惑星の午後、僕らはキスをして、月は僕らを見なかった。<『∀ガンダム』最終話「黄金の秋」より>
嬉しいことに旧友も記事を見て感想をくれましたが、彼によると、私の記事は根本的な論点がずれているという。子供の頃から、一緒に富野アニメを見て育ち、語りあってきた友と、意見の相違が生じてしまっていたというのか?で、その論点のずれとは?
友人「"別れのキス”…あの場面の問題は…キスのとき、舌が入っていたか、いないか。それだけだよ」

……女王の目の前でどんなプレイなんだよ…。
彼は私が見えないロランとソシエの口内(奥)が見えるということか…。すばらしい能力だ。
さあ、みんなも行こうぜ。セルの向こう側へ!
今回は、『∀ガンダム』記事の補遺拾遺として、その後のいくつかのこぼれ話や連想などを拾ってみたいと思います(ひとつはつい先ほど、終わりました)。まあ雑談あれこれ、ですね。
「ディアナ妊娠説」と必要とされる結末
先の『∀ガンダム』の記事では、解釈論にしかならない要素は、意図的にできるかぎり排除して書きました。
しかし、記事の反応をいろいろ見ていくと、「私とは解釈が違う」という方もいらっしゃいました。
どういうところなのかな?と思って、あれこれ調べるうちに、「ディアナ妊娠論」というのがあるのを知りました。
「解釈が違う」が、これを指しているかどうかはわからないですが、違う考え方の一例として興味深いので、紹介しながらお話してみましょう。
「ディアナ妊娠説」とは
最終回エピローグでの、着膨れしているディアナ・ソレルは妊娠しているのではないか、という説。
この説では、ディアナのエピローグは死の暗示ではなく、子を産み、次なる生をつないでいくことになるようです。
私としては『∀ガンダム』は神話やおとぎ話でもいい、と考えています。
神話やおとぎ話が、長い時間の中で、多くの人々によって変化したり、バリエーションが生まれたりするように、『∀ガンダム』も、見た人によって、さまざまな受けとめ方(解釈)が存在していいと思っています。
けれど、冒頭に紹介した友人の発想と同じく、「ディアナ妊娠」というのは考えもしなかったし、私の周囲にも「ディアナ妊娠」説の人は全くいなかったから、その存在に気がつくこともなかった。しかし、ここまで180度違うのも面白いですね。
神話や民話には、「悲劇的な結末」と「ハッピーエンド」といったように、同じ話なのに全く逆の結末が存在してるものもあります。
それと同じように、神話的女王ディアナ・ソレルの物語の結末にも、生と死、陰陽2つのエピソード(解釈)が生まれて…いや、人々が望んで、必要として、それを生んだ、というべきかな。
それは歴史上の事実と関係なく、人々に信じられていくものがあるのと同じで、製作者の意図や本意とはまた別のものだ。
私個人としては、『∀ガンダム』にいたるまでの富野由悠季の道のりと制作時の年齢などメタ的な背景を前提に、映画ではカットされたけれど「アデスカ編(王殺し)」なども含めた本編の構造を考えると、「ディアナ妊娠」という落とし方は選ばれないかな、と思っています。
妊娠論者の方の中には、細かく考察している方もいるようですが、ディティールをどれだけ重ねても、それはディティールでしかなく、物語の大枠を決めるものにはならないと思う。
しかしそれでも、ありえたかも知れない「ディアナ・ソレルの幸福な生」を考える、ということそのものが面白い。
そこでは、「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という、いわゆる昔話の「めでたしめでたし」が、必要とされる物語になっている。
おそらく、それが真実がどうかとは関係なく、ね。
『∀ガンダム』を「ガンダム神話」として見たときに、こうした解釈が生まれていること自体がとても興味深い。
ただ、あの記事を書いた人間として私見(私の解釈)を述べるのであれば、「ディアナがロランに看取られて地球で命を終える」というのは、悲劇どころか、幸せな「めでたしめでたし」だと思います。
「幸福な死」を迎えられた人生は、十分に「幸福な生」だと思うので。
そもそも、ディアナの余生があとどれほどか、というのは何も語られていませんしね。
だから、「また明日」がどれだけ続くかは、それぞれに任される。
どう死ぬかが問題の物語であった以上、いつ死ぬかはもう問題じゃない。
だから、もちろん、「いつ死ぬのか?」で論争する意味もない。
創作者が物語を生むときにその人の生き方や考え方が反映されるのと同じように、受け手が物語を通して見た「物語の景色」は、その人の生き方や考え方が反映される。つまりは世界の見え方ですね。
物語の景色は誰にも縛られない自由なものである代わりに、自分に見えてしまった景色にはきちんと向きあう必要があるのではないかと思っています。
たまに同じものを見ているにも関わらず、すごくいい景色を見ている人がいて、うらやましいと思うのだけど、それを説明してもらっても全く同じ景色が見えるというわけではないからね。
ディアナ=キエル 入れ替わり完全犯罪
『Vガンダム』第19話「シャクティを探せ」にて、宇宙漂流していたシャクティ達は、ザンスカール兵士に拾われ、そこでシャクティが女王マリアの子であると確認される。
その際に確認されたのは、当然のことながら、声紋・指紋・網膜紋・血液鑑定という科学的チェック。
それでは、『∀ガンダム』において、女王ディアナ・ソレルの本人確認はどのようにされたのか?
女王ディアナ・ソレルと市井の一般人キエル・ハイムの外見がいかにそっくりだとて、指紋や網膜が全く同じというわけではない。きちんと科学的なチェックをすれば、必ず違いが分かり、判別がつくはずです。
しかし、作品を見た人であればご存知のとおり、ディアナとキエルが入れ替わったことには、誰も気づかない。
これがいわゆる「ディアナ=キエル入れ替わり完全犯罪」です。
なぜ、ディアナとキエルが入れ替わったことがばれないのか。
本人認証システムも何もないのはもちろん、そもそも医学的・科学的に本人かどうか、ということを調べようともしないんですよね。
誰も何もチェックをしないのだから、完全犯罪が成立するのは当然です。
ではなぜ、映画『ガタカ』とは言わないけれど、「ディアナ=キエル」の入れ替わりを、医学・科学で判別するというプロセス自体を物語に組み込まないのか。
ムーンレイスほどの医学・科学知識がないとはいえ、キエルもあまり気にしていないし、それ以上にディアナ・カウンターがそういったことを気にしていない。
本人認証のシステムを無いことにするとしても、本人確認をしようとするが、「女王の玉体には恐れ多くて触れられない」といった言い訳を入れることもできるし、ハリー・オードにフォローさせてもいいかも知れない。
それでも、抜けた髪の毛1本でもいいだろう。進んだ月の科学力をベースに、本人を見分けるためのプロセスを組み込んだ上で、言い訳もいろいろできるはずなのに。
ディアナとキエルを見分けるために必要なもの
月の女王ディアナと地球人キエルの「とりかへばや」は、この物語の軸ですが、その入れ替わりに誰が、どう、いつ、気づくのか(判別がつくのか)、ということについて、『∀ガンダム』は完全に「ドラマの仕事」にしています。
「ディアナ、キエルの入れ替わりの判別にテクノロジーは一切関与しない」というのが、この物語のルールで、リアリティコントロールでもあると思います。
科学的に判定できるテクノロジーレベルのはずなのにできないし、しないという大嘘ですよね。
ディアナ、キエルに科学は無力。彼女らを見抜くには別の条件や力が必要になるわけです。
私個人はこういうところに、『∀ガンダム』にプリミティブな「神話」や「おとぎ話」を感じるので、問題には全くならないです。
「ドラマのお仕事(役割)」と割り切ったこの大嘘は、この物語の神話性をより高めると思いますし。(むしろ、この点においてはロランに対して物足りなく感じたりします)
「月の科学力なら、ディアナとキエルの入れ替わりなんて検査したら絶対分かるでしょ。リアリティがない」という人もいるかも知れない。
それは正しい。正しいけれど、それを指摘しても何にもならないかな、と思います。最初からそこにリアリティを置いていないので。
だからあとは本編中での「ディアナ・キエルの入れ替わりバレ」イベント表を作成して、いつ、誰が、どのように、テクノロジーではない方法で誰が入れ替わりを知ったかを語ればいいんですけど、記憶があやふやすぎるのでやめときます。『∀ガンダム』のDVD-BOXでもあればやるんですが手元に何もないので。
それに後半、ディアナ、キエルの判別はだんだんと無意味になっていきますしね。
「ディアナ=キエル入れ替わり完全犯罪」は、「ディアナ、キエルの入れ替わりの判別にテクノロジーは一切関与しない(別の方法で判別する)」という物語のルールやリアリティレベルを基にしており、その大嘘は『∀ガンダム』をよりすばらしいものにしたと私は考えます。
ただ、それで考えたときに昔から恐ろしいと思っていることがひとつあります。
何がおそろしいって…ハイム家ですよ。
第10話「墓参り」のときに、母は。
医学と科学が、ディアナ=キエルの「とりかへばや」判定の役に立たないとしても、いや、役に立たないからなおのこと、キエルの両親―もっといえば母親、つまりハイム夫人だけは我が子キエルに気づく資格があるように思えます。
キエルを生んだ実母であるハイム夫人が、ディアナとキエルの判別についての物語要件を満たしてしまっているのだとすると、入れ替わり犯罪は早々に露見してしまうのでは?
以上を前提に、第10話「墓参り」を思い出してみましょう。
そもそも誰の「墓参り」なのか。キエルの父親ディラン・ハイム氏の墓参りです。生みの親の片方はすでに亡くなってしまいました。
そして、もうひとり、ハイム夫人は、この夫の死をきっかけに精神を病んでしまいました。
「墓参り」のときに、ディアナ(中身はキエル)に会ったのですが、彼女はもう自分の娘に気づかない。
最も入れ替わりに気づく危険性の高いハイム夫人を心が病んだ状態にして、入れ替わりに気づかせないというのはなかなかにすさまじい。
キエルは妹ソシエより先に成人式を終え、社会参加したがっていた。
それに反対していた父が死に、入れ替わりを見破るはずの母が狂い、成人式が中断された上に父の仇を討たんとする妹がいる。
スムーズな入れ替わりの物語進行上、キエル・ハイムにはメリットしか発生していない。
逆算して考えると、「墓参り」のためには、キエルの肉親が不要である、という前提が生じています。何らかの処理が必要です。
父親のディラン・ハイムは、ここまで語った「物語ルール(リアリティ)」では、娘の入れ替わりに気付けない可能性が高い気もしますが、仮にも実父。今後のソシエの行動原理のためにも、ここで死んでいただきましょう。
しかしハイム夫人はなぜ死なないのか?
ひとつの考え方としては、psb1981さんのすばらしいエントリがあります。
母は全てを奪う(∀ガンダム/富野由悠季)
http://d.hatena.ne.jp/psb1981/20070210/1171111723
さて、この物語のラストでは母親となって満たされたキエルと、ロランを得て一人の女として満たされたディアナの姿が描かれる一方で、故郷において全てを奪われ泣き叫ぶソシエの姿を見ることが出来るが、この時に彼女の背後に「ハイム夫人」が居ることに注意して欲しい。つまりソシエもまた人類同様、母親の呪縛から逃れられなかったのだ。
そう、ハイム夫人はソシエの成人式の、まさにその当日に「狂ってみせる」ことでわが子を手放すことを拒否したのである。
単に物語の進行だけなら、ハイム夫人は死んでも成立する。でも彼女は生き残り、気を病んで、子を離さない。
逃れるすべは、自分の存在を消す(キエル=消える)か、男と別の家庭をつくって自ら母になるか。ソシエは姉のようにも、結婚して子を産んだフランのようにもならなかった。
キエルが成人式を終えていて、ソシエの成人式の夜に母が狂うという、のは仰る通りだよね。
ただ、『重戦機エルガイム』のクワサン・オリビーもそうだったけど、物語の幕を引いてからの方が彼らの人生長いから、これからの方がいろいろあるし、これから何とでもなるよ。というようなことを、今よりだいぶ若かった富野監督も言っています。
確かにそうで、ソシエはロランの金魚を流したときに少女期を終わらせたと思うから、これからロランが後悔するぐらいのいい女になれればいいね。時間はたっぷりあるよ。
少女が大人の女性に生まれ変わる瞬間を、彼女のとなりで観察できなかったことを、あとで後悔するがいい。
地球から宇宙へ乗り出していく物語でなく、月と地球、「2つを1つに」の物語をやるときに、もう1回お母さんのお腹に入るのは構造上やむをえない感じもしますね。
(ムーンレイスにとっては、お母さんに朝あたたかい布団をはがして起こされて、学校へ行きなさいと家の外に追い出される話でもあるけれど。)
『∀ガンダム』自体が、他のあらゆるガンダムがどれだけやんちゃして暴れまくっても、全てを包み込み、全肯定と同時に存在を全否定する母なるガンダムということでもあります。
psb1981さんの記事は、これでひとつのすばらしい考え方だと思いますが、私は何か自分なりの別のアプローチで考えてみたいと思っています。
ハイム夫人の生き残りも含めて、『∀ガンダム』を見直す機会があったときの宿題にしておきましょうか。