントロール操作は必要ないし、剣と魔法の世界としてちゃんと物語があり、冒険があり、選択肢を選ぶだけで戦えるバトルがあり、それを積み重ねればゲーム内のキャラクターが成長して強くなってくれる。
弟が『ドラゴンクエスト』をプレーするのを横目で見ながら、「面白そう」「私にもできそう」と思っても不思議ではない。
『ドラゴンクエスト』を代表とするファミコンでのRPGが、我々小学生男子に与えた影響は本当に大きかった。
でもそれ以上に、小学生男子的な身体性やスコアや勝負も必要のないゲームとしてのRPGが、女の子や大人に与えた影響はもっと大きいのかも知れない。いやアクション系が苦手な(好きでない)人全般と考えれば、ゲームが下手な私自身もそこに含まれる。
当時、RPGの利点として、プレーを続ければゲーム内のキャラクター側がどんどん強くなってくれるから、がんばれば誰でもクリアできることが、よく唱えられていたような気がする。
それぐらい「ゲームクリア」は一部の人のものだった。
もちろん実際は、レベルさえあげればクリアというほど単純なものでは無かったが、初期にファミコンでRPGという概念を普及させるにあたっては「万人に開かれたゲーム」というイメージに一役買っていたのだろうとは思う。
ちなみに、法事で会った兄ちゃんには別れ際に、「姉ちゃんにドラクエ1クリアしたかどうか、訊いてみて」と頼んでおいたけど、恐らく答えは「覚えていない」か、もしくは覚えていても「クリアしていない」だろう。
でも、毎回最初から初めて、満足したら電源ごと切る『ドラゴンクエスト』。
それでよかったんだろうと思う。多分ね。
『ドラゴンクエスト』 のテキストで物語を作る「ドラクエ文体」事件
もうひとつ、思い出話。
時代や教科書にもよるのだろうが、私が小学校の時に「空想の物語を書いてみよう」という授業があった。確か教科書には、架空の地図のイラストが載っており、それを見ながら空想の翼を広げてみよう、というものだったような気がする。
グループSNEの安田 均さんが「ファンタジーの本質は地図にある」と語っておられたが、その意味ではなかなかよい課題だ。
本来は、教科書掲載のサンプルとしての架空地図から、子供たちがそれぞれ物語を作り、同じ地図をもとにさまざまなバリエーションの物語ができるね、というものだと思う。
だが私の担任は、地図からの空想でなくともいいので、なにか短い物語を書いてみようと、地図制限のない課題に変更していたような気がする。
でも、物語をどう書くかみたいな授業は無かったと思うんですよね。
ノウハウは全く教えず、子供に自由に書かせてみようという、読書感想文のようなやり方。
今から考えれば、事前にある程度ノウハウ教えたり、フォーマットを用意して埋めていくようなやり方の方が多少まともな作品が書けるのでは、と思うが、これらが全く無いことが面白い方に作用することを当時の私は知ることになる。
多分、1週間ぐらい猶予があり、先生に提出し、授業で少し発表などもあった後、それぞれが書いたノートが手元に戻ってきた。
当然、他のみんながどんなお話を書いたのか気になり、ノートを交換して読み合いなどが始まる。
その中にひとり、私が衝撃を受けたお話を書いたクラスメイトがいた。
とりあえず文中で呼びやすいように「Aくん」と呼称することにする。
Aくんのお話は、読んで一目瞭然。
ほぼ『ドラゴンクエスト』 に登場するテキスト、特に戦闘シーンのテキストだけで組み立てられていた。
もちろん彼が書いた内容の詳細は覚えていないが、普通にドラクエの戦闘シーンのテキストを連想してもらえばいいと思う。
あくまでイメージだし、ドラクエ1テキストの正確な引用でもないが、Aくんの小説を少し再現してみよう。
スライムがあらわれた!
○○○のこうげき (※Aくんの設定した主人公の名前。ひらがな表記)
○○○は、3のダメージをあたえた!
スライムのこうげき
スライムは、2のダメージをあたえた!
○○○のこうげき
○○○は、3のダメージをあたえた!
スライムをたおした
ほぼ、このようなテキストがノートにびっしり書いてあったと思う。
いわゆるドラクエの戦闘シーンで表示されるメッセージをそのまま使って、バトルを表現しているわけです。
ドラクエをベースにしているので、主人公のセリフも、モノローグも何もない。
戦闘シーン以外をどう表現していたのかは、ぼんやりとしか覚えていないが、昔のアドベンチャーゲームのようなシンプルなテキストだったように記憶している。
・北へすすんだ。南へすすんだ。
・△△△のまちに入った。
・王様と話した。
・やくそうを買った。
実際に文章で使われていたのかは分からないが、ニュアンスとしては上記のようなイメージ。
『ドラゴンクエスト』 以後のことなので、私を含む読んだクラスメイトたちは当然、ドラクエのテキストだ!と気づく。
別にゲームブックになっているわけではないので、「にげる、しかしまわりこまれてしまった!」も、Aくんのさじ加減ひとつやないか、と思いながらも、ゲームでなじみのある文体なので、プレイしている子供にはある意味とても読みやすい。
何が行われて、何が起こったのか。ドラクエプレーヤーには分かりやすく、高いリーダビリティがある。
いや正確に言えば「読んでいない、読みやすさ」か。
『ドラゴンクエスト』=文字をたくさん読むゲーム
戦闘テキストについては、私が『ドラゴンクエスト』 をプレイしていた時に、画面を見ながら母親がつぶやいた一言を今も覚えている。
母「こんなに文字ばっかりたくさん出てきて、しかもすごいスピードで流れて、よく読めるね。楽しいの?」
母親は『ドラゴンクエスト』のことを、「たくさん文字を読むゲーム」だと認識しており、だからこの一言になるわけだが、実際のところ、プレーヤーはすべての文字をきっちり読んでいるわけではない。
特に戦闘シーンでは、テキストのフォーマットはきちんと決まっている。
先程、Aくんの小説にも使われていたように「○○○は、3のダメージをあたえた!」で、変動するのはダメージの数値だけだ。
戦闘の流れとしてテキストは流れていくが、一言一句読む必要はない。
どちらが先手か、攻撃は当たったか回避されたか、敵から逃げられたか、敵を倒したか。
戦闘の流れを掴みながら、あとは変動する数値でも把握すればよい。
だから慣れてしまえば、いわゆる文字、文章としてはほとんど読んでいないということになる。
あくまでゲームデザイン上の情報表示であり、小説などとは言葉の役割が違うからこそ、『ファイナルファンタジー』シリーズのように情報表示の置き換えができることになる。
例えば『ファイナルファンタジー』では、攻撃キャラクターが実際に剣を振るアクションをし、その攻撃が命中した敵キャラクターの上に「9999」とダメージ数が直接表示されたりする。
これにより「○○○のこうげき、○○○は、3のダメージをあたえた!」が、文章が不要な情報表示に置き換えられている。

ファンタジー小説ではなくゲーム小説
話が逸れたので、Aくんの「ドラクエ文体」小説の話題に戻ろう。
Aくんの小説は、大きなインパクトがあり、ゲーム好きのクラスメイト(私含む)に好評だったが、正直なところ、ドラクエの戦闘テキストでノートを埋めた感があり、構成としてはかなり単純だったと思う。
要は、移動→戦闘(ドラクエ文体)→移動→戦闘(ドラクエ文体) のような形で、同じことの繰り返しが書いてあり、時間切れのような形で話は終わっている。
(終わりに関しては私含め皆似たようなものだったろうが)
ノートをチェックした先生はどう評価したのだろうか?
定型文のようなテキストが繰り返されているし、もしゲームのテキストであると気づいたのではあれば、自分の空想を物語にするという課題にはそぐわないと思ったのかも知れない。
(それなら物語の書き方の基礎みたいなところを教えて欲しいけれど)
当時の私も、Aくんのドラクエ文体小説を楽しんで読みつつも、私自身は一応、課題どおりにオリジナルの話を四苦八苦して書いたので「ちょっとずるいな」と思った覚えはある。
ただ、そんな自分がそれなりにがんばって書いたものは一切覚えていない。
恐らくまともな話の形にもなっていなかっただろう。
でも、Aくんの「ドラクエ文体」小説は、今こうして書いているように印象深く覚えている。
ある意味、もっとも強いインパクトを受けた「ドラクエ小説」であることは間違いない。
タイトルや固有名詞はさすがにそのままでは無かったような気がするが、ある種の「リプレイ小説」にも近いのではないか。(私がTRPGのリプレイ小説の存在を知るのは、もっと後の話)
そして、あえて大げさに書くなら、このあたりの想像力や発想力の延長上に、いわゆる「ゲーム的な小説」があるように思う。
ファンタジー世界を描く手法の一種ではなく、まずゲームという存在ありきで、そのゲームの世界を描く物語。
ファンタジーなのは、そのゲームの世界観がファンタジーだからであって、描くもの自体はあくまでもゲームの世界。
そして、それらの認識や知識が成熟し、共有化されながら、いわゆる「なろう小説」などのゲーム的ファンタジーノベルの隆盛の土壌となっていったりしたのだろうか。(この方面、全く詳しくないので、あくまで土壌としての話)
それにしても。
いきなり「物語を書け」と言われて困惑するのは、同じ課題を出されたものとして分かる。
当時流行りのRPG風冒険ファンタジーみたいなものを題材に選ぶのもすごく分かる。
しかし、自分の中でドラクエぐらいしか材料が無いから、ドラクエ文体そのままで書いてしまおうというのは、やはり今考えてもなかなかすごいと思う。
(これは私の推測だが、Aくんの人となりを知っているので恐らくそうではないかと思う)
もしかすると単なる、宿題の文字数を何とか埋めるための奇策だったのかも知れないが、私には無い面白い発想だった。
だから、あの時に私が本当にすべきことは、この「ドラクエ文体」小説のフォロワーとして、自分も書いてみたり(すぐにマネできるわけだから)、例えば『桃太郎』のような童話をドラクエ文体で書いてみたり、戦闘以外の部分をどうドラクエっぽく表現するか考えてみたり、ドラクエ風ゲームブックを作ってみたり、とにかくクラスに「ドラクエ文体」小説ブームをつくることだったような気がする。
「ドラクエ文体」小説のフォロワーになれなかったことを今でもたまに悔やむことがある。