いきなりだが、映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の話をしよう。




劇中、ネオ・ジオン総帥となったシャア・アズナブルと、その部下にして恋人ナナイ・ミゲルが、シャアの私邸?で会話するシーンにこんなやりとりがある。

ナナイ「クェス、よろしいんですね?」
シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」
ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」


このすれ違い!
このすれ違い会話がいつ見てもたまらない。

ナナイの質問は明らかに複数の意味を込めている。
だから、シャアの回答でも間違いではない。
間違いではないが、コミュニケーションとしては完全にすれ違っている。

はたしてナナイは何を確認したかったのか?

今回は映画『逆襲のシャア』から、ナナイとシャア、大人の男女2人がお酒を飲むこのシーンだけに絞り、公私ともにパートナーであるはずの2人がする、すれ違いの会話を丁寧に追ってみたい。

なのでモビルスーツやファンネルの血湧き肉躍る話は一切出てきません。
(もうファンネルのことは書かんでええやろ!)

※小説などもありますが子供の頃に読んだきりですし、あくまで映画を材料に話を進めます。

公私共にシャアを支えるパートナー、ナナイ・ミゲル


伊東マンショ、中浦ジュリアン、ナナイ・ミゲル、そしてブルーノ・サンマルチノ。

※よいこのみんなへ
4人並べるネタで、2人ボケちゃダメ。半々になってフリもボケもブレるから。
しかもナナイじゃなくて、サンマルチノがいちばん言いたいからって最後に置くのもっとダメ。

本題に入る前に、人間発電所ブルーノ・サンマルチノの基本プロフィールを確認しておこう。

ナナイ・ミゲル(声 - 榊原良子)

ネオ・ジオンの戦術士官で大尉。ニュータイプ研究所の長も務める。シャアと個人的にも親しく、思いを寄せている。軍事では参謀として、私的な場では恋人として、彼を公私にわたってサポートする。軍人としては部下に厳格な面を見せる。シャアが連れてきたクェス・パラヤをシャアから任され彼女を強化するが、彼女に対して多少の嫉妬も抱いており、何かとクェスをかまうシャアに苛立ちを見せることもあった。

Wikipedia:機動戦士ガンダム 逆襲のシャアの登場人物


ナナイ・ミゲルは、シャアの公私を支えるパートナーという重要なキャラクターだが、『逆襲のシャア』にて初めて登場する。
ハマーン・カーンを映画用に、可愛げと従順さを強化した(強化人間!)ようなキャラクターと思って頂ければよいだろう。
演じるのは、ハマーンと同じく榊原良子さん。

『逆襲のシャア』は、アムロとシャアが決着をつけるための映画。
ナナイは、シャアにとって都合の良いパートナーとしての「いい女」としてデザインされているので、映画の主旨をよく理解して、話をかき回したりすることはない。

シャアのパートナーとして見れば、改良型ハマーンとして完璧だと思うが、ハマーンが不適格というよりも、シャアがあまりにシャアすぎるので、ナナイぐらいの調整して合わせてあげないとダメだったと考えると、むしろ浮き彫りになるのはシャアの「変わらなさ」だと思う。

個人的には、シャアの思いどおりには動かない「やっかいな女」であるハマーンの方がキャラクターとして好みだ。

もちろんこの映画での役割として、ナナイというキャラクターのデザインには何の問題もない。
そして、そのナナイに榊原良子さんがキャスティングされているのは、ハマーンは「シャア無き欠損」を抱える空虚なキャラクターでもあったが、あの声はそうではないという事だと思う。
声と中身のバランスを取ったキャラとしてのリメイクともいえるかも知れない。

『機動警察パトレイバー2 the Movie』での、南雲隊長にも何らかの影響を与えているような気がしている。


押井守監督が『逆襲のシャア』結構好きで、声が同じく榊原良子さんで、というだけでなく、過去に囚われたテロリストの幻想に巻き込まれる女性として。
連邦側に属してシャアに手錠をかける方のナナイ。

会話シーンを語る前の前提(ここまでの逆シャア)


『逆襲のシャア』は約2時間(1時間59分)の映画で、本題の会話シーンは約45分経過したあたり。ここまでの展開のうち、会話に関係するポイントだけは前提として抑えておきたい。

冒頭の会話に出てきた名前、クェス。クェス・パラヤ。
地球連邦の高官アデナウアー・パラヤの娘にして、13歳の少女。民間人。
コロニー・ロンデニオンで、シャアとアムロの罵り合いながらの格闘(有名な巴投げシーン)で、シャアに加勢し、シャアの「行くかい?」で、本当にシャアについていってしまう。

その後、ニュータイプ研究所(ナナイが所長)で訓練を受け、ニュータイプとしての才能を開花させる。

クェス_ファンネル攻撃

わずかな訓練で、ファンネル攻撃を成功させるクェスを見て、シャアがつぶやく。

シャア「あの子と同じだ」


「あの子」に該当する人間が、複数人存在するのがシャアのやばいところだが、この映画では最初のひとりであるララァ・スンのことであると思ってよいでしょう。つまりララァの再来のような才能だ、ということですね。マラドーナ2世です。

次のシーンが有名な電車のシーン(この映画、有名なシーンしかないな)。
シャアを「ドブ板選挙のできる男」と評したのは、あでのいさん(@adenoi_today)だが、まさしくその象徴のようなシーン。
ここでのクェスは初めて軍服姿で登場する。もはや民間人でもゲストでもないことが分かる。

そして高級ハイヤーで、ギュネイにクェスを送らせる。
先に降りるシャアは別れ際にクェスに優しい言葉をかけ、彼女の手にくちづけをして別れる。

シャア「大丈夫か?明日からの作戦は遊びじゃあない」
クェス「勿論、あっ」
(手にくちづけをする)「大佐」
シャア「今夜はよく休め」


明日からの作戦とは、もちろん軍事作戦を指す。
つまりクェスはいよいよ軍人として実戦に投入されるということだ。
緊張するクェスに優しい言葉をかけ、お姫様のように扱うシャア。

だが彼はなぜ先に車を降りたのか。それは私邸でナナイと過ごすため。
そして、シャアとナナイの2人だけの会話シーンが始まる。

ナナイ・ミゲル酒豪伝説


バーカウンターもある一室。
2人ともナイトガウンを着てリラックスした状態であり、完全なプライベート空間だ。
ナナイが酒を用意し、シャアに持っていく。

ナナイ01_酒豪

ちなみに、シャアがロックグラスで、ナナイがロンググラス。
ナナイは水割りかな?と思ったら、色指定的には同じ(濃さが同じ)に見える。
シャアがストレート(そのまま)だとすると……ナナイ酒豪だな、と思った。

ここからは、シャアとナナイの会話をすべて順に追っていこう。

ナナイ02_ロンググラス

ナナイ「アクシズを地球にぶつけるだけで、地球は核の冬と同じ規模の被害を受けます。それは、どんな独裁者でもやったことがない悪行ですよ」
「それでいいのですか?シャア大佐」
シャア「いまさら説教はないぞ、ナナイ。私は、空に出た人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにする為には、誰かが人類の業を背負わなければならない」
ナナイ「それでいいのですか?」
(シャア、黙ってうなづく)


もちろん親しい仲での雑談ではあるが、いきなりナナイは確認から入る。
アクシズ落としは、どんな独裁者でもやったことがない悪行だが、それでいいのですか?と。

シャアはブレない。シャアが述べていることが世迷言でも、インテリの世直しでも、ニュータイプという蜘蛛の糸にすがるカンダタでも何でもいい。問題は目的遂行のために迷いがないかだ。

この会話シーン全体に言えることだが、ナナイは基本的に、シャアを見つめながら話をする。
しかしシャアは他を見ているか、もしくはナナイとは真正面から視線を合わせない。きちんとナナイの目を見て話すのはごくわずかである。
もちろん現実でも、視線を見つめ合って話をすることは結構少ない。親しい仲や家族でも。
だから、ある種のリアルだとは言えると思うが、一方が見つめることが多く、もう一方はそれを見ないことが多い、という非対称性は映像としての会話のデザインであろうと思う。

ここではナナイがシャアを見ている一方で、シャアは別のところを見たり、視線をはずしたりするというのが、2人の関係性ということになる。

それを踏まえて見ていくとなかなか面白い。次の会話。

ナナイ04_視線をはずす

ナナイ「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
シャア「私はそんなに小さい男か?」


ここでは、ナナイが窓際に歩いて、手前にナナイ、奥にシャアという構図に変わる。
早速、ナナイがシャアから目線を切っているじゃないか、となるわけですが、会話の内容を見て欲しい。

ナナイはまた確認の質問をする。
「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」
つまり、結局はシャアの個人的な動機なんでしょ?と問う。
シャアが「私はそんなに小さい男か」と答えるが、このタイミングでナナイは目線をはずす。

当初から質問しかしていないことに加え、この芝居を見る限り、ナナイは、ジオン・ダイクンの息子としてスペースノイドを導く指導者を最後までやってくれるのかどうかについて、かなり疑っている。いや不安に感じているといった方がよいか。
歴史に最大の悪行を残してでも、人類のニュータイプ覚醒といった大義のために大仕事にやり遂げる覚悟は本当にあるのだろうか。
最後の最後に全部ほっぽりだして、ただのモビルスーツ乗りとして恋人(宿敵)との楽しいダンスに興じてしまわないだろうか。(鋭い。当たりです)

もちろんシャアは「私はそんなに小さい男か?(笑)」と、ナナイからの否定(フォロー)を求めるような返しをするのだが、ナナイはその顔を見ないし、答えない。
そして目線をはずしたまま、つぶやくように言う。

ナナイ「アムロ・レイは、やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男です。女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」


これ、かなり重要な台詞だと考えています。
ナナイが、アムロのことを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」として批判していると捉えている解釈を見かけたりしますが、私は違うと思います。

ナナイにはアムロと何の因果も因縁もありません。会ったことも話したこともないでしょう。
ナナイが知るアムロというのは基本的に「シャアが語るアムロ」になるはずです。
であれば「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」は、シャアによるアムロ評でしょう。

シャアの認識では、アムロは戦場で出会った敵(ララァ)とふれあい、深くつながろうと互いを理解し合おうとした男です。
一方のシャアは「戦いをする人ではなかった」ララァを戦場に連れ出して、戦争の道具として利用しましたが、アムロはそうしなかった。敵であるはずのララァと2人だけの密会をして、分かり合おうとした。
しかし結局は、アムロによってララァは喪われてしまった!
やさしさアプローチで近づいて、ニュータイプNTRしてきたアムロのせいで!

シャアとしては自身の罪に向き合うのでなければ、シャアがしない(できないともいう)ニュータイプ能力の使い方をしたあげく、ララァを殺めたアムロを否定するしかない。
かくして、アムロは「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしてる男」というインディアンネームを与えられ、恐らくナナイもシャアから何度も聞いていたことでしょう。

しかしナナイは「女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」と続けている。今の話の流れで行けば、この許せる女性はララァ・スンのことになるでしょう。
しかしシャアにとっては、ララァが許しても、私が許さんわけです。

個人的には、ナナイが意図する「女性」とは、ララァだけでなく、ナナイ自身も含まれていると思っています。いや下手したら女性全体ぐらいを想定している可能性すらあるかも知れない。

もしそうであれば、「光る宇宙」でのアムロについて、被害者のララァどころか、私(ナナイ)も別に許せるし、もしアンケート取ったら多くの女性はアムロを許せるかも知れない。
アムロを許せないのはつまりはシャア大佐、あなただけでしょう? という意味になる。

これを最初の質問とつなげれば、あなたは自分が許せないからこそ、アムロが生涯許せないし、だからネオ・ジオン総帥として道化を演じてまで対決を望んでいるのでしょう?でも、あなたについてきた多くのスペースノイドや私達のために嘘でも違うと言ってください。
……ぐらいの超意訳ができるかも知れないね。

それなのにですよ。ナナイのこの台詞を聞きながら、なんとシャアは「光る宇宙」の回想に突入してしまうのです。

「光る宇宙」で悪いの誰だ? 誰が「白鳥」殺したの?


『機動戦士ガンダム』第41話「光る宇宙」での場面、映画が直接引用するのは、ファーストの劇場版である『めぐりあい宇宙』ですが、とにかく、アムロがララァを誤って殺めてしまう場面が、シャアによって回想される。

基本的には、アムロとシャアの因縁を明示するための過去回想で、観客のために挿入されたシーンになるだろう。この映画で挿入される回想はこれだけであり、その重要さが分かる。
(もっとも、この映画を見るような人には、このシーンの紹介が必要ない人も多いだろうけれど)

場面としてはおなじみではあるが、宇宙世紀0093年のシャア・アズナブルによる回想であることに意味がある。
シャア自身が当時のことを今現在どう捉えているのか、という点こそが重要なので、その視点で見ていこう。

ナナイ05_光る宇宙

シャア『ジオン独立戦争の渦中、私が目をかけていたパイロット、ララァ・スンは、敵対するアムロの中に求めていたやさしさを見つけた。あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』(回想突入)

シャア「む?」
アムロ「ララァ」
ララァ 「アムロ」
シャア「ララァ、敵とじゃれるな」
ララァ 「大佐、いけません」
シャア「何?」

シャア『あの時、妹のアルティシアがいなければ』

ララァ 「ああーっ」
アムロ「しまった」
シャア「ララァ」

『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』


見ての通り、語りどころが色々とある。

『あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』の箇所。
これ結構重要で、シャアは恐らく死ぬまで、アムロがララァとしたような、カミーユがハマーンとしたようなレベルでの、ニュータイプ同士の共感というものをしていない。
なので「だろうとはわかる」という言い方になる。

完全に理解した

これについては、過去に記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(記事の終わりに、関連記事として紹介します)

次、『あの時、妹のアルティシアがいなければ』
「光る宇宙」において、アムロ、ララァ、シャアの3人だけが注目されがちだが、セイラ(アルテイシア)もいて、かなり重要な役割を果たす。

これも、過去にこの話で記事を書いているので、あとで興味があれば読んで下さい。
(2度目。記事の終わりに、関連記事としてまとめて紹介します)

『あの時、妹のアルティシアがいなければ』のあとに続く言葉は、当然「ララァは死なずに済んだのに」である。

実際はどうだったか。
悲劇の直前、アムロと兄キャスバルの間に割って入ろうとするセイラのGファイター(映画、回想ではコアブースター)。シャアのゲルググは斬ろうとするが、寸前でナギナタの刃を止め、相手が妹アルテイシアだと気づく。
だが、そのスキをアムロに突かれて片腕を斬られてしまい、さらにとどめを刺されようかという絶体絶命のピンチをララァにかばわれ、彼女は命を落とします。

ニュータイプ・アムロとララァによる心の交流を表現する上での対比・強調の問題だと思いますが、この場面でのシャアは、肉親であるセイラの存在に徹底的に気づかない。
赤の他人でロクに会話すらしたことがないアムロとララァが感じ合い、分かり合ったのと比べて、血が繋がっているはずのシャアとセイラの通じなさは極めて象徴的だと思う。

そもそもシャアがナギナタの刃を止めることができたのも、先にララァがセイラを感じ取り「大佐、いけません!」と止めたからに過ぎません(だから刃を止める→気づくの順番)。ララァは彼が「とんでもない過ち」を侵さないように止めてくれました。

しかもこの際に、シャアがコクピット内のセイラを目視して「アルテイシアか!」と気づく主観のカットをわざわざ入れている。この目視のカットの挿入が実にすばらしい(回想では省略)。
この戦場でセイラを認識していないのはシャアだけ。彼だけにはこのカットが要るのです。

風が吹けば桶屋が儲かるといいますが、物事は連鎖しますので『妹のアルティシアがいなければ、ララァは死なずにすんだのに』といえないことはないですよ。そりゃあ。
でもこの時、宇宙世紀0093年です。事件から10年以上経過しています。それでなお、妹のせいだという認識なんです。

そして『ああ、私を導いて欲しかった。なまじ、人の意思が感知できたばかりに』
シャアがララァに導いて欲しかったのはまぎれもない本心だと思います。
ジオンの遺児という己の立場への逃走という意味では、キャスバル→エドワゥ→シャア→クワトロと何度も別の人間になろうとしたが、成りきれないシャアにとって、ララァは自分が「ジオンの息子」ではない何かに生まれ変わる為に必要な存在だった(そのための母)。

ただ『なまじ、人の意思が感知できたばかりに』が問題で、ララァがアムロの意思をキャッチできて、それを受け入れる包容力があったことが問題だと言っているに等しい。

シャアは、ララァと男女の関係になったとしても、その体験はしていない。それは、シャアの嫉妬を生み、そこから悲劇が始まった。

でもシャアにとっては、人の意思が感知できたせいで起こったことであり、いわばララァのせいなのです。
人のニュータイプへの革新を信じ、アクシズを地球に落としてでもという男が、宇宙世紀0093年に言うことかとお思いでしょうが、私もそう思います。(だからナナイも不安がるわけです)

では「光る宇宙」回想について、シャアの認識をまとめましょう。

・アムロのせい (ララァにやさしさで接触し、最終的に手をかけたので主犯。許さん)
・アルテイシアのせい (なんであんなとこに飛び込んでくるんだよ。ララァが言うまで気づかなかったじゃん!)
・ララァのせい (ニュータイプ同士で意思を感知できるからって、俺を無視してアムロとつながんなよ!)

以上が、10年以上経過した宇宙世紀0093年での認識です。
これは、もう、なんというか、あれです。まさにあれとしか言いようがありません。

もちろん、そもそも「戦いをする人ではない」ようなララァ・スンをニュータイプとして訓練し、戦場に連れ出した張本人が誰だったのか、という根本的な原因についての追求はありません。

誰が白鳥殺したの?
「わたし」とアムロが言いました。
わたしのビームサーベルで、わたしが白鳥殺したの。

誰が白鳥殺したの?
「妹」とシャアが言いました。
木馬を降りずに戦うので、妹が白鳥殺したの。

誰が白鳥殺したの?
「ララァ」とシャアが言いました。
敵と戦場でじゃれあって、ララァが白鳥殺したの。

誰が白鳥殺したの?
「アムロ」とシャアが言いました。
やさしさを勘違いしてるから、アムロが白鳥殺したの。


ここで、ミライさんが「さあ、みなさん、お手を拝借!」とやり、カイ・シデンが歌い、ワッケイン司令が踊ってくれたら、白鳥も成仏できるかも知れないし、できないかも知れない。(常春のコロニー・マリネラ)

シャアの瞳にうつるララァに乾杯


シャア01_回想終わり

ナナイ「どうなさいました?」


わ!そうだった。ナナイにアムロのこと言われて、ナナイほっぽりだして回想してたんだった。

シャア「似過ぎた者同士は憎みあうということさ」
ナナイ「恋しさあまって憎さ百倍ですか?」
シャア「ふん、まあな。明日の作戦は頼むぞ」
ナナイ「…」
シャア「私はアクシズに先行してお前を待つよ」


このシーン。
ここまでを踏まえると、シャアが、自分とアムロを「似すぎた同士」と語っているのもツッコミポイントだが、画面も面白い。

自分を見ていない(そりゃそうだ。回想してたからね)シャアに乗りかかるようにして、シャアの正面へ。
これでシャアもナナイを正面から見るしかない。

ナナイ08_可愛さ余って憎さ百倍

と、思いきや、微妙に体をずらして、真正面からは向き合わないシャア。
このあとすぐカットが切り替わるし、見てのとおり表情が描き込まれないサイズなので、顔を見せるというよりは本当に姿勢をずらしているだけ。
この動き。意図(真意)はともかく、この記事をここまで書いてきた私としては十分必然性に納得はできる。

シャア04_視線をずらすシャア

そして、シャアは自分のロックグラスをナナイに預け、席を立ってしまう。

シャア03_席を立つシャア

ソファの正面に立ち、肘掛けに両手をついて、逃がさないポジションを取ったナナイからすると、ロックグラスを渡されて左手が塞がり、スペースが開いたところをスルッと逃げられた形。

そしてナナイは、退室するためドアに向かって歩くシャアを目で追いながら、最後の質問をする。
ここでようやく、冒頭で紹介した会話にたどり着く。

「クェス、よろしいんですね?」でナナイは何を聞いているのか


ナナイ12_よろしいんですね?

ナナイ「クェス、よろしいんですね?」


言葉をあえて補えば、「クェスを実戦投入して、よろしいんですね?」になるだろうか。

シャア03_ふりかえるシャア

ドアに向かって歩いていたシャアは、ナナイの質問に振り返る。

シャア「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」


ナナイ14_クェスはニュータイプです

ナナイ「はい。あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」
シャア「そうだろうな」


シャアはそのまま部屋を出ていく。

冒頭に書いたように、ナナイの台詞「クェス、よろしいんですね?」には複数の意味が込められているはずだ。
その中でも特に、兵士として実戦に投入されることが、クェス・パラヤという少女にとって、ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)になることをシャアに確認している。

それに対するシャアの回答は「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」である。

シャアは、ナナイが訓練や強化の不足を危惧して、そんな質問をしたと解釈した。
だから、あれ以上の訓練・強化をしなくても、もう戦場に出せる戦闘力を持っているから大丈夫だよ、と返している。
これがつまりシャアの認識であって、クェスを兵士、もっといえば戦闘マシーンぐらいにしか思っていないことを意味する。

シャア「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」


のちのこの台詞が無ければ、全てわかっている上ですっとぼけているという解釈の余地もあったかも知れないが……。

そもそもニュータイプ研究所の所長であるナナイには、クェスが実戦投入できるレベルであることなどもちろん分かっているだろう。わざわざそれをシャアに確認する必要などない。

この直前にララァの回想を挟んでいることから分かるとおり、ニュータイプの素質のある少女を訓練し実戦投入して一生もののトラウマを引きずるシャアに対して、新たなニュータイプ少女クェスの実戦投入について最終確認をしている。
本当に、本当によいのかと。

そう考えると、シャアの返答 「あれ以上の強化は、必要ないと思うが?」 は、完全に勘違いのすれ違いだが、会話はそのまま続く。

ナナイは言う「あの子はサイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプです」と。

訓練を担当したニュータイプ研究所所長として、シャアの判断に太鼓判を押したように見える。
問題は「サイコフレームを使わなくとも、ファンネルをコントロールできるニュータイプ」のところ。ギュネイのような強化人間と違い、本物のニュータイプの素質のある少女だと言っている。つまり「ララァ・スン」のようなニュータイプだと。

それはクェスがファンネルを操るのを見たシャアの「あの子と同じだ」という感想と重なる。

だから「そうだろうな」と、ナナイの評価に同意し、そのままシャアは退室する。

そしてこのあとクェスは実戦投入され、初陣で父アデナウアーを殺害。回帰不能点を越える。
アデナウアー→アムロ→シャアと流れてきたクェス・パラヤの避難所(アジール)はかくして、巨大モビルアーマーだけになる。そこへ追い込んだ当人の自覚なしに(これが本当にひどい)。

ナナイ「……、ジオン・ダイクンの名前を受け継ぐ覚悟が、大佐を変えたと思いたいが。くそっ」
「あんな小娘に気を取られて」


ナナイ15_気を取られて!

部屋に残されたナナイは、シャアに手渡された(ここ重要)ロックグラスを床に投げつけて、イライラするように髪をかき上げて、このシーンは終わる。

シャアのグラスを投げて 「あんな小娘に気を取られて」だから、シャアがクェスに気を取られている、という台詞なのだろうが、実際はここまで見てきた通り、シャアはクェスのことを道具ぐらいにしか認識していない。
せめて、本当にクェスに「気を取られていたら」どれだけ救いがあっただろうか。
だから実質、気を取られていたのは、シャアではなくナナイということになるだろう。

わずか3分程度の会話シーンだが、ナナイとシャアという公私ともにパートナーであるはずの2人の(視線を含めた)会話がここまですれ違っており、それでいながら見かけ上ごく普通の会話のように進行していくのは見ごたえがあり、大変すばらしい。

ナナイは確認はとるが、シャアには反論しない。
なぜならシャアの「いい子」だから。

シャアの「いい子」と、ハサウェイの名前


『逆襲のシャア』には、シャアによる「いい子」という台詞が2つある。

ひとつはクェスに対して。
有名な(有名なシーンしかない)生身で宇宙に出るシーン。

シャア「クェス、パイロットスーツもなしで」
クェス 「ほんとだね?ナナイを折檻してやって」
シャア「ああ、本当だ」
クェス 「なら、少し働いてくる」
シャア「調子に乗るな」
クェス 「でも」
シャア「実戦の恐さは体験しなかったようだな」
クェス 「恐さ?」
シャア「ああ」
クェス 「気持ち悪かったわ、それだけよ。なのに、ナナイはやさしくなくって」
シャア「それで、私の所に来たのか」
クェス 「大佐」
シャア「その感じ方、本物のニュータイプかもしれん。いい子だ」


シャア05_いい子だ

「大佐」と胸に飛び込んでくるクェスを抱くが、当然、視線はクェスを見ていない。

もうひとつがナナイに対して。シャアがサザビーで出撃する直前のシーン。

ナナイ「四番艦、アクシズに入りました」
シャア「よし、核爆弾は地球に激突する直前に爆発するようにセット、クルーは収容しろ」
ナナイ「大佐、もうお止めしませんが、アムロを倒したら?」
シャア「ああ、あとはナナイの言う通りにする。戦闘ブリッジに入ってくれ」
ナナイ「はい」
シャア「いい子だ」


2人に対して同じ「いい子」を使っていることで分かる通り、本質的にクェスもナナイも、シャアにとって同じ扱いであることが分かる。
当然、対等ですらない。対等な相手を「いい子」などとは呼ばない。

クェスはもちろん、公私共にパートナーを務めてきたナナイに対しても「いい子」である。
ララァ以後のシャアにとって、全ての女性は「いい子」までにしかならない。

シャアは宇宙世紀随一の「貧しい愛」の使い手なので、愛と引き換えに、女性たちに何らかの奉仕をさせてしまう。シャアが本当に欲しいのはそうでないだろうに……。
そうなればもちろん対等ではありえない。

クェス 「あたし、ララァの身代わりなんですか?」
シャア「クェス」
「誰に聞いた?いや、なんでそんな事が気になる?」

クェス 「あたしは大佐を愛してるんですよ」
シャア「困ったな」
クェス 「なぜ?あたしは大佐の為なら死ぬことだってできるわ」
シャア「わかった。私はララァとナナイを忘れる」
クェス 「……なら、あたしはαで大佐を守ってあげるわ、シャア」


『逆襲のシャア』においての「貧しい愛」の例。
少女が「あなたのためなら死ぬことだってできるわ」と言い、それを言われた大人の男性が「わかった。過去の女を忘れるよ」と返す。つまり取引だ。
これで少女は愛する男に「過去の女を忘れてもらう」代わりに、死ぬことも辞さない奉仕をすることになる。

時を越えて、作品を越えて。
『∀ガンダム』において、キエル・ハイムと仮面の男ハリー・オードの男女が、同じようにコクピット内で以下の会話をする。

キエル「わかりました。なら、私をディアナにしてミドガルドに預ければ、アグリッパ達と刺し違えればよろしいのでしょ」
ハリー「ギム・ギンガナムが出てきたのです。まっすぐにアグリッパの所には行けそうもありません」
キエル「ハリー大尉にとってキエル・ハイムは、ディアナ様の影武者にもならない女でしょうか?」
ハリー「どういう意味でしょう?キエル嬢はご立派に」
キエル「私は、ハリー殿が好きなのです」
ハリー「ありがたいことです」
キエル「そういうことではありません、ハリー・オード」
ハリー「自分は親衛隊の隊長でありますから、ディアナ様以外に心を動かされることは……」
キエル「ハリー殿!」
ハリー「動かされることはござい……」
キエル「ハリー!」
「好きだとおっしゃってくだされば、アグリッパを暗殺する事だってやってのけましょうに」
ハリー「キエル・ハイム、いかように私をなぶっていただいてもよい」
キエル「……」
ハリー「あなたには、ディアナ様の盾になっていただきたい」
キエル「……」
ハリー「そのかわり愛するという愛では、それは貧しいでしょう

『∀ガンダム』第38話「戦闘神ギンガナム」より


キエル嬢は、ハリー大尉が好きと言ってくれさえすれば、危険な暗殺だってやるという。何でもやる。命だって惜しくはないと言っているわけです。
だがハリーは、これをするから、代わりにこうしてほしい、という契約と取引による「その代わりの愛」、それでは貧しいときっぱりと本人に告げる。
あなたとの関係を「貧しい愛」にはしたくないと。

『∀ガンダム』はさまざまな意味で、『機動戦士ガンダム』という巨大な何かを終わらせる作品だが、仮面の男が始めた「貧しい愛」を、仮面の男が否定するという意味でも、大きな価値がある作品だ。



話を『逆襲のシャア』に戻す。
クェス・パラヤは、シャアとの取引を守り、モビルアーマーα・アジールを駆って戦場で戦い、最終的に命を失ってしまう。
まさに「大佐の為なら死ぬことだってできる」わけだが、そんな彼女の前に現れたハサウェイに対しての呼び方に注目したい。

ハサウェイ「クェスだろ?これに乗っているの」
クェス 「なれなれしくないか?こいつ
※中略
ハサウェイ「駄目だよクェス、そんなんだから敵だけを作るんだ」
クェス 「あんたもそんなことを言う。だからあんたみたいのを生んだ地球を壊さなくっちゃ、救われないんだよ」
※中略
ハサウェイ「クェス、そこにいるんだろ?わかっているよ、ハッチを開いて。顔を見れば、そんなイライラすぐに忘れるよ」
クェス 「子供は嫌いだ、ずうずうしいからっ」


と、ここまでさんざん「こいつ」「あんた」「子供」呼ばわりしたあげくに

クェス 「直撃!? どきなさい、ハサウェイ!」


ここで咄嗟に、思わず「ハサウェイ!」と名前を叫んでしまうのは本当に最高だと思う。
私はここがあるから、クェスのことは絶対に嫌いになどなれない。

これについて監督の富野由悠季は「クェスのように最後の3秒間だけ人の気持ちを考えても遅いんです」と語っていたような記憶がある。

それは事実かも知れないが、「貧しい愛」の契約に囚われた少女が、最後に思わず名前で呼んじゃう少年のために死んでしまうというのは、絶望の中の救いでもあると思う。

シャアから愛をもらう為だけに、死ぬことだって厭わないはずの少女が、シャアではなく本気でクェスのことを見てくれる少年のために命を使えたのだから。
最後にそういうクェスであったことだけが、わずかな救いになる。

だから、この場面の結末が異なる『閃光のハサウェイ』は当然、意味が違ってくるし、『GUNDAM EVOLVE』で富野由悠季がストーリーを書き下ろしたのが、この場面の変奏、クェスを導くアムロとそれによって変化したクェスだったことにも注目したい。


『GUNDAM EVOLVE』自体はプロジェクト的に3DCG技術を用いた戦闘シーンが主目的であったとは思うが、富野監督がストーリーを書き、変化させたのが、アムロとシャアの戦闘やその結末などではなく、このクェスとハサウェイの場面であったことは、この物語で何が必要で何が重要かを示していると思う。
(世の中は広いので、この映画にクェスやハサウェイが必要ない、と仰る方もいらっしゃいます)

ナナイが確認したかったものと得たもの


いつものように脱線してきたので、ナナイ・ミゲルの話に戻そう。
ナナイは、この場面で質問(確認)ばかりしている。

・どんな独裁者でもやったこともない悪行(アクシズ落とし)をしますけど、いいんですか?
・アムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?
・(アムロへの)恋しさあまって憎さ百倍ですか?
・クェス、(実戦投入して)よろしいんですね?

こうしてみると、ナナイは本当にシャアのことがよく分かっているのだと思う。
分かっているのだとしたら恐らく、ネオ・ジオン総帥としてのシャアにここまでついてきた私達を見捨てないで、という気持ちと、シャア本人が本当にやりたいことは止めようがない(諦めにも似た)から自由にやらせてもあげたい、という思いが同居していることだろう。

だからこそ「クェス、よろしいんですね?」に込められた意味は重い。
これは、大佐が後悔し続けているララァ・スンのような少女を戦場に出すのと同じようなことをしようとしていますよ。それでいいんですか?という問いだ。(ハマーンで繰り返し、カミーユもある意味そうだし、ナナイ自身も該当するかも知れない)

ポイント・オブ・ノーリターン(回帰不能点)はクェスにとってだけではない。
シャアもそうだろうし、彼と共に進むつもりのナナイにとってもそうだ。
またニュータイプ少女を貧しい愛で消費するというポイントを越えるんですけど、いいんですよね?

ナナイは彼女自身100%答えが分かっている質問をしているだろう。
彼女が質問する相手は、アムロ・レイを「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男」というのだから。
10年以上前のララァの死は、アムロとアルテイシアとララァ自身のせいなのだから。

そしてシャアは、恐らく彼女の予想通り、期待通りの返答をした。

「これでこそシャア・アズナブルだ」と、ナナイは思ったかも知れない。安堵といってもいい。
貧しい愛を振りまいて、ニュータイプを戦争の道具に使い、それでもスペースノイドを導く道化を演じるジオン・ダイクンの遺児。
それでこそ、私の愛するシャア大佐。

そして、そう安堵をしたならば、同時に絶望もしたろう。シャアという男の変わらなさに。
ナナイが質問と確認で得たものは、この安堵と絶望だったのかも知れない。

ナナイ「私は大佐に従うだけです」
シャア「いいのか?」
ナナイ「愛してくださっているのなら」


ナナイ16_愛してくださるのなら


まとめ、もしくはあとがき


この記事で取り上げた会話シーンは、2時間の映画でわずか3分ほどですが、こうして記事が1本書けるほど、濃密で見ごたえのある場面になっています。

恋人関係にある2人の会話でありながら、決定的にディスコミュニケーションであり、それでいながら見かけ上は普通に進行していく会話。面白いですね。

この記事では、ナナイの視点から見る関係上、シャアにはかなり厳しい言葉を連ねましたが、私は『機動戦士ガンダム』のシンボルとなるキャラクターはシャア・アズナブルだと思って、愛しています。
シャアについては、色んな視点から色々な記事を書いていますので、興味があればぜひ読んでみて下さい。この記事でのシャアは、彼のひとつの面でしかありません。

また、この記事を何日かに分けて執筆していた時に『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 公式記録全集』の発送通知が届きました。
正直なところ、届いて色々気になるところを確かめて、それを記事に反映させようか迷いましたが、資料としても膨大ですし、記事をアップするのがかなり遅れそうだったので、一切見ないことにしました。
商品は届いたけれど、記事アップ後のご褒美ということにしましたので、これでやっとご褒美にありつけるという思いが大きいです。今は。

小説版も同じですが、公式記録全集を資料として参考にすることはあっても「答え」が書いてあるわけでもないので、映画を見てどう感じたか、どう読み取ったかということ自体は、自分がフィルムと向き合うしかありません。これで良かったと思います。

ちなみに『逆襲のシャア』という、ひとつの映画作品としてはこれで全く問題がないですが、シャア・アズナブルというキャラクターの連続性として見た場合、この映画のシャアはやはり本人のいうとおり道化を演じていると言わざるをえないところがあります。

アムロとシャアの決着、初のオリジナル劇場映画、ということで、現在の言い方でいえば、魔王を演じて、無理やり舞台に勇者を引っ張り出すようなところがどうしてもあります。
だからシャア・アズナブルとしては、一世一代の大舞台を富野監督にオファーされ、それでも渋るシャアに「アムロとはたっぷりいちゃいちゃさせてやるからさ」と口説かれたような感じでしょう(最後に死ぬことは伝えてない)。

個人的には、映画を成立させるために、その程度のことは当然必要であると思っています。
そして作られたこの映画は、今なお鑑賞に耐える濃密さを抱えており、こうして私は21世紀になっても長文記事を書いているのです。

今だと各配信サイトなどで気軽に見ることができます。
初めての方も、そうでない方も、『逆襲のシャア』を楽しんでください。

それではまたお会いしましょう。






関連記事紹介コーナー


では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。
文中であとで紹介すると書いた、関連記事です。

アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」>

アムロとララァはニュータイプ同士で深くつながったが、シャアはその体験をしていないという話がありましたが、そもそもシャアはいつ「ニュータイプ」だと、アムロに認識されたのか?という記事です。
そして記事タイトルに入っているように、相互不理解と「貧しい愛」の話もしています。

僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

「光る宇宙」にはシャアの妹セイラも関わって、重要な役割をしていると書きましたが、その話はこの記事で。
全体としては『ガンダムZZ』に至るまでの、シャアを中心としたニュータイプを巡る因果応報の話です。

落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>

想定以上にこの記事が読まれて、初めて訪問された方がかなり多いようなので紹介記事を追加。
『映像の原則 改訂版』発売記念の応援記事として、2つの小惑星およびサザビーとνガンダムの戦いを「上手・下手」の原則で解説したもの。富野アニメ系の記事では多分、私の名刺代わりの記事。
「画面構成がこうだから、ここはこういう場面なんです」という画面ありきの読み解きではなく、「こういう物語構成だから、映像を流れにしたときにこの画面構成が選ばれた」という記事になるようにこころがけました。

アムロ・レイが、宇宙世紀の最後にしてくれたこと。<『逆襲のシャア』で起きた【奇跡】>

「ララァ以後」のアムロとシャアの女性観を軸に、『逆襲のシャア』で起こった【奇跡】とはいったい何だったのか?を考えます。
この物語での【奇跡】とは、アクシズが地球に落ちなかったという些末なことではない、という話です。

サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

「νガンダムとサザビーはどっちが強いの?」という質問はよく提示されますね。みなさんは、どちらが強いと思いますか?
この問いと「アムロの完全勝利」という実際のフィルム上の結果との関係から、νガンダムvsサザビー戦を考えます。

ほかにも『逆襲のシャア』や、シャア・アズナブルについての記事を色々書いていますので、目次ページで興味を引くものがあればご覧頂ければ幸いです。

【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス



最後にもうひとつ。
私の記事ではありませんが、クェスの最終的な避難所となった「αアジール」については、おはぎさんのすばらしい記事をおすすめ致します。

逆襲のシャアにおける、αアジールの機体名の意味から考えるクエス・パラヤ論
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2144.html
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のTV放送がスタートしました。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式サイト
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式サイト


私はプロローグを含め、まだ全く見ていない(録画はしている)が、主人公機にファンネルが搭載されているそうで。恐らくそれを契機に、Twitterでファンネルの話が色々出ており、それに刺激を受けて、自分でもツイートしたし、こうして記事に仕立てることにもしました。

前述のように水曜日の魔女たち(金妻みたいにいうな)こと『水星の魔女』は見ていないので、同作品でのファンネルについての話はできないのでしません。
私にできる話ということで、『機動戦士ガンダム』から『Zガンダム』『ガンダムZZ』、そして映画『逆襲のシャア』までの限定的な話に留めておきます。

さらにいえば「ファンネル」話の総論的なものは、あでのいさん(@adenoi_today)が、すでに記事をまとめておられます。ファンネルの基本と網羅的な理解はこちらで。

機動戦士ガンダム水星の魔女1話感想??〜主人公機1話からファンネルってどうなん?問題の話〜

↑この記事自体に、私がしたツイートの内容も一部盛り込まれてはいるのですが、同じ話をしても仕方ないので限定的がゆえの話に努めることにしましょう。

「ファンネル」「ビット」とは何か?


冒頭から説明なしに、さらっと出てきた「ファンネル」というワード。

これは、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業ではなく、『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する架空兵器の名前です。
「ファンネル(ビット)」は、モビルスーツ(ロボット)などに搭載されて、四方八方肘鉄砲の「オールレンジ攻撃」と呼ばれる攻撃をしかけます。

最大の特徴は、この兵器は脳波でコントロールされていることです。
ニュータイプと呼ばれる人たちが脳波で操るため、総じて「サイコミュ兵器」とも言われます。

『ガンダム』を見たことない方は、超能力バトルで無数の石を浮かせて、それをコントロールして、相手にぶつけるようなよくあるシーンを想像してもらえると近いでしょうか。

超能力バトルを見たこともないお嬢様方は、現実世界の「自爆型無人ドローン」でも想像してください。あれを脳波でコントロールして目標にぶつけるようなものです。

実際のところ、自爆型ドローンが現実に存在し、脳波コントロールも研究されていることも考えると、この2つが結びつけば近いものにはなる気はする(ファンネルミサイル方面だが)。
『ガンダム』という物語世界としては必然的にモビルスーツが先で、それに搭載するビットやファンネルなどサイコミュ兵器はあとで実用化されたが、本来のテクノロジーツリー(Civilization)でいけば、「モビルスーツ」と「サイコミュ兵器」は当然別系統で、現実での実現度が高いのは「サイコミュ兵器」(的なもの)になるだろう。

ただ現実で考えると、自律型(AI)でいいだろとはなっても、なぜ兵器のコントロールにわざわざ人の脳波を使わなければいけないのか?という話には当然なりますね。

その当然の疑問について、『機動戦士ガンダム』では前提として、電波障害(ミノフスキー粒子)という存在があります。

ガンダム宇宙は、ミノフスキー宇宙


「ミノフスキー粒子」とは、『機動戦士ガンダム』に出てくる架空の物質。
役割だけいうと、ガンダム世界(宇宙世紀)というフィクションを支える、言い訳用の架空物質でエクスキューズ粒子といってもいい。
SF的な荒唐無稽の言い訳をほとんどをこの粒子でまかなうので、説明しようとすると膨大かつ多岐に渡ります。よって今回の記事に関係するものだけに絞って、簡単に説明します。

「ミノフスキー粒子」とは?

「ミノフスキー粒子」は電波障害を引き起こすよ

だから戦場に散布されると電波障害が起きて、無線やレーダーが使用不能になるよ。
誘導ミサイルなんかも使えないんだ。

じゃあ機動兵器(ロボット)で近づいて、目視で斬り合うしかないね。


というもの。もちろん因果は逆で、ロボットアニメだから同一フレーム内でチャンバラして欲しい、が先。欲しい結果が先で、理由はそのためにあとで作られたもの。

ここで「ファンネル(ビット)」の話に戻ろう。
ニュータイプが脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、このミノフスキー粒子散布の戦場を大前提にして戦ってきた『機動戦士ガンダム』終盤で登場させた、びっくり兵器。
脳波でコントロールするサイコミュ兵器は、電波障害を受けない。
誘導兵器が使えない戦場で登場した、ひとつだけ誘導ができる兵器。それがビット(ファンネル)です。誘導力が落ちない、ただひとつの掃除機。

※識者諸兄へ。サイコミュの設定自体にミノフスキー物理学が絡んできますが、本筋の理解に関係ないので省略します。

ただし、この兵器が使えるのは強い脳波をもつ、作中で「ニュータイプ」と呼ばれる特別な能力を持つ人達だけです。

ミノフスキー粒子散布下が前提の戦場において、ニュータイプ能力の軍利用という意味で大きな価値を持つのは「通信」でしょう。
ですからニュータイプ&サイコミュ兵器の組み合わせによって、電波障害の中、通信して誘導兵器をコントロールできる、というのが本来のビット(ファンネル)の第一の価値だと思います。

ニュータイプ・ララァと、モビルアーマー・エルメス


『機動戦士ガンダム』において、完全な無線でのサイコミュ兵器は、ニュータイプであるララァ・スン専用モビルアーマー・エルメスが持つ「ビット」だけです。



このララァ&エルメスが連邦軍に占領されたソロモン要塞でやっていたように、「本体は見えないのに、どこからか謎の攻撃を受けている」というのが、サイコミュ兵器の利用としては、最も理にかなっていると思います。

エルメスは指令を出す送信機の役割で、レシーバー(受信機)であるビットが攻撃を担います。
技術的に小型化が困難なせいもあって、エルメスを始めとしたサイコミュ搭載機はどれも大きく、いわゆるドッグファイト、近距離での格闘戦(作品として望まれたバトル)ができるような機体ではないし、そもそもそれを想定していません。
戦場に接近する必要はあるでしょうが、最大の役割はサイコミュの送信機。
攻撃兵器としてはビットが本体で、機体はおまけのようなものです。

ジオングに脚が必要かどうか、というのは本編内でもいじられたぐらいだが、サイコミュ送信機という観点から見れば、確かに脚は不要であって、あの技術士官の言っていることは正しい。

このあたり『機動戦士ガンダム』でのバトルの元ネタのひとつである、チャンバラや忍者物の文脈で言えば

・姿は見えないが、手裏剣や小石が自分めがけて飛んでくる
・術者は見えないが、催眠で操った人間たちをけしかけて攻撃してくる

といった敵役とのバトルになるでしょう。

今でもネットの世界では、自分で動かず他人をコントロール(扇動)して攻撃させることを指して「ファンネル」と言われることがありますが、まさしくそのような兵器です。

この種のバトル、基本的には操っている本体を探し出す駆け引きになることが多く、本体自体にそこまで戦闘力はない(あればこの手法を使う必要が無い)というのがパターン。

『機動戦士ガンダム』だと、マ・クベがまさしくそのようなタイプなのですが、ニュータイプ能力は無いので古典的な小細工のみで、むしろニュータイプという新しい存在に蹂躙される役割になっています。

第39話「早すぎる修正パッチ」


さて、これまでの話から分かる通り、エルメスやブラウ・ブロには必然的に護衛のモビルスーツが必要になることが分かりますね。

しかし、ここからが『機動戦士ガンダム』の本当に巧妙かつ周到なところ。

第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」において、初のサイコミュ搭載機であるブラウ・ブロは単騎で出撃して、ニュータイプとしてガンダムの性能をも上回りつつあるアムロに敗れます。
アムロが目を閉じ心眼殺法みたいなことするのが、いかにもチャンバラ、忍法文脈。



もちろん相手がアムロでなければ単騎でもやすやすと撃破されてはいないでしょう。
オールレンジ攻撃を避け、本体を察知し、そこまで近づけてしまうガンダムは、まさしく天敵といえる。あまりに相性が悪すぎる。
先ほどの忍者物の例えだと、目を閉じ心眼で「そこだ!」と隠れている本体に対して、手裏剣を投げて当てれるタイプ。

それにしても、なぜシャアは、ブラウ・ブロに護衛をつけなかったのでしょうか。
劇中のセリフを引用してみましょう。

ララァ「なぜ(シャリア・ブル)大尉だけおやりになるんです?」
シャア「律儀すぎるのだな。ブラウ・ブロのテストをしたいといってきかなかった」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「不服か?私はエルメスを完全にララァに合うように調整してもらわぬ限り、ララァは出撃はさせん」


シャリア・ブル、止めるの聞かず、発ったんだわ。
そして、ブラウ・ブロが撃破され、シャリア・ブルが敗死したあとのやりとり。

シャア「シャリア・ブルまで倒されたか」
ララァ「今すぐエルメスで出ればガンダムを倒せます」
シャア「あなどるな、ララァ。連邦がニュータイプを実戦に投入しているとなると、ガンダム以外にも」
ララァ「そうでしょうか?」
シャア「戦いは危険を冒してはならぬ。少なくともソロモンにいるガンダムは危険だ。それに、シャリア・ブルのことも考えてやるんだ。彼はギレン様とキシリア様の間で器用に立ち回れぬ自分を知っていた不幸な男だ。潔く死なせてやれただけでも彼にとって」
ララァ「大佐、大佐はそこまで」
シャア「ララァ、ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した人類の悲しい変種かもしれんのだ」


とまあ、本来ならしないであろう一騎打ちの理由を、パイロット側(シャリア)の個人的なところに落ち着けている。
さらにこの回には、ララァに関する以下のやりとりがある。

シャア「わかったのか?ララァが疲れすぎる原因が」
フラナガン「脳波を受信する電圧が多少逆流して、ララァを刺激するようです」
シャア「直せるか?」
フラナガン「今日のような長距離からのビットのコントロールが不可能になりますが?」
シャア「やむを得ん、というよりその方がよかろう。遠すぎるとかえって敵の確認がしづらい」
フラナガン「そう言っていただけると助かります。なにしろ、サイコミュが人の洞察力を増やすといっても……」


先にソロモン要塞での長距離ビット攻撃が、もっともサイコミュ兵器の有効な使い方である、と延べたが、それについて修正パッチを当ててきた。なぜなら、次の回は第40話「エルメスのララァ」。アムロのガンダムと、シャアゲルググ&エルメスが交戦する回。

見えない場所からのオールレンジ攻撃は、ブラウ・ブロ戦を見てもアムロには通用しないし、そもそもそれではミノフスキー粒子をまいてまで接近戦をやれる戦場を設定した意味がない。
アムロとシャリア・ブルとの間に、特に何もドラマが発生しなかったのは……直接的には話数短縮の影響大だろうが、逆に言えば、特にドラマ無しで終わらせるなら、あの戦いでいいわけです。
だがララァというキャラクターが背負うドラマは、それこそ話数短縮の影響もあって、より大きい。

ミノフスキー宇宙の戦場に対する、ただひとつの誘導兵器として登場させていながら、結局のところ、こうしてドラマの発生する近距離で戦闘するために外堀が、早々に埋められていく。
矛盾のように思えるかも知れないが、これで分かるのは、SFガジェット的な世界設定中の特異点兵器を描くことよりは、近距離に敵味方をおさめる分かりやすい絵面にしつつ、コクピット同士でしかない宇宙戦闘で何とかドラマを発生させることを優先している、という事実だ。

私は「ニュータイプは戦争(ロボットアニメ演出)のための道具でしかない」と度々、このブログでは書いている。
ニュータイプの使うサイコミュ兵器も、当然その例外ではない。
その最初期から、つまりブラウ・ブロ、エルメスの時から、SFガジェットとしての設定より、TVアニメとしての「劇」が描きやすい距離が優先されたことに注目してほしい。
SF的想像力は存在するが、SF的な描写は良くも悪くも最優先されない。

ベテランパイロットたちのサボタージュ


第40話「エルメスのララァ」では、さらに周到な外堀埋めが行われる。
シャアの部隊は、ホワイトベース隊の前に、連邦の戦艦マゼランやサラミスと接敵し、ララァは出撃する。シャアは護衛に2機のリックドムをつける。

シャア「ララァ、恐くはないか?」
ララァ「は、はい」
シャア「初めての実戦だ、リック・ドム2機のうしろについて援護をすればいい」
ララァ「はい」


しかし結果的に言えば、この護衛のドム2機は役割を果たさない(サボタージュする)。
ドムパイロット(バタシャム)のセリフは興味深いので引用してみましょう。

バタシャム「……エルメスのビットが?ま、まるでベテランパイロットじゃないか。あれが初めて戦いをする女のやることなのか?」
ララァ「よーし、もう1隻ぐらい、あっ!」
「あっ! ドムが援護を?」
「あっ! ドムがうしろに下がる」
「なぜあたしのうしろにつこうとするの?初めて戦いに出るあたしを前に出して」
「あたしがやるしかないの?」
「ああっ、援護がなければ集中しきれない」


シャアがゲルググで出撃し、ララァのあとを追う。

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シャア「ん?どういうことだ?」
「バタシャムめ、貴様が前に出るのだろうが」
バタシャム「馬鹿言え、エルメスがいたら俺達が前に出ることはないだろ」


シャアのサポートもあり、ララァは無事に帰還する。
当然、ドムのパイロットたちは、シャアから呼び出しを受け、説明を求められる。

バタシャム「ひょっとしたらエルメスはシャア大佐のゲルググ以上でありましょう」
シャア「歴戦の勇士のお前達がそう言うとはな……」
バタシャム:「我々はニュータイプの能力というものを初めて見せられたのです。あれほどの力ならばララァ少尉はお一人でも戦闘小隊のひとつぐらいあっという間に沈められます。その事実を知った時、我々は馬鹿馬鹿しくなったのであります。ララァ少尉ほどのパイロットが現れたなら、我々凡俗などは……」
シャア「ララァに嫉妬しているのではないのか?」
バタシャム「心外であります。……いや、皆無とはいえませんが、なによりもニュータイプの実力に驚きました」
シャア「うん」
バタシャム「軍法会議も覚悟しております。が、エルメスの出る時、後衛にまわることだけは認めてください!」
シャア「できるか?少尉」
ララァ「中尉のおっしゃることはわかります」
シャア「そうしてくれ」
「中尉、いいな?」
バタシャム「は、大佐」


面白いよねこの会話。
ベテランパイロットがこう答えたのにはいくつか感情があったと思うが、大事なことは、彼らはここまで説明してきたようなサイコミュ兵器の本質を全く理解していない、ということ。
もちろん戦争末期にいきなり登場したびっくり兵器なので仕方ない部分もあるのだろうが、そもそもどういう運用がされるべき兵器なのか全く分かっていない。

シャアは理解してるはずなので、部下がここまで全く分かっていない責任は上官のシャアにある。
ただ物語として必要なのはシャアの責任どうこうではなく、ドムがエルメスの後衛に回ってもOKになったこと、そしてシャアがララァのサポートをするしかない、ということだ。

これで次回、第41話「光る宇宙」という城の外堀は完全に埋まった。
ここまで読んできた人であれば、せっかく姿を見せずに長距離誘導攻撃ができるはずのエルメスが、この回「シャアがくる」をバックに颯爽と片腕落とされたシャアゲルググを護衛に、アムロのガンダムと近距離戦をやらされることの恐ろしさが分かるだろう。

まさしく翼をもがれた状態いや、翼の折れたファンネル。
“もし私がニュータイプだったなら、ガンダムを近づけやしないのに……”
そんな大佐のつぶやきにさえ うなづけない 心がさみしいだけ
(これがやりたいだけだろ、とか言ってはいけない)



シャアはこの時点で最もニュータイプの実用性を信じ、サイコミュ兵器の意味も理解している男のひとりだが、最大の問題は、連邦に白いやつがいること。

ミノフスキー粒子が散布された戦場で、全兵器に対するアンチユニットになれるはずのエルメスに対する、ただ唯一のアンチユニット。それがアムロとガンダムの組み合わせ。
ドムパイロットの「ビット強すぎじゃん、お前一人で戦争やればいいだろ」に対する最悪の答え。

だからエルメスで近距離戦などもちろんするべきではないが、ビットの攻撃をさばきながら接近できてしまうのだから仕方がない。
シャアが護衛の役割を果たすべきだが、アムロの戦闘力はシャアをも上回り、むしろシャア守るためにビット使わされて「邪魔です」と言われる始末。
このあたりの来たるべきポイントへの周到な用意とパワーバランスの妙。

でもフラナガン機関とジオン開発者の目論見は全く間違ってないはず。
ミノフスキー粒子散布下での「通信」の保持とコントロールにこそ、ニュータイプ能力を使うというのは妥当のはず。
ただ実際は、ブラウ・ブロもエルメスもジオングも全部、アムロ(ガンダム)が叩き潰している。

研究と開発の責任者には心から同情する。
あと、ここまで外堀を丹念に埋められて、翼を折られたララァ・スンにも。

ゆるふわインド少女最強伝説


ニュータイプ能力に目覚めたものの存在と、サイコミュ兵器。
『機動戦士ガンダム』では諸事情もあって、ララァ・スンがその身に背負うことになる。
ララァはそもそも軍人ではないし、軍人として戦おうとも思っていない。
ただ出会い拾ってくれたシャアへの恩義と情愛で訓練を受け、戦場に出る。
結果として、エルメスは短時間に絶大な戦果を上げ、ベテランパイロットどころか、赤い彗星以上の存在となった。

ニュータイプ能力とサイコミュ搭載ニュータイプ専用機のおかげで、屈強なジオンのおっさん軍人より、ふわふわインド少女の方が戦場で活躍できるようになったわけで、『ガンダム』世界では最強パイロット表現に、性差と年齢は関係ないことになった。

「あたしは絶対にイングラムを否定しないんだ。あたしの筋肉だからね!」と言い切ったのは、『機動警察パトレイバー』の泉野明だが、たしかにロボットであれば女性でも戦うことができるだろう。本人の筋肉量と関係なく。いわんやサイコミュをや。



それは現在のフラットな視線から見れば「当たり前」としてしかるべきで、特に理由なくパイロットに男性も女性もいる、ということになるだろう。
実際に『機動戦士ガンダム』以降のシリーズでは、職業軍人として普通に数多くの女性パイロットが登場する。

ただその一方で、サイコミュ兵器を操るニュータイプのパイロットにはファースト以後も少女が多く、『Zガンダム』からは「強化人間」という人工ニュータイプにも少女が多く登場する。
正直に言えば、これはフラットということではなく、少女であることと、強い戦闘力(ニュータイプ能力)をもつことが、同時に求められたのだろうと思う。作品の中で、というより作品の外で。
ララァ・スンが結果としてアムロとシャアの間のファム・ファタール的な悲劇のヒロインになったとすれば、強化人間はそうなるように、まさしく人工的に作られた存在といえるだろう。

ニュータイプ能力が必要なファンネルやビットは、性差や年齢を超越した兵器ではあるけれど、それを操るニュータイプ(強化人間)に関しては、ドラマの道具立てとしてはどうしても性差や年齢は超越していないと思える。

もちろんこれはあくまで、本記事が取り扱う範囲である、何十年も前の少年主人公アニメでのお話。Twitterの反応やインタビュー記事などを読むと、今回の『水星の魔女』はいろいろと違っているようなので、楽しみにしておきたい。

ニュータイプ・ハマーンと、モビルスーツ・キュベレイ


『機動戦士ガンダム』から7年後の世界『機動戦士Zガンダム』での、ビット(ファンネル)搭載機は、キュベレイ。
いわずとしれた、ハマーン・カーンの乗機にして、アクシズ(ジオン)の象徴のような機体だ。



もともと「ファンネル」とは、キュベレイの装備する小型版ビットで、東証一部上場の無添加化粧品/サプリメントの企業とは関係なく、形が漏斗(ろうと、じょうご)に似ているから、そう名付けられた。
しかしこれ以降、同タイプの兵器は形状関係なく「ファンネル」と呼ばれることになる。

元々は形状を示していたのに、その意味が抜け落ちて呼び名だけが残った、というのは例えるなら、あれだ。あれ。我々で言うところのあれ。まさにあれみたいなものだ(この部分、このまま公開時に残っていたら何も思いつかなかったと思ってください)。

今回の話の流れとして、このキュベレイの何がすごいかといえば、キュベレイ単体でちゃんと戦えて強い、ことでしょう。

小型化にも成功してモビルスーツサイズとなり、ビームサーベルもあり近接戦闘も出来る。
パイロットであるハマーンの能力も相まって、ファンネル攻撃はもちろん、本体のモビルスーツとしても普通以上に戦える。
いわばララァとアムロの良いとこ取りのファンネル搭載機で、ジオン系開発者のガンダムへのトラウマが見えるようで面白い。

エルメスのビットには、熱核反応炉が内蔵されており、稼働時間も長く、ビームの出力も高いが、その代わりサイズが大きい。
キュベレイのファンネルは、バッテリー式でビットに比べれば、稼働時間や出力は低いが、小型化に成功した。
バッテリーがなくなったら本体に戻し充電が可能なので、現在の目で見れば、ルンバ(ロボット掃除機)の充電のようなイメージだろうか。

ファーストの頃から近距離戦を余儀なくされたサイコミュ兵器だが、ファンネルではこの仕様の変化もあり、戦闘の形式自体も最初から違っている。

忍者物の例えで言うなら、もう本体は隠れていない。
本体は見せたまま、でも見えない角度から攻撃が飛んでくる敵、みたいな感じになる。
または、攻撃方向が多数方向すぎて、対処しきれないタイプの敵。
こうなると戦闘の駆け引きは本体探しではなくなるし、分かりやすい攻略法はない。普通に強い。

さらに重要なことは、キュベレイのパイロットがハマーン・カーンであることだ。
そもそも、ファンネル搭載機をモビルスーツサイズに出来たからといって、ファンネルとモビルスーツのコントロールを両方高いレベルですること自体が困難なのであって、その意味でまさしくハマーンはモビルスーツで15勝、ファンネルで34HR、大谷翔平クラスの二刀流ユニコーンといってもいいだろう。

それだけではない。
ララァが敵であるアムロと戦場で精神的に強くつながり、それをシャアに嫉妬された上に彼をかばって命を落としたことを思い出してもらいたい。
ハマーンはララァと違い、敵対するニュータイプと接触し、互いの心が深くつながってもそれを拒絶するニュータイプだ。
ハード(モビルスーツ)、ソフト(パイロット)の両面でスキはない。
※全然褒めてない。そんなハマーンに誰がした。なあノースリーブよ。

ちなみに『Zガンダム』では、ファンネル搭載機がキュベレイ一機しか登場しないが、その持ち主がハマーンであることは興味深い。
本体(キュベレイ)とファンネルは支配・被支配の関係にある。
ハマーンの人間関係の基本がそこにあり、彼女が使うモビルスーツがファンネル搭載機なのは象徴的だ。ハマーンの象徴。(これが言いたいだけだろ、とか言ってはいけない)

また別の視点として、ファンネルがエネルギー充填のために本体にお乳を吸いに戻ることを考えれば、キュベレイとファンネルはある種の親子関係とも言うことができよう。

ハマーンはキュベレイのファンネルで四肢をぶった切って、百式をダルマ状態にしてでも、シャア(クワトロ)に自分の元に戻るように迫る。

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支配・被支配の関係、さらに私が昔から提唱している「ハマーン=アクシズのシングルマザー」文脈での逃げた元亭主の首根っこを掴む視点から見ても興味深い。
まあそれでもシャアは逃げるんですが。

なぜハマーンはファンネルで勝負をつけなかったのか


『機動戦士ガンダムZZ』最終回「戦士、再び……」での、主人公ジュドーとハマーンの一騎打ちは、最終的にビームサーベルの斬り合いでジュドーが勝利する。

決着後ジュドーが、なぜもっとファンネルを使わなかったのか、と尋ねると、ハマーンは「一騎討ちと言ったろ」と答える。
実際、この戦いの勝敗自体に特に意味はないので、彼女の精神的な決着の為だけにあるはず。
だから、ハマーンがファンネルを使わず、剣での決着を望んだ、ということになるだろう。

ファンネルは被支配の兵器であくまで主体からコントロールされたものでしかないので、精神的決着にハマーン(つまり主体)の気持ちが乗らなくてどうする、つまりキュベレイが握るサーベルに意思を乗せるしか無いだろう、ということだ。

他にも、もうキュベレイのファンネル戦闘で面白い絵面も無さそうだし、ハマーンの自殺願望とか、あのオカルト空間でどうせファンネルなんかどうせ効果ないし、とか色々言えてはしまうのかも知れないが。

結局のところ、サイコミュ兵器やファンネルとしての利点を、SFガジェットや軍事的な思考で突き詰めるよりは、TVアニメーションとして同一フレーム内で接触すること(それはキャラクターの意思を直接表現すること)がここでも優先されているといえる。

ただその上で、ハマーン・カーンというキャラクターに寄り添った解釈をしてあげるなら、前作『Zガンダム』の時に、ファンネルで百式をダルマにしてもシャアに拒まれたという経験がすでに存在している、というのがひとつ。
ファンネルでモビルスーツ戦に勝利したとしても、シャアに言うことを聞かせることはできず、彼女が欲しかったものは得られなかった。

もうひとつは、アクシズの指導者として『Zガンダム』から『ガンダムZZ』まで、ミネバと彼女の信奉者をファンネルのごとく上手く操ってここまで来たが、グレミー離反と、ジュドーの抵抗もあって全ては水泡に帰した。
この期に及んで、何かを操るような方法(=ファンネル)をようやく意識的にやめたのかも知れない。まあ操るものはこの時点でファンネル以外に何も残っていないのだけど。

ハマーンはファンネルがごとく、人と人との関係も上手くコントロールし、支配する。
だからこそ彼女は「ハマーン様!ハマーン様!」と叫ぶ崇拝者に囲まれていながら、常に孤独にならざるを得なかった。

そして大事なことは、彼女の孤独を救ってくれるはずのシャアもジュドーも、けして自分の思い通りにはならない存在であることだ。
それを味わった百式ダルマ戦を踏まえた上での、ジュドーとの最終決戦で「ファンネルで決着をつけることを選ばなかったハマーン」という視点を加えると、物語の豊かさがより増すのではないだろうか。

手に入れたいものは、手に入らないもの


もうすでにファンネルの話というか、完全に単なるハマーンの話にスライドしているが、このあたりがいちばん書きたいところなので、このまま脱線を続ける。

「戦士、再び……」では最終回なので珍しくハマーンが色々と気持ちを吐露するけれど、個人的にはそこに意味があるようにはあまり思えない。

ジュドーは言う。

「そんなに人を信じられないのか!?」
「憎しみは憎しみを呼ぶだけだって、分かれ!」
「憎しみを生むもの! 憎しみを育てる血を全て吐き出せ!」


これに対して

ハマーン「吐き出すものなど……ない!」


こう突っ張るけれど、無いわけがない。
どう考えても山程ある。吐き出す相手がいないだけで。吐き出す素直さが無いだけで。ついでにいえば吐き出してどうにかなる余地もないだけで(最終回だからね)。
これを見て、この矜恃、さすがハマーン様!みたいな事は全く思えない。

決着後もジュドーが本当に欲しい答えをはぐらかすように話していて、ここのハマーンの台詞にも特に意味がある感じはしない。
むしろ、最後までやせ我慢して、この期に及んでこの人は……と思ってしまう。

要は、ここで必要なのはただひとつ。コクピットハッチを開いてジュドーの方へ飛び込んでいくことなんだけど、もちろんハマーンにはそれが出来ない。

実際に前話「バイブレーション」でクインマンサのプルツーがそれをやっている。
ハマーンのシャドウたる子供のプルとプルツーは出来た。
だけどハマーン本人にはそれが出来ない。年齢も立場もプライドも己が今までやってきた事も全てひっくるめて出来ない。
結果的にジュドーとは逆方向に彼女は飛んで、そして自ら命を絶つことになる。

敗北したキュベレイと同じくダルマ状態にされた百式で、クワトロが池シャアシャア(池田秀一とシャアにしか使えない特殊表現)と生き残った事に比べれば、大変潔い。あまりに潔すぎる。

色々都合よく始末をつけすぎるのは、ジュドーが木星にいくのと同じで、制作も決まった映画『逆襲のシャア』の下準備という側面もあるけれど。

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有名なシャアと少女時代のハマーンとの写真。
どれだけ意図されたものかは分からないが、意図のあるなしとは無関係に私はよくできた写真だと思ってるんですよ。

シャアより7歳下でこの時まだ少女であるハマーンだが、年上の男性であるシャアの胸に自分を預けるのではなく、背伸びしてでもシャアと同じ高さ、目線で映ろうとしている。
シャアをパートナーと考えていたハマーンにとって「対等」である事は重要だったのではないか。

だからこそシャアと対立し、ハマーンを政治と戦争に担ぎ出した張本人であるシャアは逃げ出す。
(ララァは戦いをする人ではなかったのに、誰かが戦場へ連れ出したことを思い出して欲しい)

シャアは子供の、いや女性(といった方がよいか?)に合わせて頭(目線)は下げてくれない。
だからこそジュドーとの関係で必要だったのは、ハマーンがジュドーの目線に合わせることなんだけど、最後の最後まで出来ない。

ジュドーは14歳の子供。それでも10歳のプルとプルツーなら飛び込める彼の元へ、ハマーンは最後まで行けない。
シャアの時と同じく私の所へ来いとは言うのだが、もちろん失敗する。
(勘違いするような人などいないと思いますがこれ、行けないのが悪いという話ではないですよ)

少女時代を捧げたのに逃げられた年上のシャア(追いかけて包丁突きつけても拒否される)。
そのシャアと似ている男をやっと見つけたと思ったら、年下の14歳。まっすぐな魂をもっていて、ハマーンの心に土足で踏み込まずにストレートに言葉で気持ちをぶつけてくる。好ましく強い子だ。だけど悩ましい。

最後の「強い子に会えて……」の気持ちに嘘は無いと思うが、自分がシャアと同世代だったらと思ったように、ジュドーが自分と同世代だったら……と思わずにはいられなかったのでは。
年下のジュドーに対して素直になれない自分である以上は。
サーカスの子供がたった一人、ガラスのロープを目隠しで渡るんじゃない。

結局どれだけ多くのものを支配下においても、本当に手に入れたいものは、自分ごときに支配などされないもので、恐らくそれだけが彼女と対等の関係を結び、孤独から解放する存在。
だけど彼女はその相手と関係を結び、維持する方法を知らない。最後まで。
それがハマーン・カーンというキャラクターです。

個人的には、無理やりでも目線を対等に持っていこうとするハマーンを好ましく思っています。
改良型ハマーンであるナナイの方が、シャアから見てかわいげがあるのだろうけど、個人的にはハマーンの方がいいですね。(これも勘違いのないように書けば、劇場用に用意されたキャラクターとしてはナナイで問題ない)

『逆襲のシャア』でのファンネルvsファンネル


さて。シャアが絡む話になるといつも脱線するが、本筋の「ファンネル」の話に戻す。

ともかくキュベレイとハマーンの組み合わせは、エルメス路線での本来の意味でのサイコミュ兵器運用とは別で、キュベレイがその後のファンネル搭載兵器のひとつのスタンダードになる。

もちろんエルメス路線も、ここまで説明した通り、護衛ドムのサボタージュや役に立たない護衛(シャア)など丁寧に下ごしらえした上で、エルメスとガンダムのドッグファイト状態にしたわけで、結局は「あんた達、同じフレーム内で戦闘しなさいよ!めんどくさいのよ!」という話ではあるんだろうけど。

そして映画『逆襲のシャア』では、シャアとアムロがモビルスーツ本体で戦闘しながら、ファンネル戦闘するにまで至る。
ザザビーとνガンダムのファンネルが飛び回りながら、絡み合いながら、くんずほぐれつ、くんずほぐれつ。
まあいやらしいったらない。



作画、演出的にもまさしく劇場版の豪華さで、νガンダムvsサザビーこそ達人同士の忍術合戦。戦闘の全プロセスに白土三平調のナレーションを入れて解説できるはず。

チャンバラと忍術がベースになっているのは、はっきりいえば制作者の世代によるところが大きいとは思う。静と動のメリハリがあってアニメ向きというのもあるのかも知れないけど。

富野由悠季作品としてのファンネル演出は、この作品がひとつの到達点で、以降は別の工夫が必要になるフェイズに入ったんだろうと思います。

その工夫は、他の監督たちが模索していくことになり、恐らくその先に『水星の魔女』でのいきなり主人公機がファンネル、にもつながっていくのでしょう。

挑戦者たちの勇気がファンネルの未来を開くと信じて……!
ご愛読ありがとうございました。

まとめ、もしくはあとがき


先行している総論的な記事(あでのいさん)がある以上、そうではない記事を書くことを意識したというのはあります。
が、結局いつもの、シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りになってしまった……。だが私は後悔していないし、謝らない。

ちなみにハマーンのところは、昔のハマーン&シャアツイートなども加えて、さらにボリュームを増やそうと思っていましたが、ファンネル部分だけでも想定より分量が増えてしまったのでカロリミットして、また別記事で書くことにしました。
シャアとハマーン大好きっ子(ラジオネーム)さんからのお便りをまたお待ち下さい。

ファンネル(ビット)に関していえば、結局のところ『ガンダム』最初期から、兵器の特性よりはTVアニメでドラマを組むことを優先されているわけです。そこが富野由悠季らしく、個人的にはドラマ重視で好みではあるのですが、それは当時の制作者としてのひとつの選択であって、単純にそれが正しいわけでもなければ、悪いわけでもありません。

ただ、制作者が変われば、時代が変われば、表現技術が変われば、他にもさまざまな表現ができるロボットアニメバトルのすばらしい道具であることは間違いなく、実際他のいろいろなガンダム作品で工夫と活用がされてきました。
ファンネルの面白い表現や演出にこれからも期待したいと思います。

とりあえず私は、この記事をまとめるまでは、思考がとっちらかってファンネル制御の思念波に乱れが生じる恐れがあるため視聴を控えた、水星狸合戦ぽんぽこ、こと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を楽しみに見てみようかと思います。

それではまたお会いしましょう。





関連記事紹介コーナー


では最後に、このブログで過去に書いた記事から、関連あるものを紹介して終わりにします。


僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

ニュータイプの因果の中心に関わったシャア・アズナブルと、ハマーン・カーンを中心にした話。
基本的にSFガジェットであり、また人によってはニューエイジの影響といわれる「ニュータイプ」だが、結局のところその方面で強化されることはなく、人間ドラマ上の道具でしかなっていない(それが私の好きなところ)。そしてそれはシャア・アズナブルという男のささいな嫉妬から始まり、それがハマーンがカミーユを拒絶する瞬間に結実する。映像の世紀、バタフライエフェクト。

空虚なハマーン・カーンを救うことは可能か<『機動戦士ガンダムZZ』感想戦>

ハマーン・カーンのキャラクターについてと、彼女を救済する可能性について検討しています。「救済」というものがどういう意味を指すかは、ぜひ記事をご覧ください。

お、おま、ファンネルじゃなくて、ハマーン関連記事ばっかりじゃねーかとお嘆きの諸兄。
そのとおりです。


サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

ファンネルにだけ注目したわけでないですが、本記事でも触れた、マスターニンジャであるサザビーとνガンダムの戦闘についての記事です。どのようにこの戦いの目的が設定されているか、が主題でしょうか。

映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を見てきました。

前記事『シン・ウルトラマン』同様、Twitterでの感想ツイートをベースに、簡単に記事にまとめておくことにします。


映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』公式サイト

私はもちろんドラゴンボールのマンガを読み、TVアニメを見てきましたが、劇場でドラゴンボール映画をこれまで見たことがありませんでした。TVで放送してるドラゴンボール映画も部分的に見たものはあっても、頭から最後まで見たものはひとつもありません。

それなのに今回はなぜ?と言えば、TwitterのTLで信用している人たちが『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を楽しそうに話していたのがひとつ。そこで、ピッコロと孫悟飯が中心になっていることを知って興味をもったのがひとつ。
あとひとつは、最寄りの映画館でチケット買う寸前まで『ソー:ラブ&サンダー』とどちらにするか迷いつつ、窓口のお姉さんになぜか「ドラゴンボール大人1枚」と伝えたから。

飲食店でA、Bどちらのメニューかまだ迷ってるのにあえて店員を呼び、それを契機として何となくで決断する感じと似ている。(ありますよね?)

土壇場のアドリブ決断で見た、初めてのドラゴンボール映画。大変楽しかったです。
なので、いわゆるガチ勢では全くありません。
ドラゴンボール映画の基準が何もないので、『スーパーヒーロー』がそれらと比べてどうだったのかは分かりません。
それでも初めてのドラゴンボール映画は楽しかったという話です。

※ネタバレしまくっています。未見の方はご注意ください。

主役は、ピッコロと悟飯の超人師弟コンビ




未見の方も、この公開後PVを見ると、なんとなく映画の雰囲気は伝わるかと思います。
映画全体をレビューするつもりは最初から無いですが、一応、公式サイトのイントロダクション・ストーリーを引用。

STORY
かつて悟空により壊滅した悪の組織「レッドリボン軍」。
だがその意思は生きていた!
復活した彼らは、新たな人造人間「ガンマ1号&ガンマ2号」を誕生させ、復讐へと動き始める。
不穏な動きをいち早く察知したピッコロはレッドリボン軍基地へと潜入するが、そこでまさかの”最凶兵器”の存在を知るのだった……!
パンをさらわれ基地へとおびき出された悟飯も参戦し、かつてない超絶バトルが始まる!
果たして死闘の行方は!? そして、地球の運命は!?


実際にピッコロと悟飯の超人師弟コンビが主役といってよく、孫悟空とベジータは登場こそすれ地球の危機を救いません。

ピッコロと悟飯だけで最後まできっちり行くのはいいですね。それを見に来たので。

この映画での孫悟空は、ビルスの星にてベジータ、ブロリーと共に修業しています。(『ドラゴンボールZ 神と神』も『ドラゴンボール超 ブロリー』も見てないのでWikipediaを参照した)

私はもう終盤まで、それこそデウス・エクス・マキナ的にあの2人(悟空とベジータ)が来てしまうんじゃないかと、そっちにハラハラしながら見ていましたよ。
瞬間移動があるから、物理的な制約に関係なく、瞬間的に登場できるしね。
テレポート仕掛けのサイヤ人は。

ピッコロが悟飯の娘パンに修行をつけたり、ビーデルに頼まれて幼稚園に迎えにいったり、悟飯一家にとって頼れるおじいちゃんになっており、こうした前半の日常のわちゃわちゃと、レッドリボン軍が登場してからのピッコロ潜入大作戦などがやはりこの映画の楽しみどころ。

ただ、キャラクターが強すぎて本質的な危機に陥らない。
スパイ潜入で仮に見つかったとしても、レッドリボン軍の人間兵士相手に、逃げるにも暴れるにも特に問題はない。
比肩する戦闘力をもつキャラクターで無いとどうにもならない。つまり戦闘をやるしかない。
もちろんドラゴンボールはスパイアクション映画ではないので、潜入はある種のコメディシーンでしかなく、バトルこそが見せ場なので戦闘をやるしかない。
よって中盤からは、戦闘を始めるしかないがゆえに、戦闘が始まってしまう。

ドラゴンボールにおける危機


レッドリボン軍基地で本格的に戦闘が始まったあとは、基本的にバトルが物語を進め、問題を解決する。
この「あとはバトルのお仕事です」となった時にドラゴンボールの映画を見に行ったのなら喜べばいいだけなんだろうけどね。
子供なんかは待ってました!という時間なわけで。戦闘シーンのクオリティも高かったです。

これは、ドラゴンボール映画に見に来ておいて「あとはバトルのお仕事です」に不満があるというわけではなく、ごく単純にここまで強いキャラクター揃いだと、映画のサイズで、ひとつの物語を作るにあたり、色々苦労があるだろうなと思ったのだった。

映画的な危機(物理的でも精神的でも)に陥らせるのが非常に難しいので、この映画でも単純にいえば「ものすごい強いやつが殴ってくる(だから戦闘が発生する)」にはなっている。

それで戦闘になって大ピンチになって逆転して勝つので問題はない。
だって『ドラゴンボール』の映画なんだから。

これに何か物理的な制限をかけようと工夫すると、悟空を子供に戻して瞬間移動もなくした『ドラゴンボールGT』みたいな処理が必要になってしまう。『GT』全部見てないけど、その設定にしたい気持ちはよく分かる。

ただ私はドラゴンボール映画を全く見ていないので知らないだけで、恐らくこれまで映画のためにさまざまな工夫やチャレンジがされてきたのだろうと想像します。

ちなみに「キャラクター強すぎる」問題を極端に推し進めていくと、『ワンパンマン』につながっていく気はする。



サイタマがワンパンチすれば戦闘は終わる。
だからこそ、ワンパンチするまでの他のヒーローたちの奮闘と葛藤こそがドラマの中心となる。

その意味では映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、『ワンパンマン』型のサイタマ以外のヒーローの活躍を見る物語。
最後まで悟空とベジータが現場にやって来ないので、いわゆるワンパンチが放たれることはないですが。

神龍の3つの願いを、何に、どう使うか?


この映画ではちゃんと、ドラゴンボールと願いを叶える神龍も登場します。

ブルマが集めたドラゴンボールを使って、ピッコロが呼び出し、自らのパワーアップに使用。
これにより、ピッコロが最後まで最前線で戦えるようになっています。

ちなみに残り2つの願いは、ブルマのささやかなアンチエイジングに使われますが、20代への若返りとかではなく、ちょっとしたエステ程度のささやかさ(しょうもなさ)なのが興味深かったですね。やるべきことをやってきたブルマとしては、別に年齢を重ねること自体は否定することではないということかな? いいですね。もちろん美容自体には気を遣うけれど。

この映画では、こうして神龍の3つの願いを決戦前に済ませてしまい、地球からビルスの星にいる悟空たちを呼び寄せる手段を事前に無くす処理がされているわけです(でも悟空側が一瞬で移動する手段はあるので、最後までハラハラはするわけです)。

例えば、この神龍を終盤まで温存しておくパターンはどうかな?
決戦中の土壇場で7つのドラゴンボールが揃い、神龍を呼び出して、ピッコロがパワーアップする。
叶える願いが3つもあるので逆に処理が難しいんだけど。

3つ目の願いで悟空を呼び寄せるか、それとも瀕死で絶体絶命の悟飯を全回復させるかの二択で、ピッコロが悟飯選ぶとか。瀕死のサイヤ人の復活=パワーアップイベントでもある。
もしくは逆に、悟飯がお父さんを呼ぶか、ピッコロ助けるかで、ピッコロ選ぶとか。

神龍での悟空召喚をピッコロ達がうっかり気づかず使い果たすことの必要性は理解するけど、ピッコロが主体的に悟空召喚を拒否し、悟飯の可能性にかけて、最後の3つ目の願いをあえて悟飯につぎ込む、とかどうかな?などと劇場で見ながら考えていた。

劇場鑑賞から何日も経過した現在は、ブルマのしょうもない願いで選択肢無くすほうがドラゴンボール世界としてはよいか、と思っている。
これは、単にコメディタッチの緩さの話だけでなく、今回の映画そのものの本質に関係してくるが、これは後述しよう。

何かのために魔貫光殺砲を使えるように


『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』では、大魔王でも神でもなく「ただのピッコロ」と本人が言うシーンが複数回ある。
それは本当にそうで、孫のようなパンの面倒を見るピッコロは、大魔王でもなく神でもない。

とはいえ悟飯一家の心配して、(彼らが生きる)地球の心配して、先回りにしてあれこれ手を打ってと、結局は神様のようなことをしているんだよね。
完全におはようからおやすみまで、暮らしを見つめるピッコロだが、見つめる暮らしは悟飯一家だけでなく、この星全体の暮らしになっている。悟飯一家が住む星だからなのか、神の一部がそうさせるのか、ピッコロ本人にも分からないだろう。
外敵から地球を守るための動機とやり方が、やはりサイヤ人連中とは根本的に違うように感じる。

そのピッコロが、生物学者になった悟飯のやりたい事(研究)を尊重してるのは、忙しいからと幼稚園へのお迎えを頼まれて結局引き受ける事でも分かるけれど、悟飯には研究ばかりでなく、何かあった時の為に鍛えておけよと忠告する。
実際にそのあとすぐにレッドリボン軍によって「世界の危機」が訪れるわけだから、さすがサボらずに魔貫光殺砲を開発した人。的確なアドバイス。

生粋の戦闘民族である悟空やベジータには何かあった時の為に鍛える、という発想自体が恐らくないのでは。
体鍛えて、修行のために戦ってというのは、目的がなくてもやる。有事に備えなくてもやる。それがサイヤ人にとっての普通であり日常という気がする。

まあ悟飯への「何かあった時の為に鍛えておけよ」は、半分は言葉通りでも、もう半分は「仕事は分かるけど、お前もたまにはオレに付き合え」という意味だろうとは思うけど。

ピッコロと悟飯たちによって守られたもの


「世界の危機」といっても、ピッコロが手早く動いて、自ら潜入活動までしたおかげで、レッドリボン軍が本格的に復讐に入る前に、その野望は砕かれる。

よって戦闘の舞台としては、序盤の顔見せを別とすれば、レッドリボン基地しかなく、そこだけで問題は解決される。
だから地球のほとんどの人たちは世界レベルの危機にあったことに気づいてないはず。
神ではないが、ただのピッコロさんが東奔西走して、穏便に皆の日常を守った、ほぼ誰にも気づかれることなく、という構造の映画である。

こういう構造の作品の場合、メインのストーリーラインと並走するサイドのストーリーを展開することがよくある。
ヒーローが非日常の対応に奔走する中で、何とか表側の日常が守られた。
例えば、子供のパンが楽しみにしている遠足に行く、とかね。
子供の日常を守るために、ヒーローが体を張るなんて典型的だ。

しかしピッコロの狂言誘拐により、パンも最前線(レッドリボン軍基地)に来てしまっている。
では、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』での日常サイドとは何か。

それは多分、ビルスの星での、ベジータvs悟空の死力を尽くした大激闘。

ベジータと悟空が何にも考えず精根尽き果てるまで戦い合う時間。
あれこそがピッコロが守ったものであり、メインのvsレッドリボン軍に並行するサイドストーリーなんだろうと思う。

何とも物騒ではあるが、これがサイヤ人の「日常」で、今回の話では悟空を呼ぶ呼ばないという以前に、悟空とベジータはその日常を守られる側のキャラクターになっている。

悟空とベジータが、ビルスの星で修行をしている。2人は腕試しの試合を始める。
だが、神龍の願いはブルマに消費されるし、ウイスへの連絡もアイスクリームのカップごときが邪魔してつながらない。
しょうもないことや、小さな偶然で、悟空が地球へ戻って新しい敵をやっつけてくれるという可能性がなくなっていく。

では、地球と隔絶したまま延々と続く、ベジータvs悟空戦とは一体何なのか。
悟飯とピッコロの映画とはいえ、DB2大スターに出演機会を作るための、単なるサービスなのか。(もちろん、そういう面も多少はあるだろう)
戦いが始まったとき、私は劇場でそう思った。でも違った。

『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は、本来の主人公である孫悟空こそが新たな敵を倒すべきなのに、何かと理由をつけてそれをしない映画、ではない。
ピッコロと悟飯は、多くの人に気づかれることなく地球の平和を守ったのと同時に、悟空やベジータの「日常」をも守った。

悟空vsベジータは、単なるサービスではなく、その尊い「日常」の象徴になっていると私は見る。

誰のためでも、何かあった時のためでもなく、ただ自分自身がやりたいからする、ハナクソほじる力も残っちゃいねえほどのバトル。
満足気に倒れる2人は、映画の最後まで、地球でどんなピンチがあったのかを知らない。

シビアすぎない、好ましい緩さが許される映画世界


そのために、ピッコロが、幼稚園の迎えにいったり、潜入捜査したり、仙豆を回収したり、神龍呼び出したり、悟飯復帰のお膳立てしたりと、八面六臂の大活躍をするわけです。
神じゃないと言いつつ、地球(日常)の守護者になってしまってるピッコロを楽しむ映画であることは間違いないでしょう。

逆に言えば、Z戦士……とは言わないか。地球が誇る超戦士全集結でなくても、ピッコロとブランクのある悟飯で何とかなった事例ではあるので、そのぐらいのスケールの話ではあるし、ピッコロの早め早めの行動で未然に防いで地球規模の危機にもなってない。
だから仮にベジータや悟空がいれば、もっと早く事態が収まった可能性はあるだろう。
強いカード2枚を抜きにして、それでも勝てたわけだから、事実としてはね。

でもだからこそ、神龍をブルマのしょうもない願いで消費したり、悟飯復帰の為の狂言誘拐といえども、パンを戦闘現場に連れ出したり、フュージョン大失敗だったり、それぐらいの緩さ(それこそ愛嬌と言ってもいいと思う)を許容する作品世界にはなっている気がする。

つまり、地球人類が全員殺されるかどうかのようなシビアな話ではない。
ネットでよくいじられているが、全員死んでもドラゴンボールで全員生き返らせればいいなど、あんなことを悟空に言わせなくてもいい世界ということでもある。
ただ本来の鳥山明の世界はこれぐらいの、ギャルパン(ギャルのパンティおくれ)や、まつげエクステ2mmは全然OKのはずなので、そういう意味では正しく、鳥山明作のドラゴンボール映画だったと思います。

この緩さと、悟空抜きでも問題解決できるスケールとバトルを、物足りないと思う人もいるかも知れませんが、私はむしろこういうものが見たかった、と思えました。なので初ドラゴンボール映画、楽しめました。そう思える方、おすすめします。

ということで、悟空とベジータがイチャイチャする空間を、ピッコロが守りつつ、その息子とイチャイチャする映画こと『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』大ヒット上映中!ぜってえ見てくれよな!(もう終わっちゃう……見れる人は早く見て!)

公式サイト 『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』劇場リスト
https://toei-screeninginfo.azurewebsites.net/theaterlist/02851





『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』については冒頭に書いたように、TwitterのTLで楽しそうなツイートを読んだのがそもそも見るきっかけでしたし、鑑賞後にも私の感想ツイートにリアクションしてくださった方たち無しには、色々と思索を広げることができなかったと思います。とても感謝しております。

持つべきものは、おはようからおやすみまで信頼できるTLですね。



映画『シン・ウルトラマン』を見てきました。
今までやったことないけれど、見た当日にちゃちゃっと冷蔵庫(自分の中)にあるものだけで1品つくるように書いてみます。
何も参照しないし、元々ウルトラマンに詳しくないし、書きたいところだけ書いて総論的なことは最初から放棄します。

※当社独自のネタバレ―ションテクノロジーにより、要するにネタバレしまくっています。未見の方はご注意ください。



TV版『シン・ウルトラマン』の総集編映画


総論としてまとめはしませんが、全体的な印象をいえば一種の総集編映画ではあるでしょう。
ウルトラマン登場前に「禍威獣(カイジュウ)」が何体か出現し、「禍特対(カトクタイ)」がそれを退治しています。
(この当て字をコピペするために、結局、Wikipediaページを見てしまった)
兵隊怪獣バボラーや、エーテル生命ゲゲラギロンもきっと退治されていることでしょう。
ウルトラマン登場後もいくつかの怪獣、星人が登場し、それらを撃退して映画は終わります。

開幕2秒で怪獣登場、即退治の流れに笑いましたが、まあ怪獣が出現する世界でないと、科学特捜隊は設立されないし、退治の実績もないと、対策の中心に置かれないし、で前史が必要と理解しました。

この映画を見て、『新世紀エヴァンゲリオン』を連想する人も多かったようですが、そもそもルーツのひとつですし、むべなるかな。
この、なんでいきなり「敵」が出現して、日本だけが狙われるのか、という当然の疑問を早めにうまく説明するのではなく、思わせぶりな謎にして、物語の興味として引っ張っていくメソッドってあの当時、本当に効果的だったなと思いますね。
もちろん『シン・ウルトラマン』では、もうそんなことはしていません。

ウルトラマン誕生と神永の献身


序盤、ウルトラマン登場と融合の流れ。
主人公・神永 新二(斎藤工)は、避難できていない子供を発見し、「私が保護します」的なことを言って、班長の田村(西島秀俊)も了承して、作戦本部を抜け出していく。
そして子供を保護し、ウルトラマンの地表衝突の衝撃から子供を守って命を落とす。

これがウルトラマン誕生の段取りだから流れは分かるんだけど、作戦本部には多数の自衛隊員がいるのに、5人しかいない「禍特対」のスーツ組の神永がわざわざ席をはずして、子供を保護しにいくのが不自然でもう少し何とか自然にならないのかな、と思えた。

この時の神永の献身は、ウルトラマンの心を動かすものであったと後に明かされるけれど、恐らく自衛隊員でも子供を守って命を落としただろう。同じことをしただろう。
これはただの偶然。そこに誰がいても同じことをするけれど、たまたま神永がその場にいて、命を落としたからウルトラマンになった、でもいいのかも知れない。が、その「たまたまその場にいた」がすごく不自然なんですよね。

例えば、神永が一人だけ外にいないといけない自然な理由を作るか、もしくは自衛隊員数名を連れて子供を保護にいくが、衝撃の瞬間にとっさに子供を抱えて吹き飛んだのが神永という感じで特権性を与えても良いのではないかと感じた。

ウルトラマンと彼


これは難癖ではなく、単なる素朴な疑問と前置きした上で。
『シン・ゴジラ』がそうであったように、ウルトラマンが存在しない世界に現れた銀色の巨人は「ウルトラマン」と呼称され、「彼」と呼ばれる。

これ、なんで「マン」で「彼」なんだろうな、と考えると色々と興味深い気がする。

ウルトラマンだから、マンだし、彼なのは当たり前だろう、という話なんだけど、例えばあれが本当に現実に現れたと想像するときに、マンで彼にするだろうか、いや人型ゆえに、そして人間の女性の身体的特徴が見えないゆえにやはりマンで彼になるだろうか、などと、どうでもいいことをマンで彼である私は思ったりした。

バディ関係を結ぶ者、上下関係を結ぶ者


この映画では、ウルトラマンと神永が融合してバディ(相棒)関係にあることを軸に、「禍特対」内での神永と浅見(長澤まさみ)とのバディ関係、さらにいえば、人類と外の星から来た知的生命体としてのウルトラマンとのバディ関係が強調される。



浅見と神永のバディ関係は、これがTVシリーズであればその関係性の構築をじっくり楽しめたことだろうが、総集編的映画なので、どうしてもそのつながりを支えるイベントが弱い(少ない)。
「禍特対」オフィスで、机を挟んで対面している浅見と神永だが、神永の机の周りにはテトラポッドが置かれている。
これはウルトラマンである秘密を隠している神永が、物理的にも心理的にも敷いている壁だろうが、これもTVシリーズであれば、その変化を色々と楽しめただろうと思う。(りんごが、切ったウサりんごになったり)

まあ、このテトラポッドは神永が人類に対しての消波ブロックの役割でもあることを示しているんだろう。テトラポットのぼって、てっぺん先にらんで、宇宙に敵飛ばそう。(「ボーイフレンド」の歌詞だとテトラポット)

その意味では、人間(日本政府)に従属を強いるザラブ星人はもとより、上位存在として認めろというメフィラスも当然、バディ関係は結べない。
だから単純に地球を襲うような怪獣より、そういう役割を果たせる外星人が選ばれたんだろうけれど。(でも、ウルトラ的な思い入れがあまりないので、ザラブ&ニセは省略できないかな、と思ったりもした)

そしてそれはゾフィー(ゾーフィ)にも同じことが言える。

メフィラスがウルトラマンとの戦闘中、ゾフィの監視に気付き、あれだけ地球にこだわっていたのに、やべーの来たからずらかるぜ、と身を引くのが面白かった。

確かに今作のゾフィーはやばい。
地球と人類を絶滅させるための兵器ゼットンを持ち込んでくるのがゾーフィなのだから。

発進!未完の最終兵器ゼットン


ゾフィーが発動させたゼットンが展開されていく。シルエットがロールシャッハテストのようだ。
これはまさに人類に対するロールシャッハテストなんですよ!(何か言っているようで何も言っていないコメント)

例の「1兆度の火球」で人類を滅ぼそうとするわけだが、記憶が確かなら、これに対する神永の説明が足らないのでは。
ゼットンが展開を終わり、「1兆度の火球」を放つまで、ある程度の時間がかかることを説明するセリフが無かったように思う。
これは具体的でもいいし、単に曖昧に時間がかかることだけを伝えてもいいと思う。

これが分からないので、いわゆる人類滅亡へのカウントダウンのスケールがうまく掴めなかった。
実際に、作中ではウルトラマンがゼットンに挑んで敗北。入院して、「禍特対」で滝がヒントを掴んで、国際会議も開き、対策を考えて、神永が目覚めて、再びゼットンに挑むまで、結局最後まで「1兆度の火球」は放たれない。
タイムサスペンスが無いなら無いでもいいと思うんだけど、結果から言えば「1兆度の火球」自体は特に人類の脅威では無かった。

あと映画見る前にTwitterで見かけた「ガンド・ロワ」はこれのことか、と納得もした。

決戦前。浅見に「行ってらっしゃい」と送られ、「行ってくる」と答えて変身し、ゼットンに向かうウルトマン。
作戦は成功し、帰還しようと必死で飛ぶがついには逃げ切れない。
ここはもう素直に見ながら、「ごめんキミコ、もう会えない!」だな、と思いながら見てました。

―― 1万2千年後。
ウルトラマンが太陽系に辿り着き、地球を見れば、地球には明かりが無い。
ああやはり、私がいない間に人類は外星人によって滅ぼされてしまったのか。
そうウルトラマンが思った瞬間、地上に小さな明かりがつく。
そのひとつひとつの小さな明かりが集まり、ひとつの言葉が浮かび上がっていく。
山本耕史「オカエリナサイ、私の好きな言葉です」
メ、メフィラス!<『シン・ウルトラマン』完>

境界線上の、狭間の存在ウルトラマン


色々といびつな所や思い切って割り切ったところもある映画で、『シン・ゴジラ』を同じく完璧さを目指した作品ではそもそも無いと思うので、それらがあることは前提として呑み込んだ上で、ウルトラマンなどへの思い入れなどで加点すればよく、いわゆる減点法で語っても、あまり意味がない作品ではあるでしょう。

私個人は、幼少期はウルトラマンと仮面ライダー大好きっ子でしたが、その後『機動戦士ガンダム』に出会ってから、そちらへ行ってしまった人間です。
幼少期のアルバムを見れば、すべて光線ポーズかライダー変身ポーズで写真に映っていたのに、ある時期から棒(ビームサーベル)を構えた姿に変わる。ここでガンダムを見たという境目が一目瞭然。

それからはウルトラマンを追い続けてはいませんが、それでもカイジュウとウルトラマンのバトルを十分楽しみました。迷っている方がいれば、見てみると良いと思います。おすすめします。
特撮やウルトラマンに詳しい方は、この作品をより楽しめると思いますが、私程度でも十分楽しめるのは、マーベル映画シリーズ(MCU)などと同じですね。

幼少期の私を思えば、子供視点とか民間人視点とか一切なかったなと思いますが、子供の頃、あてがわれたような子供視点キャラは好きではなかったし、作り手側的にも得意でないことはやらず、得意なことにリソースを費やすという意味では妥当(こういうのも完璧さではなく割り切りの選択)なのかな、とも思います。

そして、ウルトラマンと人間・神永が融合し、中間的な、境界線上の存在になったのを見て、やはりこれこそ主人公の王道のひとつだなと感じました。

ウルトラマン側から見れば、言ってしまえば『アバター』や『ラスト サムライ』であり、外部から来ながら現住人類に興味を持ち、そちら側に立つことにした男の物語でもある。

これは富野作品でいえば、『聖戦士ダンバイン』のショウ・ザマであったり、『∀ガンダム』のロラン・セアックだったりします。
ということで、何の話をしても最後は富野作品の話をしてしまう、というのがアドリブの書きなぐりでも証明されたところで、終わりといたしましょう。





普段は、富野由悠季ロボットアニメを中心にした記事を書いています。
もし興味があれば、以下の目次ページから良さそうな記事を物色してみて下さい。

【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス


今回は父の日にちなんで、アムロ・レイの父テム・レイのお話です。



※「え? 父の日……?」と戸惑いの諸兄へ
本記事は父の日(6/20)用に準備していたものだが、諸事情により遅れに遅れたことを読者諸兄には謝らなければなるまい。ただ「父の日の気分で書いたんだな。そのつもりで読むか」程度のことは、当ブログの読者であれば可能であろうし頼まれなくてもやって頂きたい。


ということで今回の主役はテム・レイですが、その前に私自身の父の話を前座として少しだけ。

私の父は1年半ほど前に自宅で倒れ、小脳梗塞で入院。
一時は、ICUみたいな所に入っていましたが、幸い一命はとりとめ普通の病棟に移りました。
ただ入院初期には、脳の異常がなせるわざなのか、幻覚や奇妙な言動がいくつか見られました。

「気をつけろ! ロシアが俺を拉致しに来るぞ」
「今、筆を持てばダ・ヴィンチを越えるものが描ける」

普段とは明らかに異なるレベルの高い発言に、我々家族はそれを爆笑7、心配2、マジヤバ困惑1、程度の比率で対応していたのを思い出します。

命が、しかも意思の疎通もとれる状態で助かったのは本当に幸いなのだけど、そこにはテンション高めに妄想を語り、微妙に話が通じない父がいる。

もしかしてアムロがサイド6で再会した父テム・レイに抱いたような感情はこういう感じだったのかな? と、その時本当に思ったのでした。(現実をつい「これフィクションで見たやつ」と思ってしまいがち)

主人公アムロ・レイの父親テム・レイとは


テム・レイは、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイの父親です。

彼の基本的なプロフィールとして、ひとまずWikipediaの記述を引用しておきましょうか。

地球連邦軍の技術士官であり、階級は大尉。本編の主人公アムロ・レイの父親で、妻はカマリア・レイ。V作戦の中心人物であったとされ、モビルスーツ (MS) ガンダムの設計にも大きく関わっている。元々はスペース・コロニーの建築技師であるとも言われ、一年戦争勃発と同時に軍に移籍したという。登場回はテレビ版の第1話・33話・34話、劇場版三部作は『機動戦士ガンダム』・『機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編』である。

Wikipedia:テム・レイ




テム・レイというキャラクターが物語上なにをしたかと言えば、アムロが乗る事になるロボット(モビルスーツ)「ガンダム」を作った人、という事になるでしょう。

ですがこれは結果の話であって、別に息子を乗せる為にガンダムを作ったわけではありません。
ではテム・レイはどういう目的で、何の為に作ったのでしょう?

これに関しては、『機動戦士ガンダム』第一話で、若い連邦士官ブライト・ノア相手にテム自身がはっきり語っています。これはテム及びブライト・ノアの初登場シーンでもあります。

ブライト 「伝令。レイ大尉、サイド7へ入港いたしました。至急、ブリッジへおいでください」
テム・レイ「ん、了解した」
テム・レイ「ブライト君といったね?」
ブライト 「はい」
テム・レイ「何ヶ月になるね? 軍に入って」
ブライト 「六ヶ月であります」
テム・レイ「19歳だったか?」
ブライト 「はい」
テム・レイ「ガンダムが量産されるようになれば、君のような若者が実戦に出なくとも戦争は終わろう」
ブライト 「(アムロの写真を見て)お子様でらっしゃいますか?」
テム・レイ「ああ。こんな歳の子がゲリラ戦に出ているとの噂も聞くが、本当かね?」
ブライト 「はい、事実だそうであります」
テム・レイ「嫌だねえ」


自分たちが作る新兵器「ガンダム」によって戦争が少しでも早く終われば、ブライトのような若者が戦う必要がなくなると。
だからテムは「ガンダム」を作るのです。

職場のデスクの上に我が子アムロの写真を飾っていたりもして、父親としても彼なりに息子への愛情をもっていることは表現されています。
息子アムロと同世代の子供が戦場に出ているという現実に関しても、嫌悪感を示しています。
このあたり極めてまともな大人の感性といえるでしょう。

もちろんテムは優秀な技術者ですから、自分の技術を戦争に投入することには熱心です。
だからといって別に、マッドサイエンティストでも人格破綻者でもありません。

自分がすべきことは「ガンダム」を開発し、戦局を変え、戦争を早く終わらせること。

ただ、新兵器投入→連邦勝利=戦争終結=平和と考えるのは、やや単純というかピュアというか、恐らく政治的なものには疎いんだろうな、と思われます(技術者としての瑕疵ではないが)。
また、考え方としてはマクロのみであって、ミクロの視点は欠けています。

「ガンダム開発者」として、このあたりのしっぺ返しをテムは受けることになります。

主人公アムロ・レイの父親テム・レイとは


コードネームは作戦V。ということで開発される「ガンダム」は、戦局を変え、戦争を早期集結に導けるほどの兵器であると自負するテム・レイ。



考え方にもよりますが、実際にマクロの観点でテム・レイの仕事を見た時、一年戦争でのデータ集計や統計学的には総犠牲者数を減らすことに貢献した可能性もあるかも知れません。
もしかすると、ジオン・連邦関係なく若者の犠牲が、テムの希望どおり、少し減ったのかも知れない。

ただし、これはあくまでもデータとしての子供(若者)であって、ガンダムが戦場で活躍するたびに目の前で失われるものについては恐らく関心の埒外にある。

ましてや自分の息子が少年兵となってガンダムに乗り込み、人殺しをしながら戦争終結まで戦い抜く、という可能性のリアルに関しては全く想定していない。想像が及んでいない。

だからテムの中では以下の3点が並列に存在する。

・愛する我が子アムロ
・息子と同世代の子供が戦場へ出ている現実(イヤな世の中だねえ…)
・私の作るガンダムは戦局を変え、戦争を終結させる


しかし、それぞれは何もつながってはいない。

心情的にもつなげたくないのは分かるが、恐らくそういう可能性すらも考えていないと思われる。
だが皮肉なことに『機動戦士ガンダム』とはこの3つが全てつながる物語。

つまり、愛する我が子アムロが、ガンダムで戦場へ出て、戦争終結まで戦うのだ。

アムロ・レイは父テム・レイのことを何と呼ぶか


『機動戦士ガンダム』第一話で、いくつかの偶然による必然の決断とも思える、巧みな物語誘導で父の作ったガンダムに乗り込むことになる。
その直前、フラウ・ボウと別れてから、ガンダムへ向かうアムロとテム・レイが出会う。
これが第一話、そして物語中での父子の初めての対面であり、次に話すのは実に第33話となる。

少し会話を引用してみよう。
訓練された兵士は、以下のやりとりを読むだけで場面が思い浮かぶはず。

アムロ「父さん」
テム 「第三リフトがあるだろう」
連邦兵「リフトは避難民で」
アムロ「父さん」
テム 「避難民よりガンダムが先だ。ホワイトベースに上げて戦闘準備させるんだ」
連邦兵「はっ」
アムロ「父さん」
テム 「ん、アムロ、避難しないのか?」
アムロ「父さん、人間よりモビルスーツの方が大切なんですか?」
テム 「早く出せ」
アムロ「父さん」
テム 「早くホワイトベースへ逃げ込むんだ」
アムロ「ホワイトベース?」
テム 「入港している軍艦だ。何をしている」
連邦兵「エ、エンジンがかかりません」
テム 「ホワイトベースへ行くんだ」
テム 「牽引車を探してくる」
アムロ「父さん」


こうして見ると、アムロが何度も「父さん」と呼びかけているのが分かりますね。

東京03飯塚なら
「父さん?」「ホワイトベース?」「父さん?」「ホワイトベース?」「父さん?」
と、2つの言葉を異なるニュアンスで繰り返すだけで爆笑がとれる気がする。



ここでアムロに「人間よりモビルスーツの方が大切なんですか?」と責められているが、先に説明したとおり、マクロだけでミクロが無いテムからすれば、目の前の避難民より、ガンダムで救える(とテムが信じる)多数を見ているわけで、テム・レイという人間としては一貫している。
だから血も涙もない冷血な人間というわけではなく、単に「こういう人」であるに過ぎない。

もちろんこれは、人々が死ぬのを目の当たりにし、フラウ・ボウを港へ走らせた上で、涙をふりきって逆方向に走り出したアムロと対比になっている。
アムロが第一話でガンダムに乗り込むのは、テムの目には見えてない、身近な人々のため。

ちなみにアムロがテム・レイの事を呼ぶ時、第一話だけでも3種類の言い方が使い分けられている。

1つめが先程紹介した、テム・レイ本人を呼ぶ時の「父さん」

2つめは「父」。これは当然、他者に対して。

アムロ「を捜してきます」
フラウの祖父「アムロ君」
避難民「君、勝手に出てはみんなの迷惑に」
アムロ「が軍属です。こんな退避カプセルじゃ持ちませんから、今日入港した船に避難させてもらうように頼んできます」


そして3つめは「親父」。これは身内感覚のフラウ相手や、独り言のときのみ使われる。

フラウ「ここも戦場になるの?」
アムロ「知らないよ。親父は何も教えてくれないもん」

アムロ「コンピューター管理で操縦ができる。教育型タイプコンピューター。すごい、親父が熱中する訳だ」


これらの台詞。例えばすべて「親父」や「父さん」で統一することも可能です。

でもアムロ・レイというキャラクターは、他者の前ではきちんと「父」と呼び、一方でフラウ相手や独り言では「親父」などと呼ぶが、決してテム・レイ本人の前では「親父」とは呼ばず、「父さん」と呼んでいる。
そういう使い分けをする、できる、デリケートなキャラクターとして表現されています。

この「父をなんと呼ぶか」問題
個人的にはフィクションだけでなく現実でも重要だと考えていて。
例えば、私自身がアムロと全く同じ使い方なんですよね。友人と話すときに「うちの親父が……」などと言うけれど、父本人に対して普段「父さん」か「お父さん」としか呼ばない。本人の前で「親父」と呼んだことはない。
(そういう意味で関西弁の「おとん」「おかん」は、むちゃくちゃ便利な言葉)

大人になればいつか「親父」と呼びながら、一緒に酒を飲んだりするのかな、とか思ってましたが、「父さん」のままでしたね。
これは各父子での微妙な人間関係に基づくので、どの呼び方をすべきとか正しいとかは無いのですが、大人になる過程で呼び方が変化する人、しない人、それぞれいるようです。

ちなみに妹が父を呼ぶ時は「下の名前で呼び捨て」もしくは「クソジジイ」。
これが通るどころか、父さ……親父本人もまんざらでもなさそうな所が、父娘、父息子の関係の違いだな、と思っています。

そういう意味で私は、アムロのこの呼称の使い分けがすごく分かるタイプ。
アムロが持つ、父テムとの微妙な距離感はもちろんですが、けして父が嫌いではないし、ある種の敬意なんかも感じるんですよね。

アムロ・レイ、初戦闘でのたったひとつの過ち


この後、アムロはガンダムに乗り込み、初戦闘で2機のザクを撃破します。

テム・レイは、素人であるアムロがガンダムに乗っているのを知らないので、その戦い方の下手さに怒ったりもしています。

連邦兵「技師長、味方のモビルスーツが動き始めました」
テム 「動く? なんて攻撃の仕方だ。誰がコクピットにいる?」


私が設計したガンダムがあんな操縦で……なんて日だ!

などと思っているのも束の間、アムロが1機目のザクを撃破した際に、爆発させて出来たコロニーの大穴にテムは吸い込まれて、宇宙に投げ出されてしまいます。
これで33話まで出番なしで、再登場のときはもうあれなので、事実上ここで死んだようなものです。

第一作『機動戦士ガンダム』での最初のザク撃破は歴史的な1ページといっていいですが、同時に主人公アムロによる「父殺し」が行われたということでもあります。
ガンダムが最初に葬ったのはジーンのザクと、生みの親テム・レイです。

テムの役割上、ガンダムがアムロの手に渡れば、退場させてもよいキャラクターだとは思います。
ただその退場を、ジオン軍の攻撃で殺されてしまい、アムロはジオンと戦うことを誓う……などには全く使わない。
父親の喪失は動機設定にすら使われない。

それどころか「スペースコロニーに穴が空く」という宇宙世紀ならではの危機とそれによる悲劇を第一話で伝えるためのサンプルに使われているのが恐ろしい。
それはモブだけでなく、ガンダムの開発責任者という重要人物(ネームドキャラ)が一瞬にして失われることでより効果的になるだろう。

その原因はザクではない。初めてガンダムに乗った「素人」の下手な運用のせいだ。
つまり主役ロボット・ガンダムの強さとアムロの未熟さとがコロニーに穴を空ける、という展開が選択されている。

そのためには必然的に、第一話の敵役として、ザクは最低2機必要になる。
アムロの未熟さゆえに爆発させてしまう1機目。
そしてアムロの非凡さゆえにコクピットのみを貫く2機目。

アムロはぶっつけ本番でザクを2機撃破し、しかも2機目は問題点をきっちり修正している。
しかし、そのたった1度の失敗に対して与えられるペナルティが容赦ない。

マクロだけで目の前の人々(アムロ含む)のことは眼中になかったテムと、目の前の人々の為だけに衝動的にガンダムに乗ったアムロ。まるで双方への罰であるかのようだ。

さらにいえばこの後、テムが失われた事について、彼を知っているアムロやフラウ、直前に会話を交わしたブライトも含めて、誰もテムのことを気にすること無く物語は進む。まるで最初からそんな人物はいなかったかのように。

※追記
テムに対する言及について、Twitterでご指摘頂きました。完全に意図的ですね……。

父の喪失はあらゆる意味で、今後のアムロの行動動機として影響を及ぼすことなく、ここからは「君は生き残ることができるか」だけで物語が進んでいく。
そして最終回の2話手前、第41話「光る宇宙」まで行ったところで「別に戦う理由ないよね?」と突っ込まれる。

ララァ「なぜ、なぜなの? なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」
アムロ「守るべきものがない?」
ララァ「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」
アムロ「だ、だから、どうだって言うんだ!?」


そう理由はない。
一年間のテレビシリーズを続けなければいけないから戦うのだ。
おもちゃやプラモを売るから色んな敵と戦うのだ。
全43話に決まったから予定より多少コンパクトに戦うのだ。

ザクとガンダムが戦うのは、セ・リーグとパ・リーグが戦うぐらいの理由でしかない。
主人公の絶対的な動機が無いまま、最終ステージまで持っていくのが本当にすさまじく、またこれがラストへの重要な布石になるという意味で、大変すばらしい。

ちなみに『機動戦士ガンダム』の中で、アムロにもっともダメージを与えた攻撃はシャアでもジオングでもなく、ララァによる「あなたには何もないし戦う理由もない」という指摘だろうと思う。
アムロは全く反論できていない。

サイド6。それは人と人とが交わる、出会い系中立コロニー


第33話「コンスコン強襲」でアムロは父テムと再会する。
場所は中立コロニー・サイド6。

第1話以来の登場となるテムだが、この回でのアムロとのやりとりは驚くほど少ない。
ここでは、第33話におけるアムロとテムの会話をすべて引用してみよう。

サイド6でアムロは父テムに似た後ろ姿を発見し、それを追う。そして。

アムロ「父さん!」
テム「おう、アムロか」
アムロ「……父さん!」
テム「ガンダムの戦果はどうだ? 順調なのかな?」
アムロ「……は、はい。父さん」
テム「うむ、来るがいい」
アムロ「はい」


アムロは連邦軍の制服を着ているので、元連邦軍所属のテムは気づくとして。
「ガンダムの戦果はどうだ?」と、アムロがガンダムのパイロットである前提でいきなり尋ねている。

しかし前述したように、テムはガンダムに乗り込んだのが誰なのかは、知らないまま宇宙に投げ出されたはず。
ガンダムのパイロットが誰なのかは視聴者が知っているのは当然だが、いわゆる一般市民がガンダムのパイロットの正体を知っているとは思えない。
テムは元軍所属ですが、今や色んな意味で一般市民、下手するとそれ以下の知識しか持ち得ないと思われるし、ましてやアムロは、軍の重要機密に触れるモビルスーツにどさくさで乗り込み、しかもキャリアわずか数ヶ月の少年ですからね。

でもテムは、アムロがガンダムのパイロットであるというのが当然のように話しかけ、アムロはそれが父に期待した再会のひと言目では無かったにも関わらず、話を合わせ、テムの住居に向かう。

テムがアムロをガンダムのパイロットと認識しているのは、はっきりいえば事実関係としてはおかしいはず。
だが、テム自身の状況を前提に、子の期待に反し、久々に再会した子をガンダムパイロットとしてしか認識していない、という点が絶妙で、はっきりいってこの会話が圧倒的に正しい。

お互いの身の上を話す、という段取りを省略できるだけでなく、その省略こそがアムロにとって残酷なものになっている。
すばらしい会話とその演出だと思う。

先に、アムロとテムの会話が驚くほど少ないと書いたが、それはこのような残酷な省略によるもので、この父子はすでにそういった会話を長々と交わす状態には無い。

テムは、アムロを今の住まいであるジャンク屋の2階に案内する。

テム「ほら、何をしている、入って入って」
アムロ「こ、ここは?」
テム「ジャンク屋という所は情報を集めるのに便利なのでな。ここに住み込みをさせてもらっている。こいつをガンダムの記録回路に取り付けろ。ジオンのモビルスーツの回路を参考に開発した」
アムロ「(こ、こんな古い物を。父さん、酸素欠乏性にかかって)」
テム「すごいぞ、ガンダムの戦闘力は数倍に跳ね上がる。持って行け、そしてすぐ取り付けて試すんだ」
アムロ「はい。でも父さんは?」
テム「研究中の物がいっぱいある。また連絡はとる。ささ、行くんだ」
アムロ「うん……」
「父さん、僕、くにで母さんに会ったよ」
「父さん、母さんのこと気にならないの?」
テム「ん? んん。戦争はもうじき終わる。そしたら地球へ一度行こう」
アムロ「父さん……」
テム「急げ、お前だって軍人になったんだろうが」


アムロはテムの部屋から飛び出して、帰り道でテムに渡されたパーツを道路に叩きつける。
大変有名なシーンのひとつですね。

このパーツは、テムによれば、ガンダムが限界突破してレベル上限も上がる。4凸も夢ではない。
という触れ込みだったからか、「性能上がるかも知れないからダメ元で試してみればよかったのに」と、結構本気で言ってた人を見かけたことがある。というか、こういう人は今でもたまにいる気がしますね。

・アムロが一瞥しただけで古い回路と見抜けるほどの代物
・ろくな設備もない、ジャンク屋の粗末な部屋
・酸素欠乏症で変わり果てた父

これらの判断材料が揃った上での、父との決別のシーンなのに、アムロが 「うーん、ダメ元で試そうかな。性能が上がればラッキー。ダメなら捨てればいいし」 って思いながら、大事に持ち帰るってこと?

リサイクルショップの2階に住んでる認知症の父が、そのあたりのガラクタで作った部品を渡し、これをお前のPCやスマホに取り付けたら、処理速度が数倍に跳ね上がるぞ!と聞いて、あなたダメ元で取り付けますか、という話です。
父がそんなものを真剣に作り、語っていることに絶望して、帰り道で叩きつけるしかないでしょう。

このシーンはそれを許す構成にそもそもなっていないので、「ダメ元で試す」自体がありえないと思います。
フィクションは作りもので、ある意図をもって展開を構成しているので、それを無視して結果だけ変わるというのは原則ないからです(成立するなら構成の方が間違っている)。

逆に言えば、構成が変わればありえるので、アムロが父に期待をわずかに残すような鋭い発言をテムがしたりとかすれば、パーツをダメ元で取り付ける、などの展開もありえないではないかも知れません。
例えばまだ誰も指摘していない、アムロの操縦技術にガンダムの反応速度が追いついていない、ということをテムが指摘し、アムロが衝撃を受け、もしかして父さんは技術者としてはまだまともなのでは(そうであってくれ)……と半信半疑でホワイトベースに帰り、ドキドキしながらガンダムに取り付けてチェックしたら、そこで正真正銘のゴミと分かって、コクピットの中でひとり絶望する……。
などのシーンに変化させることは出来ると思います。

ただ、手間と尺がかかる割には実際のシーンより面白いというわけでもないので、やはりあの短いシーンで全て分かってしまい、お別れとなるのがベストなのではないでしょうか。

テム・レイを酸素欠乏症にしたのは誰か


テム・レイとの再会シーンで、もうひとつ検討可能性があるとすれば「テムが酸素欠乏症になった原因を、アムロが知る(気づく)かどうか」かなと昔から思っています。

テム「ジャンク屋という所は情報を集めるのに便利なのでな。ここに住み込みをさせてもらっている。こいつをガンダムの記録回路に取り付けろ。ジオンのモビルスーツの回路を参考に開発した」
アムロ「(こ、こんな古い物を。父さん、酸素欠乏性にかかって)」


テムの変わり果てた姿が酸素欠乏症によるものである、というのは基本的には視聴者の為の台詞(説明)だと思いますが、その事にアムロは早くに気づいています。
宇宙世紀時代の酸素欠乏症は素人や子供でも分かる病気なのかも知れないが、医者でもないアムロがいきなり断定的に真相を突く。

冷静に考えればやや不自然だと思うが、テムが最初からアムロをガンダムパイロットとして認識したのと同じく、限られた時間でもっと大事なことをやりとりするための最短手と思えば、処理としては特に問題ないと思います。
テムとは逆に、この時期のアムロはそれぐらい鋭くともそれほど不自然に感じないというのもプラスに作用します。

ただアムロは、父の状態には気づくものの、どういう原因で彼がそうなったのかについては何も言いません。
アムロは実は気づいているけどモノローグも含めてスルーしていて……という仮定は個人的には無いかと思っています。

なぜならばここでアムロが、テムの酸素欠乏症(宇宙漂流)の原因に気づくという要素を入れると、恐らくそちらで頭がいっぱいになってしまうはずで、シーン自体の軸もそちらへ動くし、サイド6での父との別離もしづらくなる、などの問題が色々発生してしまいます。

だから、アムロは酸素欠乏症には鋭く気づくが、その原因については鋭く気づかない。
あえてそういう処理がされていると思います。
もし気づいているなら、別の演出になっていると思うので。
結果として本編は、アムロが決定的なこと(原因)には気づかないようにするが、酸素欠乏症の情報は出したい、といった結構難しい情報のやりとりになっていると思います。

これに気付く(思い出す)のは、受け手の仕事です。
アムロは気付いてない。酸素欠乏症のテムは恐らく何があったのか語れない。
視聴者の我々だけは、テムがなぜああなったのか、その原因を知っている。

このシーン、アムロの父に対する目線や想いとは別に、視聴者だけが持ちうる目線と想いがあって、それが良いのですよね。

再会時に、酸素欠乏症になって以前のテム・レイでなくなっているところが壮絶で本当に上手い。
アムロが何もないまま戦い続ける日々から逃れる選択肢がここでなくなってしまう。

サイド6でアムロと再会した時、テム・レイが元のままだったらどうだっただろうか?
アムロがパイロットで戦果を上げ続けていたことに、親として狼狽してガンダムを降りろと言っただろうか。
開発者として、過酷な戦場をガンダムと戦い抜いたアムロを誇りに思っただろうか。
それとも願いとは真逆に、子供が戦争に参加できるようなモビルスーツを作ってしまったことを後悔するだろうか?
その答えは永久に返ってこない。

ちなみに余談ですが、テムのように本人が変化し語れなくなってしまったので、「原因」との面会で、それが暴露されないままシーンが進む、という意味では、のちの『∀ガンダム』第10話「墓参り」を連想することもできます。

気を病んでしまったハイム婦人と、その娘キエル・ハイムの面会。
目の前にいるのが、我が娘キエルに扮したディアナ・ソレルであることを、ハイム婦人は指摘できる状態ではなかった。
夫の死の根本的な「原因」であるムーンレイスの女王を迎え入れたことは、「墓参り」でのキエル=ディアナの涙へととつながっていく。



ガンダムF91で反復されるガンダム開発者の親と子


兵器であるガンダムの開発に関わりながら、愛する我が子が兵器に関わるのを想像できないテム・レイ。
皮肉なことに、父の作ったガンダムで才能を発揮して戦う息子アムロ・レイ。

この構図は、ガンダム仕切り直しの『ガンダムF91』で再現されます。
この作品でのガンダムを作ったのは、主人公シーブックの母モニカ・アノー。



母モニカも、テム・レイと同じように優秀な技術者です。
しかし自分が開発に関わったガンダムF91に、息子シーブックが乗り、戦場に出ていると知ると狼狽します。

モニカ「自分の子が兵器を扱うなんて……こんなことのためにF91の開発に協力したんじゃありません!」


これに対しては、メカニックチーフのナントにすぐさま手痛い指摘を受けてしまいます。

ナント「じゃあ何ですか奥さん、お子さん以外の者が戦って死ぬのは構わないとおっしゃるのですか?」


これはナントも手痛い批判。ナントは夢の始発駅。
つまりモニカもテムと同じく、自分で兵器を開発していながら、そのコクピットに誰かの息子が乗り込み殺し合いをする、それは自分の息子かも知れない――そういうリアルを全く想定していなかった(できなかった)人です。

仕事としての兵器(ロボット)の開発にのめり込む一方で、自分の子供が意図せず戦争に参加していると聞けば、狼狽するのが人の親と言うものでありましょう。だからそれ自体は当然で普通だと思います。自分勝手な理屈だろうと、我が子だけは別。人殺しなんてしてほしくない。
(その意味でサイド6再会時のテムがもっとガンダムを活躍=人殺しさせようとしていた事に注目したい)

そんな母モニカですが、ラストでは息子シーブックに対して、きっちり親として彼をサポートすることになります。

宇宙漂流する命を救うガンダムF91


鉄仮面カロッゾ・ロナが操る、巨大モビルアーマー・ラフレシアとの戦いの中で、ベラ・ロナことセシリー・フェアチャイルドは父カロッゾによって、宇宙空間に投げ出されてしまいます。



これは『機動戦士ガンダム』とは逆の、大人が子供を、父が娘を宇宙に放り出す、というシチュエーションになっています。
自らを自らの手で改造した鉄仮面(エゴマシーン)によって、命が宇宙に流されてしまうわけです。エゴエゴエゴマシーン、エゴエゴエゴステーション。

ラストでF91と鉄仮面のフェイスが重なっていましたが、マシン(ガンダム・鉄仮面)が肉親の命を宇宙に捧げてしまう、という点で『機動戦士ガンダム』と相似します。

ラフレシア撃破後、セシリーを探そうと慌てるシーブックに、母モニカはガンダムのセンサーと息子シーブックのニュータイプのセンスを合わせることで、宇宙に漂う命(セシリー)を探すことを提案します。

シーブックがダメだ無理だと泣き言をいっても、叱り、諭し、激励して導きます。
カツ、レツ、キッカに出来て、うちのシーブックにできないわけないでしょ!立て。立ちなさいシーブック!(そんなことは言ってない)

その結果、ダイスロールでクリティカルを出したシーブックは、宇宙に漂う命――セシリーを発見することができました。
サンクス! サンクスモニカ!



これには、技術者でもありシーブックの母(親)であるモニカ、彼女がつくったガンダムF91、そして「パイロット適性」のある子供シーブックの3つの要素が不可欠でした。三位一体、一心同体三銃士です。

つまりモビルスーツという兵器の開発者と、開発されたガンダム、そしてそれに乗る息子が協力すれば、宇宙漂流していた命を助けることも可能だったわけです。

宇宙漂流して、我が子アムロと再会した時に、親らしいことが何一つできなかったテム。

いわばこれは「技術者(テム・レイ)が、自らが生み出したもの(ガンダムとそのパイロット)によって、宇宙漂流者(テム・レイ)を救うことができた」という構図であり、ガンダムという兵器を作ってしまった男、テム・レイの救済というか、鎮魂になるのではないでしょうか。なるといいね。なることにしておこう。

ガンダムをつくった技術者として、ガンダムパイロットの親の物語として、テム・レイから始まった絶望を、『ガンダムF91』において、モニカ・アノーにて再演している、と考えれば、『ガンダムF91』のラストによって救われたのは、宇宙に漂わねばならなかった命(セシリー、テム)はもちろん、親でもある技術者(テム、モニカ)、人殺しの道具として生まれたモビルスーツ・ガンダム、そしてガンダムのパイロットになってしまった子どもたち、これら全てでしょう。

だから映画『ガンダムF91』で描かれる物語は、全体のごく一部でありながら、ファーストの再演(仕切り直し)という意味では、きちんと映画で終わっているのではないかと思います。

もちろん、なぜそれを父と子ではなく、母と子によって達成させてしまうんだろう、という指摘はできるでしょうね。
ガンダムで親子の絆を取り戻せるのは母親で、父親は結局また妻に逃げられながら効率の良い人殺し方法を考えている……。

変える女性たちと、変わらない男性たち


実は『ガンダムF91』に登場する主要な女性たちは、本来与えられたポジションを自分で変えていく(いける)人々として描かれています。

ロナ家から飛び出したナディア。
家庭(母親)ではなく開発者を選んだモニカ。
クロスボーンから離反し敵方についたアンナマリー。
血縁であるロナ家から、シーブックと仲間たちの元へ帰ってきたセシリー。

女性たちはみな、本来のポジションから自分の意思で生きる場所を変えています。

その一方で、愚直なまでに自分たちのポジションで、生き方を変えられない男たち。
特に3人の父親、シオ、カロッゾ、レズリーは命を落とします。
(レズリーの守ったポジションは立派ですが、構図と対比として)

このあたりに、シーブックを導く大人として、女性、母親が選ばれたポイントがあるのかも知れません。
まあ有り体にいえば制作者の、自分には出来ないだろうという諦めと、それを女性に期待したいというある意味勝手な願望でもあるのでしょうが……。

細田守もそうですが、富野由悠季も、父親という自分自身も属する存在に対して、自嘲気味で諦観も感じます。そのため父親という存在自体を過小評価する傾向があるようにも思えます。(母性とのバランスが悪い)

繰り返す過ちが、いつも人を愚かな生き物にするわけですが、繰り返すだけの生き物でもないと思いたいですね。
というあたりで今回は終わりにしておきしょう。






余談や参考リンクなど、もろもろ


というわけで、おテムテムこと、テム・レイを中心としたお話でした。おテムテム……。

この記事では省略しましたが、物語上のテムとの最後の別れのシーン。
確か劇場版『めぐりあい宇宙』では、テムの死を暗示するような、アムロが自分の中の父を殺したのを示すようなカットのつなぎがある、というすばらしい記事を、おはぎさんが書いていらしたはずなのですが、私の探し方が悪いのか今見つけられなかったので、確認でき次第、ここに参考リンクとして追加します。

あとこの記事を書いてから知ったのですが、テム・レイのパーツが実はガラクタじゃなかった、という視点の話があるらしいですね。


これが存在するからといって特に何がどうなるわけでも無いですが、いろんなところからネタを拾って膨らませないといけないから、この業界も大変だな、とは思いました。機会があれば読んでみようかなとは思います。

それから、記事の細かい手直しをして公開する直前にバズってた、あでのいさんのツイート。


ツイートは続いているので、ぜひ全体を読んでいただきたい。50、60喜んで(右ストレート)。

さらに、以前、坂井哲也さんが書かれた富野作品での父親に関する記事。

富野作品で、これまでと違うタイプの「主人公の父親」が描かれる日はくるか。
https://tominotoka.blog.ss-blog.jp/2018-08-02


大変すばらしい記事なのでぜひ読んで頂きたいですが、本記事との関連を見出すなら以下の箇所。

 これは、ファンとしては非常に書きづらいのですが、富野作品における「主人公と父親」の関係って、濃淡の違いはあれど1種類しかないと思います。

 自身の研究にしか興味がない父親と、それを拒絶する子、です。

※太字強調、筆者。

父親なんてどうしようもないものだから、子供はこれを拒絶して生きていけばいい、というわけで、実際にアムロも「テム・レイ殺し」を二度ほどして成長していったわけです。
それは、先に書いたように、自分の父がそうだったし、自分自身もそうであるという諦念と自嘲もあるでしょうが、見方を変えれば「甘え」でもあるでしょう。

女性であり母であるモニカみたいに子供と向き合って導くことなど父にはできない。
こういう悲しい生き物なんだから許してね。

ということでもある。甘えでもあるし、研究開発(いちばん楽しいこと)を邪魔するなよというある種の脅しでもある。(なんか村上龍みたいになってきた)

こうしたところが魅力でもあるので難しいところだけれど、色々と踏まえた上で、坂井さんの新しい「主人公の父親」を見てみたいという意見に、私も全面的に同意したいと思います。
(坂井さんも丁寧に書いているが、富野の描く父親の否定ではない)

最後に。
『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンの父フランクリンは、前半の主役機ガンダムMk2の設計者で、これ自体は、テムとアムロの関係と同じです。
しかし、後半の主役機Zガンダムの基本設計はカミーユ本人のアイデア。

開発者の父にもらったガンダム(Mk2)は見掛け倒しのフェイク。
本当に乗りたい自分だけのガンダム(Zガンダム)は、自分の手で作ればいい。

この作品については、親の設計でなく、主人公の少年が設計した可変ガンダムこそが作品タイトルにもなる真の主役機である、という構造が重要かと思います。詳しくは以下をご覧ください。

Togetterまとめ:「ガンダムが「ガンダム」である意味」
https://togetter.com/li/630810

それではまた次回。

あ、そうそう、冒頭で書いた、小脳梗塞の影響で幻覚に踊り、妄言を吐いていた私の父。
症状が落ち着くとすっかり元の状態に戻りました。つまらないけど、戻ってよかった。
ただしその後、何か都合の悪いことになると、「俺は脳の一部が死んどるから仕方ない。そう責めるな」とやたら言い訳に使うクソジジイになりましたので、流せるものなら宇宙に流したい。

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