↓詳しくは前回記事を参照
ほしのこえを聴け!【前編】
「ほしのこえ」は「セカイ系」とされているけれど、そういう構造の物語になったのは、新海誠さんの作家性というより、「制作上の都合」の面が根底にあると思っています。
つまり、彼が一人で30分のアニメーションをつくるというシチュエーションを考えた場合に、作家性以前に、自然と導き出される物語の枠組みがあるのではないか?
では新海誠さんのように、あなたが一人でCGムービーをつくると思って考えてみてほしい。
目的は「みんなに見てもらえて、評価され、受けるムービー」だ。
これをつくるために、状況と条件を整理してみよう。
■大前提 キャッチな(受ける)ムービーのために入れたい要素
「メカと美少女」
宮崎駿の昔から、日本のアニメーションの全ては「メカと美少女」と相場が決まっている。しかしこれを押さえるのは、なかなか難しい。
A)全体部分
一人でつくるには、フィルムの尺には限界がある。
↓
1.物語が表現できるレベルで短くする(「ほしのこえ」は約30分)。
B)人物アニメ部分(美少女部分)
人物をたくさん出すのは無理だ (アニメ的にも、声的にも、物語処理的にも)。
↓
2.物語に必要な人数を出来る限り絞ろう。最小単位の2人にしてもいい。
人物を宮崎駿のように動かしまくるのは無理だ
↓
芝居を出来るだけさせない。口パクもできるだけさせたくない。
↓
3.レイアウトとナレーション(OFFセリフ)で出来るだけ処理しよう。
C)メカ部分
メカをアニメーションさせるのは無理だ。ある意味、人物以上に無理だ。
↓
4.メカはCGで処理するしかない。
CGメカを自然(地上)で戦闘させるのは、あまりに労力がかかる。
↓
5.舞台は宇宙にするしかない。宇宙なら背景真っ黒だし、自然に比べればCGでの利便性が高い。
さあ、ここまでで5つの方向性ができた。
1.時間は約30分
2.登場人物は2人に絞る
3.アニメーションを抑えるためにレイアウトとナレーションで処理。
4.メカはCGで
5.舞台は宇宙
これは「メカと美少女」ムービーを一人でつくるための、最低限の現実的なラインだ。乗っかるお話は、どんなお話でもいいが、このラインだけは踏み外してはいけない。
※例えば「森の中でメカに追われる美少女4姉妹」はNG。
あとは、この5つの条件が上手くからませられるモチーフを導き出せれば良いのではなかろうか。
どういうお話をかぶせるかは、作者の好み次第となる。ちなみに「ほしのこえ」がどうだったかというと、
2.登場人物は2人に絞る
女の子と男の子の2人に。これにより「恋愛」という要素を入れる条件が揃う。「恋愛」要素を入れるという意味では、性別を分けるのは必然(そうでない恋愛のスタイルが30分未満で表現できるとは思えないし)。
3.アニメーションを抑えるためにレイアウトとナレーションで処理。
新海さんの最大の武器は何といっても「背景」。
あの特徴的な空。この後、ゲームでもアニメでも何でも「新海背景」が増えまくった。
この「新海背景」に、ナレーションをかぶせるだけで、画面がもつ。
逆に言えば、画面を持たせるために必要なのは豊かなアニメーションというより、背景とレイアウトと音だということだ。
同じ労力なら、背景にかけた方が効率が良いということにもなる。背景は使い回せるしね。
レイアウトに関しては、かなりGAINAXだけど、まあこれは。
必要最小限のパーツだけで画面を構成(引き算)して、それでもシーンをもたせたのが、「エヴァ」や「彼氏彼女の事情」だから、それをやりたい新海さんがそっちへ行くのは自然だともいえる。この段階ではちょっと見えすぎだけどね。
4.メカはCGで & 5.舞台は宇宙
これは女の子が宇宙でロボットに乗って戦うということになった。男の子でなくて女の子がロボットに乗るのはさもありなん。敵が同じ人間でも、意志の疎通ができる宇宙人でもなく、怪獣なのは、条件を満たすものといえる。背景は宇宙なので、CGメカとしては好条件。光の表現も映える。
さて、ここまでは問題ないように見える。だが、一つだけ問題がある。
最大の武器「新海背景(地上)」 VS メカ戦のための宇宙
というように、それぞれの持ち味を発揮するための場所が大きく分かれている。この二つをAパート地上→Bパート宇宙としても良いが、画面が単調になるし、最大の武器を後半使えないことになる。
出来れば、地上パートも最後まで出したいどうしよう?
というか「ほしのこえ」見てる人でしたら、もうお分かりですね。
「新海背景(地上)」+男の子 VS 宇宙+メカ(女の子)
という構成になってます。この役割分担をすることで、宇宙と地上が交互に出てくる構成が可能になった。
で、この離れた二人にコミュニケーションとらせるためのアイテムが「携帯電話」になったわけですね。
これで、全ての条件は満たされたし、問題も無くなりました。
僕が考える「ほしのこえ」というのは、「セカイ系」の物語からアニメーションが作られるというより、制作上の条件を考えていくと「セカイ系」の物語へ近づくという感じだったのではないかという気がします。
こうして分解すると、ただ条件を並べてそれに合うように「ほしのこえ」をつくったみたいで、新海誠さんの作家性を否定するように見えるかも知れないけど、それは違う。
新海さんは一人で30分のアニメをつくれるような人なわけで、自分自身で進行管理も出来るような人が、プロジェクト達成に必要な1~5までの前提条件を当然考えないわけがないです。ここまでは一人でCGアニメをつくるような人なら、誰でもやるところ(だからCGアニメ作家の作品は、メカと美少女だらけになる)。
で、そっからどんなお話を乗せるのか、が作家性になる。
1~5の条件を満たすネタには色んなものが考えられる。さあ、冷蔵庫にあるこの食材でどんな料理が作れるかがシェフの腕の見せ所。実写でうまく料理すると「CUBE」や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「SAW」なんかになる。
もっと言えば、新海さんと同じネタ使っても、作家によっては全く違う表現になるわけで(脚本レベルでも、演出レベルでも、テーマレベルでも)、それが作家本人の個性であって、面白いところだからね。
とはいえ、ここまでの説明では、条件+目的→それに合うシナリオとなってるように、僕は、制作条件、目的(コンセプトといってもいい)などは、作家性の前に来るものだと思っている。そこは作家性という神秘のベールにくるまれた曖昧な芸術的なものではなくて、計算で切り分けられるプロデューサー的な部分だ。
2回ほど書いた「新撰組!」でもそうだが、実はあまり作家性の部分には興味が無くて、条件、目的、コンセプトから導き出された企画と物語の構成。そして、それが実際に達成されたか?という所に一番興味があります。
そういう意味で「ほしのこえ」は面白かったです。
「一人でつくるアニメ」という意味では無駄はない構成だ。
(↑逆に言うとそういう意味で驚きはないよね。仕方がないけど)
「もし、この状況の場合、自分ならどうする?」という意味でもエキサイティングだし。
さて作家性の部分はどうかといわれると、まあ、それは。
「空のむこう、約束の場所」を見た人のレビューで「新海さんはポエマー(詩人)なので、物語的にどうとか言ってはいけません」というのを見たことがあるけど、ポエマーとするなら別にいいと思います。映像自身がポエムになるわけなんで、ポエムにあれこれ言うのは野暮です。
(要は「作家性」の部分は、自分には全然合わないと。でも作家性が合わない=面白くない。には僕はならないので、充分面白いわけです)
でもキリキリ(ウタダ夫こと「キャシャーン」監督)と一緒で、一回どっか力のあるスタジオや監督がいるとこで力つけるといいんじゃないかと思うんだけどなあ。色んなもん盗んでフィードバックすれば、もっと良くなるのに。
でも多分それはしなくて、独自路線を行くんだろうな。そこがポエマーらしいけど。
そのケーブルTVで、新海誠さんの「ほしのこえ」を今さらながら見たので、ちょっと感想。
「ほしのこえ」って何?という人はこちら↓
▽「ほしのこえ」紹介ページ
http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/stars/
要するに新海誠という人がほとんど一人だけでつくったアニメーション作品です。デジタルの恩恵をフルに活用して「え?このクオリティを一人で?」という「え?シュワちゃんが妊娠?」並みの衝撃を与えた。色んな賞を受賞。
■どんな話?
↓ここ見ると、詳しいことが色々のってますが、
http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/stars/story.html
主人公は高校生のカップル。
で、彼女は最終兵器というかなぜかロボットのパイロット。
地球にいる彼氏とは唯一の連絡手段である携帯メールで連絡をとりあっている。
しかし彼女は宇宙戦争に参加しながら、どんどん地球を遠ざかっていく。
それにつれ、メールが相手に届くまでのタイムラグが、1日、1ヶ月、1年と開いていく。今、私が送ったこのメールがあなたに届くまで○年かかるのね―――というせつなさが話のキモ部分。
はっきりいうとPCに向かって、片手間に見ていたので、思いっきり集中してたわけじゃないけど、いいよな。「タイタニック」とか見ないで感想言ったりしてたからな何年も。見てから言うだけまだマシだ。
■パーフェクトワールド
「ほしのこえ」は学校も宇宙もロボットも板野サーカスも出てくるのに、彼氏と彼女以外の登場人物は出てこないし、他の人間関係を思わせる描写も特にない。
彼女は軍隊に所属してるわけだけど、そこで気にしてるのは、「彼氏のメールがいつ来るか?」という事と「自分のメールがいつ届くのか?」という事だけだ。
二人のために世界はあるの。精神的には極めて狭い二人だけの世界なんだけど、物理的には宇宙の端と端というとんでもない距離にいるというコントラスト。
本編中に「携帯の電話の届く範囲が、世界だと思っていた」というセリフがあるが、宇宙の片隅で殺し合いをしてる世界でも彼女にとって重要なのは携帯の電波が届くかどうかだ。
彼らはあまりに自意識のみの存在で、社会や他者との関わりが希薄すぎるように見えないだろうか。
こういう作品をかつて「セカイ系」と呼んだ。
■セカイ系とは
Wikipedia セカイ系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
定義は人によって色々で難しいけれど、代表的な作品群を見て、何となくは分かっていただけるかな、と思う。 「ほしのこえ」も入ってますね。
まー、ここでセカイ系について語れば、お茶碗3杯ぐらいは軽くいけるんだろうけど、あえてそこには深入りせずに、作品創作上の「引き算」について書くことにする。
セカイ系というものは、物語上の作家性だけで考えられてるけど、やっぱりそこには作品創作上の理由(というか判断)も少なからずあると思うからだ。
→ほしのこえを聴け!【後編】へ続く
↑これのこと。では全然なくて。
この前の「新撰組!」の記事で書こうと思ってたけど、文脈的に入れられなかった事があったのを思い出したので、それだけ忘れないうちに書いておこう。
「新撰組!」登場人物間の(史実に無い)交流の多さに関してです。
これが「ガンダム」(というか富野演出)との関連を感じて。
■史実にない接触
どういうことかというと、これまた「新撰組!」が歴史に詳しい人々に不興を買った原因の一つなのですが「会ってないはずの人同士が会ってしゃべったりすること」です。
「新撰組!」では、近藤勇が、桂小五郎や坂本龍馬と昔から知り合いで、さまざまな交流をしたり、影響を受けたりしてました。
これは歴史上ではもちろん無いことで、大変リアリティに欠けることはなはだしいわけです。史実を良く知っている人にとっては耐えられない改変なんだろうと思います。
■これって何かに似てないか?
これは、とても興味深いと思いました。
三谷さんも歴史には詳しいので当然あえて、こういうドラマ展開にしたのでしょう。とすると、あえて史実をはずした、その意図はなんでしょうか?
実は、この件で僕が連想してたのは「ガンダム」の富野由悠季監督が言っていた作劇論なんですよね。それはこれ↓
「とにかく強引でもいいから、敵と味方を直接会わせるんだよ!」
■お肌のふれあい回線
どこに書いてあったのを読んだのかソースを忘れたので、引用でなく、あくまで大意ですが、そんな感じのことです。
「ガンダム」なんて、宇宙挟んで戦争してるわけですから、敵味方の人間同士の接触なんて、普通に考えたらほぼ皆無。
とはいえ敵側のドラマと味方側のドラマが交互に進むだけでは単調なので、戦場で敵と味方がぶつかってドラマをおこすわけです。
さらに言えば、モビルスーツに乗って戦いながらしゃべくりあうより、生身の人間同士が接触する方がなおいい。
これを知った上で「ガンダム」を見ると、この作劇論を実践しているのが良く分かって面白いですよ。
・いきなりキャノピー開けて、顔見せながらしゃべりあう。
・とりあえずコクピットに複数人いれておけ!
・大事なモビルスーツ下りて、生身でディベート大会(Zの最後とか)。
・敵につかまり捕虜になったりなられたり。
・生身で敵の基地に潜入。生き別れの妹に接近遭遇。
・コロニーで偶然色んな人にばったり。シャアやララァに会ったり。
・酒場でもばったり。アムロくん、おごらせてもらうよ。
・クエス!ノーマルスーツも無しで!
とか色々いろいろ。ガンダムっ子は色んな場面を思い出していただきたい。
何とか顔を見せ合っての接触を増やそう増やそうとしてるのが分かって大変面白い。
ファーストガンダムでのアムロとシャアの最終対決も、モビルスーツ戦ではなく、生身でのフェンシングでしたね。
もちろん強引と思えるものもある。でも、そこには「ストイックに戦争してて、どうすんだよ!ドラマつくってんだよ!ドラマをつくるにはどうしたらいい?(ライラ・ミラ・ライラ)」という意図がある。私はそれに賛成するな。
ロボットプロレスと呼ばれていたジャンルで、何とかドラマを作ろうとがんばってきた先駆者の苦労がしのばれます。
まあ戦争に勝つには相手にしゃべりかけずに、黙ってビームライフル撃っておけばいいんでしょうけどね。でも私達が見ているのは、戦争の中継映像ではなく、ドラマですから。
■新撰組での接触編と発動編
で、「新撰組!」に戻ります。
史実にない人物同士の交流を見て、思い出したのが、この富野式のドラマ作りでした。
混迷を極める幕末には色んな立場の人間がいた。
彼らはそれぞれ「日本のために!」とがんばっていたけど、身分も藩も思想も方法論も違っていて、とにかくややこやしい。
↓
それでいて、みんなが会って、自分の思想や考えを戦わせて、歴史を進めたわけでもない。
↓
じゃあ歴史にはないけど、この人達を会わせて、お互いの考えをしゃべらせてみよう。議論させたりケンカさせたりしよう。
それでお互いの立場がはっきりする。キャラも立つ。
という感じでしょうか。
歴史上のいわゆる人物像を、当人同士の直接イベントで表現しようということですね。
選挙の立候補者同士がする公開討論会みたいなもんだと思ってもいいかも知れない。あれも、それぞれの立候補者の人となりや公約を良く知らない者にとっては、立候補者を知るのにもってこいのイベントですよね。同じ質問に対する回答や姿勢が、いいキャラクターの比較になる。
「新撰組!」における、史実を無視した人物同士の交流は、要するにはこのような意図だったろうと思う。
もちろんこれは、史実を知らない人であるほど効果的であろうし、逆に史実を全て心得ている人達にとっては、特に不必要であったろう。だから歴史ファンに嫌われるのも良く分かる。
でも大抵の人にとって、幕末は複雑でめんどくさい。
戦国ものみたいに戦争の結果で分かりやすく歴史が進むわけではないし、同じ人物でも所属や思想も変わったりする。
それを出来る限り分かりやすく視聴者に伝えようとしたことは素直にえらいと僕は思う。多分、歴代の大河でもここまで配慮したものはないのかも知れない。
■ここからはおまけというか蛇足
「でも、そういうドラマ作りは龍馬とかでやれば?」
とか、思ってしまったのも確かなんだよね。マンガ「お~い龍馬」もかなりこういう事やってるけど、近藤勇より龍馬の方がキャラクター的に自然なんだよね。題材の新撰組はNHKが決めたんだろうし、やむをえないかなあ。
ただ三谷さん視点(しばしば現代人的視点でもあるが)は龍馬だったよね。宮崎駿にとってのムスカみたいなもんで。
あと三谷さんが舞台出身というのもあるのかなあ。
舞台を見た経験がほとんどないのに言うのもなんだけど、舞台はシーンをテレビドラマほど頻繁に変えられるわけでも無いし、物理的に遠く離れた敵側→味方側のカットバックができないし。
となると、一つのシーンで処理するのが舞台の難しさ、面白さであるわけで、そういうのも影響してるのかな、とか思った。
薩長同盟のとことか、いかにも喜劇を書く人ならではの「実際にあるわけないけど面白い」というシーンがいっぱい見れて楽しかったけどね。