長くブログをやっていると、たまに有益で面白いコメントを頂けて本当にありがたい。
何年も前に書いた記事にも、先日(半年ぐらい前の先日)、大変興味深いコメントを頂いた。

まず記事は以下のもの。

アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」>
https://highlandview.blog.fc2.com/blog-entry-247.html

「シャアってニュータイプなの?」という、友人の素朴な疑問を発端に、タイトル通り「アムロがどのタイミングで、シャアをニュータイプとして認識したのか?」を検証した記事です。

そしてこの記事に頂いたコメント。全文を以下に引用します。

キシリア撃つ前の妹への
「ザビ家の人間はやはり許せないとわかった」
という”お前ついさっきまでと違うこといきなり言ってるの?何?”感ある台詞がなくなって
劇場版で
「チャンスは最大限に活かす」
に変わったのはそこまでの行動との不連続性が減っているという軸では改善なのかもしれませんが、ある意味改悪かもしれません
(”ケリをつける”意味では彼にとっての因果の円環を閉じる救いではあったのですが…

逆にケリがついてしまえば『逆襲のシャア』までの彼は存在しなかったとも(こちらも改変は改善を支持)

短縮打ち切りになった番組がまさか10年以上続くIPになるとはと思っていなかったでしょうし、TV版では綺麗に終わる方をとったんでしょうか

Zガンダムが存在する世界に生きている私(我々)には生存ルートが当たり前でも、リアルタイムで最終回を見た瞬間の視聴者にとってはシャアがグワジンの爆発に巻き込まれてあそこで死んだかもしれないし(差し違え)、生きているかもしれない、という波瀾万丈@ダイターン3の最終回状態だった世界だったと考えられます(ビデオテープで撮ってた視聴者が確認するとしてもその数十分後)


初見時「唐突に何言ってんだこいつ」と思った台詞なので強く印象に残っていたのですが、十数年後劇場版IIIをみて「あれ?あの台詞なくなってる??」と思い調べてしまいました。

https://highlandview.blog.fc2.com/blog-entry-247.html#comment313


物語の最終盤、シャアが脱出しようとするキシリアにバズーカを撃ち込む直前の場面。
妹アルテイシア(セイラ)と交わす最後の台詞のやりとりの中で、TV版と劇場版とでシャアの台詞が変更されている箇所がある。




それがコメント投稿者の方が指摘する以下の変更。

TV版:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」

劇場版:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」


そしてこの変更に関して、改善ではあるかも知れないが、ある意味では改悪にもなっているのではないか?というお話でした。

『機動戦士ガンダム』におけるシャア・アズナブルというキャラクターの運命を、決定的に変えた台詞変更かも知れない。もちろん、結果的に見て、の話ではあるが。

確かにこれは面白い。
この素晴らしいコメントだけをよすがに、1本記事を書き上げる価値はあるぜ!
(ウィスキーの入ったスキットルを投げ捨てながら)

当該シーンまでの基本的な流れ


ひとまず、コメントで指摘のあったそのシーン、TV版と劇場版とで違いを確認してみましょう。

正直言いますと、このコメント頂いた時の私は「あれ?劇場版のその場面、セリフ違うんだっけ?」でした。
TV版『機動戦士ガンダム』は数多く見ているのですが、劇場版3本は正直なところ人生でも数えられる程度にしか見ていない。
『めぐりあい宇宙』自体も恐らく、ここ15年ぐらいは見返していない。

このような有様でしたので、当該のシーンを改めてきちんと確認する必要がありました。
私と同じような方もいらっしゃると思うので、突っ込んだ話をする前にシーンを比較しながら見直すのもよいでしょう。
(毎度このブログを読みに来てるような人たちには必要なさそうな気もするが……)

まず、問題の台詞のシーンまでの大まかな流れを。TV版でも劇場版でも基本的に同じです。

  • ジオンと連邦、宇宙要塞ア・バオア・クーでの最終決戦。
  • アムロはララァとの別れを経て、ザビ家の頭領を倒し、戦争終結させるつもりで出撃。
  • 一方のシャアは、ザビ家打倒の目的も忘れ、ララァを殺された私怨でアムロに戦いを挑む
  • シャアにからまれてやむなく応戦したアムロのガンダムと、シャアのジオングは激闘の末、相討ちに。
  • 要塞内で、アムロとシャアのフェンシング決闘。セイラが止めに入る
  • シャアはアムロに「同志になれ」と迫るが、爆発が発生。シャア&セイラと、アムロはここで別れることに。
  • シャアは瀕死のジオン兵と会話し、キシリア脱出を知る。(兵士は事切れる)

そしてシャアとセイラ、いやキャスバルとアルテイシアの最後の会話シーンに突入します。

シャアとセイラ、別れの会話(TV版と劇場版)の比較


この会話でのセリフが問題なので、TV版と劇場版とでセリフを引用して比較しましょう。

TV版での2人の会話全文は以下の通り。

TV版
シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
セイラ:「兄さん!」
シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが?」


そしてTV版のあとに作られた劇場版『めぐりあい宇宙』での会話全文。

劇場版
シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
セイラ:「に、兄さん」
シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが……」


少し演技ニュアンスが違うところはあれど、大きく異なるのは太字で強調したシャアの台詞のみ。

TV版:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」

劇場版:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」


この変更点をどう捉えるか。

TV版 シャア・アズナブル九死に一生スペシャル


発表順どおり、TV版から考えていこうか。

実は私は子供の頃から、この場面でシャアが本来の「ザビ家打倒」に立ち返る流れ、あまりしっくりいってなかったんですよね。

爆発をきっかけにアムロを見失ってこれ以上どうしようもなくなったのと、瀕死のジオン兵から「キシリア脱出」の情報を手に入れたのは分かるが、なぜここでいきなりキシリアバズーカ(注:キシリアにバズーカを撃ちこむことの略語)になるのか。

m06_キシリアバズーカ2
m06_キシリアバズーカ3
※皆さんおなじみキシリアバズーカ(これは劇場版キシバズ)

もちろん物語として、ケリをつけるために残ったザビ家、キシリアにバズーカを撃ち込む意味は分かるし、それが必要なのも分かる。

ただ、ここまでアムロ絶対殺すマンとして私怨全開でアムロを追い回し、相手が不慣れなのを承知で生身の戦闘も挑み、戦いながらの会話でも全くの平行線だったシャアが?
ついさっきまで「ザビ家打倒なぞもうついでの事なのだ、アルテイシア。ジオン無きあとはニュータイプの時代だ」とか言ってたシャアが?

だが大人になってから色々考えると、TV版の流れでも納得できるようになった。

まず宇宙要塞ア・バオア・クーでの戦いで、シャアはアムロに少なくとも3回は殺されている

そもそも、ララァを失い、ア・バオア・クーで私怨100%のアムロ絶対殺すマンにしかなっていないシャアは、その時点でアムロに勝てない存在にしかなっておらず、物語構造上、最初から勝つ可能性など無いわけだが、それでもシャアはジオングでアムロに戦いを挑む。

1アウト:ガンダムvsジオング


最初のワンナウトは、ジオングvsガンダムの事実上の決着の場面。
アムロは狙いすまして、ジオングの胸部つまりモビルスーツのコクピット部分にビームライフルを撃ち込む。シャアが乗り込んだ胸部コクピットへピンポイントに。

01_ジオング胸部射撃

これまでのジオン軍モビルスーツのコクピットが胸部にあることを踏まえての射撃。
だから普通のモビルスーツならこれでもう死んでいる……わけだが、ジオングは頭部にもコクピットがあるビックリドッキリメカなので、シャアはジオングヘッドで脱出して、からくも生き残る。
よかったね。ビックリドッキリメカで。

この場面で射撃される前に、シャアがパイロットスーツに着替えた描写はあるが、頭部コクピットに移るプロセスは描写していない(あえて省略しているのだろう)。
ジオングヘッドでの離脱は、TV本放送時は恐らくサプライズだったはずだ。
私は初見が幼少期すぎて最初の記憶がもう無いが。

もちろん胸部と頭部の移動は実際どうしたの?という疑問もあるだろうが、問題はカットが変わって、シャアがパイロットスーツを着た状態で再登場したとき、「実は頭部コクピットに移動もしていた」というサプライズにあるだろう。
コクピット内のデザインもそのために統一してあると思われる。

↓こちらが最初に乗り込んだ胸部コクピット
03_ジオング胸部コクピット

↓こちらが移動した頭部コクピット
02_頭部コクピットへの移動

こうして画像並べると、記憶より差異があるが、同じデザインのコクピットを描いているものと思われる。

身を隠した時にシャアが仕込みをしておき、不意をつかれてアムロに斬られるものの、ダミーを斬らせて、逆に一撃与えるところなどは、完全に忍術合戦。
過去にも何度か語ったが、『機動戦士ガンダム』における戦闘の核の部分にはチャンバラと忍術がある。

それにしても、ジオングの胸部に撃ち込んだ瞬間に「違うか!?」と、思惑がはずれたことに気づくアムロはとてつもない。
下手すると、視聴者が「あ!シャア死んだ!」と思うより、アムロの「違うか!?」の方が早い。サプライズなのにサプライズしてる暇が無い。
ジオングヘッドが本体から離脱するのは、アムロが叫んだ直後のことだ。

2アウト:無人のラストシューティング


シャア・アズナブル九死に一生スペシャル(実際は三死に一生)
ツーアウト目は、おなじみラストシューティング。

この場面、シャアのジオングヘッドが上空で待ち伏せしていると読んだアムロは、ガンダムを降り物陰に隠れる。そしてオートでガンダムを歩かせて、ラストシューティング!

04_ラストシューティング

本来なら、ここで死んでも全く不思議ではないところですが、まだやることが残っているシャアは、からくも脱出して生き残ったことになります。
(ここは劇場版で明確に脱出する場面が追加されます)

ガンダムとジオングの相討ち、ということにモビルスーツ戦の結果としてはなるわけです。
しかし、無人のガンダムvs有人のジオングヘッド という構図であって、アムロはガンダムを降りた状態で、ジオング(シャア)を仕留める気だったわけです。
別に自らの手で、ライバルとの決着をつけようなどとは微塵も思っておらず、待ち伏せのリスクを避けつつも、確実にシャアを殺そうという殺意が感じられて大変すばらしいですね。

このあたりの勝負に対する非対称性は『逆襲のシャア』でも展開されることになります。

アムロは、ガンダムがライフルを直上に撃ったあと、物陰から飛び出て上昇していく。
これは爆発に巻き込まれないための上昇だとは思うのですが、結局は半壊したジオングヘッドめがけて上昇していくという構図にもなっている。

もし爆風がそれほどでもなく、シャアが目の前でジオングヘッドから脱出するところを目撃したら、銃を撃ちながらそれを追うつもりでもあったんだろうか。(こわ……)

さあアムロとシャア、双方ともに機体を失い、残っているのは我が身だけ。
銃を持ったアムロと、おもしろSEライフルのシャアの銃撃戦が始まる。
ビックリドッキリメカの次は、おもしろSEライフルです。

シャアの銃のSE(効果音)は、ライブラリか何か出来合いのものを使ったんじゃないかと思うが、なんでよりによってこの場面で、こんなおもしろSEを選んでるのかはよく分からない。
あらゆるガンダムグッズが出ている昨今だが、もしこのおもしろSE銃に手をつけてなければ、今後のグッズ化に期待したい。

この場面、シャアが

シャア「今、君のようなニュータイプは危険すぎる。私は君を殺す」


と冷酷に言いつつ撃ち始めるが、アムロに全弾避けられた上、自分は被弾してるのでいつも笑ってしまう。

05_おもしろSEライフル

正式な訓練を受けた軍人が、数ヶ月の素人に生身の銃撃戦で負けてるのに、さらにフェンシングを挑むのは、よく考えるとすごい。

私がシャアの為に愚考するに、ワインの銘柄当てとか、どれがブランドA5和牛かとか、ストラディバリウスの演奏はA、Bどっち?のような生身の勝負なら、アムロに勝てるのではと思う。お育ちも良いはずだし。(ちなみにパートナーのドレンがことごとく間違えるので、最終的には三流ジオン軍人で終了します)



3アウト:ヘルメット無ければ即死突き(ロマサガの技名)


シャア・アズナブル九死に一生スペシャルのスリーアウト目。
シャア3回目の死であり、その最後といえるのがフェンシング決闘です。
これは前述したように、シャアとしては勝算があって誘っているわけです。

シャア:「わかるか?ここに誘い込んだ訳を!」
アムロ:「ニュータイプでも体を使うことは普通の人と同じだと思ったからだ!」
シャア:「そう、体を使う技はニュータイプといえども訓練をしなければ!」
アムロ:「そんな理屈!」


しかし皆さんご存知のとおり結果は以下のとおり。

・アムロ→上腕部にサーベルが刺さる(致命傷でも何でもないケガ)
・シャア→眉間中央にサーベルが刺さる(ヘルメットが無ければ即死級の突き)

アムロが「そんな理屈!」と言ったように、シャアの勝算(理屈)は砕かれました。
眉間にサーベル突き入れられ流血までするが、ヘルメット(バイザー)の存在でギリギリ助かっただけです。死ななかったのは純粋に運がよかっただけ。

06_即死突き

同時に攻撃を仕掛けてこの結果は、シャアの完全なる敗北です。

ここまでアムロは掛け値無くシャアを殺す攻撃を何度も放っています。
アムロを殺す気で攻撃を仕掛けてきたのはシャアの方なのですが、実際はアムロの攻撃の殺意の方がよほど高い。

(1)ジオングの胸部コクピットにピンポイント射撃(ビックリドッキリ離脱)
(2)無人のガンダムでジオングヘッドを射撃(ラストシューティング)
(3)恐らく初めて握った剣で、シャアの眉間に即死級の突き刺し

シャアはこの最終回で、3度負け、3回殺されたに等しい。
これで生き残ったのは「シャア・アズナブルだから」以外の理由は無い。

そしてアムロが眉間を突き刺したことの何より大きな意義は、シャアの仮面を突き刺し、破壊したことにある。
仮面の死は、すなわち「シャア・アズナブル」の死であり、それはシャアが、素顔のキャスバル・レム・ダイクンに戻ることを意味する。

何度も(擬似的に)殺され、最終的に「仮面の男シャア・アズナブル」が死ぬことで、一種の憑き物が落ちたのだろう。
ララァを殺された私怨で近視眼的にアムロを追い回していたシャアはここで消える。

そしてキャスバル・レム・ダイクンに戻って、妹アルテイシアと最後の会話をすることになる。

ジオン残侠伝 死んで貰います


この会話、再度TV版の台詞を引用しよう。

シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」
セイラ:「兄さん!」


省略されているが、ギレンの死などは瀕死のジオン兵から知ったことにしておけばいいのだろう。
そうなると残りのザビ家はキシリアひとり。
降伏はキシリア脱出後の手筈になっているので、まだ戦闘中のこの戦場から、最後まで責任も取らず、ザビ家の頭領が逃げる。

そういう情報をつかんだ上での「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった」は、シャア自身の変化(帰還でもある)と、これからの行動への理由付けという意味で適切な台詞。

「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった」だから「ケリをつける」。

はっきりいってこの「ケリをつける」は、ザビ家復讐の完遂だけでなく、自分の人生にケリをつける、という話でしょう。

アムロに憑き物が落ちるまで完膚なきまでやられて、運良く拾った命。
「ケリをつける」のは、要はたまたま拾った命の使い道なわけです。

もう我々はその後の生き延びまくってあれこれしているシャアを知ってるので、あれですが、それは別の話というか後付の話に過ぎません。
TV版本放送時には、ただ『機動戦士ガンダム』というひとつの作品があるのみです。
シャアはここで死ぬ決意をし、最愛の妹と別れ、死地に赴きます。

まさにヤクザやギャングが死を覚悟して、敵地に殴り込みをかける直前に、大事な人と交わす会話で、任侠モノのような場面です。

同じサンライズ制作の『カウボーイビバップ』でも最終回(よせあつめブルースじゃない方)に、スパイクとフェイの最後の会話シーンがありましたね。と最近のことのように書いたが、20年前の作品だった。

シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが?」


07_アムロ君が呼んでいる

この「アムロ君が呼んでいる」の一言が奮っている。
ご存知のとおり、このあとセイラも含めたホワイトベースクルーは「アムロが呼ぶ声」を聞くことになるのです。

ただ、シャアがニュータイプ能力でそれを予見したとか、感じたとかでは全くありません。
単に、別れの台詞として口に出しただけです。

ですから「アムロ君が待っている」でも流れとしては何の問題も無いわけですが、ここで「アムロ君が呼んでいる」としておくのは、やはり気が利いています。

そしてセイラは、シャアが死ぬ気であることが分かったからこそ、兄と別れたあとに

セイラ:「み、みんなの所になんか、い、行けない。い、行ったって、生き延びたって兄さんが……」


と泣き、嘆くのです。生き延びたって愛するキャスバル兄さんはもう生きてはいないのだと。
で、今のお気持ちは?

セイラ:「早く死んで欲しい」


冗談はさておき、『機動戦士ガンダム』という単体の作品としてのシャアは、実質的にここで死んでいるわけです。
組まれた脚本と演出が、きちんとシャアを死なせていると言った方がよいか。

それを考えるとTV版の 「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」は、それに沿った大変すばらしい台詞だと思いますね。

TV版の台詞の流れでいえば極端な話、仮にキシリアバズーカが失敗して、シャアが返り討ちで蜂の巣になったとしても物語としては何の問題なく成立しています。

実際に、TV版ではシャアが上昇をはじめたザンジバルのキシリアを撃ったあと、そのまま上昇したザンジバルは、待ち構えていた連邦の艦隊に蜂の巣にされ、轟沈しています。

08_ザンジバル轟沈2
上昇して顔を出したザンジバル。ブリッジが損傷しているが、周りに対して射撃している。

08_ザンジバル轟沈
連邦の戦艦からの砲撃。恐らく数艦に囲まれており、瞬く間にザンジバルは轟沈する。

つまり、仮にシャアが何もしなかったとしても、ザンジバルは出港直後に轟沈していたわけです。キシリアバズーカを撃たなかったとしても、キシリアもここで死んでいるでしょう。

じゃあキシリアバズーカなんて意味ないじゃないか、と思いますか?

シャアの「ケリをつける」は本当に人生のケリをつける行動なので、例え失敗して返り討ちになろうと、成功してキシリア暗殺に成功した何秒か後にザンジバルが轟沈しようと、それは問題ではありません。

ただ物語の場面として考えると、TV版で選ばれた「キシリアを撃ち抜くが、その数秒後にはザンジバルが轟沈する」という流れ、これがどう考えてもベストだろうと思います。
ザンジバル轟沈数秒前に自分でケリをつけることに間に合ったシャアが満足げに爆発の光の中に消えていく……。

美しい。(単体の作品として)あまりに美しい。
ですよね、セイラさん?

セイラ:「早く死んで欲しい」



『めぐりあい宇宙』のシャアはどのようなシャアなのか


つづいて劇場版『めぐりあい宇宙』を見ていきましょう。
基本的に流れは同じなので色々と省略して、今回の話に関係するところとして、コメントで指摘のあった変更された台詞のシーンから見ていきましょう。

シャア:「ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ」
セイラ:「兄さんはどうするのです?」
シャア:「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
セイラ:「に、兄さん」


アムロは見失ってしまったが、瀕死のジオン兵から情報は入手したし、バズーカと代わりのヘルメット(シャア専ヘルはアムロに割られた)も手に入れた。

今なら脱出しようとするキシリアに間に合うし、この混乱の中、警戒しているような状況ではないだろう。これは「キシリア暗殺」の好機だ。

それが台詞となったのが「チャンスは最大限に活かす」でしょう。

さっきまでアムロ絶対殺すマンでしたが?というTV版から引き継ぐ問題に関しては、アムロを見失った以上、その目的は果たせない。しかし、代わりにキシリア暗殺の好機を得た。私はその状況に応じて、やれることを最大限にやるのだ。

つまり、それが「私の主義だ」ということなんでしょう。

お気づきだと思いますが、たった一言の変更で、ニュアンスは大きく変わっています。

劇場版のシャアは、アムロとの因縁から気持ちを切り替えて、好機と見るや全く違う行動に出ているように見えます。油断のできない、抜け目のなさです。

シャア:「お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる」
セイラ:「アムロが……」


ちなみにこのあとで、シャアがセイラと別れ、セイラが見送るシーン。
TV版では、作画カロリーを抑えるためでしょうが、手を伸ばすだけで終わっています。

TV版
09_手をのばすセイラ
去っていく兄に思わず手を伸ばすセイラ。

09_手をのばすセイラ2
しかし死を覚悟してケリをつける意志を感じ取ったのか、手を降ろしてただ見送る。

一方、劇場版はさすが手が込んでいます。

劇場版
m05_見送るセイラ1
去っていく兄に手を伸ばしかけるところまでは同じ(レイアウトは違うけれど)。

m05_見送るセイラ2
遠くの爆発の振動で、セイラの足元が重さを失って、ふわっと揺らぐ。
まさに地に足がつかず、不安なセイラの心をあらわすかのよう。
絶妙なアニメーションなので、これはぜひ映像をご覧いただきたい。

セイラの心情的にはTV版も劇場版も基本変わらず、劇場版は作画でリッチになっただけ、とは思うんですが、ここまで書いたように、シャアの台詞によって、シャアのキャラクターも変化しているわけで。
劇場版のセイラが、何となく兄を失う悲しみだけでは無いように見えてしまうのは、観測者問題かな。

セイラと別れたあと、無事キシリアにバズーカ撃ち込むのはTV版と同じです。
しかし、ザンジバルのブリッジが爆発するのはいいとして。

m07_ザンジバル轟沈

TV版と同じように、そのまま上昇して顔を出したザンジバルは、ブリッジを中心に大爆発。そのまま轟沈します。

一応、連邦の艦隊側から見たカットもあるのですが、ザンジバルの射撃に気づいて応射するようなカットや、TV版のように砲撃がザンジバルに吸い込まれていくような描写はありません。
TV版では明らかに連邦の艦隊によって轟沈する描写になっていたわけですから、劇場版ではそれを踏襲せず、変更したと見るのが自然でしょう。

つまりシャアはバズーカの一発で、キシリアどころか巡洋艦ザンジバルも落とした、というのが劇場版だと思います。
お前のバズーカは、コンドルのジョーの羽手裏剣か(最終回)。
いや、よく考えたらコンドルのジョーのようなものか。そういえば。

劇場版で描写が変わっている以上、出港したザンジバルが直後に轟沈するかどうかは分からない。
よって劇場版キシバズは、ザビ家最後の頭領を人知れず討ち取った英雄的な一撃ということになるでしょう。



TV版シャアと劇場版シャア、正しいのどちらか


さて、ここで頂いたコメントを再引用しましょう。

キシリア撃つ前の妹への
「ザビ家の人間はやはり許せないとわかった」
という”お前ついさっきまでと違うこといきなり言ってるの?何?”感ある台詞がなくなって
劇場版で
「チャンスは最大限に活かす」
に変わったのはそこまでの行動との不連続性が減っているという軸では改善なのかもしれませんが、ある意味改悪かもしれません
(”ケリをつける”意味では彼にとっての因果の円環を閉じる救いではあったのですが…


コメントにあるように、TV版より劇場版の方が、シャアがキシリアバズーカに向かう不自然さが軽減されていると思います。
恐らく一般的には、「チャンスは最大限に活かす」の方が、シャア・アズナブルというキャラクターにふさわしい台詞だと感じる人の方が多いのではないか。(このブログの読者はあまり一般的ではないので参考にならないが)

特に、現在の地点から見ると、シャアは一年戦争後も度重なる絶体絶命のピンチにも生き残り、アコギなあれこれもしているので、結果論として「チャンスは最大限に活かす」シャアの方が、シャアらしいという事になってしまった。

つまり「チャンス」とは、目的達成だけではなく生存の「チャンス」でもある。
「これ死んだよね?」「生き残ってないよね?」と思われるような状況でも、生き残るチャンスがあるなら最大限に活かす。それがシャアの主義なわけです。劇場版の台詞ではね。

ダルマ状態で宇宙を流れる百式のコクピットから脱出するときも「チャンスは最大限に活かす」とか言っててもおかしくない。
だから絶対逃がさないようにアムロが、サザビーから飛び出たボールを、トリモチ付きでがっつり握るしかないわけです。

状況に応じて目的を切り替え、目的達成の好機は逃さず、かつ生存のチャンスも最大限に活かす。
そういう抜け目なく、危険なサバイバー。それが劇場版シャア・アズナブルなのです。

お、おま、TV版と全然逆じゃねーか。とお思いの皆さん、その通りです。

TV版のところで書いたとおり、個人的には「ザビ家の人間はやはり許せぬとわかった。そのケリはつける」が来ても、納得のできる物語構造は組まれている、と思っています。

とはいえ「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」の方が不自然さが和らぐ、というのも事実でしょう。より分かりやすい、という意味で。
(その点で、やはりこれは改善といってよい)

しかし問題の本質は、この台詞の変更によって、シャア・アズナブルというキャラクターの幕引きがほぼ正反対に変わってくるという点にあります。

一見、無駄に見えるようなキシリアへの一撃を、自身の「ケリをつける」ためだけに拾った命を投げるTV版シャア・アズナブル。

状況で目的を切り替え、暗殺の好機を逃さず、かつ自身の生存のチャンスも最大限に追求する劇場版シャア・アズナブル。

この後のシャアの人生を全部見てしまった我々からすると、「チャンスは最大限に活かす」と言うシャアの方がいかにもシャアらしいのは間違いない。

ただ、TV版と劇場版がつくられたあの時点、『機動戦士ガンダム』という単体のひとつの物語として見た場合、TV版の台詞の方が完成度が高いと、個人的には考えています。
(分かりやすくなっているのは、もちろん劇場版だけどね)

チャンスがあるからやる、ではなく、本来ならアムロにぶっ殺されているところを運良く助かったこの命。ザビ家の頭領を倒すんだ、と言っていたアムロがガンダムを失ったのは、私怨で襲いかかるジオングに相討ちに持ち込まれたから。
ガンダムを失ったアムロにはもう出来ないことを、この拾った命でやろう。ケリをつけよう。
これすなわち

(ナレーション:納谷悟朗)
たったひとつの命を拾い

生まれ変わったジオンの王子

悪のザビ家を叩いて砕く

キャスバルやらねば誰がやる


※これがやりたいだけだろ、とは言ってはいけない


頂いたコメントにもあった「セリフ変更は改善にして、改悪ではないか?」というお話。
個人的には本当に同感です。ひとつの作品としてはね。

しかし『機動戦士ガンダム』というIPがここまで発展したことを考えると、シャアのキャラクターを変えてでも、彼の生死をより曖昧にして留保しておくことは、紛れもなく正解であったでしょう。

たった一箇所の台詞の変更でしたが、間違いなくそれがシャア・アズナブルの運命を変えた。
それは間違いないと思います。
ですよねセイラさん?

セイラ:「早く死んで欲しい」





まとめ&あとがき


シャア・アズナブルというキャラクターの生死、特にTV版と劇場版の違いについて、何か具体的なソースがあるかも知れませんが、私はロマンアルバムなど、当時の資料を全く所持していないので、そのあたりは分かりません。
分かりませんが、ここまで長々と書いてきたように、映像(作品そのもの)を比較するだけでこれぐらいの事は分かるので、今回の記事の範疇であれば特に必要では無いかなと思っています。

その上で、TV版のセリフ(から導かれる物語)と、劇場版のセリフ(から導かれる物語)の好みはあろうかと思います。
私のスタンスとしては記事に書いたとおり、TV版の方が好きで完成度も高いと考えている一方で、劇場版の変更は分かりやすく(自然に)改善されており、かつ、生死の留保を付けたことは結果から見て大正解、というわけです。

なお文中に「キシリアバズーカ」がパワーワード化して頻出していますが、こんな言葉はありません。
「シャアがキシリアにバズーカ撃ち込む場面」が何度も出てくるので、この記事の為だけに思わず略語をつくってしまいました。
別に、キシリアがバズーカで兄上の後頭部を吹っ飛ばしたわけでも、キシリアがジオン中央銀行の総裁というわけでもありません。

今回の記事は、大変興味深く、有益なコメントを頂いたことが全てのきっかけです。
コメントを投稿して頂いた「君子豹変」さん、ありがとうございました。御礼申し上げます。
持つべきものは、すばらしいコメントを残してくれるありがたい読者ですね。

それにしても、シャアの悪運の強さというか、殺せないキャラクターに成長・変化していく過程、大変興味深いものです。
ファンの人達も当時喜んだんだろうな。これは多分、死んでないぞって。
セイラさんもそうですか? だって、兄さん死んじゃったーって泣いてましたもんね?
よかったですね。愛するキャスバル兄さんですもんね?

回答なし。 ※後日、編集部に「早く死んで欲しい」とだけ書かれたFAXが届いた





関連記事の紹介


顔のない無人ロボットが演じるシンボリックなアクション<『レディ・プレイヤー1』でのガンダム登場と『機動戦士ガンダム』のラストシューティング考>

この記事でも出てきた「ラストシューティング」というシンボルのすごさについて。映画『レディ・プレイヤー1』の話もしていますが、結局ガンダムの話しかしていません。

ナナイ・ミゲルからシャア・アズナブルへの質問と確認と安堵と絶望 <映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でのすれちがい宇宙>

生き残ったシャア・アズナブルの行き着く先はどこか。
この記事を読んで、君もセイラのようにFAXを送り付けたくなろう。

落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>

今回の記事タイトル(逃げるキシリア、ケリをつけるか? チャンスを活かすか?)を見て、「どこかで見たことがあるぞ?」と思った方は上記の記事を見て下さい。



ほかにもガンダムや、富野アニメについての記事を色々書いていますので、目次ページで興味を引くものがあればご覧頂ければ幸いです。

【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
いきなりだが、映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の話をしよう。




劇中、ネオ・ジオン総帥となったシャア・アズナブルと、その部下にして恋人ナナイ・ミゲルが、シャアの私邸?で会話するシーンにこんなやりとりがある。

ナナイ「クェス、よろしいんですね?」
シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」
ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」


このすれ違い!
このすれ違い会話がいつ見てもたまらない。

ナナイの質問は明らかに複数の意味を込めている。
だから、シャアの回答でも間違いではない。
間違いではないが、コミュニケーションとしては完全にすれ違っている。

はたしてナナイは何を確認したかったのか?

今回は映画『逆襲のシャア』から、ナナイとシャア、大人の男女2人がお酒を飲むこのシーンだけに絞り、公私ともにパートナーであるはずの2人がする、すれ違いの会話を丁寧に追ってみたい。

なのでモビルスーツやファンネルの血湧き肉躍る話は一切出てきません。
(もうファンネルのことは書かんでええやろ!)

※小説などもありますが子供の頃に読んだきりですし、あくまで映画を材料に話を進めます。

公私共にシャアを支えるパートナー、ナナイ・ミゲル


伊東マンショ、中浦ジュリアン、ナナイ・ミゲル、そしてブルーノ・サンマルチノ。

※よいこのみんなへ
4人並べるネタで、2人ボケちゃダメ。半々になってフリもボケもブレるから。
しかもナナイじゃなくて、サンマルチノがいちばん言いたいからって最後に置くのもっとダメ。

本題に入る前に、人間発電所ブルーノ・サンマルチノの基本プロフィールを確認しておこう。

ナナイ・ミゲル(声 - 榊原良子)

ネオ・ジオンの戦術士官で大尉。ニュータイプ研究所の長も務める。シャアと個人的にも親しく、思いを寄せている。軍事では参謀として、私的な場では恋人として、彼を公私にわたってサポートする。軍人としては部下に厳格な面を見せる。シャアが連れてきたクェス・パラヤをシャアから任され彼女を強化するが、彼女に対して多少の嫉妬も抱いており、何かとクェスをかまうシャアに苛立ちを見せることもあった。

Wikipedia:機動戦士ガンダム 逆襲のシャアの登場人物


ナナイ・ミゲルは、シャアの公私を支えるパートナーという重要なキャラクターだが、『逆襲のシャア』にて初めて登場する。
ハマーン・カーンを映画用に、可愛げと従順さを強化した(強化人間!)ようなキャラクターと思って頂ければよいだろう。
演じるのは、ハマーンと同じく榊原良子さん。

『逆襲のシャア』は、アムロとシャアが決着をつけるための映画。
ナナイは、シャアにとって都合の良いパートナーとしての「いい女」としてデザインされているので、映画の主旨をよく理解して、話をかき回したりすることはない。

シャアのパートナーとして見れば、改良型ハマーンとして完璧だと思うが、ハマーンが不適格というよりも、シャアがあまりにシャアすぎるので、ナナイぐらいの調整して合わせてあげないとダメだったと考えるべきだろう。
とすると、むしろ浮き彫りになるのはシャアの「変わらなさ」だと思う。

個人的には、シャアの思いどおりには動かない「やっかいな女」であるハマーンの方がキャラクターとして好みだ。

もちろんこの映画での役割として、ナナイというキャラクターのデザインには何の問題もない。
そして、そのナナイに榊原良子さんがキャスティングされているのは、ハマーンは「シャア無き欠損」を抱える空虚なキャラクターでもあったが、あの声はそうではないという事だと思う。
声と中身のバランスを取ったキャラとしてのリメイクともいえるかも知れない。

『機動警察パトレイバー2 the Movie』での、南雲隊長にも何らかの影響を与えているような気がしている。


押井守監督が『逆襲のシャア』結構好きで、声が同じく榊原良子さんで、というだけでなく、過去に囚われたテロリストの幻想に巻き込まれる女性として。
連邦側に属してシャアに手錠をかける方のナナイ。

会話シーンを語る前の前提(ここまでの逆シャア)


『逆襲のシャア』は約2時間(1時間59分)の映画で、本題の会話シーンは約45分経過したあたり。ここまでの展開のうち、会話に関係するポイントだけは前提として抑えておきたい。

冒頭の会話に出てきた名前、クェス。クェス・パラヤ。
地球連邦の高官アデナウアー・パラヤの娘にして、13歳の少女。民間人。
コロニー・ロンデニオンで、シャアとアムロの罵り合いながらの格闘(有名な巴投げシーン)で、シャアに加勢し、シャアの「行くかい?」で、本当にシャアについていってしまう。

その後、ニュータイプ研究所(ナナイが所長)で訓練を受け、ニュータイプとしての才能を開花させる。

クェス_ファンネル攻撃

わずかな訓練で、ファンネル攻撃を成功させるクェスを見て、シャアがつぶやく。

シャア「あの子と同じだ」


「あの子」に該当する人間が、複数人存在するのがシャアのやばいところだが、この映画では最初のひとりであるララァ・スンのことであると思ってよいでしょう。つまりララァの再来のような才能だ、ということですね。マラドーナ2世です。

次のシーンが有名な電車のシーン(この映画、有名なシーンしかないな)。
シャアを「ドブ板選挙のできる男」と評したのは、あでのいさん(@adenoi_today)だが、まさしくその象徴のようなシーン。
ここでのクェスは初めて軍服姿で登場する。もはや民間人でもゲストでもないことが分かる。

そして高級ハイヤーで、ギュネイにクェスを送らせる。
先に降りるシャアは別れ際にクェスに優しい言葉をかけ、彼女の手にくちづけをして別れる。

シャア「大丈夫か?明日からの作戦は遊びじゃあない」
クェス「勿論、あっ」
(手にくちづけをする)「大佐」
シャア「今夜はよく休め」


明日からの作戦とは、もちろん軍事作戦を指す。
つまりクェスはいよいよ軍人として実戦に投入されるということだ。
緊張するクェスに優しい言葉をかけ、お姫様のように扱うシャア。

だが彼はなぜ先に車を降りたのか。それは私邸でナナイと過ごすため。
そして、シャアとナナイの2人だけの会話シーンが始まる。

ナナイ・ミゲル酒豪伝説


バーカウンターもある一室。
2人ともナイトガウンを着てリラックスした状態であり、完全なプライベート空間だ。
ナナイが酒を用意し、シャアに持っていく。

ナナイ01_酒豪

ちなみに、シャアがロックグラスで、ナナイがロンググラス。
ナナイは水割りかな?と思ったら、色指定的には同じ(濃さが同じ)に見える。
シャアがストレート(そのまま)だとすると……ナナイ酒豪だな、と思った。

ここからは、シャアとナナイの会話をすべて順に追っていこう。

ナナイ02_ロンググラス

ナナイ「アクシズを地球にぶつけるだけで、地球は核の冬と同じ規模の被害を受けます。それは、どんな独裁者でもやったことがない悪行ですよ」
「それでいいのですか?シャア大佐」
シャア「いまさら説教はないぞ、ナナイ。私は、空に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにする為には、誰かが人類の業を背負わなければならない」
ナナイ「それでいいのですか?」
(シャア、黙ってうなづく)


もちろん親しい仲での雑談ではあるが、いきなりナナイは確認から入る。
アクシズ落としは、どんな独裁者でもやったことがない悪行だが、それでいいのですか?と。

シャアはブレない。シャアが述べていることが世迷言でも、インテリの世直しでも、ニュータイプという蜘蛛の糸にすがるカンダタでも何でもいい。問題は目的遂行のために迷いがないかだ。

この会話シーン全体に言えることだが、ナナイは基本的に、シャアを見つめながら話をする。
しかしシャアは他を見ているか、もしくはナナイとは真正面から視線を合わせない。きちんとナナイの目を見て話すのはごくわずかである。
もちろん現実でも、視線を見つめ合って話をすることは結構少ない。たとえ親しい仲や家族でも。
だから、ある種のリアルだとは言えると思うが、一方が見つめることが多く、もう一方はそれを見ないことが多い、という非対称性は映像としての会話のデザインであろうと思う。

ここではナナイがシャアを見ている一方で、シャアは別のところを見たり、視線をはずしたりするというのが、2人の関係性ということになる。

それを踏まえて見ていくとなかなか面白い。次の会話。

ナナイ04_視線をはずす

ナナイ「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
シャア「私はそんなに小さい男か?」


ここでは、ナナイが窓際に歩いて、手前にナナイ、奥にシャアという構図に変わる。
早速、ナナイがシャアから目線を切っているじゃないか、となるわけですが、会話の内容を見て欲しい。

ナナイはまた確認の質問をする。
「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
つまり、結局はシャアの個人的な動機なんでしょ?と問う。
シャアが「私はそんなに小さい男か」と答えるが、このタイミングでナナイは目線をはずす。

当初から質問しかしていないことに加え、この芝居を見る限り、ナナイは、ジオン・ダイクンの息子としてスペースノイドを導く指導者を最後までやってくれるのかどうかについて、かなり疑っている。いや不安に感じているといった方がよいか。
歴史に最大の悪行を残してでも、人類のニュータイプ覚醒といった大義のために大仕事にやり遂げる覚悟は本当にあるのだろうか。
最後の最後に全部ほっぽりだして、ただのモビルスーツ乗りとして恋人(宿敵)との楽しいダンスに興じてしまわないだろうか。(鋭い。当たりです)

もちろんシャアは「私はそんなに小さい男か?(笑)」と、ナナイからの否定(フォロー)を求めるような返しをするのだが、ナナイはその顔を見ないし、答えない。
そして目線をはずしたまま、つぶやくように言う。

ナナイ「アムロ・レイは、やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男です。女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」


これ、かなり重要な台詞だと考えています。
ナナイが、アムロのことを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」として批判していると捉えている解釈を見かけたりしますが、私は違うと思います。

ナナイにはアムロと何の因果も因縁もありません。会ったことも話したこともないでしょう。
ナナイが知るアムロというのは基本的に「シャアが語るアムロ」になるはずです。
であれば「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」は、シャアによるアムロ評でしょう。

シャアの認識では、アムロは戦場で出会った敵(ララァ)とふれあい、深くつながろうと互いを理解し合おうとした男です。
一方のシャアは「戦いをする人ではなかった」ララァを戦場に連れ出して、戦争の道具として利用しましたが、アムロはそうしなかった。敵であるはずのララァと2人だけの密会をして、分かり合おうとした。
しかし結局は、アムロによってララァは喪われてしまった!
やさしさアプローチで近づいて、ニュータイプNTRしてきたアムロのせいで!

シャアとしては自身の罪に向き合うのでなければ、シャアがしない(できないともいう)ニュータイプ能力の使い方をしたあげく、ララァを殺めたアムロを否定するしかない。
かくして、アムロは「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」というインディアンネームを与えられ、恐らくナナイもシャアから何度も聞いていたことでしょう。

しかしナナイは「女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」と続けている。今の話の流れで行けば、この許せる女性はララァ・スンのことになるでしょう。
しかしシャアにとっては、ララァが許しても、私が許さんわけです。

個人的には、ナナイが意図する「女性」とは、ララァだけでなく、ナナイ自身も含まれていると思っています。いや下手したら女性全体ぐらいを想定している可能性すらあるかも知れない。

もしそうであれば、「光る宇宙」でのアムロについて、被害者のララァどころか、私(ナナイ)も別に許せるし、もし全ての女性にアンケート取ったら多くの女性はアムロを許せるかも知れない。
シャア相談員「許せない」、上沼相談員「許せる」、ゲストの瀬川瑛子相談員「許せる」。
アムロを許せないのはつまりはシャア大佐、あなただけでしょう? という意味になる。

これを最初の質問とつなげれば、あなたは自分が許せないからこそ、アムロが生涯許せないし、だからネオ・ジオン総帥として道化を演じてまで対決を望んでいるのでしょう?でも、あなたについてきた多くのスペースノイドや私達のために嘘でも違うと言ってください。
……ぐらいの超意訳ができるかも知れない。

それなのにですよ。ナナイのこの台詞を聞きながら、なんとシャアは「光る宇宙」の回想に突入してしまうのです。

「光る宇宙」で悪いの誰だ? 誰が「白鳥」殺したの?


『機動戦士ガンダム』第41話「光る宇宙」での場面、映画が直接引用するのは、ファーストの劇場版である『めぐりあい宇宙』ですが、とにかく、アムロがララァを誤って殺めてしまう場面が、シャアによって回想される。

基本的には、アムロとシャアの因縁を明示するための過去回想で、観客のために挿入されたシーンになるだろう。この映画で挿入される回想はこれだけであり、その重要さが分かる。
(もっとも、この映画を見るような人には、このシーンの紹介が必要ない人も多いだろうけれど)

場面としてはおなじみではあるが、宇宙世紀0093年のシャア・アズナブルによる回想であることに意味がある。
シャア自身が当時のことを今現在どう捉えているのか、という点こそが重要なので、その視点で見ていこう。

ナナイ05_光る宇宙

シャア『ジオン独立戦争の渦中、私が目をかけていたパイロット、ララァ・スンは、敵対するアムロの中に求めていたやさしさを見つけた。あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』(回想突入)

シャア「む?」
アムロ「ララァ」
ララァ 「アムロ」
シャア「ララァ、敵とじゃれるな」
ララァ 「大佐、いけません」
シャア「何?」

シャア『あの時、妹のアルティシアがいなければ』

ララァ 「ああーっ」
アムロ「しまった」
シャア「ララァ」

『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』


見ての通り、語りどころが色々とある。

『あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』の箇所。
これ結構重要で、シャアは恐らく死ぬまで、アムロがララァとしたような、カミーユがハマーンとしたようなレベルでの、ニュータイプ同士の共感というものをしていない。
なので「だろうとはわかる」という言い方になる。

完全に理解した

これについては、過去に記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(記事の終わりに、関連記事として紹介します)

次、『あの時、妹のアルティシアがいなければ』
「光る宇宙」において、アムロ、ララァ、シャアの3人だけが注目されがちだが、セイラ(アルテイシア)もその現場に居て、かなり重要な役割を果たす。

これも、過去にこの話で記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(2度目。記事の終わりに、関連記事としてまとめて紹介します)

『あの時、妹のアルティシアがいなければ』のあとに続く言葉は、当然「ララァは死なずに済んだのに」である。

実際はどうだったか。
悲劇の直前、アムロと兄キャスバルの間に割って入ろうとするセイラのGファイター(映画、回想ではコアブースター)。シャアのゲルググは斬ろうとするが、寸前でナギナタの刃を止め、相手が妹アルテイシアだと気づく。
だが、そのスキをアムロに突かれて片腕を斬られてしまい、さらにとどめを刺されようかという絶体絶命のピンチをララァにかばわれ、彼女は命を落とします。

ニュータイプ・アムロとララァによる心の交流を表現する上での対比・強調の問題だと思いますが、この場面でのシャアは、肉親であるセイラの存在に徹底的に気づかない。
赤の他人でロクに会話すらしたことがないアムロとララァが感じ合い、分かり合ったのと比べて、血が繋がっているはずのシャアとセイラの通じなさは極めて象徴的だと思う。

そもそもシャアがナギナタの刃を止めることができたのは、先にララァがセイラを感じ取り「大佐、いけません!」と止めたからに過ぎません(だから刃を止める→気づくの順番)。
つまりララァは、アムロが「取り返しのつかない過ち」を犯す前の段階で、シャアが「取り返しのつかない過ち」を犯す所だったのを止めてくれてるわけです。

しかもこの際に、シャアがコクピット内のセイラを目視して「アルテイシアか!」と気づく主観のカットをわざわざ入れている。この目視のカットの挿入が実にすばらしい(回想では省略)。
この戦場でセイラを認識していないのはシャアだけ。彼だけにはこのカットが要るのです。

風が吹けば桶屋が儲かるといいますが、物事は連鎖しますので『妹のアルティシアがいなければ、ララァは死なずにすんだのに』といえないことはないですよ。そりゃあ。
でもこの時、宇宙世紀0093年です。事件から10年以上経過しています。それでなお、妹のせいだという認識なんです。

そして『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』
シャアがララァに導いて欲しかったのはまぎれもない本心だと思います。
ジオンの遺児という己の生まれからの逃走という意味では、キャスバル→エドワゥ→シャア→クワトロと何度も別の人間になろうとしたが、成りきれないシャアにとって、ララァは自分が「ジオンの息子」ではない何かに生まれ変わる為に必要な存在だった(そのための母)。

ただ『なまじ、人の意思が感知できたばかりに』が問題で、ララァがアムロの意思をキャッチできて、それを受け入れる包容力があったことが問題だと言っているに等しい。

シャアは、ララァと男女の関係になったとしても、その体験はしていない。それは、シャアの嫉妬を生み、そこから悲劇が始まった。

でもシャアにとっては、人の意思が感知できたせいで起こったことであり、いわばララァのせいなのです。
人のニュータイプへの革新を信じ、アクシズを地球に落としてでもという男が、宇宙世紀0093年に言うことかとお思いでしょうが、私もそう思います。(だからナナイも不安がるわけです)

では「光る宇宙」回想について、シャアの認識をまとめましょう。

・アムロのせい (ララァにやさしさで接触し、最終的に手をかけたので主犯。許さん)
・アルテイシアのせい (なんであんなとこに飛び込んでくるんだよ。ララァが言うまで気づかなかったじゃん!)
・ララァのせい (ニュータイプ同士で意思を感知できるからって、俺を無視してアムロとつながんなよ!)

以上が、10年以上経過した宇宙世紀0093年での認識です。
これは、もう、なんというか、あれです。まさにあれとしか言いようがありません。

もちろん、そもそも「戦いをする人ではない」ララァ・スンをニュータイプとして訓練し、戦場に連れ出した張本人が誰だったのか、という根本的な原因についての追求はありません。

誰が白鳥殺したの?
「わたし」とアムロが言いました。
わたしのビームサーベルで、わたしが白鳥殺したの。

誰が白鳥殺したの?
「妹」とシャアが言いました。
木馬を降りずに戦うので、妹が白鳥殺したの。

誰が白鳥殺したの?
「ララァ」とシャアが言いました。
敵と戦場でじゃれあって、ララァが白鳥殺したの。

誰が白鳥殺したの?
「アムロ」とシャアが言いました。
やさしさを勘違いしてるから、アムロが白鳥殺したの。


ここで、ミライさんが「さあ、みなさん、お手を拝借!」とやり、カイ・シデンが歌い、ワッケイン司令が踊ってくれたら、白鳥も成仏できるかも知れないし、できないかも知れない。(常春のコロニー・マリネラ)

シャアの瞳にうつるララァに乾杯


シャア01_回想終わり

…………。

ナナイ「どうなさいました?」


わ!そうだった。ナナイにアムロの話されて、ナナイほっぽりだして回想してたんだった。

シャア「似過ぎた者同士は憎みあうということさ」
ナナイ「恋しさあまって憎さ百倍ですか?」
シャア「ふん、まあな。明日の作戦は頼むぞ」
ナナイ「…」
シャア「私はアクシズに先行してお前を待つよ」


このシーン。
ここまでを踏まえると、シャアが、自分とアムロを「似すぎた同士」と語っているのもツッコミポイントだが、画面も面白い。

自分を見ていない(そりゃそうだ。回想してたからね)シャアに乗りかかるようにして、シャアの正面へ。
これでシャアもナナイを正面から見るしかない。

ナナイ08_可愛さ余って憎さ百倍

と、思いきや、微妙に体をずらして、真正面からは向き合わないシャア。
このあとすぐカットが切り替わるし、見てのとおり表情が描き込まれないサイズなので、顔を見せるというよりは本当に姿勢(視線)をずらしているだけ。
この動き。意図(真意)はともかく、この記事をここまで書いてきた私としては十分必然性に納得はできる。

シャア04_視線をずらすシャア

そして、シャアは自分のロックグラスをナナイに預け、席を立ってしまう。

シャア03_席を立つシャア

ソファの正面に立ち、肘掛けに両手をついて、逃がさないポジションを取ったナナイからすると、ロックグラスを渡されて左手が塞がり、スペースが開いたところをスルッと逃げられた形。

両手を広げてディフェンスしているナナイだが、シャアにグラスを渡されたら無視せず受け取ってしまう従順な習性を利用されて、逃げ道を与えてしまった。(ハマーンなら全無視で逃さないのだろうか)

そしてナナイは、退室するためドアに向かって歩くシャアを目で追いながら、最後の質問をする。
ここでようやく、冒頭で紹介した会話にたどり着く。

「クェス、よろしいんですね?」でナナイは何を聞いているのか


ナナイ12_よろしいんですね?

ナナイ「クェス、よろしいんですね?」


言葉をあえて補えば、「クェスを実戦投入して、よろしいんですね?」になるだろうか。

シャア03_ふりかえるシャア

ドアに向かって歩いていたシャアは、ナナイの質問に振り返る。

シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」


ナナイ14_クェスはニュータイプです

ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」


シャアはそのまま部屋を出ていく。

冒頭に書いたように、ナナイの台詞「クェス、よろしいんですね?」には複数の意味が込められているはずだ。
その中でも特に、兵士として実戦に投入されることが、クェス・パラヤという少女にとって、ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)になることをシャアに確認している。

それに対するシャアの回答は「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」である。

シャアは、ナナイが訓練や強化の不足を危惧して、そんな質問をしたと解釈した。
だから、あれ以上の訓練・強化をしなくても、もう戦場に出せる戦闘力を持っているから大丈夫だよ、と返している。
これがつまりシャアの認識であって、クェスを兵士、もっといえば戦闘マシーンぐらいにしか思っていないことを意味する。

シャア「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」


のちのこの台詞が無ければ、全てわかっている上ですっとぼけているという解釈の余地もあったかも知れないが……。

そもそもニュータイプ研究所の所長であるナナイには、クェスが実戦投入できるレベルであることなどもちろん分かっているだろう。わざわざそれをシャアに確認する必要などない。

この直前にララァの回想を挟んでいることから分かるとおり、ニュータイプの素質のある少女を訓練し実戦投入して一生もののトラウマを引きずるシャアに対して、新たなニュータイプ少女クェスの実戦投入について最終確認をしている。
本当に、本当によいのかと。

そう考えると、シャアの返答 「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」 は、完全に勘違いのすれ違いだが、会話はそのまま続く。

ナナイは言う「あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」と。

訓練を担当したニュータイプ研究所所長として、シャアの判断に太鼓判を押したように見える。
問題は「サイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプ」のところ。ギュネイのような強化人間と違い、本物のニュータイプの素質のある少女だと言っている。つまり「ララァ・スン」のようなニュータイプだと。

それはクェスがファンネルを操るのを見たシャアの「あの子と同じだ」という感想と重なる。

だから「そうだろうな」と、ナナイの評価に同意し、そのままシャアは退室する。

そしてこのあとクェスは実戦投入され、初陣で父アデナウアーを殺害。回帰不能点を越える。
アデナウアー→アムロ→シャアと流れてきたクェス・パラヤの避難所(アジール)はかくして、巨大モビルアーマーだけになる。そこへ追い込んだ当人の自覚なしに(これが本当にひどい)。

ナナイ「……、ジオン・ダイクンの名前を受け継ぐ覚悟が、大佐を変えたと思いたいが。くそっ」
「あんな小娘に気を取られて」


ナナイ15_気を取られて!

部屋に残されたナナイは、シャアに手渡された(ここ重要)ロックグラスを床に投げつけて、イライラするように髪をかき上げて、このシーンは終わる。

シャアのグラスを投げて 「あんな小娘に気を取られて」だから、シャアがクェスに気を取られている、という台詞なのだろうが、実際はここまで見てきた通り、シャアはクェスのことを道具ぐらいにしか認識していない。
せめて、本当にクェスに「気を取られていたら」どれだけ救いがあっただろうか。
だから実質、気を取られていたのは、シャアではなくナナイということになるだろう。

わずか3分程度の会話シーンだが、ナナイとシャアという公私ともにパートナーであるはずの2人の(視線を含めた)会話がここまですれ違っており、それでいながら見かけ上ごく普通の会話のように進行していくのは見ごたえがあり、大変すばらしい。

ナナイは確認はとるが、シャアには反論しない。
なぜならシャアの「いい子」だから。

シャアの「いい子」と、ハサウェイの名前


『逆襲のシャア』には、シャアによる「いい子」という台詞が2つある。

ひとつはクェスに対して。
有名な(有名なシーンしかない)生身で宇宙に出るシーン。

シャア「クェス、パイロットスーツもなしで」
クェス 「ほんとだね?ナナイを折檻してやって」
シャア「ああ、本当だ」
クェス 「なら、少し働いてくる」
シャア「調子に乗るな」
クェス 「でも」
シャア「実戦の恐さは体験しなかったようだな」
クェス 「恐さ?」
シャア「ああ」
クェス 「気持ち悪かったわ、それだけよ。なのに、ナナイはやさしくなくって」
シャア「それで、私の所に来たのか」
クェス 「大佐」
シャア「その感じ方、本物のニュータイプかもしれん。いい子だ」


シャア05_いい子だ

「大佐」と胸に飛び込んでくるクェスを抱くが、当然、視線はクェスを見ていない。

もうひとつがナナイに対して。シャアがサザビーで出撃する直前のシーン。

ナナイ「四番艦、アクシズに入りました」
シャア「よし、核爆弾は地球に激突する直前に爆発するようにセット、クルーは収容しろ」
ナナイ「大佐、もうお止めしませんが、アムロを倒したら?」
シャア「ああ、あとはナナイの言う通りにする。戦闘ブリッジに入ってくれ」
ナナイ「はい」
シャア「いい子だ」


2人に対して同じ「いい子」を使っていることで分かる通り、本質的にクェスもナナイも、シャアにとって同じ扱いであることが分かる。
当然、対等ですらない。対等な相手を「いい子」などとは呼ばない。

クェスはもちろん、公私共にパートナーを務めてきたナナイに対しても「いい子」である。
ララァ以後のシャアにとって、全ての女性は「いい子」までにしかならない。

その上、シャアは宇宙世紀随一の「貧しい愛」の使い手なので、愛と引き換えに「いい子」の女性たちに何らかの奉仕をさせてしまう。シャアが本当に欲しいのはそうでないだろうに……。
そうなればますます対等ではありえない。

クェス 「あたし、ララァの身代わりなんですか?」
シャア「クェス」
「誰に聞いた?いや、なんでそんな事が気になる?」

クェス 「あたしは大佐を愛してるんですよ」
シャア「困ったな」
クェス 「なぜ?あたしは大佐の為なら死ぬことだってできるわ」
シャア「わかった。私はララァとナナイを忘れる」
クェス 「……なら、あたしはαで大佐を守ってあげるわ、シャア」


『逆襲のシャア』においての「貧しい愛」の例。
少女が「あなたのためなら死ぬことだってできるわ」と言い、それを言われた大人の男性が「わかった。過去の女を忘れるよ」と返す。つまり取引だ。
これで少女は愛する男に「過去の女を忘れてもらう」代わりに、死ぬことも辞さない奉仕をすることになる。

時を越えて、作品を越えて。
『∀ガンダム』において、キエル・ハイムと仮面の男ハリー・オードの男女が、同じようにコクピット内で以下の会話をする。

キエル「わかりました。なら、私をディアナにしてミドガルドに預ければ、アグリッパ達と刺し違えればよろしいのでしょ」
ハリー「ギム・ギンガナムが出てきたのです。まっすぐにアグリッパの所には行けそうもありません」
キエル「ハリー大尉にとってキエル・ハイムは、ディアナ様の影武者にもならない女でしょうか?」
ハリー「どういう意味でしょう?キエル嬢はご立派に」
キエル「私は、ハリー殿が好きなのです」
ハリー「ありがたいことです」
キエル「そういうことではありません、ハリー・オード」
ハリー「自分は親衛隊の隊長でありますから、ディアナ様以外に心を動かされることは……」
キエル「ハリー殿!」
ハリー「動かされることはござい……」
キエル「ハリー!」
「好きだとおっしゃってくだされば、アグリッパを暗殺する事だってやってのけましょうに」
ハリー「キエル・ハイム、いかように私をなぶっていただいてもよい」
キエル「……」
ハリー「あなたには、ディアナ様の盾になっていただきたい」
キエル「……」
ハリー「そのかわり愛するという愛では、それは貧しいでしょう

『∀ガンダム』第38話「戦闘神ギンガナム」より


キエル嬢は、ハリー大尉が好きと言ってくれさえすれば、危険な暗殺だってやるという。何でもやる。命だって惜しくはないと言っているわけです。
だがハリーは、これをするから、代わりにこうしてほしい、という契約と取引による「その代わりの愛」、それでは貧しいときっぱりと本人に告げる。
あなたとの関係を「貧しい愛」にはしたくないと。

『∀ガンダム』はさまざまな意味で、『機動戦士ガンダム』という巨大な何かを終わらせる作品だが、仮面の男が始めた「貧しい愛」を、仮面の男が否定するという意味でも、大きな価値がある作品だ。



話を『逆襲のシャア』に戻す。
クェス・パラヤは、シャアとの取引を守り、モビルアーマーα・アジールを駆って戦場で戦い、最終的に命を失ってしまう。
まさに「大佐の為なら死ぬことだってできる」わけだが、そんな彼女の前に現れたハサウェイに対しての呼び方に注目したい。

ハサウェイ「クェスだろ?これに乗っているの」
クェス 「なれなれしくないか?こいつ
※中略
ハサウェイ「駄目だよクェス、そんなんだから敵だけを作るんだ」
クェス 「あんたもそんなことを言う。だからあんたみたいのを生んだ地球を壊さなくっちゃ、救われないんだよ」
※中略
ハサウェイ「クェス、そこにいるんだろ?わかっているよ、ハッチを開いて。顔を見れば、そんなイライラすぐに忘れるよ」
クェス 「子供は嫌いだ、ずうずうしいからっ」


と、ここまでさんざん「こいつ」「あんた」「子供」呼ばわりしたあげくに

クェス 「直撃!? どきなさい、ハサウェイ!」


ここで咄嗟に、思わず「ハサウェイ!」と名前を叫んでしまうのは本当に最高だと思う。
私はここがあるから、クェスのことは絶対に嫌いになどなれない。

これについて監督の富野由悠季は「クェスのように最後の3秒間だけ人の気持ちを考えても遅いんです」と語っていたような記憶がある。

それは事実かも知れないが、「貧しい愛」の契約に囚われた少女が最後に、思わず名前で呼んでしまう少年のために死んでしまうというのは、絶望の中の救いでもあると思う。

シャアから愛をもらう為だけに、死ぬことだって厭わないはずの少女が、本気でクェスのことを見てくれる少年のために命を使えたのだから。
最後にそういうクェスであったことだけが、わずかな救いになる。

だから、この場面の結末が異なる『閃光のハサウェイ』は当然、意味が違ってくるし、『GUNDAM EVOLVE』で富野由悠季がストーリーを書き下ろしたのが、この場面の変奏、クェスを導くアムロとそれによって変化したクェスだったことにも注目したい。


『GUNDAM EVOLVE』自体はプロジェクト的に3DCG技術を用いた戦闘シーンが主目的であったとは思うが、富野監督がストーリーを書き、変化させたのが、アムロとシャアの戦闘やその結末などではなく、このクェスとハサウェイの場面であったことは、この物語で何が必要で何が重要かを示していると思う。
(世の中は広いので、この映画にクェスやハサウェイが必要ない、と仰る方もいらっしゃいます)

ナナイが確認したかったものと得たもの


いつものように脱線してきたので、ナナイ・ミゲルの話に戻そう。
ナナイは、この場面で質問(確認)ばかりしている。

・どんな独裁者でもやったこともない悪行(アクシズ落とし)をしますけど、いいんですか?
・アムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?
・(アムロへの)恋しさあまって憎さ百倍ですか?
・クェス、(実戦投入して)よろしいんですね?

こうしてみると、ナナイは本当にシャアのことがよく分かっているのだと思う。
分かっているのだとしたら恐らく、ネオ・ジオン総帥としてのシャアに対して、ここまでついてきた私達を見捨てないで、という気持ちと、恋人としてシャア本人が本当にやりたいことは止めようがない(諦めにも似た)から自由にやらせてもあげたい、という思いが同居していることだろう。

だからこそ「クェス、よろしいんですね?」に込められた意味は重い。
これは、大佐が後悔し続けているララァ・スンのような少女を戦場に出すのと同じようなことをしようとしていますよ。それでいいんですか?という問いだ。(ハマーンで繰り返し、カミーユもある意味そうだし、ナナイ自身も該当するかも知れない)

ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)はクェスにとってだけではない。
シャアもそうだろうし、彼と共に進むつもりのナナイにとってもそうだ。
またニュータイプ少女を貧しい愛で消費するというポイントを越えるんですけど、いいんですよね?大いなる目的のためですから、いいんですよね?

ナナイは彼女自身100%答えが分かっている質問をしているだろう。
彼女が質問する相手は、アムロ・レイを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」というのだから。
10年以上前のララァの死は、アムロとアルテイシアとララァ自身のせいなのだから。

そしてシャアは、恐らく彼女の予想通り、期待通りの返答をした。

「これでこそシャア・アズナブルだ」と、ナナイは思ったかも知れない。安堵といってもいい。
貧しい愛を振りまいて、ニュータイプを戦争の道具に使い、それでもスペースノイドを導く道化を演じるジオン・ダイクンの遺児。
それでこそ、私の愛するシャア大佐。

そして、そう安堵をしたならば、同時に絶望もしたろう。シャアという男の変わらなさに。
ナナイが質問と確認で得たものは、この安堵と絶望だったのかも知れない。

ナナイ「私は大佐に従うだけです」
シャア「いいのか?」
ナナイ「愛してくださっているのなら」


ナナイ16_愛してくださるのなら


まとめ、もしくはあとがき


この記事で取り上げた会話シーンは、2時間の映画でわずか3分ほどですが、こうして記事が1本書けるほど、濃密で見ごたえのある場面になっています。

恋人関係にある2人の会話でありながら、決定的にディスコミュニケーションであり、それでいながら見かけ上は普通に進行していく会話。面白いですね。

この記事では、ナナイの視点から見る関係上、シャアにはかなり厳しい言葉を連ねましたが、私は『機動戦士ガンダム』のシンボルとなるキャラクターはシャア・アズナブルだと思って、愛しています。
シャアについては、色んな視点から色々な記事を書いていますので、興味があればぜひ読んでみて下さい。この記事でのシャアは、彼のひとつの面でしかありません。

また、この記事を何日かに分けて執筆していた時に『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の発送通知が届きました。
正直なところ、届いて色々気になるところを確かめて、それを記事に反映させようか迷いましたが、資料としても膨大ですし、記事をアップするのがかなり遅れそうだったので、一切見ないことにしました。
商品は届いたけれど、記事アップ後のご褒美ということにしましたので、これでやっとご褒美にありつけるという思いが大きいです。今は。

小説版も同じですが、公式記録全集を資料として参考にすることはあっても「答え」が書いてあるわけでもないので、映画を見てどう感じたか、どう読み取ったかということ自体は、自分がフィルムと向き合うしかありません。これで良かったと思います。

※追記。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の絵コンテ情報によると、舞台となる私邸は、ナナイの私邸であるようだ。しかし、その情報は物語に特に必要ないため映画に盛り込まれず、従って本記事の内容にも一切影響を与えることは無い。


ちなみに『逆襲のシャア』という、ひとつの映画作品としてはこれで全く問題がないですが、シャア・アズナブルというキャラクターの連続性として見た場合、この映画のシャアはやはり本人のいうとおり道化を演じていると言わざるをえないところがあります。

アムロとシャアの決着、初のオリジナル劇場映画、ということで、現在の言い方でいえば、魔王を演じて、無理やり舞台に勇者を引っ張り出すようなところがどうしてもあります。
だからシャア・アズナブルとしては、一世一代の大舞台を富野監督にオファーされ、それでも渋るシャアに「アムロとはたっぷりいちゃいちゃさせてやるからさ」と口説かれたような感じでしょう(最後に死ぬことは伝えてない)。

個人的には、映画を成立させるために、その程度のことは当然必要であると思っています。
そして作られたこの映画は、今なお鑑賞に耐える濃密さを抱えており、こうして私は21世紀になっても長文記事を書いているのです。

今だと各配信サイトなどで気軽に見ることができます。
初めての方も、そうでない方も、『逆襲のシャア』を楽しんでください。

それではまたお会いしましょう。






関連記事紹介コーナー


では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。
文中であとで紹介すると書いた、関連記事です。

アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」>

アムロとララァはニュータイプ同士で深くつながったが、シャアはその体験をしていないという話がありましたが、そもそもシャアはいつ「ニュータイプ」だと、アムロに認識されたのか?という記事です。
そして記事タイトルに入っているように、相互不理解と「貧しい愛」の話もしています。

僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

「光る宇宙」にはシャアの妹セイラも関わって、重要な役割をしていると書きましたが、その話はこの記事で。
全体としては『ガンダムZZ』に至るまでの、シャアを中心としたニュータイプを巡る因果応報の話です。

落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>

想定以上にこの記事が読まれて、初めて訪問された方がかなり多いようなので紹介記事を追加。
『映像の原則 改訂版』発売記念の応援記事として、2つの小惑星およびサザビーとνガンダムの戦いを「上手・下手」の原則で解説したもの。富野アニメ系の記事では多分、私の名刺代わりの記事。
「画面構成がこうだから、ここはこういう場面なんです」という画面ありきの読み解きではなく、「こういう物語構成だから、映像を流れにしたときにこの画面構成が選ばれた」という記事になるようにこころがけました。

アムロ・レイが、宇宙世紀の最後にしてくれたこと。<『逆襲のシャア』で起きた【奇跡】>

「ララァ以後」のアムロとシャアの女性観を軸に、『逆襲のシャア』で起こった【奇跡】とはいったい何だったのか?を考えます。
この物語での【奇跡】とは、アクシズが地球に落ちなかったという些末なことではない、という話です。

サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

「νガンダムとサザビーはどっちが強いの?」という質問はよく提示されますね。みなさんは、どちらが強いと思いますか?
この問いと「アムロの完全勝利」という実際のフィルム上の結果との関係から、νガンダムvsサザビー戦を考えます。

ほかにも『逆襲のシャア』や、シャア・アズナブルについての記事を色々書いていますので、目次ページで興味を引くものがあればご覧頂ければ幸いです。

【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス



最後にもうひとつ。
私の記事ではありませんが、クェスの最終的な避難所となった「αアジール」については、おはぎさんのすばらしい記事をおすすめ致します。

逆襲のシャアにおける、αアジールの機体名の意味から考えるクエス・パラヤ論
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2144.html
何か調べ物のために、Wikipediaを見ていた時、偶然知ったことだが、小説やアニメで大人気の『機動戦士ガンダムUC』に『獅子の帰還』という追補作品(外伝シナリオ)があるそうな。

その『獅子の帰還』には、『機動戦士ガンダム』に出演していたカイ・シデンが登場して、この小説での主人公リディ・マーセナスに対して、こう話す場面があるという。

「神様に片足突っ込んだ馬鹿を友人にしちまったのは、君だけじゃない」


カイ・シデンのセリフと考えると、なかなか興味深いと思いませんか?
今回はこの一言のセリフだけをよすがに、1本書いてみることにします。

神様に片足突っ込んだ馬鹿とは誰か




『獅子の帰還』は、このBlu-ray BOX初回限定版の特典として、脚本が付属したのが初出らしい。
その後、ドラマCDにもなり、今はマンガ化もされているようだ。




私はいずれも読んでいないが、現在も将来的にも恐らく読みそうにないので、Wikipediaの記述を頼りにすることにしよう。

Wikipedia:「カイ・シデン」には、『獅子の帰還』に登場する彼についてこう書かれている。

連邦から釈放されたリディ・マーセナスに11月12日に接触し、「バナージ・リンクスは生きている」と告げ車に乗せる。情報局の尾行をまくためにハンドルをさばきつつ、ミネバ・ラオ・ザビを戦争の矢面に立たせないために、リディを争いに巻き込まないために、バナージは消えるしかなかったと説明する。バナージの生存を確かめたいと言うリディに対し、命がけの覚悟が必要と諭しつつも、「必要な情報はくれてやる」と告げる。なぜ自分にそこまでしてくれるのかと問うリディに対し、「先輩風を吹かせたかったんだろうよ。神様に片足突っ込んだ馬鹿を友人にしちまったのは、君だけじゃない」と答えている。

Wikipedia:「カイ・シデン」


検索して、いくつか調べてみたが、このとおりのセリフが登場するのはどうやら事実のようだ。

カイが言う「神様に片足突っ込んだ馬鹿(友人)」とは、当然アムロ・レイのことでしょう。
ということは、アムロもバナージも同じ「神様に片足突っ込んだ存在」であると、カイが語ったことになる。

『機動戦士ガンダム』で「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」とまで言ったあのカイ・シデンが、『逆襲のシャア』と『ガンダムUC』後のこの時代には、アムロ・レイを「神様に片足突っ込んだやつ」と思うように変化したのだ、という解釈なのだろうか。うーん……。

逆シャアのラストを見て、あれは「神様に片足を突っ込んだやつ」とサイコフレームがあれば起こせる、再現性のある説明可能な現象(なんたらショック)なのだ、という立場でいくと、そういう解釈になるのかな。

神様になる方法は逆立ちではなく、足を突っ込むことだったんだな。
どこをどうを突っ込めばいいのかは分からないが。

逆立ちしたって人間は神様にはなれないとは何か


復習と確認を兼ねて『機動戦士ガンダム』での「逆立ちしたって…」の場面を引用してみよう。




第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」にて、出撃前の作戦会議にてアムロが、ニュータイプの立場で「作戦は成功します。あとビットコインは買いです」と皆に断言します。
そのあと、出撃の為にエレベーターで降りていく場面。

カイ 「さっきお前の言ったこと、本当かよ?」
アムロ 「嘘ですよ。ニュータイプになって未来の事がわかれば苦労しません」
セイラ 「アムロにああでも言ってもらわなければみんな逃げ出しているわ、恐くてね」
カイ 「そりゃそうだな。逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな


一年戦争の時、カイ・シデンは、アムロと同じようなタイミングでモビルスーツに乗り始め、その後ずっとアムロの後ろで戦っていた。
アムロが自分達とは何か違うことについて、よく分かっている人間のひとりだろう。

そのアムロが、みんなの為に「優しい嘘」をついたことを知って、カイは「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」と言う。

ここでの「人間」は、アムロ個人のことでもあるし、人類全体のことでもある。
「逆立ちしたって」というのは、どうやっても、どうあがいても実現できない、という言い回し。

つまりカイは、アムロにはちょっと違うところもあるけれど、結局は自分たちと同じただの人間であって、都合のよい便利な存在(神様)ではないし、なりようもない、と結論づける。
ニュータイプ様の「優しい嘘」はありがたく受け取った上で。

「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」はいかにもニヒルなカイ・シデンらしい台詞ではあるけれども、それはニュータイプという道具の不完全さを皮肉っただけでなく、同時にアムロ個人を、自分たちと少し違うだけの同じ人間と定義づけている言葉で、個人的にはどちらの意味も重要だと考えている。

この後のア・バオア・クー戦で、カイも他のホワイトベースクルーと同じく、頭に直接響くアムロの声を聴く。
しかしカイと仲間たちに特に驚いた様子はない(もちろん余裕のある状況ではそもそも無いが)。
姿なき声だけで人々を導く、という状況だけを見れば、人によっては「これこそ神様に片足」と思うかも知れないのに。

このあたりは最終回としての畳み掛けるような処理ではあるのだけど、ホワイトベースという共同体が長い時間をかけて完成した上に、事前にカイによる「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」――つまり、多少人と違う事が出来ても同じ人間でしかない、とこの作品でのニュータイプを結論づけているので、ホワイトベースクルーが自然にこれを受け入れていることに不自然さは感じない。

アムロからの皆への心の呼びかけは、おチビちゃんたちが脱出するアムロに呼びかけ誘導する形で返される。
ランチ(脱出艇)の上で、両手を広げ、アムロを迎え入れるホワイトベースの仲間たち。
このランチの上の人々のニュータイプ的な能力、感度は実にバラバラだ。
高い人もいれば低い人もいるだろう。カイ・シデンも別に高い方ではない。
でもそのことは、ホワイトベースに偶然乗り合わせた仲間たちの中では何も問題にならない。

だからこそ、アムロはニュータイプの自分にとってあまりにも魅力的な、同種のニュータイプであるララァの世界を振り切って、同じ人間として生きる仲間たちが待つ世界へ帰還することが出来た。例え人間の世界が色々大変でも。
(と、書くとエヴァ旧劇的な要素も内包していると分かる)

『機動戦士ガンダム』最終話のサブタイトル「脱出」は、炎上する宇宙要塞ア・バオア・クーからの脱出は当然として、もうひとつの意味は、甘美なララァとの世界から抜け出せるかということだろう。

そのためにアムロは、外が見えない状態のコアファイターで宇宙要塞の産道を通って外の世界へ「脱出」するのだが、そこには待ってくれている人たちがいた。アムロを祝福し歓迎してくれる人たちがいた。
ちなみに、シャア・アズナブルの最期も限りなくこの状態に近い(モニターが死んだ脱出カプセル)のだが、彼を待っていたのは母なる地球の大気圏と断熱圧縮の熱だけだった。

神様になれない人間が、世界を変えるためには


『逆襲のシャア』劇中では、シャアがアムロに対して「今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ!」と迫るシーンがある。




もちろんこんな事は神様だってやったことない無理難題です。
シャアもそれは分かっていますが、それでも言いたくなったわけですし、実際に全人類という体で私を救ってほしいという意味では本音ではあるでしょう。

ただ、もしもカイ・シデンが、この「今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ」という台詞を聞いていたらひどく呆れるでしょう。

カイはガンダムの続編『Zガンダム』の時に、こう手紙に書いています。

「リーダーの度量があるのにリーダーになろうとしないシャアは卑怯」


そしてハヤト・コバヤシがその手紙の内容を受けて、直接シャアに進言します。

「10年20年かかっても、地球連邦政府の首相になるべきです」


このカイとハヤトの台詞はまったくの正論です。
シャアに本気で世界を変えるつもりがあるならば、いちパイロットに逃げてウダウダするのはやめて、覚悟を決めて何十年かけても政治で世の中を動かしなさいと言っている。
これが出来ないと最終的に、自分を道化と愚痴りつつ小惑星を落とす羽目になるのだから。

カイとハヤトがこの正論を言うことができるのは、アムロと一年戦争を戦い抜いて、「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」メンバーズとなり、ニュータイプに叡智を授けてもらおうなど欠片も思っていないからです。

ニュータイプの力をずっと近くで目の当たりにし、ア・バオア・クーでは脳内に呼びかける声も聞いた2人なのに、人類のニュータイプへの革新だの希望だの、そういった幻想を全く持っていないのは、なかなか尊いですね。

地に足のついた2人には分かっている。
「人間の世界」を変えるには、地味でも遠回りでも、何十年かけようが、正攻法をする以外は無いと。都合のよい魔法など無いと。

その正攻法の旗印になれとシャアに勧めるのは、シャア・アズナブルもまた自分たちと同じ普通の人間だからです。
彼に期待するのは本人のニュータイプ能力や人の革新だの何だのではなく、その生まれや能力を活かしてリーダーシップを取ることだからです。
もし何十年もかけて正攻法で世界にアプローチする覚悟があるならば、2人はこれを支持するでしょう。

ところがシャアという人はこれが出来ない人で、彼の人生のテーマとは「キャスバル・レム・ダイクンという己の運命から、いかに逃走を果たすか」だと言っていいと私は考えている。
名前を変えて違う人生を生きるのはシャアにとってはそのために必要不可欠なことだった。
そして完全に違う人間に生まれ変わるために必要だったのがララァ・スン。彼女を導き手(母)として生まれ変わるその機会を、アムロによって永久に奪われたことが、アムロとシャアの因縁として最後まで付きまとう。

シャアは、カイやハヤトの言う正論自体は理解していたと思いますが、はっきりいって自分はそれをやりたくない。
だから、何十年もかけて地球連邦の首相にはならないくせに、かといってセイラのように軍や政治からきっぱり身を引くわけでもなく、クワトロという偽名のいちパイロットとして中途半端に戦争に関わる。
セイラが身内として、死んで欲しいと思うのもまた正しいと思うぐらいには、不穏な男です。

キャスバル=シャア=クワトロとして、ダカールでは(珍しく)自ら表舞台に立って演説しましたが、ブレックス准将が生きていれば自分ではやらなかったと思われるし、この演説自体は内容が割とふわふわしていて、ティターンズvsエゥーゴの政争(世論がエゥーゴに傾く)としては価値があったものの、言ってみればそれだけという気もする。




第24話「反撃」でブレックス暗殺→第37話「ダカールの日」。
ブレックスの死とシャアのダカール演説までの間には話数が結構あるが、別にその間、シャアがリーダーシップを発揮してるわけでもない。

まるで劇場版的な圧縮処理だが、ダカールで演説する予定だったのはブレックスにしておいて、控室にいた所を暗殺される。遺言を残されて、シャアは急遽、血まみれのスーツで演説を行う。赤い彗星の赤は返り血の赤よ!
これぐらいのドタバタであれば、ふわふわ演説でも大丈夫かな、と思える。

こうして運命に逆らい続けたものの、最終的にはジオンの遺児キャスバルから逃げ切れず、ネオ・ジオン総帥になってしまい、アムロ・レイから

「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」


と言われるようなことをしてしまう。

このアムロの台詞は、カイとハヤトが『Zガンダム』でシャアに時間をかけた正攻法を勧めたことを踏まえると、アムロ、カイ、ハヤトの3人が共有している基本的な理念のようなものと言えるかも知れません。

カイもハヤトも『逆襲のシャア』への出演はありませんが、『Zガンダム』で突きつけた正論は刻を越えてシャアに刺さっていく。

話が大幅にずれた(すぐにシャアの話になってしまう)。

ちなみに『獅子の帰還』でのリディ・マーセナスは、「軍を辞め、父ローナンの私設秘書となる」そうなので、色々あって、結局は政治の道に入ることを選んだ、ということになるのかなと思います。

この話の流れで言えば彼はシャアとは違い、何十年もかかる正攻法の道を選んだ賢明なキャラクターともいえるだろう。
ただ個人的にはその要素よりは、このキャラクターを生んだ人間の物語の駒として、恐らく何十年もこれからの宇宙世紀や地球連邦に影響を及ぼす役割なんだろうな、と考えてしまうが。

それに私は、シャアのその徹底的な逃避を愚かなものだけとは思ってはおらず、むしろある種の賢明さとして尊いものだと考えているんですよね。
どうしようか。今回はカイ・シデンの……まあ、いいか(よくない)。

うちに帰れば「死ねば」のFAX30m


父性的な責任から逃れるのがシャアのライフワークと私はよく言いますが、これは単に批判なだけではなく、とても賢明で、その抵抗を尊いものだとも思っている。

貴種流離譚的なものからの徹底的な逃走というか。
キャラクターとしても物語にしても、リディのようになる方が賢明で収まりはいいし、もしくはシャアの場合、逆にジオン総帥には立場上すぐにでもなれてラスボスになれる。

そのどちらも選ばない。物語の類型を拒み、運命を拒み、モラトリアムな逃走を続ける。
そういうシャアを愚かというのは簡単だけれど、この点において私は、彼の逃走意思を絶対に否定はしたくない。

シャアの立場だとジオン・ダイクンの遺児としてリーダーでも革命家でも何でも出来る。
周囲も利用したがるし、頼りたがる。カイやハヤトだってフロントにはクワトロに立ってもらうことを考えた。
安易な革命ごっこに乗らず、インテリの世直しもせず、逃げることを選択したクワトロは賢明だと思うけど、完全に逃げ切って、別の人間として生きるためにはやはりララア・スンが必要になったと思う。

そのララァを奪ったのがアムロで、シャアの人生設計(アムロもだが)これによって狂いまくる。
だからシャアはジオンの遺児という己の運命からついに逃げ切れなかったことを、アムロの責任にしている部分がある。
逃げ切れなかったシャアは、アムロを巻き添えにする。お前にも責任があると。

セイラの「死んで欲しい」は本当に正しいので、シャアのオフィスに「死ねばいいのに」と書いたFAXを何枚も送って欲しい。
(これはFAXでないと、何ともいえない情念と面白みが出ない)

サイコな妄想(ゆめ)の扉


話がなぜか(なぜかではない)大幅にずれましたので、元に戻しましょう。

カイ・シデンという人物に対する私の認識は

「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」


原作でのこの言葉が示すとおり、アムロもシャアも人間に過ぎす、神様にはどうやってもなれない。人間として自分たちの出来ることで前に進んでいくしかないな。
……ぐらいのスタンスかな、と考えていました(今も)。

カイは一年戦争で理不尽な悲しい思いもしたし、ニュータイプの存在も体験も身近にあったのに、それでもこの現実的な視点が彼らしいな、と思っています(今も)。

もちろん「そのカイが考えを改め、人間が神様になることを認めるほどにサイコなあれはすごいのですよ」と、仰る方もいるかも知れないですが、後付けマッチポンプに特に興味がないので、私の知ったこっちゃないです。

それより純度の高いサイコフレームを一発キメると、気持ちのいい幻覚、時にはアムロやララァの亡霊すら見えて、強烈な快楽を得られると言われています。
但し宇宙世紀依存症の副作用や、闇社会の資金源として食い物にされる事もあるので服用には皆様も注意されたい。

あなたの考えるカイ・シデンは、人間が神様になれることを信じますか?

それでは最後にすてきなナンバーをお送りしてお別れしましょう。
明石家さんまで「ウイスキー・コーク」

サイコフレーム ギュネイ・ガス そしてあふれる人…人…人…・
そんなありふれた街でありふれた恋を僕はひらうかもしれない
でもぼくは沢山のひとと付き合うより ただ一度のありふれた恋でもいい
めぐりあったそのひとを 守ってあげたいと思う
(イントロ鳴り始める)







……あれ? このオチ、むしろ私が純度の高いサイコフレームをキメてるように見えない?

ブログ投稿のリハビリとして、過去ツイートから適当にネタを選んでおいたのだが、期せずしてある種のタイムリーさが出てきたような気がする。が、それは単なる偶然であって、人がそんなに便利になれるわけ……ない・……。


【関連記事の紹介】

「帰れる船」としてのホワイトベースとアーガマの対比 <『機動戦士ガンダム』での優しい嘘の共同体>

記事中にあった、物語終盤のホワイトベース共同体の成熟について具体的な例を紹介しています。これがあった後に、アムロの「優しい嘘」が来るという流れになっています。
また対比として『Zガンダム』終盤のアーガマはどうだったのか、という点を考えています。




PAGETOP